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Posted by おてもやん at
カレンダーなどでよく見たり、人から聞く「さんりんぼう」と言う言葉、実はこの言葉ができたずっと昔は今のように縁起として忌み嫌う言葉ではなく、本当はおめでたい言葉だったそうです。

◎「さんりんぼう」とは
 「さんりんぼう」は「三隣亡」とも書かれていて、この日に家づくりや建築儀礼(上棟祭)を行うと、隣近所に災いを及ぼすとか、工事に携わる大工が怪我をするといって、建築上の凶日とされています。
◎さんりんぼうの歴史
 「さんりんぼう」は江戸時代初期の「かな暦」などの民間暦には掲載されていませんでしたが、江戸中期頃から「大安・仏滅」などの六曜などと同様に記載されて流行し、特に明治になって大流行しました。ただ、当初は「三隣宝」と書かれていて「屋立てよし」「蔵立てよし」と注記されていました。すなわち、現在とは正反対の吉日だったことになります。これがいつの頃からか「屋立てあし」「蔵立てあし」と書かれるようになったと言われています。これは、ある年に暦の編者が「よ」を「あ」と書き間違え、それがそのまま伝わってしまったのではないかと考えられています。そして後に、「三輪“宝”」が凶日では都合が悪いということで、同音の「三隣“亡”」に書き改められたと言われています。
◎さんりんぼうの配列
 〇1月・4月・7月・10月・・・亥の日
 〇2月・5月・8月・11月・・・寅の日
 〇3月・6月・9月・12月・・・午の日

三輪宝は室町時代に考え出されたもので、宇宙創造の霊とする「三輪宝」を祭る日とされ万物が動き出そうとし陰陽の調和によって、天理に服する意味の極めてめでたい日、又は万物の発生から終末までの順序と、万物の根本を尊重するという考えから、祖先を崇拝しその恩恵に感謝する日という説もあります。三隣亡と三輪宝は全く逆の意味をもっています。
三隣亡が悪い日とされるようになったのは明治以降で、比較的最近からと言うことですが、その根拠は今だにはっきりとはしていません。「さんりんぼう(三隣亡)」は迷信の最たるものですが、これを恐れ、信じている人も数多くいる
この日に家作り、建築儀礼を行うと隣近所に災いを及ぼしたり、工事にかかわる大工が大怪我をする等と言い建築上の凶日とされています。明治以前は三輪宝といい「家建ててよし」と暦には書かれ吉日でしたが、後に三隣亡(三件両隣まで滅ぼす日)と書かれたことから、こちらの暦のほうが大流行してしまい現在でもその流れが受け継がれています。
人々は良いことより悪いことを言われたほうが物事を信じやすいと言う深層心理は昔も今も変わりがないのでしょう。
十二宿、二十八宿などの暦にあるように「さんりんぼう」であっても「家建て吉」と書かれたり「差し障りない」とあったりで何の根拠もないことがこれでわかりますが、なおも気になる方はしっかりとお祓いしてもらい気持ちの整理をして建築行事に入るべきでしょう。
◎『三隣亡』の遍歴
三隣亡は江戸時代初期の「かな暦」などの『民間暦』には載っていませんでしたが、江戸中期頃から大安、仏滅の六曜などと同時に記載され流行し、特に、明治になると大流行しました。ただ、当初は、『三輪宝』と書かれていて「家建てよし」とあって吉日でしたが、後に、『三隣亡』と書かれた暦が出回ったことなどから、家作りの大凶日へと転落してしまいました。それでも、三隣亡であっても、その日の六曜、十二直、二十八宿などの、暦注に「家作り吉」とあれ「差し障りは、はない」とされていました。これをみても三隣亡が如何に根拠のない弱いものであるかを証明しています。
上記に示す通り三隣亡が忌み嫌われる日とされたのはまだ最近のことで、しかもその根拠とされている事も曖昧なものです。しかし、近隣との関係もあり気になる方がいることも事実です。  


Posted by マー君 at 10:44Comments(0)
伊東 忠太(いとう ちゅうた) 慶応3年10月26日(1867年11月21日) - 1954年(昭和29年)4月7日) は、明治~昭和期の建築家、建築史家である。山形県米沢市出身。
少年時代を東京、佐倉で過ごす。帝国大学工科大学(現在の東京大学工学部)卒業して同大学大学院に進み、のちに工学博士・東京帝国大学名誉教授となる。西洋建築学を基礎にしながら、日本建築を本格的に見直した第一人者で、法隆寺が日本最古の寺院建築であることを学問的に示し、日本建築史を創始した。また、それまでの「造家」という言葉を「建築」に改めた。「建築進化論」を唱え、それを実践するように独特の様式を持った築地本願寺などの作品を残す。1943年(昭和18年)には建築界ではじめて文化勲章を受章した。
主な作品
橿原神宮(1890年(明治23年)、奈良県橿原市)
平安神宮(1895年(明治28年)、共同設計 木子清敬・佐々木岩次郎、重要文化財)
豊国廟(1898年(明治31年)、京都市)
ロンドン万国博覧会日本館(1908年(明治31年))
旧・二条駅舎[要出典]
宮崎神宮(1907年(明治40年)、宮崎市)
浅野総一郎邸(1909年(明治42年)、現存しない)
二楽荘(1910年(明治43年)、神戸、現存しない)
可睡斎護国塔(1910年(明治43年)、静岡県袋井市、共同佐野利器)
入沢達吉邸(1911年(明治44年)、現存しない)
樺太神社(1912年(明治45年)、現存しない)
真宗信徒生命保険(1912年(明治45年)、京都、現伝道院)
不忍弁天天竜門(1914年(大正3年)、現存しない)
楠妣庵・観音堂・庵・墓(1914年(大正3年))
内務大臣等官邸(1915年(大正3年)、現存しない)
弥彦神社(1916年(大正5年))
日泰寺仏舎利奉安塔(1918年(大正7年))
明治神宮(1920年(大正9年)、佐野利器らと共同。社殿の多くは戦災焼失、戦後再建)
朝鮮神宮(1925年(大正14年)、現存しない)
弘誓院本堂(1927年(昭和2年)、横浜市南区、現存しない)
東京商科大学兼松講堂(1927年(昭和2年)、現・一橋大学兼松講堂、登録文化財)
大倉集古館(1927年(昭和2年)、東京都千代田区、一部現存)
祇園閣(1927年(昭和2年)、元大倉喜八郎別邸の一部、現・大雲院)
旧阪急梅田駅地上駅コンコース壁画(1929年(昭和4年)、現在は取り外されている)
震災祈念堂(1930年(昭和5年)、現・東京都慰霊堂本堂)
遊就館(1930年(昭和5年))
法華経寺聖教殿(1931年(昭和6年))
靖国神社神門(1933年(昭和8年))
靖国神社石鳥居(1934年(昭和9年))
築地本願寺(1934年(昭和9年))
最乗寺真殿・本堂(1934年(昭和9年))
湯島聖堂(1934年(昭和9年))
高麗神社(1935年(昭和10年))
尾崎神社(1935年(昭和10年)、岩手県釜石市)
新勝寺太子堂・開山堂(1936年(昭和11年))
普光寺毘沙門堂(1937年(昭和12年))
總持寺大僧堂(1937年(昭和12年)、横浜市)
明善寺本堂(1937年(昭和12年)、山形市)
俳聖殿(1941年(昭和16年)、伊賀市、重要文化財)
上杉神社社殿(1941年(昭和16年)、米沢

懐良親王菩提所の中宮山悟真寺(かねよししんのうぼだいしょのちゅうぐうさんごしんじ) (八代市指定有形文化財)所在地・妙見町
征西大将軍懐良親王の菩提寺で、曹洞宗永平寺の末寺です。肥後守菊池武朝(ひごのかみきくちたけとも)が征西大将軍良成親王の命を受け創建した寺で、懐良親王の御法名「悟真大禅定門(ごしんだいぜんじょうもん)」から、寺号を悟真寺とし、元中7年(1390)に現在の御墓前に諸堂が落成しました。
小西氏の時代に破却にあい、加藤氏の時代に現在地に再興されたと伝えられています。境内には親王御真筆の御両親の御霊牌(市指定文化財)を安置する御霊殿があります。
悟真寺御霊殿は大正10年(1921)伊東忠太の設計で建てられました。2013・03.28 図書館講座・講師・森山学氏


  


Posted by マー君 at 11:17Comments(0)講座

2013年03月26日

覚馬の人脈・・新撰組

佐久間象山の二男・佐久間恪二郎は、会津藩士・山本覚馬の紹介により、父の仇討ちのため、新選組食客となり、名を三浦啓之助と改めます。

幕末期の洋学者・佐久間象山とその妾・お蝶の子で、本名は佐久間恪二郎(さくま かくじろう)。ちなみに「三浦」は義母・順(勝海舟の妹)の姓である。

元治元年(1864年)に父・象山に随身して入洛するも、同年7月11日に父が暗殺されてしまう。この時、父の門弟・山本覚馬に仇討ちを勧められ、新選組へ入隊する。

入隊後は局長・近藤勇の側近となり、他の平隊士よりも丁重に扱われたが、次第に父譲りの傲慢さが露わになり、芦谷昇たちと共に粗暴を働くようになる(その為、土方歳三沖田総司からは終始目を付けられていた)。

そして、慶応2〜3年頃、芦谷と共に新選組を脱走する(但し、それ以前に土方が松代藩への帰藩を促したことがあるが、三浦自身はこれを拒否している)。慶応4年(1868年)、勝海舟の紹介で慶應義塾に入学。

明治維新後は恪(いそし)と名を改め、「象山の息子」であることを利用して司法省に出仕するも、警察官と喧嘩を起こし免職となる。その後は松山県裁判所判事として松山に赴任したが、明治10年(1877年)2月26日、食中毒で頓死した。

山本覚馬が会津藩士であった事の意外な人のつながりと言えます。

ちなみに佐久間象山は尊皇攘夷派の肥後藩士・河上彦斎(げんさい)らに暗殺されました。


  


Posted by マー君 at 11:04Comments(0)歴史

2013年03月24日

サイバー攻撃

サイバー攻撃【cyberattack】
コンピュータシステムやインターネットなどを利用して、標的のコンピュータやネットワークに不正に侵入してデータの詐取や破壊、改ざんなどを行なったり、標的のシステムを機能不全に陥らせること。特定の組織や集団、個人を狙ったものと、不特定多数を無差別に攻撃するものがある。政治的な示威行為として行われるものは「サイバーテロ」(cyberterrorism)、複数の組織や集団の間で相互に行われるものは「サイバー戦争」(cyberwarfare)と呼ばれることもある。

サイバー攻撃の具体的な手法としては、特定のWebサイトに侵入して内容を改ざんしたり、大量のアクセスを集中させて機能不全に陥らせたり(DoS攻撃/DDoS攻撃)、コンピュータウイルスを添付した電子メールを大量に送信したりといったものが多い。
IT用語辞典による

3/22の新聞にサイバー攻撃 中国経由  韓国発表 「北の関与強く疑う」 中国外務省 関与を否定
この記事によれば北朝鮮にはサイバー戦力要員が偵察総局・統一戦線部・225局などに数千人の規模でいるとの事。

今日のサンデーモーニングで「サイバー攻撃の脅威」の話題の中に、今までの戦争は陸→海→空の空間支配をした国が世界の覇者と成ってきたが、これからはネットワークを支配する者が世界を制する。こんな話がありましたが確かにそうかもしれません。怖い話です。びっくり  


Posted by マー君 at 13:33Comments(0)

2013年03月23日

彼岸明け

今日3/23は彼岸明け 彼岸(ひがん)は、雑節の一つで、春分・秋分を中日とし、前後各3日を合わせた各7日間(1年で計14日間)である。この期間に行う仏事を彼岸会(ひがんえ)と呼ぶ。
最初の日を「彼岸の入り」、最後の日を「彼岸明け」(あるいは地方によっては「はしりくち」)と呼ぶ
俗に、中日に先祖に感謝し、残る6日は、悟りの境地に達するのに必要な6つの徳目「六波羅蜜」を1日に1つずつ修める日とされている。
日本の気候を表す慣用句に「暑さ寒さも彼岸まで」があり、残寒・残暑は彼岸のころまで続き、彼岸をすぎると和らぐという。
  


Posted by マー君 at 11:39Comments(0)

2013年03月20日

春分

3/20[水]は春分。 日本大百科全書(小学館)では 天球上で黄道が赤道と交わる二つの交点のうち、太陽が赤道の南から北に抜ける点が春分点で、太陽がこの点を通過するとき、つまり太陽の黄経が0度に達したときが春分であり、これを含む日が春分の日である。二十四節気の一つで、陰暦2月の中(なか)であり、太陽暦の3月21日ごろにあたる。この日は春の彼岸(ひがん)の中日で、国民の祝日である。この日、太陽は真東に昇って真西に沈み、昼夜の長さはほぼ等しく、この日を境にして北半球では昼がしだいに長くなり、夜は短くなる。
昭和23年に「国民の祝日に関する法律」により、春分の日は「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」と制定されて祝日になりました。
  


Posted by マー君 at 08:07Comments(0)
3/16(土) 熊本県立図書館 松本健一講演会がありました。話の内容は山本覚馬が一生を通じて得た幅広い人脈を通して、覚馬が作った新しい時代を切り開いて行く京都の近代化であり、しいては日本の近代化のお話でした。会津時代の松平容保 西郷頼母「会津藩家老」 川崎尚之助「洋学者・八重の夫」 佐川官兵衛「鬼の官兵衛・警察官」 秋月悌次郎「幕末の会津藩士 明治時代の教育者 第五高等学校(熊本大学の前身校)など各地の学校の教師となる、五高では小泉八雲と同僚であった小泉八雲は、秋月の会津藩士としての熾烈な過去と、常に柔和で生徒の尊敬を集める人格を高く評価し「神が姿を表すとしたらこの老先生のような姿だろう」という意味のことを書き残している」
江戸遊学時の佐久間象山 勝海舟 武田斐三郎「軍事学者」 福沢諭吉 吉田松陰 京都での小松帯刀 西郷隆盛 岩倉具視 木戸孝允 大久保利通 井上毅 伊藤博文 西周・・(啓蒙家『百一新論』覚馬はこの人により西洋事情の見聞を広げる) 広沢安任「会津藩士 民牧の先駆者」 河田佐久馬「京都府大参事」 槇村正直「のち京都府令・知事」 新島襄 新門辰五郎 横井時雄(横井小楠の長男) 徳富蘇峰 徳富蘆花など・・・にっこり  


Posted by マー君 at 12:14Comments(0)講座
福島県の新島八重調査事業で「八重のふるさと福島県」というインターネットのページがあります。
新島八重とは[人生] 八重が生まれた[時代] 八重が学んだ[精神] 八重を育てた[家族] 八重が刻んだ[足跡] 八重が貫いた[誇り]
一つの項目がページにして2~3ページなのでゆっくり読んでもそんなに時間はかかりません。これからの大河ドラマをよりわかり易く見るためにページを覗いて見てください。福島県も頑張っておられます、みんなで応援しましょう。にっこり  


Posted by マー君 at 20:52Comments(0)記事
新島八重年表

弘化2年(1845年)会津藩(現在の会津若松市)で父・山本権八、母・佐久の間に生まれる。                   
嘉永6年(1853年)※黒船来航                                                         慶應元年(1865年)川崎尚之助と結婚。のち戊辰戦争の最中に離縁。                                慶應3年(1867年)※大政奉還                                                         慶應4年(1868年) 戊辰戦争                                                           1月:鳥羽・伏見の戦い。兄・覚馬が薩長連合軍に捕らえられる。
4月:※奥羽越列藩同盟成立
8月:重要拠点である戸ノ口原にて同盟国が敗北。鶴ヶ城での籠城戦が始まる。
9月:城外の一ノ堰(いちのせき)の戦いにて父・権八が戦死。会津藩が降伏。
明治2年 (1869年)覚馬が京都府の顧問に就任。                                             明治4年 (1871年)覚馬を頼って、母・佐久、姪・峰と共に京都へ。                                   明治8年 (1875年) 新島襄と婚約。同年、同志社英学校開校。                                     明治9年 (1876年)洗礼を受け、襄とクリスチャンの結婚式を行う(京都初)。襄32歳、八重30歳。                
明治23年 (1890年)夫・襄が永眠。                                                      明治23年 (1890年)日本赤十字社正社員になる。以後奉仕作業に勤しむ。                             明治28年 (1895年)日清戦争の従軍記章を受け取る。                                          明治38年 (1905年)日露戦争で篤志看護婦として従軍。                                         昭和7年 (1932年)急性胆のう炎のため自宅で永眠。享年86歳。

この年表を頭に入れておけばドラマが良く理解できます。  


Posted by マー君 at 13:25Comments(0)頭の整理

2013年03月16日

彼岸

3月17日は彼岸の入りです。 「彼岸」…辞書で調べてみると①仏語 生死の迷いを河・海にたとえた、その向こう岸。悟りの境地を言う。⇔此岸・しがん(生きているこの世の事) ②彼岸会の略(春・秋の2回、彼岸の7日間に行われる法会。寺院に参詣し、墓参りなどの仏事を行う。) ③雑節の一。春分の日と秋分・・大辞泉 (1)彼岸に達する 向こう岸 向こう側 (2)彼岸の境地 来世 涅槃(ねはん) 極楽 あの世・・類語実用辞典
日本大百科全書では彼岸(仏教、民俗)一般に梵語のパーラムparamの訳。「川の向こう岸」の意味。こちら側の此岸(しがん)は世俗の世界であるのに対し、彼岸は宗教的思想の境地、悟りの世界を表す。
彼岸(暦、気象)春分・秋分の日を挟んで前後3日ずつ、計7日の間を彼岸、初日を彼岸の入り、終日を彼岸の明け、春分・秋分の日を中日と言う。彼岸は日本独特の暦注で、元来、暦家の説にはなかった。
由来 浄土思想で信じられている極楽浄土(阿弥陀如来が治める浄土の一種)は西方の遙か彼方にあると考えられていて春分と秋分は、太陽が真東から昇り、真西に沈むので、西方に沈む太陽を礼拝し、遙か彼方の極楽浄土に思いをはせたのが彼岸の始まりである。もとはシルクロードを経て伝わった、生を終えた後の世界を願う考え方に基づいている。心に極楽浄土を思い描き浄土に生まれ変われることを願ったもの(念仏)と理解されているようだ。もともと天皇の詔(みことのり)として始められた行事であったが、いつのまにか生を終えた後の世界への関心の高さから生を終えていった先祖を供養する行事として人々の間に定着しました。
歴史・・806年(大同元年)宗道天皇(相良親王)のために諸国の国分寺の僧に命じて「7日金剛般若経を読まわしむ」・・日本で初めての彼岸会が行われる 日本後記に記述。
供物 ぼたもち・おはぎ・・彼岸の頃に咲く春の牡丹 秋の萩に由来するもので同じもの。  


Posted by マー君 at 20:36Comments(0)

2013年03月14日

三夜さん

転勤族で熊本県も色々な場所で生活をしましたので、今日3/14民俗学の講習で私達家族がもう35年以上前に1年間ほど住んだ事のある、熊本市南区良町(田迎町良町)にサンヤサン「三夜さん」と言う行事があり今も続いている事を知り驚かされました。行事の説明は次のようなものです。
ー特定の月齢の夜に集まって、忌み籠もり、飲食したりして、月の出を待ち拝む習俗があります。月待ち、月待ち講などと呼ばれています。特に正・5・9月の二十三夜待ちは、全国的にも盛んに行われていました。県内ではサンヤサン、サンヤマチなどといいます。県内では正・5・9月の二十三夜の月に供え物をするところが多く、この月を拝むと長生きするなどといわれています。良町のサンヤサンはちょっと変わっていて、毎年1月23日に行われる子どもの行事です。顔に絵の具や墨などを塗って変装した子どもたちが「ミナイサ、ミナイサ」と言いながら各家を廻って踊ります。家では、お礼に餅やミカンなどを渡します。全戸廻り終わると、貰った餅などでぜんざいを作り、会食を楽しみます。ー白石巌(しらいしいわお)氏、大正10年生まれで平成7年に亡くなられましたが、熊本で祭りや行事、人々の暮らしぶりなどの民俗写真を長年にわたり撮影されました。観光客が訪れる様な有名な祭りから地域の人々がひっそりと行ってきた各地の民俗行事まで丹念に撮影し貴重な民俗調査データを数多く残されています。興味のある方は松橋収蔵庫ホームぺージの出版物→企画展示図録の平成23年度第4回企画展示「熊本の祈りと感謝ー民俗写真家の眼差しー白石巌 民俗写真展」熊本の祈りと感謝図録を覗いて見てください、各地の珍しい写真(祭りや行事)60枚程が見られます。
  


Posted by マー君 at 21:21Comments(0)行事
3/6 図書館での文学講座 俳句と人生⑤<恋 その2> 恋と言う題目につられて聞きに行ったわけではないが中身が俳句によく使われる梅・花・桜にまつわる俳句のお話そして卒業を題材にした俳句のお話が中心で、 恋の話は次のようなもの。 「ベネッセ古語辞典」 「こひ・恋」・・古典語では現代語よりも広い意味で人だけでなく事物に対しても用いる。また、自分のものにならないという思いを表すため、喜びよりも悲しみに結びつけて使われる。
「新明解国語辞典」では[1]特定の異性に深い愛情を抱き、その存在を身近に感じられるときは、他のすべてを犠牲にしても惜しくないほどの満足感・充足感に酔って心が昂揚する一方、破局を恐れての不安と焦燥に駆られる心的状況。[2]その土地に(もう)一度遊んで見たい、その物に(もう)一度接して見たいという強い気持ちに駆られて、抑えることが出来ない心の状態。 二つの辞書からの恋についての説明のみ言葉の意味を知りたい訳ではありません。 何か消化不良。
「恋」と言う言葉ずっと古来から引き継いで来た心の状態を表す言葉ですが、過去→現代→未来 1人称、2人称、3人称 どの状況で考えるか、例えば 「過去」 この意味合いで捉えると確かに懐かしくもあり、悲しく想える一面はあると思います。昔から色々な俳人が恋の句を読んでおられると思います。上記のような題目でお話されるのであれば、句が有ればもっと良かったのにと思います。  


Posted by マー君 at 15:08Comments(0)講座
昨年の衆院選 違憲 格差2.43倍 「是正せず実施」 新聞の見出しです。ここまでならわかります、このあと東京高裁判決
「選挙無効」は棄却 ・・・理由 選挙制度改革関連法の成立で、国会が格差を是正していくことが期待できるとして、「事情を総合的に考慮すると選挙自体は無効としないのが相当だ」と結論づけた。
何かおかしいと思いませんか?憲法って一体何なんだ? 最高裁が平成21年度選挙を「違憲状態」とし、抜本改革を迫ったのは平成23年3月 昨年の選挙は平成24年12月 国会の怠慢は許しがたい。この期間中何をしとった。 司法についても何か訳のわからない理由をつけて「無効」の判断を下さない。無効に成ればいいという話ではないんです、憲法違反のままずるずる引き伸ばしている状態がきにくわない。体罰の問題もしかり、放射能汚染の問題もしかり、いろいろな薬害問題だってしかり、何でも先延ばしにしようとすることが気に食わない。 立法府も、行政府も、司法府も、自分たちの利に成る事であれば何事も好き勝手やりたい放題、その結果問題が起きても誰も責任取りません。今の選挙制度の問題、国民は怒ってます!ムスッ  


Posted by マー君 at 15:29Comments(0)記事
土中で冬籠りをしている虫が春を感じて、草木が芽吹くと同時に地上に這い出してくるという意味・・啓蟄(暦の二十四節気の第3)
立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒・大寒・・・太陽年を黄経に従い24等分して、季節を表す中国古来の言葉で「二十四節気(にじゅうしせっき)」といいます。その3番目が「啓蟄」 この頃初雷が鳴り、これを聞いて虫達が土中から這い出すと考え「虫出しの雷」ともいわれ、「余寒いまだ尽きず」と言った天候の季節に当たり、年によっては南国でも一時、雪になったりもする。しかし春の彼岸も近く、日の長くなり方も急で、光の春の季節は始まっているとみる事が出来る。
柳の若葉が芽吹き、ふきのとうの花がさくころ。  


Posted by マー君 at 12:59Comments(0)

2013年03月04日

仏画へのいざない③

3/3PM2時~3時30分まで八代市立博物館未来の森ミュージアムにて「仏画へのいざない」・・法然・親鸞・日蓮の生涯を絵解きする 講師/石原浩(同 博物館学芸員)の特別講演会がありました。その日の読売の朝刊にも「仏画へのいざない」の記事が掲載され、展示されている仏画の事やこの講演会の事も紹介されていたので、前2回の講演会(内容は異なりますがこれで3回目)よりも随分多くの人が講演を聞きに来られました。今回の内容は仏画の絵解きと言う題目なので祖師絵伝の中身を理解する上で鎌倉新仏教が数多く興った歴史的背景の説明から話を進められました。
日本の仏教は古くは飛鳥時代に法相宗(662)から奈良時代に華厳宗(740)や律宗(759)が興り、平安時代に遣唐使として唐に渡った最澄(天台宗806)や空海(真言宗806)によって2つの宗派が比叡山と高野山に興ります。
1192~1333の鎌倉時代に出てくる法然(浄土宗1175)・栄西(臨済宗1191)・道元(曹洞宗1227)・親鸞(浄土真宗1247)・日蓮(日蓮宗1253)など鎌倉仏教の開祖となる僧は全て比叡山に学んでいます。天台教学と戒律と密教を唐で学び密教・禅・戒律の教えを融合させ日本独自の天台宗は鎌倉仏教の母体となります
平安時代末期は政治の乱れ、旧仏教の腐敗、干ばつによる飢餓など世の中は疲弊しきった状態が続き日本仏教の世界では1052年から「末法の時代」に入ると言う末法思想に困惑する末期的な状態であった。平安時代末期から鎌倉時代初期にかけ人々は大いに恐れおののき、仏教者たちも大きな危機意識を抱いていました。
比叡山に学んだ名僧が次々と新たな宗派を生み出します。
鎌倉仏教の特徴は ①短い文章の中に教えの理念がわかり易くまとめられている事。②仏道の実践する手段を一つに絞り込んだ事。
法然と親鸞は念仏、栄西と道元は座禅、日蓮は法華経の題目で民衆の心をつかみました。仏教が貴族や武士だけではなく一般民衆にも広まって行ったのは正にこの時代です。博物館に展示されている宗祖達の絵巻や掛け軸は、修行中の出来事を中心に仏教説話や生涯を絵画で表現されたものです。にっこり  


Posted by マー君 at 12:53Comments(0)講座

2013年03月03日

古文書読み解き講座

古文書読み解き講座を1年間(月1回月初め土曜日10時~12時)熊本県松橋収蔵庫にて勉強しました。博物館などの展示品に古文書が多く展示してありますが、少しでも読めればいいなと思い講座に通う事にしました。でも古文書読破にはまだまだ勉強不足。1年間で理解できた事は古文書の辞書が少し利用できるように成った事、古文書をひもとく事の奥深さ、まして解読する術を身に付けるには相当の忍耐と努力が必要(自分のレベルでは)・・平仮名、変体仮名、くずし字、旧字体、様々なくずし方(良く出てくるくずし方・知らないと読めないくずし方)、一文字か二文字か、良く出てくる言い回しに慣れる、書き手の癖に慣れる、難解語・・・勉強する事はいっぱいあります。初級コースだったのですが今年も講座が続く様であれば頑張って通ってみよう。まだ死ぬまで時間ありそう。にっこり  


Posted by マー君 at 16:40Comments(0)講座