
新聞やテレビなどのニュースは気を付けてみている筈だが高度プロフェッショナル制度の「異次元の危険性」に対してまともに答えず、「ご飯論法」で否定した加藤大臣の答弁がもとになっているものと思われるこの言葉。
この言葉が話題になっていたことも知らなかったのでこうして今日改めて調べてみました。
「言い逃れ答弁論法」、「論点のすり替え」、「はぐらかし」などの説明が出てきます。
新しい言葉らしく辞書にはありません。
上西充子教授が造られた言葉なんでしょう。
昨日の1年半ぶりの党首討論、まさにこのような状態だった。
まともに論点について話し合わない党首討論なんて何の意味もありません。
誰のために政治を行っているのでしょうか?
「ご飯論法」。法政大の上西敦子教授がツイッターに投稿して話題になり、国会審議でも引用された。少し長いが秀逸な例えなので紹介する►Q「朝ごはんを食べなかったんですか?」A「ご飯は食べませんでした(パンは食べましたが、それは黙っておきます)」Q「何も食べなかったんですね?」A「何も、と聞かれましても、どこまでを食事の範囲に入れるかは、必ずしも明確ではありませんので・・・」►Q「では、何か食べたんですか?」A「お尋ねの趣旨が必ずしもわかりませんが、一般論で申し上げますと、朝食を摂る、というのは健康のために大切であります」Q「いや、一般論を伺っているんじゃないんです。あなたが昨日、朝ごはんを食べたかどうかが、問題なんですよ」A「ですから・・・」►Q「じゃあ、聞き方を変えましょう。ご飯、白米ですね、それは食べましたか」A「そのように一つ一つのお尋ねにこたえていくことになりますと、私の食生活をすべて開示しなければならないことになりますので、それはさすがに、そこまでお答えすることは、大臣としての業務に支障をきたしますので」こんなごまかしやすり替えが国会で繰り返されている。疑惑は解明されず、時間だけが空費ーという指摘だ►森友、加計問題を巡る政府答弁にうんざりしている人は「ある、ある」と大きくうなずこう。ご飯論法はもう満腹、お代わりはいらない。
西日本新聞 【春秋】 2018・05・31
上西 充子(うえにし みつこ、1965年-)は、日本の労働研究者。法政大学キャリアデザイン学部教授。同人材育成研究所研究員。元日本労働研究機構副主任研究員。
●略歴
1988年に東京大学教育学部卒業後、東京大学経済学部に学士編入し、1990年に卒業。1995年に同大学院経済学研究科博士課程を単位取得退学し、日本労働研究機構入職。長年能力開発研究に携わり、2002年副主任研究員に昇格。
2003年、法政大学のキャリアデザイン学部設立に参画、専任講師となる。2004年に助教授に昇任、同大キャリアセンター副センター長を兼務し、2013年に教授に昇格。
●公職
2005年、厚生労働省職業能力開発局「職業能力開発の今後のあり方に関する研究会」委員
2005年、厚生労働省「勤労青少年ホームのあり方検討委員会」委員
2008年、厚生労働省「今後の労働関係法制度をめぐる教育の在り方に関する研究会」委員
2012年、内閣府「雇用戦略対話ワーキンググループ(若者雇用)」委員

加藤 勝信(かとう かつのぶ、1955年11月22日 - )は、日本の政治家、大蔵官僚。旧姓・室崎(むろさき)。自由民主党所属の衆議院議員(6期)、厚生労働大臣(第19代・第20代)、内閣府特命担当大臣(拉致問題)、働き方改革担当大臣。自由民主党岡山県連会長。
内閣府大臣政務官(第1次安倍改造内閣・福田康夫内閣)、自由民主党総裁特別補佐、川崎医療福祉大学客員教授、内閣官房副長官(第2次安倍内閣)、内閣人事局長、内閣府特命担当大臣(少子化対策、男女共同参画)及び一億総活躍担当、女性活躍担当、再チャレンジ担当、休眠預金活用担当を歴任。
●生い立ち
東京都出身。父・室崎勝聰は日野自動車工業社員(のち取締役副社長)。東京都立大泉高等学校[要出典]、東京大学経済学部を卒業、1979年に大蔵省入省。倉吉税務署署長、主計局主査(労働予算担当)、主計局主査(防衛予算担当)等、本省勤務の他、農林水産大臣秘書官を務める。農水大臣だった加藤六月の娘に婿入りし加藤に改姓。1995年、大蔵省大臣官房企画官を最後に退官。退官後は六月の秘書を務める。

今日午後3時から、国会中継「党首討論」が行われます。
モリ・カケ問題や自衛隊の日報問題、セクハラ問題などで問題がまともに解決していないことに関して安倍首相が何度も「膿を出し切る」と言っていますが何一つきれいな形で解決したものはありません。
野党の詰めも甘いが肝心の安倍首相自身に疑惑を解明しようとする姿勢が窺えないことです。
政治問題を記者の目で胆摘に説明している記事がありましたので紹介します。
政治がこのような状態で動かされるのは許されるべきではありません。
野党の分裂で1党当たりの持ち時間が短くなったとの問題もありますが、3時からの久しぶりの「党首討論」、しっかりと見てみましょう。
【デスク日記】
これだけ疑惑を重ねた政権が、かってあっただろうか。森友学園問題では、財務省が阿部昭恵首相夫人などの名前が出てくる交渉記録を意図的に廃棄し、決裁文書を改ざんした。加計学園問題では「総理のご意向」「首相案件」などと書かれた文書が次々と出てきている。
共同通信の5月の世論調査で、加計問題に関する政府の説明に「納得できない」が75%に達した。一方、安倍内閣の支持率は38%で、前月比3ポイント近く上昇。支持理由として最も多いのは「他に適当な人がいない」の42%だ。つまり、「政府はうそをついているかもしれないけど、代わりがいないので安倍内閣でいいか」ということなのか。
自民党議員からも同じような声を聞く。疑惑への政府の対応を批判しながらも、次に出る言葉は「でも阿部さん以外に誰がいる?」。選択肢がないという諦めが政治から緊張感を奪い、腐敗を招く。諦めてはいけない。(山口卓)
きょう [5月29日] は何の日 ?
・ 1942年:与謝野晶子(作家、歌人、女性解放思想家、フェミニスト)死去(1878年~1942年)

戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
代表作『みだれ髪』(1901年)
『君死にたまふことなかれ』(1904年)
今日の【春秋】はこの人を取り上げています。
時の権力にも恐れず意のままに詩を詠んだ女流詩人です。
〈よひよひに天の川なみこいながめ恋こふらしとしるらめや君〉。10代の与謝野晶子が兄の妻に送った手紙から未発表の短歌が見つかった。天の川を見上げ、東京で暮らす兄に会いたいという気持ちを込めた。直筆の短歌では最も古いものだという。今日は晶子の命日「白桜忌」►晶子のきょうだいへの思いは日露戦争のさなかに発表した「君死にたまふことなかれ」にも。戦地に赴いた弟に、家族のために「死なないで」と呼びかける。天皇や国家に命をささげることが美徳とされた当時としては過激な反戦の詩だ►特にこの部分が問題視された。〈かたみに人の血を流し 獣の道にしぬよとは 死ぬるを人のほまれとは おほみこころのふかければ もとよりいかで思(おぼ)されむ〉。互いに血を流し獣の道に死ねとは、それが名誉とは、お心の深い天皇がお思いになるでしょうかー►自分や家族が大事で国は滅びてもよいのか、との批判に、晶子は「何事にも忠君愛国の文字を引いて論じるのはかえって危険」「歌はまことの心を詠むもの」と反論した►先日、現職の幹部自衛官が国会議員に「国のために働け」と暴言を浴びせた。ネットでは気に入らない言動に対し「非国民」「売国奴」と戦時中のような誹謗中傷が飛び交う►「愛国」「国益」が幅を利かせれば、世の中は息苦しくなる。「まことの心」を自由に語れない時代への逆戻りなど、冗談ではない。
・ 1942年:与謝野晶子(作家、歌人、女性解放思想家、フェミニスト)死去(1878年~1942年)

戸籍名与謝野 志やう(よさの しょう)。旧姓鳳(ほう)。ペンネームの「晶子」の「晶」は、本名の「しょう」から取った。夫は与謝野鉄幹(与謝野寛)。
与謝野 晶子(正字: 與謝野 晶子、よさの あきこ、1878年(明治11年)12月7日 - 1942年(昭和17年)5月29日)は、日本の歌人、作家、思想家。
鳳志ようは、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七、母・津祢の三女として生まれた。
雑誌『明星』に短歌を発表しロマン主義文学の中心的人物となった。
代表作『みだれ髪』(1901年)
『君死にたまふことなかれ』(1904年)
今日の【春秋】はこの人を取り上げています。
時の権力にも恐れず意のままに詩を詠んだ女流詩人です。
〈よひよひに天の川なみこいながめ恋こふらしとしるらめや君〉。10代の与謝野晶子が兄の妻に送った手紙から未発表の短歌が見つかった。天の川を見上げ、東京で暮らす兄に会いたいという気持ちを込めた。直筆の短歌では最も古いものだという。今日は晶子の命日「白桜忌」►晶子のきょうだいへの思いは日露戦争のさなかに発表した「君死にたまふことなかれ」にも。戦地に赴いた弟に、家族のために「死なないで」と呼びかける。天皇や国家に命をささげることが美徳とされた当時としては過激な反戦の詩だ►特にこの部分が問題視された。〈かたみに人の血を流し 獣の道にしぬよとは 死ぬるを人のほまれとは おほみこころのふかければ もとよりいかで思(おぼ)されむ〉。互いに血を流し獣の道に死ねとは、それが名誉とは、お心の深い天皇がお思いになるでしょうかー►自分や家族が大事で国は滅びてもよいのか、との批判に、晶子は「何事にも忠君愛国の文字を引いて論じるのはかえって危険」「歌はまことの心を詠むもの」と反論した►先日、現職の幹部自衛官が国会議員に「国のために働け」と暴言を浴びせた。ネットでは気に入らない言動に対し「非国民」「売国奴」と戦時中のような誹謗中傷が飛び交う►「愛国」「国益」が幅を利かせれば、世の中は息苦しくなる。「まことの心」を自由に語れない時代への逆戻りなど、冗談ではない。
昨日、孫の野球の練習試合を見に行って思ったことですが、監督とはどのような立場の人であり何をする人なのか。
昨日の野球での出来事の一つに試合中のプレーの中で選手のミスがあり、そのプレーがもとで相手側に得点を与えるという場面がありました。
その回が終了して選手達がベンチに戻って来た時、選手を集めて監督がミスをした選手を大声で怒鳴りつけて叱っている光景がありました。
選手がミスをするたびにその光景が繰り返されました。
試合は負けました。
試合の中でミスをすることはどんなスポーツでもあることです。
その度に大声で叱られる選手達がそのあとミスのないプレーができるのでしょうか?
選手にしてみれば自分がミスをしたのだから怒られて当然と思うでしょうが他の選手はどうでしょう。
私達にはあれだけ怒られればかえって固くなっていいプレーは出来ないと思われました。
監督からすればこのやり方が自分の指導方法と考えているかもしれませんが、観衆の面前で起られる選手にとっては堪ったものではありません。
昨日の野球を見て指導者の在り方について考えさせられる場面に出会いました。
学生スポーツの中での監督、指導、指揮というものについて、ふと頭をよぎったことがあります。
それは競技は違いますが現在、大きな社会的問題になっているアメフトの反則行為についての問題。
どのようなスポーツの監督であれ選手を育て指導することには共通したものがあります。
目的は勝つこと。
何を教えどう育てるかは指導者の側にあります。
怒ったり脅したりすることはスポーツの中ではルール違反があった時だけ。
決してしてはいけないこと。
大辞林 第三版の解説
●かんとく【監督】
① 物事を取り締まること。また、その人。 「仕事を-する」 「現場-」 「試験-」
② 演劇・スポーツなどで、現場を取りしきったり、そのグループの成員を指揮・指導したりする立場にいる人。 「舞台-」
③ 「映画監督」に同じ。
④ 法律で、ある人またはある機関が、他の人または他の機関の行為について監視し、必要とする時には指揮・命令などを加えること。 「 -機関」
⑤ 日本のプロテスタント教会の聖職の位の一。司祭あるいは牧師の上に立つ。日本聖公会・メソジスト教会などで戦前用いられた。ローマ-カトリックの司教に当たる。現在、正教会・聖公会では主教、メソジストでは廃止。ビショップ。
●しどう【指導】
① ある意図された方向に教え導くこと。 「水泳を-する」 「正しい-が必要」 「 -的立場」 「 -員」 「 -者」 「 -書」
② 柔道で、選手が禁止事項を犯したとき、審判員から受ける宣告の一。禁止事項のごく軽い犯し方をしたもの。
デジタル大辞泉の解説
●し‐き【指揮/指×麾】
1 全体がまとまりをもって動くよう、人の上に立って指図をすること。「大会運営の―を執る」
2 合奏や合唱などの演奏を統率すること。「コーラスを―する」
飯塚にいる高校3年生になる孫が練習試合で熊本まで遠征してきました。
長男夫婦から是非応援に来るように言われて家内と二人で出かけました。
練習試合には背番号を付けないで試合をすることは初めて知りました。
守っているポジションは分かりますがそれ以外はどこに孫がいるのか同じような格好をしているので分かりません。
残念ながら試合は2-0で熊本のチームに負けましたが久しぶりの元気な孫の姿には元気を貰いました。
「やつしろ散歩」という図書館の企画でやつしろ観光ガイド協会が協力をして行っているツアーが今日午前中に有りました。
毎月1回づつ行われているみたいで今回2回目の参加です。
今回は花しょうぶを松濱軒で愛でるツアーです。
雨が降っているにもかかわらず前回よりは参加者も少し多かったようです。
松濱軒についての話は八代史談会会長の松山丈三さんが話をされました。
元禄元年(1688)八代城主松井直之(なおゆき)が母のために建てたお茶室=浜ノお茶屋と呼ばれていました・・当初は八代海を見渡す浜辺で松林であったことから松濱軒と名付けられました。
生憎の雨でしたが肥後菖蒲は雨の日がいいかもしれません






昔の船着き場跡
伏見稲荷を勧請した社
松山会長の説明
松井邸の略式門=冠木門(かぶきもん)と言うそうです
正面入り口
毎月1回づつ行われているみたいで今回2回目の参加です。
今回は花しょうぶを松濱軒で愛でるツアーです。
雨が降っているにもかかわらず前回よりは参加者も少し多かったようです。
松濱軒についての話は八代史談会会長の松山丈三さんが話をされました。
日頃よく聞いたり目にする言葉であるが何となく分かったふりをして実際には分かっていない言葉が有るのに気付いた事はありませんか?
今日の新聞からこんな言葉に出会いました。
加計学園問題で注目を集める愛媛県の中村時弘知事。
首相や柳瀬唯夫元首相秘書官のこれまでの国会答弁と相いれない内容を含む文書を正直に公表。県のホームページで記者会見要旨を読むと、2015年4月2日に官邸を訪ねた県職員らの様子が目に浮かぶようだ►官邸入りを認められた6人がテーブルに座り柳瀬氏らと向き合った。右3人が県職員で、残りは今治市職員と加計学園関係者。メモを見ながら県の立場を説明するのは県職員の誇りとして許されない。そう上司に言われた県職員は「一生懸命全て頭にたたき込んで発言をした」そうだ►参考人招致で加計学園関係者との面会は認め「10人近くの随行者の中に愛媛県職員や今治市職員がいたのかもしれない」と逃げた柳瀬氏。ディテールの違いは記録と記憶の差か?否、真実と作り話の違いだろう。
西日本新聞 2018・5・25 【気流】
●デジタル大辞泉
ディテール(detail)
《「デテール」とも》全体の中の細かい部分。細部。また、建築物などの詳細図。「ディテールに至るまで精巧に作られた品」
●大辞林 第三版
全体に対する細かい部分。全体から見ると末梢的な部分。細部。デテール。
四つのテスト
1.真実かどうか
2.みんなに公平か
3.好意と友情を深めるか
4.みんなのためになるかどうか
言行はこれに照らしてから行うべし

世の中で起きている色々な問題を考えるとふと頭に浮かんだ言葉があります。
2014年6月8日に八代宮前で撮ったものですがこの言葉が頭に浮かびました。
今日の新聞からこんな言葉に出会いました。
加計学園問題で注目を集める愛媛県の中村時弘知事。
首相や柳瀬唯夫元首相秘書官のこれまでの国会答弁と相いれない内容を含む文書を正直に公表。県のホームページで記者会見要旨を読むと、2015年4月2日に官邸を訪ねた県職員らの様子が目に浮かぶようだ►官邸入りを認められた6人がテーブルに座り柳瀬氏らと向き合った。右3人が県職員で、残りは今治市職員と加計学園関係者。メモを見ながら県の立場を説明するのは県職員の誇りとして許されない。そう上司に言われた県職員は「一生懸命全て頭にたたき込んで発言をした」そうだ►参考人招致で加計学園関係者との面会は認め「10人近くの随行者の中に愛媛県職員や今治市職員がいたのかもしれない」と逃げた柳瀬氏。ディテールの違いは記録と記憶の差か?否、真実と作り話の違いだろう。
西日本新聞 2018・5・25 【気流】
●デジタル大辞泉
ディテール(detail)
《「デテール」とも》全体の中の細かい部分。細部。また、建築物などの詳細図。「ディテールに至るまで精巧に作られた品」
●大辞林 第三版
全体に対する細かい部分。全体から見ると末梢的な部分。細部。デテール。
四つのテスト
1.真実かどうか
2.みんなに公平か
3.好意と友情を深めるか
4.みんなのためになるかどうか
言行はこれに照らしてから行うべし
世の中で起きている色々な問題を考えるとふと頭に浮かんだ言葉があります。
2014年6月8日に八代宮前で撮ったものですがこの言葉が頭に浮かびました。
眠気眼に見た文字が「齟齬」。
難しい文字。
意味がはっきり分からない。
この文字が出てきたニュースは日大のアメフト選手が自分が行った反則行為について謝罪の会見を行ったことに続き、内田正人前監督と井上奨(つとむ)コーチが会見を行った際に出てきたニュースフレーム。
齟齬(そご)とは・・
●三省堂 大辞林
物事がくいちがって,意図した通りに進まないこと。また,そのくいちがい。 「両者の報道が-する」 「内容に-をきたす」
●実用日本語表現辞典
くいちがい。かみ合わない様子。また、そのために物事がうまく運ばない様子。すべてをはくじつのもとにさらしました
●難読語辞典
物事がくいちがって、意図した通りに進まないこと

齟齬とは物事が食い違っている事、くいちがい、かみ合わないことを表す用語です。
このニュース、学生側と前監督やコーチが行なった会見のどちらが正しいのか。
学生の方は少なくとも他人のせいにはせずに自分の罪を認めて全てを白日の下に晒しました。
それに比べて指導者である前監督やコーチの方は反則指示については否定をするばかりです。
そこには教育者としての姿勢は微塵も窺い知ることは出来ませんでした。
これによく似た話が今の安倍内閣の政治。
モリ・カケ、日報、セクハラ問題
隠す。破棄する。改ざんする。
膿を出すと言いながら答弁では知らぬ存ぜぬ。記憶にない。
日本という国をどうしようとしているのか?
良心に呵責は無いのか?
難しい文字。
意味がはっきり分からない。
この文字が出てきたニュースは日大のアメフト選手が自分が行った反則行為について謝罪の会見を行ったことに続き、内田正人前監督と井上奨(つとむ)コーチが会見を行った際に出てきたニュースフレーム。
齟齬(そご)とは・・
●三省堂 大辞林
物事がくいちがって,意図した通りに進まないこと。また,そのくいちがい。 「両者の報道が-する」 「内容に-をきたす」
●実用日本語表現辞典
くいちがい。かみ合わない様子。また、そのために物事がうまく運ばない様子。すべてをはくじつのもとにさらしました
●難読語辞典
物事がくいちがって、意図した通りに進まないこと

齟齬とは物事が食い違っている事、くいちがい、かみ合わないことを表す用語です。
このニュース、学生側と前監督やコーチが行なった会見のどちらが正しいのか。
学生の方は少なくとも他人のせいにはせずに自分の罪を認めて全てを白日の下に晒しました。
それに比べて指導者である前監督やコーチの方は反則指示については否定をするばかりです。
そこには教育者としての姿勢は微塵も窺い知ることは出来ませんでした。
これによく似た話が今の安倍内閣の政治。
モリ・カケ、日報、セクハラ問題
隠す。破棄する。改ざんする。
膿を出すと言いながら答弁では知らぬ存ぜぬ。記憶にない。
日本という国をどうしようとしているのか?
良心に呵責は無いのか?
新聞1面の見出しは
「加計氏と面会」文書
首相否定 幕引き急ぐ
「いいね」の意味にも素直に同調できるものとそうで無いものがあるのに気付かされました。
安倍総理の「いいね」は何か胡散臭いものを感じるのは私だけでしょうか?

〈「この味いいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日〉。言わずと知れた歌人、俵万智さんの代表作。31年前に出版した第1歌集「サラダ記念日」はベストセラーになった►〈「獣医大はいいね」と君が言ったから二月二十五日は加計記念日〉。加計学園の獣医学部新設を巡る新たな文書を愛媛県が国会に提出した。そこには2015年2月25日、加計学園理事長と安倍晋三首相が面会した、との記述が►文書によると、理事長が「国際水準の獣医学教育を目指す」などと説明。首相は「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」と応じたという。あれれ、話が違うぞ►首相はこれまで、学園の計画を初めて知ったのは「17年1月20日」と断言。理事長と親しい間柄だが「(獣医学部新設の件では)話は一切なかった」とし、当時の秘書官が学園関係者と面会したことについても「報告は受けていない」と言い切った►文書が事実なら、首相の主張は根底から覆る。秘書官が学園や県、今治市の関係者と会い、具体的に助言していたことも書かれていた。首相官邸主導による「加計ありき」の疑いはますます濃厚に►考えてみれば、獣医学部を誘致した県が学園に不利な〝証拠〟を次々と出すのは妙な感じだ。官邸と県の言い分が対立する中で、権力者に忖度せずに県職員の名誉を守り、真相を明らかにしようというのであれば、愛媛県に「いいね!」。
西日本新聞 2018・05・23 【春秋】
「加計氏と面会」文書
首相否定 幕引き急ぐ
「いいね」の意味にも素直に同調できるものとそうで無いものがあるのに気付かされました。
安倍総理の「いいね」は何か胡散臭いものを感じるのは私だけでしょうか?

〈「この味いいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日〉。言わずと知れた歌人、俵万智さんの代表作。31年前に出版した第1歌集「サラダ記念日」はベストセラーになった►〈「獣医大はいいね」と君が言ったから二月二十五日は加計記念日〉。加計学園の獣医学部新設を巡る新たな文書を愛媛県が国会に提出した。そこには2015年2月25日、加計学園理事長と安倍晋三首相が面会した、との記述が►文書によると、理事長が「国際水準の獣医学教育を目指す」などと説明。首相は「そういう新しい獣医大学の考えはいいね」と応じたという。あれれ、話が違うぞ►首相はこれまで、学園の計画を初めて知ったのは「17年1月20日」と断言。理事長と親しい間柄だが「(獣医学部新設の件では)話は一切なかった」とし、当時の秘書官が学園関係者と面会したことについても「報告は受けていない」と言い切った►文書が事実なら、首相の主張は根底から覆る。秘書官が学園や県、今治市の関係者と会い、具体的に助言していたことも書かれていた。首相官邸主導による「加計ありき」の疑いはますます濃厚に►考えてみれば、獣医学部を誘致した県が学園に不利な〝証拠〟を次々と出すのは妙な感じだ。官邸と県の言い分が対立する中で、権力者に忖度せずに県職員の名誉を守り、真相を明らかにしようというのであれば、愛媛県に「いいね!」。
西日本新聞 2018・05・23 【春秋】

国内の政治問題・否定していた問題が次から次へと文書が出て来て今回もこの出てきた文書の内容を暴かれた側が否定する。
もうお分かりかとは思いますが、加計学園の獣医学部新設を巡り、愛媛県の中村時弘知事が交渉経緯に関する新たな文書を国会に提出しました。
今迄、安倍総理が答弁してきた内容が覆されるような文書で、もしこの文書の内容が正しければ安倍総理も柳瀬唯夫元首相秘書官もこれまでずっと嘘の答弁を繰り返してきたことになります。
新聞各社は勿論、NHKや民放各社が新聞やテレビでこのニュースを取り上げています。
いいかげん国民を馬鹿にするのはやめてもらいたい。
政治家も官僚も国民の税金で仕事をしていることを忘れないで。


「小満(しょうまん)」は、二十四節気のひとつ。現在広まっている定気法では太陽黄経が60度のときで5月21日頃。
「立夏」と「芒種」の中間にあたる。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の「芒種」前日までである。西洋占星術では、「小満」が双児宮(ふたご座)の始まり。
陽気が良くなり、万物が成長して天地に気が満ち始め、草木が茂る気候から「小満」。『暦便覧』には「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」と記されている。麦畑が緑黄色に色付き始める。
各地の稲荷神社で五穀豊穣・商売繁盛を願って「小満祭(こまんさい)」が開かれる。沖縄では、次の節気「芒種」と合わせた「小満芒種(すーまんぼーすー)」という語が「梅雨」の意味で使われる。
「小満」の日付は以下の通り。
2016年5月20日(金)
2017年5月21日(日)
2018年5月21日(月)
2019年5月21日(火)
例年5月21日頃を言います。立夏から数えて丁度15日目。2018年は5月21日です。
丁度このころから、農家では田植えの準備がスタートする時期。西日本では梅雨のような空になる日が近づいています。これを走り梅雨とも言います。
「走り梅雨」があった後は、晴れの日が続き、6月になりやがて梅雨が始まります。
例年とても快晴で、初夏のような暑さの日もあります。
※走り梅雨
本格的な梅雨に入る前のぐずつく天候のこと。通常は、この後晴れた日が続き、その後本格的な梅雨に入ります。
「梅雨の走り」ともいいます。

昨日(5/19)、八代市立図書館の友の会「特別講演会」で熊本県立図書館学芸惨事の青木勝士氏が上記タイトルになっている「八代」という街がどの様にして出来たのかを発掘調査の資料や八代日記などの史料から図上復元を試みながら八代の街の原型が相良氏によって造られたものであることを詳しく説明されました。
熊本県立図書館の高野茂さんが熊本県観光サイトなごみ紀行に「中世の八代」という記事を書かれていましたのでまとめの参考にさせていただきました。
自然が美しい八代
今から410年前の天正15年4月、八代に到着した宣教師ルイス=フロイスは、「日本史」で、八代の情景などを描写しているが、それは、次の3つに特徴づけられよう。
一、八代の自然が美しく、清らかで、優雅で、豊饒であること。(これだけ自然を賛美している箇所は「日本史」全体でも少ない。)
ニ、多くの寺院が散見し、小鳥たちの快いさえずりが満ちあふれている。
三、城が非常に高い台地にあり、麓には主要な町が開け、町へは海路からでなくては入ることも登ることも出来ないようになっている。
また同じく豊臣秀吉から毛利に宛てた手紙には、「ご覧候へは、奉公人・町人・其他百姓男女にて、五万も可有候もの」とある。秀吉には誇張癖があるので、勿論割り引いて考えなければならないが、博多や豊後府内と比べても人口に遜色なく、外国にも知られた九州有数の大都市だったと考えられる。
歴史の移り変わり
八代のこのような発展の背景を知る手がかりとして、八代の歴史の流れを見てみる。
平安時代末期、八代南郷を平清盛が大功田として賑わったと言われ、鎌倉時代には平家没官領として源頼朝の妹に与えられ、その後、北条氏の支配下に入った。建武政権下においては、後醍醐天皇から名和氏が八代荘地頭職を賜り、正平13年(1358)に名和氏の支配を受けるようになった。永正元年(1504)には、球磨郡から相良氏が八代に進出し、約80年にわたる芦北郡を含む三郡支配の戦国大名として君臨した。その後、島津氏の支配を受け、天正15年(1587)には秀吉の九州制圧を迎えることになる。秀吉は八代を蔵入地(直轄領)にしたと言われる。
八代は、中央権力に直結した都市的要素を帯びた土地であった。その最大の理由は、清盛・名和氏・相良氏・秀吉のいずれにも共通する「海」であろう。特に貿易港としての機能が重視された。
海で栄えた港町 = 徳淵
史料を見ると、八代太守が李氏朝鮮へ遣使している記事が見られるし、流球からは、円覚寺全叢が相良氏の琉球への進上物のお礼として砂糖150斤を贈っている。相良の貿易船としては「市木丸」の名が出てくる。「八代日記」は、弘治元年(1555)の記事として、3月2日に渡唐の門出をした市木丸が7月2日に徳淵に帰港したことを伝えている。また、徳淵に住むかさ屋や森などが貿易船を派遣したり、18隻の船団を組んで渡唐の門出をしている。貿易輸出品としては、銀・刀剣などであり、銀については、宮原で銀石が発見され、相良氏は「日本珍物」と喜び、洞雲があらいきり(八代市洗切)で銀の精錬をしている。刀工として「木下」の名が見える。輸入品としては、白麻・唐糸・唐織・蘇香圓・沈香・唐扇子・猩々皮・虎豹皮などが見られる。徳淵港は、他国の商人の出入りで賑わい、かさ屋や森などの町衆は、島津氏の家臣を接待したり、宿を提供するなどの政治的な関わり、能や茶寄合などもおこなうなど、文化的教養もあった。
相良氏の戦国城下町 = 古麓
戦国時代に相良氏が拠点としていたのが、古麓一帯である。
「八代日記」には、本城(間切や九間が見られる)・鷹峰城(番衆が詰める)がみえる。
勿論、この時期だから、天守閣はなく、新城には、平屋の館(やかた)が造られ、賓客を迎える九間などがあったものと考えられる。
新城の麓一帯は杭瀬三町(一日市・七日市・九日市)とよばれる商業地区や相良家臣団の屋敷郡、外交使節の接待や使僧、軍事に利用された寺院群が建ち並んだ。ここには、道路を挟んで両側に建つ家並みなどが見られた。
妙見社を中心とした門前町 = 宮地
宮地には妙見社(八代市妙見町)があり、一帯は門前町として繁栄し、薬屋なども見える。妙見祭は、旧暦の10月18日(現在11月23日)に行われており、神楽舞や馬場での流鏑馬も行われ、近隣の村人や旅衆の見物もあり、祭りは盛んであった。(「上井覚兼日記」)
(現在のような亀蛇や笠鉾などが繰り出す祭礼行事になったのは、松井直之の元禄の頃といわれる。)
このように、八代は、相良氏の城下=古麓と八代町衆の港町=徳淵と妙見社を中心とした門前町=宮地がミックスされた肥後最大の都市であった。
また、八代は文化的にもレベルが高かった。相良為続が九州から唯一人「新撰菟玖波集」に入選したように連歌が盛んに行われた。連歌の師である遊行上人を招いて、会所で千句連歌を興行している。能楽も盛んで、宗像右衛門太夫が度々能を演じている。能は、一部の武士たちだけのものでなく、町衆たちも演じているところに文化の高さが感じられる。
相良氏が八代に進出してきたのが永正元年(1504)でありその後、約80年にわたって八代を支配しますが明治維新まで相良700年の歴史の中で16代相良義滋、17代相良晴広、18代相良義陽の時代に八代の街が造られました。
その後、相良氏は人吉に移りますが、人吉や近隣の相良氏支配の街並みは八代の街並みが原型になったものであると青木勝士氏はお話になられました。
昼前に嫁が孫達には従姉妹にあたる4年生のお姉ちゃんを連れて遊びにやって来ました。
4年生ともなると孫たちの扱いは慣れたもの、土曜日で学校も休みなので連れてきたようです。
孫のお守役には最高の人選の様です。
お姉ちゃんの方もずっと嫌がりもせず1日中孫たちのお守りをしていました。
今日は傍で見守るだけがお役目でした。
ありがとう。

雑学ネタ帳・今日は何の日・明日は何の日のなかに誰が決めたのか?いつ決めたのか?何故かはっきり分からない~の日というのがあります。
日付の語呂合わせから出来たということだけが分かっています。
「ことばの日」というものがそれに当たります。
他にも調べてみると知らないうちに記念日になっているものがいっぱいありそうですね。
今日 5月18日の記念日・年中行事
●国際親善デー
●国際博物館の日
●ことばの日
●ファイバーの日
●18リットル缶の日
●ネット生保の日
●こりを癒そう「サロンパス」の日
●防犯の日
ことばの日(5月18日 記念日)
日付は「こ(5)と(10)ば(8)」と読む語呂合わせから。
言葉について考え、言葉を正しく使えるように心がける日。
※言葉とは、人間が話す・書くなどの行為をする事によって情報伝達手段となり得る、意味があるものの総称で、心・気持ち・思い・考えなどを表す手段の一つである。
※言葉(ことば)の語源・由来
言葉の語源は、「言(こと)」と「端(は)」の複合語に由来するとされる。
古く、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で、「言」には「事」と同じ意味があり、事実にもなり得る重い意味を持っていた。
そこから、事実を伴なわない口先だけの軽い意味を持つ語として、「端(は)」が付けられて、「ことば」という語が生まれたとされる。
平安時代前期の『古今和歌集 仮名序』に「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(和歌というのは、人の心をもととして、さまざまな言葉となったものである)とあるように、和歌に「言の葉」が使われていた。
その後、「言の葉」が多く用いられるとともに、「ことば」にも「言の葉」の意味が含まれていき、「言葉」は言語を表す最も一般的な語となった。
毎日の記念日や年中行事の中にもいろいろな民衆史があります。
5月17日の雑学ネタ帳・今日は何の日から拾い出すとこれだけの~の日が出てきます。
毎日の食卓や大相撲の遠藤関に懸けられる懸賞金でもお馴染みの永谷園の歴史が今日は学べました。

今日 5月17日の記念日・年中行事
●世界電気通信および情報社会の日
●生命・きずなの日
●パック旅行の日
●世界高血圧デー・高血圧の日
●お茶漬けの日
●多様な性にYESの日
●国産なす消費拡大の日
●いなりの日
●減塩の日
●「森のたまご」の日

お茶漬けの日(5月17日 記念日)
東京都港区西新橋に本社を置き、江戸時代にお茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した永谷宗七郎の子孫にあたる永谷嘉男が創業した株式会社永谷園が制定。
日付は永谷宗七郎の偉業をたたえ、その命日である1778年5月17日に由来する。記念日は、2012年(平成24年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
永谷園は、1952年(昭和27年)に画期的なインスタントのお茶漬け商品「お茶づけ海苔」を発売し、お茶漬けをさらに身近な食べ物とした「味ひとすじ」の理念を持つ食品メーカーである。「お茶づけ海苔」は、2012年(平成24年)に発売60周年を迎えた。これを記念して記念日を制定した。
「お茶づけ海苔」について
創業者・永谷嘉男の「おいしいお茶づけを、家庭で手軽に楽しめたら」という思いから、「お茶づけ海苔」が誕生した。同社の前身であるお茶屋で数多くのアイディア商品を生み出してきた嘉男の父・武蔵との共同作業によって生み出された商品であった。
「お茶づけ海苔」は、抹茶・塩・砂糖などの調味料、あられ、海苔だけでシンプルに作られている。発売当時から現在まで、ほとんど変わらぬ味で、60年以上という長きに渡り多くの人々に愛されてきた。
発売当初は「江戸風味 お茶づけ海苔」という名称だった。1956年(昭和31年)、商標登録に伴い「永谷園の お茶づけ海苔」に変更して以来、大きなリニューアルはなく現在に至る。
「お茶づけ海苔」のパッケージは、漢字やひら仮名のバランスにもこだわり、デザインはお茶づけから連想した「江戸の情緒」をイメージし、歌舞伎の定式幕になぞらえた「黄・赤・黒・緑」の縞模様となっている。
リンク:お茶漬けの日(永谷園)
5月17日の雑学ネタ帳・今日は何の日から拾い出すとこれだけの~の日が出てきます。
毎日の食卓や大相撲の遠藤関に懸けられる懸賞金でもお馴染みの永谷園の歴史が今日は学べました。

今日 5月17日の記念日・年中行事
●世界電気通信および情報社会の日
●生命・きずなの日
●パック旅行の日
●世界高血圧デー・高血圧の日
●お茶漬けの日
●多様な性にYESの日
●国産なす消費拡大の日
●いなりの日
●減塩の日
●「森のたまご」の日

お茶漬けの日(5月17日 記念日)
東京都港区西新橋に本社を置き、江戸時代にお茶の製法を発明し、煎茶の普及に貢献した永谷宗七郎の子孫にあたる永谷嘉男が創業した株式会社永谷園が制定。
日付は永谷宗七郎の偉業をたたえ、その命日である1778年5月17日に由来する。記念日は、2012年(平成24年)に一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
永谷園は、1952年(昭和27年)に画期的なインスタントのお茶漬け商品「お茶づけ海苔」を発売し、お茶漬けをさらに身近な食べ物とした「味ひとすじ」の理念を持つ食品メーカーである。「お茶づけ海苔」は、2012年(平成24年)に発売60周年を迎えた。これを記念して記念日を制定した。
「お茶づけ海苔」について
創業者・永谷嘉男の「おいしいお茶づけを、家庭で手軽に楽しめたら」という思いから、「お茶づけ海苔」が誕生した。同社の前身であるお茶屋で数多くのアイディア商品を生み出してきた嘉男の父・武蔵との共同作業によって生み出された商品であった。
「お茶づけ海苔」は、抹茶・塩・砂糖などの調味料、あられ、海苔だけでシンプルに作られている。発売当時から現在まで、ほとんど変わらぬ味で、60年以上という長きに渡り多くの人々に愛されてきた。
発売当初は「江戸風味 お茶づけ海苔」という名称だった。1956年(昭和31年)、商標登録に伴い「永谷園の お茶づけ海苔」に変更して以来、大きなリニューアルはなく現在に至る。
「お茶づけ海苔」のパッケージは、漢字やひら仮名のバランスにもこだわり、デザインはお茶づけから連想した「江戸の情緒」をイメージし、歌舞伎の定式幕になぞらえた「黄・赤・黒・緑」の縞模様となっている。
リンク:お茶漬けの日(永谷園)
3日間の出来事。
健康のため、体力作り、ゴルフを楽しむため、14日午前中は練習場へ。


毎年、スリーデーマーチに併せて地元に帰ってくる八代亜紀が絵画展を八代ハーモニーホールで開催します。
24点の絵画を見ることが出来ました。




15日、次男坊の孫が佐世保から帰ってきました。
何をしても楽しそうです。
久々に見る子供の世界です。



16日、散歩に出かける前に庭の花を観察すると花たちのバトンタッチに気付きました。
孔雀サボテンは最後の1輪になりました。
今年は二鉢の孔雀サボテンが長い間、目を楽しませてくれました。
アマリリスは木陰に地植えしたものが今、きれいに開いています。
紫陽花が色づき始めました。



健康のため、体力作り、ゴルフを楽しむため、14日午前中は練習場へ。
毎年、スリーデーマーチに併せて地元に帰ってくる八代亜紀が絵画展を八代ハーモニーホールで開催します。
24点の絵画を見ることが出来ました。
15日、次男坊の孫が佐世保から帰ってきました。
何をしても楽しそうです。
久々に見る子供の世界です。
16日、散歩に出かける前に庭の花を観察すると花たちのバトンタッチに気付きました。
孔雀サボテンは最後の1輪になりました。
今年は二鉢の孔雀サボテンが長い間、目を楽しませてくれました。
アマリリスは木陰に地植えしたものが今、きれいに開いています。
紫陽花が色づき始めました。
卑弥呼基示すモモの種
纏向遺跡から出土放射性炭素で判明
畿内説を補強

纏向遺跡の遺構配置図
今日の新聞に邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡で出土したモモの種を放射性炭素年代測定したところ、西暦135~230年と判明したことが14日分かった。女王・卑弥呼(248年ころ没)の年代と重なり、邪馬台国畿内説を補強する成果となりそうだ。
そんな記事が社会面に有りました。
市教育委員会が2010年に遺跡の中枢とみられる大型建物跡(3世紀前半)の南側にあった穴から約2800個のモモの種などを発掘した。
このうちランダムに選んだ15個を中村俊夫名古屋大名誉教授が測定。測定できなかった3個を除き、135~230年のものと分かった。元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲氏を通じて山形大が行った測定でも同様な結果が出た。
纏向遺跡には、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(3世紀半ば)があり、09年には大型建物跡も見つかり、邪馬台国の有力候補地。大型建物などは出土した土器の形から年代が推定されていたが、科学的な年代測定法でも同様な年代と判明したことで邪馬台国畿内説を後押しする材料となりそうだ。
穴は建物南側にあったとみられる柵を取り外した後に掘られたらしい。モモは古代では不老長寿や魔除けの果物と考えられており、祭祀に用いられた可能性がある。
寺沢薫・同研究センター所長は「纏向遺跡は4世紀とする説が一部ではあるが、複数機関による高精度の分析で3世紀である可能性が高まった。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果と合わせて、、纏向遺跡が邪馬台国であるというわれわれの主張に沿う」と評価している。


纏向遺跡から出土放射性炭素で判明
畿内説を補強
今日の新聞に邪馬台国の有力候補地とされる纏向遺跡で出土したモモの種を放射性炭素年代測定したところ、西暦135~230年と判明したことが14日分かった。女王・卑弥呼(248年ころ没)の年代と重なり、邪馬台国畿内説を補強する成果となりそうだ。
そんな記事が社会面に有りました。
市教育委員会が2010年に遺跡の中枢とみられる大型建物跡(3世紀前半)の南側にあった穴から約2800個のモモの種などを発掘した。
このうちランダムに選んだ15個を中村俊夫名古屋大名誉教授が測定。測定できなかった3個を除き、135~230年のものと分かった。元徳島県埋蔵文化財センターの近藤玲氏を通じて山形大が行った測定でも同様な結果が出た。
纏向遺跡には、卑弥呼の墓説がある箸墓古墳(3世紀半ば)があり、09年には大型建物跡も見つかり、邪馬台国の有力候補地。大型建物などは出土した土器の形から年代が推定されていたが、科学的な年代測定法でも同様な年代と判明したことで邪馬台国畿内説を後押しする材料となりそうだ。
穴は建物南側にあったとみられる柵を取り外した後に掘られたらしい。モモは古代では不老長寿や魔除けの果物と考えられており、祭祀に用いられた可能性がある。
寺沢薫・同研究センター所長は「纏向遺跡は4世紀とする説が一部ではあるが、複数機関による高精度の分析で3世紀である可能性が高まった。魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の時代と一致しており、これまでの調査成果と合わせて、、纏向遺跡が邪馬台国であるというわれわれの主張に沿う」と評価している。


2017年3月28日頃に撮った人吉の(花立)での写真です。
地学の集まりでの写真になりますがその時始めて「かくれ念仏」という歴史を知りました。
今日はこの記事を見て収録写真の中からかくれ念仏の写真を抜き出しました。
九州のあちこちに隠れて信仰を続けた人達の歴史が見られます。
明治維新の3年前で、まだ禁教令下にあった1865年。辺りをはばかるように十数人の男女が大浦天主堂(長崎市)へ現れる。一人の女性が神父に明かした。「わたしのむね、あなたとおなじ」「サンタ・マリア様の像はどこ?」►日本で約250年も禁じられたキリスト教。絶無と思われた信者が長崎の地にいた。「信徒発見」のニュースは驚きと感動を伴って欧米を駆け巡ったという►きびしい監視の目をくぐり、独自の信仰形態を何世代も引き継いだ潜伏キリシタン。長崎や天草(熊本県)の関連協会などが今夏にも世界遺産登録の見込みとなった。経済効果を当て込む声にやや違和感もあるが、庶民の厳(おごそ)かな営みが世界でも評価されたことを喜びたい►江戸時代に迫害されたのは、キリシタンだけではない。薩摩藩と隣の人吉藩では浄土真宗を禁じた。全国諸藩でも例がない。こちらも徹底した探索が行われ、発見されると死罪、あるいは拷問で転宗を迫られた►それでも門徒達は他国から変装させた僧を迎えて説教を聞き、夜陰に山を越えた藩の寺に集まって法要をした。くりぬいた柱や洞の中に本尊を隠し、礼拝などをしたという。「かくれ念仏」と呼ばれる►作家の五木寛之さんは書く「日本人のこころの歴史の〈記憶〉として、大切に残していかなければいけない」(「隠れ念仏と隠し念仏」)。光を当てるべき九州の民衆史がここにもある。
西日本新聞 【春秋】 2018・05・14

●花立
天文23年(1554年)2月7日の真宗禁令により球磨一円の真宗信者の家から仏像仏具が徴収され十島仏像仏具焼却地(相良村柳瀬十島)において焼却されました。その焼却の炎を見るたびに、球磨川の対岸地から信心深い念仏婆さんが、川端に花を供えて伏し拝んだことから『花立』という地名になりました。


地学の集まりでの写真になりますがその時始めて「かくれ念仏」という歴史を知りました。
今日はこの記事を見て収録写真の中からかくれ念仏の写真を抜き出しました。
九州のあちこちに隠れて信仰を続けた人達の歴史が見られます。
明治維新の3年前で、まだ禁教令下にあった1865年。辺りをはばかるように十数人の男女が大浦天主堂(長崎市)へ現れる。一人の女性が神父に明かした。「わたしのむね、あなたとおなじ」「サンタ・マリア様の像はどこ?」►日本で約250年も禁じられたキリスト教。絶無と思われた信者が長崎の地にいた。「信徒発見」のニュースは驚きと感動を伴って欧米を駆け巡ったという►きびしい監視の目をくぐり、独自の信仰形態を何世代も引き継いだ潜伏キリシタン。長崎や天草(熊本県)の関連協会などが今夏にも世界遺産登録の見込みとなった。経済効果を当て込む声にやや違和感もあるが、庶民の厳(おごそ)かな営みが世界でも評価されたことを喜びたい►江戸時代に迫害されたのは、キリシタンだけではない。薩摩藩と隣の人吉藩では浄土真宗を禁じた。全国諸藩でも例がない。こちらも徹底した探索が行われ、発見されると死罪、あるいは拷問で転宗を迫られた►それでも門徒達は他国から変装させた僧を迎えて説教を聞き、夜陰に山を越えた藩の寺に集まって法要をした。くりぬいた柱や洞の中に本尊を隠し、礼拝などをしたという。「かくれ念仏」と呼ばれる►作家の五木寛之さんは書く「日本人のこころの歴史の〈記憶〉として、大切に残していかなければいけない」(「隠れ念仏と隠し念仏」)。光を当てるべき九州の民衆史がここにもある。
西日本新聞 【春秋】 2018・05・14
●花立
天文23年(1554年)2月7日の真宗禁令により球磨一円の真宗信者の家から仏像仏具が徴収され十島仏像仏具焼却地(相良村柳瀬十島)において焼却されました。その焼却の炎を見るたびに、球磨川の対岸地から信心深い念仏婆さんが、川端に花を供えて伏し拝んだことから『花立』という地名になりました。
八代はスリーデーマーチの最終日。
市民の愛好者を集めて5㎞、10㎞、20㎞などの距離をその人の体力に合わせて歩く催しがこの3日間行われています。
昨日までは天候に恵まれていましたが今日は生憎の雨です。
家内はスリーデーマーチの5㎞に参加のため先ほど準備して出かけました。
私は家で留守番を引き受けました。
家内が出かけてすぐに長男坊から母の日のプレゼントが届きました。
次男坊からは2~3日前に卓上の胡蝶蘭が贈られてきています。
毎年のことながらその行為にはいい息子たちに育ったことへ嬉しさを感じます。
息子たちに感謝。
ありがとう。


市民の愛好者を集めて5㎞、10㎞、20㎞などの距離をその人の体力に合わせて歩く催しがこの3日間行われています。
昨日までは天候に恵まれていましたが今日は生憎の雨です。
家内はスリーデーマーチの5㎞に参加のため先ほど準備して出かけました。
私は家で留守番を引き受けました。
家内が出かけてすぐに長男坊から母の日のプレゼントが届きました。
次男坊からは2~3日前に卓上の胡蝶蘭が贈られてきています。
毎年のことながらその行為にはいい息子たちに育ったことへ嬉しさを感じます。
息子たちに感謝。
ありがとう。
博物館ネットワークセンターで5月27日まで「くまもとの地質」という企画展が開催されています。展示説明会が3月25日と5月12日に有りました。3月には予定が付かずに今日、説明会に参加しました。
熊本県内を6つの地域に分け、それぞれの地域で採取した岩石・鉱物・化石を見ながら熊本県の地質を解説し、また、自分たちが暮らす土地の成り立ちと生活との関係について紹介することが説明会の目的です。講師は廣田志乃さんが勤められました。
「くまもとの地質」というちょっと一般の方には抵抗があるような話ですが、自分たちの住んでいる場所がどの様な生い立ちの過程でできたところなのか、地震や台風などの自然災害対策には必要不可欠な学問でもあります。そして趣味や向上心を深めることにも役立つものだと思われます。
この展示会に参加してつい先日の5月10日が「地質の日」ということを知りました。
展示場入り口部分に熊本県の「県の石」というコーナーがあり、①熊本県の岩石=溶結凝灰岩(主要産地:阿蘇カルデラ周辺)②熊本県の鉱物=鱗珪石(トリディマイトTridymite)(主要産地:熊本市西区島崎の石神山)③熊本県の化石=白亜紀恐竜化石群(主要産地:天草市、御船町)の展示がありました。このコーナーでは名前は聞いていたが実際に採取されたものを見学できたことはいい勉強になりました。
地質の日(5月10日 記念日)
一般社団法人 日本地質学会や産総研地質調査総合センターなど地質関係の組織・学会が2007年(平成19年)に制定。
1876年(明治9年)のこの日、アメリカの地質学者ベンジャミン・スミス・ライマンらが日本初の広域的な地質図「日本蝦夷地質要略之図」(200万分の1)を作成した。また、1878年(明治11年)のこの日、地質の調査を扱う組織として内務省地理局地質課が設置された。
地質(geology)とは、地面より下の岩石・地層の性質・状態・種類などを指す。地質はエネルギーや鉱産資源、温泉、構造物の建設など、人間社会と深く関係しているが、地質の重要性や、地質に携わる人々の活動は、一般にはほとんど知られていない。そのため、この日は地質への理解を推進する日として、全国の博物館や大学などの研究機関によりイベントが開催される。
熊本県博物館ネットワークセンターだよりに廣田志乃さんの記事がありましたので紹介します。
山鹿市菊鹿町黒蛭(くろびる)周辺では、天然の土団子の入った地層があります。この土団子は、肥後国誌では兎餘糧(うよろう)、菊鹿町史では長者だごと記されており、「黒蛭の米原(よなばる)長者が田植えの時に振る舞ったおやつのあまり団子を捨てたところ土になった。赤色で割ってみてみると黒色の餡(あん)が出る。俗に団粉土という。」という話が伝わっています。土団子はいびつなものもありますが、概ね直径2~3㎝の球に近い形をしています。また、土団子の断面を見ると、中このかざんまめいせ葉心に周辺より濃い色の餡が入っているのが確認できます。では、なぜこのような土団子が出来たのでしょうか。この土団子は火山豆石といい、火山灰が球状に集まっ市の たものです。この成因については、火山の噴煙に含まれる水や雨粒などに火山灰が集まって固まったという説や、堆積した火山灰に水滴が落下したり転がったりして火山灰が付着して固まったという説など、いくつか考えられます。この火山豆石は、約12万年前と約9万年前に阿蘇火山から噴出した2つの巨大火砕流の堆積物に挟まれた火山灰層に入っています。(廣田志乃)
これは天草の五和町にある採土場で見つけた火山豆石?(廣田さんは火山豆石もどきと解説)