最近、子どもや高齢者への虐待を取り上げたニュースが以前より多くなったことに気付きませんか?
追い越しや無謀な運転による悲惨な事故の多いこと。
酒に酔って暴徒化する若者たち。
どうしてこんな世の中になったんだろうと気が気ではありません。
散歩の途中、ちょっと気になる記事を思い出してどこで狂ってきたのか考えてみたいと思います。
日本列島に人が現れて、食べ物を追い求めて暮らす移動生活から住居を構えて暮らす定住生活が始まったのがちょうど約1万5千年位前のことです。日本の大地は酸性土壌のため骨や遺物は長い年月の間に土の中では消えてなくなってしまいます。
でも縄文時代の遺跡は全国で約9万件もあるそうです。その中には偶然にも周りの環境によって人骨や遺物が酸化されずに残った遺跡があります。最近は科学技術の発展が目覚ましく残された骨を分析することにより色々なことが分かるようになりました。
今日は、その中から縄文時代にも「小児麻痺」があり、病気にかかった子どもを大事に縄文人たちが育てていた話を紹介します。
ポリオのかかった縄文人
北海道南部の入江貝塚の墓に丁寧に埋葬されていた縄文時代後期の10代後半から20才前後の女性人骨は、ポリオ(小児麻痺)にかかった幼児程度の細い手足の骨であった。麻痺したまま長くねたきりであったことを示している。他にも栃木県大谷寺洞穴の前期成人女性人骨、岩手県中沢浜貝塚の晩期人骨もポリオにかかったと考えられるものだった。これらの史料は氷山の一角であろう。つまり、戦前までの日本に多く認められたポリオがすでに縄文時代にも認められ、支援・介護などの福祉が行われていたことには驚かされる。
この記事は『The縄文』NPO法人三内丸山縄文発信の会の中にあったものを抜き出してみました。
縄文時代は生を受けた者は皆同じ。差別や偏見はなく、身体の不自由な者にはみんなで手助けをするそんな優しい精神が育まれた時代だった。生きて行くことが大変な時代です。それでも一人ひとりの心の中は現在よりも遥かに精神面では進んでいたように思います。
人間の欲望が極端に便利性を重んじて物質面に傾き過ぎた頃から人間性が置き去りになったように思うのですが・・・。
縄文時代は6つの時代に分かれています。
草創期(約1万5千年前~約1万1千年前)、
早期(~約7千年前)
前期(~約5千年前)
中期(~4千年前)
後期(~3千年前)
晩期(~約2400年前)
太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町)の発見により土器や石鏃の使用が始まり人々の定住化が進み村が出現しだしたことが草創期の頃と分かりました。
大平山元遺跡 -日本最古の土器出土-
●大平山元遺跡(おおだいやまもと)
所在地・・ 外ケ浜町字蟹田大平山元
指定区分・・ 国・史跡
時期・・ 縄文時代草創期
概要・・ 陸奥湾に注ぐ蟹田川左岸の標高約25mの河岸段丘上に所在する、縄文時代草創期の遺跡です。
土器は縄文時代の開始とともに出現しますが、土器がいつ、どこで誕生したのかはまだはっきりしていません。
大平山元遺跡から出土した無文土器は、最も古い約16,500年前のものと考えられており、土器誕生のプロセスを探る上で極めて重要な遺跡です。
追い越しや無謀な運転による悲惨な事故の多いこと。
酒に酔って暴徒化する若者たち。
どうしてこんな世の中になったんだろうと気が気ではありません。
散歩の途中、ちょっと気になる記事を思い出してどこで狂ってきたのか考えてみたいと思います。
日本列島に人が現れて、食べ物を追い求めて暮らす移動生活から住居を構えて暮らす定住生活が始まったのがちょうど約1万5千年位前のことです。日本の大地は酸性土壌のため骨や遺物は長い年月の間に土の中では消えてなくなってしまいます。
でも縄文時代の遺跡は全国で約9万件もあるそうです。その中には偶然にも周りの環境によって人骨や遺物が酸化されずに残った遺跡があります。最近は科学技術の発展が目覚ましく残された骨を分析することにより色々なことが分かるようになりました。
今日は、その中から縄文時代にも「小児麻痺」があり、病気にかかった子どもを大事に縄文人たちが育てていた話を紹介します。
ポリオのかかった縄文人
北海道南部の入江貝塚の墓に丁寧に埋葬されていた縄文時代後期の10代後半から20才前後の女性人骨は、ポリオ(小児麻痺)にかかった幼児程度の細い手足の骨であった。麻痺したまま長くねたきりであったことを示している。他にも栃木県大谷寺洞穴の前期成人女性人骨、岩手県中沢浜貝塚の晩期人骨もポリオにかかったと考えられるものだった。これらの史料は氷山の一角であろう。つまり、戦前までの日本に多く認められたポリオがすでに縄文時代にも認められ、支援・介護などの福祉が行われていたことには驚かされる。
この記事は『The縄文』NPO法人三内丸山縄文発信の会の中にあったものを抜き出してみました。
縄文時代は生を受けた者は皆同じ。差別や偏見はなく、身体の不自由な者にはみんなで手助けをするそんな優しい精神が育まれた時代だった。生きて行くことが大変な時代です。それでも一人ひとりの心の中は現在よりも遥かに精神面では進んでいたように思います。
人間の欲望が極端に便利性を重んじて物質面に傾き過ぎた頃から人間性が置き去りになったように思うのですが・・・。
縄文時代は6つの時代に分かれています。
草創期(約1万5千年前~約1万1千年前)、
早期(~約7千年前)
前期(~約5千年前)
中期(~4千年前)
後期(~3千年前)
晩期(~約2400年前)
太平山元遺跡(青森県外ヶ浜町)の発見により土器や石鏃の使用が始まり人々の定住化が進み村が出現しだしたことが草創期の頃と分かりました。

●大平山元遺跡(おおだいやまもと)
所在地・・ 外ケ浜町字蟹田大平山元
指定区分・・ 国・史跡
時期・・ 縄文時代草創期
概要・・ 陸奥湾に注ぐ蟹田川左岸の標高約25mの河岸段丘上に所在する、縄文時代草創期の遺跡です。
土器は縄文時代の開始とともに出現しますが、土器がいつ、どこで誕生したのかはまだはっきりしていません。
大平山元遺跡から出土した無文土器は、最も古い約16,500年前のものと考えられており、土器誕生のプロセスを探る上で極めて重要な遺跡です。
季節も進み11月も、もう目の前です。
月が替わるごとに旧暦では何と呼ばれていたのか。
「和風月名」に?と首を傾げます。
実際、説明にもある様に季節感のずれのために和風の呼び名に親しみがわかないせいかも知れません。
そんなことで『日本の暦』から「和風月名」について学び直すことにしました。

旧暦では、和風月名(わふうげつめい)と呼ばれる月の和風の呼び名を使用していました。和風月名は旧暦の季節や行事に合わせたもので、現在の暦でも使用されることがありますが、現在の季節感とは1~2ヶ月ほどのずれがあります。
和風月名の由来については諸説ありますが、代表的なものを紹介します。(和風月名の後に由来と解説があります)。
1月
睦月(むつき)
正月に親類一同が集まる、睦び(親しくする)の月。
2月
如月(きさらぎ)
衣更着(きさらぎ)とも言う。まだ寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月。
3月
弥生(やよい)
木草弥生い茂る(きくさいやおいしげる、草木が生い茂る)月。
4月
卯月(うづき)
卯の花の月。
5月
皐月(さつき)
早月(さつき)とも言う。早苗(さなえ)を植える月。
6月
水無月
(みなづき、みなつき)
水の月(「無」は「の」を意味する)で、田に水を引く月の意と言われる。
7月
文月
(ふみづき、ふづき)
稲の穂が実る月(穂含月:ほふみづき)
8月
葉月
(はづき、はつき)
木々の葉落ち月(はおちづき)。
9月
長月
(ながつき、ながづき)
夜長月(よながづき)。
10月
神無月(かんなづき)
神の月(「無」は「の」を意味する)の意味。全国の神々が出雲大社に集まり、各地の神々が留守になる月という説などもある。
11月
霜月(しもつき)
霜の降る月。
12月
師走(しわす)
師匠といえども趨走(すうそう、走り回る)する月。

霜月は11月の旧暦のこと、現在の新暦よりも約1カ月先の11月下旬~1月上旬のことを「霜月」と呼んでいます。そのため、「多く霜が降る月」と呼ばれていたのです。
月が替わるごとに旧暦では何と呼ばれていたのか。
「和風月名」に?と首を傾げます。
実際、説明にもある様に季節感のずれのために和風の呼び名に親しみがわかないせいかも知れません。
そんなことで『日本の暦』から「和風月名」について学び直すことにしました。

旧暦では、和風月名(わふうげつめい)と呼ばれる月の和風の呼び名を使用していました。和風月名は旧暦の季節や行事に合わせたもので、現在の暦でも使用されることがありますが、現在の季節感とは1~2ヶ月ほどのずれがあります。
和風月名の由来については諸説ありますが、代表的なものを紹介します。(和風月名の後に由来と解説があります)。
1月
睦月(むつき)
正月に親類一同が集まる、睦び(親しくする)の月。
2月
如月(きさらぎ)
衣更着(きさらぎ)とも言う。まだ寒さが残っていて、衣を重ね着する(更に着る)月。
3月
弥生(やよい)
木草弥生い茂る(きくさいやおいしげる、草木が生い茂る)月。
4月
卯月(うづき)
卯の花の月。
5月
皐月(さつき)
早月(さつき)とも言う。早苗(さなえ)を植える月。
6月
水無月
(みなづき、みなつき)
水の月(「無」は「の」を意味する)で、田に水を引く月の意と言われる。
7月
文月
(ふみづき、ふづき)
稲の穂が実る月(穂含月:ほふみづき)
8月
葉月
(はづき、はつき)
木々の葉落ち月(はおちづき)。
9月
長月
(ながつき、ながづき)
夜長月(よながづき)。
10月
神無月(かんなづき)
神の月(「無」は「の」を意味する)の意味。全国の神々が出雲大社に集まり、各地の神々が留守になる月という説などもある。
11月
霜月(しもつき)
霜の降る月。
12月
師走(しわす)
師匠といえども趨走(すうそう、走り回る)する月。

霜月は11月の旧暦のこと、現在の新暦よりも約1カ月先の11月下旬~1月上旬のことを「霜月」と呼んでいます。そのため、「多く霜が降る月」と呼ばれていたのです。
八代市の博物館で30年度の熊本県装飾古墳一斉公開のチラシを見て日曜日は急遽、古墳見学に出かけました。
今回の見学で今迄なかなか理解できなかった地元の歴史について、塚坊主古墳を見学した際に見学に付き添ってくれた若い女性の担当者から詳しい参考書があるので是非読んでくださいと頂いた本があります。『装飾古墳の世界』という100㌻足らずの高木正文さんが書かれた冊子ですが装飾古墳の起源と変遷などを詳しく書かれてあり「火の君」とのつながりにも言及してあるので今回の古墳見学は大きな成果がありました。

銀象嵌銘の太刀が出土した江田船山古墳(5世紀後半頃築造)

熊本県内装飾古墳一斉公開でこの日公開された塚坊主古墳はこの奥(6世紀前半頃築造)


塚坊主古墳入り口の受付

装飾は古墳内の明るさに目が慣れないとはっきり見えません(石屋形の内面に赤と白の円文、三角文、菱形文が描かれているそうですがはっきり認識できなかった)


公開日を間違えて訪ねた嘉島町の井寺古墳(5世紀後半から6世紀初頭頃の築造・石室には「直弧文」と呼ばれる装飾文様が施されているそうです)地震で施設が損傷したので現在修復中公開日は昨日でした残念この古墳は安政4年(1857年)地震によって墳丘封土が崩れて石室の一部が表れたことにより発見されたそうです地震と関係が深い古墳です


直弧文は直線と円弧が複雑に混じり合う魅力的な文様で装飾古墳の中で直弧文を施した装飾古墳は、特に整美に造られており、特別権力のある支配者の墳墓と考えられる。おそらくこれらは火君の墳墓であり、こられらの本拠地は、初めは宇土半島基部であったが、後では竜北町付近に移ったものと考えられる‥と火君との関係を説き、5世紀はじめに八代市周辺で発生した装飾古墳が、約100年かかって県北部の菊池川流域まで伝わっている。県北迄広まった6世紀前半には、八代市では造られなくなっている。装飾古墳築造の地域的な順番としては
八代・天草→宇土半島→熊本平野→菊池川流域という順に広まっている。・・
熊本県の次に装飾古墳が多いのが福岡県であるが、この地域の装飾古墳は、熊本県の装飾古墳の影響を受けて出現したものである。大きく分けると、五世紀代と六世紀代の2回にわたって影響を及ぼしている。
5世紀においては、熊本県の直弧文系の装飾古墳の影響を受けて、福岡県で八女郡広川町石人山古墳、久留米市日輪寺古墳と浦山古墳などが出現している。いずれの古墳も熊本県の古墳の墓室形態が取り入れられたり、熊本県から石材を運んだりしている。宇土半島基部を本拠地とする火君が、筑後川下流域を本拠地とする筑紫君との政治的な関係で工人を派遣して築かせた墳墓と考えられる。
6世紀代における福岡県で最古の装飾古墳は、浮羽郡吉井町の日ノ岡古墳と嘉穂郡桂川町の王塚古墳であるといわれている。いずれの装飾古墳にも熊本県の古墳の墓室形態が取り入れられており、装飾古墳のうち同心円文・双脚輪状文を施していること、武具を並べていることなどは熊本平野北部地域の影響、連続三角文などは菊池川流域の影響がうかがわれる。
その後、6世紀代における両地域の交流により、次第に装飾古墳の分布地域が広がり、福岡県内のみならず佐賀県や大分県にも広まっていったものと考えられる。また全国に分布する装飾古墳についても、熊本地域からの影響が多いのではなかろうか。
また熊本県八代市鼠蔵町 にある小鼠蔵1号墳と大鼠蔵尾張宮古墳は装飾古墳としてはこの地域で最も古いものであるといわれています。
今回の見学で今迄なかなか理解できなかった地元の歴史について、塚坊主古墳を見学した際に見学に付き添ってくれた若い女性の担当者から詳しい参考書があるので是非読んでくださいと頂いた本があります。『装飾古墳の世界』という100㌻足らずの高木正文さんが書かれた冊子ですが装飾古墳の起源と変遷などを詳しく書かれてあり「火の君」とのつながりにも言及してあるので今回の古墳見学は大きな成果がありました。
銀象嵌銘の太刀が出土した江田船山古墳(5世紀後半頃築造)
熊本県内装飾古墳一斉公開でこの日公開された塚坊主古墳はこの奥(6世紀前半頃築造)
塚坊主古墳入り口の受付
装飾は古墳内の明るさに目が慣れないとはっきり見えません(石屋形の内面に赤と白の円文、三角文、菱形文が描かれているそうですがはっきり認識できなかった)
公開日を間違えて訪ねた嘉島町の井寺古墳(5世紀後半から6世紀初頭頃の築造・石室には「直弧文」と呼ばれる装飾文様が施されているそうです)地震で施設が損傷したので現在修復中公開日は昨日でした残念この古墳は安政4年(1857年)地震によって墳丘封土が崩れて石室の一部が表れたことにより発見されたそうです地震と関係が深い古墳です

直弧文は直線と円弧が複雑に混じり合う魅力的な文様で装飾古墳の中で直弧文を施した装飾古墳は、特に整美に造られており、特別権力のある支配者の墳墓と考えられる。おそらくこれらは火君の墳墓であり、こられらの本拠地は、初めは宇土半島基部であったが、後では竜北町付近に移ったものと考えられる‥と火君との関係を説き、5世紀はじめに八代市周辺で発生した装飾古墳が、約100年かかって県北部の菊池川流域まで伝わっている。県北迄広まった6世紀前半には、八代市では造られなくなっている。装飾古墳築造の地域的な順番としては
八代・天草→宇土半島→熊本平野→菊池川流域という順に広まっている。・・
熊本県の次に装飾古墳が多いのが福岡県であるが、この地域の装飾古墳は、熊本県の装飾古墳の影響を受けて出現したものである。大きく分けると、五世紀代と六世紀代の2回にわたって影響を及ぼしている。
5世紀においては、熊本県の直弧文系の装飾古墳の影響を受けて、福岡県で八女郡広川町石人山古墳、久留米市日輪寺古墳と浦山古墳などが出現している。いずれの古墳も熊本県の古墳の墓室形態が取り入れられたり、熊本県から石材を運んだりしている。宇土半島基部を本拠地とする火君が、筑後川下流域を本拠地とする筑紫君との政治的な関係で工人を派遣して築かせた墳墓と考えられる。
6世紀代における福岡県で最古の装飾古墳は、浮羽郡吉井町の日ノ岡古墳と嘉穂郡桂川町の王塚古墳であるといわれている。いずれの装飾古墳にも熊本県の古墳の墓室形態が取り入れられており、装飾古墳のうち同心円文・双脚輪状文を施していること、武具を並べていることなどは熊本平野北部地域の影響、連続三角文などは菊池川流域の影響がうかがわれる。
その後、6世紀代における両地域の交流により、次第に装飾古墳の分布地域が広がり、福岡県内のみならず佐賀県や大分県にも広まっていったものと考えられる。また全国に分布する装飾古墳についても、熊本地域からの影響が多いのではなかろうか。
また熊本県八代市鼠蔵町 にある小鼠蔵1号墳と大鼠蔵尾張宮古墳は装飾古墳としてはこの地域で最も古いものであるといわれています。
昨日は八代市立博物館で新しい催しの為の講演会が有りました。
10月19日から始まっている~細川家を支え続けた「忠義」~ザ・家老 松井康之と興長 の展示会にちなむもので、武勇の康之と、諫言の興長
の話のうち〝日本史における諫言の機能と役割〟と題うって細川家4代の当主に仕え遺言の中にまでも諫言が残されていたという興長の話を熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽さんが興長の数々の諫言を拾い上げ読み解いてゆく講演をなされました。
まさに松井家の諫言という忠義あればこそ、細川家が生き残れた一因であったこともよく理解できました。
今回は地元松井家の話とあって聴講者の数は会場に入りきれずラウンジで聞かれる人たちもいたほどの満員の講演会でした。


右は松濱軒その先が博物館
好古家にとってさぞかし心が躍る旅路だったに違いない。文部省の官吏、蜷川式胤(のりたね)は明治5年(1872年)カメラマンらを引き連れて名古屋や伊勢、京都を巡る。寺社や旧家のお宝を確認し記録するのが目的だった◆壬申調査と称される道行は5か月にも及んだ。途中から洋画家の高橋由一も加わり、膨大な数の写真や模写、拓本が残された◆終点の奈良で正倉院を開封する。不細工で取るに足らない。そう思い込んでいた千有余年の古物の素晴らしさに〈一同驚き騒ぎ市場のような喧噪だった〉(『正倉院』中公新書)そうだ◆正倉院が始まった。蜷川ではないが、足を運ぶたびに、新鮮な驚きに打たれる。奇麗な色彩や精緻な細工といった宝物そのものの煌めきにひかれるのはもちろん、そえられた解説の一つ一つに、近代から続く、長く果てしない研究の日々を思う◆毎朝、芝居を見に行く心地で楽しく飽きない。正倉を探る喜びを、蜷川はそう日記につづった。今、展覧会の一方で年一度の開封にともなう宝物の点検や清掃、調査が慌ただしく進む。研究者は心地よい疲れを感じていることだろう。
2018・10・28 読売新聞 「編集手帳」

Jump to search 1879年7月
蜷川 式胤(にながわのりたね、1835年6月18日(天保6年5月23日) - 1882年(明治15年)8月21日)は、明治初期の官僚、古美術研究家。博物館の開設に尽力し、また、日本の陶器を海外に紹介した。
子賢の長男として京都に生まれた。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人 くにん)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。
父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している。
1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内道三丁(現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。
10月19日から始まっている~細川家を支え続けた「忠義」~ザ・家老 松井康之と興長 の展示会にちなむもので、武勇の康之と、諫言の興長
の話のうち〝日本史における諫言の機能と役割〟と題うって細川家4代の当主に仕え遺言の中にまでも諫言が残されていたという興長の話を熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽さんが興長の数々の諫言を拾い上げ読み解いてゆく講演をなされました。
まさに松井家の諫言という忠義あればこそ、細川家が生き残れた一因であったこともよく理解できました。
今回は地元松井家の話とあって聴講者の数は会場に入りきれずラウンジで聞かれる人たちもいたほどの満員の講演会でした。
右は松濱軒その先が博物館
好古家にとってさぞかし心が躍る旅路だったに違いない。文部省の官吏、蜷川式胤(のりたね)は明治5年(1872年)カメラマンらを引き連れて名古屋や伊勢、京都を巡る。寺社や旧家のお宝を確認し記録するのが目的だった◆壬申調査と称される道行は5か月にも及んだ。途中から洋画家の高橋由一も加わり、膨大な数の写真や模写、拓本が残された◆終点の奈良で正倉院を開封する。不細工で取るに足らない。そう思い込んでいた千有余年の古物の素晴らしさに〈一同驚き騒ぎ市場のような喧噪だった〉(『正倉院』中公新書)そうだ◆正倉院が始まった。蜷川ではないが、足を運ぶたびに、新鮮な驚きに打たれる。奇麗な色彩や精緻な細工といった宝物そのものの煌めきにひかれるのはもちろん、そえられた解説の一つ一つに、近代から続く、長く果てしない研究の日々を思う◆毎朝、芝居を見に行く心地で楽しく飽きない。正倉を探る喜びを、蜷川はそう日記につづった。今、展覧会の一方で年一度の開封にともなう宝物の点検や清掃、調査が慌ただしく進む。研究者は心地よい疲れを感じていることだろう。
2018・10・28 読売新聞 「編集手帳」

Jump to search 1879年7月
蜷川 式胤(にながわのりたね、1835年6月18日(天保6年5月23日) - 1882年(明治15年)8月21日)は、明治初期の官僚、古美術研究家。博物館の開設に尽力し、また、日本の陶器を海外に紹介した。
子賢の長男として京都に生まれた。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人 くにん)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。
父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している。
1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内道三丁(現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。
今日から読書週間。
読書週間とは本日が「読書の日」でその後の2週間を「読書週間」と1948年に定められました。
「読書週間」の目的は、読書の力によって、平和な文化国家を作ろうというものです。
毎年この頃になると今年こそはと気力だけは一人前なのだがなかなか達成できないで終わってしまう年が多いようです。
でも最近は「縄文」の問題にとりつかれているので毎日の読書は続いています。
昨日の「よみうり寸評」にこんな記事がありました。

読み始めた本が面白すぎて、夜が更けてもやめられない。文字通り巻を措く能わずで、とうとう朝を迎える。多くの方に覚のある経験だろう◆これがゲームなら依存症を心配されようが、活字中毒なる言葉に否定的な響きはない。本を読むことのどこがゲームと違うのか。依存症に詳しく何度か本紙にコメントを頂戴している精神科医の岩崎正人さんに聞いた◆猛烈な要求があり、歯止めがきかず、禁断症状が出る。そんな依存症の条件に読書も無縁ではないという。「でも、それを打ち消すだけのメリットがあるから問題にされないのでしょう」◆知識が増える、視野が広がる、人格が深まる・・・岩崎さんが挙げたメリットである。もっともゲーム世代にそこを説けば、かえって疎(うと)まれるかもしれない◆だから手短に伝えたい。ゲーム同様、抜け出せなくなるほどの魅力が本にあることを。そうなってもまず誰も咎めないことを。今年は明日の土曜から読書週間が始まる。翌日を気にせず本に浸かるには打ってつけの初日だろう。
読書週間とは本日が「読書の日」でその後の2週間を「読書週間」と1948年に定められました。
「読書週間」の目的は、読書の力によって、平和な文化国家を作ろうというものです。
毎年この頃になると今年こそはと気力だけは一人前なのだがなかなか達成できないで終わってしまう年が多いようです。
でも最近は「縄文」の問題にとりつかれているので毎日の読書は続いています。
昨日の「よみうり寸評」にこんな記事がありました。

読み始めた本が面白すぎて、夜が更けてもやめられない。文字通り巻を措く能わずで、とうとう朝を迎える。多くの方に覚のある経験だろう◆これがゲームなら依存症を心配されようが、活字中毒なる言葉に否定的な響きはない。本を読むことのどこがゲームと違うのか。依存症に詳しく何度か本紙にコメントを頂戴している精神科医の岩崎正人さんに聞いた◆猛烈な要求があり、歯止めがきかず、禁断症状が出る。そんな依存症の条件に読書も無縁ではないという。「でも、それを打ち消すだけのメリットがあるから問題にされないのでしょう」◆知識が増える、視野が広がる、人格が深まる・・・岩崎さんが挙げたメリットである。もっともゲーム世代にそこを説けば、かえって疎(うと)まれるかもしれない◆だから手短に伝えたい。ゲーム同様、抜け出せなくなるほどの魅力が本にあることを。そうなってもまず誰も咎めないことを。今年は明日の土曜から読書週間が始まる。翌日を気にせず本に浸かるには打ってつけの初日だろう。
ちょうど1週間前にこの方の訃報が流れました。
どの家庭にもありがちな問題を小説にして大きな話題になりました。
でもその後においてもこの人には安穏な環境は訪れなかったようです。
人の人生って何なんだろうと考えさせられる一コマを垣間見ました。
「積木くずし」。久しぶりに耳にした。穂積隆信さんの訃報に接して。非行を繰り返す娘との壮絶な闘いと、血のにじむような更生の道のりをつづった実録の題名だ
▼副題は「親と子の二百日戦争」。出版された1982年当時、非行が社会問題に。俳優が私生活を赤裸々に描いた同書は反響を呼び、約300万部の大ベストセラーになった
▼家族が積み重ねてきた大切な絆や暮らしも、小さなきっかけであっという間に失われる。積み木が一瞬で崩れるように。再び積み上げるには、どれほどの努力と時間が要ることだろう。題名に込められた意味を思う
▼先人が苦労して積み重ねてきた国家の大切な「価値観」も、あっという間に崩れてしまうものか。積み木を崩し続けるトランプ米大統領。移民受け入れ、女性や少数者の権利、国民皆保険、自由貿易、温暖化対策、中東和平の調停役…。今度は中距離核戦力(INF)廃棄条約を破棄するという
▼冷戦末期の80年代。米国と旧ソ連は互いに大量の核ミサイルを構えてにらみ合い、小さなきっかけで平和の積み木は崩れそうだった。87年にレーガン米大統領とソ連共産党のゴルバチョフ書記長が何とか調印にこぎ着けた同条約は、核戦争の危機から核軍縮へと歴史を変えたものなのに
▼昨年1月の就任から続く「世界とトランプの六百日戦争」。失ったものを再び積み上げるのには、どれほどの努力が必要か。
=2018/10/25付 西日本新聞朝刊=

穂積 隆信(ほづみ たかのぶ、本名;鈴木 隆信、1931年7月20日 - 2018年10月19日(87歳没))は、日本の男性俳優及び声優。所属事務所はマウスプロモーション。静岡県伊豆の国市(旧:田方郡大仁町)出身。身長172cm、血液型はA型。静岡県立韮山高等学校卒業。
実の娘で後にタレントとなった由香里との家庭内での葛藤の記録をまとめたノンフィクション『積木くずし』シリーズ3部作(『積木くずし〜親と子の200日戦争』『続・積木くずし』『積木くずし崩壊 そして…』)の執筆でも話題を集め、連日、教育関連の講座・講演に多数出演した。これらの著書はテレビドラマ化・映画化もされ、そのヒットにより多額の印税を得るが、その反動や悪徳会計士により多額の負債を抱えた。
最初の妻・美千子は2001年にアパートで自殺し、娘も2003年に自宅で亡くなった。
1993年に再婚した妻の玲子と2人暮らしだが、2010年に彼女が脳梗塞で倒れて以降は穂積が介護をしている。
2012年発行の自著において、未だに多額の負債を背負っていることを明かした。
どの家庭にもありがちな問題を小説にして大きな話題になりました。
でもその後においてもこの人には安穏な環境は訪れなかったようです。
人の人生って何なんだろうと考えさせられる一コマを垣間見ました。
「積木くずし」。久しぶりに耳にした。穂積隆信さんの訃報に接して。非行を繰り返す娘との壮絶な闘いと、血のにじむような更生の道のりをつづった実録の題名だ
▼副題は「親と子の二百日戦争」。出版された1982年当時、非行が社会問題に。俳優が私生活を赤裸々に描いた同書は反響を呼び、約300万部の大ベストセラーになった
▼家族が積み重ねてきた大切な絆や暮らしも、小さなきっかけであっという間に失われる。積み木が一瞬で崩れるように。再び積み上げるには、どれほどの努力と時間が要ることだろう。題名に込められた意味を思う
▼先人が苦労して積み重ねてきた国家の大切な「価値観」も、あっという間に崩れてしまうものか。積み木を崩し続けるトランプ米大統領。移民受け入れ、女性や少数者の権利、国民皆保険、自由貿易、温暖化対策、中東和平の調停役…。今度は中距離核戦力(INF)廃棄条約を破棄するという
▼冷戦末期の80年代。米国と旧ソ連は互いに大量の核ミサイルを構えてにらみ合い、小さなきっかけで平和の積み木は崩れそうだった。87年にレーガン米大統領とソ連共産党のゴルバチョフ書記長が何とか調印にこぎ着けた同条約は、核戦争の危機から核軍縮へと歴史を変えたものなのに
▼昨年1月の就任から続く「世界とトランプの六百日戦争」。失ったものを再び積み上げるのには、どれほどの努力が必要か。
=2018/10/25付 西日本新聞朝刊=

穂積 隆信(ほづみ たかのぶ、本名;鈴木 隆信、1931年7月20日 - 2018年10月19日(87歳没))は、日本の男性俳優及び声優。所属事務所はマウスプロモーション。静岡県伊豆の国市(旧:田方郡大仁町)出身。身長172cm、血液型はA型。静岡県立韮山高等学校卒業。
実の娘で後にタレントとなった由香里との家庭内での葛藤の記録をまとめたノンフィクション『積木くずし』シリーズ3部作(『積木くずし〜親と子の200日戦争』『続・積木くずし』『積木くずし崩壊 そして…』)の執筆でも話題を集め、連日、教育関連の講座・講演に多数出演した。これらの著書はテレビドラマ化・映画化もされ、そのヒットにより多額の印税を得るが、その反動や悪徳会計士により多額の負債を抱えた。
最初の妻・美千子は2001年にアパートで自殺し、娘も2003年に自宅で亡くなった。
1993年に再婚した妻の玲子と2人暮らしだが、2010年に彼女が脳梗塞で倒れて以降は穂積が介護をしている。
2012年発行の自著において、未だに多額の負債を背負っていることを明かした。
「男鹿(おが)のナマハゲ」(秋田県男鹿市)、「米川(よねかわ)の水かぶり」(宮城県登米市)、「甑島(こしきじま)のトシドン」(鹿児島県薩摩川内市)、「吉浜(よしはま)のスネカ」(岩手県大舟渡市)、「遊佐(ゆざ)の小正月行事」(山形県遊佐町)、「能登のアマメハギ」(石川県輪島市・能登町)、「見島(みしま)のカセドリ」(佐賀県佐賀市)、「薩摩硫黄島のメンドン」(鹿児島県三島村)、「悪石島(あくせきじま)のボゼ」(鹿児島県十島村)、「宮古島のパーントゥ」(沖縄県宮古島市)

以上10の行事はナマハゲ以外は地元の人でない限りほとんどの人は知らないと思います。
熊本県に住んでいて佐賀県や鹿児島県はそんなに遠い距離でもないんですがこんな行事があったことも知りませんでした。
今回「来訪神」の行事としてユネスコの無形文化遺産に登録勧告し11月26日からモーリシャスで開かれる政府間委員会で正式登録となる見通しということです。
この行事が各地でいつ頃から始められてどのくらい続いてきたのかは分かりませんが正式に登録されれば少しづつ紹介されてくると思われます。
日本の歴史や文化を広め高めるためにはいいことだと思います。
●来訪神
正月などに仮面をかぶったり仮装したりした人が「神」として家々を訪れ、幸福をもたらすとされる行事。
●無形文化遺産
無形文化遺産保護条約に基づき、文化の多様性や人類の創造性を証明する芸能や社会的慣習、儀式、工芸技術などを登録している。建築物や景観、自然地形など有形の不動産を保護する世界遺産と対をなす制度。

以上10の行事はナマハゲ以外は地元の人でない限りほとんどの人は知らないと思います。
熊本県に住んでいて佐賀県や鹿児島県はそんなに遠い距離でもないんですがこんな行事があったことも知りませんでした。
今回「来訪神」の行事としてユネスコの無形文化遺産に登録勧告し11月26日からモーリシャスで開かれる政府間委員会で正式登録となる見通しということです。
この行事が各地でいつ頃から始められてどのくらい続いてきたのかは分かりませんが正式に登録されれば少しづつ紹介されてくると思われます。
日本の歴史や文化を広め高めるためにはいいことだと思います。
●来訪神
正月などに仮面をかぶったり仮装したりした人が「神」として家々を訪れ、幸福をもたらすとされる行事。
●無形文化遺産
無形文化遺産保護条約に基づき、文化の多様性や人類の創造性を証明する芸能や社会的慣習、儀式、工芸技術などを登録している。建築物や景観、自然地形など有形の不動産を保護する世界遺産と対をなす制度。
すぐに止めさせるべきか、続けさせるべきかでレースの後大きな話題になっています。
ある人は感動したというし、ある人はかわいそうで見て居れなかったといいます。
駅伝のたすきの重ささながらスポーツの社会性にまでこの女子駅伝の映像は問題を提起したと思われます。
昨日の【春秋】の記事より・・
箱根駅伝の創設などに尽力し「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなくりしそう)(熊本県出身)。1912年のストックホルム五輪に日本初のマラソン選手として出場した
▼気温は40度を超え、半数が途中棄権する過酷なレース。猛烈な暑さに意識が遠くなる。金栗は一歩一歩、懸命に前に進んだが、ついにコースを外れてしまった
▼来年のNHK大河ドラマは金栗が主人公。熊本の山野を駆けて鍛えた足で世界に挑んだ金栗がどう描かれるか、楽しみだ。同県にある墓碑には「体力 気力 努力」の文字が刻まれている
▼この三つの限界を超えてもランナーはゴールを目指すものか。先日、福岡県であった実業団女子駅伝。中継の映像に息をのんだ。熊本県出身の選手がたすきを握り締め、四つんばいで進んでいる。足を負傷したらしく、中継所の約200メートル手前で走れなくなった。両膝はすりむけて血だらけ。それでもあきらめず前へ前へと進み続け、泣きながら手を伸ばす次走者にたすきを渡した
▼すぐにやめさせるべきだった、との批判は当然だ。ただ、どうしても仲間にたすきを、という彼女の思いを想像すれば胸が熱くなる
▼五輪で期待に応えられなかった金栗は書き残した。「終生の遺憾のことで心うずく。(略)しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく…」。彼女はまだ19歳。早くけがを治し、レースに戻ってきてほしい。
=2018/10/23付 西日本新聞朝刊=

金栗 四三(かなくり しそう、1891年(明治24年)8月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本のマラソン選手、師範学校教師、熊本県初代教育委員長。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力し、日本に高地トレーニングを導入したり日本マラソン界の発展に大きく寄与するなど、日本における「マラソンの父」と称される。熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。玉名市名誉市民。
●オリンピック史上最も遅いマラソン記録ー54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3
1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。 ・・
ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。
Wikipediaより
ある人は感動したというし、ある人はかわいそうで見て居れなかったといいます。
駅伝のたすきの重ささながらスポーツの社会性にまでこの女子駅伝の映像は問題を提起したと思われます。
昨日の【春秋】の記事より・・
箱根駅伝の創設などに尽力し「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなくりしそう)(熊本県出身)。1912年のストックホルム五輪に日本初のマラソン選手として出場した
▼気温は40度を超え、半数が途中棄権する過酷なレース。猛烈な暑さに意識が遠くなる。金栗は一歩一歩、懸命に前に進んだが、ついにコースを外れてしまった
▼来年のNHK大河ドラマは金栗が主人公。熊本の山野を駆けて鍛えた足で世界に挑んだ金栗がどう描かれるか、楽しみだ。同県にある墓碑には「体力 気力 努力」の文字が刻まれている
▼この三つの限界を超えてもランナーはゴールを目指すものか。先日、福岡県であった実業団女子駅伝。中継の映像に息をのんだ。熊本県出身の選手がたすきを握り締め、四つんばいで進んでいる。足を負傷したらしく、中継所の約200メートル手前で走れなくなった。両膝はすりむけて血だらけ。それでもあきらめず前へ前へと進み続け、泣きながら手を伸ばす次走者にたすきを渡した
▼すぐにやめさせるべきだった、との批判は当然だ。ただ、どうしても仲間にたすきを、という彼女の思いを想像すれば胸が熱くなる
▼五輪で期待に応えられなかった金栗は書き残した。「終生の遺憾のことで心うずく。(略)しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく…」。彼女はまだ19歳。早くけがを治し、レースに戻ってきてほしい。
=2018/10/23付 西日本新聞朝刊=

金栗 四三(かなくり しそう、1891年(明治24年)8月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本のマラソン選手、師範学校教師、熊本県初代教育委員長。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力し、日本に高地トレーニングを導入したり日本マラソン界の発展に大きく寄与するなど、日本における「マラソンの父」と称される。熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。玉名市名誉市民。
●オリンピック史上最も遅いマラソン記録ー54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3
1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。 ・・
ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。
Wikipediaより
今日は霜降。
最近トンと聞かなくなった季節の言葉。
二十四節気の一つでもあります。
日本の行事・暦では次のように説明しています。
霜 降(そうこう)
10月23日頃(2018年は10月23日)。および立冬までの期間。
太陽黄径210度。
寒露から数えて15日目ごろ。
秋が一段と深まり、朝霜が見られる頃。朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感できます。初霜の知らせが聞かれるのも大体このころで、山は紅葉で彩られます。
コートや暖房器具の準備など、この頃から冬支度を始めます。
読書や編み物をしたりして、秋の夜長を楽しむのもいいですね。
露が冷気によって霜となって降り始めるころ。『暦便覧』では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明している。
楓や蔦が紅葉し始めるころ。この日から立冬までの間に吹く寒い北風を木枯らしと呼ぶ。



最近トンと聞かなくなった季節の言葉。
二十四節気の一つでもあります。
日本の行事・暦では次のように説明しています。
霜 降(そうこう)
10月23日頃(2018年は10月23日)。および立冬までの期間。
太陽黄径210度。
寒露から数えて15日目ごろ。
秋が一段と深まり、朝霜が見られる頃。朝晩の冷え込みが厳しくなり、日が短くなったことを実感できます。初霜の知らせが聞かれるのも大体このころで、山は紅葉で彩られます。
コートや暖房器具の準備など、この頃から冬支度を始めます。
読書や編み物をしたりして、秋の夜長を楽しむのもいいですね。
露が冷気によって霜となって降り始めるころ。『暦便覧』では「露が陰気に結ばれて霜となりて降るゆゑ也」と説明している。
楓や蔦が紅葉し始めるころ。この日から立冬までの間に吹く寒い北風を木枯らしと呼ぶ。



旧暦の8月15日が十五夜そして旧暦の9月13日が十三夜。
実際の日付は新暦になおして調べ直してください。
お月さまの観賞にはスーパームーンが観察出来る日というのがあります。
スーパームーンを直訳すると、極上の月、特大の月という意味になりますが、その通り、通常よりも大きく光り輝く月が見られる日のことです。
しかし毎年見れるわけでもありません。
2014年には年3回の観賞が出来たそうですがこんなことは滅多にありません。
次回は2019年のスーパームーンは、2月20日の火曜日に天気が良ければ日本各地でみられるそうです。
一番綺麗に見える時間帯は、深夜の0時54分ごろらしいですよ。
昨日の十三夜は夜中よりも夕暮れ時の方が奇麗だったと思います。
10月21日 十三夜の月
もっときれいに写ると思ったのだけれど!
実際の日付は新暦になおして調べ直してください。
お月さまの観賞にはスーパームーンが観察出来る日というのがあります。
スーパームーンを直訳すると、極上の月、特大の月という意味になりますが、その通り、通常よりも大きく光り輝く月が見られる日のことです。
しかし毎年見れるわけでもありません。
2014年には年3回の観賞が出来たそうですがこんなことは滅多にありません。
次回は2019年のスーパームーンは、2月20日の火曜日に天気が良ければ日本各地でみられるそうです。
一番綺麗に見える時間帯は、深夜の0時54分ごろらしいですよ。
昨日の十三夜は夜中よりも夕暮れ時の方が奇麗だったと思います。
もっときれいに写ると思ったのだけれど!
おとといのテレビの番組で十三夜の話がありました。テレビの説明では理解できない部分もあり調べてみました。
耳にはするけれども正確な意味が理解出来ていない単語っていっぱいあることに気付かされます。


2018年の十三夜は、今日(10月21日)です。
十五夜(中秋の名月)から約1か月後に巡ってくる十三夜は、十五夜に次いで美しい月だといわれ、昔から大切にされていました。
十五夜または十三夜のどちらか一方のお月見しかしないことを「片見月」と呼び、縁起が悪いといわれています。
十三夜も十五夜と同じで、旧暦を新暦になおして10月13日とするのではなく、その年によって日付が変化します。
※十五夜は中国から伝わったものですが、十三夜は日本固有の風習で、秋の収穫祭の一つではないかと考えられています。
※延喜19年(919年)には宇多法皇によって9月13日にも観月の宴が行なわれ、これが日本独自の十三夜の月見のはじまりとされます。
十五夜が旧暦8月15日にするお月見なのに対して、十三夜は旧暦9月13日にするお月見をさします。
新暦での十五夜と十三夜の今年と来年の日付は下記のようになっています。
2018年十五夜は9月24日、十三夜は10月21日来年2019年は十五夜9月13日、十三夜は10月11日になります。
十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対し、十三夜の夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります。
豆知識PRESSより・・
今日は日本各地天気も良いようです。
みんなで十三夜の月を眺めてみましょう。
耳にはするけれども正確な意味が理解出来ていない単語っていっぱいあることに気付かされます。
2018年の十三夜は、今日(10月21日)です。
十五夜(中秋の名月)から約1か月後に巡ってくる十三夜は、十五夜に次いで美しい月だといわれ、昔から大切にされていました。
十五夜または十三夜のどちらか一方のお月見しかしないことを「片見月」と呼び、縁起が悪いといわれています。
十三夜も十五夜と同じで、旧暦を新暦になおして10月13日とするのではなく、その年によって日付が変化します。
※十五夜は中国から伝わったものですが、十三夜は日本固有の風習で、秋の収穫祭の一つではないかと考えられています。
※延喜19年(919年)には宇多法皇によって9月13日にも観月の宴が行なわれ、これが日本独自の十三夜の月見のはじまりとされます。
十五夜が旧暦8月15日にするお月見なのに対して、十三夜は旧暦9月13日にするお月見をさします。
新暦での十五夜と十三夜の今年と来年の日付は下記のようになっています。
2018年十五夜は9月24日、十三夜は10月21日来年2019年は十五夜9月13日、十三夜は10月11日になります。
十五夜はあまりすっきりしない夜空であることが多いのに対し、十三夜の夜は晴れることが多いようで、「十三夜に曇り無し」という言葉もあります。
豆知識PRESSより・・
今日は日本各地天気も良いようです。
みんなで十三夜の月を眺めてみましょう。
暦には今日は土用とあります。
土用が年4回あることは知っていましたがこの土用というものが一体どういうものか詳しくは知らずじまいでした。
調べてみますと分かりやすく説明したものは以下のようなものですが私には「占い用語集の解説」のものが簡単で覚えやすく思いました。

●土用とは「日本文化いろは事典の解説」
土用 とは、 立春(2月4日頃)立夏(5月5日頃)立秋(8月7日頃)立冬(11月7日頃)の前18日間を言います。それぞれ、立春前の「冬の土用」が1月17日頃、立夏前の「春の土用」が4月17日頃、立秋前の「夏の土用」が7月20日頃、立冬前の「秋の土用」が10月20日頃から始まります。その中でも、現在は「夏の土用」の間の丑の日にうなぎを食べる「土用の丑〔うし〕」という行事が有名です。
●土用とは「占い用語集の解説」
二十四節気の立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間のこと。季節と季節の変わり目の混沌とした時期を示す。土用は各季節の変わり目にあるが、一般的には夏の土用を指すことが多い。この夏の土用の丑の日に鰻を食べる習慣がある。
●土用とは「大辞林 第三版の解説」
① 〔陰陽五行説で、春・夏・秋・冬をそれぞれ木・火・金・水に配し、土を各季節の終わりの18日間に当てはめたことからいう〕 二十四節気中の立春・立夏・立秋・立冬の前の各18日間。
② 特に、夏の土用のこと。7月20日頃から立秋の前日までの一年中で最も暑い時期。 [季] 夏。
●土用とは「くらし歳時記の解説」
立春、立夏、立秋、立冬前の18日間(または19日間)を土用といいます。
中国の陰陽五行説からきており、万物の根源とされる「木火土金水」を四季にあてはめると、春=木、夏=火、秋=金、冬=水になり、あまった「土」を立春・立夏・立秋・立冬前の約18日間にあてはめたものが土用です。
季節の変わり目に土用があり、昔はさまざまな禁忌や風習がありましたが、夏の土用は梅雨明けと重なることが多いために重要視され、土用といえば夏の土用をさすことが多くなりました。これは、高温多湿な日本ならではの暮らしの知恵といえるでしょう。
●陰陽五行説とは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」
中国古代の宇宙観,世界観。陰陽説と五行説が結合したもの。陰陽説は宇宙の現象事物を陰と陽との働きによって説明する二元論。五行説は万物の根源を木火土金水の5元素におき,それらの関係,消長によって,宇宙は変化するという自然論的歴史観。天文,暦法,医学などに影響を与え,儒学とともに日本に入り大きな影響を与えた。
土用が年4回あることは知っていましたがこの土用というものが一体どういうものか詳しくは知らずじまいでした。
調べてみますと分かりやすく説明したものは以下のようなものですが私には「占い用語集の解説」のものが簡単で覚えやすく思いました。

●土用とは「日本文化いろは事典の解説」
土用 とは、 立春(2月4日頃)立夏(5月5日頃)立秋(8月7日頃)立冬(11月7日頃)の前18日間を言います。それぞれ、立春前の「冬の土用」が1月17日頃、立夏前の「春の土用」が4月17日頃、立秋前の「夏の土用」が7月20日頃、立冬前の「秋の土用」が10月20日頃から始まります。その中でも、現在は「夏の土用」の間の丑の日にうなぎを食べる「土用の丑〔うし〕」という行事が有名です。
●土用とは「占い用語集の解説」
二十四節気の立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間のこと。季節と季節の変わり目の混沌とした時期を示す。土用は各季節の変わり目にあるが、一般的には夏の土用を指すことが多い。この夏の土用の丑の日に鰻を食べる習慣がある。
●土用とは「大辞林 第三版の解説」
① 〔陰陽五行説で、春・夏・秋・冬をそれぞれ木・火・金・水に配し、土を各季節の終わりの18日間に当てはめたことからいう〕 二十四節気中の立春・立夏・立秋・立冬の前の各18日間。
② 特に、夏の土用のこと。7月20日頃から立秋の前日までの一年中で最も暑い時期。 [季] 夏。
●土用とは「くらし歳時記の解説」
立春、立夏、立秋、立冬前の18日間(または19日間)を土用といいます。
中国の陰陽五行説からきており、万物の根源とされる「木火土金水」を四季にあてはめると、春=木、夏=火、秋=金、冬=水になり、あまった「土」を立春・立夏・立秋・立冬前の約18日間にあてはめたものが土用です。
季節の変わり目に土用があり、昔はさまざまな禁忌や風習がありましたが、夏の土用は梅雨明けと重なることが多いために重要視され、土用といえば夏の土用をさすことが多くなりました。これは、高温多湿な日本ならではの暮らしの知恵といえるでしょう。
●陰陽五行説とは「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説」
中国古代の宇宙観,世界観。陰陽説と五行説が結合したもの。陰陽説は宇宙の現象事物を陰と陽との働きによって説明する二元論。五行説は万物の根源を木火土金水の5元素におき,それらの関係,消長によって,宇宙は変化するという自然論的歴史観。天文,暦法,医学などに影響を与え,儒学とともに日本に入り大きな影響を与えた。
やっぱり切れのある寸評。
今日はことわざから消費税問題を引っ張り出すところが素晴らしい。
どんなに温和な人でも無法なことを何度もされれば、しまいには怒る。それを「仏の顔も三度まで」と言うと、間違い。正しくは「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹立つ」を略した「仏の顔も三度」。慈悲深い仏様も許してくれるのは2度まで。過ちを3度繰り返したら、即アウトだ
▼この約束は2度ほごにされた。消費税率の10%への引き上げである。「二度あることは三度…」の臆測を打ち消すように、安倍晋三首相が来年10月の実施を改めて表明した
▼税率の引き上げは本来、2015年10月の予定だった。首相はこれを先送りし、17年4月に実施すると明言した。それも「世界経済の危機」などというよく分からない理由で再延期した
▼年金や介護、医療、子育て…。先行きへの不安が募る中で、少子高齢社会を支える財源にするのならと、多くの国民は渋々、増税を受け入れたはずだ
▼一方、増税延期と言われてうれしいのも、素直な国民感情。首相はそれを選挙戦術に使った。2度の先送り表明は解散総選挙と参院選の前だった。選挙に勝てば、もりかけ問題などの批判もリセットできる。そんな思惑も透けるやり方で、首相は1強政権の基盤を固めてきた
▼だが、暮らしに直結する消費税の「政治利用」はもう許されない。「国民の顔も三度」だ。社会保障改革や財政再建など将来への展望を明示し、次世代に重い付けを残さないために「三度目の正直」を。
=2018/10/18付 西日本新聞朝刊【春秋】=
今日はことわざから消費税問題を引っ張り出すところが素晴らしい。

どんなに温和な人でも無法なことを何度もされれば、しまいには怒る。それを「仏の顔も三度まで」と言うと、間違い。正しくは「仏の顔も三度撫(な)ずれば腹立つ」を略した「仏の顔も三度」。慈悲深い仏様も許してくれるのは2度まで。過ちを3度繰り返したら、即アウトだ
▼この約束は2度ほごにされた。消費税率の10%への引き上げである。「二度あることは三度…」の臆測を打ち消すように、安倍晋三首相が来年10月の実施を改めて表明した
▼税率の引き上げは本来、2015年10月の予定だった。首相はこれを先送りし、17年4月に実施すると明言した。それも「世界経済の危機」などというよく分からない理由で再延期した
▼年金や介護、医療、子育て…。先行きへの不安が募る中で、少子高齢社会を支える財源にするのならと、多くの国民は渋々、増税を受け入れたはずだ
▼一方、増税延期と言われてうれしいのも、素直な国民感情。首相はそれを選挙戦術に使った。2度の先送り表明は解散総選挙と参院選の前だった。選挙に勝てば、もりかけ問題などの批判もリセットできる。そんな思惑も透けるやり方で、首相は1強政権の基盤を固めてきた
▼だが、暮らしに直結する消費税の「政治利用」はもう許されない。「国民の顔も三度」だ。社会保障改革や財政再建など将来への展望を明示し、次世代に重い付けを残さないために「三度目の正直」を。
=2018/10/18付 西日本新聞朝刊【春秋】=
台風が過ぎて急に寒くなったものだから昨日はテレビで紅葉の話がありました。日本列島で紅葉線が今どのくらい南下しているかの話でした。
私たちが住んでいる九州の中でも八代の平野部ではなかなかきれいな紅葉はお目にかかることは出来ません。でも山間部に行けば時期が合えばきれいな紅葉が見ることが出来ます。イチョウなどのように黄色く色づくものやモミジのように赤く染まるもの・・どうしてなんでしょう黄色や赤があるのは?その答えも昨日の読売新聞・暮らし教育面の〝理科子先生と学ぼう!〟というコーナーで見つけました。
葉っぱが緑から黄色になるのは、葉の中の緑の色素「クロロフィル(葉緑素)」が分解されて、黄色の色素「カロテノイド」が残るから。
赤くなる葉は緑の色素が減ると同時に、赤の色素「アントシアン」が新たに作られるから。
寒くなると光合成が進まず、有害な物質ができる。この物質の働きを抑えるために、黄色の色素を残したり、赤の色素を増やしたりしている。
●紅葉が美しくなる条件
①晴れの日が続く
②昼夜で寒暖の差が大きい
我が家では金木犀が咲き始めましたが・・
隣の家ではサボテンに花がついています
私たちが住んでいる九州の中でも八代の平野部ではなかなかきれいな紅葉はお目にかかることは出来ません。でも山間部に行けば時期が合えばきれいな紅葉が見ることが出来ます。イチョウなどのように黄色く色づくものやモミジのように赤く染まるもの・・どうしてなんでしょう黄色や赤があるのは?その答えも昨日の読売新聞・暮らし教育面の〝理科子先生と学ぼう!〟というコーナーで見つけました。
葉っぱが緑から黄色になるのは、葉の中の緑の色素「クロロフィル(葉緑素)」が分解されて、黄色の色素「カロテノイド」が残るから。
赤くなる葉は緑の色素が減ると同時に、赤の色素「アントシアン」が新たに作られるから。
寒くなると光合成が進まず、有害な物質ができる。この物質の働きを抑えるために、黄色の色素を残したり、赤の色素を増やしたりしている。
●紅葉が美しくなる条件
①晴れの日が続く
②昼夜で寒暖の差が大きい
我が家には太陽光発電は供えていないので九電が太陽光発電の供給を一時的にストップした話にはあまり興味を示さなかったけれど、近所に出来る新築には必ずと言っていいほど太陽光発電の装置が屋根に乗っかっています。太陽光で発電した電気は自家用に使って残れば地元電力会社が買い取ってくれるという触れ込みでつい最近まで屋根にソーラーシステム装置がない家庭にもセールスの声が静まることはありませんでした。でもここ何日かはそんな勧誘も治まっています。
九州の電力は原発の依存度が高いので需要と供給のバランスが取れなくなった場合には太陽光発電の電力は買ってもらえない場合が出ますと初めから説明するべきことなんだけれど、すべて利点ばかりを強調して都合の悪い事はみな後回し。
出力調整が難しい原発を危険性を顧みず何故いつまでも運転を続けようとするのか私にはわかりません。
・・東京新聞にこんな記事がありました。
経済産業省は、原発は出力を柔軟に調整することが技術的に難しい、と説明しています。しかし、フランスやドイツでは原発の出力を調整しています。環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長は「日本は国策として、原発をベースロード(基幹)電源と位置付けているからだ」と指摘しています

博多湾に浮かぶ能古島は今、コスモスが盛りだ。赤、薄紅、白と咲き競う花畑の向こうに、澄んだ秋の空と群青の海、海の中道や志賀島を望む絶景は絵画のよう
▼幼い日に遊んだコスモスの花占い。願いが「かなう」「かなわない」、「好き」「嫌い」と花びら(舌状花)を1枚ずつ。願いをかなえる知恵もあった。「かなわない」から始める。花びらは8枚。最後は必ず「かなう」に
▼「要らない」から始めて、結局「要る」になるのか。エネルギーの花占い。太陽光や風力など再生可能エネルギーを活用し、将来は「原発ゼロ」にする。それが福島原発事故を踏まえた国民の合意だった
▼喉元過ぎれば、か。各地の原発は次々と再稼働。40年を限度とした運転期間も20年延長が可能になった。原発回帰を思わせる動きが、新たに
▼九電が太陽光発電事業者からの供給を一時停止させた。全国初の出力制御だ。気象条件が良い九州は太陽光発電量が多い上、原発4基がフル稼働中。「こんな小春日和の穏やかな日」は電力消費が減る。需給の均衡が崩れ大規模停電が起きる恐れがあるからと、出力調整が難しい原発はそのままで再生エネを絞った
▼花の名は宇宙や調和を意味する「コスモス」が由来。太陽光は不安定さが弱点だが、宇宙の恵みをうまく調和させ主力電源に育てたい。その願いがかなうよう知恵を絞らねば。何気ない陽溜(ひだ)まりに揺れる秋桜(コスモス)に思う。
=2018/10/17付 西日本新聞朝刊【春秋】=
九州の電力は原発の依存度が高いので需要と供給のバランスが取れなくなった場合には太陽光発電の電力は買ってもらえない場合が出ますと初めから説明するべきことなんだけれど、すべて利点ばかりを強調して都合の悪い事はみな後回し。
出力調整が難しい原発を危険性を顧みず何故いつまでも運転を続けようとするのか私にはわかりません。
・・東京新聞にこんな記事がありました。
経済産業省は、原発は出力を柔軟に調整することが技術的に難しい、と説明しています。しかし、フランスやドイツでは原発の出力を調整しています。環境エネルギー政策研究所の飯田哲也所長は「日本は国策として、原発をベースロード(基幹)電源と位置付けているからだ」と指摘しています

博多湾に浮かぶ能古島は今、コスモスが盛りだ。赤、薄紅、白と咲き競う花畑の向こうに、澄んだ秋の空と群青の海、海の中道や志賀島を望む絶景は絵画のよう
▼幼い日に遊んだコスモスの花占い。願いが「かなう」「かなわない」、「好き」「嫌い」と花びら(舌状花)を1枚ずつ。願いをかなえる知恵もあった。「かなわない」から始める。花びらは8枚。最後は必ず「かなう」に
▼「要らない」から始めて、結局「要る」になるのか。エネルギーの花占い。太陽光や風力など再生可能エネルギーを活用し、将来は「原発ゼロ」にする。それが福島原発事故を踏まえた国民の合意だった
▼喉元過ぎれば、か。各地の原発は次々と再稼働。40年を限度とした運転期間も20年延長が可能になった。原発回帰を思わせる動きが、新たに
▼九電が太陽光発電事業者からの供給を一時停止させた。全国初の出力制御だ。気象条件が良い九州は太陽光発電量が多い上、原発4基がフル稼働中。「こんな小春日和の穏やかな日」は電力消費が減る。需給の均衡が崩れ大規模停電が起きる恐れがあるからと、出力調整が難しい原発はそのままで再生エネを絞った
▼花の名は宇宙や調和を意味する「コスモス」が由来。太陽光は不安定さが弱点だが、宇宙の恵みをうまく調和させ主力電源に育てたい。その願いがかなうよう知恵を絞らねば。何気ない陽溜(ひだ)まりに揺れる秋桜(コスモス)に思う。
=2018/10/17付 西日本新聞朝刊【春秋】=
今日の読売「USO⚡放送 」に キスの味 思い出だけになった ーキスミント
人には色々な思い出があります。
時間というものはときには残酷なもの。
何日か前の西日本新聞【春秋】にもラブレターの話がありました。
この手紙の発見により歴史の中にも隠れた物語がいっぱいあることが分かりました。
でも、お滝さんのシーボルトに宛てたこの手紙にも虚しさを感じずにはおれません。

江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルトに、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかった。シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としている。
オランダ語訳の存在は知られていたが、日本語原本の所在は不明だった。ライデン大大学院生が同大の日本関係資料の中で発見し、宮崎教授が確認した。
シーボルトは長崎・出島のオランダ商館の医師として1823年に来日。遊女だったお滝と知り合い、後に初の日本人女医となる娘イネを授かる。だが、持ち出しが禁止された日本地図を国外に運ぼうとしていたことが発覚し、29年末に国外追放となった。
手紙は30年12月に書かれた。シーボルトがオランダに戻る途中のインドネシアから同年3月に書き送り、8月に長崎に届いた3通の便りへの返事。オランダのシーボルトの元には31年夏ごろ、届けられたとみられる。
手紙は全長3・4メートルもあり、「この(3通の)手紙をあなたと思って、毎日、忘れることはありません」「くれぐれも病気にならず元気に暮らしてください」などと記し、娘の様子にも触れている。宮崎教授は筆跡などからお滝が語った内容を第三者が代筆したと分析している。
お滝が手紙と一緒に送ったとみられる自身と娘の姿が描かれた嗅ぎたばこ入れは現在日本にあり、シーボルトがお滝に送った手紙はドイツにある。シーボルトが59年に再来日した際に、お互いの品を交換したらしい。共に保存状態も良く、宮崎教授は「お互いのことを本当に大事に思っていたのでしょう」と話している。
=2018/10/12付 西日本新聞朝刊=

シーボルト
ジーボルトとも。江戸後期のオランダ商館医。ドイツ人。ビュルツブルクの生れ。医学と博物学を学び,1823年長崎出島に着任,日本研究のかたわら日本人患者を診療し,1824年長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾を設けて高野長英,高良斎(こうりょうさい),伊東玄朴,戸塚静海,美馬順三,二宮敬作ら多くの門人を指導,1826年には商館長の江戸参府に同行した。1828年シーボルト事件を起こし翌年追放されたが,日蘭通商条約締結後の1859年長子アレクサンダー〔1846-1911〕を伴って再び来日した。著書に《日本》《日本動物誌》《日本植物誌》《江戸参府紀行》などがある。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)(滝)との間に生まれた娘〈いね〉(楠本いね)はのち女医となっている。アレクサンダーは英国公使館などの通訳を経て,1870年―1910年日本外務省に勤めた。→蘭学

楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日(1827年5月31日)- 明治36年(1903年)8月26日[1])は、日本の医師。現 長崎県長崎市出身。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた。
1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807-69)の間に生まれる。
「楠本」は母の姓である。父シーボルトの名に漢字を当て、「失本(しいもと)イネ」とも名乗った。
母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも[要出典]宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・タダがいた。タダ自身の手記によれば、イネは石井によって船中で強姦されて妊娠した。タダの手記はWikipediaでご覧ください。
人には色々な思い出があります。
時間というものはときには残酷なもの。
何日か前の西日本新聞【春秋】にもラブレターの話がありました。
この手紙の発見により歴史の中にも隠れた物語がいっぱいあることが分かりました。
でも、お滝さんのシーボルトに宛てたこの手紙にも虚しさを感じずにはおれません。

江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルトに、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかった。シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としている。
オランダ語訳の存在は知られていたが、日本語原本の所在は不明だった。ライデン大大学院生が同大の日本関係資料の中で発見し、宮崎教授が確認した。
シーボルトは長崎・出島のオランダ商館の医師として1823年に来日。遊女だったお滝と知り合い、後に初の日本人女医となる娘イネを授かる。だが、持ち出しが禁止された日本地図を国外に運ぼうとしていたことが発覚し、29年末に国外追放となった。
手紙は30年12月に書かれた。シーボルトがオランダに戻る途中のインドネシアから同年3月に書き送り、8月に長崎に届いた3通の便りへの返事。オランダのシーボルトの元には31年夏ごろ、届けられたとみられる。
手紙は全長3・4メートルもあり、「この(3通の)手紙をあなたと思って、毎日、忘れることはありません」「くれぐれも病気にならず元気に暮らしてください」などと記し、娘の様子にも触れている。宮崎教授は筆跡などからお滝が語った内容を第三者が代筆したと分析している。
お滝が手紙と一緒に送ったとみられる自身と娘の姿が描かれた嗅ぎたばこ入れは現在日本にあり、シーボルトがお滝に送った手紙はドイツにある。シーボルトが59年に再来日した際に、お互いの品を交換したらしい。共に保存状態も良く、宮崎教授は「お互いのことを本当に大事に思っていたのでしょう」と話している。
=2018/10/12付 西日本新聞朝刊=

シーボルト
ジーボルトとも。江戸後期のオランダ商館医。ドイツ人。ビュルツブルクの生れ。医学と博物学を学び,1823年長崎出島に着任,日本研究のかたわら日本人患者を診療し,1824年長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾を設けて高野長英,高良斎(こうりょうさい),伊東玄朴,戸塚静海,美馬順三,二宮敬作ら多くの門人を指導,1826年には商館長の江戸参府に同行した。1828年シーボルト事件を起こし翌年追放されたが,日蘭通商条約締結後の1859年長子アレクサンダー〔1846-1911〕を伴って再び来日した。著書に《日本》《日本動物誌》《日本植物誌》《江戸参府紀行》などがある。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)(滝)との間に生まれた娘〈いね〉(楠本いね)はのち女医となっている。アレクサンダーは英国公使館などの通訳を経て,1870年―1910年日本外務省に勤めた。→蘭学

楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日(1827年5月31日)- 明治36年(1903年)8月26日[1])は、日本の医師。現 長崎県長崎市出身。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた。
1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807-69)の間に生まれる。
「楠本」は母の姓である。父シーボルトの名に漢字を当て、「失本(しいもと)イネ」とも名乗った。
母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも[要出典]宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・タダがいた。タダ自身の手記によれば、イネは石井によって船中で強姦されて妊娠した。タダの手記はWikipediaでご覧ください。
先日の熊本大学での講演にこんな話もあれば良かったのになーと思い取り上げてみました。
この記事を書いている時に震度3の地震がありました。
やはり熊本は地震が多い地域です。
江戸末期の安政南海地震は死者数数千人を出した。津波の襲来を察した紀州の庄屋、浜口梧陵は、刈り取られた稲束に咄嗟に火を放った。燃え盛る炎で注意喚起し、村人を安全な高台に導く◆ギリシャ生まれの作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が著書「生き神様」の中で紹介した。後に「稲むらの火」の物語となって戦前の国語教科書に載り、後世に語り継がれていく◆大規模な災害が相次ぐ。政府や自治体が悩むのは、豪雨や大型台風が近づいた時、いかに住民を避難誘導するかである。西日本豪雨の際、広島県内で避難勧告に従って避難所に身を寄せた人は、わずか0.74%にとどまったという◆人間には、異常を伝える情報があっても「自分は大丈夫」と思い込む心理が備わっているとされる。「正常性バイアス」と呼ばれる。精神の平静を保つための本能だが、災害時には逃げ遅れにつながりかねない◆災害の警告が出たら、空振り覚悟ですぐに行動したい。浜口梧陵が暮らした和歌山県広川町では毎年10月、住民がたいまつを手に練り歩き、先人の功績を偲ぶ。現代の「稲むらの火」が求められている。
読売新聞 「編集手帳」 2018/10/15
●稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年(嘉永7年/安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている。
もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)である。

●濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日) - 1885年(明治18年)4月21日)は、紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。
醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる

●小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。
ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。
●正常性バイアス(英: Normalcy bias)とは、認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で[1]、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。
自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる。「正常化の偏見」、「恒常性バイアス」とも言う。
●・・Wikipediaより
この記事を書いている時に震度3の地震がありました。
やはり熊本は地震が多い地域です。
江戸末期の安政南海地震は死者数数千人を出した。津波の襲来を察した紀州の庄屋、浜口梧陵は、刈り取られた稲束に咄嗟に火を放った。燃え盛る炎で注意喚起し、村人を安全な高台に導く◆ギリシャ生まれの作家、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が著書「生き神様」の中で紹介した。後に「稲むらの火」の物語となって戦前の国語教科書に載り、後世に語り継がれていく◆大規模な災害が相次ぐ。政府や自治体が悩むのは、豪雨や大型台風が近づいた時、いかに住民を避難誘導するかである。西日本豪雨の際、広島県内で避難勧告に従って避難所に身を寄せた人は、わずか0.74%にとどまったという◆人間には、異常を伝える情報があっても「自分は大丈夫」と思い込む心理が備わっているとされる。「正常性バイアス」と呼ばれる。精神の平静を保つための本能だが、災害時には逃げ遅れにつながりかねない◆災害の警告が出たら、空振り覚悟ですぐに行動したい。浜口梧陵が暮らした和歌山県広川町では毎年10月、住民がたいまつを手に練り歩き、先人の功績を偲ぶ。現代の「稲むらの火」が求められている。
読売新聞 「編集手帳」 2018/10/15
●稲むらの火(いなむらのひ)は、1854年(嘉永7年/安政元年)の安政南海地震津波に際しての出来事をもとにした物語。地震後の津波への警戒と早期避難の重要性、人命救助のための犠牲的精神の発揮を説く。小泉八雲の英語による作品を、中井常蔵が翻訳・再話したもので、文部省の教材公募に入選し、1937年から10年間、国定国語教科書(国語読本)に掲載された。防災教材として高く評価されている。
もとになったのは紀伊国広村(現在の和歌山県有田郡広川町)での出来事で、主人公・五兵衛のモデルは濱口儀兵衛(梧陵)である。

●濱口 梧陵(はまぐち ごりょう、文政3年6月15日(1820年7月24日) - 1885年(明治18年)4月21日)は、紀伊国有田郡広村(現・和歌山県有田郡広川町)出身の実業家・社会事業家・政治家。梧陵は雅号で、字は公輿、諱は成則。
醤油醸造業を営む濱口儀兵衛家(現・ヤマサ醤油)当主で、七代目濱口儀兵衛を名乗った。津波から村人を救った物語『稲むらの火』のモデルとしても知られる

●小泉 八雲(こいずみ やくも、1850年6月27日 - 1904年(明治37年)9月26日)は、ギリシャ生まれの新聞記者(探訪記者)、紀行文作家、随筆家、小説家、日本研究家、日本民俗学者。東洋と西洋の両方に生きたとも言われる。 出生名はパトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。ラフカディオが一般的にファーストネームとして知られているが、実際はミドルネームである。アイルランドの守護聖人・聖パトリックにちなんだファーストネームは、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的であったため、この名をあえて使用しなかったといわれる。
ファミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に、「Hearn」を「ヘルン」と表記したのが広まり、当人もそのように呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。ただ、妻の節子には「ハーン」と読むことを教えたことがある。HearnもしくはO'Hearnはアイルランド南部では比較的多い姓である。
●正常性バイアス(英: Normalcy bias)とは、認知バイアスの一種。社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で[1]、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。
自然災害や火事、事故、事件などといった自分にとって何らかの被害が予想される状況下にあっても、それを正常な日常生活の延長上の出来事として捉えてしまい、都合の悪い情報を無視したり、「自分は大丈夫」「今回は大丈夫」「まだ大丈夫」などと過小評価するなどして、逃げ遅れの原因となる。「正常化の偏見」、「恒常性バイアス」とも言う。
●・・Wikipediaより
熊本県博物館ネットワークセンターから熊本大学百周年記念館で市民向けの東京地学協会特別講演会の案内を受け話を聞きに行って来ました。
講演テーマの「マグマと活断層の上に生きる」というものを色々な視点から火山活動や地震について話をされました。
①「地学を国民教養に!」岩松 暉(鹿児島大学名誉教授)・・物の豊かさよりも心の豊かさが大事
②「九州の火山活動」大倉敬宏(京都大学火山研究センター)・・火山は地球をのぞく窓
③「熊本地震と九州の地震活動」松田博貴(熊本大学くまもと水循環・・減災研究教育センター)・・地震の種類・海溝型、内陸型としくみ
④「火山と人との関り、火山防災」福島大輔(NPO桜島ミュージアム)・・コミュニケーションと情報発信の仕方について
・・の後に話の要点を自分なりにまとめてみました。
講演会の後、家での夕食時に南海トラフについての番組がありました。
熊本地震から2年以上経ちますが災害は丁度忘れた頃にやって来ます。
熊本では地震の2次災害についての問題も取り上げられてはいるものの死亡事故や文化財被害以外はあまり取り上げられることはありません。
今回の催しには関連行事として〝阿蘇山と災害地形の現地見学会〟も企画されていました。
市民向けの講座内容でありましたが公聴者の年齢をもっと広げる工夫をされることを希望します。・・減災や防災そして地学教養を広げるためにも。

講演テーマの「マグマと活断層の上に生きる」というものを色々な視点から火山活動や地震について話をされました。
①「地学を国民教養に!」岩松 暉(鹿児島大学名誉教授)・・物の豊かさよりも心の豊かさが大事
②「九州の火山活動」大倉敬宏(京都大学火山研究センター)・・火山は地球をのぞく窓
③「熊本地震と九州の地震活動」松田博貴(熊本大学くまもと水循環・・減災研究教育センター)・・地震の種類・海溝型、内陸型としくみ
④「火山と人との関り、火山防災」福島大輔(NPO桜島ミュージアム)・・コミュニケーションと情報発信の仕方について
・・の後に話の要点を自分なりにまとめてみました。
講演会の後、家での夕食時に南海トラフについての番組がありました。
熊本地震から2年以上経ちますが災害は丁度忘れた頃にやって来ます。
熊本では地震の2次災害についての問題も取り上げられてはいるものの死亡事故や文化財被害以外はあまり取り上げられることはありません。
今回の催しには関連行事として〝阿蘇山と災害地形の現地見学会〟も企画されていました。
市民向けの講座内容でありましたが公聴者の年齢をもっと広げる工夫をされることを希望します。・・減災や防災そして地学教養を広げるためにも。

「おくびにも出さない」は、物事を秘密にして口に出さず、そぶりも見せない様子。「おくび」はげっぷのこと。腹にしまった秘め事を胃の中にたまるガスに見立て、げっぷとしてさえも外には出さない、という例えだ
▼げっぷが出るのは生理現象なので仕方ないが、あからさまにやると眉をひそめられるので、人前では控えた方が。ところで、人間のマナーとは無縁の牛や羊にげっぷを出させない研究が進んでいる、と先日の朝日新聞に
▼狙いは地球温暖化対策。牛や羊などは、飲み込んだ食べ物を胃で部分的に消化し、再び口に戻して咀嚼(そしゃく)する「反すう」を行う。その際に胃で発生するメタンガスがげっぷとして放出される
▼メタンガスは二酸化炭素の25倍の温室効果があり、動物が出すげっぷは温暖化の一因とされる。たくさんの牛や羊を飼育するニュージーランドやオーストラリアでは、えさの配合や与え方などを工夫し、メタンガスの排出削減を試みているという
▼国連の気候変動に関する政府間パネルが今月、特別報告書を公表した。2040年前後に産業革命前の水準から平均気温の上昇が1・5度に達し、大半のサンゴの死滅や猛暑、豪雨、干ばつなど災害の多発を予測している
▼警鐘が鳴り響いていることはおくびにも出さず、人間がエネルギーの大量生産と大量消費の反すうで温室効果ガスを出し続けていれば、牛や羊さえも眉をひそめよう。
=2018/10/12付 西日本新聞朝刊=
「おくびにも出さない」という言葉は言語学では慣用句に入るらしい。
慣用句とは、習慣として長い間広く使われてきた、ひとまとまりの言葉・文句や言い回しのこと。
普段使っている言葉の中にはどうしてこんな言葉が出来たんだろうと思うような言葉がいっぱいあります。
意味は分かるんですがどうしてそのような意味なのか語源については分からないものだらけです。
西日本新聞の【春秋】からは色んなことを取り上げて勉強させてもらえるのでありがたく読ませていただいています。
「忘己利他・もうこりた」という言葉がある。天台宗の開祖、最澄が著した『山家学生式』にみえる教えである◆〈己を忘れて他を利するは慈悲の極みなり〉と説かれている通り、自分本位の考えはやめて、人に尽くすことが生きていくうえで最も大切という意味らしい。不寛容が頭をもたげる現代社会において、かみしめたい戒めでもあろう◆比叡山延暦寺の森川宏映・こうえい・天台座主らが奈良の興福寺で再建された中金堂の落慶法要を営んだのも、その精神ゆえかもしれない。天台座主による興福寺での法要は619年ぶりと本紙大阪版が伝えている◆法相宗大本山の興福寺と延暦寺は最澄の時代以来、教義を巡って対立し、仏教界の覇を競った歴史がある。その陰で室町時代の中金堂再建に伴う法要にも天台座主が参列していたというから興味深い。歴史を顧みつつ、対立を乗り越える力のありかをふと考える◆「寺院消滅」に瀕した時代である。人口減もあって檀家は減っても、培われた文化は消えない。今を生きる手がかりも宿っていよう。
「よみうり寸評」10・11夕刊
当たり前のことのようだけれどなかなか教えどうりの行いが出来ない私たちにとっては胸を刺されるような思いがします。
いいお話をありがとう。
●さんげがくしょうしき〔サンゲガクシヤウシキ〕【山家学生式】
平安初期の仏教書。1巻。最澄著。天台法華宗年分学生式(六条式)、勧奨天台宗年分学生式(八条式)、天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)の3部の総称。弘仁9~10年(818~819)に順次成立。天台宗(山家)での学生養成制度を勅許されるよう願ったもの。
●興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。



300年ぶりに再建 興福寺 中金堂 奈良
2018年10月7日 15時31分
奈良の興福寺の中心的なお堂、中金堂が300年ぶりに再建され、完成を祝う落慶法要が営まれました。
興福寺の中金堂は奈良時代の創建以来、焼失と再建を繰り返し、300年前の江戸時代の火災を最後に失われたままでしたが、およそ20年がかりで再建されました。
7日、中金堂の前で落慶法要が営まれ、屋根の上に取り付けられた「しび」という金色の飾りが除幕され、建物の全体が姿を現すと、参列したおよそ3000人から拍手がわき起こりました。・・・NHKニュースより
「よみうり寸評」10・11夕刊
当たり前のことのようだけれどなかなか教えどうりの行いが出来ない私たちにとっては胸を刺されるような思いがします。
いいお話をありがとう。
●さんげがくしょうしき〔サンゲガクシヤウシキ〕【山家学生式】
平安初期の仏教書。1巻。最澄著。天台法華宗年分学生式(六条式)、勧奨天台宗年分学生式(八条式)、天台法華宗年分度者回小向大式(四条式)の3部の総称。弘仁9~10年(818~819)に順次成立。天台宗(山家)での学生養成制度を勅許されるよう願ったもの。
●興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある、南都六宗の一つ、法相宗の大本山の仏教寺院である。南都七大寺の一つに数えられる。藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で、藤原氏の氏寺であり、古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。南円堂は西国三十三所第9番札所である。「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。



300年ぶりに再建 興福寺 中金堂 奈良
2018年10月7日 15時31分
奈良の興福寺の中心的なお堂、中金堂が300年ぶりに再建され、完成を祝う落慶法要が営まれました。
興福寺の中金堂は奈良時代の創建以来、焼失と再建を繰り返し、300年前の江戸時代の火災を最後に失われたままでしたが、およそ20年がかりで再建されました。
7日、中金堂の前で落慶法要が営まれ、屋根の上に取り付けられた「しび」という金色の飾りが除幕され、建物の全体が姿を現すと、参列したおよそ3000人から拍手がわき起こりました。・・・NHKニュースより