2013年10月11日
信長の「墓」が八代にあるって知っていますか
24節気の寒露も過ぎて10月も半ばに成ろうとしていますが、一向に秋の気配を感じない今日この頃です。台風24号それてくれて本当に良かったです。

10月9日の西日本新聞の記事に織田信長の供養塔 三斉が建てた恩人の「墓」という見出しでそうだったのか‼八代ー24-八代市博物館 学芸係長 鳥津亮二さんの記事がありました。以下記事抜粋・・
場所は八代市立第一中学校の校庭の片隅のブロック塀に囲まれた一画が、1632(寛永9)年に八代城主となった細川三斉・さんさい(忠興・ただおき)が、父幽斉・ゆうさい(藤孝・ふじたか)の菩提寺として小倉から移転させた泰勝院・たいしょういんの跡地。ここに今も残る1基の五輪塔が信長の供養塔です。この塔には「織田将軍去遊四十九才、天正十年六月二日」、「寛永十年六月三日」、「細川参議敬建」という文字が刻まれています。「織田将軍」とは信長、「天正十年六月二日」は本能寺の変が起きた日、そして「細川参議」とは細川三斉を指します。つまりこれは、三斉が信長を供養するために1633(寛永10)年に建てた供養塔なのです。・・忠興は1563(永禄6)年、足利家に仕える細川藤孝の子として生まれました。藤孝は15代将軍足利義昭と織田信長の仲介役を務めていましたが、やがて信長の傘下に入り、忠興も父と行動を共にします。
1577(天正5)年、忠興は数え15歳の時に雑賀一揆討伐で初陣し軍功を挙げ、信長から自筆の感状・かんじょう(働きを褒める手紙)を与えられており、その実物は今も永青文庫に残されています。その後も信長の側近く仕え、活躍を重ねた事で、信長から子の信忠・のぶただの一字を拝領し「忠興」と名乗ったと伝えられております。
そして1578(天正6)年、忠興は信長の重臣明智光秀の娘・玉・たま(のちのガラシャ)と結婚しますが、これを斡旋したのも信長でした。つまり忠興にとっては信長は「仲人」でもあったのです。
その後、信長から丹後(京都府北部)を与えられた藤孝・忠興は縁戚となった明智光秀と行動を共にすることが多くなります。しかし、1582(天正10)年、光秀が本能寺の変を起こすと、藤孝・忠興はすぐさま光秀と絶縁。以後は信長の後継者の羽柴秀吉に接近し、大名として発展していく事となります。
本能寺の変から約50年後、三斉は八代城主となりますが、三斉にとって信長は、まさしく生涯の主君であり恩人。この供養塔は三斉が信長を終生慕っていたことを如実に示すものであり、また八代の歴史が日本史の大きな流れと連動していることを物語る貴重な文化財とも言えるでしょう。
感動しました。いいお話です。

10月9日の西日本新聞の記事に織田信長の供養塔 三斉が建てた恩人の「墓」という見出しでそうだったのか‼八代ー24-八代市博物館 学芸係長 鳥津亮二さんの記事がありました。以下記事抜粋・・
場所は八代市立第一中学校の校庭の片隅のブロック塀に囲まれた一画が、1632(寛永9)年に八代城主となった細川三斉・さんさい(忠興・ただおき)が、父幽斉・ゆうさい(藤孝・ふじたか)の菩提寺として小倉から移転させた泰勝院・たいしょういんの跡地。ここに今も残る1基の五輪塔が信長の供養塔です。この塔には「織田将軍去遊四十九才、天正十年六月二日」、「寛永十年六月三日」、「細川参議敬建」という文字が刻まれています。「織田将軍」とは信長、「天正十年六月二日」は本能寺の変が起きた日、そして「細川参議」とは細川三斉を指します。つまりこれは、三斉が信長を供養するために1633(寛永10)年に建てた供養塔なのです。・・忠興は1563(永禄6)年、足利家に仕える細川藤孝の子として生まれました。藤孝は15代将軍足利義昭と織田信長の仲介役を務めていましたが、やがて信長の傘下に入り、忠興も父と行動を共にします。
1577(天正5)年、忠興は数え15歳の時に雑賀一揆討伐で初陣し軍功を挙げ、信長から自筆の感状・かんじょう(働きを褒める手紙)を与えられており、その実物は今も永青文庫に残されています。その後も信長の側近く仕え、活躍を重ねた事で、信長から子の信忠・のぶただの一字を拝領し「忠興」と名乗ったと伝えられております。
そして1578(天正6)年、忠興は信長の重臣明智光秀の娘・玉・たま(のちのガラシャ)と結婚しますが、これを斡旋したのも信長でした。つまり忠興にとっては信長は「仲人」でもあったのです。
その後、信長から丹後(京都府北部)を与えられた藤孝・忠興は縁戚となった明智光秀と行動を共にすることが多くなります。しかし、1582(天正10)年、光秀が本能寺の変を起こすと、藤孝・忠興はすぐさま光秀と絶縁。以後は信長の後継者の羽柴秀吉に接近し、大名として発展していく事となります。
本能寺の変から約50年後、三斉は八代城主となりますが、三斉にとって信長は、まさしく生涯の主君であり恩人。この供養塔は三斉が信長を終生慕っていたことを如実に示すものであり、また八代の歴史が日本史の大きな流れと連動していることを物語る貴重な文化財とも言えるでしょう。
感動しました。いいお話です。
Posted by マー君 at 10:46│Comments(0)
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