いつの世も家族をめぐる争い事は絶えないようです。
そうだったのか‼八代 -26-に細川三斎の晩年の様子が詳しく説明がありました。以下新聞より・・
1632(寛永9)年から八代城主を務めた細川三斎は、1645(正保2)年、波乱に満ちた83歳の生涯を閉じました。そしてこれを機に、「ポスト八代城主」を誰にするかが問題となります。
実は晩年の三斎はかなりの野心家で、溺愛する四男の立孝(たつたか)に八代城を譲り、八代を「藩」として独立させようと考えていました。ところが立孝は1645年、三斎より先に病没。すると今度は、立孝の子・宮松(みやまつ・当時9歳、後の行孝・ゆきたか)に八代城主を継がせようともくろみますが、その最中に三斎自身が亡くなってしまったのです。
この様な晩年の三斎の動きは、当然のことながら幕府にいい印象を与えるはずもなく、当時の藩主・細川光尚・みつなお(三斎の孫)は「祖父のわがまま」への対応に苦慮していました。そして三斎の死をきっかけに、光尚は三斎の「ポスト八代城主」構想を白紙に戻し、三斎が後継としていた宮松には、分家(支藩)を立てさせることで処遇に決着をつけています。
こうしたドタバタ劇に終止符を打つべく、光尚が新城主として白羽の矢をたてたのが、筆頭家老の松井興長・おきなが・です。
信頼抜群の家老が城主に
興長は若い頃から細川家に仕え、肥後入国から統治体制の確立、天草・島原の乱など、あらゆる局面で細川家を支えてきた実績十分の大ベテラン。さらに光尚が重視したのが、松井家が幕府から与えられている抜群の信頼でした。その信頼の原点は興長の父 康之・やすゆき の功績に有ります。康之ははじめ足利義輝に仕え、その後、細川藤孝・ふじたか(幽斎)と行動を共にし、重臣として細川家の勢力拡大を支えた人物。そのあまりに有能な働きぶりは豊臣秀吉の目にも留まり、秀吉から山城国神童子村(現京都府木津川市)・八瀬村(現京都市左京区)に知行地(計173石余)を与えられました。そしてこの権利は江戸幕府にも引き続き認められることとなり、松井家は細川家の家来でありながら、徳川家からも代々知行地を与えられるという特別な地位を確立していたのです。「松井家先祖由来附」という江戸時代の記録によれば、光尚は幕府に対し、松井興長の八代城主就任の許可を求める理由として、松井家が細川家に忠節を尽くす「永久の家筋」であること、さらに「公儀(幕府)より御知行」を与えられている家柄であることの2点を主張しています。
もともと八代城は、地理上の重要防衛拠点として幕府が特別に存続を認めた城。ですので、光尚は「特別な」八代には、幕府からの信頼も抜群の「特別な」人物を配するのがベストと考えたのではないでしょうか。
結果として幕府も松井家が適任と判断し、1646(正保3)年、松井興長が八代に入城。これ以降、明治に至るまで、松井家の歴代当主が八代城主を務めることとなった。
以上八代市立博物館 学芸係長 鳥津亮二さんの記事です。
現在の松江城(八代城) 細川家から松井家に受け継がれたいきさつ良く解りました。

八代市指定史跡
細川三斎荼毘所の甘棠園(かんとうえん)・細川幽斎菩提所の泰勝院跡・織田信長菩提所の泰巌寺跡
八代市教育委員会の説明書には、八代市立第一中学校一帯は、八代城北の丸の外堀に面し、八代城に居城した細川氏・松井氏ゆかりの寺院があったところです・・・三斎が八代城に入城した寛永9年(1632)から松井氏が受け継ぎ八代を統治した頃の寺院の移り変わりが詳しく記されています。
そうだったのか‼八代 -26-に細川三斎の晩年の様子が詳しく説明がありました。以下新聞より・・
1632(寛永9)年から八代城主を務めた細川三斎は、1645(正保2)年、波乱に満ちた83歳の生涯を閉じました。そしてこれを機に、「ポスト八代城主」を誰にするかが問題となります。
実は晩年の三斎はかなりの野心家で、溺愛する四男の立孝(たつたか)に八代城を譲り、八代を「藩」として独立させようと考えていました。ところが立孝は1645年、三斎より先に病没。すると今度は、立孝の子・宮松(みやまつ・当時9歳、後の行孝・ゆきたか)に八代城主を継がせようともくろみますが、その最中に三斎自身が亡くなってしまったのです。
この様な晩年の三斎の動きは、当然のことながら幕府にいい印象を与えるはずもなく、当時の藩主・細川光尚・みつなお(三斎の孫)は「祖父のわがまま」への対応に苦慮していました。そして三斎の死をきっかけに、光尚は三斎の「ポスト八代城主」構想を白紙に戻し、三斎が後継としていた宮松には、分家(支藩)を立てさせることで処遇に決着をつけています。
こうしたドタバタ劇に終止符を打つべく、光尚が新城主として白羽の矢をたてたのが、筆頭家老の松井興長・おきなが・です。
信頼抜群の家老が城主に
興長は若い頃から細川家に仕え、肥後入国から統治体制の確立、天草・島原の乱など、あらゆる局面で細川家を支えてきた実績十分の大ベテラン。さらに光尚が重視したのが、松井家が幕府から与えられている抜群の信頼でした。その信頼の原点は興長の父 康之・やすゆき の功績に有ります。康之ははじめ足利義輝に仕え、その後、細川藤孝・ふじたか(幽斎)と行動を共にし、重臣として細川家の勢力拡大を支えた人物。そのあまりに有能な働きぶりは豊臣秀吉の目にも留まり、秀吉から山城国神童子村(現京都府木津川市)・八瀬村(現京都市左京区)に知行地(計173石余)を与えられました。そしてこの権利は江戸幕府にも引き続き認められることとなり、松井家は細川家の家来でありながら、徳川家からも代々知行地を与えられるという特別な地位を確立していたのです。「松井家先祖由来附」という江戸時代の記録によれば、光尚は幕府に対し、松井興長の八代城主就任の許可を求める理由として、松井家が細川家に忠節を尽くす「永久の家筋」であること、さらに「公儀(幕府)より御知行」を与えられている家柄であることの2点を主張しています。
もともと八代城は、地理上の重要防衛拠点として幕府が特別に存続を認めた城。ですので、光尚は「特別な」八代には、幕府からの信頼も抜群の「特別な」人物を配するのがベストと考えたのではないでしょうか。
結果として幕府も松井家が適任と判断し、1646(正保3)年、松井興長が八代に入城。これ以降、明治に至るまで、松井家の歴代当主が八代城主を務めることとなった。
以上八代市立博物館 学芸係長 鳥津亮二さんの記事です。
現在の松江城(八代城) 細川家から松井家に受け継がれたいきさつ良く解りました。

八代市指定史跡
細川三斎荼毘所の甘棠園(かんとうえん)・細川幽斎菩提所の泰勝院跡・織田信長菩提所の泰巌寺跡
八代市教育委員会の説明書には、八代市立第一中学校一帯は、八代城北の丸の外堀に面し、八代城に居城した細川氏・松井氏ゆかりの寺院があったところです・・・三斎が八代城に入城した寛永9年(1632)から松井氏が受け継ぎ八代を統治した頃の寺院の移り変わりが詳しく記されています。
Posted by マー君 at
13:21
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10月16日?の西日本新聞 そうだったのか‼八代ー 25 -に 八代焼の記事がありました。象嵌の裏に三斎の美意識・・こんな見出しで始まっていました。記事を読んで平山窯跡を訪ねてみました。現在はミカン畑の片隅に標識が立っているだけで史跡の保存状態は非常に悪い状態です。三斎や喜蔵が見れば悲しみそうな荒れようです。残念です。

【八代焼】のはじまり
文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い小倉藩主細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた。寛永10年(1633年)、忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼(八代焼)の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された。明治25年(1892年)、窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移した。
初期は上野焼の手法を用いていたが、後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている。
[白土象嵌]・・高田焼は一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる。
【上野喜蔵】について・・秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)では数多くの優れた技術者が朝鮮半島から日本に連れてこられました。特に焼き物の技術者は数多く、高田焼の祖、尊楷も朝鮮半島の慶尚道泗川県の十時郷から連れてこられた陶工のひとりです。尊楷は最初唐津に落ち着きますが、一度本国に帰り、高麗焼きの技法を更に高め再び日本にやってきます。その技量をかわれ、当時豊前を領していた細川忠興に召し抱えられ、豊前国上野(あがの 現福岡県田川郡)に窯を築き、上野焼を興し、名前も上野喜蔵と改めました。寛永9(1632)年、細川氏の肥後入国に伴い喜蔵は二子を連れ、肥後に入国し、高田手長(こうだてなが)の木下谷(きくだしだに 現八代市奈良木町)に窯を築きます。これが高田焼の始まりです。万治元(1658)年、喜蔵の長男の代になり窯を平山(元八代市平山新町)に移します。その後上野家は三家に分かれ明治に至るまで藩の御用窯として発展しました。青磁に精緻な象嵌をほどこした作風は喜蔵の祖国高麗の伝統を感じさせます。
平山窯は明治24年まで操業の記録が残されています。窯は斜面に築かれた8連房の登窯で、全長約18.8mあり、県内近世陶磁器窯跡としては最も残りのよいものの一つとして昭和38年県指定史跡になっています。窯の上方30mほど行ったところに喜蔵の墓が残されています。今も高田焼の伝統を受け継ぎ盛んに制作活動を続けている窯元が八代市の日奈久に1軒、宮原町に1軒あります。
高田焼は八代焼、平山焼とも呼ばれ、南関の小代焼とともに肥後の代表的な近世陶器です。
八代焼(やつしろやき)は、400年の歴史を持つ肥後熊本を代表する陶磁器です。その創始期には、茶道の大成者千利休に教えを受けた大名茶人細川三斎(ほそかわさんさい・茶道の流派三斎流の開祖)の指導を受け、肥後細川藩の御用窯(ごようがま)として、江戸時代を通してすぐれた茶器や日用の器を焼き続けました。窯の置かれた場所の地名から高田焼(こうだやき)の名でも親しまれています。江戸時代の中期、18世紀の中頃には象嵌が特に発達、江戸時代の後期になると八代焼の象嵌は全国的に有名でした。
1640年(寛永17)に三斎は春日局の子・稲葉正利に「爰元(ここもと)にて焼き申し候茶碗一ツ」を贈っています。このときの正利への手紙の中で「この茶碗ならきっと満足なさることでしょう」と述べています。春日局は3代将軍徳川家光の乳母(めのと) 以上の事から当時の八代焼きが利休の高弟である細川三斎も納得し、貴人にも贈れるほどの茶器を生産するレベルにあったと言う事だと思われます。
八代焼は肥後熊本を代表する伝統工芸品の一つです。天下の茶人としての三斎の情熱がつたわる焼物です。

クリックすると文字が読めます。

【八代焼】のはじまり
文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い小倉藩主細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた。寛永10年(1633年)、忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼(八代焼)の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された。明治25年(1892年)、窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移した。
初期は上野焼の手法を用いていたが、後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている。
[白土象嵌]・・高田焼は一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる。
【上野喜蔵】について・・秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)では数多くの優れた技術者が朝鮮半島から日本に連れてこられました。特に焼き物の技術者は数多く、高田焼の祖、尊楷も朝鮮半島の慶尚道泗川県の十時郷から連れてこられた陶工のひとりです。尊楷は最初唐津に落ち着きますが、一度本国に帰り、高麗焼きの技法を更に高め再び日本にやってきます。その技量をかわれ、当時豊前を領していた細川忠興に召し抱えられ、豊前国上野(あがの 現福岡県田川郡)に窯を築き、上野焼を興し、名前も上野喜蔵と改めました。寛永9(1632)年、細川氏の肥後入国に伴い喜蔵は二子を連れ、肥後に入国し、高田手長(こうだてなが)の木下谷(きくだしだに 現八代市奈良木町)に窯を築きます。これが高田焼の始まりです。万治元(1658)年、喜蔵の長男の代になり窯を平山(元八代市平山新町)に移します。その後上野家は三家に分かれ明治に至るまで藩の御用窯として発展しました。青磁に精緻な象嵌をほどこした作風は喜蔵の祖国高麗の伝統を感じさせます。
平山窯は明治24年まで操業の記録が残されています。窯は斜面に築かれた8連房の登窯で、全長約18.8mあり、県内近世陶磁器窯跡としては最も残りのよいものの一つとして昭和38年県指定史跡になっています。窯の上方30mほど行ったところに喜蔵の墓が残されています。今も高田焼の伝統を受け継ぎ盛んに制作活動を続けている窯元が八代市の日奈久に1軒、宮原町に1軒あります。
高田焼は八代焼、平山焼とも呼ばれ、南関の小代焼とともに肥後の代表的な近世陶器です。
八代焼(やつしろやき)は、400年の歴史を持つ肥後熊本を代表する陶磁器です。その創始期には、茶道の大成者千利休に教えを受けた大名茶人細川三斎(ほそかわさんさい・茶道の流派三斎流の開祖)の指導を受け、肥後細川藩の御用窯(ごようがま)として、江戸時代を通してすぐれた茶器や日用の器を焼き続けました。窯の置かれた場所の地名から高田焼(こうだやき)の名でも親しまれています。江戸時代の中期、18世紀の中頃には象嵌が特に発達、江戸時代の後期になると八代焼の象嵌は全国的に有名でした。
1640年(寛永17)に三斎は春日局の子・稲葉正利に「爰元(ここもと)にて焼き申し候茶碗一ツ」を贈っています。このときの正利への手紙の中で「この茶碗ならきっと満足なさることでしょう」と述べています。春日局は3代将軍徳川家光の乳母(めのと) 以上の事から当時の八代焼きが利休の高弟である細川三斎も納得し、貴人にも贈れるほどの茶器を生産するレベルにあったと言う事だと思われます。
八代焼は肥後熊本を代表する伝統工芸品の一つです。天下の茶人としての三斎の情熱がつたわる焼物です。

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09:29
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霜降(そうこう)は、二十四節気の第18 寒露 → 霜降 → 立冬 10月23日頃(2013年は10月23日)。および立冬までの期間。 太陽黄径210度。寒露から数えて15日目頃。霜が降りるころの季節という意味である。朝夕の気温が下がり,霜の降り始める頃。九月中気。
秋が一段と深まり、朝霜が見られる頃。朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感できます。初霜の知らせが聞かれるのも大体この頃で、山は紅葉で彩られます。
【 霜が降りる気温 】
霜が降りるには、その周辺の温度が0℃以下であることが条件ですが、気象庁で発表される気温は地上から1.5mの高さで観測しますので、気温が3℃と発表されていても、地面の温度は0℃以下になっていることもあります。
農業はもちろん、花や植物の栽培にも霜は要注意。天気予報で予想気温が3~4℃であっても霜対策をしておいた方がいいようです。
「竜胆(りんだう)は枝さしなどもむつかしげなれど、こと花はみな霜枯れはてたるに、いと花やかなる色合ひにてさし出(い)でたる、いとをかし」と、『枕草子(まくらのそうし)』に描写されている。この花が日本史に初めて登場するのは、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』(733)です。霜降の時期に咲く花が我が家にも咲いています。

秋が一段と深まり、朝霜が見られる頃。朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感できます。初霜の知らせが聞かれるのも大体この頃で、山は紅葉で彩られます。
【 霜が降りる気温 】
霜が降りるには、その周辺の温度が0℃以下であることが条件ですが、気象庁で発表される気温は地上から1.5mの高さで観測しますので、気温が3℃と発表されていても、地面の温度は0℃以下になっていることもあります。
農業はもちろん、花や植物の栽培にも霜は要注意。天気予報で予想気温が3~4℃であっても霜対策をしておいた方がいいようです。
「竜胆(りんだう)は枝さしなどもむつかしげなれど、こと花はみな霜枯れはてたるに、いと花やかなる色合ひにてさし出(い)でたる、いとをかし」と、『枕草子(まくらのそうし)』に描写されている。この花が日本史に初めて登場するのは、『出雲国風土記(いずものくにふどき)』(733)です。霜降の時期に咲く花が我が家にも咲いています。


10月15~21日新聞週間 西日本新聞社会面の 新聞だからこそ のコラムの中に 異議ありおかしなルールと言う記事がありました。やりたい放題の立法の議員に一矢を報いる新聞のお手柄をアピールする記事です。新聞週間の目的が読者に新聞の重要性を知らせ、新聞と読者との結び付きを強化すること ですので、その一例を示したものと解釈しました。その内容とは・・
公金である政務調査費で賄われた、ある熊本県議の一泊4433円の宿泊費。〝宿泊先〟は自身のマンションだった。適正な支出かを問うと、こんな答えが返ってきた。「郡部選出だから、熊本市の事務所としてマンションを使っている。議員でなければ購入する必要はなかった。償却費の一部と考えている」熊本県議会は、議員が視察などで「実家・親戚・友人宅など」に泊まっても、政調費から宿泊費を定額支給できると定めていた。この議員のケースが支給対象となる根拠は、『実家など』の『など』に当たる(県議会事務局)そうだ・実際に宿泊費を支払ってもいないのに、公金を受け取れるルール。領収書の提出義務もないから、仮に架空請求でも分からない。おかしなルールを世に問い、変える。新聞の役割の一つだ。実態をつかむためには、帳簿など数百枚もの資料をめくることが必要だ。先輩記者が培ったノウハウを教わり、取材班をつくることもある。そうして浮かんだおかしな数字やルールへの疑問を取材相手にぶっつける。逃げる人も怒鳴る人もいる。
本誌報道を受け、熊本県議会は宿泊費の定額支給をやめた。同様に領収書不要のまま、年間約2900万円の交通費を定額支給していた長崎県議会も実費支給に改めた。少しは役に立てたかもしれないが、市民感覚からすればおかしいと感じることはまだまだある。素朴な疑問を訴え続けたい。
世の為にではなく自分の為に政治を食い物にする議員が多すぎます、なんとかならないかな?
名張毒ぶどう酒 再審棄却 52年前に起きた事件です。白黒がいまだつかないようです。2013・10・18【春秋】コラムには・・
最高裁は、三重県名張市で1961年に起きた「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝死刑囚の再審請求を退けた。再審請求は7度目で、今回は裁判所の判断が二転三転した▶名古屋高裁が出した再審開始決定を、同高裁の別の裁判長が取り消したことがある。その取り消し決定を最高裁が取り消して同高裁に差し戻したこともある。分かりにくい経緯をたどった▶異常な経緯をたどった裁判がかってあった。山口県内で51年に起きた「八海(やかい)事件」の裁判だ。無実の4人に対する判決は二転三転し、三度目の最高裁で無実が確定した。この間、死刑を三度言い渡された人もいる。強盗殺人の単独犯人が「仲間が一緒だった」とうその供述をし、裁判所も振り回された▶「八海事件」は、最高裁で審理中に公開された映画「真昼の暗黒」で広く知られた。死刑判決を受けた被告が「まだ最高裁がある!」と叫ぶ画面で終わっていた▶「名張毒ぶどう酒事件」では最高裁が日本弁護士連合会を歯ぎしりさせる一幕もあった。2010年に最高裁が高裁の取り消し決定を取り消して差し戻した時のことだ。「最高裁の判断で再審開始を決定すべきだ」との趣旨だった▶あれから3年。再審の門は結局は開かなかった。87歳の奥西死刑囚は今年、危篤状態も伝えられた。真実を求める裁判所の厳格さに揺らぎがあってはならないが、最新の門が開きかけて閉じる振れの大きさがもどかしい。
この記事を見て頭に浮かんだのは閻魔が持っている浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)この鏡で見れば一目瞭然「浄玻璃の鏡」というのは、地獄の閻魔王庁にあって、 「亡者が生前に為した善悪総ての所業を映し出す」というものです。 水晶で出来ているため一点の曇りも見逃しません。こんなものがあれば冤罪なんてなくなるのにと思うのですが・・死んでからでは話にもなりません。

『閻魔と地獄太夫図』(河鍋暁斎)亡者の生前の所業を映し出した浄玻璃鏡を覗き込む閻魔の姿
最高裁は、三重県名張市で1961年に起きた「名張毒ぶどう酒事件」の奥西勝死刑囚の再審請求を退けた。再審請求は7度目で、今回は裁判所の判断が二転三転した▶名古屋高裁が出した再審開始決定を、同高裁の別の裁判長が取り消したことがある。その取り消し決定を最高裁が取り消して同高裁に差し戻したこともある。分かりにくい経緯をたどった▶異常な経緯をたどった裁判がかってあった。山口県内で51年に起きた「八海(やかい)事件」の裁判だ。無実の4人に対する判決は二転三転し、三度目の最高裁で無実が確定した。この間、死刑を三度言い渡された人もいる。強盗殺人の単独犯人が「仲間が一緒だった」とうその供述をし、裁判所も振り回された▶「八海事件」は、最高裁で審理中に公開された映画「真昼の暗黒」で広く知られた。死刑判決を受けた被告が「まだ最高裁がある!」と叫ぶ画面で終わっていた▶「名張毒ぶどう酒事件」では最高裁が日本弁護士連合会を歯ぎしりさせる一幕もあった。2010年に最高裁が高裁の取り消し決定を取り消して差し戻した時のことだ。「最高裁の判断で再審開始を決定すべきだ」との趣旨だった▶あれから3年。再審の門は結局は開かなかった。87歳の奥西死刑囚は今年、危篤状態も伝えられた。真実を求める裁判所の厳格さに揺らぎがあってはならないが、最新の門が開きかけて閉じる振れの大きさがもどかしい。
この記事を見て頭に浮かんだのは閻魔が持っている浄玻璃鏡(じょうはりのかがみ)この鏡で見れば一目瞭然「浄玻璃の鏡」というのは、地獄の閻魔王庁にあって、 「亡者が生前に為した善悪総ての所業を映し出す」というものです。 水晶で出来ているため一点の曇りも見逃しません。こんなものがあれば冤罪なんてなくなるのにと思うのですが・・死んでからでは話にもなりません。

『閻魔と地獄太夫図』(河鍋暁斎)亡者の生前の所業を映し出した浄玻璃鏡を覗き込む閻魔の姿
2013.10.17 【春秋】 西日本新聞より
漫画家のやなせたかしさんは22歳で兵隊に行き、中国戦線に送られた。聖戦と思っていたが違っていたという。飢えも体験した数年間が生き方の背骨になった。▶「力ずくの正義はうそくさい」 「何よりもまず、弱い人に手を差し伸べるのが本当の正義だ」。おなかをすかせている人がいれば自分の顔をちぎって食べさせるアンパンマンに、思いをこめた▶困った人を見過ごしにできないアンパンマンは、宿敵ばいきんまんをやっつける。たたきのめしたりはしない。心優しきヒーローなのだ。ばいきんまんを「一人じゃ寂しかろ」とドキンちゃんを登場させた作者も、どこまでも優しい人だった▶先日、94歳で亡くなった。優しい心で子どもたちの夢をはぐくんできた。お父さんやお母さんも一緒に楽しませた。一人でも多くの人にいい気持ちになってもらうことに晩年まで心を砕き続けた▶少年時代を過ごした高知県南国市の土佐くろしお鉄道は、起点の「ごめん駅(後免駅)」の次は「ありがとう駅(後免町駅の愛称)」に止まる。「ごめん」と響き合う町づくりが進められているそうだ▶「ごめん」と「ありがとう」を「一番美しい日本語」と話していた。翻(ひるがえ)って、怪しげな正義も幅を利かす今の世は、一方で「ありがとう」などの出番を減らした。そんなことに気づかせてくれた人に、ありがとうの言葉を束にして送る。
13日に心不全で亡くなった漫画家のやなせたかしさん 94歳まで本当にご苦労様、お疲れ様でしたゆっくりとおやすみください。本当にありがとう。

漫画家のやなせたかしさんは22歳で兵隊に行き、中国戦線に送られた。聖戦と思っていたが違っていたという。飢えも体験した数年間が生き方の背骨になった。▶「力ずくの正義はうそくさい」 「何よりもまず、弱い人に手を差し伸べるのが本当の正義だ」。おなかをすかせている人がいれば自分の顔をちぎって食べさせるアンパンマンに、思いをこめた▶困った人を見過ごしにできないアンパンマンは、宿敵ばいきんまんをやっつける。たたきのめしたりはしない。心優しきヒーローなのだ。ばいきんまんを「一人じゃ寂しかろ」とドキンちゃんを登場させた作者も、どこまでも優しい人だった▶先日、94歳で亡くなった。優しい心で子どもたちの夢をはぐくんできた。お父さんやお母さんも一緒に楽しませた。一人でも多くの人にいい気持ちになってもらうことに晩年まで心を砕き続けた▶少年時代を過ごした高知県南国市の土佐くろしお鉄道は、起点の「ごめん駅(後免駅)」の次は「ありがとう駅(後免町駅の愛称)」に止まる。「ごめん」と響き合う町づくりが進められているそうだ▶「ごめん」と「ありがとう」を「一番美しい日本語」と話していた。翻(ひるがえ)って、怪しげな正義も幅を利かす今の世は、一方で「ありがとう」などの出番を減らした。そんなことに気づかせてくれた人に、ありがとうの言葉を束にして送る。
13日に心不全で亡くなった漫画家のやなせたかしさん 94歳まで本当にご苦労様、お疲れ様でしたゆっくりとおやすみください。本当にありがとう。


暦によりますと今日10/15から『新聞週間』(社団法人日本新聞協会が1948年(昭和23)から毎年10月、1週間にわたって催す年中行事。行事の主な目的は読者に新聞の重要性を知らせ、新聞と読者との結び付きを強化すること。)ということです。今日は新聞はお休み??。昨日の西日本新聞の「春秋」と言うコラムに以下のような記事がありました。
もしも幸せを計ることができるなら・・・。大分県出身のシンガー・ソングライター、伊勢正三さんの楽曲「少しだけの荷物」は問いかける。あなたなら何で幸せを計る?▶預金通帳の残高、名刺の肩書き、それとも他人の賛辞か。 食卓に響く家族の笑い声や気のおけない友の数かもしれない。 人それぞれに幸せの物差しはあろう▶先人はどうだろう。 軍事の天才ナポレオンは「その人の希望と才能にかなった仕事がある状態が幸福だ」と言った。「人生の最大の幸福は一家の和楽である」は医学に生涯をささげた野口英世の言葉だ。作家の川端康成は「一生の間に一人の人間でも幸福にすることができれば、自分の幸福」とし、宮沢賢治は「世界全体が幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」と説く▶ロシアの文豪ドストエフスキーは「人は自分が幸福であることを知らないから、不幸なのだ」。東日本大震災を経験し、私たちはきのうと同じきょうが来ることの幸せをあらためてかみしめた▶伊勢さんの歌に戻る。 「もしも幸せを計ることができるなら/積み重ねた新聞の高さかもしれない」。別れを決めた二人が部屋を引き払う。一緒に過ごした時間は目に見えないが、毎日届いた新聞の束が幸せだった日々の証になる。そんな歌だ▶日付が変われば忘れられる新聞だが、日々の暮らしの中で積み重ねていく幸せの目盛りになればと思う。明日から新聞週間。
記事を読んで頭に浮かんだのは国王夫妻がおととし日本を訪問されたのをきっかけに「幸せの国」として一躍注目を集めたブータンの国民総幸福量の話です。それは「国民全体の幸福度」を示す“尺度”です。経済的には決して豊かとはいえませんがただ国民の幸福度は高いと言われています。・・【幸せ】って一体なんなんでしょうね?
24節気の寒露も過ぎて10月も半ばに成ろうとしていますが、一向に秋の気配を感じない今日この頃です。台風24号それてくれて本当に良かったです。

10月9日の西日本新聞の記事に織田信長の供養塔 三斉が建てた恩人の「墓」という見出しでそうだったのか‼八代ー24-八代市博物館 学芸係長 鳥津亮二さんの記事がありました。以下記事抜粋・・
場所は八代市立第一中学校の校庭の片隅のブロック塀に囲まれた一画が、1632(寛永9)年に八代城主となった細川三斉・さんさい(忠興・ただおき)が、父幽斉・ゆうさい(藤孝・ふじたか)の菩提寺として小倉から移転させた泰勝院・たいしょういんの跡地。ここに今も残る1基の五輪塔が信長の供養塔です。この塔には「織田将軍去遊四十九才、天正十年六月二日」、「寛永十年六月三日」、「細川参議敬建」という文字が刻まれています。「織田将軍」とは信長、「天正十年六月二日」は本能寺の変が起きた日、そして「細川参議」とは細川三斉を指します。つまりこれは、三斉が信長を供養するために1633(寛永10)年に建てた供養塔なのです。・・忠興は1563(永禄6)年、足利家に仕える細川藤孝の子として生まれました。藤孝は15代将軍足利義昭と織田信長の仲介役を務めていましたが、やがて信長の傘下に入り、忠興も父と行動を共にします。
1577(天正5)年、忠興は数え15歳の時に雑賀一揆討伐で初陣し軍功を挙げ、信長から自筆の感状・かんじょう(働きを褒める手紙)を与えられており、その実物は今も永青文庫に残されています。その後も信長の側近く仕え、活躍を重ねた事で、信長から子の信忠・のぶただの一字を拝領し「忠興」と名乗ったと伝えられております。
そして1578(天正6)年、忠興は信長の重臣明智光秀の娘・玉・たま(のちのガラシャ)と結婚しますが、これを斡旋したのも信長でした。つまり忠興にとっては信長は「仲人」でもあったのです。
その後、信長から丹後(京都府北部)を与えられた藤孝・忠興は縁戚となった明智光秀と行動を共にすることが多くなります。しかし、1582(天正10)年、光秀が本能寺の変を起こすと、藤孝・忠興はすぐさま光秀と絶縁。以後は信長の後継者の羽柴秀吉に接近し、大名として発展していく事となります。
本能寺の変から約50年後、三斉は八代城主となりますが、三斉にとって信長は、まさしく生涯の主君であり恩人。この供養塔は三斉が信長を終生慕っていたことを如実に示すものであり、また八代の歴史が日本史の大きな流れと連動していることを物語る貴重な文化財とも言えるでしょう。
感動しました。いいお話です。

10月9日の西日本新聞の記事に織田信長の供養塔 三斉が建てた恩人の「墓」という見出しでそうだったのか‼八代ー24-八代市博物館 学芸係長 鳥津亮二さんの記事がありました。以下記事抜粋・・
場所は八代市立第一中学校の校庭の片隅のブロック塀に囲まれた一画が、1632(寛永9)年に八代城主となった細川三斉・さんさい(忠興・ただおき)が、父幽斉・ゆうさい(藤孝・ふじたか)の菩提寺として小倉から移転させた泰勝院・たいしょういんの跡地。ここに今も残る1基の五輪塔が信長の供養塔です。この塔には「織田将軍去遊四十九才、天正十年六月二日」、「寛永十年六月三日」、「細川参議敬建」という文字が刻まれています。「織田将軍」とは信長、「天正十年六月二日」は本能寺の変が起きた日、そして「細川参議」とは細川三斉を指します。つまりこれは、三斉が信長を供養するために1633(寛永10)年に建てた供養塔なのです。・・忠興は1563(永禄6)年、足利家に仕える細川藤孝の子として生まれました。藤孝は15代将軍足利義昭と織田信長の仲介役を務めていましたが、やがて信長の傘下に入り、忠興も父と行動を共にします。
1577(天正5)年、忠興は数え15歳の時に雑賀一揆討伐で初陣し軍功を挙げ、信長から自筆の感状・かんじょう(働きを褒める手紙)を与えられており、その実物は今も永青文庫に残されています。その後も信長の側近く仕え、活躍を重ねた事で、信長から子の信忠・のぶただの一字を拝領し「忠興」と名乗ったと伝えられております。
そして1578(天正6)年、忠興は信長の重臣明智光秀の娘・玉・たま(のちのガラシャ)と結婚しますが、これを斡旋したのも信長でした。つまり忠興にとっては信長は「仲人」でもあったのです。
その後、信長から丹後(京都府北部)を与えられた藤孝・忠興は縁戚となった明智光秀と行動を共にすることが多くなります。しかし、1582(天正10)年、光秀が本能寺の変を起こすと、藤孝・忠興はすぐさま光秀と絶縁。以後は信長の後継者の羽柴秀吉に接近し、大名として発展していく事となります。
本能寺の変から約50年後、三斉は八代城主となりますが、三斉にとって信長は、まさしく生涯の主君であり恩人。この供養塔は三斉が信長を終生慕っていたことを如実に示すものであり、また八代の歴史が日本史の大きな流れと連動していることを物語る貴重な文化財とも言えるでしょう。
感動しました。いいお話です。
寒露・・秋分→寒露→霜降 二十四節気の一つ。旧暦九月(長月)の節気。露が冷気によって凍りそうになる頃。 寒露とは、草花に冷たい露が宿るという意味です。秋の長雨が終わり、秋も深まり始める頃です。毎年10月8~9日頃。2013年は10月8日 天文学的には、天球上の黄経195度の点を太陽が通過する瞬間。
この頃には、雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、蟋蟀(こおろぎ)などが鳴き止む。
非常に強い台風24号 午後にも九州北部に接近へ・・・今日はこの記事の方が数倍気に成ります。

この頃には、雁などの冬鳥が渡ってきて、菊が咲き始め、蟋蟀(こおろぎ)などが鳴き止む。
非常に強い台風24号 午後にも九州北部に接近へ・・・今日はこの記事の方が数倍気に成ります。


10月2日の西日本新聞の(春秋)というコラムの中に倒語と言う単語が有りました。音節や語を逆に読んでつくる語の事を言うらしいのですが、『種』を『ネタ』、『場所』を『ショバ』と読み『美しい国』は『憎いし、苦痛』、『アベノミックス』は『竦み(すくみ)のベア』と読んで、ベースアップが竦んでいる日本経済を比喩する言葉に例えています。消費税8%決定 来年四月引き上げ 安倍首相が発表しました。所得が低い人ほど負担が大きくなる施策です。政治の事にはあまり触れたくありませんが、正直者が馬鹿を見る世の中いつまで続くの?
キバナセンナが咲きました。咲き始めたのは3~4日前からだけど朝夕が少し冷え始めた頃からつぼみが少しずつ大きくなり今は綺麗に咲いています。この花の葉は日が沈むと閉じて日が昇ると葉は開きます。花には変化はありません。実に面白い花です。

