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Posted by おてもやん at

2017年02月28日

今日は何の日?

今日の【春秋】を読んで、友達のブログ「今日は何の日?」という小欄を思い浮かべました。【春秋】担当者も毎日の記事のネタには色々な書物やニュースに目を通すのが、毎日のお仕事のように思いますが、今日の文章は「ふしぎなポケット」という童謡の話から、「ビスケットの日」の語源に結びつけ、締めくくりに待機児童の問題に繋げていく非常に上手な筆の運びです。いつも読ませてもらって感心しています。ありがとう。・・・
今日は何の日?
2月28日はビスケットの日


ポケットのなかには ビスケットがひとつ/ポケットをたたくと ビスケットはふたつ・・・。まど・みちおさん作詞の「ふしぎなポケット」。ぽけっとをたたくたびにビスケットが増えていく►きょうは「ビスケットの日」。全国ビスケット協会によると、長崎に留学していた水戸藩の蘭医、柴田方庵は、保存が利く食料としてビスケットに着目。製法を調べ、藩に書き送ったのが安政2年(1855)年2月28日だった。方庵の日記は、日本でビスケットが作られていたことを示すさいこのきろくという►また、ビスケットの語源はラテン語で「2度焼かれた物」、「2(に)どや(8)かれた」の語呂合わせも兼ね、2月28日を記念日にしたそうだ►ポケットをたたくと増えるのが保育所だったら---。そう願いたくなる保護者も多かろう。許可保育所に4月入所を希望しながら、〝落選〟した母親らが国会で集会を開き、「保育所を増やして」と国会議員に訴えた►昨年、「保育園落ちた日本死ね」という
匿名のブログから注目が集まった待機児童問題。国や自治体も保育所増設や保育士確保に力を入れているが、現状はまだ厳しいようだ。►また落ちた、子供の預け先がない、仕事を続けられない・・・ネット上には、何度も焼かれるような思いをする親たちの悲鳴が。不思議なポケットはないけれど、親子で笑ってビスケットを楽しめる社会へ少しでも近づけたい。
西日本新聞 【春秋】 2017・2・28

●まど・みちお
まど・みちお(本名:石田 道雄〈いしだ みちお〉、1909年〈明治42年〉11月16日 - 2014年〈平成26年〉2月28日)は、日本の詩人。25歳のときに北原白秋にその才能を認められ、33歳のときには太平洋戦争に召集された。詩作りは20代から始め、以来生涯にわたって詩を作り続けた。創作意欲の源は、政治・行政・教育・経済・戦争などに対する不満である。「ぞうさん」や「やぎさんゆうびん」などの、そのおおらかでユーモラスな作品は童謡としても親しまれている。表現の前に存在があるという意味で「存在の詩人」とも称される。

●柴田方庵 しばた-ほうあん
1800-1856 江戸時代後期の蘭方医。
寛政12年生まれ。江戸で朝川善庵に儒学をまなぶ。長崎で竹内玄同,青木周弼(しゅうすけ)らシーボルトの門人とまじわり,西洋医学をおさめる。種痘法をまなび,長崎,大坂などで実施。帰郷して常陸(ひたち)水戸藩医となるが,のち長崎で開業。嘉永(かえい)4年(1851)験温器をつくる。安政3年10月8日死去。57歳。名は海。字(あざな)は谷王。


  


Posted by マー君 at 11:34Comments(0)つぶやき
2011年3月11日の東北地方太平洋沖地震により引き起こされた東京電力の福島第一原子力発電所で原発事故が発生しまた。賠償費や廃炉費用の支払いについて事故から6年になりますが、どのようになっているのかほとんどの人は知らないと思います。東京電力が引き起こした原発事故は、終息までにかかる費用は20兆円を超すものと言われていますが、非常に不透明な部分が多くて我々が知らないうちに電気料金で賄われていたり、廃炉費用については税金と異なり、国会審議を経ずに上乗せできる託送料(送電料)で賄うようでもあります。簡単に国民に負担をかけやすい安易な方法に思えます。本当はもっともっと審議をして問題をもう少し詳しくあからさまにする事が大事だと思います。原発事故の処理費用を、電気料金に乗せて国民から取るやり方には即座に賛成することは出来ません。
今日の朝日デジタルに福島原発の賠償費を電気代で賄っている記事がありましたが、やり方がまさに隠蔽的で憤りを感じます。



福島原発賠償費、電気代での負担額は 1世帯あたり試算
東京電力福島第一原発事故の損害賠償費用は、原発を持つ東電以外の電力会社も一部を負担している。家庭の電気料金でまかなっている7社について、朝日新聞が取材を元に国の家計調査を当てはめて試算したところ、1世帯(2人以上)あたり年約587~1484円を負担している概算となった。家庭の負担額は料金内訳が書かれた検針票には示されておらず、利用者の目には届かない。

 国の試算で、賠償費用は7・9兆円にのぼる。うち5・5兆円分について、東電の負担に加え、他の電力会社も「一般負担金」として、原発の出力などに応じて負担している。

 7社は東京、北海道、東北、中部、関西、四国、九州の各電力。朝日新聞の試算では、家庭向けの電気料金で回収している一般負担金は1キロワット時で約0・11~0・26円だった。

 関電と中部電が取材に対し、家庭向けの1キロワット時の概算を出していることを明らかにした。この方法を元に朝日新聞が他社分も試算。全社がこの試算の考え方に誤りがないことを認めている。
朝日新聞社

電力7社が電気料金に盛り込んだ福島の事故の賠償費
【電力7社】  【1年度あたり一般負担金の額】  【1KWhの負担額(概算)】  【1世帯の2016年 の負担額(概算)】

北海道     65億2000万円        0.22円           1034円
東北      107億910万円         0.14円            774円
東京      567億4030万円        0.25円           1159円
中部      124億2060万円        0.11円            587円
関西      315億2420万円        0.25円           1212円
四国       65億2000万円        0.26円           1484円
九州      169億1940万円        0.22円           1127円

(単数は四捨五入一般負担金の額jがいは朝日新聞社の試算)  


Posted by マー君 at 14:44Comments(0)つぶやき





最近になってよく目につく広告に九州国立博物館の「特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷」があります。
古代の歴史に興味があるからかもしれませんが、昨年のさわやか大学の旅行で宗像大社まで行き、沖ノ島の出土品を展示している神宝館に寄れなかった悔しさがまだ頭の中に残っているからだろうと思います。
1月は予定が取れなかったので、2月に入ってすぐ九州国立博物館の特別展(3月5日まで)へ行く予定にしていましたが、鼻炎と風邪にやられて1週間身動きが取れない状態、〝やっぱり歳には勝てないのかな〟と我ながら再認識。症状も治まり、月末の25日(土)に朝から出かけましたが、高速道路は地震の復旧作業がまだ続いていて、松橋~益城インターまで片側通行で大渋滞。九州国立博物館に着いても、駐車場から展示場まですごい混雑の状態でした。2時間半ほどかかって展示物を鑑賞。

沖ノ島の収蔵品は海の正倉院と言われるほどに、貴重な品々が揃っており8万点もの出土品はすべて国宝に指定されています。
沖ノ島で祭祀が行われたのは4世紀後半から約550年にわたって執り行われました。
そのことは沖ノ島で執り行われた祭祀の場所が、時代ごとに4つの場所に移り変わっていることで判明しました。
沖ノ島の祭祀については、祭祀の始まりの時代からその地域の首長であった宗像氏が関わってきました。
沖ノ島の祭祀場所は時代により下記のように変遷します。
①岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)
②岩陰祭祀(6世紀~7世紀)
③半岩陰祭祀(7世紀後半~8世紀)
④露天祭祀(8世紀~10世紀)


宗像大社の表参道から沖ノ島を延長すると、対馬の北部を経て韓国は釜山を見通す直線に並ぶことになり、沖ノ島は古代の対馬海峡、朝鮮海峡を横断する航路(海北道中)の守護神として人々に祀られました。
4世紀前半ごろ大和王権の勢力は北部九州まで及びますが、大和王権が加耶(かや)・百済(くだら)との関係を深めるために、重要な役割を持つと考えたのが「海北道中」を支配し、優れた航海術を持つ宗像氏です。
4世紀後半、沖ノ島における国家的な祭祀が大和王権によって行われるようになりました。これは、大和王権が加耶・百済との通好において、朝鮮半島へ渡る際の航海の安全を祈願したことから始まります。
海北道中

宗像郡の位置
古代、宗像地方を支配したのは海人族(あまぞく)である宗像氏であり、氏の長は「宗形君」でした。
「宗形君」は豪族であり今の宗像一円から遠賀(おんが)、鞍手(くらて)、糟屋(かすや)方面まで勢力を持ち、宗像三女神をお祀りする神官という立場と郡司を兼ねていました。
玄界灘に浮かぶ孤島である福岡県宗像市沖ノ島は、古墳時代の代表的な祭祀遺跡として知られています。
そこに捧げられた品々には、銅鏡や金銅製馬具など、古墳の副葬品としても最上級の品目が数多く含まれていて、七号遺跡出土の金銅製の馬具は、表面に鳥人像(人の顔と鳥の翼を持った生物の像)を透彫りしたもので、朝鮮半島の新羅地域で製作されたといわれている。
金銅製馬具の出土をはじめ、他の祭祀遺跡には認められない特徴が沖ノ島では数多く確認されていることから、この島における神まつりには、ヤマト王権がかかわった可能性が指摘されている。大陸や韓半島との盛んな交流のなかで入手された品々が捧げられ、航海の安全などが祈願されていました。

「金銅製心葉形杏葉」沖ノ島7号遺跡(福岡県)=宗像大社蔵

金製指輪 沖ノ島7号遺跡出土

4~6世紀に航海安全と交易成就を願う国家祭祀が行われた沖ノ島と比類される遺跡が韓国の全羅北道・扶安に竹幕洞祭祀遺跡(ちくまくどうさいしいせき)があります。竹幕洞祭祀遺跡は韓国で最初に発掘された祭祀遺跡です。
この遺跡は3世紀から4世紀にかけて壷中心にした土器を使う祭祀が行われ、5世紀から6世紀にかけては、百済の祭祀だけではなく、大伽耶、倭系のものが多数出土していて中には、中国陶磁もあり倭、伽耶、百済、中国のルート、交流跡です。
5~6世紀、海に突き出た岬で百済の人々が航海安全を願って行った儀式に、倭人も参加していたと思われます。


竹幕洞祭祀遺跡は、韓半島の西海岸にある半島の先端にある遺跡です。

古墳時代に各地で行われた祭祀のなかで、具体的な様相が明らかとなりつつあるもの一つとして、水にかかわる祭祀があります。
奈良県御所市南郷(なんごう)大東(おおひがし)遺跡では、大規模な導水施設(貯水池から木樋(もくひ)で水を引き木槽(もくそう)に集め、沈殿とろ過で清浄な水を得る装置)の跡が見つかっており、水にかかわる祭祀が執り行われた場と考えられています。
また出土した土器の中には韓式系土器(朝鮮半島系の土器)が認められ、渡来系の人々もこの祭祀に関わっていたと考えられます。
一方、古墳からも祭祀の一端をうかがわせる埴輪がみつかっています。
先に触れた導水施設の形を表した埴輪が、大阪府八尾市心合寺山(しおんじやま)古墳や三重県松阪市宝塚1号墳、兵庫県加古川市行者塚(ぎょうじゃづか)古墳などでみつかっている。
このような埴輪が古墳の墳丘上に置かれていたことから、水にかかわる祭祀に、古墳に埋葬された首長が直接かかわったことが考えられ、祭祀遺跡と古墳の双方向から祭祀の実像が明らかにされつつあります。
王や首長たちにとって、大規模な古墳を造営することや政治(まつりごと)とともに、祭祀を司祭者として執り行うことも、彼らの重要な職務でありました。
また、祭祀遺跡のなかには渡来系の出土品がみつかっている遺跡もあり、古墳時代における韓半島との活発な交流が信仰の世界にも及んでいることが伺える点は興味深いものです。

導水の囲形埴輪

酒船石(さかふねいし)遺跡(斉明天皇2年(656年))奈良県明日香村

古墳時代は、前方後円墳や円墳などの、墳と呼ばれる土を高くもりあげたお墓が盛んに造られた時代をいいます。
前方後円墳は、日本独自の古墳の形です。そこに葬られた人物は、大和朝廷と交友関係を持ち、その地域を治めていたリーダーであったと考えられています。 
古来、神まつりはさまざまな場で行われていたといわれています。
古墳時代には、王や首長の住まう居館、集落、井戸、水辺、あるいは山や巨岩をのぞむ場などで神まつりが営まれていました。
宗像地域(宗像市、福津(ふくつ)市)にある前方後円墳は、現在約40基が知られています。
これらの前方後円墳は、3世紀後半から6世紀終わりごろにかけてつくられたものです。
つくられた場所は、入海(いりうみ)の海岸ぞいにあり、海が見渡せる小高い丘の上につくられています。
これらの古墳は、どうやら海を意識してつくられていたようです。
前方後円墳は福岡県全体で約200基が発見されていますが、そのうちの40基が宗像地域にあります。



宗像(むなかた)と表示する地域は、古代には現在より広い地域を表していました。宗像氏が支配する地域と同じでした。
701(大宝元)年に制定された大宝律令によって国郡里制が施行されましたが、筑前国の宗像郡は、北は玄界灘、東は遠賀郡、南は鞍手郡、西は糟屋郡に接していました。宗像氏が支配する地域は隣接する郡を越えていました。
宗像には海岸近くに縄文時代の遺跡があり、狩猟・漁労生活を営んでいたと思われます。
釣川流域の平野を望む高台には弥生時代の集落跡があります。
宗像は、古代、海人の豪族胸形氏(胸肩氏・宗形氏とも表す)が支配する地方でした。
宗像大社に祭られている宗像三女神は、胸形氏が祭る神々でした。朝鮮半島との結びつきが強くなるに従い、海上交通を守護する神として、中央とも関係深い神となっていきました。

隣接した福津市の北部の丘陵地や台地に津屋崎古墳群が分布しています。5世紀から7世紀にかけての前方後円墳、円墳等60基を数えます。胸形氏一族の古墳群といわれています。
宗像の古墳や遺跡から出土する土器や鉄でつくられた道具、アクセサリーなどのなかには、中国や朝鮮半島でつくられた道具など、「海」を渡って交易しなければ手に入らない品々が発見されています。
このことから、たくみに船をあやつって玄界灘にこぎだしていく、「むなかた海人」の活躍がうかがえます。
日本の各地に勢力を広げていく過程においてヤマト政権は、朝鮮半島の国々や中国との交易の拠点として宗像の地はどうしても手に入れておきたい地であったと思われます。
九州歴史資料館(福岡県小郡市)は2015年3月16日、同県行橋市の延永ヤヨミ園遺跡(のぶながヤヨミそのいせき)から九州で初めて出土した古墳時代の水の祭祀遺構「導水施設」の木樋(もくひ)が、3世紀中ごろー4世紀中ごろのものと判明したと発表しました。
毎日新聞が報じています。写真は延永ヤヨミ園遺跡。(出典:九州歴史資料館)・・・2015年03月17日

毎日新聞は続けて、「ヤマト政権発祥の地とされる奈良県の纒向遺跡で出土した国内最古の3世紀後半-4世紀初頭のものとほぼ同時期で、近畿で始まった水の祭祀が極めて短期間に九州にも伝わっていたことになる。誕生したばかりのヤマト政権が延永ヤヨミ園遺跡一帯を九州支配の拠点としていたとみる識者もいる」としています。
さらに、導水施設について、「木樋や木槽などに水を流し、上澄みの浄水を得る古墳時代の施設。木樋の周囲は建物や壁で覆う例が多く、神聖な場所の隔離とみられることから祭祀施設とされる。近畿中心に群馬県など全国13遺跡で確認され、施設をかたどった埴輪や石製品も三重、東京、大分など全国12地点で出土している」。
要は疑似的な川・河をつくったもの。上記では神聖な場所としていますが、川・河で連想されるのは、この世とあの世、此岸と彼岸。死者に対する特別な儀式が行われていたのかもしれません。
時期的には前方後円墳の出現期と同じ。前方後円墳というあの巨大な築造物こそ、ほとんど間をおかず、畿内と、九州など各地で突如誕生することから、こうした施設や祭祀、遺構が畿内と九州で同時期のものが見つかっても、それほど不思議はないような気がします。
前方後円墳はお墓。そしてそれは、大規模なものになればなるほど周濠を持つのが通例になります。これも疑似的な川・河でしょうか。「導水施設」と同じ発想だった、さらに飛躍させれば、前方後円墳と「導水施設」は思想的にはセットであり、同じタイミングで畿内から波及した、とも言えるかもしれません。
前方後円墳は古代祭祀、さらには古代日本すべての事象を解き明かす、まさに“鍵穴”の可能性があり、関連するかもしれない祭祀の遺構の発見や研究がさらに進展することが望まれます。古墳時代の首長居館に導水施設が取り込まれている例や、囲形埴輪が古墳の祭祀に用いられていることから見られるように、導水施設は、その時代の首長の祭祀に深く関わりを持つ施設であったといえます。


岩上祭祀が行われ始めた4世紀後半頃は卑弥呼が亡くなった248年頃から100年以上先の時代になります。
また中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本に おいて「空白の4世紀」とも呼ばれています。
4世紀は下記に記された石上神社所蔵の七支刀と高句麗の広開土王碑のみが今のところ唯一の歴史資料です。

【3世紀~5世紀の歴史年表】
239年 - 倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初三年『三国志』魏書・東夷伝)。
243年 - 倭王が魏に使者を送り、生ロ・倭錦などを献じる(魏の正始4年、『三国志』魏書・小帝紀、同東夷伝)。
245年 - 魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏の正始六年、『三国志』魏書・東夷伝)。
247年 - 倭の女王卑弥呼、倭の使者を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を告げる。魏は、使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を倭の大夫に与え、檄       をつくって告喩する(魏の正始八年、『三国志』魏書・東夷伝)。
248年頃 - この頃、女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる。
266年 - 倭の女王が晋に使節を派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)。
     この頃(300年頃)、日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、     器台形土器を供献した墳丘墓(首長墓)が現れる。
     日本では古墳時代にあたる。
     4世紀の初め頃から福岡県沖ノ島で盛んに祭祀が行われる(平安時代初期頃まで続いた)。   
369年 倭国が朝鮮半島南部に任那を建国、倭国の北限とする。
    石上神宮に所蔵されている七支刀は銘文によるとこの年に作られたか。第13代百済の近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年・在    位:346年 - 375年)が倭国に対して七支刀を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。。こうした対高句麗    の外交戦略は、次代の近仇首王(きんきゅうしゅおう)にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった.
391年 - 倭軍が渡海して百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)。
    中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本に    おいて「空白の4世紀」とも呼ばれている。
5世紀
    日本では倭国の古墳時代中期にあたる。各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方とヤマト王権中枢双方のの首長たちの祭祀儀礼が     執り行われる。この世紀の倭国は朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録     から伺われる。当時の5代に及ぶ治天下大王が東晋から南朝にかけての江南の王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国    正史の記述に残されており、倭の五王として知られている。
400年代初頭 - 大王クラスの大形前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り更に巨大化する。
    大仙古墳(伝仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)が代表例。副葬品に人物埴輪が現れる。
404年 倭軍がもとの帯方郡の地域に出兵し、高句麗軍に撃退される(広開土王碑)。
413年 倭国が東晋に朝貢する(東晋・義煕9、『晋書』安帝紀、『太平御覧』)。
414年 高句麗の広開土王(好太王)碑建つ。
421年(宋・永初2年)- 倭王の讃、宋に朝貢し、宋の武帝から、除綬の詔うける(おそらく安東将軍倭国王)(『宋書』倭国伝)。
425年 (宋・元嘉2年)- 倭王の讃、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる(『宋書』倭国伝)。
430年 (宋・元嘉7年)- 倭国王、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(おそらく讃)(『宋書』文帝紀)。
430年頃 - 各地に巨大古墳出現する。馬具や甲冑、刀などの武器が副葬されるようになる。
438年 (宋・元嘉15年)- これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、珍宋に朝貢し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事    安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める(『倭国』倭国伝)。4月、宋の文帝、珍を安東将軍倭国王とする(『宋書』文帝紀)。珍はま    た倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(『宋書』倭国伝)。
439年北魏の太武帝が甘粛河西[要曖昧さ回避]の北涼を滅ぼし華北を統一。五胡十六国時代が終わり、南北朝時代が始まる。
440年代440-450年 - 千葉県市原市の養老川下流域の北岸台地上の稲荷台1号墳で出土した「王賜銘」鉄剣が房総の王に授けられる。
443年 (宋・元嘉20年)- 倭国王の済、宋に朝貢して、安東将軍倭国王とされる。
463年 吉備氏の乱が起こる。星川皇子の乱が起こる。
471年 - 埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した「辛亥年七月中」の干支銘を持つ金錯銘鉄剣が製作される。
477年 - 倭国が宋に朝貢する(『宋書』順帝紀)。これより先、興没し、弟の武立つ。
478年 - 倭王武が宋に入貢して上表する。「父祖の功績と父兄の志を述べ、高句麗の無道を糾弾し、自ら開府儀同三司と称し、正式の任命を求     める。宋の順帝武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」とする(『宋書』順帝紀、『宋書』倭伝)。


弥生時代の終わりごろ邪馬台国という国があり、その後100年ほどの間に政権が何らかの形で移行され、近畿地方にヤマト政権が誕生しました。
その頃、日本の国は古事記・日本書紀による「国生み」の神話では大八島とされていました。
伊邪那岐・伊邪那美の二神は、大八島を構成する島々を生み出していきました。産んだ島を順に記すと下のとおり。
①淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
②伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
●胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
●愛比売(えひめ):伊予国
●飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
●大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
●建依別(たけよりわけ):土佐国
③隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
④筑紫島(つくしのしま):九州
●胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
●白日別(しらひわけ):筑紫国
●豊日別(とよひわけ):豊国
●建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
●建日別(たけひわけ):熊曽国
⑤伊伎島(いきのしま):壱岐島
別名は天比登都柱(あめひとつばしら)
⑥津島(つしま):対馬
別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
⑦佐度島(さどのしま):佐渡島
⑧大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州
別名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
以上の八島が最初に生成されたため、日本を大八島国(おおやしまのくに)という

九州はこの頃筑紫島(つくしのしま)と呼ばれ、筑紫国、豊国、肥国、熊襲国が有ったと書いてあります。
九州にヤマト政権の影響が大きく及ぶのは、継体天皇の時代と考えられ、まだまだヤマト王権は中央集権体制と呼べるほどの強大な権力を持っておらず、大和地方以外の九州北部や関東地方では地方分権的な独立勢力が多く残っていました。
つまり、大和政権は日本各地を隅々まで直接的に統治できるような政治体制ではなかったわけで、九州には筑紫君磐井(つくしのきみいわい)や火君(ひのきみ)、関東には上毛野君(かみつけのきみ)や下毛野君(しもつけのきみ)という強大な豪族勢力が存在していました。
これらの地方の大豪族は形式的にはヤマト王権に臣従していましたが、それほど大きな力の差があるわけではなく、ヤマト王権と対等な立場に立つという気概を完全に捨て去ったわけではありませんでした。
『継体天皇の朝鮮出兵(対新羅)』における九州の人民の徴兵によってヤマト王権への不満が高まったことが原因とも言われますが、遂に、527年に筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がヤマト王権に反乱を起こします。
これが『磐井の乱(527)』と呼ばれる大規模な大和朝廷に対する反乱になるわけですが、筑紫君磐井が反乱を起こした背景には『朝鮮外交の利害対立・九州と新羅の結びつき』が深く関与していたのではないかと見られています。
『日本書紀』によると、大和朝廷は527年に新羅に侵略された任那の南加羅を奪い返すために、近江臣毛野(おうみのおみけの)を将軍とする約6万人の軍勢を朝鮮に派兵しようとしたといいます。
中央政府である大和朝廷は百済との同盟を結んでいて、『南加羅の復興と百済の救援』という大義名分を持って出兵しようとしたのですが、地方豪族である筑紫君磐井は新羅との同盟を結んでいて、近江臣毛野率いる軍勢が朝鮮に渡ろうとするのを妨害しました。
また、大和朝廷と磐井との対立には、『同盟関係・朝鮮外交の利害』だけでなく『政治的な主従関係への反発・朝鮮出兵にかかる重い負担』もあったと言われ、筑紫君磐井は朝廷から一方的に朝鮮出兵の命令を受けるのを快く思っていなかったようです。
中央政府の統制強化に反旗を翻した豪族の筑紫君磐井ですが、結局、『磐井の乱』は翌年の528年に物部麁鹿火(もののべのあらかい)率いる軍勢によって鎮圧されることになります。
九州地方の大豪族として勢威を振るっていた筑紫君磐井が、継体天皇の大和朝廷に討伐されたことにより大和朝廷の政治的な支配統制能力はより一層の拡大を見せることとなりました。


新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群

宗像郡(むなかたぐん)は、福岡県(筑前国)にあった郡。
宗像は古くは宗形、胸形とも書き、宗像神社(宗像大社)の所在地として重んじられていた。大化から天武天皇期にかけて順次設置されたとされる八神郡のひとつであり、文武天皇2年(698年)3月9日には近親者の連任を許す詔が下されている。一般に郡(評)を治める郡司(評司)に近親者を続けて任命することは禁止されていたが、宗像郡では神社を代々まつってきた宗形氏が重視されたものである。8世紀には宗像神社の神官が郡の大領を兼任したが、この制度は延暦19年(800年)12月4日に廃止された

神郡しんぐん
「かみごおり」とも読む。一郡すべてが神社の所領となるもの。養老7 (723) 年には,伊勢国度会,多気 (伊勢神宮) ,安房国安房 (安房神社) ,出雲国意宇 (出雲大社) ,筑前国宗像 (宗像大社) ,常陸国鹿島 (鹿島神宮) ,下総国香取 (香取神宮) ,紀伊国名草 (日前,国懸神宮) を八神郡と呼んだ。 神領の一。一郡を神社の所領とし、租税を諸祭料などの費用にあてた

【鉄資源、大陸文化の移入】
・朝鮮との行き来は頻繁であった。海を渡るとき、その安全を祈願したのが沖ノ島であり、海の正倉院と呼ばれ、渡海安全を祈念した鏡などが遺跡に残されてい る。
これらは本州中央で作ったものである。また、朝鮮半島南部でも倭で作られた土師器や鏡が出ている。前方後円墳もあるなど、日本と朝鮮半島南部との関わ りは深い。おそらく、言葉も通じたのではないかと思われます。
倭国は4世紀末には、百済と新羅を服属させ、朝貢させていたのですが、大和政権の権益がある伽耶地域に対して手を伸ばそうとしてきます。大和政権は、朝鮮と密接な関係を保ち、そこから鉄を輸入することで他勢力に対して優位に立っていたので、伽耶地域を失うわけにはいきません。
こうして大和政権の軍勢は海を渡り、391年に百済と新羅を破ります。
さらに399年になると大和政権は百済と手を組むことにし、新羅を再び破るのですが、新羅は高句麗の広開土王(好太王)(374~412年)に援軍を要請。翌年、騎馬隊の戦力に勝る高句麗軍は大和政権の軍勢を破りました。
しかし、大和政権はすぐさま再攻撃に出ます。
404年になると、なんと朝鮮半島北西部まで怒濤の攻撃を繰り出すのです。
・・・が、やはりこれも高句麗軍の猛烈な反撃に遭い、見事に大敗を喫し、これによってしばらく、大和政権は本格的な朝鮮半島への軍事介入を諦めました。
以上の高句麗VS大和政権(倭)の交戦の記録は、当時、高句麗が都を置いていた丸都(がんと 現・中国吉林省集安市)にある好太王碑にシンプルながらも書かれています。これは、広開土王の一代記を記した碑文で、当時の日本と朝鮮の関係を記した、唯一と言ってもいい貴重な資料となっています。
古墳時代の首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている祭政一致の地位にありました。
列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられます。
  

  


Posted by マー君 at 11:03Comments(0)歴史
25日から国公立第2次試験の前期日程が始まります。福岡市では人気ライブが重なるなどで受験の宿が不足するなど、試験前から大変心配されていましたが企業や市民提供で宿は何とか確保できた模様。後は安心して明日からの受験に専念してほしい。昔とは違って問題も随分むつかしくなっています。今年は最年長の孫が受験するので特に関心があります。みんな頑張ってほしいと思います。がんばれ受験生パチパチ

食事代などの総額を参加者の人数で割って各自が支払う「割り勘」。日本ではよく見掛ける光景だが、世界ではそうでもないようだ►中国や韓国では、誘った側や目上の人がおごるのが慣例。「割り勘で」と言えば、かえって失礼になることも。英語では「ダッチカウント(オランダ人の勘定)」。この言葉は「けち」という意味でも使われる。英国人がかって敵だったオランダ人をけなしていったのが始まりと伝わる►一説では、割り勘の発案者は江戸時代の戯作者(げさくしゃ)、山東京伝とか。商売人でもあった京伝は金に細かく、友人との飲食でもその場で頭割り計算した。当時は一人がまとめて払うのが普通だったので、このやり方は「京伝勘定」と呼ばれたそうだ►京伝が現代に生きていたら、きっと重宝したろう。三井住友銀行はスマートホンで簡単に割り勘ができるアプリを開発した。同行ホームページから無料で入手できる►単純な頭割り計算だけでなく、参加者ごとに支払額の棒グラフを表示。指で伸び縮みさせるだけで、負担割合を変えられる。部長や課長が部下よりもたくさん払う割り勘も、あっという間に►月末の金曜日は早く退社しようという「プレミアムフライデー」がきょうから。ちょいっと一杯もたまには悪くない。職場の仲間と繰り出す人もいよう。同僚なら、見えを張らない「京伝勘定」が、うまい酒を続ける秘訣か。
西日本新聞 【春秋】 2017・2・24



山東京伝似顔(京都大学文学部蔵、細田英里画)

山東京伝(1761-1816)は、江戸時代を代表する戯作者です(「戯作」は、江戸時代後半に作られた小説類の総称)。本名岩瀬醒(いわせさむる)、俗称を京屋伝蔵といい、「江戸城紅葉"山"の"東"に住む"京"屋の"伝"蔵」ということから、「山東京伝」という筆名をつけたといわれています。
18歳で画家としてデビューし、20歳頃から黄表紙と呼ばれる絵入読み物を書きはじめます。『御存知商売物』(1782刊)、『江戸生艶気樺焼・えどうまれうわきのかばやき』(1785刊)といった黄表紙は大評判を得、京伝は一流作家といわれるようになりました。
さらに、遊郭内部の様子を描く洒落本を出し、これもベストセラーとなります。が、1791年、風俗を乱す本を取り締まる出版物取締令に触れてしまい、手錠をかけたまま50日間生活させる「手鎖の刑」に処せられます。
その処分の後、京伝は、江戸京橋の南(現在の銀座一丁目)に紙製煙草入れ店を開きました。彼がデザインした煙草入れは大流行し、江戸の有名ブランド店として大繁盛します。同時に、読本、合巻と呼ばれる多くの小説を執筆し、江戸戯作界の第一人者として活躍し続けました。
1816年9月7日、京伝は胸痛の発作を起こし、56歳でこの世を去りました。現在、両国回向院に、同じく戯作者であった実弟の山東京山とともに眠っています。
  


Posted by マー君 at 14:47Comments(0)記事

2017年02月23日

「安寧秩序を害する」





現在国会で審議されているテロ等準備罪は、犯罪の計画段階で処罰可能とする内容で、政府は2000年に署名した国際組織犯罪防止条約を批准するために必要だと説明しています。1/11には安倍総理は成立させなければテロ対策で各国と連携する国際組織犯罪防止条約が締結されず
「2020年東京五輪・パラリンピックが開催できない」とインタビューで話しています。
昔(1910・明治43年)、大逆事件の一つである幸徳事件は、明治天皇の暗殺を計画したとして、全国の社会主義者や無政府主義者を逮捕・起訴して死刑や禁固刑判決を下した事件がありました。この問題について1960年代以来、大量の研究書が発表されており、幸徳事件(大逆事件)は国家によるフレームアップ(濡れ衣)の典型例であることが確実となりました。
「テロ等準備罪」は何度も廃案になった「共謀罪」が名前を変えただけのものです。明治政府が「安寧秩序を害する」として一般庶民をも巻き込んでいった大逆事件の再来を思い浮かばされるような問題でもあります。

●フレーム‐アップ(frame-up)・・
事件を捏造(ねつぞう)したり、人に無実の罪を着せたりすること。政治的反対者を孤立させ、弾圧・攻撃する口実とするために用いられる。でっちあげ。

●共謀罪 とは・・
重大な犯罪にあたる行為を「団体の活動」として「組織により」実行しようと共謀すると、実際に行動を起こさなくても、それだけで罰するという内容。2000年に国連が採択した国際組織犯罪防止条約の締結のためには国内法の整備が必要だとして、政府は03年から3度にわたり国会に関連法案を提出したが、いずれも廃案になっている。

●幸徳秋水
生年月日:1871年11月5日
出身地:高知県幡多郡
死没:1911年1月24日 (39歳)
幸徳 秋水は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者である。 本名は、幸徳傳次郎。秋水の名は、師事していた中江兆民から与えられたもの。大逆事件で(主犯として)処刑された12名の1人。

【春秋】 2017/02/23 西日本新聞
政府は2月22日、国家の「安寧秩序を害する」として「日本社会党」に解散を命じた。といっても110年前のこと。社民党の前身で戦後に発足した社会党とは別の政党だ►戦前の社会党は、日本初の合法的な社会主義政党として1906年に誕生。労働者が政治に参加できる普通選挙の実現を目指し、市電値上げ反対や足尾銅山争議など大衆運動に取り組んだ►やがて米国から帰国した急進派の幸徳秋水がストライキなどの「直接行動」を主張するようになる。労働争議の拡大を恐れた政府は、社会・労働運動の取り締まりを目的とした治安警察法に基づいて結社禁止処分とし、同党は1年足らずで解散に追い込まれた►これを機に、社会主義運動への弾圧が強まり、10年の大逆事件につながる。明治天皇暗殺を計画したとの疑いで幸徳ら無政府主義者12人が処刑された。容疑は一部を除き、でっち上げとされる►政治活動だけでなく、言論や報道も規制された冬の時代。石川啄木は事件直後に発表した評論「時代閉塞(へいそく)の現状」で〈強権の勢力は普(あまね)く国内に行きわたり〉〈自滅の状態〉と嘆いた►明治末期と単純には重ねられないが、どこか似た空気が。政府が来月にも閣議決定を目指す「共謀罪」改め「テロ等準備罪」。対象犯罪を大幅に減らすというが、「安寧秩序を害する」とでっち上げられることはないのか。うかつに物も言えない冬の時代はごめんだ。
  


Posted by マー君 at 14:11Comments(0)つぶやき

2017年02月21日

地層横滑り


今日は朝から、阿蘇の内牧温泉が昨年の熊本地震で温泉の湯が止まってしまったことについて、九州大学の研究グループが温泉水が止まったメカニズムについて解明したと、テレビのニュースで何度も見聞きしましたが、テレビの短いニュースの解説からは、即座に全てを理解することは出来ません。新聞にも同じ記事がありましたので活字を読むことでやっと理解ができました。
地層の横滑りが大きな原因で、地下50メートルの地層で液状化が起き水平方向に横滑りしたため、温泉水をくみ上げる井戸が壊れたり、田んぼでの自噴や湧き水の発生も、この水平滑りが引き起こしたとみられると説明しています。地下50メートルの地点は地熱貯留層にあたり、石や泥など液状化しやすい地層で地震動によって液状化が発生し、地層が水平に約1メートルずれていたことを確認したと述べています。
また泉源には問題はないと説明されています。  


Posted by マー君 at 11:23Comments(0)熊本

2017年02月20日

「あびき」について

日々の生活の中で何か気付いた事や、目新しい事柄などを取り上げて自分自身の勉強にするようにしています。
今日は東大グループの方々が九州西岸で頻発している「あびき」という潮位変動の前兆とも思われる現象を観測している事が、防災への応用に期待されるという記事が目につきました。
「あびき」という言葉は今まで聞いた事もありません。一部の地方の方には馴染みのあるものかもしれませんが、調べてみますとあまり有り難いものではないようです。
新聞記事からと、ブリタニカ国際大百科事典 からそして気象台のホームページからそれぞれ説明文を引き抜いてみました。

※長崎地方気象台によると、長崎湾で年平均12回、鹿児島県枕崎で同14回観測される。東シナ海上で低気圧が発生しやすい2~4月に全体の7割が集中するという。予測は困難で、九州沿岸では度々被害が発生している。
通常の波の満ち引き(主振動)の波には一定の周期があることから、これとは異なる周期の波を見つけ、あびき発生初期の小さな潮位変化が観測できないかを調べる。より潮位変化の大きい津波をいち早く検知する技術に繋がると期待されています。

※あびき
長崎港で発生する副振動 (静振) の別名。語源は「網びき」で,それがなまったものといわれている。振動の山と谷の差 (全振幅) は,大きいときは4~5mに達し,係船のロープを切断したり,設置してある網を流失・破損させたりする。

※海洋の知識
あびきとは・・・
あびきとは長崎湾で発生する副振動のことをいい、30~40分周期で海面が上下振動します。過去には大きなあびきで係留していた船舶の流失や低地での浸水被害が発生しています。 あびきの語源は早い流れのため魚網が流される「網引き」に由来すると言われています。現在は長崎に限らず、九州西方で発生する同様な現象に対して広く用いられるようになっています。
副振動とは数十分周期の港湾の振動で、長方形の容器に水を入れ、一方の端を持ち上げて少し傾けてから元に戻すとしばらく水全体が左右に振動するのと同じ現象です。


気象庁長崎検潮所(長崎市松ヶ枝町)で観測された過去最大の副振動の例を示します。
この副振動は1979年(昭和54年)3月31日に発生し、最大全振幅は278cm、周期は約35分でした。 


 1988年(昭和63年)3月16日の副振動で、海水が浦上川を遡っている様子



 副振動は東シナ海大陸棚上で発生した気象じょう乱による気圧の急変が原因とされています。 これによって発生した海洋長波が海底地形などの影響を受けて増幅していきます。 湾内に入った海洋長波は共鳴現象などの影響を受けてさらに増幅し、湾奥では数メートルの上下振動になることがあります。
東シナ海大陸棚上で発生した気圧波

大陸棚上で気圧波との共鳴的カップリング[約3倍の増幅]

長崎湾内での浅水増幅、反射干渉[約5倍の増幅]

長崎湾と五島灘の各振動系の共鳴[約3倍の増幅]
1979年(昭和54年)3月31日に発生した過去最大の副振動は、東シナ海をほぼ東向きに約110km/hで進行した振幅約3hPaの気圧波によっておこされたことがわかっています。

●副振動(あびき)
副振動とは、日々くり返す満潮・干潮の潮位変化を主振動としてそれ以外の潮位の振動に対して名づけられたものであり、海峡や湾などで観測される、周期数分から数10分程度の海面の昇降現象をいいます。
主な発生原因は、低気圧等の気象じょう乱に起因する海洋のじょう乱などが長波となって沿岸域に伝わり、湾内等に入ることにより引き起こされます。
振動の周期が湾等の固有周期に近いものであれば、共鳴を起こして潮位の変化が著しく大きくなる場合があり、過去には係留していた船舶の流失や低地での浸水被害が発生しています。
九州西岸では特に大きな副振動が発生しやすく、「あびき」とも呼ばれています。

●じょう乱【気象庁予報用語】
分野:
気圧配置、天気図に関する用語
意味:
一般には定常状態からの乱れをいう。気象学ではかなり広義に用いられている。例えば、
a) 低気圧。
b) まとまった雲や降水などを伴う大気の乱れ。
c) 定常状態からの大気の偏り。







  


Posted by マー君 at 11:20Comments(0)日記

2017年02月18日

推敲について②

最近歳をとったせいか、ブログを作成中にふとしたことで投稿してしまって、〇月〇日の記事で出てしまうことがあります。あわてて記事を修正するのですが何か嫌な感じだけが残ります。他の方はこんな経験はないんでしょうか・・・?
ということで今日は気を取り戻して昨日の記事を完成させることにしました。新聞記事で見た「推敲」という言葉について少し調べてみました。
「推敲」のはっきりした意味は自分自身今迄分わからなかったようです。

毎週木曜日の午後7時から「プレバト!!」という毎日放送制作のバラエティー番組があります。初めはダウンタウンの浜田雅功が司会を務める『使える芸能人は誰だ!?プレッシャーバトル!!』という番組だったそうですが、プレッシャーバトル!!を略して「プレバト!!」という名前になったそうです。
この番組の中で夏木いつき(俳人)が査定を担当する「俳句の才能査定ランキング」への人気が特に高く視聴率を押し上げています。
夏木いつきが行う辛口審査や才能ナシ”の句がよみがえる添削指導が好評を博しています。
彼女が番組で行っている俳句への作業のことを「推敲」というものだと思います。また同じような意味の言葉で「校正」というものがありますが、意味は少し違うようです。
「推敲・すいこう」
「推敲」とは、文章をじっくり読み直して、おかしな所や悪い所がないかをチェックし、悪い所があれば修正していく作業のことです。
「校正」
「校正」とは、文章の「誤字・脱字」や「誤植」を見つけ、修正していく事が主な目的とする

夏木いつき
愛媛県立宇和島東高等学校普通科[1]を経て、京都女子大学文学部国文科を卒業[1]後の1980年に、国語科教諭として松山市立余土中学校へ赴任。1982年に愛南町立御荘中学校へ転任した。
教師時代から、仕事と家庭と両立させながら、唯一の趣味として独学で俳句を嗜んでいた。1988年には、教職を辞したうえで、 俳人に転身。黒田杏子に師事しながら、自宅のある松山を拠点に、俳句を本格的に手掛け始めた。
1997年(平成9年)には、俳句集団「いつき組」を組織するとともに、「組長」へ就任。全国の小中学高校生を対象としたカリキュラムの一環として、「句会ライブ」という俳句教室を開催している。
2013年(平成25年)からは、『プレバト!!』(毎日放送制作・TBS系列全国ネットのバラエティ番組)内の企画「才能査定ランキング」で、俳句部門の査定を担当。事前に提示した1枚の写真を基に、著名人のゲストが作成した俳句を、容赦のない毒舌で評価・添削する姿が人気を博している。
2015年(平成27年)には、「俳都松山宣言」を全国に発信する俳都松山大使に就任。正岡子規後100年の俳句の現在から、さらに俳句の未来に向かった活動を展開すべく、「100年俳句計画」を提唱している。
【受賞歴】
1994年(平成6年) - 第8回俳壇賞受賞
2000年(平成12年) - 第5回中新田俳句大賞受賞
2005年(平成17年) - NHK四国ふれあい文化賞受賞





  


Posted by マー君 at 09:24Comments(0)頭の整理

2017年02月17日

推敲について

毎週木曜日の午後7時から「プレバト!!」という毎日放送制作のバラエティー番組があります。初めはダウンタウンの浜田雅功が司会を務める『使える芸能人は誰だ!?プレッシャーバトル!!』という番組だったそうですが、プレッシャーバトル!!を略して「プレバト!!」という名前になったそうです。
この番組の中で夏木いつき(俳人)が査定を担当する「俳句の才能査定ランキング」への人気が特に高く視聴率を押し上げています。
夏木いつきが行う辛口審査や才能ナシ”の句がよみがえる添削指導が好評を博しています。
彼女が番組で行っている俳句への作業のことを「推敲」というものだと思います。また同じような意味の言葉で「校正」というものがありますが、意味は少し違うようです。
「推敲・すいこう」
「推敲」とは、文章をじっくり読み直して、おかしな所や悪い所がないかをチェックし、悪い所があれば修正していく作業のことです。
「校正」
「校正」とは、文章の「誤字・脱字」や「誤植」を見つけ、修正していく事が主な目的とする


夏木いつき
愛媛県立宇和島東高等学校普通科[1]を経て、京都女子大学文学部国文科を卒業[1]後の1980年に、国語科教諭として松山市立余土中学校へ赴任。1982年に愛南町立御荘中学校へ転任した。
教師時代から、仕事と家庭と両立させながら、唯一の趣味として独学で俳句を嗜んでいた。1988年には、教職を辞したうえで、 俳人に転身。黒田杏子に師事しながら、自宅のある松山を拠点に、俳句を本格的に手掛け始めた。
1997年(平成9年)には、俳句集団「いつき組」を組織するとともに、「組長」へ就任。全国の小中学高校生を対象としたカリキュラムの一環として、「句会ライブ」という俳句教室を開催している。
2013年(平成25年)からは、『プレバト!!』(毎日放送制作・TBS系列全国ネットのバラエティ番組)内の企画「才能査定ランキング」で、俳句部門の査定を担当。事前に提示した1枚の写真を基に、著名人のゲストが作成した俳句を、容赦のない毒舌で評価・添削する姿が人気を博している。
2015年(平成27年)には、「俳都松山宣言」を全国に発信する俳都松山大使に就任。正岡子規後100年の俳句の現在から、さらに俳句の未来に向かった活動を展開すべく、「100年俳句計画」を提唱している。
【受賞歴】
1994年(平成6年) - 第8回俳壇賞受賞
2000年(平成12年) - 第5回中新田俳句大賞受賞
2005年(平成17年) - NHK四国ふれあい文化賞受賞


  


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2017年02月16日

徳富蘇峰




徳富記念園 (トリップアドバイザー提供) カタルバの花
日本人初のジャーナリストとも言われる、熊本出身の徳富蘇峰が最初に創刊した「国民之友」の作品の話から、色々な著名人との繋がりは蘇峰の人徳が窺える話になっています。蘇峰が残した近世日本国民史(安土桃山時代と江戸時代)近世以降の日本の通史・全100巻は、歴史文献としても非常に貴重なものです。

ちょうど130年前の1887年2月15日、日本最初の総合雑誌が誕生した。熊本県出身の言論人、徳富蘇峰が創刊した「国民之友」だ。当時としては極めて先進的な内容。自由、平等、平和な社会を目指す「平民主義」を掲げ、富国強兵に進む藩閥政治を批判した。►蘇峰は水俣の郷土の家に生まれ、新島襄が創設した同志社英学校で学んだ。帰郷後は熊本市に大江義塾を開いて後進を育てた。門下には孫文の辛亥革命を支援した宮崎滔天(とうてん)がいる。実弟は作家の徳富蘆花►86年に出版した「将来之日本」では、社会を「腕力世界と平和世界」「武備主義と生産主義」「貴族社会と平民社会」の対立構図で分析し、世界の動きを見れば、それぞれ後者が前者を克服すべきだと主張した。著書は評判となり、蘇峰は中央での言論活動を決意。上京し国民之友を発行した►同誌には中江兆民、内村鑑三、坪内逍遥、北村透谷らが寄稿し、政治、経済、文化など幅広い分野で明治の日本に大きな影響を与えた。ただ蘇峰は後に国家主義に転じ、同誌は98年に廃刊した►出版不況や総合雑誌の苦戦が取り沙汰される昨今。雑誌の原点を振り返ってみてもいいかもしれない。熊本市の塾跡と水俣市の生家跡は記念館になっていて、兄弟の足跡をたどれる►ちなみに、塾跡の庭には、恩師新島が蘇峰に送った種から育ったカタルバが毎年5月ごろ、白い花を咲かせるそうだ。
西日本新聞 【春秋】 2017・2・15
●徳富蘇峰
●新島襄
●孫文
●宮崎滔天
●徳富蘆花
●中江兆民
●内村鑑三
●坪内逍遥
●北村透谷
上記の人達、教科書で見た覚えはあると思いますが、どんな人でしょう?
自分の宿題にします。

◎多岐にわたる交友者
蘇峰の交友範囲は広く、与謝野晶子、鳩山一郎、緒方竹虎、佐佐木信綱、橋本関雪、尾崎行雄、加藤高明、斎藤茂吉、土屋文明、賀川豊彦、島木赤彦らの名前を掲げることができる。また、後藤新平、勝海舟、伊藤博文、森鴎外、渋沢栄一、東条英機、山本五十六、正力松太郎、中曽根康弘とも交遊があった。そこにイデオロギーや職業の違いはなく、あらゆるジャンル、年代の多様な人びとと親しく交際した。『近世日本国民史』の執筆に際しても、当時存命であった山縣有朋、勝海舟、伊藤博文、板垣退助、大隈重信、松方正義、西園寺公望、大山巌らに直接取材し、かれらのことばを詳細に紹介している。
親交のあった人の多くは蘇峰の高い学識に敬意をあらわした。与謝野晶子は、蘇峰について2首の短歌を詠んでいる。
●わが国のいにしへを説き七十路(ななそじ)す 未来のために百歳もせよ
●高山のあそは燃ゆれど白雪を 置くかしこさよ先生の髪  


Posted by マー君 at 07:34Comments(0)熊本
2月14日(火曜日)の読売新聞 [くらし]面より


うれしくない    木村心南(ここな)

パジャマ ひとりで
きられるよ
すごい!っていっても
ここちゃん ちっとも
うれしくないんだよ

(千葉県野田市・アスク古布内保育園 3才)


・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・
簡単にうれしがらないのは「すごい!」とおもいます  (平田俊子)

「姉」
「妹」
昨年、地震の最中に生まれた孫たちは10か月目になります。
仕草や、顔を見ているだけで癒されます・・ありがとう。



  


Posted by マー君 at 08:33Comments(0)ありがとう

2017年02月14日

不解明な日本語


すらすら読めても、書いてある内容を理解できないことが、結構あることに気付かれたことはありませんか?
本蝶蕪の看板、「蝶は銭で収入」、「本町株」、という言葉の意味がよく理解できないので調べてみました。蝶=銭については調べ方の糸口がつかめなく未解明で今後の宿題となりましたが、本町株については何とか意味を解することができました。
本町=八代の町の名前 株=?
?を名詞で調べると① 切り倒した木や、刈り取った稲などの、あとに残った根元の部分。切り株や刈り株。くいぜ。
            ② 草木の、何本にも分かれた根元。「菊の株を分ける」
            ③ 株式。株券。
            ④ ㋐特定の身分・地位または職業上・営業上の権利・資格・格式。「相撲の年寄株」
「このまま家(=芸者屋)の―をそっくり譲ってやりたいと」〈荷風・腕くらべ〉 
㋑江戸時代、株仲間の一員として持つ特権。また、御家人(ごけにん)・名主(なぬし)などの身分・地位を世襲・継続する特               権。売買の対象ともなった。
⑤その仲間・社会で評価を得ていること。また、その評価。「日本の株が上がる」
また名詞に付いて、そういう身分・地位・役割である意を表す。 「親分-」 「姉御-」 というものもあります。
本町株の「株」の意味は次のように理解すれば意味が通るように思います。
●株
職業,営業上の特権。また江戸時代,売買された名跡や役目をいう。農山漁村の共有の山林,原野,漁場などの利用および収入の分配権などから起った。江戸時代,社会の各分野で世襲制度が確立し,固定するとともに株は一つの権利となり,売買,譲渡の対象にもなった。

もう少し詳しく書き表しているものに・・
特定の集団が、その構成員を身分・資産・業務などによって限定して認めた場合、その資格が権利化したものをいう。封建的な身分制度が確立した江戸時代に、身分、格式、業務が世襲継承され固定してくると、これが株となった。株には、主として社会的理由によるものと、経済的理由によるものの2種類が考えられる。たとえば武士の御家人(ごけにん)株、郷士(ごうし)株、町人の名主株、家主株、農民の百姓株などは前者であり、商人、職人などが営業上の利益のために結成した仲間組合の株などは後者の例である。株は権利であるから売買、譲渡が行われた。しかし御家人、名主のような身分は、実質上株化して売買されていても、形式上は養子相続などの形をとり、表面には現れない。しかし商人、職人仲間の株などは領主にも公認され、株仲間などがつくられた。


  


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2017年02月13日

本蝶蕪


日曜日にめずらしく博物館で講演会がありましたので参加してきました。八代市立博物館では2/3~3/20 「笠鉾大解剖2-これぞ町印!本町本蝶蕪」という冬季展示会を開催しています。その特別公演として早瀬輝美学芸員がユネスコ無形文化遺産山・鉾・屋台行事の中の八代の笠鉾~笠鉾本蝶蕪を中心に~という題目で今回展示している八代妙見祭の笠鉾の一つ本蝶蕪についてスライドを利用して話をされました。
内容はユネスコ無形文化遺産についての話から、「山・鉾・屋台行事」とはなにか、各地で行われている〝まつり〟の起源についてなどを話され、本題の本蝶蕪の笠鉾の話をされました。妙見祭の笠鉾は、元は町名を記した飾りがついた「町印」の強いもので、1人持ちの傘状の出し物でしたが、それが次第に大型化し豪華になりました。「菊慈童」、「猩々・しょうじょう」、などのように笠鉾一基ごとに一つの物語の世界を表したりするようになりましたが、本町の笠鉾だけは城下の中心町であるという誇りを強く持ち、「町印」にこだわり続け、「町・ちょう」を「蝶・ちょう」にかけ、全体を蝶のモチーフで統一した笠鉾となって行きました。
〝まつり〟についてはその当時色々な疫病がはやりましたが、疫病は「疫神」の仕業と考えられていました。庶民にとっての御霊とは、この世に恨みを残した怨霊。天候や疫病はそのたたりと考えられていた。人々は疫病が流行るとたたりを鎮めて境域の外へと送り出すことで災(わざわ)いから逃れようとした。趣向を凝らした笠鉾等の造り物やパホォーマンスを伴う仮装の衆、それらを囃す集団の賑わいで疫神を境域の外へ鎮め送り、災厄を逃れようとした。

次第に疫神が寄り付くものであった笠鉾などの造り物が趣向を競って大型化し、新しい山鉾の祭りとなっていく。山鉾の形態がほぼ固定化したのは15世紀のこと。
【京都祇園祭】より
※基本形は
ホコやダシ+それを囃す出し物


◎今回の早瀬さんの話で少し理解しがたい個所がありましたので自分なりにいろいろ調べてみました。山・鉾・屋台行事の山・鉾・屋台についてです。分かっているようで区別して説明がなかなかできない部分。早瀬さんのレシピには下記のようにありました。

ホコ系 ①鉾車(長大な真柱が主体となるホコ)
     ②笠鉾(真柱に笠鉾がつくホコ)
ヤマ系 ①作り山(山形を本体とするヤマ)
     ②人形山(人形を主体とするヤマ)
     ③飾り山(社殿風屋台や各種造り物を主体とするヤマ)
     ④灯篭山(本体が灯篭作りのヤマ)
ヤタイ系①芸屋台(歌舞伎等の芸能が主体となるヤタイ)
     ②囃子屋台(聞かせるための囃子が主体となるヤタイ)
     ③太鼓屋台(鋲打ち大太鼓の太鼓芸が主体となるヤタイ)
◎なかなか理解しがたいので調べてみました。
鉾の例

ダシ=山車の例


●デジタル大辞泉の解説
やま‐ぼこ【山×鉾】
山車(だし)の一種。台の上に山の形の造り物をのせ、鉾や長刀(なぎなた)などを立てたもの。人が乗って音楽を奏したり、踊ったりすることもある。京都の祇園会(ぎおんえ)のものが有名。山。

●百科事典マイペディアの解説
祭礼のときに引き出すもの。古代の大嘗会(だいじょうえ)のときの標山(しめやま)を模したものという。今日では山車(だし)の上に家を造り,その屋根の上にさらに飾物をつけてこれを鉾という。

●大辞林 第三版の解説
やまぼこ【山鉾】
祭礼の山車だしの一。山形の台の上に鉾・なぎなたなどを立てる。特に京都の祇園会ぎおんえのものが有名。やまほこ。やま。 [季] 夏。


●日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
山鉾
やまぼこ
神霊の依代(よりしろ)で、祭礼の神幸のときに引き出すもの。山は曳山(ひきやま)とか山車(だし)ともいわれるように、人形を飾って囃子(はやし)の人たちが乗り、曳子が綱で引く屋台のことであり、鉾は屋台の上に立てて飾るものをいう。神霊がこれにのりうつって村や町を巡幸し、氏子の生活を見守る趣旨のもので、神輿(みこし)の御幸(みゆき)と同様の意味をもつ。京都の祇園(ぎおん)祭の山鉾巡行や岐阜県の高山祭など著名で大掛りなものも多いが、村々では唐傘(からかさ)形のものに布をかぶせた素朴なものもみられる。夏祭りの風流(ふりゅう)として華麗に発展した。[井之口章次]
[参照項目] | 山車

●世界大百科事典内の山鉾の言及
【山車】より
…柳田国男のいう〈見せる祭り〉を構成する中心的な装置となっている。京都祇園祭(ぎおんまつり)の山鉾は,その代表的なものである。ほかに,だんじり,曳山(ひきやま),山笠(やまがさ),太鼓台(たいこだい)など,時代や地方によって名称や形態は多様である。

展示品の一部です









◎話が終わって質問の時間で、妙見祭と地域の教育についての質問がありました.
今迄でも八代地域の中で妙見祭と関係地域の小学校からは、妙見祭の話をしてほしいと声はかかっていましたが、ユネスコに登録されてから地域外の区域からも、話をしてほしいとの声がかかり、子供たちから質問状もいっぱい届いて、年代別に理解してもらえるよう回答を造ったりして講演に出かけているので、非常に忙しくなったと話されていました。、「妙見祭」の研究を通して、小学校への「出前講座」という形で子供たちの社会科教育にもずいぶん貢献し、妙見祭の将来の担い手を育てる役目をなさっておられるのだと感心しました。
また今回展示している物を展示室で学芸員の方が説明する企画が2/25(土)10時よりあるそうです。
現物を見て説明を受けられるのはめったにないので興味がある方は参加してください。ただし入館料は必要です。
  


Posted by マー君 at 15:34Comments(0)講座

2017年02月11日

日奈久断層帯


甲佐町白旗山出の地質調査のためのトレンチ 断層の様子がよくわかります 

産総研の方達が細かく調査

断層の幅がよくわかります

づれている幅や方向がわかります

上から観察すると層の歪み具合は一目瞭然

わかり易いのはこの写真かな 底は1万年位前の地層だそうです


甲佐町白旗山出の「日奈久断層帯」の見学が11日、12日と現地の工事現場 で開催するとの記事を見て、早速朝から見学に出かけました。白旗まではナビで行けたのですが山出がナビに出てこなくて場所を探すのに結構時間がかかりました。現地に着くと何人かの見学者が居られて、産総研の方達が説明をされておられました。長靴と安全帽をお借りして私も説明を受けましたが、実際にトレンチ(掘削溝)に入って何千年も前のそれぞれの断層を直に見学すると断層ができる地震の揺れの凄さに驚くばかりです。現場では断層の年代測定には炭素14を使っての放射性炭素年代測定を使うことや、この調査は日奈久 断層の北の端でおこなっているが、南の方では現在小川町(イオンの近く)のほうでもおこなっているので、3月頃に見学会があるとの情報も教えていただきました。
日奈久断層とは・・・
●位置:益城町木山付近から芦北町を経て八代海南部に至る長さ約81㎞の活断層 3つの区間に分けられる

高野―白旗区間
日奈久区間
八代海区間
●形状:右横づれ断層、南東側隆起成分を伴う
最後に地震を起こした時期(高野―白旗区間):約1千6百年以後、約1千2百年前以前
地震の繰り返し間隔:不明
●今後30年間の地震発生確率:不明
●将来起きる地震の規模:M6.8程度

2017/2/10 西日本新聞 社会面より
活動は「数千年周期」
産総研、日奈久断層帯を調査
熊本地震を引き起こした断層帯の一つ「日奈久断層帯」(全長約81キロ)の高野--白旗区間(約16キロ)で、地震を引き起こす活断層が数周年 周期で活動していることが9日、産業技術総合研究所(茨城県)の調査で分かった。震源に近い熊本県甲佐町白旗山出で1月にトレンチ(掘削溝)を造り、調査していた。日奈久断層帯は、熊本県益城町木山から八代海南部に延びる活断層帯。熊本地震を踏まえて文部科学省が委託した活断層調査の一環で、熊本地震で活動せず、エネルギーが蓄積された状態とみられる断層の活動 周期や規模を調べる。
同研究所は、地震による地割れで確認できた断層の最南端付近に位置する甲佐町白旗山出を調査地点に選び、掘削して断面に現れた地層を調べた。その結果、主要な地震のずれを確認。約1万2千~1万5千年の間に、数千年周期で活動を繰り返していたことが判明した。高野―白旗区間での直近の活動は1200~1600年前と推定されているが、周期は不明だった。
宮下由香里活断層評価研究グループ長は「想定より活動的な断層と分かった。今後、多くの地点を調べることが、日奈久断層帯の活動の切迫度を把握することにつながる」と話す。トレンチは11,12日の午前9時~午後4時に一般公開される。(国崎万智)

布田川(ふたがわ)断層帯は、阿蘇外輪山の西側斜面から宇土(うと)半島の先端に至る活断層帯です。日奈久(ひなぐ)断層帯はその北端において布田川断層帯と接し、八代海南部に至る活断層帯です。
  


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2017年02月10日

法的な戦闘行為・・?

PKO参加5原則は「戦闘行為」があると政府が認めた場合は参加できないとされています。国会での答弁で稲田大臣が「法的意味における戦闘行為ではない」と重ねて答弁して審議はたびたび中断。
陸上自衛隊の「日報」に記されていた「戦闘」という言葉を取り上げての問題です。
もう一つは法務省が報道機関に配布した「テロ等準備罪」の問題で配布を支持したのは法務大臣。
初めの問題・・法的意味における戦闘行為とは何ぞや・・現地で仕事に従事している自衛隊員の日報に書かれた「戦闘」は戦闘行為ではないのか。政府は戦闘行為でないとしています。政府の誰が決めるのでしょうか?日報の隠蔽工作や日報に「戦闘」を書かないように自衛隊内で口述指示があったなどいろいろありそうです。
どちらを向いて政治がなされているのか非常に心配。・・・頭をよぎるのは犠牲者それとも憲法9条?



これは出さねばならぬ文書である。南スーダン国連平和維持活動(PKO)の派遣部隊の日報。防衛省は当初、破棄を理由に開示を拒んでいた。存在が判明しても「黒塗り」に時間をかけていたという►そうまでして隠したい内容化と疑いたくなる。案の定、昨年7月の日報に「戦闘」の文字。危険な状況が記されていた。PKO参加5原則では、停戦合意が崩れ、戦闘が起きた地域には部隊を派遣できない►世論の反対を押し切って安保関連法案を成立させた安倍晋三政権には不都合な事実だろう。政府は、南スーダン情勢は「比較的落ち着いている」とし、昨年10月にPKOを延長。「駆けつけ警護」などの任務を与えた部隊を派遣した►日報が公表されていたら、戦闘に巻き込まれる可能性がより高まった部隊を送り出せたか。稲田朋美防衛相は、いまだに「法的な戦闘行為ではない」と繰り返しているが►こちらは出してはならぬ文章だ。法務省が「テロ等準備罪」に関する文章を報道機関に配布した。金田勝年法相が指示したという。法案を準備中だから、予算委員会などでの質疑は打ち切って、審議は法案提出後に--との内容。行政機関が国会の質問に待ったをかけるなど、あってはならぬ越権だ►国民の知る権利、言論の自由、立法府の独立。そんな当たり前のことが、民主主義の根幹が、軽んじられてられてはいないか、巨大与党のおごりか、緩みか。
西日本新聞【春秋】2017/02/10

要点を短い文章でわかりやすく表現しているので、この記事を読んで詳しく元記事を読むようにしています。   


Posted by マー君 at 13:23Comments(0)記事

担当する地域で守り継がれている二つの文化財が、世界や国の宝と認められた。昨年12月に熊本県八代市の八代妙見祭神幸行事が国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録され、今年1月には同県宇土市の「雨乞い大太鼓」29基の国重要有形民俗文化財への指定を国の文化審議会が答申したのだ。取材の中で、30年近く前に一律1億円を全市町村に交付し、ばらまきとの批判もあった当時の竹下登政権の「ふるさと創生資金」の有効活用が今につながった要因の一つと知った。この資金を原資に、八代市は神幸行事の要である笠鉾の本格的な調査と修理をし、宇土市は放置されたものもあった大太鼓を張り替え、一堂にまとめて保存、展示する収蔵館を造った。どちらも元々地域にあるものに磨きをかけ、市民と行政が手を携えたことで保存の機運が高まった。現政権の「地方創生」。足元の原石を見逃さないよう願う。(宮上良二)
西日本新聞【デスク日記】2017/02/09

宮上さんわかり易い記事をいつもありがとう。 応援しています。 
  


Posted by マー君 at 17:30Comments(0)記事

2017年02月09日

チョコレートの話

わが家の朝からの会話は、バレンタインデーのチョコレートの話で、家内がチョコレートを女性から男性にプレゼントするのは外国から来た風習を日本が取り入れたものと発言したのに対し、チョコレートをプレゼントするのは日本独自のものだと反論しました。
どちらも相手を納得させるだけの材料がなく後で調べようということで話は中断。
適当にやめておくのが夫婦円満のコツ。
朝のウオーキングを終えて調べてみました。

今回はどうやら私の言い分を納得して貰えたようです。



【バレンタインデーとチョコレートについて】
●バレンタインデーとは、「聖バレンタインの日」と言う意味で、人の名前です。

●バレンタインはローマ時代のキリスト教の司祭の名で、若い男女の結婚の手助けをして、時の皇帝に憎まれ処刑されました。
以後、殉教者として聖人とされましたが、バレンタインが殉教した日が2月14日だったのです。

●バレンタインの殉教した日は「家庭と結婚の女神」ユノの祝日で多くのカップルが誕生したルペルカリア祭リの札を書く日だった。

※ユノの祝日とルぺルカリア祭
ユノはすべての神の女王であり、家庭と結婚の神でもある。翌2月15日は、豊年を祈願する(清めの祭りでもある)ルペルカリア祭の始まる日であった。当時若い男たちと娘たちは生活が別だった。祭りの前日、娘たちは紙に名前を書いた札を桶の中に入れることになっていた。翌日、男たちは桶から札を1枚ひいた。ひいた男と札の名の娘は、祭りの間パートナーとして一緒にいることと定められていた。そして多くのパートナーたちはそのまま恋に落ち、そして結婚した。

●チョコレートについて
日本での『バレンタインデー』は、女性から男性への愛の告白として、『チョコレート』を贈るとされています。
欧米でも贈り物は花や菓子などいろいろありますが、チョコレートには限定されていないそうですし、女性・男性問わずに互いに贈り合います。
女性から男性へ贈り物にチョコレートは日本だけの風習のようです。
この風習の始まりは昭和30年に入ってからのこととされ、1958年(昭和33年)2月メリーチョコレート会社が新宿伊勢丹の売り場で「バレンタインセール」を行ったのが初めとされ、他にも森永製菓やソニープラザなども、チョコレートの販売促進を行いましたが、初めのうちはどこもうまくいかなかったようです。
1970年代前半頃になると小学校高学年~高校生の学生の間で広まるようになり、1980年代頃になると主婦層にまで広がるようになりました。
小売業界の積極的なマーケティングによって、日本でも日本特有のバレンタインデーが広まるようになりました。
いまではバレンタインのチョコレートの売り上げは年間売り上げの20%にもなるそうです。

話が変わって今日は夏目漱石の生誕150周年に当たる日です。
夏目 漱石(なつめ そうせき)
本名 夏目 金之助(なつめ  きんのすけ)
生没年 1867年2月9日(慶応3年1月5日) - 1916年(大正5年)12月9日)
配偶者 夏目鏡子 (1896年 - 1916年 年結婚)
職業 小説家、評論家、英文学者
著書  こゝろ · 吾輩は猫である · 門 · それから · 夢十夜 · 道草 · 三四郎 · 明暗 · 行人 · 虞美人草など






  


Posted by マー君 at 13:18Comments(0)日記

南スーダン駆け付け警護


PKOや安保法案について反対をしている訳ではないんですが、その法律が決まる過程について、十分な説明や審議もせずに権力側が決めてしまう日本政府の在り方に違和感を感じます。
今日の新聞に南スーダンに派遣されている陸上自衛隊の日報の話がありますが、政府の説明とは随分違った内容のものが書かれていたとの話です。戦闘が間近であるにもかかわらず、国民には平穏な場所と説明し続けた政府。今この問題で国会は稲田防衛大臣を追及するなどで、もめています。
いまごろこの問題を取沙汰して時間を費やしても何もならない。・・・ほとんどの人はそう思っている。
これは知らないうちに決められた事。

【南スーダンPKO】 
アフリカ・スーダンの内戦を経て、2011年に分離独立した南スーダンの安定と開発支援が目的の国連平和維持活動(PKO)。
正式名称は「国連南スーダン派遣団(UNMISS)」で、現在日本が参加する唯一のPKO。11年11月から司令部要員、12年1月からインフラ整備を任務とする陸上自衛隊部隊を派遣している。現在の11次隊は第5普通科連隊(青森市)など約350人で構成し首都ジュバで活動。安全保障関連法に基づく「駆け付け警護」などの新任務が付与された。
【安全保障関連法】
2015年9月に成立した改正自衛隊法や改正武力攻撃事態法、改正国際平和協力法など10の法律を束ねた平和安全法制整備法と、新たに制定された国際平和支援法から構成される。憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使が認められたほか、米軍など外国軍への後方支援の内容も拡大された。PKOでは駆けつけ警護などの新任務が認められ、武器使用権限が拡大された。   


Posted by マー君 at 13:16Comments(0)世の中

フェイクニュースについての記事や番組が最近になって多くなっていますが、一瞬、フェイクニュースってなんだったっけ・・・
フェイク(fake)とは・・にせもの。模造品。まやかし。の意味でフェイクニュースは偽記事のことです。
SNSを通じてデマや偽の記事が原因で、英国のEUからの離脱問題や米国の大統領選の選挙結果に大きな影響を及ぼしたとされています。
今はツイッターやフェイスブックなどを使って、誰もが自由に記事を投稿することができます。
記事の内容も様々で、信頼が置けるものかそうでないかは見る人の判断になります。
アメリカのトランプ大統領が就任されてこのかた、この問題は社会を揺るがす大きな問題として取り上げられています。
それは情報が今までとは違って瞬時に拡散するからです。
世の中が変わろうとしています。


  


Posted by マー君 at 16:49Comments(0)世の中

2017年02月06日

御船層群

2月の第一日曜日は,【くまもとの大地の成り立ち】の本年度最後の集まりがある日です。
12月の集会には風邪で参加できなくて、今回は朝から雨模様にもかかわらず、集合場所の古保山リゾート駐車場(城南~松橋・国道266号沿い)に行きました。今回の活動目的は御船層群の地層観察と次年度の話し合いです。
古保山リゾート駐車場の近くには、温泉施設を造る際に山を削った箇所がいくつもあり、人工的にできた御船層群を観察できる場所があります。
あいにくの天気で色合いの確認は落石などの心配もありしっかりとは出来ませんでしたが、地層の特徴としては白っぽい色や赤っぽい色、また緑がかった色など異なる地層が幾重にも重なっていると言うことです。
御船町の化石の地層からは、層の上の部分が約8500万年前の陸成層で、下の部分が約9000万年前の海成層となっており上層からはカルノサウルスやティラノサウルスなど5種類の獣脚類をはじめ、ヨロイ竜類の仲間、翼竜類の仲間、カメの仲間、ワニの仲間などの化石が数多く見つかっている。 下層からはアンモナイトの仲間やゴショライアと呼ばれる二枚貝の仲間などが見つかっています。

●御船層群は熊本県のほぼ中央部に分布し、御船町・甲佐町・宇城市にまたがっている中生代白亜紀の地層で、全体として2000mを越える厚さがあるそうです。地層を構成する岩石の違いによって、基底層・下部層・上部層に分けられ、日本初の肉食恐竜の化石”ミフネリュウ”の歯の化石は、下部層から見つかっています。
●白亜紀とは地質時代の区分の一つで、中生代の最後の時代。1億4300万年前から6500万年前までの間。アンモナイト・恐竜などが大繁栄したが、末期に絶滅。被子植物が出現し、また世界的な大海進が起こった。



山を切り崩した後の景色はきれいに層が見れる御船層群です

雨の中では色彩がはっきり確認できません

雨にもめげず20人もの参加者がありました

御船層群を説明される川路先生

石垣につかわれているのは切り崩した山から取った砂岩です

駐車場までの露頭で細かい粒の中に丸い石がある岩石を見つけて〝泥岩〟と説明されました

頭の整理
●地層のでき方
堆積物がつもって地層ができる
(地層の特徴)
ふつう、下にいくほど古い時代の地層
ふつう、水平に堆積
化石や火山灰をふくむことがある
堆積物…れき・砂・泥・粘土、生物の死がい、海にとけていたもの、火山噴出物など
  れき…粒の直径2mm以上の石ころ
  砂…粒の直径0.06~2mmの石の破片
  泥・粘土…粒の直径0.06mm以下の破片
①海でできる地層
地層の大部分は海でつくられます。
おもに川で運搬されてきたれき・砂・泥・粘土が河口付近~沿岸で堆積してできます。

川に運ばれてきたれき・砂・泥などが河口から海に入ると、大きい粒ほど早く沈み、小さい粒ほど遠くまで運ばれます。
また、表面をならすように堆積するので、堆積物は水平に堆積していきます。
堆積物は次に堆積したものの重みで固められて徐々に堆積岩となっていきます。
②陸上でできる地層
・湖、川の流れがおそい場所に堆積してできる地層
・火山灰が堆積してできる地層…関東ローム・シラス台地など
・流れた溶岩でできる地層
・風が堆積物を運んできてできた地層…砂丘・黄土など
※火山灰や溶岩は水中に堆積することもあります。  


Posted by マー君 at 17:57Comments(0)紹介 まち歩き