八代のお城のすぐ傍に代陽小学校があります。この小学校の歴史は古く名前は異なりますが明治5年(1872)に 学制頒布を受け、城内に代城小学校が創立されました。明治7年(1874)創立の植柳小学校と共に八代では開校140年以上の歴史を持つ小学校です。
代陽小学校の正門を入るとすぐ前に面白い標語が立てられていましたので撮ってきました。
【学制頒布】
明治5年(1872)8月、「学制」が頒布されました。我が国初の近代的学校制度を定めた基本法令です。全国を8つの大学区に分け、その下に中学区、小学区を置き、各学区にそれぞれ大学校・中学校・小学校を1校ずつ設置することとされました。

呼応式になっているので子供たちにもわかり易いですね。安全第一。
二枚目の写真は公共基準点だろうか・・?
昨年の熊本地震で松井神社前の八代城の石垣が一部崩壊しました。崩れた当時の様子を熊本城と比べるとこれなら早く修理ができるだろうと思っていましたが、修復現場を見るとこれは大変だなと改めて思いました。堀の水を一部せき止めた後、崩れた石がきの石をひとつづつ取り除き・・・・また同じ場所にはめ込んで元の状態に戻すという作業なのだが・・・・こんなに多く崩れていたかな?取り除かれた石の数を見てびっくり。









下の写真は昨年熊本地震が起きた後のもので昨年5月27日に撮ったものです。





市役所にも被害があって現在仮庁舎利用中、復興にはまだまだ時間がかかりそうです。
下の写真は昨年熊本地震が起きた後のもので昨年5月27日に撮ったものです。

市役所にも被害があって現在仮庁舎利用中、復興にはまだまだ時間がかかりそうです。
昨日の事、またちびっ子(孫)達がやって来ました。父親が半年ほど研修で帰ってこないとの事です。八代に戻るのも盆以来です。二人ともやっと自由に歩けるようになりました。家にやって来て二人でそこら中走り回って遊んだ後、お昼ご飯を食べて二人とも昼寝の最中です。この時間帯だけが私たちにとっても寛ぎのひと時です。ありがとう。

〝今日の疲れは快い疲れだね〟


昨日夕方、NHKのテレビで南海トラフの地震について、今迄地震予知前提で行っていたその一部で起る東海地震の「警戒宣言」を棚上げし、11月から新たに南海トラフ全域を対象とした警戒情報の発信に切り替えるというニュースがありました。地震については昨年の熊本地震もあり少々過敏気味になっているので注目して視聴しましたが私には安全対策のようには思えませんでした。
今後の情報については今日の新聞に有りましたが、これで大丈夫かなと思えるような警戒情報です。
●11月から新たに発表される「南海トラフ地震に関する情報」
情報名が二つあり、それぞれ発表条件があります。
臨時〇M7の地震が発生するなどして、大規模地震と関連するか調査を開始・継続
〇調査の結果、大規模地震が発生する可能性が高まった
〇大規模地震の可能性が高まった状態ではなくなった
定例〇月一回(予定)の定例会合で評価結果を発表
ここ40年間の間に地震についての観測網が整備され研究が進むと「地震予知はできない」との見方が強まり、予知ができなければ警戒宣言は出せず、大震法の前提自体が崩れ、加えて、前回の南海トラフ地震から70年以上が経過。東海地震単独ではなく、南海トラフ全域で起る巨大地震を警戒する必要が出てきたと新聞には説明が有りました。
【南海トラフとは】ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説
東海地方から紀伊半島,四国にかけての南方の沖合約 100kmの海底にある延長 700kmの溝状の地形。フィリピン海プレートが日本列島の下に沈み込んでいる場所に相当する。過去に起った大地震,安政東海地震 (1854年) ,東南海地震 (1944年) ,南海道地震 (1946年) はこの南海トラフの沈み込みに関係したものであり,将来発生が予想されている東海地震もこの沈み込みによって起ると考えられている。
【大震法】
大規模地震対策特別措置法(だいきぼじしんたいさくとくべつそちほう)とは、大規模な地震による災害から国民の生命、身体及び財産を保護するため、地震防災対策強化地域の指定、地震観測体制の整備その他地震防災体制の整備に関する事項及び地震防災応急対策その他地震防災に関する事項について特別の措置を定めることにより、地震防災対策の強化を図り、もつて社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを目的として制定された法律である。略称は大震法。

今回、東海地震について予知を前提とした情報の提供の取りやめが検討されていることが報道されました。
Posted by マー君 at
10:40
│Comments(0)
「彼岸明け」ってどういう意味?暦には彼岸明けって書いてありますが、私たちは十分に意味を理解せずに「彼岸明け」という言葉を使っていないでしょうか。そう思えば随分歳をとりましたが私も「彼岸明け」という言葉の意味ははっきり説明はできません。
ということで参考程度にわかり易いものを選んでみました。

今日は何の日?日々の気になる豆知識メモ!より
9月26日彼岸明け
彼岸(ひがん)は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶところもあります。
彼岸明けとは、言葉尻に明けとついていますが今日まではお彼岸でお彼岸の最終日という意味です。
春分の日と秋分の日は毎年変わるので、彼岸入りと彼岸明けの日も毎年変わっていきます。また昔は彼岸明けという言葉を使わずに、「はしりくち」と呼ばれていました。
彼岸明けという言葉が使われていないのは?
日本では、季節を表す時に、「梅雨入り」「梅雨明け」「土用の入り」「土用の明け」といった「明け」「入り」という言葉を使います。
お彼岸の場合、「彼岸入り」は使われているのに対して、「彼岸明け」は使われていないところがあります。
これは、元々「彼岸」という言葉は仏教用語で、かなたの岸のことで、今現在私たちがいるのは、こちらの岸「此岸(しがん)」と言います。
●かなたの岸である彼岸は、煩悩を脱した悟りの世界とされていて、
●こちらの岸である此岸は、煩悩や迷いに満ちた世界とされています。
そして、お彼岸という行事の意味は、
彼岸(煩悩を脱した悟りの世界)に到達することです。
なので、そこからさらに明けてしまうことはない!と言われています。
毎年、春と秋に彼岸を目指して、煩悩の川を渡り続けること。これが「人の一生」であるということから、明けることはないということです。
お彼岸の時期に、人生という船を彼岸に到達させて、次の日から、また新たな心で生きていくという思いが込められています。
ということで参考程度にわかり易いものを選んでみました。

今日は何の日?日々の気になる豆知識メモ!より
9月26日彼岸明け
彼岸(ひがん)は雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶところもあります。
彼岸明けとは、言葉尻に明けとついていますが今日まではお彼岸でお彼岸の最終日という意味です。
春分の日と秋分の日は毎年変わるので、彼岸入りと彼岸明けの日も毎年変わっていきます。また昔は彼岸明けという言葉を使わずに、「はしりくち」と呼ばれていました。
彼岸明けという言葉が使われていないのは?
日本では、季節を表す時に、「梅雨入り」「梅雨明け」「土用の入り」「土用の明け」といった「明け」「入り」という言葉を使います。
お彼岸の場合、「彼岸入り」は使われているのに対して、「彼岸明け」は使われていないところがあります。
これは、元々「彼岸」という言葉は仏教用語で、かなたの岸のことで、今現在私たちがいるのは、こちらの岸「此岸(しがん)」と言います。
●かなたの岸である彼岸は、煩悩を脱した悟りの世界とされていて、
●こちらの岸である此岸は、煩悩や迷いに満ちた世界とされています。
そして、お彼岸という行事の意味は、
彼岸(煩悩を脱した悟りの世界)に到達することです。
なので、そこからさらに明けてしまうことはない!と言われています。
毎年、春と秋に彼岸を目指して、煩悩の川を渡り続けること。これが「人の一生」であるということから、明けることはないということです。
お彼岸の時期に、人生という船を彼岸に到達させて、次の日から、また新たな心で生きていくという思いが込められています。
熊本地震が起きて1年5か月が経ちます。熊本地震についてニュースや記事も一時期の事を思うとうんと少なくなりました。この1年余りの間、地震についての知識も地震が起る前と比べると自分では相当勉強したつもりですがまだまだ分からないことが多い様に思います。
今月15日にNHKの番組で「くまもとの風」という番組がありました。中身は「断層出現~熊本地震の爪痕を追う」というもので、東北大学災害理学部門教授遠田晋次さんや地震津波防災研究部門理学博士の久保久彦さんが研究者として最新の研究成果をもとに熊本地震を解析する番組でした。そして資料提供は国土地理院・日本活断層学会がされていました。日奈久断層の地震に伴い布田川断層に地震の揺れが飛び火したような形になった熊本地震、地表に現れた活断層の痕は30kmに及ぶそうです。今は科学技術の進歩により断層を衛星解析で見つけることができるそうなのですが、公開されている断層の他にこの日奈久断層や布田川断層の周りには衛星解析で発見された断層が200以上もあるという話などが紹介されていました。

今日は熊本県博物館ネットワークセンターで地学担当の廣田さんが「熊本地震について」話をされましたので久しぶりに話を聞きに行ってきました。
恐ろしい思いをした熊本地震のことは月日と共に忘れるのではなく、できる限り機会あるごとに記憶を呼び戻すことが防災や危機管理に備えて大事な事だと思いました。










熊本は火山灰などで埋もれて見つからない活断層がいっぱいあるそうです。常に注意。
今月15日にNHKの番組で「くまもとの風」という番組がありました。中身は「断層出現~熊本地震の爪痕を追う」というもので、東北大学災害理学部門教授遠田晋次さんや地震津波防災研究部門理学博士の久保久彦さんが研究者として最新の研究成果をもとに熊本地震を解析する番組でした。そして資料提供は国土地理院・日本活断層学会がされていました。日奈久断層の地震に伴い布田川断層に地震の揺れが飛び火したような形になった熊本地震、地表に現れた活断層の痕は30kmに及ぶそうです。今は科学技術の進歩により断層を衛星解析で見つけることができるそうなのですが、公開されている断層の他にこの日奈久断層や布田川断層の周りには衛星解析で発見された断層が200以上もあるという話などが紹介されていました。
今日は熊本県博物館ネットワークセンターで地学担当の廣田さんが「熊本地震について」話をされましたので久しぶりに話を聞きに行ってきました。
恐ろしい思いをした熊本地震のことは月日と共に忘れるのではなく、できる限り機会あるごとに記憶を呼び戻すことが防災や危機管理に備えて大事な事だと思いました。

熊本は火山灰などで埋もれて見つからない活断層がいっぱいあるそうです。常に注意。


今日は秋分の日、祝日となっています。国立天文台で作成される小冊子「暦象年表」にて決定されています。
※暦象年表は国民の祝日、日曜表、二十四節気および雑節、太陽・月・惑星の視位置、朔弦望、各地の日の出入り、日食および月食、惑星現象などのさまざまな情報を掲載した冊子です。
秋分の日の意味は「先祖を敬い、亡くなった人をしのぶ日」としてこの日が制定されています。
明治時代に秋季皇霊祭を先祖をまつる日として一般に広まりました。(お墓参りをする習慣はこのあたりから出来たものと思います)
※皇霊祭
旧制の国祭日の一つ。春秋の2季,彼岸の中日に,天皇が宮中の皇霊殿で,歴代天皇,皇后その他の皇霊を祀る大祭。現在は春分の日,秋分の日となっている。
お彼岸もそのような経緯で秋分の日や春分の日を中日として7日間あります。
秋分の日は昼夜の差がほぼ等しく秋分の日を境に次第に夜の時間が長くなってくるため、すごしやすい陽気になってきます。
春季皇霊祭も秋季皇霊祭も、もともとは休日であった為、昭和に入って春分の日と秋分の日に改称されて現在は国民の休日として制定されています。

2016年の文化庁調査に「国語に関する世論調査」という項目があってその中で新しい表現の浸透度には世代間の格差があるとしています。
そして「表現が生まれた時代と使う世代には密接な関係がある」と分析しています。
「心がおれる」は「障害にぶつかり、くじける」という意味で使われ、「目が点になる」は「びっくりする」という意味で使われています。
「心がおれる」という言葉は20歳代が8割近く使い 「目が点になる」は50歳代の人の使用が最多となっています。
またこの調査で人と意見が異なる場合に「事を荒立てたくない」と議論を避ける人の割合が初めて6割を超えた事がわかりました。そして友人や同僚との間でも人間関係を優先し、自分の意見を主張しない人が多い傾向が浮かびました。また「新しい言葉分からない」という年代は60歳代が最多となっています。

慣用句の使い方では
「存続するか滅亡するかの重大局面を意味する言葉」
〇存亡の機(6.6%)
✖存亡の危機(83%)
「卑劣なやり方で失敗させられる」
〇足をすくわれる(26.3%)
✖足元をすくわれる(64.4%)
言葉の意味では
「さわり」
〇話などの要点(36.1%)
✖話などの最初の部分(53.3%)
「ぞっとしない」
〇面白くない(22.8%)
✖恐ろしくない(56.1%)
「知恵熱」
〇乳幼児に突然起こることのある発熱(45.6%)
✖深く考えたり頭を使ったりした後の発熱(40.2%)
同じ意味の言葉を重ねる重複表現では
「後で後悔」気になる(49.5%)、「一番最後」気になる(48.7%)昨年度(2015)の調査の数字よりも上回っています。
文化庁では「言葉は時代によって変わる。現実に広く使われている場合は、誤用とは言い切れない」と話しています。
言葉も私たちと一緒で歳をとるんですね。
「耳にたこが出来る」は江戸時代に出来た言葉だそうです。だいぶ歳をとりましたね。
Posted by マー君 at
13:00
│Comments(0)
秋のお彼岸は9月20日から9月26日までです。
なか日は、ちゅう日と言われ秋分に当たります。
この秋分は1年を24等分して季節の名前をつけたもので二十四節気の一つです。
二十四節気は中国から日本に伝わってきたもので中国の気候をもとにして作られたものなので日本の気候とは合わない部分がありました。
これを補うために取り入れたのが「雑節(ざっせつ)」という季節の区分けです。
彼岸というのも実はこの雑節の一つです。
雑節の主なものとして2017年では
●節分(せつぶん)2/3・・節分は、立春・立夏・立秋・立冬の前日のことを意味していて、年に4回も節分がありましたが、今では春だけが使われています。
●彼岸(ひがん) (春)3/17 ~ 3/23 (秋)9/20 ~ 9/26・・彼岸は春分の日、秋分の日を中日(ちゅうにち)として、それぞれ前後の3日間を合せた7日間をいいます。
●社日(しゃにち) (春)3/22 (秋)9/18・・社日とは、春分の日、秋分の日に一番近い戊(つちのえ)の日のことをいいます。
●八十八夜(はちじゅうはちや)5/2・・立春から数えて88日目の夜のことをいいます。
●入梅(にゅうばい)6/11・・暦の上の梅雨入りのことをいい、「太陽の黄経が80°に達する日」と定義されています。
●半夏生(はんげしょう)7/2・・かつては夏至から数えて11日目のことをいっていましたが、現在では「太陽の黄経が100°の点を太陽が通過する日」と定義されています。
●土用(どよう) (冬)1/17 ~ 2/3 (春)4/17 ~ 5/4 (夏)7/19 ~ 8/6 (秋)10/20 ~ 11/6・・土用とは、立春、立夏、立秋、立冬の前の約 18日間のことで、四季それぞれに4回あります。
●二百十日(にひゃくとおか)9/1・・立春から数えて210日目をいいます。台風が来る日とされてきました。
●二百二十日(にひゃくはつか)9/11・・立春から数えて220日目をいいます。二百十日と同じく、台風が来る日とされてきました。
※彼岸、社日は年に2回、土用は年に4回あります。
お彼岸の意味と由来
春分の日と秋分の日は、昼と夜の長さが同じになります。
この日を境に季節が変わってゆくことから、「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるようになりました。
そしてこの日には、太陽が真東から昇って真西に沈みます。
古くから、西のはるか彼方には極楽浄土(ごくらくじょうど、西方浄土ともいいます)があると信じられていました。
現世(げんせ)で生を終えた後の世界が極楽浄土と考えたのです。
そして、真西に沈む太陽を拝んで極楽浄土に思いをはせたのが彼岸のはじまりです。
それはいつしか、生を終えていった祖先を供養する行事として定着したのです。
彼岸は日本独自の仏教行事であり、はじまったのは平安時代といわれています。
(ジャパノート参照・引用)


暑さも寒さも彼岸までとよく耳にしますが、この言葉にはそれなりの理由があって春分や秋分というのは暦(二十四節気)の上で丁度春や秋への折り返し地点に当たります。春分や秋分に当たる日は昼と夜の長さが同じになる日を指します。この日を境に春分の日からは昼の長さが徐々に長くなります。また秋分の日以降は夜の長さが長くなってきます。当然のことながら気温の変化もこの日を境にして暑さや寒さが和らいでゆくようになります。

以下暮らしの歳時記より
●お彼岸と墓参り
春分と秋分は太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになる日ですが、お彼岸にお墓参りに行く風習は、この太陽に関係しています。
仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)といいます。
そして、彼岸は西に、此岸は東にあるとされており、太陽が真東から昇って真西に沈む秋分と春分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考え、先祖供養をするようになりました。

●お彼岸は日本独自の文化
お彼岸はインドなど他の仏教国にはない日本だけの行事です。日本では、正月など神道にまつわる行事を行う一方、仏教を説いた釈迦の教えも受け入れてきました。お彼岸は「日願」でもあるため、太陽の神を信仰する神道と結びつきやすかったという説もあります。
また、春の種まきや秋の収穫とも結びつき、自然に対する感謝や祈りがご先祖様に感謝する気持ちにもつながって、お彼岸は大切な行事となりました。
fbの彼岸花を見、朝からの散歩の所々で満開の彼岸花を見ると、ふと秋のお彼岸はいつだったのかなと頭の中を巡りました。
散歩から帰って暦を見ると9月20日(水) 彼岸入り、9月23日(土・祝) 中日(秋分の日)、9月26日(火) 彼岸明けとなっています。
両親や姉弟の墓参りは今は年に一度、残っている姉弟が集まって旅行の際に長岡京市にあるお墓にみんなでお参りする様にしています。
お盆とか春や秋のお彼岸時にはとんとご無沙汰中です。
こうして世話になった両親を思い出す事が私にできる両親や亡くなった姉弟の供養だと思っています。
この何日間の間、老人の日だの敬老週間だの敬老の日だのと普段あまり有難がられない高齢者にとっては、甚だ有難迷惑な9月の中日である。世間では3連休だのと喜ばれている9月中日の週末ではあるが、リタイヤ組の私たちにとっては毎日がお休みなので何のありがたみもありません。今年は台風18号の為に不安で眠れない一夜を過ごしたり、避難準備や防災対策でてんやわんやの人達が多かったと思います。まだ今のところ熊本県の被害状況は明らかになっていませんが台風の進んだコースを考えると大きな被害は無かったものと思われます。台風や地震などの不可抗力とも思われる自然災害については今のところ被害が無いように早い目に避難するか祈るしかない様に思います。
話を敬老の問題に戻そうと思いますが、敬老と言われるのは一体何時からなんでしょうか。
家内に「敬老はいつから?」と尋ねても「町内から敬老会の案内が来た時から」と返事が返ってきたのだが世間一般ではそうなっているのでしょうか。私たちにはまだそんな案内は来ないので「それは違うのではないか」とこちらから返すと「75歳くらいになると来るのでは」との返事。
自分もそうであるが今は自分が年寄りだとは思いたくない年寄りが多い様だ。そんな年寄りが多くなって年寄りは一体いくつから年寄りなのかを調べてみました。
国連の世界保健機構(WHO)の定義では、65歳以上の人達の事を「高齢者」と定めています。日本では老人福祉法で老人の日や老人週間に定めている老人は65歳以上と定めています。敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日とされているので、法律では65歳以上になれば敬老の域に達したと言えるでしょう。
また法律では9月15日は老人福祉法で定める「老人の日」、9月15日〜21日を老人福祉法で定める「老人週間」、9月第3月曜日 を祝日法で定める「敬老の日」としていますがここにおさまるまでには紆余曲折あったようです。
今日の敬老の日は1947年(昭和22年)に兵庫県多可郡野間谷村の青年村長(当時)の門脇政夫さんの提案で村の「としよりの日」を9月15日と定められたものが元々の始まりです。

正真正銘、私たちはもうとっくに年寄りです。
総務省が発表した人口推計によれば65歳以上の人は3514万人、そのうち、90歳以上の人が206万人おられるとの事で長寿大国です。

自然災害は年寄りには対敵。早めの避難が第一です。
話を敬老の問題に戻そうと思いますが、敬老と言われるのは一体何時からなんでしょうか。
家内に「敬老はいつから?」と尋ねても「町内から敬老会の案内が来た時から」と返事が返ってきたのだが世間一般ではそうなっているのでしょうか。私たちにはまだそんな案内は来ないので「それは違うのではないか」とこちらから返すと「75歳くらいになると来るのでは」との返事。
自分もそうであるが今は自分が年寄りだとは思いたくない年寄りが多い様だ。そんな年寄りが多くなって年寄りは一体いくつから年寄りなのかを調べてみました。
国連の世界保健機構(WHO)の定義では、65歳以上の人達の事を「高齢者」と定めています。日本では老人福祉法で老人の日や老人週間に定めている老人は65歳以上と定めています。敬老の日は「多年にわたり社会につくしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う」日とされているので、法律では65歳以上になれば敬老の域に達したと言えるでしょう。
また法律では9月15日は老人福祉法で定める「老人の日」、9月15日〜21日を老人福祉法で定める「老人週間」、9月第3月曜日 を祝日法で定める「敬老の日」としていますがここにおさまるまでには紆余曲折あったようです。
今日の敬老の日は1947年(昭和22年)に兵庫県多可郡野間谷村の青年村長(当時)の門脇政夫さんの提案で村の「としよりの日」を9月15日と定められたものが元々の始まりです。

正真正銘、私たちはもうとっくに年寄りです。
総務省が発表した人口推計によれば65歳以上の人は3514万人、そのうち、90歳以上の人が206万人おられるとの事で長寿大国です。

自然災害は年寄りには対敵。早めの避難が第一です。
以前歴史についてブログや参考本などからまとめたものがあります。今回の青森への旅行のきっかけとなった材料の一つがこのまとめです。
専門家の方達が何年もかかって解き明かしてきた日本の歴史、最近特に歴史が塗り替えられたと言う様な、子供の頃習った年代が大きく遡る様な問題が絶えず起きています。何故、そんな事がわかるのだろう?その答えは新しい資料が見つかったとか科学技術の発達により測定精度が高められたとか研究者が増えたなど色々あります。
今回の青森への旅は、自分の頭の中にある縄文時代の問題点を現地に行って体験することによって、新たに認識するものが有るんではないかと思い青森に行くことにしました




【歴史の動き】
約2万年前 日本列島に人類が生活を始める
1万2000年~3000年前 土器の発明
縄文文化誕生
狩猟・最終経済が発展
紀元前7~8世紀 初期農耕の始まり
紀元前3~4世紀 稲作(水稲)の伝来・普及
青銅器・鉄器の伝来
弥生文化誕生
小国の発生
2世紀末 邪馬台国による小国の統治
3世紀 古墳の登場
4世紀 朝鮮半島の動乱
首長連合=ヤマト政権の誕生
漢字の伝来
◎縄文土器の発明は文明の起りを意味した。
土器の発明は生活スタイルの大変化をもたらした。煮炊きすることで食糧事情が飛躍的によくなり、定住のきっかけとなった。
●九州の福井洞窟で発見された隆線文土器(佐世保市吉井町)12000~13000年前 旧石器時代の土器 後の縄文土器の原型
●三内丸山遺跡によって覆された縄文時代像
三内丸山遺跡の発掘によって縄文社会が従来考えられていたよりもはるかに豊かで、進んだ文化を持っていたことが分かった。
○長さ32m、幅9mの巨大な竪穴式住居〈テント風住居ではなく巨大な集合住宅だった〉
建築技術 弥生時代に生まれたと考えられてきた「高床式」の住居は縄文時代にすでにあった。
整地技術 メインストリート、居住地域、墓地、ゴミ捨て場など区画整理 ※集団のルールが確立されていた
漁業技術 タイ・ヒラメ・マグロ・カツオ・ブリ・サケ・ニシン
農業文化 栗のDNA「栽培種」
海上交易も始まっていた 丸木舟による海上交易
北海道(黒曜石)
岩手県(琥珀)
秋田県(アスファルト)
新潟県(ヒスイ)
※三内丸山遺跡の周辺には縄文遺跡が集中し一大文化圏を構成していた。
五月女泡遺跡・亀ヶ岡遺跡・小牧野遺跡・野木遺跡
●農耕の誕生
弥生時代になるまで日本に戦争はなかった。農業が始まると同時に共同体間の戦争が頻発した。その大きな原因は人口が増加したことにある。水稲耕作は弥生時代に中国南部から朝鮮半島を経由して伝わった。→九州
生産力をアップさせるための進んだ農具の獲得も、争いの大きな原因だった。特に鉄製の農具はそれまでの木製の農具に比べて飛躍的に生産力を高めたのだが、初期はまだ国内では生産できず、朝鮮半島から輸入されていた。そのための交易権を巡って、集団同士が争うようになった。
縄文人と弥生人は顔つきも体格も全く違う。
新たに渡来した人々が水稲栽培や金属器を持ち込み弥生時代が始まった。しかし東国の人々は渡来人の文化をなかなか受け入れなかった。
弥生土器 東京・本郷の弥生町----文京区弥生2丁目
南方モンゴロイドの縄文人が住んでいた日本列島へ、後から金属器、水稲栽培の文化を持つ新モンゴロイドがやって来て、混血しながら北九州・畿内を中心に広がったと考えられている。弥生人は大陸から渡ってきた新モンゴロイドあるいは縄文人と新モンゴロイドのハーフだという事だ。東北では、縄文人と弥生人にあまり違いがないから、おそらく東北の縄文人はあまり混血せずに新モンゴロイドの文化だけ受け入れたのだろう。
①稲作・金属器の文化を持った渡来人が九州に上陸(紀元前5~4世紀)
②縄文人と渡来人が弥生文化を形成 混血により弥生人が発生(紀元前3世紀初め)
③弥生文化は短期間で畿内にまで普及(紀元前3~4世紀)
④かなり遅れて東北地方に弥生文化が普及(3~4世紀)
※東北に弥生文化がなかなか広まらなかった理由
○食料が豊かで稲作の必要がなかった
○人口密度が高く、すでに文化圏が構築されていた
※西日本で弥生文化が素早く浸透した訳
○西日本と東日本との気候風土の違いが原因
西日本は常緑の照葉樹林が多く、木のみがあまり採れないため、縄文時代には非常に人口密度が低かったそのため弥生人が大挙して渡ってくると、弥生系が多数派となり混血が進んだ。(縄文人は弥生人が持ち込んだ結核菌に耐性がなかったため、結核が流行して死んだ?というせつもある)
農業共同体の起り
古代首長の最初の仕事は「農作業の指導」
古代共同体のリーダーは、まず農作業の指導者として登場し、次第に古代国家の首長となって行った。
「政治」とは神を祭ることだった
共同体の「貧富の差」は指導者の優劣で決まる。農業経営に詳しくないと支配者にはなれない
ヤマト朝廷は4世紀半ばまでには成立していた
邪馬台国との関係は・・黒塚古墳(奈良県天理市) 大量の銅鏡出土 3世紀末
熊襲・隼人・蝦夷・・「まつろわぬ民」
出雲・・先進的な外来文化を持った神政国家 4世紀にヤマト朝廷に従った
○土偶は壊すため銅鐸は土に埋めるために作られた
古代人が作ったものの中には現代から見ると不思議な品々が数多くあり、いまだに用途がわからないものもある。わざと壊した?ほとんどがかけて出土している土偶の不思議
○土偶(素焼きの人形・女性がほとんど)縄文時代
「子を産む」という女性の能力を崇(あが)めて豊穣を祈った。99%が欠けていて故意に割った様子がある。病気などの災いを身代わりに背負って貰う「形代・かたしろ」の一種だったとも考えられる。
○「銅鐸」はヤマト朝廷とは相いれない民族の祭具だった?
銅鐸は弥生時代の青銅器で近畿東海を中心に広い地域に見つかっている。初期の銅鐸は小ぶりで吊下げて打ち鳴らした。この点からすれば祭儀などの時に使われた楽器の一種だろうと考えられる。ところが謎なのは同じ銅鐸でも大きすぎて吊るせず、しかも中も空洞でないものが多数出土している。後期に作られたものだがこちらは用途がまったくわからない。
島根県 荒神谷遺跡 銅鐸6個 銅剣358本 銅矛16本・・宗教的・呪術的・・「記紀」に記述が出てこない
銅鐸が出雲地域で多数出土していることから銅鐸は「まつろわぬ民」の一つとされる出雲たちのヤマト朝廷の神道とは相容れない民族の祭器だったとも想像できる。
巨大古墳の時代 5世紀に集中
●百舌鳥陵山古墳(みささぎやま) 5世紀前半(現・履中陵 墳丘長360m)
●誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま) 5世紀中葉(現・応神陵425m)
●大仙古墳 5世紀中葉~後半(現・仁徳陵486m)
〈大林組の試算〉
古代工法で1日最大2000人
述べ680万7000人を動員
15年8か月
造営地の移動
4世紀後半~5世紀前半
大和・柳本古墳群→奈良盆地北部の佐紀盾奈列(さきたてなみ)古墳群→河内
津堂城山
仲ツ山
百舌鳥陵山
誉田御廟山
大山
土師ニシンザイ
岡ニシンザイ
【亀ヶ岡式土器の特徴】
各器種ごとの文様帯の区分と類型
東北地方を中心として、縄文時代晩期には、いわゆる亀ヶ岡式土器が分布していた。亀ヶ岡式文化は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3、4世紀に終末を迎えた縄文時代最後の文化である。この文化の土器は製作の精粗において2大別され、薄手小型の精製土器と、大型で粗雑な作りの粗製土器がある。後者は破片が多く、内面に炭化物が付着することが多いことから、日常的な什器として使用されたことが伺われる。亀ヶ岡式精製土器の大きな特徴は、様々な器形に、一見理解不能な多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。器種も複雑に分化し、装飾も繁煩を極めている。しかし、複雑多岐にわたる亀ヶ岡式土器も、時間の経過とともに、器種構成や文様、装飾、器形などか順次変化していくことが確認されている。山内清男博士の編年学研究による、岩手県大洞貝塚の地点別調査の結果、亀ヶ岡式土器は連続する6型式に細分されることが確認された。古い順序に大洞B式、BC式、C1式、C2式、A式、A'式に区分され、今日でもこの型式編年が使用されている。その編年基準に徴して見ると、長谷堂貝塚は大洞A式の段階に相当し、長い歴史をもつ縄文時代も近々終末を迎えようとする時期に営まれた。
精製土器は、薄い器壁に文様を描き、朱色に塗色され、装飾されたものが一般的である。浅鉢、壷形、台付き浅鉢、注口などがあり、縄文時代のなかでも際立った器種分化を遂げている。それらの器種のうち、長谷堂貝塚で量的にとくに顕著に確認された器種は、鉢形、壷形、台付き皿の3器種であった。それらは合計すると、精製土器の8割り以上に達する。直前の大洞C1~C2式では、精製土器の器種組成は特に複雑に分岐しており、それらの他に椀形、装飾浅鉢、高杯形、香炉形などか加わる。長谷堂貝塚では、それらは出土しておらず、大洞式終盤を迎えて、器種構成が簡略化の方向に転じてきたことが窺える。
長谷堂貝塚で確認された器種のうち、台付き浅鉢では、装飾や器形などに多くの変化は見られず、統制のとれた一様性をみることができる。しかし、壷形では、大小の区分、体部の膨れ具合、口縁部の様態、口外帯の有無、体部文様の種類などにより、多くの変異が生じている。鉢形でも、同様に数種類の変異が存在する。しかし、煩雑になるので、ここでは代表的な3形態を挙げるに止めたい。
【東北分布の縄文土器見つかる 北谷町の平安山原遺跡(はんざんばるいせき) 2017年1月24日 16:40 琉球新報】
【北谷】北谷町伊平の平安山原B遺跡で、縄文時代晩期の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄島での大洞系土器の発見は初となる。北谷町教育委員会が24日午後、発表した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたって行われていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、新たな文物の交流があったことを示唆している。
教育委員会の担当者は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。【琉球新報電子版】
【北谷】北谷町伊平の平安山原(はんざんばる)B遺跡で、縄文時代晩期(約2500年前)の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄県内での発見は初めて。北谷町教育委員会が24日、縄文・弥生時代を研究する設楽博巳東京大学教授が「文様と形から大洞系土器の可能性が高い」としたとして発表した。
町教委によると、出土した破片は大洞系土器の大洞A式土器の可能性が高いという。大洞A式土器は、亀ヶ岡式土器のことで沖縄から約2千キロ離れた岩手県大洞貝塚で出土した土器から名付けられた。破片には大洞A式土器の特徴である「工」の字を組み合わせた迷路のような文様の工字文が見られたほか、へこみ部分にわずかに朱色が塗られた跡が確認された。
平安山原B遺跡は2009年10月14日から翌年2月19日にかけて、桑江伊平土地区画整理事業に伴い調査が行われた。土器片はグスク時代(約500~800年前)、農耕に向いた土を作ろうと周辺の砂を意図的に混ぜて造られた層から出土した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原(いれいばる)遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたっていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、幅広い交流があったことを示唆している。町教委は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。
●「熊襲」とは3~4世紀の統一国家始原期に九州南部を統治していた部族のことで、そのうち今日の熊本県域を支配していたのが熊襲の中の「熊(狗奴)人」であり、宮崎・鹿児島県域を支配していたのが「襲(襲津間=投馬)人」で、両者を区別せずに呼んだのが「クマソ(熊襲)」だったのである。
●隼人の呼称についてもいろいろな説がある。呼称そのものは大和王朝確立期の天武天皇時代に作られたものである
●日本は6,852の島で構成される島国であるが[4]、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び、「八つの島」の総称としている。(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )
この中で4番目に登場する「九州」の原文での呼称表記は、「筑紫島(つくしのしま)」である。
『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記している。
●古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表、#歴史書における呼称)。
3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった[20]。 続日本紀によるとヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古天皇17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、弘仁15年/天長元年(824年)以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。
なお古代九州には7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。
九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。
「古墳時代」は3世紀中頃~7世紀代まで・・当時の有力者が非常に大きな古墳を造ることに社会的な意義を見いだし当時の最新の技術を駆使して古墳造りに奔走した時代。
●権力を誇示
●宗教的、政治的
●前方後円墳の時代
箸墓古墳以後、大和盆地東南部から西日本を中心に類似した古墳が出現
●竪穴式石室
●割竹型木棺
●三角縁神獣鏡の副葬
箸墓形前方後円墳は大和政権段階に築造された古墳、大和政権から王の中の王(大王)が出現して政権の中心が出来た時代、大和政権と地方の首長(王)との結びつきが強くなって行く。
古墳の分布状況・・①兵庫県 16577基、②千葉県 13112基、③鳥取県 13094基、④福岡県 11311基、⑤京都府 11310基・・
全国合計 161560基
前方後円墳の数
①千葉県 685基、②茨城県 444基、③群馬県 410基、④岡山県 291基、⑤鳥取県 280基、栃木県 280基、⑥広島県 248基、・・東京都 12
紀元前3~前2世紀(弥生時代前期中頃)大阪府茨木市 東奈良遺跡 方形周溝墓
紀元前2世紀~1世紀(弥生時代中期)
弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。
近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形に多様さや石列は見られない。供献の土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢、その他などが加わる。
この頃北部九州佐賀県吉野ケ里遺跡では楕円形の大型周溝墓が作られている。
死者に鏡をはじめとする多量の副葬品をそえて葬る風習は、他の地域に先駆けてまず北部九州に成立していた。
●奴国 福岡県春日市 須玖岡本遺跡
●伊都国 前原市 三雲南小路遺跡
弥生時代中期の段階から北部九州の支配者層墓のあり方が、東方の中国地方や近畿とは異なる展開をしている。
日本列島の古墳はその出現の経緯からも明らかなように日本列島に成立した広域の首長連合の構造と分かちがたく結びついている。
現代の日本人の思考や意識などに深くかかわっている古代の天皇制は首長連合、ヤマト政権の中枢を構成した畿内の王権を母体として成立したものに他ならない
邪馬台国連合から大和政権へ
古墳出現の前提となる広域の政治連合ンp形成は、朝鮮半島南部の鉄資源や、さまざまな先進文物の入手ルートのしはいけんをめぐる争いと関係している。
奴国・伊都国との対抗
豊前・吉備・讃岐・畿内などの瀬戸内海各地の勢力が同盟関係を結んだ。
中国鏡の分布が2世紀末~3世紀初めころ急激な変化が起きている。北部九州中心→畿内中心
邪馬台国連合
箸墓形の大型前方後円墳の成立が邪馬台国連合の変質、すなわちヤマト政権成立に繋がって行く。
狗奴国 濃尾平野を本拠地 3世紀中楊以前魏志倭人伝では邪馬台国と戦った。
吉備地方で最大の出現期古墳である岡山市浦間茶臼山古墳が箸墓古墳の2分の1の墳丘長を持つ。このことは子の首長たちの共通の新しい墳墓の創出が、連合の身分秩序の整備と無関係でないことを示している。
古墳出現期に見られた畿内以外の地域で最大級の首長墓が畿内の大首長墓のほぼ1/2の大きさ
渋谷向山古墳(現 景行天皇陵)天理市 墳丘長310m
銚子塚古墳 山梨県中道町 墳丘長186m
新宮寺山古墳 岡山市 墳丘長150m
墳丘規模の差が前期を通じてほぼ踏襲されている。5世紀(中期)一部の地域首長の古墳が巨大化する。
造山古墳 吉備 岡山市 墳丘長360m
大仙陵古墳(現 仁徳天皇陵) 墳丘長486m
誉田御廟山古墳(現 応神天皇陵) 墳丘長420m
ミサンザイ古墳(現 履中天皇陵) 墳丘長365m 造山古墳と同時期同じ大きさ。
5世紀初頭には吉備の大首長と畿内の大首長とは、ほぼ同規模の古墳を造っていた。
東アジアの国際情勢の変化と関連
古墳時代中期5世紀には朝鮮半島では高句麗が南下、倭国は伽那の鉄資源に依存していた。
畿内政権は吉備政権をはじめとする有力な地域政権と手を組み入手した資源供給に優遇する。吉備、上毛野、丹後、日向。
5世紀後半を境に畿内の政治勢力と畿内以外の政治勢力との関係が大きく変化する。
埼玉稲荷山古墳 「辛亥」銘鉄剣 辛亥=471年 獲加多支鹵大王=ワカタケル=雄略天皇 大王の称号を名乗っている。
5世紀前半から中葉のものと考えられる「王賜・オウシ」銘が見られる鉄剣が出土〝(表)王賜□□敬□(安)〟銘文中の「王」は倭の五王の可能性がつよく「済」(允恭天皇)とする説が有力である。 千葉県市原市 稲荷台1号墳
古墳時代の日本では大王を中心に各地の豪族が連合して、それぞれの政権内の役職を分担していた。そのころの政治の仕組みを氏姓制度(シセイセイド)という。豪族は、血縁をもとに構成された氏という集団をつくっていた。その当時の政治の仕組みを氏姓制度という。首長層の擬制的血縁集団が大王に対しての世襲的な服属や奉仕のシステムを明確化させていく。ウジ、カバネに「ベ」を加えて新しい支配ののシステムを整備する。
畿内の大王とこれに服属する個々の地方豪族が各地の政治勢力の連合体としてヤマト政権を樹立する。
7世紀の終わりに畿内の大王を中心とする中央政権的な政治体制へ変わりつつ古代国家の成立となる。
前方後円墳の造営は畿内西日本では6世紀末葉、東日本では7世紀初頭に造営が中止される。
邪馬台国連合=前方後円墳 狗奴国連合=前方後方墳
出現期の大型前方後円墳の年代が3世紀中葉すぎに遡ると考えられることから、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が否定できない。
邪馬台国連合 画文帯神獣鏡(2世紀末~3世紀)畿内中心の分布状況を示す最初の鏡・・後漢末
★箸墓よりも築造が早いとされる出現期の前方後円墳
●ホケノ山古墳
●巻向勝山古墳 年輪年代測定・・西暦210年頃
●巻向矢塚古墳
◦神門5号墳
◦神門4号墳
辻畑古墳→高尾山古墳 前方後円墳(静岡県沼津市)・・西暦230年頃 狗奴国王の卑弥弓呼(ヒミココ)? スガルの王
倣製鏡 日本で出土する鏡のうち中国鏡を模倣してつくられた鏡
同范鏡 同一の鋳型または原型からつくられた鏡
(三角縁)神獣鏡・・中国の東方、渤海の中に蓬莱、方丈、瀛州・えいしゅうの三神山があって、仙人が住み不老不死の霊薬があると信じられてきた。建物は黄金と白銀に飾られ、遠くから見ると白く輝いている。・・不老不死を求める思想=神仙思想=図案化された鏡が(三角縁)神獣鏡
5世紀の倭人たちは積極的に朝鮮半島にわたり、馬具、武具、武器、装身具、陶質土器、やそれらの制作技術、横穴式石室などの葬制、漢字による表記技術、さらには信仰やイデオロギーに至る様々な文物や技術を受け入れました。また渡来人による技術の受け入れには鋲留めの技術、金銅製品の加工技術、須恵器の生産技術などがありまさに渡来文化の需要期でもありました。
古墳とヤマト政権
①古墳の出現とヤマト政権
弥生時代には土盛した墳丘墓が各地に出現しましたが3世紀後半になると前方後円墳をはじめとする、より大規模な古墳が西日本を中心に出現します。出現期の古墳は、その内部に竪穴式石室、木棺という埋葬施設を持ち、多数の銅鏡・勾玉・管玉など呪術・ジュジュツ的な副葬品を伴うといった共通の特徴を持っています。
②共通の墓制が意味するもの
この様な墓制の共通性(形状・埋葬施設・副葬品の画一性)は何を意味するのでしょう。
それは当時、大和地方(現在の奈良県を中心とした地方)を中心に広域的政治連合が形成されており、その勢力の広がりを意味するものと理解できます。
出現期の古墳は大和地方に集中しています。その中で最大のものは箸墓古墳です。箸墓古墳は墳丘の長さが280mに及ぶ前方後円墳で出現期の他地域の前方後円墳(岡山県浦間茶臼山古墳・140m 福岡県石塚山古墳・120m)と比較しても、その大きさは群を抜いています。したがってこの時期の政治連合は、大和地方を中心とする勢力によって形成されたと考えられます。この政治連合をヤマト政権と呼びます。
前方後円墳のような独特の形状を持った古墳は、そう簡単に真似できるものではありません。おそらくは設計図のようなものがあって、それがヤマト政権下に組み込まれた各地の首長たちに配布され、従来あった首長たちの多様な墓制は前方後円墳という共通の墓制に変化、統一されていったと思われます。
古墳は4世紀中頃までに東方地方の中部まで波及しました。これは同時に4世紀中頃までに西日本から東北地方中部までの範囲に及ぶ各地の首長たち(=各地に文立していた小国家の王たち)がヤマト政権という豪族連合に組み込まれたことを意味します。
③副葬品
前期の副葬品は銅鏡や勾玉・管玉、腕輪型石製品、鉄製の武器や農工具類など呪術的・宗教的色彩の強いものが、多く見られます。そのことから前期古墳の被葬者は、司祭的な性格を持っていたことがうかがわれます。
中期になると、鉄製武器や武具・馬具などが多くなり中期古墳の被葬者が、軍事指導者的な性格を強めていることがわかります。
なお、前期から中期にかけて、副葬品の特徴がこのように大きく変化したことを文化的な断絶と見なし、これを大陸北部から侵入した騎馬民族の征服した結果とする「騎馬民族征服王朝説」が江上波夫氏によって唱えられました。
④最大規模の古墳は大王の墓
前期大和地方に営まれた大規模古墳は、中期になると河内地方に移り、さらに大規模化します。古墳時代を通じて最大規模の古墳が、この時期に集中しています。
最大のものが、大阪府堺市東部に展開する百舌鳥古墳群の盟主的位置を占める大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)です。墳丘の長さが486mあり、周囲には2~3重の濠をめぐらしています。周辺の陪冢(ばいちょう・従属的な小型の古墳)の区域を含めると、その墓域は80haにも及びます。
2位の規模を持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(現応神天皇陵)などとともに、5世紀のヤマト政権のリーダーである大王(おおきみ)の墓であると考えられています。
⑤地方の巨大古墳は豪族の墓
中期の大規模な前方後円墳は近畿地方中央部ばかりでなく、群馬県(上毛野・かみつけの)・岡山県(吉備・きび)・宮崎県(日向・ひゅうが)などにもみられます。たとえば、岡山県の造山古墳は墳丘の長さが360mもあります。これは我が国の古墳の中では第4位の規模です。
この事実は、近畿地方を中心とするヤマト政権の中でこれら地域の豪族が重要な位置を占めていたことを表しています。
★古墳大きさランキング
1 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 486m 大阪府堺市堺区大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 425m 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365m 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350m 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335m 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310m 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 300m以上 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8 渋谷向山古墳(景行陵) 300m 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 290m 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286m 岡山県総社市三須
11 箸墓古墳 280m 奈良県桜井市箸中
12 五社神古墳(神功陵) 275m 奈良県奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255m 奈良県奈良市法華寺町
14 市庭古墳(平城陵) 250m 奈良県奈良市佐紀町
メスリ山古墳 250m 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 242m 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242m 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238m 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 230m 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227m 奈良県奈良市尼ヶ辻町
21 太田茶臼山古墳(継体陵) 226m 大阪府茨木市太田
22 墓山古墳 225m 大阪府羽曳野市白鳥
23 巣山古墳 220m 奈良県北葛城郡広陵町
24 ヒシアゲ古墳(磐之媛陵) 219m 奈良県奈良市佐紀町
西殿塚古墳(手白香皇女陵) 219m 奈良県天理市中山町
26 佐紀石塚山古墳(成務陵) 218m 奈良県奈良市山陵町
27 川合大塚山古墳 215m 奈良県北葛城郡河合町川合
28 築山古墳 210m 奈良県大和高田市築山
西陵古墳 210m 大阪府泉南郡岬町淡輪
太田天神山古墳 210m 群馬県太田市内ヶ島
31 津堂城山古墳 208m 大阪府藤井寺市津堂
32 桜井茶臼山古墳 207m 奈良県桜井市外山
陵山古墳(日葉酢媛陵) 207m 奈良県奈良市山陵町
34 コナベ古墳 204m 奈良県奈良市法華寺北町
35 御廟山古墳 203m 大阪府堺市北区百舌鳥本町
36 摩湯山古墳 200m 大阪府岸和田市久米田摩湯町
白鳥陵古墳(軽里大塚古墳) 200m 大阪府羽曳野市軽里
新木山古墳 200m 奈良県北葛城郡広陵町三吉
神明山古墳 200m 京都府京丹後市
両宮山古墳 200m 岡山県赤磐市
東アジア諸国との交渉
①中国の分裂と国家の形成
中国では三国時代の後、260年にいったん西晋が国内を統一したものの316年に滅亡。華北地方は匈奴をはじめとする諸民族の侵入を受けて、五胡十六国時代と呼ばれる混乱状態に陥りました。(南朝)
かくて南の漢民族支配地域、北の異民族支配地域のそれぞれ二つに分裂した中国は次々と国家の興亡を繰り返す南北朝時代をむかえました。周辺諸民族に対する中国の支配力は弱まり、東アジア周辺地域ではつぎつぎと国家形成が進みました。
中国北部から起った高句麗は、朝鮮半島北部に領土を広げ、楽浪郡・帯方郡を滅ぼしました。(313年)
一方、朝鮮半島南部に馬韓・弁韓・辰韓というそれぞれ小国家連合が形成されていましたが、4世紀になると馬韓から百済が、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成しました。しかし弁韓地域では4~6世紀になっても小国の分立状態が続きました。
②ヤマト政権の対外交渉(1)---高句麗との交戦---
4世紀後半になると、高句麗は南下政策を進め、百済・新羅が圧迫されるようになりました。百済・新羅は南に向かわざるを得ません。朝鮮半島は行き場を失った玉突き状態の様になりかっての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)も圧迫を受けることになります。この様な状況下、早くから伽耶諸国と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)は、百済・新羅などとともに高句麗と戦う事になりました。高句麗の好太王(広開土王ともいう)碑文には、391年倭が朝鮮半島に出兵し、高句麗と交戦したことが記されています。【好太王碑・・現在の中国吉林省集安市に近い場所に414年、長寿王が父好太王の事績を顕彰するために建立した。】
当時倭人たちには乗馬の風習がありませんでした。高句麗の騎馬軍団との戦いで倭人たちは否応なしに騎馬技術を学ぶことになりました。5世紀になると日本列島の古墳の副葬品に馬具が現れるのはこうした事情を反映していると考えられます。
③ヤマト政権の対外交渉(2)---南朝への朝貢---
5世紀初めから約1世紀の間、倭王(ヤマト政権の大王)たちが、相次いで中国の南朝に朝貢しました。中国の歴史書(晋書・宋書・南斉書・梁書)に残る記録では413年から502年の間に13回にわたって使者を派遣したとの事です。「宋書」倭国伝は彼らの名を讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)としるしています。このうち済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略(ゆうりゃく)天皇をそれぞれ指すと考えられています。讃=?珍=?彼らを総称して「倭の五王」といいますが、弥生時代の邪馬台国とは異なり、男系による王位世襲の確立をしていたことがわかります。
〝倭王武の上表文〟
倭王武が478年、宋の皇帝(順帝)に奉ったとされる上表文が、宋書に記載されています。そこで武は、祖先以来の征服事業について述べ、中国皇帝からの冊封(さくほう)と称号の認可を求めています。
称号は「使持節都督(しじせつととく)・倭・百済・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭国王」と自称」しましたが、実際に得た称号は「「使持節都督(しじせつととく)・倭・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍・倭王」でした。宋とすでに朝貢関係にあった百済を除いて七国が六国になっています。もちろんこの称号は形式的なものにすぎません。
大陸文化の受容
●渡来人の波
第1波 4~5世紀、漢人が中心
楽浪郡、帯方郡の滅亡(313年)
第2波 6~7世紀、韓人が中心
伽那諸国(562年)
百済(660年)
高句麗(668年)・・・それぞれの滅亡

現地に行けば納得することがいっぱいあるんですね。
※本日台風18号九州南部に昼頃上陸との事、要注意。
専門家の方達が何年もかかって解き明かしてきた日本の歴史、最近特に歴史が塗り替えられたと言う様な、子供の頃習った年代が大きく遡る様な問題が絶えず起きています。何故、そんな事がわかるのだろう?その答えは新しい資料が見つかったとか科学技術の発達により測定精度が高められたとか研究者が増えたなど色々あります。
今回の青森への旅は、自分の頭の中にある縄文時代の問題点を現地に行って体験することによって、新たに認識するものが有るんではないかと思い青森に行くことにしました
【歴史の動き】
約2万年前 日本列島に人類が生活を始める
1万2000年~3000年前 土器の発明
縄文文化誕生
狩猟・最終経済が発展
紀元前7~8世紀 初期農耕の始まり
紀元前3~4世紀 稲作(水稲)の伝来・普及
青銅器・鉄器の伝来
弥生文化誕生
小国の発生
2世紀末 邪馬台国による小国の統治
3世紀 古墳の登場
4世紀 朝鮮半島の動乱
首長連合=ヤマト政権の誕生
漢字の伝来
◎縄文土器の発明は文明の起りを意味した。
土器の発明は生活スタイルの大変化をもたらした。煮炊きすることで食糧事情が飛躍的によくなり、定住のきっかけとなった。
●九州の福井洞窟で発見された隆線文土器(佐世保市吉井町)12000~13000年前 旧石器時代の土器 後の縄文土器の原型
●三内丸山遺跡によって覆された縄文時代像
三内丸山遺跡の発掘によって縄文社会が従来考えられていたよりもはるかに豊かで、進んだ文化を持っていたことが分かった。
○長さ32m、幅9mの巨大な竪穴式住居〈テント風住居ではなく巨大な集合住宅だった〉
建築技術 弥生時代に生まれたと考えられてきた「高床式」の住居は縄文時代にすでにあった。
整地技術 メインストリート、居住地域、墓地、ゴミ捨て場など区画整理 ※集団のルールが確立されていた
漁業技術 タイ・ヒラメ・マグロ・カツオ・ブリ・サケ・ニシン
農業文化 栗のDNA「栽培種」
海上交易も始まっていた 丸木舟による海上交易
北海道(黒曜石)
岩手県(琥珀)
秋田県(アスファルト)
新潟県(ヒスイ)
※三内丸山遺跡の周辺には縄文遺跡が集中し一大文化圏を構成していた。
五月女泡遺跡・亀ヶ岡遺跡・小牧野遺跡・野木遺跡
●農耕の誕生
弥生時代になるまで日本に戦争はなかった。農業が始まると同時に共同体間の戦争が頻発した。その大きな原因は人口が増加したことにある。水稲耕作は弥生時代に中国南部から朝鮮半島を経由して伝わった。→九州
生産力をアップさせるための進んだ農具の獲得も、争いの大きな原因だった。特に鉄製の農具はそれまでの木製の農具に比べて飛躍的に生産力を高めたのだが、初期はまだ国内では生産できず、朝鮮半島から輸入されていた。そのための交易権を巡って、集団同士が争うようになった。
縄文人と弥生人は顔つきも体格も全く違う。
新たに渡来した人々が水稲栽培や金属器を持ち込み弥生時代が始まった。しかし東国の人々は渡来人の文化をなかなか受け入れなかった。
弥生土器 東京・本郷の弥生町----文京区弥生2丁目
南方モンゴロイドの縄文人が住んでいた日本列島へ、後から金属器、水稲栽培の文化を持つ新モンゴロイドがやって来て、混血しながら北九州・畿内を中心に広がったと考えられている。弥生人は大陸から渡ってきた新モンゴロイドあるいは縄文人と新モンゴロイドのハーフだという事だ。東北では、縄文人と弥生人にあまり違いがないから、おそらく東北の縄文人はあまり混血せずに新モンゴロイドの文化だけ受け入れたのだろう。
①稲作・金属器の文化を持った渡来人が九州に上陸(紀元前5~4世紀)
②縄文人と渡来人が弥生文化を形成 混血により弥生人が発生(紀元前3世紀初め)
③弥生文化は短期間で畿内にまで普及(紀元前3~4世紀)
④かなり遅れて東北地方に弥生文化が普及(3~4世紀)
※東北に弥生文化がなかなか広まらなかった理由
○食料が豊かで稲作の必要がなかった
○人口密度が高く、すでに文化圏が構築されていた
※西日本で弥生文化が素早く浸透した訳
○西日本と東日本との気候風土の違いが原因
西日本は常緑の照葉樹林が多く、木のみがあまり採れないため、縄文時代には非常に人口密度が低かったそのため弥生人が大挙して渡ってくると、弥生系が多数派となり混血が進んだ。(縄文人は弥生人が持ち込んだ結核菌に耐性がなかったため、結核が流行して死んだ?というせつもある)
農業共同体の起り
古代首長の最初の仕事は「農作業の指導」
古代共同体のリーダーは、まず農作業の指導者として登場し、次第に古代国家の首長となって行った。
「政治」とは神を祭ることだった
共同体の「貧富の差」は指導者の優劣で決まる。農業経営に詳しくないと支配者にはなれない
ヤマト朝廷は4世紀半ばまでには成立していた
邪馬台国との関係は・・黒塚古墳(奈良県天理市) 大量の銅鏡出土 3世紀末
熊襲・隼人・蝦夷・・「まつろわぬ民」
出雲・・先進的な外来文化を持った神政国家 4世紀にヤマト朝廷に従った
○土偶は壊すため銅鐸は土に埋めるために作られた
古代人が作ったものの中には現代から見ると不思議な品々が数多くあり、いまだに用途がわからないものもある。わざと壊した?ほとんどがかけて出土している土偶の不思議
○土偶(素焼きの人形・女性がほとんど)縄文時代
「子を産む」という女性の能力を崇(あが)めて豊穣を祈った。99%が欠けていて故意に割った様子がある。病気などの災いを身代わりに背負って貰う「形代・かたしろ」の一種だったとも考えられる。
○「銅鐸」はヤマト朝廷とは相いれない民族の祭具だった?
銅鐸は弥生時代の青銅器で近畿東海を中心に広い地域に見つかっている。初期の銅鐸は小ぶりで吊下げて打ち鳴らした。この点からすれば祭儀などの時に使われた楽器の一種だろうと考えられる。ところが謎なのは同じ銅鐸でも大きすぎて吊るせず、しかも中も空洞でないものが多数出土している。後期に作られたものだがこちらは用途がまったくわからない。
島根県 荒神谷遺跡 銅鐸6個 銅剣358本 銅矛16本・・宗教的・呪術的・・「記紀」に記述が出てこない
銅鐸が出雲地域で多数出土していることから銅鐸は「まつろわぬ民」の一つとされる出雲たちのヤマト朝廷の神道とは相容れない民族の祭器だったとも想像できる。
巨大古墳の時代 5世紀に集中
●百舌鳥陵山古墳(みささぎやま) 5世紀前半(現・履中陵 墳丘長360m)
●誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま) 5世紀中葉(現・応神陵425m)
●大仙古墳 5世紀中葉~後半(現・仁徳陵486m)
〈大林組の試算〉
古代工法で1日最大2000人
述べ680万7000人を動員
15年8か月
造営地の移動
4世紀後半~5世紀前半
大和・柳本古墳群→奈良盆地北部の佐紀盾奈列(さきたてなみ)古墳群→河内
津堂城山
仲ツ山
百舌鳥陵山
誉田御廟山
大山
土師ニシンザイ
岡ニシンザイ
【亀ヶ岡式土器の特徴】
各器種ごとの文様帯の区分と類型
東北地方を中心として、縄文時代晩期には、いわゆる亀ヶ岡式土器が分布していた。亀ヶ岡式文化は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3、4世紀に終末を迎えた縄文時代最後の文化である。この文化の土器は製作の精粗において2大別され、薄手小型の精製土器と、大型で粗雑な作りの粗製土器がある。後者は破片が多く、内面に炭化物が付着することが多いことから、日常的な什器として使用されたことが伺われる。亀ヶ岡式精製土器の大きな特徴は、様々な器形に、一見理解不能な多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。器種も複雑に分化し、装飾も繁煩を極めている。しかし、複雑多岐にわたる亀ヶ岡式土器も、時間の経過とともに、器種構成や文様、装飾、器形などか順次変化していくことが確認されている。山内清男博士の編年学研究による、岩手県大洞貝塚の地点別調査の結果、亀ヶ岡式土器は連続する6型式に細分されることが確認された。古い順序に大洞B式、BC式、C1式、C2式、A式、A'式に区分され、今日でもこの型式編年が使用されている。その編年基準に徴して見ると、長谷堂貝塚は大洞A式の段階に相当し、長い歴史をもつ縄文時代も近々終末を迎えようとする時期に営まれた。
精製土器は、薄い器壁に文様を描き、朱色に塗色され、装飾されたものが一般的である。浅鉢、壷形、台付き浅鉢、注口などがあり、縄文時代のなかでも際立った器種分化を遂げている。それらの器種のうち、長谷堂貝塚で量的にとくに顕著に確認された器種は、鉢形、壷形、台付き皿の3器種であった。それらは合計すると、精製土器の8割り以上に達する。直前の大洞C1~C2式では、精製土器の器種組成は特に複雑に分岐しており、それらの他に椀形、装飾浅鉢、高杯形、香炉形などか加わる。長谷堂貝塚では、それらは出土しておらず、大洞式終盤を迎えて、器種構成が簡略化の方向に転じてきたことが窺える。
長谷堂貝塚で確認された器種のうち、台付き浅鉢では、装飾や器形などに多くの変化は見られず、統制のとれた一様性をみることができる。しかし、壷形では、大小の区分、体部の膨れ具合、口縁部の様態、口外帯の有無、体部文様の種類などにより、多くの変異が生じている。鉢形でも、同様に数種類の変異が存在する。しかし、煩雑になるので、ここでは代表的な3形態を挙げるに止めたい。
【東北分布の縄文土器見つかる 北谷町の平安山原遺跡(はんざんばるいせき) 2017年1月24日 16:40 琉球新報】
【北谷】北谷町伊平の平安山原B遺跡で、縄文時代晩期の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄島での大洞系土器の発見は初となる。北谷町教育委員会が24日午後、発表した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたって行われていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、新たな文物の交流があったことを示唆している。
教育委員会の担当者は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。【琉球新報電子版】
【北谷】北谷町伊平の平安山原(はんざんばる)B遺跡で、縄文時代晩期(約2500年前)の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄県内での発見は初めて。北谷町教育委員会が24日、縄文・弥生時代を研究する設楽博巳東京大学教授が「文様と形から大洞系土器の可能性が高い」としたとして発表した。
町教委によると、出土した破片は大洞系土器の大洞A式土器の可能性が高いという。大洞A式土器は、亀ヶ岡式土器のことで沖縄から約2千キロ離れた岩手県大洞貝塚で出土した土器から名付けられた。破片には大洞A式土器の特徴である「工」の字を組み合わせた迷路のような文様の工字文が見られたほか、へこみ部分にわずかに朱色が塗られた跡が確認された。
平安山原B遺跡は2009年10月14日から翌年2月19日にかけて、桑江伊平土地区画整理事業に伴い調査が行われた。土器片はグスク時代(約500~800年前)、農耕に向いた土を作ろうと周辺の砂を意図的に混ぜて造られた層から出土した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原(いれいばる)遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたっていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、幅広い交流があったことを示唆している。町教委は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。
●「熊襲」とは3~4世紀の統一国家始原期に九州南部を統治していた部族のことで、そのうち今日の熊本県域を支配していたのが熊襲の中の「熊(狗奴)人」であり、宮崎・鹿児島県域を支配していたのが「襲(襲津間=投馬)人」で、両者を区別せずに呼んだのが「クマソ(熊襲)」だったのである。
●隼人の呼称についてもいろいろな説がある。呼称そのものは大和王朝確立期の天武天皇時代に作られたものである
●日本は6,852の島で構成される島国であるが[4]、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び、「八つの島」の総称としている。(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )
この中で4番目に登場する「九州」の原文での呼称表記は、「筑紫島(つくしのしま)」である。
『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記している。
●古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表、#歴史書における呼称)。
3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった[20]。 続日本紀によるとヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古天皇17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、弘仁15年/天長元年(824年)以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。
なお古代九州には7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。
九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。
「古墳時代」は3世紀中頃~7世紀代まで・・当時の有力者が非常に大きな古墳を造ることに社会的な意義を見いだし当時の最新の技術を駆使して古墳造りに奔走した時代。
●権力を誇示
●宗教的、政治的
●前方後円墳の時代
箸墓古墳以後、大和盆地東南部から西日本を中心に類似した古墳が出現
●竪穴式石室
●割竹型木棺
●三角縁神獣鏡の副葬
箸墓形前方後円墳は大和政権段階に築造された古墳、大和政権から王の中の王(大王)が出現して政権の中心が出来た時代、大和政権と地方の首長(王)との結びつきが強くなって行く。
古墳の分布状況・・①兵庫県 16577基、②千葉県 13112基、③鳥取県 13094基、④福岡県 11311基、⑤京都府 11310基・・
全国合計 161560基
前方後円墳の数
①千葉県 685基、②茨城県 444基、③群馬県 410基、④岡山県 291基、⑤鳥取県 280基、栃木県 280基、⑥広島県 248基、・・東京都 12
紀元前3~前2世紀(弥生時代前期中頃)大阪府茨木市 東奈良遺跡 方形周溝墓
紀元前2世紀~1世紀(弥生時代中期)
弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。
近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形に多様さや石列は見られない。供献の土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢、その他などが加わる。
この頃北部九州佐賀県吉野ケ里遺跡では楕円形の大型周溝墓が作られている。
死者に鏡をはじめとする多量の副葬品をそえて葬る風習は、他の地域に先駆けてまず北部九州に成立していた。
●奴国 福岡県春日市 須玖岡本遺跡
●伊都国 前原市 三雲南小路遺跡
弥生時代中期の段階から北部九州の支配者層墓のあり方が、東方の中国地方や近畿とは異なる展開をしている。
日本列島の古墳はその出現の経緯からも明らかなように日本列島に成立した広域の首長連合の構造と分かちがたく結びついている。
現代の日本人の思考や意識などに深くかかわっている古代の天皇制は首長連合、ヤマト政権の中枢を構成した畿内の王権を母体として成立したものに他ならない
邪馬台国連合から大和政権へ
古墳出現の前提となる広域の政治連合ンp形成は、朝鮮半島南部の鉄資源や、さまざまな先進文物の入手ルートのしはいけんをめぐる争いと関係している。
奴国・伊都国との対抗
豊前・吉備・讃岐・畿内などの瀬戸内海各地の勢力が同盟関係を結んだ。
中国鏡の分布が2世紀末~3世紀初めころ急激な変化が起きている。北部九州中心→畿内中心
邪馬台国連合
箸墓形の大型前方後円墳の成立が邪馬台国連合の変質、すなわちヤマト政権成立に繋がって行く。
狗奴国 濃尾平野を本拠地 3世紀中楊以前魏志倭人伝では邪馬台国と戦った。
吉備地方で最大の出現期古墳である岡山市浦間茶臼山古墳が箸墓古墳の2分の1の墳丘長を持つ。このことは子の首長たちの共通の新しい墳墓の創出が、連合の身分秩序の整備と無関係でないことを示している。
古墳出現期に見られた畿内以外の地域で最大級の首長墓が畿内の大首長墓のほぼ1/2の大きさ
渋谷向山古墳(現 景行天皇陵)天理市 墳丘長310m
銚子塚古墳 山梨県中道町 墳丘長186m
新宮寺山古墳 岡山市 墳丘長150m
墳丘規模の差が前期を通じてほぼ踏襲されている。5世紀(中期)一部の地域首長の古墳が巨大化する。
造山古墳 吉備 岡山市 墳丘長360m
大仙陵古墳(現 仁徳天皇陵) 墳丘長486m
誉田御廟山古墳(現 応神天皇陵) 墳丘長420m
ミサンザイ古墳(現 履中天皇陵) 墳丘長365m 造山古墳と同時期同じ大きさ。
5世紀初頭には吉備の大首長と畿内の大首長とは、ほぼ同規模の古墳を造っていた。
東アジアの国際情勢の変化と関連
古墳時代中期5世紀には朝鮮半島では高句麗が南下、倭国は伽那の鉄資源に依存していた。
畿内政権は吉備政権をはじめとする有力な地域政権と手を組み入手した資源供給に優遇する。吉備、上毛野、丹後、日向。
5世紀後半を境に畿内の政治勢力と畿内以外の政治勢力との関係が大きく変化する。
埼玉稲荷山古墳 「辛亥」銘鉄剣 辛亥=471年 獲加多支鹵大王=ワカタケル=雄略天皇 大王の称号を名乗っている。
5世紀前半から中葉のものと考えられる「王賜・オウシ」銘が見られる鉄剣が出土〝(表)王賜□□敬□(安)〟銘文中の「王」は倭の五王の可能性がつよく「済」(允恭天皇)とする説が有力である。 千葉県市原市 稲荷台1号墳
古墳時代の日本では大王を中心に各地の豪族が連合して、それぞれの政権内の役職を分担していた。そのころの政治の仕組みを氏姓制度(シセイセイド)という。豪族は、血縁をもとに構成された氏という集団をつくっていた。その当時の政治の仕組みを氏姓制度という。首長層の擬制的血縁集団が大王に対しての世襲的な服属や奉仕のシステムを明確化させていく。ウジ、カバネに「ベ」を加えて新しい支配ののシステムを整備する。
畿内の大王とこれに服属する個々の地方豪族が各地の政治勢力の連合体としてヤマト政権を樹立する。
7世紀の終わりに畿内の大王を中心とする中央政権的な政治体制へ変わりつつ古代国家の成立となる。
前方後円墳の造営は畿内西日本では6世紀末葉、東日本では7世紀初頭に造営が中止される。
邪馬台国連合=前方後円墳 狗奴国連合=前方後方墳
出現期の大型前方後円墳の年代が3世紀中葉すぎに遡ると考えられることから、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が否定できない。
邪馬台国連合 画文帯神獣鏡(2世紀末~3世紀)畿内中心の分布状況を示す最初の鏡・・後漢末
★箸墓よりも築造が早いとされる出現期の前方後円墳
●ホケノ山古墳
●巻向勝山古墳 年輪年代測定・・西暦210年頃
●巻向矢塚古墳
◦神門5号墳
◦神門4号墳
辻畑古墳→高尾山古墳 前方後円墳(静岡県沼津市)・・西暦230年頃 狗奴国王の卑弥弓呼(ヒミココ)? スガルの王
倣製鏡 日本で出土する鏡のうち中国鏡を模倣してつくられた鏡
同范鏡 同一の鋳型または原型からつくられた鏡
(三角縁)神獣鏡・・中国の東方、渤海の中に蓬莱、方丈、瀛州・えいしゅうの三神山があって、仙人が住み不老不死の霊薬があると信じられてきた。建物は黄金と白銀に飾られ、遠くから見ると白く輝いている。・・不老不死を求める思想=神仙思想=図案化された鏡が(三角縁)神獣鏡
5世紀の倭人たちは積極的に朝鮮半島にわたり、馬具、武具、武器、装身具、陶質土器、やそれらの制作技術、横穴式石室などの葬制、漢字による表記技術、さらには信仰やイデオロギーに至る様々な文物や技術を受け入れました。また渡来人による技術の受け入れには鋲留めの技術、金銅製品の加工技術、須恵器の生産技術などがありまさに渡来文化の需要期でもありました。
古墳とヤマト政権
①古墳の出現とヤマト政権
弥生時代には土盛した墳丘墓が各地に出現しましたが3世紀後半になると前方後円墳をはじめとする、より大規模な古墳が西日本を中心に出現します。出現期の古墳は、その内部に竪穴式石室、木棺という埋葬施設を持ち、多数の銅鏡・勾玉・管玉など呪術・ジュジュツ的な副葬品を伴うといった共通の特徴を持っています。
②共通の墓制が意味するもの
この様な墓制の共通性(形状・埋葬施設・副葬品の画一性)は何を意味するのでしょう。
それは当時、大和地方(現在の奈良県を中心とした地方)を中心に広域的政治連合が形成されており、その勢力の広がりを意味するものと理解できます。
出現期の古墳は大和地方に集中しています。その中で最大のものは箸墓古墳です。箸墓古墳は墳丘の長さが280mに及ぶ前方後円墳で出現期の他地域の前方後円墳(岡山県浦間茶臼山古墳・140m 福岡県石塚山古墳・120m)と比較しても、その大きさは群を抜いています。したがってこの時期の政治連合は、大和地方を中心とする勢力によって形成されたと考えられます。この政治連合をヤマト政権と呼びます。
前方後円墳のような独特の形状を持った古墳は、そう簡単に真似できるものではありません。おそらくは設計図のようなものがあって、それがヤマト政権下に組み込まれた各地の首長たちに配布され、従来あった首長たちの多様な墓制は前方後円墳という共通の墓制に変化、統一されていったと思われます。
古墳は4世紀中頃までに東方地方の中部まで波及しました。これは同時に4世紀中頃までに西日本から東北地方中部までの範囲に及ぶ各地の首長たち(=各地に文立していた小国家の王たち)がヤマト政権という豪族連合に組み込まれたことを意味します。
③副葬品
前期の副葬品は銅鏡や勾玉・管玉、腕輪型石製品、鉄製の武器や農工具類など呪術的・宗教的色彩の強いものが、多く見られます。そのことから前期古墳の被葬者は、司祭的な性格を持っていたことがうかがわれます。
中期になると、鉄製武器や武具・馬具などが多くなり中期古墳の被葬者が、軍事指導者的な性格を強めていることがわかります。
なお、前期から中期にかけて、副葬品の特徴がこのように大きく変化したことを文化的な断絶と見なし、これを大陸北部から侵入した騎馬民族の征服した結果とする「騎馬民族征服王朝説」が江上波夫氏によって唱えられました。
④最大規模の古墳は大王の墓
前期大和地方に営まれた大規模古墳は、中期になると河内地方に移り、さらに大規模化します。古墳時代を通じて最大規模の古墳が、この時期に集中しています。
最大のものが、大阪府堺市東部に展開する百舌鳥古墳群の盟主的位置を占める大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)です。墳丘の長さが486mあり、周囲には2~3重の濠をめぐらしています。周辺の陪冢(ばいちょう・従属的な小型の古墳)の区域を含めると、その墓域は80haにも及びます。
2位の規模を持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(現応神天皇陵)などとともに、5世紀のヤマト政権のリーダーである大王(おおきみ)の墓であると考えられています。
⑤地方の巨大古墳は豪族の墓
中期の大規模な前方後円墳は近畿地方中央部ばかりでなく、群馬県(上毛野・かみつけの)・岡山県(吉備・きび)・宮崎県(日向・ひゅうが)などにもみられます。たとえば、岡山県の造山古墳は墳丘の長さが360mもあります。これは我が国の古墳の中では第4位の規模です。
この事実は、近畿地方を中心とするヤマト政権の中でこれら地域の豪族が重要な位置を占めていたことを表しています。
★古墳大きさランキング
1 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 486m 大阪府堺市堺区大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 425m 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365m 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350m 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335m 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310m 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 300m以上 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8 渋谷向山古墳(景行陵) 300m 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 290m 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286m 岡山県総社市三須
11 箸墓古墳 280m 奈良県桜井市箸中
12 五社神古墳(神功陵) 275m 奈良県奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255m 奈良県奈良市法華寺町
14 市庭古墳(平城陵) 250m 奈良県奈良市佐紀町
メスリ山古墳 250m 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 242m 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242m 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238m 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 230m 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227m 奈良県奈良市尼ヶ辻町
21 太田茶臼山古墳(継体陵) 226m 大阪府茨木市太田
22 墓山古墳 225m 大阪府羽曳野市白鳥
23 巣山古墳 220m 奈良県北葛城郡広陵町
24 ヒシアゲ古墳(磐之媛陵) 219m 奈良県奈良市佐紀町
西殿塚古墳(手白香皇女陵) 219m 奈良県天理市中山町
26 佐紀石塚山古墳(成務陵) 218m 奈良県奈良市山陵町
27 川合大塚山古墳 215m 奈良県北葛城郡河合町川合
28 築山古墳 210m 奈良県大和高田市築山
西陵古墳 210m 大阪府泉南郡岬町淡輪
太田天神山古墳 210m 群馬県太田市内ヶ島
31 津堂城山古墳 208m 大阪府藤井寺市津堂
32 桜井茶臼山古墳 207m 奈良県桜井市外山
陵山古墳(日葉酢媛陵) 207m 奈良県奈良市山陵町
34 コナベ古墳 204m 奈良県奈良市法華寺北町
35 御廟山古墳 203m 大阪府堺市北区百舌鳥本町
36 摩湯山古墳 200m 大阪府岸和田市久米田摩湯町
白鳥陵古墳(軽里大塚古墳) 200m 大阪府羽曳野市軽里
新木山古墳 200m 奈良県北葛城郡広陵町三吉
神明山古墳 200m 京都府京丹後市
両宮山古墳 200m 岡山県赤磐市
東アジア諸国との交渉
①中国の分裂と国家の形成
中国では三国時代の後、260年にいったん西晋が国内を統一したものの316年に滅亡。華北地方は匈奴をはじめとする諸民族の侵入を受けて、五胡十六国時代と呼ばれる混乱状態に陥りました。(南朝)
かくて南の漢民族支配地域、北の異民族支配地域のそれぞれ二つに分裂した中国は次々と国家の興亡を繰り返す南北朝時代をむかえました。周辺諸民族に対する中国の支配力は弱まり、東アジア周辺地域ではつぎつぎと国家形成が進みました。
中国北部から起った高句麗は、朝鮮半島北部に領土を広げ、楽浪郡・帯方郡を滅ぼしました。(313年)
一方、朝鮮半島南部に馬韓・弁韓・辰韓というそれぞれ小国家連合が形成されていましたが、4世紀になると馬韓から百済が、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成しました。しかし弁韓地域では4~6世紀になっても小国の分立状態が続きました。
②ヤマト政権の対外交渉(1)---高句麗との交戦---
4世紀後半になると、高句麗は南下政策を進め、百済・新羅が圧迫されるようになりました。百済・新羅は南に向かわざるを得ません。朝鮮半島は行き場を失った玉突き状態の様になりかっての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)も圧迫を受けることになります。この様な状況下、早くから伽耶諸国と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)は、百済・新羅などとともに高句麗と戦う事になりました。高句麗の好太王(広開土王ともいう)碑文には、391年倭が朝鮮半島に出兵し、高句麗と交戦したことが記されています。【好太王碑・・現在の中国吉林省集安市に近い場所に414年、長寿王が父好太王の事績を顕彰するために建立した。】
当時倭人たちには乗馬の風習がありませんでした。高句麗の騎馬軍団との戦いで倭人たちは否応なしに騎馬技術を学ぶことになりました。5世紀になると日本列島の古墳の副葬品に馬具が現れるのはこうした事情を反映していると考えられます。
③ヤマト政権の対外交渉(2)---南朝への朝貢---
5世紀初めから約1世紀の間、倭王(ヤマト政権の大王)たちが、相次いで中国の南朝に朝貢しました。中国の歴史書(晋書・宋書・南斉書・梁書)に残る記録では413年から502年の間に13回にわたって使者を派遣したとの事です。「宋書」倭国伝は彼らの名を讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)としるしています。このうち済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略(ゆうりゃく)天皇をそれぞれ指すと考えられています。讃=?珍=?彼らを総称して「倭の五王」といいますが、弥生時代の邪馬台国とは異なり、男系による王位世襲の確立をしていたことがわかります。
〝倭王武の上表文〟
倭王武が478年、宋の皇帝(順帝)に奉ったとされる上表文が、宋書に記載されています。そこで武は、祖先以来の征服事業について述べ、中国皇帝からの冊封(さくほう)と称号の認可を求めています。
称号は「使持節都督(しじせつととく)・倭・百済・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭国王」と自称」しましたが、実際に得た称号は「「使持節都督(しじせつととく)・倭・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍・倭王」でした。宋とすでに朝貢関係にあった百済を除いて七国が六国になっています。もちろんこの称号は形式的なものにすぎません。
大陸文化の受容
●渡来人の波
第1波 4~5世紀、漢人が中心
楽浪郡、帯方郡の滅亡(313年)
第2波 6~7世紀、韓人が中心
伽那諸国(562年)
百済(660年)
高句麗(668年)・・・それぞれの滅亡

現地に行けば納得することがいっぱいあるんですね。
※本日台風18号九州南部に昼頃上陸との事、要注意。
八代市立図書館の文学講座でずっと以前、地元の作家前山光則先生が太宰治を取り上げられ晩年の作品『トカトントン』を解説されました。
8月の青森への旅は縄文時代の遺跡の見学が主な目的でしたが、折角青森に来たのだから太宰生誕の地を見て廻るのも悪くはないと思い
太宰治記念館「斜陽館」とその近辺を見学しました。

斜陽館に行くと津軽三味線会館との共通券があるのでと勧められ900円の共通券を購入、斜陽館を見る前に三味線の演奏を聴いてから斜陽館を見学しました。




この斜陽館は旧津島家住宅で1階床面積916.86㎡、二階床面積383.41㎡あり非常に広い屋敷です。
明治40年6月21日(1907) 津島家六代の源右衛門が当時経営中の金融業店舗を兼ねた住宅として竣工する。
明治42年6月19日(1909) 作家・太宰治(本名 津島修治、源右衛門6男)誕生する。
昭和23年6月26日(1948) 角田唯五郎氏が角田家住宅として買い取る。
昭和23年頃 長兄文治が北東隅の「離れ」屋敷外に曳き家移転。
昭和25年(1950) 角田氏が旅館「斜陽館」を開業する。
昭和51年(1976) 黒滝氏夫婦の所有になる。
平成元年5月9日(1989) 旧金木町指定有形文化財に指定される。
平成8年3月20日(1996) 旧金木町が買い取る。
平成9年11月4日(1997) 復元修復工事完成。
平成10年4月17日(1998)金木町太宰治記念館「斜陽館」として開館する。
平成10年7月13日(1998)旧津島家住宅主屋一棟県重宝に指定される。
平成16年12月10日(2004)旧津島家住宅(斜陽館)国重要文化財に指定される。



昭和23年敗戦後の農地改革のために地主制度は崩壊、青森県知事として政界に復帰したあに文治によって大邸宅は売却されました(昭和23年6月)、その際、新座敷だけを切り離し、現在地に曳家して金木の居宅としました。やがて売却された母屋は旅館「斜陽館」の名で有名になりましたが、離れの存在は時と共に忘れられていきました。現在この家は太宰治疎開の家として2007年より公開されています。
本土爆撃が激しくなる中、太宰治は東京と甲府の爆撃で罹災し、昭和20年7月末に妻子を連れて津軽の生家に身を寄せた。終戦後は新座敷(生家の離れ)に暮らし疎開したⅠ年3か月あまり(疎開期間は昭和20年7月31日~翌21年11月12日)で23の著作を執筆。新座敷は文壇登場後の太宰の居宅として唯一現存する貴重な邸宅である。
疎開中の著作リストとしては
【小説】薄明、パンドラの匣、庭、親という二字、嘘、貨幣、十五年間、やんぬる哉、雀、苦悩の年鑑、チャンス、冬の花火、未帰還の友に、春の枯葉、たづねびと、親友交歓、男女同権、トカトントン
【随想】返事、津軽地方とチエホフ、政治家と家庭、海、同じ星、など
太宰治の作品の中には「新座敷」での様子が書かれているものがあります。
例えば作品「故郷」「思い出」には「新座敷」の洋間や和室(10畳、6畳)の事が書かれています。
この新座敷は太宰が13歳の時、大地主津島家の跡取りとなる長兄文治の結婚を機に新築されたものです。
青春期の太宰は新興地主の出身に悩み、左翼思想に傾倒、21歳の頃長兄から義絶され、主に東京で作家活動をしていました。しかし歳月を経て、病床の母を見舞う機会を与えられ、妻子と帰郷(昭和17年・33歳)。その顛末を小説『故郷』に語っています。やがて兄との確執は徐々に解け始め小説『津軽』の取材旅行でも再び帰郷(昭和19年)。さらに三鷹と甲府の空爆で二度の罹災の末、やむなく妻子を従えて津軽の生家に疎開して、故郷で終戦を迎えました(昭和20年・36歳)。
斜陽館は平成16年(2004)に国重要文化財に指定されて、維持管理についての問題は国の方で行われているので、所有者の五所川原市の負担金額も少ないとは思うのですが、この「新屋敷」については現状個人の持ち物となっているので維持管理については個人負担となっています。
入場料は斜陽館と同じ金額なのですが、入場数は斜陽館の1割にも満たないとのことで持ち主の方が嘆いておられました。
市に相談しても今のところ打ち合って貰えないとの事。木造の建物だけにこのまま朽ち果てていくのも忍び難い思いです。

太宰ゆかりの地は、この金木の地には色々ありますが津軽三味線会館や太宰治生誕の地・斜陽館、太宰の暮らした疎開の家・新座敷などを見て廻ると時間が足りなくて一番近くの雲祥寺だけ寄ることにしました。





太宰治疎開の家「新座敷」の今後の行く末が頭の片隅に重く残りました。
8月の青森への旅は縄文時代の遺跡の見学が主な目的でしたが、折角青森に来たのだから太宰生誕の地を見て廻るのも悪くはないと思い
太宰治記念館「斜陽館」とその近辺を見学しました。
斜陽館に行くと津軽三味線会館との共通券があるのでと勧められ900円の共通券を購入、斜陽館を見る前に三味線の演奏を聴いてから斜陽館を見学しました。
この斜陽館は旧津島家住宅で1階床面積916.86㎡、二階床面積383.41㎡あり非常に広い屋敷です。
明治40年6月21日(1907) 津島家六代の源右衛門が当時経営中の金融業店舗を兼ねた住宅として竣工する。
明治42年6月19日(1909) 作家・太宰治(本名 津島修治、源右衛門6男)誕生する。
昭和23年6月26日(1948) 角田唯五郎氏が角田家住宅として買い取る。
昭和23年頃 長兄文治が北東隅の「離れ」屋敷外に曳き家移転。
昭和25年(1950) 角田氏が旅館「斜陽館」を開業する。
昭和51年(1976) 黒滝氏夫婦の所有になる。
平成元年5月9日(1989) 旧金木町指定有形文化財に指定される。
平成8年3月20日(1996) 旧金木町が買い取る。
平成9年11月4日(1997) 復元修復工事完成。
平成10年4月17日(1998)金木町太宰治記念館「斜陽館」として開館する。
平成10年7月13日(1998)旧津島家住宅主屋一棟県重宝に指定される。
平成16年12月10日(2004)旧津島家住宅(斜陽館)国重要文化財に指定される。
昭和23年敗戦後の農地改革のために地主制度は崩壊、青森県知事として政界に復帰したあに文治によって大邸宅は売却されました(昭和23年6月)、その際、新座敷だけを切り離し、現在地に曳家して金木の居宅としました。やがて売却された母屋は旅館「斜陽館」の名で有名になりましたが、離れの存在は時と共に忘れられていきました。現在この家は太宰治疎開の家として2007年より公開されています。
本土爆撃が激しくなる中、太宰治は東京と甲府の爆撃で罹災し、昭和20年7月末に妻子を連れて津軽の生家に身を寄せた。終戦後は新座敷(生家の離れ)に暮らし疎開したⅠ年3か月あまり(疎開期間は昭和20年7月31日~翌21年11月12日)で23の著作を執筆。新座敷は文壇登場後の太宰の居宅として唯一現存する貴重な邸宅である。
疎開中の著作リストとしては
【小説】薄明、パンドラの匣、庭、親という二字、嘘、貨幣、十五年間、やんぬる哉、雀、苦悩の年鑑、チャンス、冬の花火、未帰還の友に、春の枯葉、たづねびと、親友交歓、男女同権、トカトントン
【随想】返事、津軽地方とチエホフ、政治家と家庭、海、同じ星、など
太宰治の作品の中には「新座敷」での様子が書かれているものがあります。
例えば作品「故郷」「思い出」には「新座敷」の洋間や和室(10畳、6畳)の事が書かれています。
この新座敷は太宰が13歳の時、大地主津島家の跡取りとなる長兄文治の結婚を機に新築されたものです。
青春期の太宰は新興地主の出身に悩み、左翼思想に傾倒、21歳の頃長兄から義絶され、主に東京で作家活動をしていました。しかし歳月を経て、病床の母を見舞う機会を与えられ、妻子と帰郷(昭和17年・33歳)。その顛末を小説『故郷』に語っています。やがて兄との確執は徐々に解け始め小説『津軽』の取材旅行でも再び帰郷(昭和19年)。さらに三鷹と甲府の空爆で二度の罹災の末、やむなく妻子を従えて津軽の生家に疎開して、故郷で終戦を迎えました(昭和20年・36歳)。
斜陽館は平成16年(2004)に国重要文化財に指定されて、維持管理についての問題は国の方で行われているので、所有者の五所川原市の負担金額も少ないとは思うのですが、この「新屋敷」については現状個人の持ち物となっているので維持管理については個人負担となっています。
入場料は斜陽館と同じ金額なのですが、入場数は斜陽館の1割にも満たないとのことで持ち主の方が嘆いておられました。
市に相談しても今のところ打ち合って貰えないとの事。木造の建物だけにこのまま朽ち果てていくのも忍び難い思いです。
太宰ゆかりの地は、この金木の地には色々ありますが津軽三味線会館や太宰治生誕の地・斜陽館、太宰の暮らした疎開の家・新座敷などを見て廻ると時間が足りなくて一番近くの雲祥寺だけ寄ることにしました。

太宰治疎開の家「新座敷」の今後の行く末が頭の片隅に重く残りました。


13日(水)、久々に地元の郷土作家、前山光則先生の文学講座が市の図書館で行われました。
戦後の文学を読むというシリーズで今回は 母と子を隔てた、あの池、 耕 治人「うずまき」を紹介されました。
耕 治人さんは八代に色々ご縁がある方で、生まれは八代市建馬町の日本セメント株式会社八代工場の社宅、今はゆめタウンで前に三楽がありますがその場所で生まれたそうです。そして八代町立代陽尋常小学校(八代市立代陽小学校)を終え、熊本県立八代中学校(八代高等学校)に入学、家庭の事情で熊本に移り住み18歳(1924)の時に濟々黌中学校(濟々黌高校)卒業、その後学業などで熊本から離れておられます。
この「うずまき」という作品は八代高校の校歌の作詞を依頼されて作られたのがきっかけで八代に帰郷することになり、自分の八代時代の事を追憶しながら書かれた私小説です。前山先生の受講者の中にはその当時八代中学校に在学しておられた方もおられ、作品の説明にもその当時の様子を話されたりして興味深い内容でした。
耕 治人は八代高校の校歌のみならず八代市歌の作詞もされていて八代の事に疎い私にはいい勉強になりました。
また、この作品の話をされる前に白島(?)にあった池(今は小さな井戸)のある場所の写真を紹介されました。
作品を理解する上でも一度は見ておきたい場所なので、今日(14日)探しましたが池のあった場所は探しきれませんでした。白島の場所だけは何とか分かりました。なぜ、一番初めに池があった場所のスライドをみせられたのか?この話の問題点がこの池から起きているので前山先生は昔、池があった場所をスライドで紹介されたのだと思います。今ごろ気付くなんてやっぱり鈍いなと反省せざるを得ません。この作品を読んでいくうちにこの「うずまき」の池がどんな池なのか知りたくなる様な作品です。
白島からの帰りに八代市はどうして八代市歌まで作って貰った作家を大事にしないのかな、もっと取り上げてあげればいいのにと思いました。八代ゆかりの著名人は幾人もいますがすぐ思い当たるのは山頭火くらいです。でもこの山頭火はほんのひと時日奈久温泉に泊まっただけで彼の放浪のほんの一部分でしかありません。でも、山頭火は知られていても耕 治人を知る人は八代にはほとんどいないと思うんです。
そう思うと何か寂しさを感じずにはおれません。

誰もが忘れてしまいそうになっている耕 治人という八代にゆかりある作家をもっと日の当たる場所へと作品を紹介をされる前山光則先生をみんなで応援しましょう。

昨日、珍しく夕焼けの空に長崎の普賢岳がきれいに見えましたので携帯電話のカメラで撮ってみました。






携帯でこれほどきれいに夕焼けが写真に撮れるとは思ってもいませんでした。

携帯でこれほどきれいに夕焼けが写真に撮れるとは思ってもいませんでした。
部屋の資料をかたずけているとひと月ほど前の新聞記事の切り抜きが見つかりました。記事は今年の8月20日読売新聞の社会面ライフストーリーに出た記事です。熊本地震の際のテレビニュースで電話で出演し「余震ではない。この地震こそ『本震です』」と大地震後は規模の小さな余震しか起きないというこれまでの固定概念を覆して発言した人の話です。生まれは宮崎県延岡市、1966年生まれ現在50歳の遠田晋次・地震地質学を専門とする東北大教授。自分の仕事に執念と誇りを持っているのが良く読み取れます。
・・14日の地震の震源地は二つの活断層帯の境目付近だったが、ずれが広範囲に連鎖し、再び大地震が起きる可能性があると危惧したが、本震後、「まさか」という思いと、研究者として予測できなかった悔しさでほとんど眠れなかったそうです。16日の午後、リュックを背に益城町に入り、さらなる地震の可能性を予測し避難生活や復旧作業を安全に進めるためには、活断層の調査が欠かせないからだと言う。95年に起きた阪神大震災はマグニチュード7.3の激震が神戸の市街地などを襲った。街は一変し、鉄道網は寸断。横倒しになった阪神高速道路、倒壊したビルや住宅の隙間を縫うように歩いた。沿道には遺体もあった。
「救助もせず、調査をしていいのか」「調査する姿を被災者が不愉快に感じないか」。被災者の目を気にし、隠れるように撮影して回ったが、歩いても歩いても断層は見つからなかった。そのご、地表に現れない「伏在断層」が原因だと分かった。「何の役にも立てなかった」。大きな無力感にさいなまれた。「何のために研究をするのか」。・・・
・・・熊本地震でも、自分をはじめ、多くの研究者が、短時間に震度7が2度起きることを予測できなかった。それでも、「地震の予知は無理だが、発生する確率の高さなら導き出せる」と奮起する。大学時代からの旧友で、多くの被災地を合同調査した鳥居真之・熊本大特任准教授(地質学)は「どんな厳しい被災地でも、先頭を切って歩いて行く。現場を大事にし、汗を流すことを惜しまないうえ、地球全体を見渡せる豊富な調査経験を持つ数少ない研究者」と評する。
現場で困難な状態にある被災者を目にする。直接、手を差しのべる立場にない研究者としての仕事にもどかしさを感じる事もある。それでも、今はこう確信している。「活断層を究めることが私にできる被災地支援」

遠田晋次(50)
新聞の記事によると家族は京都市に住み、自身は仙台市に単身赴任中。現地調査は体力が必要なため、ジョギングやジム通いが日課。熊本地震以降、ひと月に一度のペースで熊本県益城町や西原村などでの調査を重ねる。調査で苦労を分かち合った同僚や教え子らと酒を酌み交わす時間が、数少ない息抜きだという。

●伏在断層(ふくざいだんそう)とは、断層運動によるずれが地下深部でのみ生じたり、またはずれた後に急激に土砂で埋められたりして、地表では確認されない断層のこと。
●地表では確認できないが地下に埋没して存在する断層
・・14日の地震の震源地は二つの活断層帯の境目付近だったが、ずれが広範囲に連鎖し、再び大地震が起きる可能性があると危惧したが、本震後、「まさか」という思いと、研究者として予測できなかった悔しさでほとんど眠れなかったそうです。16日の午後、リュックを背に益城町に入り、さらなる地震の可能性を予測し避難生活や復旧作業を安全に進めるためには、活断層の調査が欠かせないからだと言う。95年に起きた阪神大震災はマグニチュード7.3の激震が神戸の市街地などを襲った。街は一変し、鉄道網は寸断。横倒しになった阪神高速道路、倒壊したビルや住宅の隙間を縫うように歩いた。沿道には遺体もあった。
「救助もせず、調査をしていいのか」「調査する姿を被災者が不愉快に感じないか」。被災者の目を気にし、隠れるように撮影して回ったが、歩いても歩いても断層は見つからなかった。そのご、地表に現れない「伏在断層」が原因だと分かった。「何の役にも立てなかった」。大きな無力感にさいなまれた。「何のために研究をするのか」。・・・
・・・熊本地震でも、自分をはじめ、多くの研究者が、短時間に震度7が2度起きることを予測できなかった。それでも、「地震の予知は無理だが、発生する確率の高さなら導き出せる」と奮起する。大学時代からの旧友で、多くの被災地を合同調査した鳥居真之・熊本大特任准教授(地質学)は「どんな厳しい被災地でも、先頭を切って歩いて行く。現場を大事にし、汗を流すことを惜しまないうえ、地球全体を見渡せる豊富な調査経験を持つ数少ない研究者」と評する。
現場で困難な状態にある被災者を目にする。直接、手を差しのべる立場にない研究者としての仕事にもどかしさを感じる事もある。それでも、今はこう確信している。「活断層を究めることが私にできる被災地支援」

遠田晋次(50)
新聞の記事によると家族は京都市に住み、自身は仙台市に単身赴任中。現地調査は体力が必要なため、ジョギングやジム通いが日課。熊本地震以降、ひと月に一度のペースで熊本県益城町や西原村などでの調査を重ねる。調査で苦労を分かち合った同僚や教え子らと酒を酌み交わす時間が、数少ない息抜きだという。

●伏在断層(ふくざいだんそう)とは、断層運動によるずれが地下深部でのみ生じたり、またはずれた後に急激に土砂で埋められたりして、地表では確認されない断層のこと。
●地表では確認できないが地下に埋没して存在する断層
1年以上前の書きかけの記事に縄文時代に関連しているものがありましたのでこの記事を書き始めにしていこうと思います。
五郎山古墳館からの帰り際に、係りの方から筑紫野市教育委員会が出稿してる「ちくしの散歩」という冊子を頂きました。
何枚か戴いた中に筑紫野の「旧石器時代」というのがあり、現在読書中の〝「黒曜石 3万年の旅」堤 隆著 NHKBOOKS〟に関連性もあり黒曜石の部分を抜き出してみました。
・・・火山によって生み出された天然ガラスである黒曜石は、半透明もしくは漆黒のツヤをみせ、打ち欠くと現代のカッターナイフにも増して鋭いエッヂが残される。どんな石より切れ味のいい黒曜石の性質を、先史人は決して見逃すことはなかった。
火山国である日本列島には。北海道から九州まで数多くの黒曜石原産地が存在する。代表的な産地には、北海道の白滝、信州の和田峠、太平洋沖の神津島、島根の隠岐島、九州の姫島・腰岳などがある。それぞれの原産地の姿とは、そして各原産地の黒曜石資源開発はいかになされてきたのか。
後期旧石器時代において黒曜石は、ナイフ形石器や細石刃など、狩の槍さきの鋭い刃として用いられた。・・・
放射化分析(放射性同位元素を利用した分析方法のひとつ)や蛍光X線分析など近年の理化学的分析によると、産地ごとに異なる黒曜石の元素組成によって、遺跡から出土した黒曜石の産地を突き止めることが可能となった。この原産地同定によると、信州の和田峠原産地の黒曜石が、すでに3万年前の後期旧石器時代初頭から、100㎞以上もの距離を越え関東地方まで持ち運ばれていることが分かっている。黒曜石を動かす背景には、どのような人間行動が隠されているのだろうか。
旧石器時代
旧石器時代とは人類が「ヒト」への道筋を辿り始めた時から、数百万年をかけて、遊動住、狩猟、採集という生活を抜け出すまでの人類史上もっとも長い時代を指しています。年代はさまざまな見解がありますが、最近の研究では約400万年前から約1万年前までの期間となっています。
日本の旧石器時代遺跡を探求する上で残念なことは、石器や遺跡はたくさん見つかりますが、日本は代表的な火山国の為に、火山から噴出された火砕流や火山灰は極めて高い酸性が強く人骨が残らない事です。これまで日本で発見された旧石器時代の化石人骨は酸性の低い石灰岩地帯からほんの僅かが見つかっているだけです。人骨が見つかれば、どこから日本にやって来た人か、どんな体系、生活をしていたのかを解く鍵となります。
石器から分かることは主に狩猟生活に関わることです。多くの石器は割れ口が鋭利となる黒曜石やサヌカイトなどを用いています。
●相沢忠洋
生年月日:1926年6月21日
死没:1989年5月22日 (62歳)
相沢 忠洋は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。Wikipedia
研究分野ー考古学
主な業績岩ー宿遺跡の発見により日本列島の旧石器時代の存在を立証
影響を受けた人ー物芹沢長介、杉原荘介
主な受賞ー歴群馬県功労賞、吉川英治賞
● 黒曜石
ガラス質の火山岩。黒色または暗灰色,時に赤褐色。割れ目は貝殻状を示す。流紋岩質や安山岩質のマグマが冷えて固まったもの。先史時代には石器に使用された。近年は焼いて粉末にし,断熱材に利用する。十勝石など。黒曜岩。
●サヌカイト(Sanucite)
讃岐地方で最も多く産出することから「讃岐石(サヌカイト)」と呼ばれる岩石で、
叩くと「カンカン」と良い音で響くことから「カンカン石」とも呼ばれています。
サヌカイトは安山岩の一種で、瀬戸内地域の火山活動によってマグマが流出し、
それが冷え固まってできた岩石です。
叩いた時の美しい音色から楽器として利用されることもあり、旧石器時代には
石器の材料としても利用されました。
讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる。
人間の条件・・道具製作・言語の使用・直立二足歩行
●考古学者ケネス・P・オークリー 〝man the tool-maker〟〝道具製作者としての人間〟人間は「文化」すなわち道具を作り、思想を伝達する能力により特徴付けられた社会的動物である
●人類学者ジェーン・クドール(女性)1960年アフリカ・タンガニイカ湖畔でチンパンジーが植物の茎を使って細い竿を作りシロアリ釣りをしているところを発見「道具を作って使用」
氷河期が終わり、温暖化とともに新たな縄文時代が始まった。土器を生みだし、遊動から定住へと生活も大きく変化した。本格的な灌漑農耕が列島に定着するまでの1万年間以上、自然とともに生きる縄文文化は続きました。
氷河期が終わって暖かくなり、ほぼ現在と同じ自然環境下で、列島全体に似通った形質を持った縄文人が縄文土器とやや遅れて石鏃や釣針、石皿、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)、磨製石斧を普及させた。これらの天然素材の道具を用いて豊かな森や内湾などの環境に働きかけて、植物質食糧を主体とした採集、沿岸では漁労、そして狩猟などによる生業を営み、食料の貯蔵や保存加工によって食生活を安定させた。定住生活を送り、土坑墓に屈葬する埋葬を基本とした集団墓地を営み、各種の儀礼や送りなど共通の精神世界を形成した。世界史的に見れば東アジアの東端の島に発達した独特な先史時代であった。
縄文文化は、南の九州(沖縄本島まで含める意見もある)から北の北海道までのほぼ日本列島全域に及ぶ。さらに地形や植生、集落の規模や諸施設の在り方、土器の特徴などから見て、東海から北陸以北の東半と、それより南にほぼ二分される。つまり、地形的には大地溝帯を境に西と東の二つのプレートに分かれ、植生において西は温帯の照葉樹林帯が広がる。本州の東から北海道南部には堅果類の豊かな温帯の落葉広葉樹林帯が広がり、さらに北の北海道北半は亜寒帯の常緑針葉樹林帯となる。
縄文生活に大きな意味を持っていたクリ、イノシシは 北海道には生育していなかったが、ヒグマが生息しアシカ、オットセイなどの海獣類やサケ類は豊富であり、このような動植物相は生業を大きく規定していたと考えられる。ただし、北海道南部と東北地方北部は土器の特色などの共通性を持ち、文化的に津軽海峡は大きな障害とはならなかった。また、全国の沿岸は豊かな漁場となったが、太平洋岸は内湾が発達し、黒潮暖流が東北中部で寒流と接して大漁場を作っていた。
集落及び集落と考えられる遺跡が、全国で約9万4千カ所存在すると推定され、約85%が東日本に存在している。逆に西日本には、草創期から早期の南九州と後期後半から晩期の九州全体にやや遺跡が目立つものの、全体的に少数であり、約15%にすぎない。また、多くが集落である縄文時代の貝塚は全国に約2500カ所存在するが、東日本で約2100カ所、西日本には約400カ所が確認されるだけである。尚貝塚は、深い砂浜で内湾が発達しない日本海側にはいたって少ない。このような東日本の優位性は、落葉広葉樹林帯の豊富な堅果類と鳥獣、北海道から東北地方南部、北部までのサケ類の多量遡上など、縄文的な生業に適した環境に支えられていたと考えられる。さらに両地域内には土器の文様や形、墓制、祭祀などの類似性による各地域圏がある。(公式テキスト大規模な記念物BOOK The縄文)より
縄文文化について 北海道・北東北の縄文遺跡群の関係自治体リーフレットより
世界に先駆けて土器が出現するとともに安定して暮らせるムラも形成されました。
1万年以上もの長期にわたり持続可能な社会を形成した日本特有の先史文化です。
本格的な農耕と牧畜を選択することなく、狩猟、採集、漁労を生業の基盤として定住を達成し協調的な社会を作り上げた。
※長期間継続した縄文文化は、世界の他の地域における新石器文化とは全く異なるものであり。人類史にとって極めて重要な文化です。
【定住の達成】
自然環境に適応した道具を発明し、狩猟・採集・漁労による生業を営む人々の暮らしは次第に定住へと変化し、竪穴建物が建ち、やがて生活の拠点であるムラが出現しました。ムラの中には住居や墓が作られ、地域を代表するような拠点的なムラも現れました。太い柱を使った大型の建物やまつりの場所である盛り土などの施設、大規模な記念物である環状列石(ストーンサークル)も登場しました。
ムラの周りには防御用の溝や棚などはなく、温和で協調的な社会が築かれました。また、海や山を越えた遠方との交流・交易も活発に行われ、ヒスイやアスファルト、黒曜石が運ばれました。漆器や装身具類も発達し、まつりに使われる土偶もたくさん作られ、人々は豊かな精神世界を持っていたことがわかります。
【自然との共生】
縄文文化が営まれた時代、北海道・北東北ではブナを中心とする落葉広葉樹の森が広がっていました。生物多様性に恵まれた生態系に適応し、豊富な森林資源や水産資源など多種多様な資源を持続的に利用することで縄文文化は1万年以上も長きにわたり継続・発展しました。
ムラのまわりには、クリやクルミ、ウルシなどの多くの有用植物が栽培された「縄文里山」と呼ばれる人為的生態系も成立し、中でもクリは管理・栽培されていた可能性が高く、食料や木材として利用されました。
また、世界規模の気候変動や環境の変化、大規模な火山活動や地震・津波などの自然災害もありましたが、人々は、このような環境にも巧みに適応し克服してきました。
縄文文化は、自然に大きな負荷を与えず持続可能な資源利用により生業を維持し、環境に巧みに適応したことで長期間継続しました、それを支えたのは自然との共生であり、後の日本人の自然観や世界観、価値観などの形成にも影響を与え、日本文化の基層となりました。
【縄文から現代へ】
縄文文化は、日本列島で本格的な稲作が始まる弥生文化の成立まで1万年以上続きました。それは停滞でも未発達でもなく、優れた技術と豊かな精神世界を持った成熟した社会でした。
また、縄文人は、現代人の直接の先祖であり、縄文文化の延長上に現代の生活が成り立っていると言っても過言ではありません。自然の豊かな恵みを暮らしに取り入れてきた知恵と技術、そして自然とともに生き、家族や仲間を大切に思う心により育まれた縄文文化を、現代に生きる私たちが誇りとして受け継ぎ、未来へ伝えていく事が大切です。
三内丸山遺跡の駐車場と縄文時遊館
時遊館からの道
海へ続く東西の道と近野ムラに向かう道が確認されています。東西の道は、420m以上も続き、両側の路肩の部分には大人の墓である土坑墓が配置されています。南北の道では西側を中心に、環状配石墓が20基以上並んでいます。これらの大規模な道は現代と違い地面を掘って作られており、浅い溝のように見えます。道が作られたのは、縄文時代前期末頃から中期後半にかけてで、三内丸山ムラがもっとも繁栄する時代で、集落づくりの上でも重要な施設であったと考えられます。


特別史跡三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期にかけて(約5500年前~約4000年前)、長期間継続した大規模な集落跡です。1992年から発掘調査が行われ、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人と子供の墓、盛土、大型掘立柱建物跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、道路跡などが見つかり、集落の様子と当時の環境が明らかになりました。また、膨大な量の土器、石器、土偶、土・石製品、掘り棒などの木製品、漆器、縄文ポシェットと編布、骨角器などが出土し、他地域から持ち込まれたヒスイや黒曜石なども見つかっています。
2000年(平成12年)11月に国の特別史跡に指定されました。

大型掘立柱建物(左)地面に大きな柱穴を掘り、柱を立てた構造の建物を掘立柱建物と言います。6個の柱穴が3個づつ2列に、等間隔で並んでいて、平面形が長方形の大型の高床建物と考えられます。柱穴は直径が約2m、深さが2mを越える、非常に大型のものです。この柱穴の中に直径約1mのクリの太い柱がそのままで残っていました。この場所は地下水位が高く、クリは丈夫な木であり、さらには底と周りを焦がしているので、腐らないで残っていたようです。
焦がすと腐りにくいということを縄文人は知っていたのかもしれません。柱と柱の間隔は4.2mと一定です。このムラでは大型の建物は35cmの倍数の間隔で柱を立てているようです。縄文時代にも、長さの単位、尺度のようなものがあったのではないかと考えています(縄文尺)。
これだけの大型の建物ですから大人数で。しかも共同作業で建てられたことが明らかで、このような作業ができるような社会組織、技術、人口があったことがわかります。
大型竪穴住居(右)長さが10mを超えるものを大型住居と呼んでいます。大型竪穴住居は、ムラの中心部分から見つかったことから、ムラ全体に必要な施設、公共の施設と考えられます。集会所、コミュニティーセンター、共同作業所、冬の間の共同住宅、結婚前の若者が集団生活を送る若者宿、劇場など様々な説があります。
このような大きな建物を造る時には大勢の人々による共同作業で、専門的な技術を持った人達の指導の下に建てられた可能性が考えられます。

縄文尺を使った高床建物・掘立柱建物
縄文人たちの家は竪穴住居です。地面を掘り下げた半地下式の竪穴(式)住居が数多くみつかりました。竪穴住居は平面型が円形や楕円形で、床のほぼ中央には炉が作られており、土器を埋めたものや石で囲んだもの、土器の破片を敷いたものなど、様々な種類があります。炉の位置や構造も時代によって変化します。屋根を支える柱も2本、4本、6本など本数や配置の違いが見られます。屋根は垂木が直接地面に降りる伏屋(ふせや)と呼ばれる円錐形のものと考えられます。住居の床面積は10㎡程度の、小型の住居が多く、この家に約4~5人くらいが住んでいたと考えられます。同時代の住居はほぼ同じ大きさですので、生活の単位が夫婦ないしは家族であったことが想像されます。このような竪穴住居はこれまでの発掘調査で約800棟程見つかっています。

盛土 北・南・西の盛土が見つかっています。北盛土は、遺跡の中でも周りよりも少し高い、こんもりとした丘になっています。竪穴住居や大きな柱穴を掘った時の残土や排土を、同じ場所に長い間、継続して捨てています。そして普段使っている生活の廃棄物、ゴミも捨てたようです。同じ場所で約1000年もの長い間繰返したので、この場所が廻りより少し高くなりました。





北海道南部から東北地方北部では、縄文時代前期中頃から中期中頃にかけて(5500年前~4500年前)、筒形をした土器がたくさん作られました。このような土器を円筒土器と呼んでいます。これまでの発掘調査でダンボール箱で4万箱以上出土し、復元したものは6800個体以上あります。土器の発明により煮炊きが可能になりました。またこれらは簡単に持ち運びができないことから貯蔵用に使われたり、外側や内側に赤い色が残り赤く塗られていたものもあり、特別な場合に使われたものと考えられています。

現代生活の中にその起源が縄文時代にまで遡って考えることができるものがいくつもあります。縄文文化は日本の基層文化であるということができます。自然とともに生きた縄文人の暮らしから学ぶこと考えさせられることが多くありました。
【三内丸山遺跡】青森市大字三内字丸山293(展示室)
日本を代表する縄文遺跡です。青森市の郊外に位置し、標高約20mの台地上にあります。北側には沖館川が流れ、南側には遠く八甲田連峰を望むことができます。遺跡の面積は35haと広大です。平成4年、県営野球場建設に先立ち、大規模な発掘調査が始まり、調査の結果、縄文時代前期から中期にかけて(約5500~4000年前)長期間継続した、大規模な集落跡であることが判明しました。
五郎山古墳館からの帰り際に、係りの方から筑紫野市教育委員会が出稿してる「ちくしの散歩」という冊子を頂きました。
何枚か戴いた中に筑紫野の「旧石器時代」というのがあり、現在読書中の〝「黒曜石 3万年の旅」堤 隆著 NHKBOOKS〟に関連性もあり黒曜石の部分を抜き出してみました。
・・・火山によって生み出された天然ガラスである黒曜石は、半透明もしくは漆黒のツヤをみせ、打ち欠くと現代のカッターナイフにも増して鋭いエッヂが残される。どんな石より切れ味のいい黒曜石の性質を、先史人は決して見逃すことはなかった。
火山国である日本列島には。北海道から九州まで数多くの黒曜石原産地が存在する。代表的な産地には、北海道の白滝、信州の和田峠、太平洋沖の神津島、島根の隠岐島、九州の姫島・腰岳などがある。それぞれの原産地の姿とは、そして各原産地の黒曜石資源開発はいかになされてきたのか。
後期旧石器時代において黒曜石は、ナイフ形石器や細石刃など、狩の槍さきの鋭い刃として用いられた。・・・
放射化分析(放射性同位元素を利用した分析方法のひとつ)や蛍光X線分析など近年の理化学的分析によると、産地ごとに異なる黒曜石の元素組成によって、遺跡から出土した黒曜石の産地を突き止めることが可能となった。この原産地同定によると、信州の和田峠原産地の黒曜石が、すでに3万年前の後期旧石器時代初頭から、100㎞以上もの距離を越え関東地方まで持ち運ばれていることが分かっている。黒曜石を動かす背景には、どのような人間行動が隠されているのだろうか。
旧石器時代
旧石器時代とは人類が「ヒト」への道筋を辿り始めた時から、数百万年をかけて、遊動住、狩猟、採集という生活を抜け出すまでの人類史上もっとも長い時代を指しています。年代はさまざまな見解がありますが、最近の研究では約400万年前から約1万年前までの期間となっています。
日本の旧石器時代遺跡を探求する上で残念なことは、石器や遺跡はたくさん見つかりますが、日本は代表的な火山国の為に、火山から噴出された火砕流や火山灰は極めて高い酸性が強く人骨が残らない事です。これまで日本で発見された旧石器時代の化石人骨は酸性の低い石灰岩地帯からほんの僅かが見つかっているだけです。人骨が見つかれば、どこから日本にやって来た人か、どんな体系、生活をしていたのかを解く鍵となります。
石器から分かることは主に狩猟生活に関わることです。多くの石器は割れ口が鋭利となる黒曜石やサヌカイトなどを用いています。
●相沢忠洋
生年月日:1926年6月21日
死没:1989年5月22日 (62歳)
相沢 忠洋は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。Wikipedia
研究分野ー考古学
主な業績岩ー宿遺跡の発見により日本列島の旧石器時代の存在を立証
影響を受けた人ー物芹沢長介、杉原荘介
主な受賞ー歴群馬県功労賞、吉川英治賞
● 黒曜石
ガラス質の火山岩。黒色または暗灰色,時に赤褐色。割れ目は貝殻状を示す。流紋岩質や安山岩質のマグマが冷えて固まったもの。先史時代には石器に使用された。近年は焼いて粉末にし,断熱材に利用する。十勝石など。黒曜岩。
●サヌカイト(Sanucite)
讃岐地方で最も多く産出することから「讃岐石(サヌカイト)」と呼ばれる岩石で、
叩くと「カンカン」と良い音で響くことから「カンカン石」とも呼ばれています。
サヌカイトは安山岩の一種で、瀬戸内地域の火山活動によってマグマが流出し、
それが冷え固まってできた岩石です。
叩いた時の美しい音色から楽器として利用されることもあり、旧石器時代には
石器の材料としても利用されました。
讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる。
人間の条件・・道具製作・言語の使用・直立二足歩行
●考古学者ケネス・P・オークリー 〝man the tool-maker〟〝道具製作者としての人間〟人間は「文化」すなわち道具を作り、思想を伝達する能力により特徴付けられた社会的動物である
●人類学者ジェーン・クドール(女性)1960年アフリカ・タンガニイカ湖畔でチンパンジーが植物の茎を使って細い竿を作りシロアリ釣りをしているところを発見「道具を作って使用」
氷河期が終わり、温暖化とともに新たな縄文時代が始まった。土器を生みだし、遊動から定住へと生活も大きく変化した。本格的な灌漑農耕が列島に定着するまでの1万年間以上、自然とともに生きる縄文文化は続きました。
氷河期が終わって暖かくなり、ほぼ現在と同じ自然環境下で、列島全体に似通った形質を持った縄文人が縄文土器とやや遅れて石鏃や釣針、石皿、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)、磨製石斧を普及させた。これらの天然素材の道具を用いて豊かな森や内湾などの環境に働きかけて、植物質食糧を主体とした採集、沿岸では漁労、そして狩猟などによる生業を営み、食料の貯蔵や保存加工によって食生活を安定させた。定住生活を送り、土坑墓に屈葬する埋葬を基本とした集団墓地を営み、各種の儀礼や送りなど共通の精神世界を形成した。世界史的に見れば東アジアの東端の島に発達した独特な先史時代であった。
縄文文化は、南の九州(沖縄本島まで含める意見もある)から北の北海道までのほぼ日本列島全域に及ぶ。さらに地形や植生、集落の規模や諸施設の在り方、土器の特徴などから見て、東海から北陸以北の東半と、それより南にほぼ二分される。つまり、地形的には大地溝帯を境に西と東の二つのプレートに分かれ、植生において西は温帯の照葉樹林帯が広がる。本州の東から北海道南部には堅果類の豊かな温帯の落葉広葉樹林帯が広がり、さらに北の北海道北半は亜寒帯の常緑針葉樹林帯となる。
縄文生活に大きな意味を持っていたクリ、イノシシは 北海道には生育していなかったが、ヒグマが生息しアシカ、オットセイなどの海獣類やサケ類は豊富であり、このような動植物相は生業を大きく規定していたと考えられる。ただし、北海道南部と東北地方北部は土器の特色などの共通性を持ち、文化的に津軽海峡は大きな障害とはならなかった。また、全国の沿岸は豊かな漁場となったが、太平洋岸は内湾が発達し、黒潮暖流が東北中部で寒流と接して大漁場を作っていた。
集落及び集落と考えられる遺跡が、全国で約9万4千カ所存在すると推定され、約85%が東日本に存在している。逆に西日本には、草創期から早期の南九州と後期後半から晩期の九州全体にやや遺跡が目立つものの、全体的に少数であり、約15%にすぎない。また、多くが集落である縄文時代の貝塚は全国に約2500カ所存在するが、東日本で約2100カ所、西日本には約400カ所が確認されるだけである。尚貝塚は、深い砂浜で内湾が発達しない日本海側にはいたって少ない。このような東日本の優位性は、落葉広葉樹林帯の豊富な堅果類と鳥獣、北海道から東北地方南部、北部までのサケ類の多量遡上など、縄文的な生業に適した環境に支えられていたと考えられる。さらに両地域内には土器の文様や形、墓制、祭祀などの類似性による各地域圏がある。(公式テキスト大規模な記念物BOOK The縄文)より
縄文文化について 北海道・北東北の縄文遺跡群の関係自治体リーフレットより
世界に先駆けて土器が出現するとともに安定して暮らせるムラも形成されました。
1万年以上もの長期にわたり持続可能な社会を形成した日本特有の先史文化です。
本格的な農耕と牧畜を選択することなく、狩猟、採集、漁労を生業の基盤として定住を達成し協調的な社会を作り上げた。
※長期間継続した縄文文化は、世界の他の地域における新石器文化とは全く異なるものであり。人類史にとって極めて重要な文化です。
【定住の達成】
自然環境に適応した道具を発明し、狩猟・採集・漁労による生業を営む人々の暮らしは次第に定住へと変化し、竪穴建物が建ち、やがて生活の拠点であるムラが出現しました。ムラの中には住居や墓が作られ、地域を代表するような拠点的なムラも現れました。太い柱を使った大型の建物やまつりの場所である盛り土などの施設、大規模な記念物である環状列石(ストーンサークル)も登場しました。
ムラの周りには防御用の溝や棚などはなく、温和で協調的な社会が築かれました。また、海や山を越えた遠方との交流・交易も活発に行われ、ヒスイやアスファルト、黒曜石が運ばれました。漆器や装身具類も発達し、まつりに使われる土偶もたくさん作られ、人々は豊かな精神世界を持っていたことがわかります。
【自然との共生】
縄文文化が営まれた時代、北海道・北東北ではブナを中心とする落葉広葉樹の森が広がっていました。生物多様性に恵まれた生態系に適応し、豊富な森林資源や水産資源など多種多様な資源を持続的に利用することで縄文文化は1万年以上も長きにわたり継続・発展しました。
ムラのまわりには、クリやクルミ、ウルシなどの多くの有用植物が栽培された「縄文里山」と呼ばれる人為的生態系も成立し、中でもクリは管理・栽培されていた可能性が高く、食料や木材として利用されました。
また、世界規模の気候変動や環境の変化、大規模な火山活動や地震・津波などの自然災害もありましたが、人々は、このような環境にも巧みに適応し克服してきました。
縄文文化は、自然に大きな負荷を与えず持続可能な資源利用により生業を維持し、環境に巧みに適応したことで長期間継続しました、それを支えたのは自然との共生であり、後の日本人の自然観や世界観、価値観などの形成にも影響を与え、日本文化の基層となりました。
【縄文から現代へ】
縄文文化は、日本列島で本格的な稲作が始まる弥生文化の成立まで1万年以上続きました。それは停滞でも未発達でもなく、優れた技術と豊かな精神世界を持った成熟した社会でした。
また、縄文人は、現代人の直接の先祖であり、縄文文化の延長上に現代の生活が成り立っていると言っても過言ではありません。自然の豊かな恵みを暮らしに取り入れてきた知恵と技術、そして自然とともに生き、家族や仲間を大切に思う心により育まれた縄文文化を、現代に生きる私たちが誇りとして受け継ぎ、未来へ伝えていく事が大切です。
特別史跡三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期にかけて(約5500年前~約4000年前)、長期間継続した大規模な集落跡です。1992年から発掘調査が行われ、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人と子供の墓、盛土、大型掘立柱建物跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、道路跡などが見つかり、集落の様子と当時の環境が明らかになりました。また、膨大な量の土器、石器、土偶、土・石製品、掘り棒などの木製品、漆器、縄文ポシェットと編布、骨角器などが出土し、他地域から持ち込まれたヒスイや黒曜石なども見つかっています。
2000年(平成12年)11月に国の特別史跡に指定されました。
焦がすと腐りにくいということを縄文人は知っていたのかもしれません。柱と柱の間隔は4.2mと一定です。このムラでは大型の建物は35cmの倍数の間隔で柱を立てているようです。縄文時代にも、長さの単位、尺度のようなものがあったのではないかと考えています(縄文尺)。
これだけの大型の建物ですから大人数で。しかも共同作業で建てられたことが明らかで、このような作業ができるような社会組織、技術、人口があったことがわかります。
このような大きな建物を造る時には大勢の人々による共同作業で、専門的な技術を持った人達の指導の下に建てられた可能性が考えられます。
盛土 北・南・西の盛土が見つかっています。北盛土は、遺跡の中でも周りよりも少し高い、こんもりとした丘になっています。竪穴住居や大きな柱穴を掘った時の残土や排土を、同じ場所に長い間、継続して捨てています。そして普段使っている生活の廃棄物、ゴミも捨てたようです。同じ場所で約1000年もの長い間繰返したので、この場所が廻りより少し高くなりました。
北海道南部から東北地方北部では、縄文時代前期中頃から中期中頃にかけて(5500年前~4500年前)、筒形をした土器がたくさん作られました。このような土器を円筒土器と呼んでいます。これまでの発掘調査でダンボール箱で4万箱以上出土し、復元したものは6800個体以上あります。土器の発明により煮炊きが可能になりました。またこれらは簡単に持ち運びができないことから貯蔵用に使われたり、外側や内側に赤い色が残り赤く塗られていたものもあり、特別な場合に使われたものと考えられています。

現代生活の中にその起源が縄文時代にまで遡って考えることができるものがいくつもあります。縄文文化は日本の基層文化であるということができます。自然とともに生きた縄文人の暮らしから学ぶこと考えさせられることが多くありました。
【三内丸山遺跡】青森市大字三内字丸山293(展示室)
日本を代表する縄文遺跡です。青森市の郊外に位置し、標高約20mの台地上にあります。北側には沖館川が流れ、南側には遠く八甲田連峰を望むことができます。遺跡の面積は35haと広大です。平成4年、県営野球場建設に先立ち、大規模な発掘調査が始まり、調査の結果、縄文時代前期から中期にかけて(約5500~4000年前)長期間継続した、大規模な集落跡であることが判明しました。
この記事は読売新聞9月10日朝刊にあったものです。今年の初めごろから産総研は甲佐町白旗山出をかわきりに益城町寺迫や宇城市小川町などいくつかの熊本地震に関係する断層のトレンチを行って調査を続けています。今年2月には産総研が甲佐町白旗山出のトレンチを公開しましたので朝早くから見学に行ったことを覚えています。その時のブログから写真を少しとり出しました。






大地震発生「3000年に1度」 産総研発表確率上がる見通し日奈久断層帯「日奈久区間」
昨年4月の熊本地震を引き起こした活断層につながり、昨年の地震では動かなかった断層区間で、約3000年に1度の間隔で大地震が繰り返し起こっていたとの調査結果を、産業技術総合研究所の研究チームが8日に発表した。
同研究所の宮下由香里・活断層評価研究グループ長は「今後も注意が必要だ」と警戒を促している。
大地震が繰り返し起きていたのは、熊本県 益城 ましき 町から八代海に至る 日奈久 ひなぐ 断層帯(約81キロ・メートル)のうち、同県 宇城 うき 市と芦北町の間の「日奈久区間」(約40キロ・メートル)。その北東につながる「高野―白旗区間」(約16キロ・メートル)は、昨年4月14日にマグニチュード(M)6・5の前震を引き起こした。
同研究所が日奈久区間を掘削して地層を調べたところ、約1万8000年前から現在までに6回、大地震で地層がずれた痕跡を確認した。最新の痕跡は約1900~1100年前で、地震の規模はいずれもM7級の可能性があるという。
日奈久区間はこれまで、約3万5000年前から少なくとも3回ほど大地震があったとされ、政府はこれをもとに、今後30年間の地震発生確率を「ほぼ0~6%」と見積もっていた。今回の調査で、より頻繁に大地震が起っていたことが分かったため、確率が見直される見通しだ。

地震の発生確率が変わるって大変な作業を要して変わるんですね。






大地震発生「3000年に1度」 産総研発表確率上がる見通し日奈久断層帯「日奈久区間」
昨年4月の熊本地震を引き起こした活断層につながり、昨年の地震では動かなかった断層区間で、約3000年に1度の間隔で大地震が繰り返し起こっていたとの調査結果を、産業技術総合研究所の研究チームが8日に発表した。
同研究所の宮下由香里・活断層評価研究グループ長は「今後も注意が必要だ」と警戒を促している。
大地震が繰り返し起きていたのは、熊本県 益城 ましき 町から八代海に至る 日奈久 ひなぐ 断層帯(約81キロ・メートル)のうち、同県 宇城 うき 市と芦北町の間の「日奈久区間」(約40キロ・メートル)。その北東につながる「高野―白旗区間」(約16キロ・メートル)は、昨年4月14日にマグニチュード(M)6・5の前震を引き起こした。
同研究所が日奈久区間を掘削して地層を調べたところ、約1万8000年前から現在までに6回、大地震で地層がずれた痕跡を確認した。最新の痕跡は約1900~1100年前で、地震の規模はいずれもM7級の可能性があるという。
日奈久区間はこれまで、約3万5000年前から少なくとも3回ほど大地震があったとされ、政府はこれをもとに、今後30年間の地震発生確率を「ほぼ0~6%」と見積もっていた。今回の調査で、より頻繁に大地震が起っていたことが分かったため、確率が見直される見通しだ。

地震の発生確率が変わるって大変な作業を要して変わるんですね。
朝から手荷物を持って八高へ向かう父兄の姿を見かけました。やっぱり今日が運動会なんだ。ちょっと覗いてみました。『鳳雛祭』の看板が入口の横に遠慮したかのように置かれています。校舎の所々に昼食時の場所取りも見かけられます。それぞれの子供たちに青春の良き思い出が残ればいいなと思いました。

鳳雛祭・ほうすうさいと読むそうです。体育の部、文化の部などがあり、今日の運動会は昨日が準備そして一昨日が予行演習と3日間かけて行われています。中高一貫教育校として鳳雛祭は大事な行事として毎年行われています。息子が卒業して約30年になりますが、鳳雛祭も知らなかったなんておやじ失格だな。