JR九州 旅のライブ情報誌 プリーズ はJR九州の特急列車の中で、旅行中やビジネスでの移動中に読まれている情報誌です。15万部発行の月刊誌で毎回九州各地の旅の旬を紹介。綿密な取材による新鮮な視点の記事は、幅広い年齢層の読者を獲得しています。情報としては少し遅れましたが№324 ⑤を見る機会があればぜひ一読してください。○九州ものしり学○のページに花子と白蓮の記事・二人が知り合った出初め(東洋英和女学校)からいくつもの試練を越えて花開いたそれぞれの人生・「赤毛のアン」の翻訳者村岡花子と柳原白蓮の死ぬまで続いた知られざる友情を互いの人生の歩み方を通してわかり易く書かれています。このページの最後の一部を紹介します。
一方、花子は震災後、度重なる悲劇に襲われた。夫の会社が倒産し、5歳の長男も疫痢で失う。悲嘆にくれる花子のもとに今度は燁子が駆けつけ励ました。やがて花子は、日本中の子どもたちに上質な翻訳文学を届けることを自らの使命とし、次々に英米作品に取り組む。その傍ら童話や少女小説も書き、市川房枝らの婦人参政権獲得運動に加わり、ラジオで子ども向きのニュース解説も始めた。が、軍国色が強まる中、英語は敵国語とみなされ、友人のカナダ人宣教師たちも帰国を余儀なくされた。その一人ミス・ショーから贈られたのが、「アン・オブ・グリン・ゲイブルズ」。「この本をあなたの手で、日本の少女たちに紹介してほしい」と託された花子は、太平洋戦争中もコツコツと訳出し、昭和27年、59歳でようやく出版したのが「赤毛のアン」だった。本はたちまちベストセラーとなり、以後7年間で10巻のアン・シリーズが刊行されるに至った。戦争は、燁子にも深い傷を残した。学徒出陣した最愛の息子、香織を亡くしたのであった。終戦のわずか4日前、鹿児島串木野で爆撃を受けての戦死だった。しかし燁子は悲しみを乗り越え、「悲母の会」を結成すると全国を行脚し、国際的な平和運動へと昇華させる。そこには戦争の愚かさを訴えてやまない、68歳の強靭な女性の姿があった。どこに行くにも本と筆を携え、歌を詠み続けた燁子は、昭和42年、81歳で死去。翌年、後を追うように花子も75歳の生涯を閉じる。明治から昭和へと変化する時代の中で、自らの人生を全力で切り拓いてきた二人は、生涯、心の友であり続けた。
非常に感動を受ける二人の生きざまです。
八代市の球磨川河口新萩原橋のすぐ近く萩原堤に「宮崎八郎戦没ノ碑」があります。

碑銘は司馬遼太郎の書です。

八代市萩原老人クラブの方達が平成9年にわかり易い石碑を残してくれています。

ここは明治10年の西南戦争の激戦地の1つでもあります。宮崎八郎は、玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)の出身で、中江兆民の民約論に影響を受け、明治8(1875)年に植木学校を設立するなど自由民権運動で活躍しますが西南戦争では、 参謀長だった宮崎八郎は薩軍を援助し奮戦しますが4月6日に若干27歳の若さでここ萩原堤で戦死しました。

八郎の弟達(民蔵、彌蔵、滔天)も有名で特に孫文との交流が深く、中国建国の立役者でもある宮崎滔天(トウテン)の長男(龍介)が、今、朝の連ドラで高視聴率を続けている「花子とアン」の中に出てくる花子の友人、葉山蓮子の三度目の旦那さんです。葉山蓮子は大正から昭和時代にかけての歌人で実名は柳原燁子(あきこ)、通称柳原白蓮です。大正三美人 の1人としても、またその頃まだ姦通罪が幅をきかせていた時代に命がけの恋をし、その恋を貫き通して世間を騒がせた白蓮事件をおこしました。その相手が宮崎龍介です。 宮崎八郎は龍介にとっては伯父にあたります。宮崎龍介は大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家で1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日まで生きて、昭和42年6月号の文藝春秋に白蓮のことを「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人々よりは燁子の個性を理解し、援助してやることが出来たと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。」と語っています。八代の名勝萩原堤からNHKの「花子とアン」に繋がるお話です。
碑銘は司馬遼太郎の書です。
八代市萩原老人クラブの方達が平成9年にわかり易い石碑を残してくれています。
ここは明治10年の西南戦争の激戦地の1つでもあります。宮崎八郎は、玉名郡荒尾村(現在の熊本県荒尾市)の出身で、中江兆民の民約論に影響を受け、明治8(1875)年に植木学校を設立するなど自由民権運動で活躍しますが西南戦争では、 参謀長だった宮崎八郎は薩軍を援助し奮戦しますが4月6日に若干27歳の若さでここ萩原堤で戦死しました。
八郎の弟達(民蔵、彌蔵、滔天)も有名で特に孫文との交流が深く、中国建国の立役者でもある宮崎滔天(トウテン)の長男(龍介)が、今、朝の連ドラで高視聴率を続けている「花子とアン」の中に出てくる花子の友人、葉山蓮子の三度目の旦那さんです。葉山蓮子は大正から昭和時代にかけての歌人で実名は柳原燁子(あきこ)、通称柳原白蓮です。大正三美人 の1人としても、またその頃まだ姦通罪が幅をきかせていた時代に命がけの恋をし、その恋を貫き通して世間を騒がせた白蓮事件をおこしました。その相手が宮崎龍介です。 宮崎八郎は龍介にとっては伯父にあたります。宮崎龍介は大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家で1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日まで生きて、昭和42年6月号の文藝春秋に白蓮のことを「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人々よりは燁子の個性を理解し、援助してやることが出来たと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。」と語っています。八代の名勝萩原堤からNHKの「花子とアン」に繋がるお話です。
NHK連続テレビ小説「花子とアン」視聴率好調・・このドラマは「赤毛のアン」の翻訳者・ 村岡花子の明治・大正・昭和にわたる、波乱万丈の半生記を描いた作品と言うことらしいのですが、この「花子とアン」と熊本県や八代との関わりを調べてみますとヒロインの花子の親友となる葉山蓮子は実は大正天皇の従妹にあたり大正から昭和時代にかけての歌人で本名は柳原燁子(あきこ)。大正三美人 の1人。白蓮事件で知られる柳原白蓮です。テレビドラマの中では政略結婚【相手は伊藤伝衛門 福岡県筑豊の実業家・炭鉱王】で福岡に嫁ぎ、後に年下の青年と駆け落ちし、「白蓮事件(姦通罪があった時代に命がけの恋をし世間から非難を浴びながらも2人の愛を貫き通して世帯を持った)」を起こして世間の注目を集めた女性ですが、八代との関係は白蓮事件の年下の青年に関係があるのです。その青年は宮崎 龍介(みやざき りゅうすけ)と言い、大正・昭和期の編集者・弁護士・社会運動家です。孫文の盟友・宮崎滔天の長男です。宮崎滔天には八郎、民蔵、彌蔵と言う3人の兄が居り、宮崎八郎は明治十年の西南の役では熊本協同隊を率いて薩軍につき参戦しますが、その渦中に八代で27歳の若さで壮絶な戦死を遂げました。そしてその場所が八代市に流れる球磨川の萩原堤です。八郎は龍介の伯父にあたります。また白蓮事件の宮崎龍介は1892年(明治25年)11月2日 - 1971年(昭和46年)1月23日まで生きて、昭和42年6月号の文藝春秋に白蓮の事を「私のところへ来てどれだけ私が幸福にしてやれたか、それほど自信があるわけではありませんが、少なくとも私は、伊藤や柳原の人々よりは燁子の個性を理解し、援助してやることが出来たと思っています。波瀾にとんだ風雪の前半生をくぐり抜けて、最後は私のところに心安らかな場所を見つけたのだ、と思っています。」と語っています。八代の名勝萩原堤からNHKの「花子とアン」に繋がるお話です。
司馬遼太郎の書です。


萩原橋に近い名勝萩原堤です。

萩原老人クラブの方達がこの碑を残してくれました。




近くに萩原天満宮の大銀杏木(御神木)がありその横には山頭火の石碑もあります。

司馬遼太郎の書です。
萩原橋に近い名勝萩原堤です。
萩原老人クラブの方達がこの碑を残してくれました。
近くに萩原天満宮の大銀杏木(御神木)がありその横には山頭火の石碑もあります。
八代駅から三楽までの緑の回廊の松崎公園前の用水路に建ててある看板です。
うーん。これは読めない。【浚渫】・・・看板を見る限りでは排水路工事の何かをしているのだなと思いますが余りお目にかからない字なのでまともに読める人はどれくらいいるのか、看板を見る人にいみがわかるのかな,フリガナでも振ってくれればいいのに。・・読めなかった者の僻(ひが)みかもしれません。 【排水路のしゅんせつをしています】 しゅんせつと読むそうです。でもほとんど意味不明です、余り聞いた事がない、いやほとんど聞いたこともないしこの字も見たことがない、・・意味を調べてみますと大辞林には・・港湾・河川などの水深を深くするため,水底をさらって土砂などを取り除くこと とあります。70歳近くにもなって全く読めない漢字があり意味の解らない日本語があるなんてなんと勉強不足なんでしょうか?
作業を見れば溝さらいをしている事は解ります。
あおさぎが「こんな字も読めないのか」というような顔つきでフェンスの上からこちらを見つめています。

今日は暦に【小満】とありますが、詳しい意味は余り知られていない。 立夏 → 小満 → 芒種 小満(しょうまん)は、二十四節気の第8番目に当たり、 現在広まっている定気法では太陽黄経が60度のときで5月21日ごろ。意味は 田畑を耕して生活の糧〔かて〕を稼いでいた時代には、農作物の収穫の有無は人の生死にかかわる問題でした。そのため、麦などに穂がつくと「今のところは順調だ、よかった」とほっと一安心すると言う意味・満足したことから小満と言う名前が付いたそうです。西日本では、走り梅雨「 本格的な梅雨に入る前のぐずつく天候のこと。 」がみられる頃。田植えの準備を始める頃でもあります。
ビールの飲み残しでナメクジが死ぬ?
どこで聞いてきたのか夫婦でこんな会話がありました。「ビールの飲み残しでナメクジを退治できるんだって」・・「え!本当。」早速実験をしてみました。夜飲み残したビールをトレイに入れて一晩おいておくと朝には何匹かのナメクジが飲み残しのビールの中で死んでいました。
そのことを詳しく調べてみると、簡単なナメクジの退治法としてビールの飲み残しを小さな容器に入れて置いておくと誘引されるので捕殺できる。ビールで溺死することも多い。こんな記事がありナメクジがビールに寄ってきてビールの中でおぼれて死ぬ事がわかりました。またナメクジのなかにも、中には酒に強い個体もいて飲み逃げされることがあるため、ビールの中にナメクジ駆除剤や塩を多めに入れておく方がより良く、ナメクジがビールに寄ってくるのはビール酵母と麦芽の香りによるものと言われているが、詳しいことはわかっていない。ビール大国であるドイツでは、この習性を利用してナメクジを駆除するのにビールを使うこともあるという。ナメクジは酸性を好むため、石灰をナメクジが通るところ(近寄って欲しくないところ)に蒔いていると、石灰を嫌い、近づかなくなります。ナメクジ退治には ナメクジ駆除剤が一番効くそうです。
やっぱり駆除剤が一番なんですね。・・・・ビールで死んだのではなく死因は溺死なんですね、飲み残しもある程度の量がいるって事。


簡単で分かりやすい記事であるでもなぜかうなずける。
その島国は戦争を<野獣的な行為>として嫌う。<戦争で得られた名誉ほど不名誉なものはない>と考えている。トマス・モアの描いた『ユートピア』(1516年)である◆その平和国家が軍事力をもつ理由は二つあるという。<自分の国を守るため>と<友邦に侵入した敵軍を撃退するため>と。前者は個別的な、後者は集団的な自衛権にあたろう。苦難を救ってくれる友ならば、こちらも友の苦難に手を差し伸べる。普通の国の、普通の発想である◆政府の有識者会議が、集団的自衛権の行使を認めるよう求める報告書を安倍首相に提出した◆政府は必要最小限の行使に限定して認める提案に沿って憲法解釈を見直すべく、与党との調整に入る。異論も出るだろう。出ていい。政策とはいつの場合も、異論とがっぷり四つに組み合うなかで磨かれるものである◆江戸期の狂歌作者、元木網(もとのもくあみ)に一首がある。<あせ水を
ながしてならふ剣術のやくにもたたぬ御代(みよ)ぞめでたき>。平和のおかげで現在の繁栄を築き、「御世ぞめでたき」の心が骨の髄まで徹した国だからこそ、胸を張って新たな汗水をながすことができる。
2014,5,16 読売新聞 [編集手帳]

魏志倭人伝の世界へようこそ
パレアでくまもと県民カレッジの講座が始まりました平成26年度第1回目の講座は環濠集落【方保田東原遺跡】~魏志倭人伝の世界から・・という題名で県立装飾古墳館の学芸課長の坂口圭太郎氏が熊本県にある遺跡の中から魏志倭人伝の時代に存在した熊本県にある小国の遺跡の話をされました。
魏志倭人伝の中で語られている日本の最初の姿は倭人は帯方郡(たいほうぐん)=韓国ソウル近辺の東南の大海の中にあって、山や島に囲まれていて国はかって百余国に分かれていて、後漢王朝の時に朝見する者もあった。今の時代(魏)に使者の往来がある国は30国。・・・・
魏志倭人伝とは3世紀の邪馬台国,および2~3世紀の倭人の風習などが記されている中国の文献。《三国志》魏書東夷伝の中の一部を通称したもの。著者は西晋の陳寿(233‐297)で,その成立は3世紀後半。陳寿とほぼ同時代の魚豢(ぎょかん)の撰になる《魏略》の記述を受けつぎ,邪馬台国の存在していた時代とは,それほど隔りのない時期に書かれたものであるから,その史料的価値は高い。倭人伝は,倭国の地理的位置づけから書きはじめられ,帯方郡より邪馬台国への道程,倭にあった諸小国の名称,倭人の生活風俗などが,かなり詳細に記述されている。 【世界大百科事典 第2版の解説より】
倭人伝が書かれたこの時代(弥生後期~古墳初期)の熊本県内の主な遺跡として方保田東原遺跡((かとうだひがしばるいせき)山鹿市)、うてな遺跡(菊池市七城町)、二子塚遺跡(嘉島町)、稲佐津留遺跡(玉東町)、八島町遺跡(熊本市八島町)、夏目遺跡(錦町)があります。県立装飾古墳館の学芸課長の坂口圭太郎氏の説明では同じ時期の遺跡であれば、どれだけの鉄製品が出土したかで遺跡の価値が違ってくると話されます。日本には青銅器も鉄器もほぼ同時期に入ってきているので、鉄器の文化をいち早く取り入れた集落が栄えていったと思われます。
上記遺跡の中で鉄製品が数多く出土している遺跡は方保田東原遺跡((かとうだひがしばるいせき)山鹿市)、と二子塚遺跡(嘉島町)、の遺跡です。とくに方保田東原遺跡については
■争いに備えた大規模な集落
方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡は、菊池川とその支流の方保田川にはさまれた台地上に広がる弥生時代後期から古墳時代前期に繁栄した大集落遺跡です。広さは35~40haと広大で、遺跡は防御用の溝をめぐらしたいわゆる「環濠集落」で、有名な吉野ヶ里遺跡に匹敵する規模といっても過言ではありません。
当時、倭国は100以上のクニ( 現代でいう“国家”とは違い、極めて小さい規模の共同体という意味で”クニ”と表記します。)とクニが戦争を繰り返し、30余りにまとまっていきます。そのなかの一つが方保田東原遺跡を中心地としたクニと考えられます。これまでの調査結果から、幅8mの大溝や多数の溝が発見され、外敵から集落を守っていたことが分かっています。
住居跡からは柱跡から足跡と思われるものまで見つかっています。ただし、足跡とされるものについては研究が進められており、まだ断定できる段階ではありません。また、鉄器を作った鍛冶場と思われる住居跡も発見されています。
■方保田東原遺跡から出土した文化財
3世紀後半から4世紀初頭の時期、熊本県北部は全国的にも鉄製品が数多く発見される地域として知られています。特に、方保田東原遺跡の出土品は鉄器の占める割合が高く、全国で唯一といわれる石包丁形鉄器が発見されています。石包丁は稲の収穫道具であるため大量に用意しなければなりません。そのため、材料が入手しやすく、また製作しやすい粘板岩や片岩などの岩石でつくることが一般的です。 また、特殊な出土品として巴形銅器( 形状は南海産の「スイジ貝」をモデルとし、機能的には公式儀礼で用いられる盾の留め金を覆う装飾であるが、盾の四隅に配し、邪悪なものを退散させる意味を持つ。)をはじめとする数多くの青銅器があります。青銅器は本来黄金色に光り輝き、太陽の輝きに近いこの輝きは、それを持つ者に対して神秘的な力を感じさせます。このため、クニの権力者はこれらを祭器や儀器として使用し、これらの青銅器が数多く出土している方保田東原遺跡を中心としたクニは菊池川流域のなかでも大きな力を持っていたと考えられます。
さらに、山陰や山陽など西日本各地でつくられたと考えられる土器が多数出土していることから、交易が盛んに行われ、繁栄していたことも分かってきました。
このような発見から、方保田東原遺跡は弥生時代の中九州を代表する重要な遺跡と評価され、国指定の史跡となっています。ただし、残念ながら指定を受けている範囲は遺跡全体の13分の1にすぎず、できるだけ広い範囲を保護していくためにも、指定地域を広げる必要があります。これほど貴重な遺産であるため、次の世代へ大切に手渡すことが大切と思われます。【熊本県 地域発 ふるさとの自然と文化】より
また古墳館の学芸課長の坂口圭太郎氏は出土する鉄製品のなかに多くの鉄片が出てくるのですが、以前は鉄片が出てもそんなに重要視はされなかったのですが最近になって輸入された鉄片を加工したのではないかという見方をして、鉄片が多いほど大陸との交易が盛んであったとし、それに似合う品物を輸出する力があったと考えられると話されます。
歴史の見方も少しずつ進歩している事がわかります。・・また山鹿に行って見るか。・・興味をもつことは人を元気にしてくれます。
こころ打たれる記事・・
身近な人に感謝の思いを伝えるのは、大人でも勇気がいる。それが多感な年頃ならば、なおさらだろう◆1日の気流欄(大阪本社版)に、すてきな投稿を見つけた。「反抗期のせいでなかなか感謝の気持ちを表す事が出来ませんが、この場を借りてありがとうといわせてください」。やはり照れくさいjのだろう。岡山県玉野市の中学生、住吉あやかさんの手紙は、少しぎこちなく始まる◆「お父さん。(略)毎朝、駅まで送ってくれる車の中、気まずいこともあるけど感謝しています」「お母さん。小言がうっとうしいと思う時もあるけど(略)これから先、心が折れそうになった時は助けてください」。14歳少女の、虚飾ない言葉に心が洗われる◆韓国・珍島沖の旅客船事故に遭った高校生も、あやかさんと同じ思いを秘めていたに違いない。現場では今も行方不明者の捜索が続く。 「お母さん、直接言えないかもしれないから送っておく。愛している」。これが最後のメールならば、あまりに悲しい◆きょうは母の日。「記念日の力」を借りていい。ほんの少し勇気を出して、互いの笑顔を確かめあえれば、と思う。 2014.5,11 読売新聞 [編集手帳]

内田百閒(うちだひゃっけん) この方ご存知ですか?
いよいよ今年も八代市の図書館講座が始まりました。講座は文学講座と八代の歴史講座があり毎月第1週の水曜日に文学講座、毎月第3水曜日に八代の歴史講座がおこなわれます。時間は午前10時30分~12時まで2階の大集会室で行われます。参加費無料、予約申し込み不要で誰でも参加する事が出来ます。5月7日の文学講座は当初予定されていた講師の方が体調不良と言う事で急遽、代役として熊本高専英文学科名誉教授・山田 章則先生が「エッセイの楽しみ」という演題で話をされました。
内容はエッセイとは何ぞや・・日本語では随筆(思いつくままに自由な形式で書いた散文)と訳されるが、狭義の意味では「随筆」「散文」「随想」「感想文」などがあり、広義では「小論文」「試論」「評論」などを含む文章を指します。
日本で歴史に残る最古の随筆は平安中期,996年(長徳2)ころから1008年(寛弘5)ころの間に成立した日本最初の随筆文学で作者は清少納言の「枕草子」と言われています。清少納言は、独特の鋭い観察眼と、女性らしい細やかさで貴族の日常生活を綴っています。またその後も随筆文学は、鴨長明「方丈記」、吉田兼好「徒然草」、本居宣長「玉勝間」、松平定信「花月双紙」などの傑作があります。・・このような話から始まり先生ご自身が好まれる作家で福原麟太郎、向田邦子、正宗白鳥、内田百閒などの随筆を1篇づつ紹介されました。
話の中で非常に興味が湧いたのは内田百閒(うちだひゃっけん)1889(明治22年)~1971(昭和46年)夏目漱石門下の日本の小説家、随筆家。岡山市の裕福な造り酒屋「志保屋」の一人息子として誕生。俳諧的な風刺とユーモアの中に、人生の深遠をのぞかせる独特の作風を持ち後輩の芥川龍之介に慕われたそうで本名は内田 榮造。女優の高峰秀子は最も愛する作家として「百閒」を挙げています。彼の代表作「阿房列車・あほうれっしゃ」のなかに実は八代のことが沢山載っているそうです。松浜軒はほんの一時期ですが昭和26年(1951)~昭和33年(1958)旅館として使われていました。今は国指定名勝として文化財にもなっていますが、その当時は松井家も食い扶持として利用されていたのだと推察いたします。そして内田百閒ゆかりのスポットが八代の松浜軒だったのです。百閒は松浜軒が旅館をしていたこの間に9回も八代を訪れ松浜軒に泊まっていて、それも東京からだそうです。
百閒の作品に「八代蚊」というのがあり今回講座の中で紹介されました。熊本は漱石、そして八代は百閒、文学にも自慢できる八代の顔が有ります。内田百閒の事は八代市の文化財さんぽ⑯旧熊本藩八代城主浜御茶屋(松浜軒)庭園 の中にも少し記事が有ります。

今日は5月5日・こどもの日端午の節句の日でもあります。端午の節句とは・・・意味を調べてみました
端午の節句は奈良時代から続く古い行事です。もとは月の端〔はじめ〕の午〔うま〕の日という意味で、5月に限ったものではありませんでした。しかし、午〔ご〕と五〔ご〕の音が同じなので、毎月5日を指すようになり、やがて5月5日のことになったとも伝えられます。 当時は邪気を避け魔物を祓う薬草とされていた「菖蒲」を、よもぎと共に軒にさし、あるいは湯に入れて「菖蒲湯」として浴しました。
時代が武家社会に移るにつれ、これまでの風習が廃れ、代わりに「菖蒲」と「尚武」をかけた尚武(武士を尊ぶ)の節句へと移っていきます。この流れを受け、江戸時代には徳川幕府の重要な式日が5月5日と定められ、大名や旗本が式服で江戸城に参り、将軍にお祝いを奉じるようになりました。また、将軍に男の子が生まれると、玄関前に馬印〔うましるし〕や幟〔のぼり〕を立てて祝いました。こうして時代と共に男の子の誕生と成長を祝うお祭りへとなっていきました。
またこいのぼりとの関係は後漢書による故事「竜門の故事」で、黄河の急流にある竜門と呼ばれる滝を多くの魚が登ろうと試みたが鯉のみが登り切り、竜になることができたことにちなんで鯉の滝登りが立身出世の象徴となった話が結びついたものです。

歌川広重『名所江戸百景

八十八夜ってどこから数えるのか知っていますか?農家の人以外は案外知らない人が多いと思います。解っている様な気でいるが実際は解っていない・・でも日常の生活には不自由しないし困る事もない。八十八夜は日本独自の雑節で立春を起算日(第1日目)として88日目(立春の87日後の日)にあたります。今年は2月4日が立春でしたので5月2日が八十八夜になります。一般に霜は八十八夜ごろまでといわれているが遅霜の被害が5月半ば頃まで発生する地方もあり、農家に対して特に注意を喚起するためにこの雑節が作られたそうです。同じ季節の移り変わりの目安となる「季節点」のひとつに、台風が近づく二百十日などもあります。

日本の歌百選にもなっている茶摘みの光景を歌った文部省唱歌の『茶摘み』は作詞作曲ともに作者不詳とのこと・・誰が作ったかご存知でしたか?
八十八夜の日にお茶を飲むと長生きをするといういわれもあります。・・今日はお茶を飲みましょう!