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Posted by おてもやん at

2015年11月29日

日本人起源論

読売新聞文化面(11/18)に国立科学博物館人類研究部長の篠田謙一さんの新書『DNAで語る日本人起源論』についての内容紹介がありました。DNA分析から日本人の成り立ちの研究を続けその分析技術が、日本人の精神の基層にも迫ろうとしていること。親から子へと受け継がれるDNAの分析を重ねると、約20万年前にアフリカで誕生した現生人類が、どんな道筋で世界に広がったかが見えて来る。古人骨のDNA研究は1990年代に本格化した、新しい領域だ。・・・「日本人は他の東アジアの集団に比べて遺伝子的に多様」なのだという。「後から入ってきた人たちを排除せず、混ざり合う方向に動いたことをDNAは示している」。現代人にも、縄文時代に特徴的なDNAタイプを持つ人は多い。渡来系弥生人も縄文時代からいた人々を根絶することなくおおむね共存したようだ。「日本人は議論が苦手とか、白黒を付けないとか言われるが、案外そういうことの名残なのでは」。均質どころか。多様性に富んだ日本人像が見えつつある。

よくはわかりませんが遺伝子から日本人が持つ精神の基層まで研究によって推測できるようになったんですね。遺伝子を操作することには賛成は出来かねますが、せめて人間同士が殺しあう世の中だけはなくせるようにいろんなことを研究して少しでも住みよい世の中になるようにお願いしたいものです。



  


Posted by マー君 at 09:03Comments(1)記事

2015年11月27日

「要白」について

2015/11/25 読売新聞編集手帳
手もとの国語辞典には見当たらない。先日、テレビでその言葉を知った。「要白」という。『風神雷神図』などで名高い近世初期の画家、俵屋宗達の生涯を取り上げた番組のなかで、美術史家の先生が使っておられた◆余白ならぬ要白、意味のある空間のことで、宗達はその技法に巧みであったという。この先生の造語ではなく、絵画やデザイン、写真の世界ではよく用いられるらしい。きのう、町の交差点でその言葉を思い浮かべた◆光の加減だろう。角の駐車場で車を洗っている人の放った水しぶきから、一瞬の虹が立った◆歩行者用の信号が青に変わるのを待ちつつそれを見たのは小蘭ひとりで、右隣の学生さんも左隣のご婦人もスマートホンの操作に忙しく、ご覧になっていない。「見逃したところで悔しくはないぞ」と言われればそれまでだが、さて、どうだろう。虹や夕焼けを見る時間も、木枯らしや蝉しぐれを聴く時間も、人生の〝要白〟にちがいない◆あわただしい師走も近い。〈年の瀬を忙(せわ)しいといひつ遊ぶなり〉(星野立子)。心の片隅に要白をお忘れなく・・と、余計なお節介を申し述べておく。

意味のある空間とはすべてを塗りつぶすのではなく、絵全体から見るとその空白が大事な役割を果たしている・・今日の小蘭は人生の要白として『時間』を捉えています。やさしく生きるための素晴らしい提案だと思います・・ありがとう。
  


Posted by マー君 at 12:41Comments(0)ありがとう
11月18日八代市立図書館において、「奈良木神社の建築と高田」というテーマで八代高専の森山先生のお話がありました。森山先生は建築学を専門とする先生で、建築学を通して歴史や文化面で八代に貢献されている先生です。今回の話は自分が受け持っている学生たちの研究課題をもとに話をされましたが、建築や彫刻の話となるとやはり専門的になりすぎて勉強不足の私達には少し難しく思われます。講座の内容についてのレシピはいただきましたが、少しおさらいの意味もかねて奈良木神社に行ってきました。建物についての八代市の説明書きを読んでもやはり難しい専門用語が多くてわかりづらいと思いました。
奈良木神社は神仏分離から免れ、由緒ある神社と観音堂が祀られている貴重な歴史遺産です。現在、建物の痛みのひどい個所やそして境内などがところどころ補修中です。また高田という地名については平安時代後期につくられた辞書・和名類聚抄に高田(たかた)・太加多(たかた)の名があり、奈良木は八代郡誌に「霊佛は奈良地方より来りたるに依り、地名を奈良木 木は来に通す と稱す」の説明を講義では受けましたが、奈良の地名由来辞典には「ナラ」は朝鮮語の「クニナラ」に由来し、「国の都」の意味。奈良は現代語の「ならす」につながる古語で平地をあらわす。
● 渡来人が移り住んだ土地を「ナラ」と呼ばれるようになったらしく、奈良だけでなく、全国各地に「ナラ」という地名があるそうで、それらも渡来人由来の地名と言われている。
● 奈良の地名はもともと、平城京の北にあった「平城山(ならやま)丘陵」を指した。古代には「那羅(なら)やま」と書いた。「なら」は「ならす」に通じ、「平」という意味。
どうも「平」の説の方が地形から見て正しいような気がします。
1543(文明12)年3月7日、古麓城主・相良長唯が観音堂に参詣したと、相良氏の「八代日誌」にある。当地は高田御所を守護する北東・鬼門に位置する。笹の葉型の境内の長手方向を軸線とし、南東の一の鳥居より軸線上に社殿が建つ。観音堂は神仏分離を免れ、この参道に斜めに食い込み、南向きで建つ。この風景が面白い。奈良より迎えたとされる十一面観音立像を祀る観音堂は入母屋平入りの向拝付きで、亀腹状の丸身ある基壇に建ち、三方に切目縁が回る。向拝は獅子鼻・像鼻、皿斗・絵様肘木の出三斗、中備に波と雲の蟇股とする。波頭の彫刻板支輪のうち、右側面のものには波間に菊が咲く。小壁には鳳凰や水鳥などの彫刻がつく。妻飾は左側面のみ獅子が残る。内部は草花を描く一間一花の格天井で、鰐口が吊られている。社殿は天御中主尊ほか三柱。本殿、幣殿、拝殿で構成される。拝殿は入母屋妻入で、三方に切目縁が回る。組物は大斗組、天井は観音堂と同形式である。本殿は一間社流造で、銅板葺である。向拝に獅子鼻・獏鼻、松に鳥の丸彫の手挟がある。蟇股は波間に「丸に違い鷹の羽」紋、ほかに虎、鶴、二頭の獅子の彫刻がある。妻飾りの笈形は上下中途で切り、結綿と波頭を表現する。二の鳥居は1887(明治20)年築。
八代市で作った奈良木神社の説明書きですが①入母屋平入り②向拝付き③切目縁④皿斗⑤絵様肘木⑥出三斗⑦中備⑧蟇股⑨妻飾⑩幣殿⑪入母屋妻入⑫大斗組⑬笈形⑭結綿 ①~⑭まで聞いたことや字を見たことはありますが意味をはっきり理解していない言葉のようです。この説明書きを見てほかの人はみんな理解できているのでしょうか、私が勉強不足なのかみんなも同じなのか、立て看板の中で14個も意味が解らなかったら全体の意味も何かあやふやで理解できないと思うのですが。
建築用語の勉強です・・①、⑪の平入り・妻入り 建物各面の呼び名で屋根の棟(むね)(大棟)と平行な面を平(ひら)といい屋根の棟(大棟)と直角な面を妻(つま)という(平入、ひらいり)や(妻入、つまいり)とは、建物のいずれの面に正面出入口があるかによって分類した様式で、平入りは「平」の側に出入口があるものを指し。「妻」側から出入りするものを妻入りという。
入母屋【いりもや】
屋根形式の一つ。上部が切妻屋根のように二方へ傾斜し,下部は寄棟(よせむね)のように四方に傾斜するもの。切妻と異なり四つの軒をもつので,寄棟とともに四阿(あずまや)とも呼んだ
②向拝(こうはい、ごはい)とは、日本の寺院建築・神社建築において、仏堂や社殿の屋根の中央が前方に張り出した部分のこと
③きりめ‐えん【切(り)目縁】縁板を敷居と直角方向に張った縁。濡れ縁に用いる
④さら‐と【皿斗】建築で、斗(ます)の下端に付けた皿状の部分。また、それを付けた斗。ます【斗】〔「ます(枡)」と同源〕 社寺建築の斗栱(ときよう)を構成する方形の受け木。柱の上あるいは肘木(ひじき)の先端にあり,別の肘木や桁(けた)を受ける。大斗・巻斗・方斗などがある   ●斗( ます) 直方体の下部を斜めに曲線でしゃくり取ったもの●肘木 (ひじき) 短い棒状の部材で、下端を船底のような緩やかな曲面に削ったもの
⑤●絵様(えよう)肘木 下端に渦巻き状の造形が施された肘木
⑥で‐みつと【出三斗】 斗栱(ときょう)の一形式。平(ひら)三斗に壁から直角に突き出す肘木(ひじき)を加え、その先に巻き斗をのせたもの 出三斗組み
⑦中備(なかぞなえ) 備えともいう。日本建築の組物と組物の間にあって各種桁を受ける支持材のこと。本来構造材であるが,装飾的要素が強い。桁の上に束を立てた間斗束 (けんとづか) があり,撥束 (ばちづか) ,蓑束 (みのづか) など装飾を施したものがあり,間斗束の左右に装飾を描いたものを笈形 (おいがた) と呼ぶ
⑧蟇股(かえるまた)社寺建築などで,頭貫(かしらぬき)または梁(はり)の上,桁との間に置かれる山形の部材。本来は上部構造の重みを支えるもの。のちには単に装飾として,さまざまに彫刻して破風などにつけられた。厚い板でできた板蟇股と中を透かした本蟇股とがある
⑨妻飾り 切妻造りや入母屋造りの屋根の妻に用いる装飾
⑩幣殿 神社で,参詣人が幣帛(へいはく)を供進するための建物。本殿と拝殿の間に設けられる
⑫●大斗 だいと 柱に直接載せる大きめの斗を大斗という
⑬笈形(おいがた)和様では柱上だけに組物を置き,その中間に蟇股(かえるまた)あるいは間斗束(けんとづか)を置くが,禅宗様では中間にも組物を置き,詰組(つめぐみ)と呼ばれる。間斗束は束の上に斗がのったもので,その肩に装飾のあるものを簑束(みのづか)といい,束の左右にある蟇股状の装飾を笈形(おいがた)という。組物が出組以上になると,先端にある丸桁(がぎよう)と壁上の桁との間に,水平の軒天井(小天井ともいう)や斜めの支輪(しりん 社寺建築で,折り上げ天井を支える湾曲した竪木・たてぎ)を設けるものが多い
⑭大瓶束(たいへいづか大仏様建築にみられる瓶子(へいじ)形の束。上部に斗(ます)を載せ、下部に結綿(ゆいわた)とよぶ彫刻がある )の下部などに施された 祝い物に用いる真綿 の形に似た彫刻


【組物(くみもの)の構成部材】
 組物は柱の上で屋根の重量を支える、装飾性の高い複雑な、木組みである。
 組物の主要な構成部材は斗と肘木である。


いろいろとわからない用語を調べてみましたが一度に頭に入れるのは無理のようです。少しづつ勉強してみます。























奈良木神社のすぐ近くに高田郷御所跡があります。今は石碑が一本立っているだけで名残は何もありませんが征西大将軍懐良親王(かねながしんのう)を迎えるための館を設け、後の良成親王(りょうせいしんのう)が征西将軍になられた時にはここに西征府を置かれ南北合一を迎えました。




  


Posted by マー君 at 16:10Comments(0)八代

2015年11月22日

いい夫婦の日

今日は11月22日・・いい夫婦の日というそうな。1985年に日本政府の経済対策会議にて、ゆとりの創造月間として11月が提唱されたことと、語呂合わせから「いいふうふ」と読める事から日本の記念日の一つになっています。


誰がいったかではなく、
何がいわれたか、
何が問題か、に中心を置く。

犯人探しをしていても問題は解決しない。
冷静になり、問題の本質を見極めることが大事。

渡辺和子さんの本の中の一部分です・・幼い子どもは、自分の思い通りにならないと、とにかく泣くだけ、怒るだけです。それに対して、大人とは、問題が生じた時にただうろたえるだけではなく、どうしたら問題を解決できるかを中心に考えることができる人のことです。それを中心に考えられないと、その問題のまわりをぐるぐる回っているだけで、解決するところまで行くことができない場合があります。ある朝修道院の台所の排水口が詰まって、水が流れなくなりました。その時に、成熟度の低いシスターたちの対応と、成熟度の高い「大人」のシスターたちの対応とが分かれました。成熟度の低いシスターたちは「一体誰が最後に使たんだろう」「誰が?」という犯人捜しをしたのです。それに対して成熟度の高いシスターたちは、「どうしたら水が流れるだろう」「作業してくれるおじさんを呼んで来なければいけないかもしれない」「もしかしたら、特別な器具で詰まっている物を取り出さないといけないかもしれない」と、問題解決のほうに中心を置くことができたのです。
このためには冷静さが必要になります。とかく私たちは、「誰がしたか」ということに走りがちで、「何が問題か」ということを忘れがちです。「誰々さんが言ったことには反対する」「誰々さんが言ったことは賛成する」という人たちもいれば、「誰がいおうと正しいことには賛成する、正しくないことには反対する」「大好きな人がいったことでも、自分がそれに同意できないときには反対する」「大嫌いな人がいったことでも、自分もそれは正しいと思ったならば潔く賛成する」という人たちもいます。誰がいったかではなく、何がいわれたか、何が問題かに中心を置くことは、成熟した人の一つの特徴になります。

渡辺 和子(わたなべ かずこ、1927年2月11日生まれ ~ )は学校法人ノートルダム清心学園の理事長。北海道旭川市生まれ。
2012年に発売した著書「置かれた場所で咲きなさい」が、100万部を超えるベストセラーとなって一躍有名になりましたが、18歳でキリスト教の洗礼を受け1951年聖心女子大学に通いながら上智大学で文書作成のアルバイトをし、1954年上智大学大学院(西洋文化研究科)修士課程修了しアメリカへ留学、1962年6月にボストンカレッジ大学院で博士号(哲学)を取得したのち、同年9月にノートルダム清心女子大学教授に就任その後1963年に36歳という異例の若さで岡山県のノートルダム清心女子大学の学長に就任(1990年に退任)。長年にわたり教壇に立ち、学生の心を支え指導する。1977年にはうつ病を患う。1984年にマザー・テレサが来日した際には通訳を務めるなど多方面で活躍。著書も多数。

価値があるから生きるのではない。
生きているから価値がある。

つまずくのはあたりまえ。
つまずいたおかげで気付くものがある。

ほかの人になる必要はない。
また、ほかの人をあなたと同じだと思うのは大間違い。

不親切ではなくても親切さに欠ける自分に気付く。

図書館に行っても渡辺和子さんの本は何人か待ちになっていて、非常に人気があります。名言といわれる語録は数え切れないほどあり、どの本も読むにつれ心が癒されます。  


Posted by マー君 at 11:56Comments(0)頭の整理

2015年11月21日

山陰の旅・松江

田和山遺跡は弥生時代前期末(紀元前200年頃)から、中期後半(紀元後50年頃)にかけての環壕を持つ集落遺跡です。山頂部、それを三重に囲む環壕部、環壕外に広がる西側・北側住居部の3つのエリアで構成されています。他に類がない遺跡として遺跡の位置づけや性格が謎とされています。頂上部を守るように作られた遺跡ですが頂上部には人が住むような遺跡は無くここで何かを祀ったような遺跡です。この遺跡は松江市立病院の建設に伴う発掘調査で見つかりました。遺跡の横は大きな病院です。(11/5)

















  


Posted by マー君 at 14:55Comments(0)歴史

2015年11月20日

山陰の旅・一畑薬師

一畑薬師に来てみました。「目のお薬師さま」として、古くから全国的に知られ、1300段余りの石段(参道)でも有名です。宗派は、禅宗(臨済宗妙心寺派)、一畑薬師教団の総本山です。
平安時代寛平6年(894年)、一畑山の麓、日本海の赤浦海中から漁師の与市(よいち)が引き上げた薬師如来をご本尊としておまつりしたのが始まりで、与市 の母親の目が開いたり、戦国の世に小さな幼児が助かったことから、「目のやくし」「子供の無事成長の仏さま」として広く信仰されております。
寺の境内にはありがたいお言葉が至る所に刻んであります。


                    『おん ころころ せんだり まとうぎ そわか』 十三仏御真言のひとつで薬師如来(真言宗系)のもの、天台宗系は別の真言があります



















少しづつ紅葉が始まりました(11/5)
  


Posted by マー君 at 16:07Comments(0)歴史

2015年11月19日

山陰の旅・出雲へ

新聞かテレビで『神在月』の出雲の写真を見て津和野にも用事があったので萩や出雲まで足を伸ばしてみました。(11/5)
出雲大社正門前
『2015年神在月の期間』 11月21日(土)夜 ~ 11月28日(土)まで
出雲に神々が集まるからという民間語源が元になって、出雲地方において、旧暦の10月が神在月(あるいは神有月)と呼ばれるようになった。
出雲国二宮 八万の神が集う神在りの社 佐太神社 [祇園物語] 上 作者不詳
十月には日本國の諸神みな出雲國におあつまり給うゆゑは神在と申すなり、その祭りは赤豆をにて、汁をおほくし、すこし餅を入れ候て、節々まつり候を、神在もちひと申すよし、又神在と申す宮もあるとなり




神在祭とぜんざい
出雲では神在祭のとき、「神在餅(じんざいもち)」を振舞っていました。その「じんざい」が出雲弁(ずーずー弁)で訛って「ずんざい」、さらには「ぜんざい」となって、京都に伝わったといわれています。 ぜんざい発祥の地が出雲であるということが、江戸初期の文献、「祇園物語」や「梅村載筆」(林羅山・・・儒学者)、「雲陽誌」にも記載されています。


『出雲國に神在もちいと申事あり。京にてぜんざいもちいと申ハ。これを申あやまるにや。10月にハ日本國の諸神ミな出雲國にあつまり玉ふゆへに。神在と申なり。その祭に赤豆をにて汁をおほくし。すこし餅を入まいらせ節々まつり候を。神在もちい申よし。(祇園物語より抜粋)』

10月31日は『出雲ぜんざいの日』
日本ぜんざい学会では出雲観光協会と連携し、2007年(平成19年)に10月31日を『出雲ぜんざいの日』制定しました(日本記念日協会認定)。

10月といえば神在月(出雲以外の地では神無月)。その神在月のなかでも、10月31日は1031「せんざい」と読めます。その語呂合わせから、この日を『出雲ぜんざいの日』としました



神殿前の3つの丸い目印は三本束ね柱の心御柱が埋まっていた場所を示しています






出雲大社の御本殿は「大社造」として国宝に指定されています。神社建築の最古様式として伊勢神宮の「神明造」とともに有名です


  


Posted by マー君 at 09:28Comments(0)

国指定史跡 西谷墳墓群(出雲市大津町西谷)    西谷墳墓群は1953年に多量の土器が出土したことにより、発見されました。1983年から1992年の島根大学による3号墳の調査や、1997,1998年の出雲市教育委員会の調査などにより、弥生時代後期後半から古墳時代中期(2世紀後半~5世紀頃)にかけてつくられた総数32基の墳墓群であることが明らかになりました。墳墓のうち6基は「四隅突出型墳丘墓」と呼ばれる弥生時代後期後半(2,3世紀頃)の山陰地方独特の墳丘墓です。この墳丘墓は四角い墳丘のコーナーが舌状に張り出す奇妙な形でその表面には独特の方法で石が貼られています。中でも突出部を含めると50mを超える3号墳や9号墳40mを超える2号墳や4号墳は弥生墳丘墓としては、全国でも最大級のものです。また調査で出土した土器などから、葬られた権力者たちが吉備(現在の岡山県と広島県東部)地方や北陸地方と密接な交流を持っていたことも明らかになっています。さらに近くの斐川町荒神谷遺跡や加茂町加茂岩倉遺跡で出土した多量の青銅器が埋納された後につくられた墳墓群であることも見逃せないことです。この西谷墳墓群の出現や青銅器の多量埋納の背景には弥生時代の出雲に大きな勢力が存在したことが考えられます。近年これを証明するかのように、北側に広がる出雲平野では日本海沿岸で最大級の弥生時代の集落跡が明らかになりつつあります。
平成12年(2000)3月30日指定 島根県教育委員会 平成13年(2001)3月 出雲市教育委員会

黄色のしるしは左から西谷墳墓群、荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡です。西谷墳墓群から荒神谷遺跡まで車で10分約8㎞、加茂岩倉遺跡まで車で20分約18㎞、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡は車で15分約12㎞の距離になります。



西谷2号墳に展示室が作ってあります
2号墳で見つかった出雲王の埋葬についての説明があります

四隅突出墳丘墓の調査研究の基礎は3号墓から









次の機会にはぜひここに行きたい
妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、鳥取県西伯郡大山町富岡・妻木・長田から米子市淀江町福岡に所在する国内最大級の弥生集落遺跡。遺跡の面積は156haにもなり、これは発掘当時国内最大級と喧伝された吉野ヶ里遺跡(当時32ha、現在は調査が進み、約2倍の面積になっている)の5倍にも及ぶ大規模なものである。今回は島根県まで、予定は出雲大社と一畑薬師、松江の田和山史跡(11/4)


  


Posted by マー君 at 09:06Comments(0)歴史

2015年11月17日

山陰の旅・萩から出雲

萩から出雲への通り道 ちょっと益田市のスクモ塚古墳(5世紀前半益田地方を治めていた首長の墓)に寄ってみました、益田は雪舟が晩年をこの地で過ごしたことでも有名です。



1939年(昭和14年)に発見された島根県益田市久城町にある古墳 前方後円墳と思われていましたが残念ながら円墳だったようです

益田にはいろいろな史跡がありますが、出雲、松江にも行きたいのでここだけ寄ることにして先を急ぐことにしました。(11/4)

  


Posted by マー君 at 09:26Comments(0)歴史

2015年11月16日

ムカサリ絵馬

読売新聞文化面(11/16・月) 
霊魂を「成長」させる知恵という見出しで川村邦光・阪大教授の「弔いの文化史」の本の紹介がありました。
戦争や災害などで非業の死を遂げた人や志半ばでこの世を去らなければならなかった人など日本人がそうした死者とどう向き合ってきたのかをしるしています。
「子供を亡くした親は、どのように踏ん切りをつけるのか。寿命だった、というのではなかなか納得できない」弔いの形を表すものとして一般的には遺影がありますが写真は生前の面影を固定してしまう。
遺影とは対照的な弔いとして例に挙げるのが、山形県最上・村山地方でみられる「ムカサリ絵馬」だ「ムカサリ」は婚礼を意味し、未婚の死者の霊を供養するため、花嫁や花婿を描いた絵馬を寺や神社に奉納する。未婚で死んだ人も結婚し、所帯を構え、子孫を残して「1人前の大人」になるという考え方だ。
青森県津軽地方では花嫁人形、花婿人形を寺などに奉納するが、背景にある思いは同じだ。「霊魂を成長させるという発想。それで遺族も気楽になり、その後の生き方も変わるのだろう」。人形にには遺影を添えることも多く、それが遺影に対する執着を溶解させるとも考えられるという。
供養の多様化 死者への執着・・
死者があの世でも成長し、霊魂として成熟するという思想は、民俗学者の折口信夫(1887~1953)が「念仏踊り」に関して述べている。「念仏踊り」で若者が年長者から鍛錬を受けることで、若くして亡くなった「未完成の霊魂」もあの世で成熟し、共に「魂の完成」ができるとする。「死者を成熟させる」供養は、日本が長く伝えてきた知恵でもあるのだ。
一方、こうした供養は地域社会にとっても意味がある、と川村教授は指摘する。例えば沖縄には、死者の霊魂を鎮めるために徹夜で踊る風習があるが、「死者が媒介となって人々がつながり、社会がまとまっている」と語る。とはいえ、近年は樹木葬や合葬墓、散骨など、供養の形も多様化している。一方で生命は死によって消滅するとみる近代的生命観を持ちながら、他方で死んでいった人への執着を解消できない現代人が「この生きづらさを何とかしようと多様化させてきたのだろう」。そんな困難があるからこそ、各地で伝えられてきた「弔いの文化」を見直す意味があるのかもしれない。

供養について何か頭の中でもやもやするものがあって気持ちとしてすっきりしないものがあります。この年になると行く末の事がやはり気になるものです。

    


Posted by マー君 at 12:02Comments(0)記事
読売新聞編集手帳11/14(土)
文献で認められる日本最初の糖尿病患者は、平安貴族の藤原道長といわれる。長年にわたる美食と運動不足がたたったのだろう◆〈この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば〉。3人の娘がそれぞれ太皇太后・皇太后・中宮の座にのぼり、並ぶ者なき権勢を満月にたとえた人も病気を打ち負かす術策は知らなかったようである◆糖尿病は月といくらか縁があるのかも知れない。東京都庁が月影を思わせる幻想的な青色に照らし出された光景を、ニュースでご覧になった方もあろう。国連の「世界糖尿病デー」(11月14日)に関連したイベントで、青はシンボルの色という◆割と気軽に人の口にのぼる病名だが、じつは世界で6秒に1人の命を奪っている病気である。多くの人が意識して生活習慣を見直すきかっけになればいい◆時々読み返す5行歌がある。〈不満が/沸いてきたとき/徳川家康だって/こんな暮らしはできなかった/と思ってみる〉(ripp1e作)。この世は、家康や道長でさえ味わえなかった美味と娯楽に満ちている。少しでも長く、健康で楽しまなくてはもったいない。




戦後、産めや増やせの国策の中、どこの家庭も兄弟は多いし、小さい頃は食べるものが少なくてひもじい思いをしながら育だちました。大きくなったらおいしいものを腹いっぱい食べる事が夢だったように思います。糖尿病にはなるべくしてなったように思います。でもこれほど厄介な病気はありません一度病気になってしまうと治ることのない病気です。カロリーを気にしながらの食事と、適度な運動を欠かさず行わなくてはなりません。定期診断も欠かせません。でもやっぱりこれ以上悪くはなりたくないと思うのが人としての欲望だと思います。病気になる前にもっと注意しておれば、『後悔先に立たず』です。糖尿病デーの事を少し調べてみました。

11月14日の世界糖尿病デーは、世界に拡がる糖尿病の脅威に対応するために1991年にIDF(国際糖尿病連合)とWHO(世界保健機関)が制定し、2006年12月20日に国連総会において「糖尿病の全世界的脅威を認知する決議(UN Resolution 61/225)」が加盟192カ国の全会一致で採択されると同時に、国連により公式に認定されました。11月14日は、インスリンを発見したカナダのバンティング博士の誕生日であり、糖尿病治療に画期的な発見に敬意を表し、この日を糖尿病デーとして顕彰しています。

  


Posted by マー君 at 14:40Comments(0)記事

2015年11月13日

ちょっと見逃し

義理の母のお見舞いがてら萩にやってまいりました。市内から益田方面に10分程度の距離で、このあたり紅葉は(11/4)まだのようです。
萩には何度も来ますが、やっぱり見逃している観光地や史跡はありますね・・という事で今回『萩反射炉』を訪ねてみました。実際は使われなくて試作品にすぎなかったようですが現在まで残っていたことが貴重な遺産です。
明治日本の産業革命遺産
我が国の近代化は、幕末における西洋技術の導入以来、非西洋地域で初めて、かつ極めて短期間、19世紀後半から20世紀初頭のうちに西洋の技術が日本に移転され飛躍的な発展を遂げたという産業遺産群です岩手県から鹿児島県まで8県11市に広がる23資産で構成されている点において、世界史的にも特筆されるべきものです。その飛躍的な発展の大きな原動力となったのが、アジア大陸に近いという地理的特性により、古くから日本と海外を結ぶ窓口として発展してきた九州・山口です。 「明治日本の産業革命遺産 九州・山口と関連地域」は、造船、製鉄・製鋼、石炭産業の重工業分野に西洋技術を移転する上で他に類を見ないプロセスを証明する資産群であり、非西洋地域において近代化の先駆けをなした経済大国日本の原点を訪ね、語り継いでいく上で、極めて重要な遺産群です。





子供たちが反射炉前で先生から説明を受けています


  


Posted by マー君 at 10:11Comments(0)歴史
8月15日の台風で転がり落ちた我が家の棟瓦、建築業者との係争がやっと形が付き、棟瓦やその他の平瓦を含め修復する事になりました。何しろ10年以上前の台風で傷んだ個所の工事なので、法律上は業者には賠償責任がありません。以前修復時から屋根と壁の塗装工事を同じ業者でしているので、工事内容に不審な部分が多すぎて折衝を重ねた結果、やっと今日(11/11)業者が責任を感じて工事が始まりました。法律相談や建築相談にも足を運んだことも非常に役に立ちました。家の工事で特に目につかないところは業者任せにしないで工事の経過や終了時には業者を含めて確認をしたほうが良いとの事、写真も残しておくことも大事です。世間での旭化成建材の杭打ち事件・データー改ざんの問題もそろそろ下火になりつつあります。世間は地下、我が家は屋根。いろいろ勉強になりました。


  


Posted by マー君 at 08:35Comments(0)出来事

2015年11月10日

散歩ついでにお勉強

八代城北の丸の井戸跡 ここは八代城北の丸といい、江戸時代、城主の隠居所や一族の邸宅があったところです。この井戸跡は、八代城川浄化事業に伴う発掘調査により、地表から約1.1m下で発見されました。江戸時代当時の絵図にもこの井戸が描かれています。形状は直径約1m深さ1.6mの円筒形。井戸の内側は八代城では、初めて確認された桶の様に板を組んだ構造になっていました。なお調査後埋め戻して、歩道の下に現地保存されています。 平成13年3月 八代市教育委員会
赤丸は井戸跡ではありません、井戸跡は松井神社前の歩道にあります

官幣中社(かんぺいちゅうしゃ) かつてあった神社の社格で官幣大社(官幣社のうちで最も格式が高いもの。出雲大社、宇佐神宮など)と官幣小社の中間に位置する神社のこと。

西山宗因は松井・細川よりも前の加藤時代、加藤正方に仕え加藤家改易の後、大阪に出て大坂天満宮連歌所宗匠となり俳諧では談林派をおこし弟子には井原西鶴などを要しました。
前方は八代市役所です

市役所敷地内
熊本藩は宝暦5年(1755)細川重賢が宝暦の改革を行いました。優れた人材育成を行うために藩校時習館を創設しましたが、八代ではその流れを汲み松井豊之が城主の時、宝暦6年(1756)に八代城二の丸「現在の市役所敷地内」に伝習場と教衛場をつくりました。

八代高校も市役所敷地内にあったようです、坂田市長名で石碑が残っています。
八代商業学校の地
熊本短期大学八代教室の跡
大正から昭和にかけての学校の沿革が詳しく記載されています。
お城のまわりは学校だらけゆっくり石碑を見て歩くのもいい勉強になります。




  


Posted by マー君 at 15:18Comments(0)紹介 まち歩き

2015年11月08日

ありがとう。

11月8日(日曜日)の読売新聞 [くらし]面より

あってるでしょ?
         村上ひなた (山口県下関市・清末保育園4歳)

おいけから
かものあかちゃんがいなくなった
わたし おおきなこえで
「すだ! すだ!」っていったの
だって かものあかちゃん
すだっていったんでしょ
おかあさんどうしてわらうの?


・・・・・・・・・◇・・・・・・・・・
ごめんなさい。わたしも笑いました。ひなたさんの言葉がかわいくて。
                             (平田俊子)


何とも言えない かわいらしい ほのぼのとした光景です
朝からありがとう。  


Posted by マー君 at 07:19Comments(0)ありがとう

2015年11月01日

少し賢くなりました



11月1日朝の散歩、コースを変えて図書館から八代宮の周りを歩いてみました。八代宮の入り口で七・五・三の光景が目に入ってきました。随分前に孫や我が子の時にお参りをするために神社に通ったことを思い出しました。意味も知らずに昔からの風習に従っていた様に思います。年寄りの手習いで七・五・三の事を少し調べました。


『七五三の起源・由来』
七五三の起源は室町時代といわれ、江戸時代の武家社会を中心に関東から全国へ広まったとされている。
当時は乳幼児の死亡率が高く、生まれてから3~4年たってから現在の戸籍にあたる人別帳や氏子台帳に登録した。そのため、七五三のお祝いは今まで無事に成長したことへの感謝と幼児から少年・少女期への節目にこれからの将来と長寿を願う意味を持っていたようです。
そのような背景から子供の成長と幸せを願い、神様にお祈りと感謝をするお祝として普及し、明治時代に現在の形になったと言われています

『七五三の意味』
七五三は、男の子は3歳と5歳、女の子は3歳と7歳にそれぞれの意味を持ち、お祝いするしきたりです。
3歳・・・男女とも髪を伸ばし始める ”髪置(かみおき)”
5歳・・・男の衣服である袴を着る  ”袴着(はかまぎ)”
7歳・・・女の子の着物帯の装い始め”帯解(おびとき)”
三歳で言葉を理解するようになり、五歳で知恵づき、七歳で乳歯が生え代わるなど、発育してゆく上で病気にもなりやすく、様々な危険を伴う時期なので、健や かな成長を氏神様にお祈りをする。現代的に言えば、子供を思うご両親の愛情表現の行事という意味合いが強くなっています。

『七五三のお参り』
七五三のはその土地神社へ、つまりお家の近くの神社にいくのがしきたりとして残っています。

『11月15日のエピソード』
そもそもなぜ11月15日にお祝いすることになったのでしょう?
それは体の弱かった、将軍徳川家光の子供、徳松(後の将軍、綱吉)の健康のお祈りをしたのが11月15日。そのお祈りの後、徳松がすくすくと成長したことにあやかって七五三の式日として広まったと伝えられています。
また、旧暦の15日はかつては二十八宿の鬼宿日(鬼が出歩かない日)に当たり、何事をするにも吉であるとされ、旧暦の11月は収穫を終えてその実りを神に感謝する月であり、その月の満月の日である15日に、氏神への収穫の感謝を兼ねたという話や、七五三をすべてたした数が15になるこたからとも言われており、15日にまつわるエピソードは多いようです。しかし、現代では11月15日にこだわらず、ご家族やお子様の都合に合わせてお祝をする事が多くなってきています。
  


Posted by マー君 at 11:49Comments(0)行事