21日の「春秋」にもう一つ、もしかすればわが国最古の暦使用?の記事が最後に書かれていました。
九州大学糸島キャンパスの近くにある元岡古墳群からその太刀は出土しました。
発見されたのは2011年です。



金錯銘大刀は2011年に福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄製の刀。西暦570年を意味する「庚寅(こういん)」などの漢字19字が金で象眼され、「国内で暦が使われた最古の例となる可能性もある」と学術的価値の高さを指摘された。
太刀には「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の金象嵌文字.
大刀は長さ約75センチ。表面がさびで覆われていたが、エックス線撮影で、刀の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が象眼されているのが確認された。
銘文は刀が作られた年月日(庚寅の年(570年)の庚寅の日(1月6日)) などを記しているとみられ、最後の文字は「錬」の可能性もあるといい 「すべてよく錬りきたえた刀」という意味が考えられるという。

元岡G6号墳の概要
○ 墳丘規模は直径約 18m。 ○ 石室は両袖式単室の横穴式石室。玄室は幅 1.6m~2.1m、全長 2.0m、天井高 1.8m。羨道は長さ
3.0m、幅 1.3m、高さ 1.4m。 ○ 出土遺物:玄室内から銘文入り象嵌大刀 1 点、水晶製切子玉、ガラス小玉、土玉、金銅製耳環、
金銅製飾り金具破片、須恵器容器類など。閉塞部上面から青銅製大型鈴 1 点、墓道床面直上か ら鉄矛 1 点。
これらの遺物が出土したG-6号墳は直径 18m の古墳で、造られた年代が 7 世紀中頃と推定 され、この地域の有力豪族の系譜を引く古墳です。 古墳の形も一般的な円墳ではなく、多角形の可能性もあります。古墳の形や古墳が造られた 年代については、今後発掘調査を継続しながら検討していく予定です。
歴史の解明には時間がかかるものですね。
九州大学糸島キャンパスの近くにある元岡古墳群からその太刀は出土しました。
発見されたのは2011年です。



金錯銘大刀は2011年に福岡市西区の元岡古墳群から出土した鉄製の刀。西暦570年を意味する「庚寅(こういん)」などの漢字19字が金で象眼され、「国内で暦が使われた最古の例となる可能性もある」と学術的価値の高さを指摘された。
太刀には「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の金象嵌文字.
大刀は長さ約75センチ。表面がさびで覆われていたが、エックス線撮影で、刀の背の部分に「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果□」の19文字が象眼されているのが確認された。
銘文は刀が作られた年月日(庚寅の年(570年)の庚寅の日(1月6日)) などを記しているとみられ、最後の文字は「錬」の可能性もあるといい 「すべてよく錬りきたえた刀」という意味が考えられるという。

元岡G6号墳の概要
○ 墳丘規模は直径約 18m。 ○ 石室は両袖式単室の横穴式石室。玄室は幅 1.6m~2.1m、全長 2.0m、天井高 1.8m。羨道は長さ
3.0m、幅 1.3m、高さ 1.4m。 ○ 出土遺物:玄室内から銘文入り象嵌大刀 1 点、水晶製切子玉、ガラス小玉、土玉、金銅製耳環、
金銅製飾り金具破片、須恵器容器類など。閉塞部上面から青銅製大型鈴 1 点、墓道床面直上か ら鉄矛 1 点。
これらの遺物が出土したG-6号墳は直径 18m の古墳で、造られた年代が 7 世紀中頃と推定 され、この地域の有力豪族の系譜を引く古墳です。 古墳の形も一般的な円墳ではなく、多角形の可能性もあります。古墳の形や古墳が造られた 年代については、今後発掘調査を継続しながら検討していく予定です。
歴史の解明には時間がかかるものですね。
10日ほど前の春秋の記事、五行思想について触れています。
単純な疑問ですが・・
誰もが熱いものを感じていたあの時代「青春」って何故、青春と言うんだろうか?
そんな疑問が五行思想で解決しました。
中国では古来、「木火土金水」の五元素が万物を形作ると考えられた。この五行思想に基づいて「青赤黄白黒」の五色を定め、方位や季節を象徴するものとした
▼文化審議会が国宝に指定するよう答申したキトラ古墳壁画(奈良県明日香村)は、石室の四方の壁に、方位に対応する神獣が描かれている。東に青竜、南に朱雀(すざく)、西に白虎、北に玄武。国内の古墳に残る貴重な極彩色壁画だ
▼季節に当てはめれば、東・青が春、南・赤は夏、西・白は秋、北・黒は冬。よって四季を青春、朱夏、白秋、玄冬と呼び、人生の「季節」を表すようにもなった
▼きょうは春分の日。このところの暖かさで、開花宣言を待ちきれずにつぼみを開く桜もあちこちに。卒業や入学、進学。舞い散る花びらと萌(も)えいづる新緑に彩られた、別れと出会いの季節は、まさに青い春
▼〈人の生涯のうち、一番美しくある青春の季節は、おのずから最も生きるにむずかしい季節である〉(伊藤整「青春」より)。人生や恋に悩み、胸の奥で暴れだす竜を抑えきれなくなりそうな若さである
▼福岡市西区の元岡古墳群から出土した「金錯銘大刀(きんさくめいたち)」も今回、重要文化財への指定が答申された。西暦570年を意味する「庚寅(こういん)」などの漢字が金で象眼されている。国内で暦が使われた最古の例となる可能性もあるそうだ。季節の移ろいを感じ、過ぎ行く年月を暦に刻んだ古人に思いをはせる春の一日。
=2019/03/21付 西日本新聞朝刊=

八代市緑の回廊3月30日

高古原町児童公園3月30日

高古原町児童公園3月30日
八代市内の桜はやっと花見ができそうになりました。
2分咲きから3分咲き程度。
単純な疑問ですが・・
誰もが熱いものを感じていたあの時代「青春」って何故、青春と言うんだろうか?
そんな疑問が五行思想で解決しました。
中国では古来、「木火土金水」の五元素が万物を形作ると考えられた。この五行思想に基づいて「青赤黄白黒」の五色を定め、方位や季節を象徴するものとした
▼文化審議会が国宝に指定するよう答申したキトラ古墳壁画(奈良県明日香村)は、石室の四方の壁に、方位に対応する神獣が描かれている。東に青竜、南に朱雀(すざく)、西に白虎、北に玄武。国内の古墳に残る貴重な極彩色壁画だ
▼季節に当てはめれば、東・青が春、南・赤は夏、西・白は秋、北・黒は冬。よって四季を青春、朱夏、白秋、玄冬と呼び、人生の「季節」を表すようにもなった
▼きょうは春分の日。このところの暖かさで、開花宣言を待ちきれずにつぼみを開く桜もあちこちに。卒業や入学、進学。舞い散る花びらと萌(も)えいづる新緑に彩られた、別れと出会いの季節は、まさに青い春
▼〈人の生涯のうち、一番美しくある青春の季節は、おのずから最も生きるにむずかしい季節である〉(伊藤整「青春」より)。人生や恋に悩み、胸の奥で暴れだす竜を抑えきれなくなりそうな若さである
▼福岡市西区の元岡古墳群から出土した「金錯銘大刀(きんさくめいたち)」も今回、重要文化財への指定が答申された。西暦570年を意味する「庚寅(こういん)」などの漢字が金で象眼されている。国内で暦が使われた最古の例となる可能性もあるそうだ。季節の移ろいを感じ、過ぎ行く年月を暦に刻んだ古人に思いをはせる春の一日。
=2019/03/21付 西日本新聞朝刊=
八代市緑の回廊3月30日
高古原町児童公園3月30日
高古原町児童公園3月30日
八代市内の桜はやっと花見ができそうになりました。
2分咲きから3分咲き程度。
蕨手文と言う図柄が装飾古墳に描かれているのは福岡県と佐賀県にある古墳に限られるという記事を読んでその地域の特性を感じます。
そしてその範囲を地図に表してみると蕨手文の分布はほぼ行き来可能な近隣地域に固まっています。土器や土偶などにも文様や形状で時期や地域に分類されたものがありますが、古墳に描かれている蕨手文はどうしてこの地域だけで使われる文様として終わってしまったのでしょうか?
昨日の続きにもなりますがGARANDOYA CAFE ⒸNETPIA HITAの古代装飾文様 九州の装飾古墳のブログから学ばせていただきました。
蕨手文 ( わらびてもん )
蕨手文 (わらびてもん)は蕨の形に似た渦巻状の文様で、呪術的な図文と考えられています。
九州にはたくさんの装飾古墳があり、さまざまな種類の文様が描かれていますが、記録のみのものを含めても蕨手文が描かれているのは、以下9つの古墳しかありません。またその全てが6世紀に作られた円墳または前方後円墳であり、横穴式石室を持つものです。
●王塚古墳
おうづかこふん
6世紀半ば
福岡県, 嘉穂郡, 桂川町
蕨手文, 同心円文, 三角文, 双脚輪状文, 騎馬像, 靫, 盾, 大刀
横穴式石室
前方後円墳 全長86m
彩色: 赤, 黄, 緑, 黒, 白
●日ノ岡古墳
ひのおかこふん
6世紀前半
福岡県, うきは市, 吉井町若宮
蕨手文, 同心円文, 靫, 盾, 大刀
横穴式石室
前方後円墳 全長74m
彩色: 赤, 白, 緑, 青
●重定古墳
しげさだこふん
6世紀後半
福岡県, うきは市, 浮羽町朝田
蕨手文, 同心円文, 三角文, 靫, 鞆
横穴式石室
前方後円墳 現存長50m
彩色: 赤, 白, 緑
●塚花塚古墳
つかはなづかこふん
6世紀後半
福岡県, うきは市, 浮羽町朝田
蕨手文, 同心円文, 連続三角文, 靫, 盾
横穴式石室
円墳 径30m 高さ6m
彩色: 赤, 緑
●珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
6世紀後半
福岡県, うきは市, 吉井町富永
蕨手文, 同心円文, 靫, 人物, 舟, 鳥, 蟾蜍(ヒキガエル)
横穴式石室
円墳 径12.4m 高さ3.5m
彩色: 赤, 青
●丸山塚古墳
まるやまづかこふん
6世紀後半
福岡県, 八女市, 宅間田
蕨手文, 対角線文, 三角文
横穴式石室
円墳 径30m 高さ5.3m
彩色: 赤, 緑, 黄
●乗場古墳
のりばこふん
6世紀半ば
福岡県, 八女市,吉田乗場
蕨手文, 同心円文, 三角文, 靫, 翳
横穴式石室
前方後円墳 全長約70m
彩色: 赤, 緑, 黄
●鹿毛塚古墳
かげつかこふん
6世紀後半
福岡県, 久留米市, 草野町
蕨手文, 同心円文
(不詳)
円墳 (消滅)
彩色: 赤, 青
●田代太田古墳
たしろおおたこふん
6世紀後半
佐賀県, 鳥栖市, 田代本町太田
蕨手文, 同心円文, 連続三角文, 騎馬, 人物 , 舟盾, 大刀
横穴式石室
円墳 径42m 高さ6m
彩色: 赤, 黒, 緑

1-3世紀に作られた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡にも、そのふちどりとして、美しい黄金の蕨手文が廻らされており、また同時代で同じ地域から出土した金錯鉄帯鉤 ( きんさくてったいこう) にも多数の蕨手文が描かれています。



金錯鉄帯鉤 ( きんさくてったいこう) 東京国立博物館所蔵
出土・国:
大分県日田市刃蓮町出土(伝)
形状:
長22.8_最大幅3.7_厚0.75
京都大学元教授梅原末治氏の論文には、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したダンワラ古墳は竪穴式の古式古墳であるが、その副葬品の1つの辻金物の作りから5世紀以降、おそらく5世紀から6世紀に作られた古墳であると書かれています。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がダンワラ古墳に納められ地上から消えた直後の6世紀に、これら9つの古墳は作られています。鏡の存在とその文様を知っていた人々(ダンワラ古墳の葬儀に来た親戚?)が、埋めた鏡の魔力を惜しみ求めて自分の古墳に蕨手文を描かせたのでしょうか。
■ 名 称: 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 (きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)
【 国の重要文化財 】
"錯嵌"(さくがん)とは象嵌(ぞうがん)のことです
■ 年 代: 1世紀~3世紀 弥生時代
■ 出土地: 大分県日田市日高町 東寺 ダンワラ古墳 (竪穴式古式古墳) 1933年消滅
■ 大きさ: 直径21.1cm、厚み2.5mm
■ 材 質: 鉄 (99%)
■ 装 飾: 金、銀、宝玉
金 : 純金を24金とした場合 20金 (金84%、銀5%、水銀11%)
銀 : 970 (/1000) (銀97%、錫2%、鉛0.7%、銅0.3%)
古代の金の精製は金鉱石に水銀を混ぜ、できた合金を加熱して水銀を揮発させる方法でした。この金に含まれる5%の銀は混ぜられたものですが、11%の水銀はもとの金に含まれていたものではないかと推測されます。
*古代の他地域で装飾に使われた金は良く精製されており、水銀は含まれていません
赤、青、緑、白色等、数種類の石玉は、まだ分析調査されていませんが、この時代の日本では大変珍しいトルコ石が認められることから、ヒスイをはじめとする高価で希少な宝石も予想されます。なお復元レプリカには、ルビー、ヒスイ、水晶、トルコ石が使われています。
■ 文 様:
竜をはじめとする多種類の文様が約0.4ミリの細い金線で繊細に装飾されています。また高い技術で、金、銀、石玉が象嵌(ぞうがん)されています。
盤の外側は金のうずまき文様、蕨手文で縁取られています。この文様は、呪術を意味すると考えられており、所有者はシャーマンではないかと推測されます。 竜と虎の文様について
■ 文 字: 長宜◆孫 (◆は欠落)
中央部に金で書かれた文字は、1文字欠落していますが 「長宜子孫」(ちょうぎしそん)であるとされており、中国で秦・漢の時代に流行し、女性に対してよく使われた「子孫繁栄」を意味する吉祥句です。
*吉祥句(きっしょうく): 祈りを込めた、おめでたいお祝いの言葉
■ 類似する古代の鏡:
中国・三国時代(184~280年)の書に「魏(ぎ)の曹操(そうそう)が金錯鉄鏡(きんさくてっきょう)を持っていた」と書かれていますが、大きさは直径約46cmの大きなものだったようです。
日本から魏へは、239年に卑弥呼が朝貢の使者を送っていることがわかっています。
■ 東寺ダンワラ古墳からの他の出土物
鉄刀、轡、鉄製貝装雲珠(かいそううんじゅ)、鉄製貝装辻金物、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだだま)、水晶製切子玉(きりこだま)、ガラス製小玉、勾玉(まがたま)
近辺からの関連のある出土物としては、金錯鉄帯鉤 (きんさくてつたいこう・男性用の鉄製バックル)
*金錯鉄帯鉤の装飾の金にも、11%の水銀が含まれています。
■ 近辺の金鉱:
九州の古代の出土物には豪華絢爛なものが多数あります。その富の豊かさの背景には、黄金の国ジパングと言われた理由、金の産出を外すことはできません。金が出なかった古代の中国にとって、金は最も歓迎される交易品であり、貢物(みつぎもの)であったことでしょう。
この鏡が出土した日田市には、東洋最大規模と言われた鯛生金山はじめ、15の金山の存在がわかっています。また金の精製に不可欠な水銀が大分県内で採掘されていたことは、豊後国風土記(720~740年)にも記されています。(現在わかっている九州の水銀鉱は大分県のみ)
■ 経 緯:
国の重要文化財に指定されてから43年もの長い間、この美しい鏡が一般国民の知るところとならなかったのは、大変残念なことです。
1933年
昭和8年
大分県日田市日高町 ダンワラ古墳で渡辺音吉氏により発見される。さびた鉄のかたまりであったが、つまみがあったことから鏡と判断し湿気を避けるため、石炭箱に石灰といっしょに入れて三芳小学校に寄贈
1940年代
第二次世界大戦中~終戦後、展示していた三芳小学校から盗まれる
1960年
昭和35年
梅原末治 京都大学教授が、奈良の古美術商から 「伝・日田出土」の「鉄のかたまり」として購入
1962年
昭和37年
天理大学付属天理参考館で白木原好美教授により表面の研ぎ出しが行われ、金銀玉の装飾が現れる。付着していた石灰粉からダンワラ古墳出土の鉄鏡と認められる。
1964年
昭和39年
国の重要文化財に指定、東京国立博物館に収蔵される
2006年
平成18年
12月 東京国立博物館から九州国立博物館に貸し出し
2007年
平成19年
1月1日~1月28日 九州国立博物館で展示
2009年
平成21年
10月20日~11月29日 九州国立博物館で展示
●ダンワラ古墳
ダンワラ古墳(ダンワラこふん)は、大分県日田市日高町にあった古墳。国の重要文化財の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)の出土地として知られている。
概要
1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が発見された。
発見当時にはこの鉄鏡が注目を集めることはなかったが、1962年(昭和37年)に、梅原末治によってその価値が見いだされ、発見者の渡辺音吉の案内による現地調査が行われた。その結果、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され、その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、この古墳は前述の線路工事によって発見時に破壊されていたため、ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、背面の装飾は腐蝕のために剥落した部分が多いものの、約3分の1が残存しており原状をうかがうことができる。全面に金で竜文が象嵌されており、その角や爪は銀の象嵌とされ、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌入されている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。この鉄鏡は漢代のものと考えられている。現在は東京国立博物館が所有しているが、九州国立博物館で常設展示されている。
発見者によれば、石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土したともいう。
ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われるが、その被葬者や、このような豪華な副葬品が納められた理由は明らかでない。
Wikipediaより
そしてその範囲を地図に表してみると蕨手文の分布はほぼ行き来可能な近隣地域に固まっています。土器や土偶などにも文様や形状で時期や地域に分類されたものがありますが、古墳に描かれている蕨手文はどうしてこの地域だけで使われる文様として終わってしまったのでしょうか?
昨日の続きにもなりますがGARANDOYA CAFE ⒸNETPIA HITAの古代装飾文様 九州の装飾古墳のブログから学ばせていただきました。
蕨手文 ( わらびてもん )
蕨手文 (わらびてもん)は蕨の形に似た渦巻状の文様で、呪術的な図文と考えられています。
九州にはたくさんの装飾古墳があり、さまざまな種類の文様が描かれていますが、記録のみのものを含めても蕨手文が描かれているのは、以下9つの古墳しかありません。またその全てが6世紀に作られた円墳または前方後円墳であり、横穴式石室を持つものです。
●王塚古墳
おうづかこふん
6世紀半ば
福岡県, 嘉穂郡, 桂川町
蕨手文, 同心円文, 三角文, 双脚輪状文, 騎馬像, 靫, 盾, 大刀
横穴式石室
前方後円墳 全長86m
彩色: 赤, 黄, 緑, 黒, 白
●日ノ岡古墳
ひのおかこふん
6世紀前半
福岡県, うきは市, 吉井町若宮
蕨手文, 同心円文, 靫, 盾, 大刀
横穴式石室
前方後円墳 全長74m
彩色: 赤, 白, 緑, 青
●重定古墳
しげさだこふん
6世紀後半
福岡県, うきは市, 浮羽町朝田
蕨手文, 同心円文, 三角文, 靫, 鞆
横穴式石室
前方後円墳 現存長50m
彩色: 赤, 白, 緑
●塚花塚古墳
つかはなづかこふん
6世紀後半
福岡県, うきは市, 浮羽町朝田
蕨手文, 同心円文, 連続三角文, 靫, 盾
横穴式石室
円墳 径30m 高さ6m
彩色: 赤, 緑
●珍敷塚古墳
めずらしづかこふん
6世紀後半
福岡県, うきは市, 吉井町富永
蕨手文, 同心円文, 靫, 人物, 舟, 鳥, 蟾蜍(ヒキガエル)
横穴式石室
円墳 径12.4m 高さ3.5m
彩色: 赤, 青
●丸山塚古墳
まるやまづかこふん
6世紀後半
福岡県, 八女市, 宅間田
蕨手文, 対角線文, 三角文
横穴式石室
円墳 径30m 高さ5.3m
彩色: 赤, 緑, 黄
●乗場古墳
のりばこふん
6世紀半ば
福岡県, 八女市,吉田乗場
蕨手文, 同心円文, 三角文, 靫, 翳
横穴式石室
前方後円墳 全長約70m
彩色: 赤, 緑, 黄
●鹿毛塚古墳
かげつかこふん
6世紀後半
福岡県, 久留米市, 草野町
蕨手文, 同心円文
(不詳)
円墳 (消滅)
彩色: 赤, 青
●田代太田古墳
たしろおおたこふん
6世紀後半
佐賀県, 鳥栖市, 田代本町太田
蕨手文, 同心円文, 連続三角文, 騎馬, 人物 , 舟盾, 大刀
横穴式石室
円墳 径42m 高さ6m
彩色: 赤, 黒, 緑

1-3世紀に作られた金銀錯嵌珠龍文鉄鏡にも、そのふちどりとして、美しい黄金の蕨手文が廻らされており、また同時代で同じ地域から出土した金錯鉄帯鉤 ( きんさくてったいこう) にも多数の蕨手文が描かれています。



金錯鉄帯鉤 ( きんさくてったいこう) 東京国立博物館所蔵
出土・国:
大分県日田市刃蓮町出土(伝)
形状:
長22.8_最大幅3.7_厚0.75
京都大学元教授梅原末治氏の論文には、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したダンワラ古墳は竪穴式の古式古墳であるが、その副葬品の1つの辻金物の作りから5世紀以降、おそらく5世紀から6世紀に作られた古墳であると書かれています。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡がダンワラ古墳に納められ地上から消えた直後の6世紀に、これら9つの古墳は作られています。鏡の存在とその文様を知っていた人々(ダンワラ古墳の葬儀に来た親戚?)が、埋めた鏡の魔力を惜しみ求めて自分の古墳に蕨手文を描かせたのでしょうか。
■ 名 称: 金銀錯嵌珠龍文鉄鏡 (きんぎん さくがん しゅりゅうもん てっきょう)
【 国の重要文化財 】
"錯嵌"(さくがん)とは象嵌(ぞうがん)のことです
■ 年 代: 1世紀~3世紀 弥生時代
■ 出土地: 大分県日田市日高町 東寺 ダンワラ古墳 (竪穴式古式古墳) 1933年消滅
■ 大きさ: 直径21.1cm、厚み2.5mm
■ 材 質: 鉄 (99%)
■ 装 飾: 金、銀、宝玉
金 : 純金を24金とした場合 20金 (金84%、銀5%、水銀11%)
銀 : 970 (/1000) (銀97%、錫2%、鉛0.7%、銅0.3%)
古代の金の精製は金鉱石に水銀を混ぜ、できた合金を加熱して水銀を揮発させる方法でした。この金に含まれる5%の銀は混ぜられたものですが、11%の水銀はもとの金に含まれていたものではないかと推測されます。
*古代の他地域で装飾に使われた金は良く精製されており、水銀は含まれていません
赤、青、緑、白色等、数種類の石玉は、まだ分析調査されていませんが、この時代の日本では大変珍しいトルコ石が認められることから、ヒスイをはじめとする高価で希少な宝石も予想されます。なお復元レプリカには、ルビー、ヒスイ、水晶、トルコ石が使われています。
■ 文 様:
竜をはじめとする多種類の文様が約0.4ミリの細い金線で繊細に装飾されています。また高い技術で、金、銀、石玉が象嵌(ぞうがん)されています。
盤の外側は金のうずまき文様、蕨手文で縁取られています。この文様は、呪術を意味すると考えられており、所有者はシャーマンではないかと推測されます。 竜と虎の文様について
■ 文 字: 長宜◆孫 (◆は欠落)
中央部に金で書かれた文字は、1文字欠落していますが 「長宜子孫」(ちょうぎしそん)であるとされており、中国で秦・漢の時代に流行し、女性に対してよく使われた「子孫繁栄」を意味する吉祥句です。
*吉祥句(きっしょうく): 祈りを込めた、おめでたいお祝いの言葉
■ 類似する古代の鏡:
中国・三国時代(184~280年)の書に「魏(ぎ)の曹操(そうそう)が金錯鉄鏡(きんさくてっきょう)を持っていた」と書かれていますが、大きさは直径約46cmの大きなものだったようです。
日本から魏へは、239年に卑弥呼が朝貢の使者を送っていることがわかっています。
■ 東寺ダンワラ古墳からの他の出土物
鉄刀、轡、鉄製貝装雲珠(かいそううんじゅ)、鉄製貝装辻金物、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだだま)、水晶製切子玉(きりこだま)、ガラス製小玉、勾玉(まがたま)
近辺からの関連のある出土物としては、金錯鉄帯鉤 (きんさくてつたいこう・男性用の鉄製バックル)
*金錯鉄帯鉤の装飾の金にも、11%の水銀が含まれています。
■ 近辺の金鉱:
九州の古代の出土物には豪華絢爛なものが多数あります。その富の豊かさの背景には、黄金の国ジパングと言われた理由、金の産出を外すことはできません。金が出なかった古代の中国にとって、金は最も歓迎される交易品であり、貢物(みつぎもの)であったことでしょう。
この鏡が出土した日田市には、東洋最大規模と言われた鯛生金山はじめ、15の金山の存在がわかっています。また金の精製に不可欠な水銀が大分県内で採掘されていたことは、豊後国風土記(720~740年)にも記されています。(現在わかっている九州の水銀鉱は大分県のみ)
■ 経 緯:
国の重要文化財に指定されてから43年もの長い間、この美しい鏡が一般国民の知るところとならなかったのは、大変残念なことです。
1933年
昭和8年
大分県日田市日高町 ダンワラ古墳で渡辺音吉氏により発見される。さびた鉄のかたまりであったが、つまみがあったことから鏡と判断し湿気を避けるため、石炭箱に石灰といっしょに入れて三芳小学校に寄贈
1940年代
第二次世界大戦中~終戦後、展示していた三芳小学校から盗まれる
1960年
昭和35年
梅原末治 京都大学教授が、奈良の古美術商から 「伝・日田出土」の「鉄のかたまり」として購入
1962年
昭和37年
天理大学付属天理参考館で白木原好美教授により表面の研ぎ出しが行われ、金銀玉の装飾が現れる。付着していた石灰粉からダンワラ古墳出土の鉄鏡と認められる。
1964年
昭和39年
国の重要文化財に指定、東京国立博物館に収蔵される
2006年
平成18年
12月 東京国立博物館から九州国立博物館に貸し出し
2007年
平成19年
1月1日~1月28日 九州国立博物館で展示
2009年
平成21年
10月20日~11月29日 九州国立博物館で展示
●ダンワラ古墳
ダンワラ古墳(ダンワラこふん)は、大分県日田市日高町にあった古墳。国の重要文化財の金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)の出土地として知られている。
概要
1933年(昭和8年)、国鉄久大本線豊後三芳駅付近で線路の盛土を採集している際、石棺が出土し、その中から金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡が発見された。
発見当時にはこの鉄鏡が注目を集めることはなかったが、1962年(昭和37年)に、梅原末治によってその価値が見いだされ、発見者の渡辺音吉の案内による現地調査が行われた。その結果、日田市日高町の通称ダンワラと呼ばれる場所から出土したものと判断され、その場所がダンワラ古墳と呼ばれるようになった。ただし、発見から調査までの間に約30年が経過しており、この古墳は前述の線路工事によって発見時に破壊されていたため、ダンワラ古墳が実際の出土地であったかどうかは確かではない。
金銀錯嵌珠龍紋鉄鏡は、直径21.1cm、厚さ2.5mmの反りのない鏡で、背面の装飾は腐蝕のために剥落した部分が多いものの、約3分の1が残存しており原状をうかがうことができる。全面に金で竜文が象嵌されており、その角や爪は銀の象嵌とされ、眼や体の所々には赤や緑の玉が嵌入されている。中心のつまみ付近には漢代の書体で「長宜子孫」(子は欠落)の4文字が金で刻まれている。この鉄鏡は漢代のものと考えられている。現在は東京国立博物館が所有しているが、九州国立博物館で常設展示されている。
発見者によれば、石棺からは鉄鏡と同時に鉄刀、轡が出土し、近辺からは碧玉製管玉、水晶製切子玉、ガラス製小玉なども出土したという。また、日田市から出土した帯の金具である金錯鉄帯鉤(きんさくてったいこう)3点も、一説には同じ古墳から出土したともいう。
ダンワラ古墳は、一説には当時の日田地方の豪族日下部氏の古墳とも言われるが、その被葬者や、このような豪華な副葬品が納められた理由は明らかでない。
Wikipediaより
何度か装飾古墳を見る機会を作り人吉や玉名、菊水、和水、山鹿、熊本、松橋、八代に足を運びました。お墓に装飾を施した人たちがどういう理由で線刻や浮彫、そして絵の具を使って色々な絵を描いたのだろうか?図柄についてはっきりとしたことは判明していないそうです。でも古墳時代の人が書き残したということは何か理由があったはずです。
ニッポニカに装飾古墳の解説が分かりやすく書かれたものがありますので転載します。
装飾古墳
そうしょくこふん
石室、石棺などに彫刻、彩色を施して装飾された古墳の総称。わが国の古墳時代には5世紀から7世紀にかけて、古墳石室の入口や内部、石棺の内外面、および横穴の外壁や内部に、各種の文様や絵画を彫刻や彩色で表す風習があった。それらの分布は福岡県南部と熊本県下にもっとも多く、全国の総数約300例のうち半数以上を占める。同じ九州でも宮崎、長崎県下には少なく、鹿児島県下には発見されていない。本州では島根県東部と鳥取県西部に集中し、畿内(きない)およびその周辺にはきわめて少ない。東日本では相模(さがみ)湾周辺、および鹿島灘(かしまなだ)に面した茨城県地方に多く、これに隣接する福島県東部には集中的にみられる。それらの多くは横穴系に属し、北は仙台平野北部の宮城県志田(しだ)郡地方に及ぶ。
初期の図柄は主として直線と弧線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)をはじめ、円、同心円、三角形、菱形(ひしがた)などの幾何学図形文を表したものが多い。一方、5世紀前半ごろには、鏡や大刀(たち)、短甲(たんこう)、靭(ゆき)、楯(たて)など、具象的な図柄が出現し、やがて赤、白、黄、青、緑などの彩色も併用される。6世紀代になると壮麗なものが多く、なかには被葬者に関する一種の物語風場面を構成するものがあり、それらの意匠は横穴の表壁や内部に踏襲される。その点、奈良県高松塚古墳の壁画は系流を異にし、高句麗(こうくり)や唐文化の影響によるものであった。
装飾古墳の起源を中国の後漢(ごかん)や朝鮮半島の高句麗壁画墓に求める向きがあるが、無関係で、その目的には悪霊排除などの呪術(じゅじゅつ)的な意味が考えられる。しかし6世紀後半になると、大陸系の四神や日月、竜馬神話などが画題に反映し、思想的な影響があったことがわかる。[乙益重隆]
これから紹介するものはGARANDOYA CAFE ⒸNETPIA HITAの古代装飾文様 九州の装飾古墳から抜き出したものです。

円文 (えんもん)
輪状と塗りつぶしたものがあり、コンパスを使って美しく描かれたものも多数あります。5世紀から7世紀前半につくられた多くの装飾古墳に描かれており、その分布も広範囲に渡っています。その意味するところはまだ解明されていませんが、その分布から、死者のためには当然描くべき重要なシンボルであったことが推測されます。玉名市の永安寺西古墳には円文のみ計43こが描かれています。

同心円文 (どうしんえんもん)
1つの中心を元に複数の円を組み合わせた文様でコンパスを使って描かれたものが多数あります。特に美しく迫力ある壁画としてはうきは市の日岡古墳(日ノ岡古墳)が有名で、大きな同心円文6こが一面に描かれています。同心円文も円文同様多数の装飾古墳に描かれており、鏡、太陽、また呪術を意味する渦巻き文様を簡便に変化させたものではないかという説があります。

三角文 (さんかくもん)
三角形の文様で、線状と塗りつぶしたものがあり、6世紀以降~7世紀の多くの装飾古墳で見られます。朝鮮半島の古代呪術における三角文は「再生」を意味すると言われていますが、日本では「魔を祓う」意味があるのではないかと思われます。

連続三角文 (れんぞくさんかくもん)
複数の三角文を並べたものをこう呼んでいます。左の文様は玉名市の大坊古墳の壁画を図案にしてみたものですが、多数の三角形が5段に並び、できた空間に塗りつぶした円文6こが配置されているなど、大変美しい壁画となっています。

鋸歯文 (きょしもん)
三角文の組み合わせの1つです。のこぎりの歯のような文様で、左の文様は玉名市の永安寺東古墳の羨道の鋸歯文を図案化したものです。入り口にあることから侵入者を拒む効果もあったのではないでしょうか。

菱形文 (ひしがたもん)
菱形の形の文様を指しますが、三角文を並べた際にできる空間がこの形になっているものもあります。山鹿市のチブサン古墳では赤、白、青に塗り分けられた菱形文の美しくも迫力のある壁画を見ることができます。

対角線文 (たいかくせんもん)
対角線文はただのバツ印のようにも見えますが、対角線を引くことにより、そこには4つの三角形が生まれます。深い意味を持つ三角文のバリーエションの1つとも考えることができます。熊本市の千金甲古墳には、左の文様と同心円文が交互に彫刻・彩色されており大変見事です。

斜格子文 (ななめこうしもん・しゃこうしもん)
斜めの線が複数引かれてできた斜めの格子ですが、その空間には多数の菱形が生まれています。熊本県下益城郡の石之室古墳には、定規をあてて作られた美しい斜格子文の線刻があります。

蕨手文 (わらびてもん)
わらびの形をした文様で、ほとんどが2つを背中合わせに組み合わせた形をしており、主題が渦巻きであることから呪術を意味すると言われています。この文様のある古墳は大変少なく、九州にある約270の装飾古墳のうち、8~9の古墳にしか認められていません。なお、この文様を持つ古墳の被葬者は同じ一族ではないかと推測されています。

直弧文 (ちょっこもん)
直線と弧線を組み合わせた文様を直弧文といいます。直弧文が描かれている装飾古墳は5世紀につくられたものが多いので九州最古のタイプとされ、6世紀に入ると姿を消していきます。この複雑で不思議な文様は4-6世紀の本州で多様に使われ、特に武具に施されていました。熊本県上益城郡の井寺古墳では赤・青・白・緑に塗り分けられた多数の直弧文を見ることができます。

車輪状文 ( 車輪文 )
車輪とは関係なさそうですが、車輪のような形をしていることから、こう呼ばれています。左の文様は井寺古墳のものを図案化してみました。大きく描かれた直弧文と直弧文の間のスペースに、たてに2こ並べて描かれています。

鍵手文 (かぎてもん)
鍵手文は直弧文の一種とされています。左の文様は福岡県久留米市の日輪時古墳の線刻を図案化したもので、同心円文2こにはさまれた長方形の空間に、縦3段、横4こ計12こが描かれています。同じく久留米市 浦山古墳、熊本県上益城郡 熊本県千金甲1号墳、宇城市 国越古墳でも見ることができます。

双脚輪状文 (そうきゃくりんじょうもん)
輪に2つの足がついている文様で、何とも不思議な雰囲気を持っています。左の文様は熊本県の釜尾古墳のものを図案化したもので、福岡県の王塚古墳、弘化谷古墳、横山古墳の合計4つの古墳にしか見られない特別な文様です。(他に福岡県の丸山古墳にも見られるという記録がありますが、現在確認できません)この文様を持つ古墳の被葬者は同じ一族ではないかと推測されています。

六脚輪状文 (ろっきゃくりんじょうもん)
同心円文に6つの渦巻き状の足がついています。現在のところ宇佐市 貴船平下の裏山横穴墓群だけに認められ、4この赤い彩色の文様が羨道入り口に描かれており、その渦巻き状の足から呪術的な意味を持つ文様と推測されます。また足が円を囲むように配され太陽の文様のようにも見えることから、その成り立ちは双脚輪状文とは全く違う種類の文様と思われます。

珠文 ( しゅもん )
粒のようにも見える小さな円形を珠文といいます。福岡県うきは市 珍敷塚古墳、久留米市 薬師下北古墳、薬師下南古墳、熊本県玉名市 石貫穴観音横穴群、田崎横穴群などに認められています。

鏡 ( かがみ )
宇土半島、天草、八代の装飾古墳では、鏡と思われる文様が多数見られます。左の文様は熊本県天草郡の大戸鼻南古墳の浮き彫りを図案化したもので、上部には吊り下げるためのひも状のものが確認できます。熊本県八代市 長迫古墳の板石(東京国立博物館蔵)には、大戸鼻南古墳の鏡そっくりの文様がいくつも刻まれ
ているということです。

靫 (ゆき・ゆぎ)
矢を収納する入れ物で背中に背負って使うため、奴凧のような形のものが多く見られます。熊本市の千金甲古墳には緑色に塗られた8この靫と6この弓を、交互にきちんときれいに並べるなど、多数の装飾古墳に描かれています。またうきは市の重定古墳には42こもの靫が描かれており、靫負部(ゆげいべ)または靫を作る職業集団との関わりも推測されます。左の文様は人吉市の大村横穴1号の線刻を図案化してみました。

盾 (たて)
盾などの武具が
描かれる場合、船や人、馬、鳥などと併せて描かれる場合が多く、そういったケースではシンボルとしての文様ではなく、被葬者の生前、死後の様子を説明する叙事詩的な構成アイテムの1つと考えられます。

弓 ( ゆみ )
左の文様は熊本県山鹿市 鍋田横穴群27号の入り口脇の外壁に浮き彫りされた弓矢を図案化してみたものです。一般的な靫(ゆき・ゆぎ)の大きさに比すると矢が短いなという印象ですが、美しい紡錘形の先端には興味深いものがあります。

鞆 ( とも )
弓で矢を放った後、弓の弦(つる)が左手に当たるため、左手首の内側につけて手を保護する道具です。革製で中に詰め物が入っています。左の文様は福岡県筑紫野市の五郎山古墳に描かれた鞆です。うきは市 重定古墳、大分県別府市 鬼の岩屋1号墳、熊本県山鹿市 御霊塚古墳にも描かれています。

太刀 ( たち )
文字通り大きな刀のことで、左の文様は5世紀につくられた熊本県天草郡 広浦古墳の浮き彫りです。刀そのものではなく、りっぱな鞘(さや)に納められた姿は何とも良い印象です。

刀子 ( とうす )
ものを切ったり削ったりして加工する小刀を 刀子といいます。左の文様は熊本県天草郡 広浦古墳に浮き彫りされているもので、別に太刀と重ねた刀子も有り、そちらの大きさはおよそ太刀の5分の1ほどとなっています。

短甲 ( たんこう )
鎧(よろい)の一種で、左の文様は熊本県八代市の大鼠蔵東麓古墳1号墳の石棺に描かれた線刻を図案化したものです。古墳時代の短甲は鉄板製が多く、三角形の鉄板をつないで作ったものと思われます。他の古墳からは副葬品として鉄製や豪華で美しい金銅製のものが出土しています。

翳 (さしば)
中国から渡ってきた儀式に使う持ち手の長いうちわで、王族などの貴人用です。左の文様は福岡県宮若市の竹原古墳に描かれたものを図案化したものです。他には八女市 乗場古墳、佐賀県杵島郡 永池古墳、熊本県宇城市 不知火塚原古墳1号にも認められています。(一部記録のみ)
www.netpia.jp/history/index.htmより転記しました。
ニッポニカに装飾古墳の解説が分かりやすく書かれたものがありますので転載します。
装飾古墳
そうしょくこふん
石室、石棺などに彫刻、彩色を施して装飾された古墳の総称。わが国の古墳時代には5世紀から7世紀にかけて、古墳石室の入口や内部、石棺の内外面、および横穴の外壁や内部に、各種の文様や絵画を彫刻や彩色で表す風習があった。それらの分布は福岡県南部と熊本県下にもっとも多く、全国の総数約300例のうち半数以上を占める。同じ九州でも宮崎、長崎県下には少なく、鹿児島県下には発見されていない。本州では島根県東部と鳥取県西部に集中し、畿内(きない)およびその周辺にはきわめて少ない。東日本では相模(さがみ)湾周辺、および鹿島灘(かしまなだ)に面した茨城県地方に多く、これに隣接する福島県東部には集中的にみられる。それらの多くは横穴系に属し、北は仙台平野北部の宮城県志田(しだ)郡地方に及ぶ。
初期の図柄は主として直線と弧線を組み合わせた直弧文(ちょっこもん)をはじめ、円、同心円、三角形、菱形(ひしがた)などの幾何学図形文を表したものが多い。一方、5世紀前半ごろには、鏡や大刀(たち)、短甲(たんこう)、靭(ゆき)、楯(たて)など、具象的な図柄が出現し、やがて赤、白、黄、青、緑などの彩色も併用される。6世紀代になると壮麗なものが多く、なかには被葬者に関する一種の物語風場面を構成するものがあり、それらの意匠は横穴の表壁や内部に踏襲される。その点、奈良県高松塚古墳の壁画は系流を異にし、高句麗(こうくり)や唐文化の影響によるものであった。
装飾古墳の起源を中国の後漢(ごかん)や朝鮮半島の高句麗壁画墓に求める向きがあるが、無関係で、その目的には悪霊排除などの呪術(じゅじゅつ)的な意味が考えられる。しかし6世紀後半になると、大陸系の四神や日月、竜馬神話などが画題に反映し、思想的な影響があったことがわかる。[乙益重隆]
これから紹介するものはGARANDOYA CAFE ⒸNETPIA HITAの古代装飾文様 九州の装飾古墳から抜き出したものです。

円文 (えんもん)
輪状と塗りつぶしたものがあり、コンパスを使って美しく描かれたものも多数あります。5世紀から7世紀前半につくられた多くの装飾古墳に描かれており、その分布も広範囲に渡っています。その意味するところはまだ解明されていませんが、その分布から、死者のためには当然描くべき重要なシンボルであったことが推測されます。玉名市の永安寺西古墳には円文のみ計43こが描かれています。

同心円文 (どうしんえんもん)
1つの中心を元に複数の円を組み合わせた文様でコンパスを使って描かれたものが多数あります。特に美しく迫力ある壁画としてはうきは市の日岡古墳(日ノ岡古墳)が有名で、大きな同心円文6こが一面に描かれています。同心円文も円文同様多数の装飾古墳に描かれており、鏡、太陽、また呪術を意味する渦巻き文様を簡便に変化させたものではないかという説があります。

三角文 (さんかくもん)
三角形の文様で、線状と塗りつぶしたものがあり、6世紀以降~7世紀の多くの装飾古墳で見られます。朝鮮半島の古代呪術における三角文は「再生」を意味すると言われていますが、日本では「魔を祓う」意味があるのではないかと思われます。

連続三角文 (れんぞくさんかくもん)
複数の三角文を並べたものをこう呼んでいます。左の文様は玉名市の大坊古墳の壁画を図案にしてみたものですが、多数の三角形が5段に並び、できた空間に塗りつぶした円文6こが配置されているなど、大変美しい壁画となっています。

鋸歯文 (きょしもん)
三角文の組み合わせの1つです。のこぎりの歯のような文様で、左の文様は玉名市の永安寺東古墳の羨道の鋸歯文を図案化したものです。入り口にあることから侵入者を拒む効果もあったのではないでしょうか。

菱形文 (ひしがたもん)
菱形の形の文様を指しますが、三角文を並べた際にできる空間がこの形になっているものもあります。山鹿市のチブサン古墳では赤、白、青に塗り分けられた菱形文の美しくも迫力のある壁画を見ることができます。

対角線文 (たいかくせんもん)
対角線文はただのバツ印のようにも見えますが、対角線を引くことにより、そこには4つの三角形が生まれます。深い意味を持つ三角文のバリーエションの1つとも考えることができます。熊本市の千金甲古墳には、左の文様と同心円文が交互に彫刻・彩色されており大変見事です。

斜格子文 (ななめこうしもん・しゃこうしもん)
斜めの線が複数引かれてできた斜めの格子ですが、その空間には多数の菱形が生まれています。熊本県下益城郡の石之室古墳には、定規をあてて作られた美しい斜格子文の線刻があります。

蕨手文 (わらびてもん)
わらびの形をした文様で、ほとんどが2つを背中合わせに組み合わせた形をしており、主題が渦巻きであることから呪術を意味すると言われています。この文様のある古墳は大変少なく、九州にある約270の装飾古墳のうち、8~9の古墳にしか認められていません。なお、この文様を持つ古墳の被葬者は同じ一族ではないかと推測されています。

直弧文 (ちょっこもん)
直線と弧線を組み合わせた文様を直弧文といいます。直弧文が描かれている装飾古墳は5世紀につくられたものが多いので九州最古のタイプとされ、6世紀に入ると姿を消していきます。この複雑で不思議な文様は4-6世紀の本州で多様に使われ、特に武具に施されていました。熊本県上益城郡の井寺古墳では赤・青・白・緑に塗り分けられた多数の直弧文を見ることができます。

車輪状文 ( 車輪文 )
車輪とは関係なさそうですが、車輪のような形をしていることから、こう呼ばれています。左の文様は井寺古墳のものを図案化してみました。大きく描かれた直弧文と直弧文の間のスペースに、たてに2こ並べて描かれています。

鍵手文 (かぎてもん)
鍵手文は直弧文の一種とされています。左の文様は福岡県久留米市の日輪時古墳の線刻を図案化したもので、同心円文2こにはさまれた長方形の空間に、縦3段、横4こ計12こが描かれています。同じく久留米市 浦山古墳、熊本県上益城郡 熊本県千金甲1号墳、宇城市 国越古墳でも見ることができます。

双脚輪状文 (そうきゃくりんじょうもん)
輪に2つの足がついている文様で、何とも不思議な雰囲気を持っています。左の文様は熊本県の釜尾古墳のものを図案化したもので、福岡県の王塚古墳、弘化谷古墳、横山古墳の合計4つの古墳にしか見られない特別な文様です。(他に福岡県の丸山古墳にも見られるという記録がありますが、現在確認できません)この文様を持つ古墳の被葬者は同じ一族ではないかと推測されています。

六脚輪状文 (ろっきゃくりんじょうもん)
同心円文に6つの渦巻き状の足がついています。現在のところ宇佐市 貴船平下の裏山横穴墓群だけに認められ、4この赤い彩色の文様が羨道入り口に描かれており、その渦巻き状の足から呪術的な意味を持つ文様と推測されます。また足が円を囲むように配され太陽の文様のようにも見えることから、その成り立ちは双脚輪状文とは全く違う種類の文様と思われます。

珠文 ( しゅもん )
粒のようにも見える小さな円形を珠文といいます。福岡県うきは市 珍敷塚古墳、久留米市 薬師下北古墳、薬師下南古墳、熊本県玉名市 石貫穴観音横穴群、田崎横穴群などに認められています。

鏡 ( かがみ )
宇土半島、天草、八代の装飾古墳では、鏡と思われる文様が多数見られます。左の文様は熊本県天草郡の大戸鼻南古墳の浮き彫りを図案化したもので、上部には吊り下げるためのひも状のものが確認できます。熊本県八代市 長迫古墳の板石(東京国立博物館蔵)には、大戸鼻南古墳の鏡そっくりの文様がいくつも刻まれ
ているということです。

靫 (ゆき・ゆぎ)
矢を収納する入れ物で背中に背負って使うため、奴凧のような形のものが多く見られます。熊本市の千金甲古墳には緑色に塗られた8この靫と6この弓を、交互にきちんときれいに並べるなど、多数の装飾古墳に描かれています。またうきは市の重定古墳には42こもの靫が描かれており、靫負部(ゆげいべ)または靫を作る職業集団との関わりも推測されます。左の文様は人吉市の大村横穴1号の線刻を図案化してみました。

盾 (たて)
盾などの武具が
描かれる場合、船や人、馬、鳥などと併せて描かれる場合が多く、そういったケースではシンボルとしての文様ではなく、被葬者の生前、死後の様子を説明する叙事詩的な構成アイテムの1つと考えられます。

弓 ( ゆみ )
左の文様は熊本県山鹿市 鍋田横穴群27号の入り口脇の外壁に浮き彫りされた弓矢を図案化してみたものです。一般的な靫(ゆき・ゆぎ)の大きさに比すると矢が短いなという印象ですが、美しい紡錘形の先端には興味深いものがあります。

鞆 ( とも )
弓で矢を放った後、弓の弦(つる)が左手に当たるため、左手首の内側につけて手を保護する道具です。革製で中に詰め物が入っています。左の文様は福岡県筑紫野市の五郎山古墳に描かれた鞆です。うきは市 重定古墳、大分県別府市 鬼の岩屋1号墳、熊本県山鹿市 御霊塚古墳にも描かれています。

太刀 ( たち )
文字通り大きな刀のことで、左の文様は5世紀につくられた熊本県天草郡 広浦古墳の浮き彫りです。刀そのものではなく、りっぱな鞘(さや)に納められた姿は何とも良い印象です。

刀子 ( とうす )
ものを切ったり削ったりして加工する小刀を 刀子といいます。左の文様は熊本県天草郡 広浦古墳に浮き彫りされているもので、別に太刀と重ねた刀子も有り、そちらの大きさはおよそ太刀の5分の1ほどとなっています。

短甲 ( たんこう )
鎧(よろい)の一種で、左の文様は熊本県八代市の大鼠蔵東麓古墳1号墳の石棺に描かれた線刻を図案化したものです。古墳時代の短甲は鉄板製が多く、三角形の鉄板をつないで作ったものと思われます。他の古墳からは副葬品として鉄製や豪華で美しい金銅製のものが出土しています。

翳 (さしば)
中国から渡ってきた儀式に使う持ち手の長いうちわで、王族などの貴人用です。左の文様は福岡県宮若市の竹原古墳に描かれたものを図案化したものです。他には八女市 乗場古墳、佐賀県杵島郡 永池古墳、熊本県宇城市 不知火塚原古墳1号にも認められています。(一部記録のみ)
www.netpia.jp/history/index.htmより転記しました。
何故、こんなに騒ぐのだろうと話題になるのは熊本県のさくら開花宣言。
やっと熊本地方気象台が昨日(26日)午前、桜(ソメイヨシノ)の開花を宣言しました。
平年より3日遅く、昨年より9日遅い。同気象台によると、九州で最も遅い開花となったとのこと。
話変わって、YAHOO!ニュースの中にこんな見出しがありました。
歴史覆すか ヒッタイトより約千年前 最古の人工鉄






世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見しました。
アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長:「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。それから1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。そういう意味ですごく価値がある」
トルコ中部にある遺跡でおととし、日本の調査団が紀元前2200年から2300年の地層から世界でも最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘しました。これまで定説では、紀元前1200年から1300年にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて技術を独占し、周囲を征服したとされています。しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、成分もこの地域の鉄鉱石とは違うことが分析で明らかになりました。鉄の塊が見つかった地層では古代中近東の様式とは違う木造建築物の遺構も見つかっていて、調査団は、これまで考えられていたよりも前にヒッタイトとは違う民族が鉄の製造を伝えた可能性もあるとみて注目しています。
ヒッタイト
世界史でちらっと出てくるので、名前だけは知っている人の多い古代文明。
鉄を素早く軍事運用し、メソポタミア文明圏の覇権を握った文明でした。紀元前1600年というから驚きです。
そんなヒッタイト。非常に謎が多く進んだ文明であったとされています。
判明しているだけでも、、
ハッティ人を征服し、そのまま被征服者の名前を使用した。
通常征服した場合、征服された側の神は下位の神とされるが、ヒッタイト人はそのまま使用した。
世界で初めて鉄器を武器運用。(贅沢品での使用はそれまでもあった)
鉄の製法を秘匿し独占。
世界最古の図書館を持つ。
当時の世界国家バビロン王朝を滅ぼす
エジプトのラメセス2世と戦い和議。(世界最初の講和条約)
500年覇権を握ったのち、歴史から完全に消滅する
やっと熊本地方気象台が昨日(26日)午前、桜(ソメイヨシノ)の開花を宣言しました。
平年より3日遅く、昨年より9日遅い。同気象台によると、九州で最も遅い開花となったとのこと。
話変わって、YAHOO!ニュースの中にこんな見出しがありました。
歴史覆すか ヒッタイトより約千年前 最古の人工鉄






世界史の常識が覆るかもしれない発見です。紀元前に鉄器を用いたとされるヒッタイト帝国の遺跡で日本の調査団が人工的に作られた鉄の塊を発見しました。
アナトリア考古学研究所・大村幸弘所長:「鉄というのは3200年前から3300年前にあるというのが一般的だった。それから1000年古い層から鉄が見つかりだしてきて、それが人工のものだというので、これは今までの歴史とは違うなというのが出てきた。そういう意味ですごく価値がある」
トルコ中部にある遺跡でおととし、日本の調査団が紀元前2200年から2300年の地層から世界でも最も古い部類に入る人工の鉄の塊を発掘しました。これまで定説では、紀元前1200年から1300年にこの地域で栄えたヒッタイト帝国が鉄の製造を始めて技術を独占し、周囲を征服したとされています。しかし、今回、見つかった鉄の塊はそれよりも約1000年前のもので、成分もこの地域の鉄鉱石とは違うことが分析で明らかになりました。鉄の塊が見つかった地層では古代中近東の様式とは違う木造建築物の遺構も見つかっていて、調査団は、これまで考えられていたよりも前にヒッタイトとは違う民族が鉄の製造を伝えた可能性もあるとみて注目しています。
ヒッタイト
世界史でちらっと出てくるので、名前だけは知っている人の多い古代文明。
鉄を素早く軍事運用し、メソポタミア文明圏の覇権を握った文明でした。紀元前1600年というから驚きです。
そんなヒッタイト。非常に謎が多く進んだ文明であったとされています。
判明しているだけでも、、
ハッティ人を征服し、そのまま被征服者の名前を使用した。
通常征服した場合、征服された側の神は下位の神とされるが、ヒッタイト人はそのまま使用した。
世界で初めて鉄器を武器運用。(贅沢品での使用はそれまでもあった)
鉄の製法を秘匿し独占。
世界最古の図書館を持つ。
当時の世界国家バビロン王朝を滅ぼす
エジプトのラメセス2世と戦い和議。(世界最初の講和条約)
500年覇権を握ったのち、歴史から完全に消滅する
23日(土)、24日(日)と2019年熊本県内装飾古墳一斉公開が開催されました。
23日公開の古墳については過去に何度も見学しましたので、今回は24日の菊池川流域にある古墳を見学に行きました。
初めに1969年熊本市で高速道路の建設工事に伴って発見された古墳を山鹿市の岩原台地にある岩原古墳群の一角に移転復元した横山古墳を見学し、近くの熊本県立装飾古墳館によって、山鹿市鍋田の鍋田横穴群を見学、山鹿市立博物館からチブサン古墳を見学し、和水町の塚坊主古墳を見て廻りました。


今回は装飾古墳に描かれている文様や文様の描き方などに気を付けて見学することにしました。
3世紀中頃~7世紀中頃(約1700年~1300年前)にかけて、大きなお墓が全国各地に築かれました。このお墓を古墳といい、この時代を古墳時代と呼んでいます。
装飾古墳とは、石棺や石室あるいは横穴墓の内・外面に、彫刻や線刻、彩色により文様や絵画などの装飾を施したものです。装飾古墳は4世紀末頃から7世紀頃まで造られており、全国に660基、熊本県内では195基があります。その数は全国の30%を占め全国一を誇ります。
全国の装飾古墳の分布は次のようになっています。
宮城県20基、福島県25基、茨城県18基、千葉県33基、埼玉県1基、東京都1基、神奈川県46基、山梨県1基、長野県1基、愛知県1基、福井県4基、奈良県1基、和歌山県1基、大阪府30基、兵庫県8基、岡山県2基、鳥取県52基、島根県13基、山口県1基、香川県15基、福岡県71基、大分県21基、宮崎県60基、佐賀県30基、長崎県9基。
熊本県内の装飾古墳分布は195基のうち、特に菊池川流域に多く117基が見つかっています。
●装飾古墳の種類は、おおまかに4種類に分けられ
①浮彫によるもの
直線や曲線を組み合わせた直弧文という不思議な文様が家型石棺の屋根に浮彫りされています。鉄の手斧(ちょうな)や刀子(小刀)などを使って彫られたのでしょう。
②墓室の内側に浮彫をして色を塗り分けたもの
鏡と見られる円文、対角線文、靫などが彫られ、赤や白の絵具で塗り分けられています。
③絵や文様を直接描いたもの
舟や馬や三角形の文様が赤い絵の具(顔料)で直接描かれています。動物の毛などで作られた筆が使われたのでしょう。
④装飾を墓室の外側に浮彫したもの
岩壁に彫り込まれた古墳時代のお墓で、入り口部分や左右の壁に文様や人物・武器・武具などが彫られています。一部ベンガラで塗られている装飾も確認できます。
●装飾古墳に使われた色(顔料)について
装飾古墳に使われた色は、赤、白、灰、緑、黒、黄色の6色です。
赤・・鉄分を多く含んだ土を焼いたもの
白・・白い粘土を細かく砕いたもの
灰・・やや青みがかった灰色の土
緑・・特殊な鉱物を含んだ緑色の粘土
黒Ⅰ・・木炭を粉にしたもの
黒Ⅱ・・マンガンを含んだ鉄鉱石の粉
黄・・酸化鉄を含んだ黄色の粘土。黄鉄鉱の風化したもの。阿蘇の狩尾で算出しています。
●装飾古墳の種類
(1) 石棺系装飾古墳
4世紀終わり頃から造られ始めます。石棺の蓋や身に円文や三角文、あるいは直弧文等の文様を浮彫や線刻で表現しています。北部九州から日本海沿岸部に広がりを見せます。
(2) 石障系装飾古墳「石障=囲み石とも呼ぶ 玄室の四壁に接して立てめぐらした板石」
4世紀末頃から5世紀初めにかけて、八代海(不知火海)沿岸部で造られ始めます。ほぼ正方形の墓室に円文や靫・盾等を浮彫や線刻で表現しています。5世紀前半頃、宇土半島を経由して熊本北部に広がり、6世紀には菊池川流域まで広がります。当初は浮彫で装飾していましたが、八代海を北上して宇土半島から熊本市に入ると、赤・黄・緑(灰色)などの彩色が浮彫の上から塗られるようになります。
(3) 壁画系装飾古墳
6世紀に入り、北部九州では壁画系の装飾古墳が数多く造られ始めます。この頃の特徴は彩色で装飾文様を描くことです。熊本では6世紀前半頃から円文や連続三角文を石室に描く様になります。その後、武具や人物、馬など、絵画的な装飾も多く描かれるようになります。
(4) 横穴系装飾古墳(装飾横穴墓)
6世紀の中頃から、熊本では多くの装飾を持つ横穴墓が造られます。古墳と異なり、墓室以外の壁面にも装飾が描かれるようになります。装飾の中でも人物、靫、盾などの装飾は破邪として描かれたと考えられます。
●装飾古墳の文様
(1) 幾何学的な文様(円文、同心円文、三角文、直弧文など)
(2) 器財器物文様(靫、盾、弓などの武器武具や舟や家屋など)
(3) 人物鳥獣文様(人物、馬、鹿、鳥など)
などが代表的です。これらの装飾には武器や武具が持つ霊力や幾何学文様による破邪の力を信じる古代人の想い、あるいは舟や馬を描き、よみの国へ死者の魂を送り届ける想いが込められたものと考えられます。
●文様一覧
円文 (えんもん)

円形または同心円形の文様。石棺や石室の壁面に、絵の具や彫刻によって描かれます。太陽または鏡を写したものという説があります。筑後川流域の装飾古墳によく見られます。
三角文 (さんかくもん)

三角形、直線状に三角形を並べた文様。石室の入り口や奥壁に描かれたものが多く見られます。魂を鎮め、邪が寄り付くのを防ぐ文様とされており、菊池川流域の古墳に多く見られます。
双脚輪状文 (そうきゃくりんじょうもん)

多角形の外形に、2本の脚のような飾りが付いた文様。非常に珍しい文様ですが、埴輪に類例があります。帽子のつばという説もありますが、何を写したものかは分かりません。
直弧文 (ちょっこもん)

対角線で長方形を区分し、さらに弧線で分割した文様。魂を封じ込めるための帯を組み合わを写した文様で、線刻または彫刻で表されます。古墳時代の遺物にもよく見られます。
蕨手文 (わらびてもん)

蕨の形に似た渦巻状の文様。主文様や文様間をうめる補助文様として使われています。死と再生を表す渦との関係や盾や短甲に取り付けられた装飾に起源するという意見があります。
装飾古墳の文様については細かく区分した資料がありますのでもう少し詳しく勉強してゆきたいと思います。
上記のものは県立装飾古墳館に展示してあったものから使用いたしました。
来月には福岡の筑後川流域の装飾古墳が王塚古墳とともに公開されます。天気が良ければ行ってみようと思います。
※装飾古墳とは
絵画や線刻を壁面に施した横穴式石室をもつ古墳、また浮彫や線刻などのある石棺をもつ古墳の総称。壁画のある横穴を含めていう場合もある。日本では福岡、熊本など九州北部に多く、5―6世紀に数多く作られた。壁画は赤、黄、青、緑、黒など鉱物質の顔料を使用、直弧文や同心円などの幾何学文様(井寺古墳)のほか、靫(ゆき)、盾(たて)、刀、舟、人馬等の具象的な図(王塚古墳、竹原古墳、珍敷塚(めずらしづか)古墳など)、あるいはそれを組み合わせたものもある。事物の描写については高句麗や百済(くだら)の古墳壁画に通じるもの(高松塚古墳、キトラ古墳)があり大陸文化との関係が指摘される。
王塚古墳の壁画は、前室の両側壁以外、つまり室内のほぼ全面にわたって描かれています。技法上の特色として、赤・黄・緑・黒・白と、わが国では最多の色数を駆使している点があげられます。また、絵の具には主として粘土が使用されたと見られ、かなり厚く塗られています。
王塚古墳の文様・・

【騎馬像】
黒馬と赤馬があり五頭描かれています。
馬の体には面繋(おもがい)、手綱(たづな)・尻繋(しりがい)そして鞍(くら)の装着も見られるほか、手綱に飾金具が描かれるなど細かいところまで表現されています。

【同心円文】
前室と灯明台に描かれていますが、「王塚古墳」では、約10センチ程度の小型のものです。

【三角文】
もっとも多く描かれている文様です。特に石屋形の周辺には集中して描かれています。

【双脚輪状文】
意味は不明ですが、うちわに長い柄をつけて貴人にかざすさしばをかたどったものであるとの説もあります。

【わらび手文】
一種のまじないの図文と考えれます。
わらび手文をもつ古墳は「王塚古墳」ほか、合計7基のみしかありません。

【靫(ゆぎ)】
矢を入れて背負うもので、上部には弓が描かれている。

【大刀】
太い鞘(さや)をもち、柄には手を護る帯がつく。

【盾】
盾の形は上下に開き、下は水平で上は円頭形をしています。
23日公開の古墳については過去に何度も見学しましたので、今回は24日の菊池川流域にある古墳を見学に行きました。
初めに1969年熊本市で高速道路の建設工事に伴って発見された古墳を山鹿市の岩原台地にある岩原古墳群の一角に移転復元した横山古墳を見学し、近くの熊本県立装飾古墳館によって、山鹿市鍋田の鍋田横穴群を見学、山鹿市立博物館からチブサン古墳を見学し、和水町の塚坊主古墳を見て廻りました。


今回は装飾古墳に描かれている文様や文様の描き方などに気を付けて見学することにしました。
3世紀中頃~7世紀中頃(約1700年~1300年前)にかけて、大きなお墓が全国各地に築かれました。このお墓を古墳といい、この時代を古墳時代と呼んでいます。
装飾古墳とは、石棺や石室あるいは横穴墓の内・外面に、彫刻や線刻、彩色により文様や絵画などの装飾を施したものです。装飾古墳は4世紀末頃から7世紀頃まで造られており、全国に660基、熊本県内では195基があります。その数は全国の30%を占め全国一を誇ります。
全国の装飾古墳の分布は次のようになっています。
宮城県20基、福島県25基、茨城県18基、千葉県33基、埼玉県1基、東京都1基、神奈川県46基、山梨県1基、長野県1基、愛知県1基、福井県4基、奈良県1基、和歌山県1基、大阪府30基、兵庫県8基、岡山県2基、鳥取県52基、島根県13基、山口県1基、香川県15基、福岡県71基、大分県21基、宮崎県60基、佐賀県30基、長崎県9基。
熊本県内の装飾古墳分布は195基のうち、特に菊池川流域に多く117基が見つかっています。
●装飾古墳の種類は、おおまかに4種類に分けられ
①浮彫によるもの
直線や曲線を組み合わせた直弧文という不思議な文様が家型石棺の屋根に浮彫りされています。鉄の手斧(ちょうな)や刀子(小刀)などを使って彫られたのでしょう。
②墓室の内側に浮彫をして色を塗り分けたもの
鏡と見られる円文、対角線文、靫などが彫られ、赤や白の絵具で塗り分けられています。
③絵や文様を直接描いたもの
舟や馬や三角形の文様が赤い絵の具(顔料)で直接描かれています。動物の毛などで作られた筆が使われたのでしょう。
④装飾を墓室の外側に浮彫したもの
岩壁に彫り込まれた古墳時代のお墓で、入り口部分や左右の壁に文様や人物・武器・武具などが彫られています。一部ベンガラで塗られている装飾も確認できます。
●装飾古墳に使われた色(顔料)について
装飾古墳に使われた色は、赤、白、灰、緑、黒、黄色の6色です。
赤・・鉄分を多く含んだ土を焼いたもの
白・・白い粘土を細かく砕いたもの
灰・・やや青みがかった灰色の土
緑・・特殊な鉱物を含んだ緑色の粘土
黒Ⅰ・・木炭を粉にしたもの
黒Ⅱ・・マンガンを含んだ鉄鉱石の粉
黄・・酸化鉄を含んだ黄色の粘土。黄鉄鉱の風化したもの。阿蘇の狩尾で算出しています。
●装飾古墳の種類
(1) 石棺系装飾古墳
4世紀終わり頃から造られ始めます。石棺の蓋や身に円文や三角文、あるいは直弧文等の文様を浮彫や線刻で表現しています。北部九州から日本海沿岸部に広がりを見せます。
(2) 石障系装飾古墳「石障=囲み石とも呼ぶ 玄室の四壁に接して立てめぐらした板石」
4世紀末頃から5世紀初めにかけて、八代海(不知火海)沿岸部で造られ始めます。ほぼ正方形の墓室に円文や靫・盾等を浮彫や線刻で表現しています。5世紀前半頃、宇土半島を経由して熊本北部に広がり、6世紀には菊池川流域まで広がります。当初は浮彫で装飾していましたが、八代海を北上して宇土半島から熊本市に入ると、赤・黄・緑(灰色)などの彩色が浮彫の上から塗られるようになります。
(3) 壁画系装飾古墳
6世紀に入り、北部九州では壁画系の装飾古墳が数多く造られ始めます。この頃の特徴は彩色で装飾文様を描くことです。熊本では6世紀前半頃から円文や連続三角文を石室に描く様になります。その後、武具や人物、馬など、絵画的な装飾も多く描かれるようになります。
(4) 横穴系装飾古墳(装飾横穴墓)
6世紀の中頃から、熊本では多くの装飾を持つ横穴墓が造られます。古墳と異なり、墓室以外の壁面にも装飾が描かれるようになります。装飾の中でも人物、靫、盾などの装飾は破邪として描かれたと考えられます。
●装飾古墳の文様
(1) 幾何学的な文様(円文、同心円文、三角文、直弧文など)
(2) 器財器物文様(靫、盾、弓などの武器武具や舟や家屋など)
(3) 人物鳥獣文様(人物、馬、鹿、鳥など)
などが代表的です。これらの装飾には武器や武具が持つ霊力や幾何学文様による破邪の力を信じる古代人の想い、あるいは舟や馬を描き、よみの国へ死者の魂を送り届ける想いが込められたものと考えられます。
●文様一覧
円文 (えんもん)
円形または同心円形の文様。石棺や石室の壁面に、絵の具や彫刻によって描かれます。太陽または鏡を写したものという説があります。筑後川流域の装飾古墳によく見られます。
三角文 (さんかくもん)
三角形、直線状に三角形を並べた文様。石室の入り口や奥壁に描かれたものが多く見られます。魂を鎮め、邪が寄り付くのを防ぐ文様とされており、菊池川流域の古墳に多く見られます。
双脚輪状文 (そうきゃくりんじょうもん)
多角形の外形に、2本の脚のような飾りが付いた文様。非常に珍しい文様ですが、埴輪に類例があります。帽子のつばという説もありますが、何を写したものかは分かりません。
直弧文 (ちょっこもん)
対角線で長方形を区分し、さらに弧線で分割した文様。魂を封じ込めるための帯を組み合わを写した文様で、線刻または彫刻で表されます。古墳時代の遺物にもよく見られます。
蕨手文 (わらびてもん)
蕨の形に似た渦巻状の文様。主文様や文様間をうめる補助文様として使われています。死と再生を表す渦との関係や盾や短甲に取り付けられた装飾に起源するという意見があります。
装飾古墳の文様については細かく区分した資料がありますのでもう少し詳しく勉強してゆきたいと思います。
上記のものは県立装飾古墳館に展示してあったものから使用いたしました。
来月には福岡の筑後川流域の装飾古墳が王塚古墳とともに公開されます。天気が良ければ行ってみようと思います。
※装飾古墳とは
絵画や線刻を壁面に施した横穴式石室をもつ古墳、また浮彫や線刻などのある石棺をもつ古墳の総称。壁画のある横穴を含めていう場合もある。日本では福岡、熊本など九州北部に多く、5―6世紀に数多く作られた。壁画は赤、黄、青、緑、黒など鉱物質の顔料を使用、直弧文や同心円などの幾何学文様(井寺古墳)のほか、靫(ゆき)、盾(たて)、刀、舟、人馬等の具象的な図(王塚古墳、竹原古墳、珍敷塚(めずらしづか)古墳など)、あるいはそれを組み合わせたものもある。事物の描写については高句麗や百済(くだら)の古墳壁画に通じるもの(高松塚古墳、キトラ古墳)があり大陸文化との関係が指摘される。
王塚古墳の壁画は、前室の両側壁以外、つまり室内のほぼ全面にわたって描かれています。技法上の特色として、赤・黄・緑・黒・白と、わが国では最多の色数を駆使している点があげられます。また、絵の具には主として粘土が使用されたと見られ、かなり厚く塗られています。
王塚古墳の文様・・

【騎馬像】
黒馬と赤馬があり五頭描かれています。
馬の体には面繋(おもがい)、手綱(たづな)・尻繋(しりがい)そして鞍(くら)の装着も見られるほか、手綱に飾金具が描かれるなど細かいところまで表現されています。

【同心円文】
前室と灯明台に描かれていますが、「王塚古墳」では、約10センチ程度の小型のものです。

【三角文】
もっとも多く描かれている文様です。特に石屋形の周辺には集中して描かれています。

【双脚輪状文】
意味は不明ですが、うちわに長い柄をつけて貴人にかざすさしばをかたどったものであるとの説もあります。

【わらび手文】
一種のまじないの図文と考えれます。
わらび手文をもつ古墳は「王塚古墳」ほか、合計7基のみしかありません。

【靫(ゆぎ)】
矢を入れて背負うもので、上部には弓が描かれている。

【大刀】
太い鞘(さや)をもち、柄には手を護る帯がつく。

【盾】
盾の形は上下に開き、下は水平で上は円頭形をしています。
この記事を読まれてどの様に考えますか?
大の大人が小さな子供に対してする行為か。
どんな理由があろうとも、無抵抗な子供に対してする行為ではありません。しかも他人にばれないような狡猾な手段を用いて「しつけ」と称して虐待を繰り返しています。次から次へと出てくる子供への虐待事件、事件が起こらないようにするにはどうしたらいいんでしょうか?
根本的に根絶する事は出来ないんでしょうか。
とりあえずは早期発見を見逃さなくすることくらいなんでしょうか。
煮え切らない思いが立ち切れません。


水風呂、口止め…「しつけ」陰湿化 小さなSOS見つけて 一つのあざが救済糸口に
福岡県筑紫野市で8歳の長女を水風呂に入れて殺害しようとしたとして、母親と内縁の夫が殺人未遂容疑で逮捕されて1週間が過ぎた。「うそをつかない」などと誓約書を書かせ、約束を破ると痕が残らない水風呂に入れ、他言しないよう口止めも-。自宅に閉じ込めて謝罪文を書かせた東京都目黒区の事件や、冷水シャワーを執拗(しつよう)に浴びせた千葉県野田市の事件とも重なる「しつけ」と称した虐待の陰湿化。外部から見えにくい虐待がさらに巧妙化し、早期発見をより難しくしている。
「親に止められているから…」。1月25日、小学校で体のあざについて聞かれた長女は口ごもった。同日に児童相談所に保護され、やっと虐待を告白した。「幼少の子にとって親の言葉は誰よりも重い。口止めされたら言えないだろう」。筑紫野署幹部は推し量る。
捜査関係者によると、母親(29)と八尋潤容疑者(29)は「やくそくをわすれない」などの誓約書を複数回書かせて机の前に貼らせ、守らなかった数に応じて水風呂の入水時間を決めたという。
昨年12月29日には両手両足を縛って浴槽いっぱいの水風呂に入れた。意識を失った長女に蘇生措置をしたり、救急車を呼んだりすることもなかった。八尋容疑者は水風呂を選んだ理由をこう供述している。
「たたいてあざが残るといけないと思った」
◇ ◇
「もうおねがい ゆるして」「もうぜったいぜったいやらないからね」。目黒区の事件で、亡くなった5歳女児は謝罪文を書き残した。両親から午前4時に起床して書き取りなどを命じられ、学校にも通わせてもらえなかった。野田市で10歳女児が死亡した事件では、一度は女児が学校のアンケートで虐待を訴えたが、父親が「お父さんにたたかれたというのはうそ」と女児に書かせた書面を児相に提出していた。
西南学院大の安部計彦教授(児童福祉)は「親が逮捕される虐待事件が近年大きく報道され、親は傷を隠したり、見つからないようなやり方をしたりと巧妙化している」と指摘する。
真冬に水温11度の水風呂に入れた筑紫野市の事件でも「溺死や凍死の可能性があった」(同署幹部)。長女の命を救えたのは、教諭がたった一つのあざを見逃さなかったからだった。
◇ ◇
長女のあざを見つけた1月25日、教諭はすぐに教頭に報告した。衣服をめくると別のあざもあったため児相に通告。筑紫野市教育委員会の担当者は「普段は衣服の下まで確認することはない。最悪の事態を防げて良かった」と胸をなで下ろした。
この小学校は毎月、いじめ被害などを尋ねるアンケートを実施していたが、長女が虐待を訴えることはなかった。児相は2017年秋、長女の体の傷を確認し、母親を指導。18年春に家庭訪問した際には異常はなかったという。
福岡県と県警は今年1月から、重大事案でなくとも注意が必要な虐待情報まで共有するようにした。ただ、17年当時は事件性のある事案や親が抵抗するケースに限定しており、児相は県警に伝えていなかった。
虐待の早期発見のため、高知県や大分県など少なくとも全国12自治体は警察と虐待情報の全てを共有。一方で、「逮捕されるかも」と児相への相談や情報提供をためらうケースが出るのではないかと、全件共有には慎重論も根強い。
安部教授は「親への恐怖心や羞恥心から虐待を隠そうとする子どももいるため、学校のアンケートも限界がある。教諭や地域の大人たちが『家に帰りたがらない』などの小さな異変を見逃さないようにするしかない」と語る。
=2019/03/23付 西日本新聞朝刊=

大の大人が小さな子供に対してする行為か。
どんな理由があろうとも、無抵抗な子供に対してする行為ではありません。しかも他人にばれないような狡猾な手段を用いて「しつけ」と称して虐待を繰り返しています。次から次へと出てくる子供への虐待事件、事件が起こらないようにするにはどうしたらいいんでしょうか?
根本的に根絶する事は出来ないんでしょうか。
とりあえずは早期発見を見逃さなくすることくらいなんでしょうか。
煮え切らない思いが立ち切れません。


水風呂、口止め…「しつけ」陰湿化 小さなSOS見つけて 一つのあざが救済糸口に
福岡県筑紫野市で8歳の長女を水風呂に入れて殺害しようとしたとして、母親と内縁の夫が殺人未遂容疑で逮捕されて1週間が過ぎた。「うそをつかない」などと誓約書を書かせ、約束を破ると痕が残らない水風呂に入れ、他言しないよう口止めも-。自宅に閉じ込めて謝罪文を書かせた東京都目黒区の事件や、冷水シャワーを執拗(しつよう)に浴びせた千葉県野田市の事件とも重なる「しつけ」と称した虐待の陰湿化。外部から見えにくい虐待がさらに巧妙化し、早期発見をより難しくしている。
「親に止められているから…」。1月25日、小学校で体のあざについて聞かれた長女は口ごもった。同日に児童相談所に保護され、やっと虐待を告白した。「幼少の子にとって親の言葉は誰よりも重い。口止めされたら言えないだろう」。筑紫野署幹部は推し量る。
捜査関係者によると、母親(29)と八尋潤容疑者(29)は「やくそくをわすれない」などの誓約書を複数回書かせて机の前に貼らせ、守らなかった数に応じて水風呂の入水時間を決めたという。
昨年12月29日には両手両足を縛って浴槽いっぱいの水風呂に入れた。意識を失った長女に蘇生措置をしたり、救急車を呼んだりすることもなかった。八尋容疑者は水風呂を選んだ理由をこう供述している。
「たたいてあざが残るといけないと思った」
◇ ◇
「もうおねがい ゆるして」「もうぜったいぜったいやらないからね」。目黒区の事件で、亡くなった5歳女児は謝罪文を書き残した。両親から午前4時に起床して書き取りなどを命じられ、学校にも通わせてもらえなかった。野田市で10歳女児が死亡した事件では、一度は女児が学校のアンケートで虐待を訴えたが、父親が「お父さんにたたかれたというのはうそ」と女児に書かせた書面を児相に提出していた。
西南学院大の安部計彦教授(児童福祉)は「親が逮捕される虐待事件が近年大きく報道され、親は傷を隠したり、見つからないようなやり方をしたりと巧妙化している」と指摘する。
真冬に水温11度の水風呂に入れた筑紫野市の事件でも「溺死や凍死の可能性があった」(同署幹部)。長女の命を救えたのは、教諭がたった一つのあざを見逃さなかったからだった。
◇ ◇
長女のあざを見つけた1月25日、教諭はすぐに教頭に報告した。衣服をめくると別のあざもあったため児相に通告。筑紫野市教育委員会の担当者は「普段は衣服の下まで確認することはない。最悪の事態を防げて良かった」と胸をなで下ろした。
この小学校は毎月、いじめ被害などを尋ねるアンケートを実施していたが、長女が虐待を訴えることはなかった。児相は2017年秋、長女の体の傷を確認し、母親を指導。18年春に家庭訪問した際には異常はなかったという。
福岡県と県警は今年1月から、重大事案でなくとも注意が必要な虐待情報まで共有するようにした。ただ、17年当時は事件性のある事案や親が抵抗するケースに限定しており、児相は県警に伝えていなかった。
虐待の早期発見のため、高知県や大分県など少なくとも全国12自治体は警察と虐待情報の全てを共有。一方で、「逮捕されるかも」と児相への相談や情報提供をためらうケースが出るのではないかと、全件共有には慎重論も根強い。
安部教授は「親への恐怖心や羞恥心から虐待を隠そうとする子どももいるため、学校のアンケートも限界がある。教諭や地域の大人たちが『家に帰りたがらない』などの小さな異変を見逃さないようにするしかない」と語る。
=2019/03/23付 西日本新聞朝刊=

お彼岸(春・秋)の意味と墓参りについて お彼岸は3月の「春分の日」と9月の「秋分の日」の前後3日間の計7日間、もしくはこの時期に行われる仏事(彼岸会)を指します。 年に2日あるお彼岸では、それぞれの初日を「彼岸の入り」、終わりの日を「彼岸明け」といい春分の日・秋分の日を「中日」といいます。
今日、3月24日は彼岸明けです。











彼岸中に我が家で咲いた花々
今日、3月24日は彼岸明けです。
彼岸中に我が家で咲いた花々
中国では古来、「木火土金水」の五元素が万物を形作ると考えられた。この五行思想に基づいて「青赤黄白黒」の五色を定め、方位や季節を象徴するものとした
▼文化審議会が国宝に指定するよう答申したキトラ古墳壁画(奈良県明日香村)は、石室の四方の壁に、方位に対応する神獣が描かれている。東に青竜、南に朱雀(すざく)、西に白虎、北に玄武。国内の古墳に残る貴重な極彩色壁画だ
▼季節に当てはめれば、東・青が春、南・赤は夏、西・白は秋、北・黒は冬。よって四季を青春、朱夏、白秋、玄冬と呼び、人生の「季節」を表すようにもなった
▼きょうは春分の日。このところの暖かさで、開花宣言を待ちきれずにつぼみを開く桜もあちこちに。卒業や入学、進学。舞い散る花びらと萌(も)えいづる新緑に彩られた、別れと出会いの季節は、まさに青い春
▼〈人の生涯のうち、一番美しくある青春の季節は、おのずから最も生きるにむずかしい季節である〉(伊藤整「青春」より)。人生や恋に悩み、胸の奥で暴れだす竜を抑えきれなくなりそうな若さである
▼福岡市西区の元岡古墳群から出土した「金錯銘大刀(きんさくめいたち)」も今回、重要文化財への指定が答申された。西暦570年を意味する「庚寅(こういん)」などの漢字が金で象眼されている。国内で暦が使われた最古の例となる可能性もあるそうだ。季節の移ろいを感じ、過ぎ行く年月を暦に刻んだ古人に思いをはせる春の一日。
=2019/03/21付 西日本新聞朝刊=

キトラ古墳
キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあります。二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さは上段・下段あわせて4mを少し超えると推測されています。
名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。
1983年11月7日に石室内の彩色壁画のひとつである玄武が発見されて、世間や学会から注目を集めました。2000(平成12)年には国指定史跡に指定され、続いて特別史跡に指定されました。 石室の天井には本格的天文図が、壁には四つの方位を守る神とされる四神や十二支の美しい絵が描かれています。国営飛鳥歴史公園内キトラ古墳周辺地区の南に位置しています。
造られた時代は?
7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されています。古墳時代と呼ばれる時代の終わり頃です。この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなりました。
誰の古墳か?
天武天皇の皇子である高市皇子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が想像されています。
また、金や銀を使った副葬品や豪華な装飾をほどこしたと推測できる木棺などから、かなり身分の高い人のお墓であったことがわかります。
古墳内の壁画について
キトラ古墳壁画は、石室内部に塗った漆喰の上に繊細な筆づかいで描かれたものです。本格的な天文図や、四神像の全て、動物の頭と人間の体をもった十二支像などが確認されている、学術上、価値の高い文化財です。
天文図
天井に描かれた天文図は、現存する世界最古の科学的な天文図です。天の赤道や太陽の通り道である黄道が描かれ、大きな呪術的力を持つとされた北斗七星をはじめとする中国式の星座が配置されています。太陽と月も描かれています。
発見までの経緯
高松塚古墳壁画発見の直後、付近の住民から「近くに似たような古墳がある」と知らされ、これがキトラ古墳の発掘調査に繋がる糸口となりました。 1983(昭和58)年にファイバースコープによる探査が行われ、石槨の奥壁に玄武と思われる壁画を発見。 15年後の1998(平成10)年、上下左右に向きを変えるCCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図を発見しました。そして2001(平成13)年の調査ではデジタルカメラを用いて、南壁の朱雀を確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認しました。
国営飛鳥歴史公園の記事より
▼文化審議会が国宝に指定するよう答申したキトラ古墳壁画(奈良県明日香村)は、石室の四方の壁に、方位に対応する神獣が描かれている。東に青竜、南に朱雀(すざく)、西に白虎、北に玄武。国内の古墳に残る貴重な極彩色壁画だ
▼季節に当てはめれば、東・青が春、南・赤は夏、西・白は秋、北・黒は冬。よって四季を青春、朱夏、白秋、玄冬と呼び、人生の「季節」を表すようにもなった
▼きょうは春分の日。このところの暖かさで、開花宣言を待ちきれずにつぼみを開く桜もあちこちに。卒業や入学、進学。舞い散る花びらと萌(も)えいづる新緑に彩られた、別れと出会いの季節は、まさに青い春
▼〈人の生涯のうち、一番美しくある青春の季節は、おのずから最も生きるにむずかしい季節である〉(伊藤整「青春」より)。人生や恋に悩み、胸の奥で暴れだす竜を抑えきれなくなりそうな若さである
▼福岡市西区の元岡古墳群から出土した「金錯銘大刀(きんさくめいたち)」も今回、重要文化財への指定が答申された。西暦570年を意味する「庚寅(こういん)」などの漢字が金で象眼されている。国内で暦が使われた最古の例となる可能性もあるそうだ。季節の移ろいを感じ、過ぎ行く年月を暦に刻んだ古人に思いをはせる春の一日。
=2019/03/21付 西日本新聞朝刊=

キトラ古墳
キトラ古墳は、高松塚古墳に続き日本で2番目に発見された大陸風の壁画古墳です。檜前の集落を越えて阿部山に向かう山の中腹にあります。二段築成の円墳で、上段が直径9.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さは上段・下段あわせて4mを少し超えると推測されています。
名前の由来は、中を覗くと亀と虎の壁画が見えたため「亀虎古墳」と呼ばれたという説、古墳の南側の地名「小字北浦」がなまって「キトラ」になったという説、またキトラ古墳が明日香村阿部山集落の北西方向にあるため四神のうち北をつかさどる亀(玄武)と西をつかさどる虎(白虎) から「亀虎」と呼ばれていたという説など、いろいろな説があります。
1983年11月7日に石室内の彩色壁画のひとつである玄武が発見されて、世間や学会から注目を集めました。2000(平成12)年には国指定史跡に指定され、続いて特別史跡に指定されました。 石室の天井には本格的天文図が、壁には四つの方位を守る神とされる四神や十二支の美しい絵が描かれています。国営飛鳥歴史公園内キトラ古墳周辺地区の南に位置しています。
造られた時代は?
7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されています。古墳時代と呼ばれる時代の終わり頃です。この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなりました。
誰の古墳か?
天武天皇の皇子である高市皇子、高官であった百済王昌成、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人など、いろいろな人物が想像されています。
また、金や銀を使った副葬品や豪華な装飾をほどこしたと推測できる木棺などから、かなり身分の高い人のお墓であったことがわかります。
古墳内の壁画について
キトラ古墳壁画は、石室内部に塗った漆喰の上に繊細な筆づかいで描かれたものです。本格的な天文図や、四神像の全て、動物の頭と人間の体をもった十二支像などが確認されている、学術上、価値の高い文化財です。
天文図
天井に描かれた天文図は、現存する世界最古の科学的な天文図です。天の赤道や太陽の通り道である黄道が描かれ、大きな呪術的力を持つとされた北斗七星をはじめとする中国式の星座が配置されています。太陽と月も描かれています。
発見までの経緯
高松塚古墳壁画発見の直後、付近の住民から「近くに似たような古墳がある」と知らされ、これがキトラ古墳の発掘調査に繋がる糸口となりました。 1983(昭和58)年にファイバースコープによる探査が行われ、石槨の奥壁に玄武と思われる壁画を発見。 15年後の1998(平成10)年、上下左右に向きを変えるCCDカメラで探査し、青龍、白虎、天文図を発見しました。そして2001(平成13)年の調査ではデジタルカメラを用いて、南壁の朱雀を確認し、獣頭人身十二支像の存在も確認しました。
国営飛鳥歴史公園の記事より
2019/3/22、今日は社日とカレンダーにあります。
暦に毎年この字を見かけますがなかなかまともに読めません。
意味を正しく理解されている人も少ないのではないでしょうか?
「社日」とは何なんでしょう?

社日
しゃにち
春分および秋分に最も近い戊 (つちのえ) の日のことで、春分に近い戊の日を春の社日、秋分に近い戊の日を秋の社日という。戊は十干の一つで、戊の日は春分または秋分の日の4日前から4日後までの間にくる (→十干十二支 ) 。陰陽五行説では、戊の日は土に関係が深く、中国では春の社日はその年の豊作を神に祈念する日、秋の社日は五穀の豊穣を神に感謝する日とされている。日本では、この日に田畑の仕事を禁じて地神講を営む例が多い (→地神 ) 。
ブリタニカ国際大百科事典より
※社日のルーツは中国から伝わった風習が日本独自の風習として定着したものです。この様なものを二十四節気以外の雑節としてとらえて、社日以外に節分、彼岸、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日があります。
暦に毎年この字を見かけますがなかなかまともに読めません。
意味を正しく理解されている人も少ないのではないでしょうか?
「社日」とは何なんでしょう?

社日
しゃにち
春分および秋分に最も近い戊 (つちのえ) の日のことで、春分に近い戊の日を春の社日、秋分に近い戊の日を秋の社日という。戊は十干の一つで、戊の日は春分または秋分の日の4日前から4日後までの間にくる (→十干十二支 ) 。陰陽五行説では、戊の日は土に関係が深く、中国では春の社日はその年の豊作を神に祈念する日、秋の社日は五穀の豊穣を神に感謝する日とされている。日本では、この日に田畑の仕事を禁じて地神講を営む例が多い (→地神 ) 。
ブリタニカ国際大百科事典より
※社日のルーツは中国から伝わった風習が日本独自の風習として定着したものです。この様なものを二十四節気以外の雑節としてとらえて、社日以外に節分、彼岸、八十八夜、入梅、半夏生、土用、二百十日があります。

彼岸の期間は、春分・秋分の前後3日を合わせた7日間をいいます。
2019年は、
春の彼岸:3月18日~24日
秋の彼岸:9月20日~26日
今日は彼岸の中日。
とは言っても彼岸の中日は春と秋にありますので年に2回あります。
※彼岸中日
彼岸の期間のうち真ん中にあたる日。春分、または秋分の日を指す。いわゆる「お彼岸」は彼岸の入りから始まり、彼岸中日を中日として、彼岸明けに終わる。
仏教では、私たちの住む煩悩(ぼんのう)の世界をこちらの岸、三途の川(さんずのかわ)を挟んで、ご先祖様の霊が住む世界をあちらの岸と考えられていて、こちらの岸を「此岸(しがん)」あちらの岸を「彼岸」といいます。
この極楽浄土は西の彼方にあるとされているため、太陽が真西に沈む春分・秋分にお墓参りや先祖供養を行うようになりました。これは仏教にはない習慣で、日本独自のものです。
中日に夕陽を拝むと功徳があるといわれています。
お寺では、この期間「彼岸会(ひがんえ)」の法要が営われます。
日本の行事・暦より
明日は春分、カレンダーには春分の日、春分と同じような意味の言葉が二つ並んでいます。
これは一体どういうことでしょう?
簡単に言えば祝日を意味する春分の日と、太陽が春分点に到達した春分をあらわしています。


官報で発表
祝日の春分の日は前年の2月1日に国立天文台が官報で発表する「春分日」を基準にして決められます。
※国立天文台では、法律で具体的に月日が明記されない国民の祝日のうち、春分の日・秋分の日は、 前年2月の官報に暦要項を掲載することにより発表しています。また、成人の日は1月の第2月曜日、海の日は7月の第3月曜日、敬老の日は9月の第3月曜日、体育の日は10月の第2月曜日と決められています。
春分とは、太陽がちょうど黄径0度(春分点)に到達した瞬間のこと。
太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになります。
この日から夏至まで昼がだんだん長くなり、夜が短くなります。
ヨーロッパなどでは、春分をもって春の始まりとしています。
これは一体どういうことでしょう?
簡単に言えば祝日を意味する春分の日と、太陽が春分点に到達した春分をあらわしています。

官報で発表
祝日の春分の日は前年の2月1日に国立天文台が官報で発表する「春分日」を基準にして決められます。
※国立天文台では、法律で具体的に月日が明記されない国民の祝日のうち、春分の日・秋分の日は、 前年2月の官報に暦要項を掲載することにより発表しています。また、成人の日は1月の第2月曜日、海の日は7月の第3月曜日、敬老の日は9月の第3月曜日、体育の日は10月の第2月曜日と決められています。
春分とは、太陽がちょうど黄径0度(春分点)に到達した瞬間のこと。
太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになります。
この日から夏至まで昼がだんだん長くなり、夜が短くなります。
ヨーロッパなどでは、春分をもって春の始まりとしています。

朝日新聞デジタルに昨夕、こんな記事がありました。
キトラ古墳壁画、国宝に 文化審議会が答申、昨年重文に
文化審議会は18日、飛鳥時代の極彩色壁画で知られる奈良県明日香村の「キトラ古墳壁画」を国宝に指定するよう文部科学相に答申した。
特別史跡・キトラ古墳の石室で1983年に発見された。東西南北の壁にそれぞれ青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すざく)、玄武(げんぶ)の「四神(しじん)」、天井には東アジア最古とされる天文図が描かれている。下地の漆喰(しっくい)が浮き上がるなど、崩落して壊れる危険があるため2010年まで6年余りかけて厚さ3~7ミリ程度の1143片に分けてはぎとられた。つなぎ合わせてカビなどを除く修理作業を終えたのが16年。ようやく審査できる状況になり、昨年、重要文化財に登録された。
国内の古墳に残る本格的な極彩色壁画は、近隣の高松塚(国宝)と二つだけだが、高松塚は盗掘で南側の壁が崩れて絵が確認できなかった。文化庁の綿田稔・文化財調査官は「キトラ古墳では南側の壁に描かれた『朱雀』もきれいな形で残り、これによって高松塚についても想像できる」と説明。「日本の古代絵画史を考える上で不可欠だ」と評価した。(上田真由美)
特別史跡 キトラ古墳
高松塚古墳に次ぐ我が国2例目の壁画古墳で、1983年の調査で石室内に描かれた極彩色壁画が発見されました。キトラ古墳は、藤原京の南に広がる古代の皇族・貴族などの墓域に所在する小さな円墳で、7世紀末~8世紀初頭頃に造られたと考えられます。東西にのびる丘陵の南斜面に位置し、墳丘は2段築成で、下段の直径が13.8m、上段の直径が9.4mに復元できます。
墳丘の中央には、凝灰岩の切石を組み上げた石室があります。石室には18個の直方体の切石が使われており、石材は古墳から北西に約14キロ離れた二上山から運ばれたものです。石室内部の広さは奥行2.4m、幅1.0m、高さ1.2mで、天井・側壁・床面の全面に漆喰が塗られています。その白い漆喰面に、四神や十二支、天文図などの極彩色壁画が描かれています。
キトラ古墳の現在の墳丘は、発掘調査の成果をもとに、上段・下段とも築造時の大きさに復元しています。墳丘面には全体に保護盛土を施し、南海地震などの被害で大きく崩落していた墳丘の南から南西側も盛土を施し、古代の地形に近づけています。墳丘の前面には、解説板と古代の古墳の姿を体感できる地形模型を設置しています。また、古墳の南西には、四神や天文図、十二支を原寸大で浮き彫りにした金属製の壁画プレート(乾拓板)があり、壁画を写し取る乾拓体験ができます。

発掘調査中のキトラ古墳

墳丘整備後のキトラ古墳

乾拓板

四神の館からキトラ古墳へ
重要文化財 キトラ古墳壁画
キトラ古墳の石室内には、四神、十二支、天文図、日月の壁画があります。四神は天の四方を司る神獣で、壁画は対応する方位に合わせて、東壁に青龍、南壁に朱雀、西壁に白虎、北壁に玄武が描かれています。高松塚古墳では、盗掘により南壁の朱雀が失われていたため、我が国で四神の図像全てが揃う古墳壁画はキトラ古墳壁画のみです。
四神の下には、獣頭人身の十二支が描かれています。北壁中央に子像があり、方位に合わせて各壁に3体ずつが配置されています。現在確認できているものは、子、丑、寅、午、戌、亥の6体です。
屋根形の刳り込みのある天井には、東の斜面に金箔で太陽が、西の斜面に銀箔で月が表されています。天井の平坦面の部分には、円形の中国式の天文図が描かれています。この天文図は、赤道や黄道を示す円を備えており、本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例といえます。

青龍

朱雀

白虎

玄武
以上、文化庁キトラ古墳壁画保存管理施設の記事より

飛鳥マップ

彼岸には春彼岸と秋彼岸があります。それぞれ、春分の日(3月21日頃。その年により変動)、秋分の日(9月23日頃。その年により変動)を中日として、その前後の3日を合わせた7日間を彼岸といいます。
2019年のお彼岸
【 春彼岸 】
3月18日(月):彼岸入り
3月21日(木):彼岸の中日(=春分の日。祝日)
3月24日(日):彼岸明け
●なぜお彼岸にお墓参りをするの? 「彼岸」の意味は?
春分と秋分は太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じになる日ですが、お彼岸にお墓参りに行く風習は、この太陽に関係しています。
仏教では、生死の海を渡って到達する悟りの世界を彼岸といい、その反対側の私たちがいる迷いや煩悩に満ちた世界を此岸(しがん)といいます。
そして、彼岸は西に、此岸は東にあるとされており、太陽が真東から昇って真西に沈む秋分と春分は、彼岸と此岸がもっとも通じやすくなると考え、先祖供養をするようになりました。
●お彼岸は日本独自の文化
お彼岸はインドなど他の仏教国にはない日本だけの行事です。日本では、正月など神道にまつわる行事を行う一方、仏教を説いた釈迦の教えも受け入れてきました。お彼岸は「日願」でもあるため、太陽の神を信仰する神道と結びつきやすかったという説もあります。
また、春の種まきや秋の収穫とも結びつき、自然に対する感謝や祈りがご先祖様に感謝する気持ちにもつながって、お彼岸は大切な行事となりました。
彼岸の中日である「春分の日」「秋分の日」は国民の祝日です。
祝日法による趣旨は……
春分の日=『自然をたたえ、生物をいつくしむ日』
秋分の日=『祖先をうやまい、なくなった人々をしのぶ日』
●「暑さ寒さも彼岸まで」の意味
春分と秋分は、いずれも二十四節気のひとつで、暦の上では春と秋の中間地点となります。
そして、春分と秋分に昼と夜の長さがほぼ同じになり、春分以降は昼が長く、秋分以降は秋の夜長に向かいます。
◦春分は春(立春~立夏の前日)の中間地点
⇒春分以降、昼が長くなってゆく⇒寒さが和らぎ暖かくなる
◦秋分は秋(立秋~立冬の前日)の中間地点
⇒秋分以降、昼が短くなってゆく⇒暑さが和らぎ涼しくなる
ただし、昼と夜の長さがほぼ同じだからといって、春分と秋分の気候が同じになるわけではありません。暑さの名残で秋分のほうが10度以上も気温が高いのですが、厳しい残暑や寒さも目処がつくため、「暑さ寒さも彼岸まで」というようになりました。
また、お彼岸は迷い、悩み、煩悩に惑わされている人間が、悟りの世界と通じるときでもあります。自然に寄り添う暮らしの中で、暑さ寒さやそれに伴う様々なつらさも、彼岸のころには和らいで楽になるよ……「暑さ寒さも彼岸まで」には、励ましの意もあったのです。
・・暮らしの歳時記より
明日は春の彼岸入りの日。
毎年この頃に装飾古墳一斉公開が行われます。
熊本県の公開予定は3月23日(土)
・大村横穴群 (人吉市)
・京ガ峰横穴群(錦町)
・宇賀岳古墳 (宇城市)
・井寺古墳 (嘉島町)
3月24日(日)
・鍋田横穴 (山鹿市)
・横山古墳 (山鹿市)
・塚坊主古墳 (和水町)
・永安寺東古墳 (玉名市)
・石貫ナギノ横穴群(玉名市)
・石貫穴観音横穴(玉名市)
・大坊古墳 (玉名市)
興味のある方はどうぞ!当日は専門職員の解説があります。
また福岡県の王塚古墳と遠賀川流域古墳・遺跡同時公開は4月20日(土)・21日(日) 9:30~16:00です。
1.竹原古墳(国指定) 宮若市
2.水町遺跡群(県指定) 直方市
3.川島古墳11号墳(県指定) 飯塚市
4.小正西古墳(県指定) 飯塚市
5.沖出古墳(県指定) 嘉麻市
6.伊方古墳(県指定) 福智町 平成31年度春の公開は20日(土)のみです。
7.夏吉古墳群1・21号(市指定) 田川市 平成31年度春の公開は20日(土)のみです。
8.建徳寺2号墳(町指定) 大任町
9.戸山原古墳1号墳(町指定) 川崎町 今回は公開中止



毎年この頃に装飾古墳一斉公開が行われます。
熊本県の公開予定は3月23日(土)
・大村横穴群 (人吉市)
・京ガ峰横穴群(錦町)
・宇賀岳古墳 (宇城市)
・井寺古墳 (嘉島町)
3月24日(日)
・鍋田横穴 (山鹿市)
・横山古墳 (山鹿市)
・塚坊主古墳 (和水町)
・永安寺東古墳 (玉名市)
・石貫ナギノ横穴群(玉名市)
・石貫穴観音横穴(玉名市)
・大坊古墳 (玉名市)
興味のある方はどうぞ!当日は専門職員の解説があります。
また福岡県の王塚古墳と遠賀川流域古墳・遺跡同時公開は4月20日(土)・21日(日) 9:30~16:00です。
1.竹原古墳(国指定) 宮若市
2.水町遺跡群(県指定) 直方市
3.川島古墳11号墳(県指定) 飯塚市
4.小正西古墳(県指定) 飯塚市
5.沖出古墳(県指定) 嘉麻市
6.伊方古墳(県指定) 福智町 平成31年度春の公開は20日(土)のみです。
7.夏吉古墳群1・21号(市指定) 田川市 平成31年度春の公開は20日(土)のみです。
8.建徳寺2号墳(町指定) 大任町
9.戸山原古墳1号墳(町指定) 川崎町 今回は公開中止



昨日、3月半ばの我が家の庭に咲いている花を写真に納めました。
庭が狭いので鉢植えを増やしたところ、今では花の名前もわからない物が増えて閉口気味。











庭が狭いので鉢植えを増やしたところ、今では花の名前もわからない物が増えて閉口気味。
大勢の人がいる中で上手に話すことが苦手な人がいます。結婚式などで招待客にお礼や挨拶をする時に上がってしまって上手く話せない親御さんの姿を時々見かける。自分自身も少人数の仲間とは抵抗なく話ができるのですが、知らない人が大勢いる場所で話すのは苦手です。
『緘黙症』と言うらしいのですが、そういう病気があるんですね、初めて知りました。
ちょうど卒業のシーズン。
卒業時期にはこんな情景もあるんだ・・・いい話をありがとう。
学校に来ると声が出なくなる場面緘黙(かんもく)症の少女と、支え励ます教師。先日の小欄で重松清さんの小説「青い鳥」を取り上げたところ、大分県日田市の男性から手紙が届いた。「私の教職生活の中でも現実にあったのです」-
▼30年ほど前。小学6年のクラスに同じ病名の女子児童がいた。「家ではよくしゃべるのに」と母親も原因が分からない。「学校が嫌なのか」「自分の態度が悪いのか」。担任として無力感ともどかしさが募った
▼卒業式が迫る。男性は「口で言ったら圧力に感じるだろうし、何度も読み返してくれるだろうから」と手紙で思いを伝えた。「はい」の二文字でいい。最後に先生はあなたの声を聞きたい…。式本番。名前を呼んだ。期待は砕かれた
▼4月。卒業生が遊びに来た。意外な、思いもしない事実を告げられた。「○○ちゃん、卒業式でちゃんと返事してたよ」「小さな声だったけど、近くにも聞こえるくらいの声で『はい』って」
▼「驚いて感激して、何より『ああ良かった』の思いでいっぱいでした」と男性は言う。「耳には聞こえなかったけど、今でも思い出すと声が聞こえるようでうれしさがこみ上げます」
▼小さな声を出すために、彼女はきっと大きな勇気を振り絞ったのだろう。自分のため。心配してくれた先生のために。男性の便りには「中学生になった彼女は、友達と普通に会話をしているとのことでした」とあった。
=2019/03/11付 西日本新聞朝刊=

●かんもくしょう【緘黙症】
無言症とも。発語に関する器官に器質的な障害がないのに,発語しないもの。神経症,鬱(うつ)病,統合失調症(精神分裂病)にしばしば見られるほか,突然の激しい感情の動揺でも起こる症状。外部からの刺激に対して精神的な反応がなくなり,意識は明晰(めいせき)だが,話しかけられても一語も発しない。また一日中同じ姿勢を保つといった異常行動を伴うことが多い。子どもで,特定の人とは語すのに,それ以外の人と話さない場合を,選択的緘黙という。
『緘黙症』と言うらしいのですが、そういう病気があるんですね、初めて知りました。
ちょうど卒業のシーズン。
卒業時期にはこんな情景もあるんだ・・・いい話をありがとう。
学校に来ると声が出なくなる場面緘黙(かんもく)症の少女と、支え励ます教師。先日の小欄で重松清さんの小説「青い鳥」を取り上げたところ、大分県日田市の男性から手紙が届いた。「私の教職生活の中でも現実にあったのです」-
▼30年ほど前。小学6年のクラスに同じ病名の女子児童がいた。「家ではよくしゃべるのに」と母親も原因が分からない。「学校が嫌なのか」「自分の態度が悪いのか」。担任として無力感ともどかしさが募った
▼卒業式が迫る。男性は「口で言ったら圧力に感じるだろうし、何度も読み返してくれるだろうから」と手紙で思いを伝えた。「はい」の二文字でいい。最後に先生はあなたの声を聞きたい…。式本番。名前を呼んだ。期待は砕かれた
▼4月。卒業生が遊びに来た。意外な、思いもしない事実を告げられた。「○○ちゃん、卒業式でちゃんと返事してたよ」「小さな声だったけど、近くにも聞こえるくらいの声で『はい』って」
▼「驚いて感激して、何より『ああ良かった』の思いでいっぱいでした」と男性は言う。「耳には聞こえなかったけど、今でも思い出すと声が聞こえるようでうれしさがこみ上げます」
▼小さな声を出すために、彼女はきっと大きな勇気を振り絞ったのだろう。自分のため。心配してくれた先生のために。男性の便りには「中学生になった彼女は、友達と普通に会話をしているとのことでした」とあった。
=2019/03/11付 西日本新聞朝刊=

●かんもくしょう【緘黙症】
無言症とも。発語に関する器官に器質的な障害がないのに,発語しないもの。神経症,鬱(うつ)病,統合失調症(精神分裂病)にしばしば見られるほか,突然の激しい感情の動揺でも起こる症状。外部からの刺激に対して精神的な反応がなくなり,意識は明晰(めいせき)だが,話しかけられても一語も発しない。また一日中同じ姿勢を保つといった異常行動を伴うことが多い。子どもで,特定の人とは語すのに,それ以外の人と話さない場合を,選択的緘黙という。

アポ電強殺容疑の3人組が逮捕されました。
話の詳細から多分実行犯はこの3人組のように思われます。
27歳を筆頭に残りは22歳という、背後関係はまだ明らかではないが手口などの共通性からオレオレ詐欺グループが頭にいる様子と警察は見ているようだ。
最近若者の短絡的な殺人事件が増えていますが原因はどこに有るのでしょうか?
豊になった反面、貧富の差がきわだって、あふれ出た一部の人たちが犯罪に身を置く。
悪いこととわかりながらも引きずられながら染まっていく若者たち。
社会の仕組みにどこか歪みがあるんだろう。
東京地裁で福島の原発事故をめっぐっての業務上過失致死傷罪で強制起訴された東京電力旧経営陣3被告の第37回公判が12日に行われた。東電元会長らは大津波を予見できなかったと無罪を主張。検察側は津波対策先送りをしたとしてこれまで争っていましたが、ようやく9月19日に判決が出るそうです。
【強制起訴】用語解説
●強制起訴(2016年07月15日 朝刊)
検察官が決めた不起訴処分について、11人の市民からなる検察審査会が、2度にわたって「起訴すべきだ」とする議決を出すと必ず起訴される制度。起訴する権限は検察官が独占してきたが、市民感覚を反映させるのが狙いで検察審査会法が改正され、2009年に施行された。裁判所が指定した検察官役の「指定弁護士」が起訴し、立証する。
●強制起訴制度(2015年03月28日 朝刊)
検察官が決めた不起訴処分に対し、11人の市民からなる検察審査会が2度にわたって「起訴するべきだ」と議決すると、容疑者が強制的に起訴される手続き。起訴する権限は検察官がほぼ独占してきたが、司法制度改革の一環で2009年5月に導入された。検察官は証拠を再検討したうえで不起訴を決めているため、検察官役は裁判所が指定した弁護士が務める。
●福島原発事故、強制起訴裁判(2017年06月30日 夕刊)
東京電力福島第一原発の事故をめぐり、全国の1万人超が東電幹部や政府関係者を業務上過失致死傷などの容疑で東京地検などに告訴・告発した。検察は2013年9月、全員を不起訴処分としたが、市民による東京第五検察審査会は14年7月、勝俣恒久元会長(77)ら東電幹部3人を「起訴相当」と議決。東京地検が再び不起訴処分としたが、検審は15年7月、3人を強制的に起訴すべきだと議決した。16年2月、検察官役の指定弁護士が3人を業務上過失致死傷罪で強制起訴した。


【強制起訴】用語解説
●強制起訴(2016年07月15日 朝刊)
検察官が決めた不起訴処分について、11人の市民からなる検察審査会が、2度にわたって「起訴すべきだ」とする議決を出すと必ず起訴される制度。起訴する権限は検察官が独占してきたが、市民感覚を反映させるのが狙いで検察審査会法が改正され、2009年に施行された。裁判所が指定した検察官役の「指定弁護士」が起訴し、立証する。
●強制起訴制度(2015年03月28日 朝刊)
検察官が決めた不起訴処分に対し、11人の市民からなる検察審査会が2度にわたって「起訴するべきだ」と議決すると、容疑者が強制的に起訴される手続き。起訴する権限は検察官がほぼ独占してきたが、司法制度改革の一環で2009年5月に導入された。検察官は証拠を再検討したうえで不起訴を決めているため、検察官役は裁判所が指定した弁護士が務める。
●福島原発事故、強制起訴裁判(2017年06月30日 夕刊)
東京電力福島第一原発の事故をめぐり、全国の1万人超が東電幹部や政府関係者を業務上過失致死傷などの容疑で東京地検などに告訴・告発した。検察は2013年9月、全員を不起訴処分としたが、市民による東京第五検察審査会は14年7月、勝俣恒久元会長(77)ら東電幹部3人を「起訴相当」と議決。東京地検が再び不起訴処分としたが、検審は15年7月、3人を強制的に起訴すべきだと議決した。16年2月、検察官役の指定弁護士が3人を業務上過失致死傷罪で強制起訴した。


朝日新聞デジタル
警察庁は7日、東日本大震災から8年になるのを前に、1日現在の被害状況をまとめた。死亡者は12都道県で1万5897人、行方不明者は6県で2533人。死亡者はこの1年間で2人増え、行方不明者は6人減った。
死亡者の内訳は岩手4674人、宮城9542人、福島1614人など。行方不明者は岩手1114人、宮城1219人、福島196人などだった。この1年間で4人の遺体の身元が確認された。遺体が発見されたものの今も身元が分からないのは60人。内訳は岩手50人、宮城10人となっている。(小林太一)
昨日は東日本大震災から8年、復興庁の調べを見てみますと、被害と復旧状況の中に全国の避難者数というものがあります。
その数は5万1778人。
かろうじてこの震災から逃れ、何らかの理由で生まれ育った地から離れざるを得なかった人の数である。
震災の被害によるもの、原発事故によるもの、その他の理由によるもの。
細かな打ち明けは発表されていません。
インフラ整備はほぼ回復したものの、沿岸の町に活気は戻らないという、復興半ばで地域の人たちの不安も消えない状態のまま、2020年には復興庁(後継組織は残される)は廃止が決まっています。
原発事故の処理にはこれから40~50年もの月日が必要といわれています。
故郷を奪われた人たちに国と東京電力はどのように報いて行くのでしょうか。
●東日本大震災(ひがしにほんだいしんさい)は、2011年(平成23年)3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震による災害およびこれに伴う福島第一原子力発電所事故による災害である。大規模な地震災害であることから大震災と呼称される。
発生した日付から3.11(さんてんいちいち)、311(さんいちいち)と称することもある。
2011年(平成23年)3月11日(金曜日)14時46分18秒(日本時間)、宮城県牡鹿半島の東南東沖130km(北緯38度06.2分、東経142度51.6分、深さ24km)を震源とする東北地方太平洋沖地震が発生した。地震の規模はモーメントマグニチュード (Mw) 9.0で、発生時点において日本周辺における観測史上最大の地震である。
震源域は広大で、岩手県沖から茨城県沖までの南北約500km、東西約200kmのおよそ10万km2に及ぶ。最大震度は宮城県栗原市で観測された震度7で、宮城・福島・茨城・栃木の4県36市町村と仙台市内の1区で震度6強を観測した。観測された最大加速度は宮城県栗原市のK-NET築館(MYG004)観測点で、2933ガル。