
11月30日。明日は12月です。
今日は11月の晦日。
晦日とは「みそか」、「つごもり」と読みます。
「つごもり」っていったい何だろう?
暦の月の最後の日をつごもりと言うそうです。
●日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
つきごもり(月隠)の転化した語で、月の光がまったく見えなくなるころをいうが、このころは陰暦では月の終わり、月末にあたるので、一般には月の下旬や最終日をいい、年の最終日をとくに大晦日(おおつごもり)という。この日をみそか(三十日、晦日)、尽日(じんじつ)というのも月の最終日にあたっているからである。日常生活の一つの節目であるため種々行事があり、「晦掃(つごもりばき)」といって毎月この日には家中をきれいに掃除したり、「晦蕎麦(みそかそば)」といって延命を願ってそばを食べた。今日に伝わる「年越そば」の風習は、その集大成であるといってよい。[宇田敏彦]
日本の行事・暦(koyomigyouji.com)から学ぶことは多い。
12月はもう目の前。
12月の和名は誰もがご存知の「師走・しわす」です。
僧がお経をあげるために東西を馳せることから、
「師が馳せる月」→「しはせつき」→「しわす」となったといわれています。
「師」は「僧」を指すのが一般的。
「馳せる」は「走る。急いで行く」という意味です。

また季節の言葉としてこんなものもあります。
●小春日和(こはるびより)
晩秋から初冬の頃の暖かく穏やかな日のこと。
※春の気候を示す言葉として、誤って使うことが多いので気をつけましょう。
●冬日和(ふゆびより)
穏やかに晴れた冬の日のこと。
●山眠る(やまねむる)
冬の山の静まり返った様子。
時候の挨拶
初冬の候 師走の候 寒冷の候 霜寒の候 歳晩の候 短日の候 季冬の候
激寒の候 年末のみぎり 歳末多忙のおりから 寒気いよいよつのり 荒涼たる冬となり
年の瀬もおしせまり 心せわし年の暮れを迎え 年もせまり何かと繁忙のこと 年内余日なく
今年もおしせまって参りましたが
【結び】
ご多忙の折ではございますが、風邪など召されませんようご自愛ください
寒い日が続きますが、お体にお気をつけてお過ごしください
来年も素晴らしい年になりますよう願っています
12月はもう目の前。
12月の和名は誰もがご存知の「師走・しわす」です。
僧がお経をあげるために東西を馳せることから、
「師が馳せる月」→「しはせつき」→「しわす」となったといわれています。
「師」は「僧」を指すのが一般的。
「馳せる」は「走る。急いで行く」という意味です。

また季節の言葉としてこんなものもあります。
●小春日和(こはるびより)
晩秋から初冬の頃の暖かく穏やかな日のこと。
※春の気候を示す言葉として、誤って使うことが多いので気をつけましょう。
●冬日和(ふゆびより)
穏やかに晴れた冬の日のこと。
●山眠る(やまねむる)
冬の山の静まり返った様子。
時候の挨拶
初冬の候 師走の候 寒冷の候 霜寒の候 歳晩の候 短日の候 季冬の候
激寒の候 年末のみぎり 歳末多忙のおりから 寒気いよいよつのり 荒涼たる冬となり
年の瀬もおしせまり 心せわし年の暮れを迎え 年もせまり何かと繁忙のこと 年内余日なく
今年もおしせまって参りましたが
【結び】
ご多忙の折ではございますが、風邪など召されませんようご自愛ください
寒い日が続きますが、お体にお気をつけてお過ごしください
来年も素晴らしい年になりますよう願っています
家の中のカレンダーがいくつかある中、一番役に立っているのはその日の予定が書かれているカレンダーでサークルごとの活動予定や、各医院の受信日や時間、孫の誕生日や祝い事の予定など・・カレンダーに記入することによって何か安心する。でもつい最近の家内の話、出かける予定は分かっていてもカレンダーに時間の記入がなかったので集会に30分も遅れて出かけたことがあります。こちらが声をかけてやらないとそのまま忘れていたかも知れません。年をとればお互いにこんなことがあるのです。二人で丁度一人前。
カレンダーの中に近所の歯医者さんから戴いたもので毎日漢字が書いてあるものがあります。
トイレに掛けてあるのですが毎日のことで漢字を見て読めるかどうか確かめるだけでも勉強になります。
よおくカレンダーを見てみますと今月は「生活の中の漢字いろいろ」というくくりが今月の漢字のテーマになっています。
その日その日の漢字ばかりに注意をとられている時とテーマを理解して漢字を見るのでは読めない漢字の数が減ったような気もします。
今月の漢字は日にち毎に以下のようになっています。
1・雨曝し 2・得体 3・追手 4・乖離 5・仮借 6・合点 7・牽制
8・拘泥 9・枯淡 10・充填 11・出奔 12・所為 13・尖端 14・楕円
15・誰某 16・啖呵 17・緻密 18・帳消し 19・出任せ 20・年端 21・咄嗟
22・他人事 23・故郷 24・睥睨 25・火影 26・発足 27・翻意 28・徒話
29・遣り繰り 30・擁立
さてどれくらい読めますか?
私が読めなかった字や意味が分からなかった字を抜き出してみました。
●追風・おいて・・後ろから吹いてくる風。進む方向に吹く風。順風。おいかぜ。「追風に帆を上げる」
●乖離・かいり・・[名](スル)そむきはなれること。結びつきがはなれること。「人心から乖離した政治」
●仮借・かしゃく・・1 許すこと。見逃すこと。「仮借なく罰する」2 借りること。
●牽制・けんせい・・1 相手の注意を自分の方に引きつけて自由に行動できないようにすること。「隣国を牽制する談話」「一塁走者を牽制する」
●拘泥・こうでい・・[名](スル)こだわること。必要以上に気にすること。「勝ち負けに拘泥する」
●枯淡・こたん・・1 人柄・性質などがあっさりしていて、しつこくないこと。世俗的な名利にとらわれないで、さっぱりしていること。また、そのさま。「枯淡な(の)境地」 2 書画・文章などに俗っぽさがぬけ、あっさりとした中に趣があること。また、そのさま。「枯淡な画風」
●所為・せい・・《「所為」の音「しょい」の音変化か》上の言葉を受け、それが原因・理由であることを表す。「年の所為か疲れやすい」「人の所為にする」「気の所為」
●睥睨・へいげい・・1 にらみつけて勢いを示すこと。「天下を―する」 2 横目でじろりとにらみつけること。
●火影・ほかげ・・1 火の光。灯火。「沖に火影が見える」 2 灯火に照らされてできる影。
●徒話・むだばなし・・役に立たないおしゃべり。雑談。 むだ‐ばなし【無駄話/徒話】


カレンダーの中に近所の歯医者さんから戴いたもので毎日漢字が書いてあるものがあります。
トイレに掛けてあるのですが毎日のことで漢字を見て読めるかどうか確かめるだけでも勉強になります。
よおくカレンダーを見てみますと今月は「生活の中の漢字いろいろ」というくくりが今月の漢字のテーマになっています。
その日その日の漢字ばかりに注意をとられている時とテーマを理解して漢字を見るのでは読めない漢字の数が減ったような気もします。
今月の漢字は日にち毎に以下のようになっています。
1・雨曝し 2・得体 3・追手 4・乖離 5・仮借 6・合点 7・牽制
8・拘泥 9・枯淡 10・充填 11・出奔 12・所為 13・尖端 14・楕円
15・誰某 16・啖呵 17・緻密 18・帳消し 19・出任せ 20・年端 21・咄嗟
22・他人事 23・故郷 24・睥睨 25・火影 26・発足 27・翻意 28・徒話
29・遣り繰り 30・擁立
さてどれくらい読めますか?
私が読めなかった字や意味が分からなかった字を抜き出してみました。
●追風・おいて・・後ろから吹いてくる風。進む方向に吹く風。順風。おいかぜ。「追風に帆を上げる」
●乖離・かいり・・[名](スル)そむきはなれること。結びつきがはなれること。「人心から乖離した政治」
●仮借・かしゃく・・1 許すこと。見逃すこと。「仮借なく罰する」2 借りること。
●牽制・けんせい・・1 相手の注意を自分の方に引きつけて自由に行動できないようにすること。「隣国を牽制する談話」「一塁走者を牽制する」
●拘泥・こうでい・・[名](スル)こだわること。必要以上に気にすること。「勝ち負けに拘泥する」
●枯淡・こたん・・1 人柄・性質などがあっさりしていて、しつこくないこと。世俗的な名利にとらわれないで、さっぱりしていること。また、そのさま。「枯淡な(の)境地」 2 書画・文章などに俗っぽさがぬけ、あっさりとした中に趣があること。また、そのさま。「枯淡な画風」
●所為・せい・・《「所為」の音「しょい」の音変化か》上の言葉を受け、それが原因・理由であることを表す。「年の所為か疲れやすい」「人の所為にする」「気の所為」
●睥睨・へいげい・・1 にらみつけて勢いを示すこと。「天下を―する」 2 横目でじろりとにらみつけること。
●火影・ほかげ・・1 火の光。灯火。「沖に火影が見える」 2 灯火に照らされてできる影。
●徒話・むだばなし・・役に立たないおしゃべり。雑談。 むだ‐ばなし【無駄話/徒話】

今日は持病の糖尿病の定期検診、毎月1回ある。
結果はあまり良くなかった。
4か月~5か月おきごとに数値が悪くなって、食事や運動に注意しながら少しずつ数値が改善する。
手帳を見ると私の場合はその繰り返しのように思う。
糖尿病末梢神経障害(DNP)検査でも右足に軽度の障害が出ている。
検診と検査を繰り返しながらの自己管理との戦いである。
若い頃からの不摂生がたたったのだろう。
非常に憂鬱である。
病院の新聞に気になる記事を見つけた。
熊本日日新聞 2018・11・27 『新生面』
世の中には「すぐわかるもの」と「すぐにはわからないもの」がある。わからないものは後になって、じわじわとわかってくる。子どものころわからなかった映画に今、涙が止まらないように►お茶の世界をこう表現するのは、エッセイストの森下典子さんだ。自分が見ていたのは全体のほんの断片だったー。ある日突然、コップの水があふれだすように世界が広がる瞬間を味わう。と(『日々是好日』新潮文庫)►気候次第で変化する道具や手順、季節ごとに模様替えする茶室・・・。何をしているのかわからないまま繰り返すうちに、季節がにおいや音で訴えてくる。その季節と心を重ねながら、「今を一心に味わうこと」の大切さを発見する►お茶と比べると極めて日常的だが、変化が激しい現代の食卓も、実は「すぐにはわからないもの」かもしれない。そこからは何が見えるだろう。例えば、熊本市にある「子ども食堂」、裏方として地域の食卓を支えているのは、高校生ボランティアだ►野菜を食べやすくするメニューを考えたり、子供たちと触れ合ったりと、人手不足に悩む現場で活躍している。課題研究がきっかけで訪れ、通い続けている生徒もいる。ここでの経験は自身の成長にもつながるだろう►お茶の世界は多面体で、勉強に終わりはないという。「学びとは自分を育てること」と森下さん。現代の食卓もまた、個食や地域の支え合いなどさまざまな社会の変化を映す。気負わず活動しながら、暮らしを支える大事なことを学んでほしい。

森下 典子(もりした のりこ、1956年5月3日 - )は、日本のエッセイスト。日本文藝家協会会員。
神奈川県出身。横浜雙葉学園高等学校、日本女子大学文学部国文学科卒業。
『週刊朝日』のコラム執筆を経て、1987年その体験を記した『典奴(のりやっこ)どすえ』を出版。それ以後、ルポ、エッセイなどを執筆している。
著書
『典奴(のりやっこ)どすえ(1987年、角川書店/1990年、角川文庫)
『典奴ペルシャ湾を往く』(1988年、文藝春秋)
『典奴の日本遊覧』(1991年、文藝春秋)
『恋はまだ始まったばかり』(1992年、大和書房)
『典奴のぷるっときた話』(1993年7月、立風書房)
『デジデリオラビリンス―1464・フィレンツェの遺言』(1994年、集英社/『デジデリオ』2000年、集英社文庫)『前世への冒険―ルネッサンスの天才彫刻家を追って』(改題、加筆し再編集したもの)
『日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ-』(2002年、飛鳥新社/2008年、新潮文庫)
『いとしいたべもの』(2006年、世界文化社)のち文春文庫
『ひとり旅の途中』(2007年、幻冬舎)
『いっしょにいるだけで』(2011年、飛鳥新社)『猫といっしょにいるだけで(2014年、新潮文庫)
『こいしいたべもの』(2017年、文春文庫)
Wikipediaより
結果はあまり良くなかった。
4か月~5か月おきごとに数値が悪くなって、食事や運動に注意しながら少しずつ数値が改善する。
手帳を見ると私の場合はその繰り返しのように思う。
糖尿病末梢神経障害(DNP)検査でも右足に軽度の障害が出ている。
検診と検査を繰り返しながらの自己管理との戦いである。
若い頃からの不摂生がたたったのだろう。
非常に憂鬱である。
病院の新聞に気になる記事を見つけた。
熊本日日新聞 2018・11・27 『新生面』
世の中には「すぐわかるもの」と「すぐにはわからないもの」がある。わからないものは後になって、じわじわとわかってくる。子どものころわからなかった映画に今、涙が止まらないように►お茶の世界をこう表現するのは、エッセイストの森下典子さんだ。自分が見ていたのは全体のほんの断片だったー。ある日突然、コップの水があふれだすように世界が広がる瞬間を味わう。と(『日々是好日』新潮文庫)►気候次第で変化する道具や手順、季節ごとに模様替えする茶室・・・。何をしているのかわからないまま繰り返すうちに、季節がにおいや音で訴えてくる。その季節と心を重ねながら、「今を一心に味わうこと」の大切さを発見する►お茶と比べると極めて日常的だが、変化が激しい現代の食卓も、実は「すぐにはわからないもの」かもしれない。そこからは何が見えるだろう。例えば、熊本市にある「子ども食堂」、裏方として地域の食卓を支えているのは、高校生ボランティアだ►野菜を食べやすくするメニューを考えたり、子供たちと触れ合ったりと、人手不足に悩む現場で活躍している。課題研究がきっかけで訪れ、通い続けている生徒もいる。ここでの経験は自身の成長にもつながるだろう►お茶の世界は多面体で、勉強に終わりはないという。「学びとは自分を育てること」と森下さん。現代の食卓もまた、個食や地域の支え合いなどさまざまな社会の変化を映す。気負わず活動しながら、暮らしを支える大事なことを学んでほしい。

森下 典子(もりした のりこ、1956年5月3日 - )は、日本のエッセイスト。日本文藝家協会会員。
神奈川県出身。横浜雙葉学園高等学校、日本女子大学文学部国文学科卒業。
『週刊朝日』のコラム執筆を経て、1987年その体験を記した『典奴(のりやっこ)どすえ』を出版。それ以後、ルポ、エッセイなどを執筆している。
著書
『典奴(のりやっこ)どすえ(1987年、角川書店/1990年、角川文庫)
『典奴ペルシャ湾を往く』(1988年、文藝春秋)
『典奴の日本遊覧』(1991年、文藝春秋)
『恋はまだ始まったばかり』(1992年、大和書房)
『典奴のぷるっときた話』(1993年7月、立風書房)
『デジデリオラビリンス―1464・フィレンツェの遺言』(1994年、集英社/『デジデリオ』2000年、集英社文庫)『前世への冒険―ルネッサンスの天才彫刻家を追って』(改題、加筆し再編集したもの)
『日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ-』(2002年、飛鳥新社/2008年、新潮文庫)
『いとしいたべもの』(2006年、世界文化社)のち文春文庫
『ひとり旅の途中』(2007年、幻冬舎)
『いっしょにいるだけで』(2011年、飛鳥新社)『猫といっしょにいるだけで(2014年、新潮文庫)
『こいしいたべもの』(2017年、文春文庫)
Wikipediaより
今話題の子供の本から動物の生態と最近の世界情勢を鑑みて借金漬けになっていく国々の姿を並べての例えはつい引き込まれてしまいます。
「ざんねんないきもの辞典」は子供に大人気でNHK・Eテレでアニメ放映もされたそうです。
ザリガニは、食べ物で体の色が変わる。アジやサバだけを食べさせていると、次第に青くなる。小学生に人気を博した『ざんねんないきもの辞典』にある◆川や池のザリガニが赤いのは、餌の水草などに含まれるカロテンの働きだ。カロテンが少ないアジなどをやり続けると、赤い色が抜けていくのだそうだ。そんな生物の不思議を思い起こしたのは、南太平洋の島国への援助構成である◆アジア太平洋経済協力会議(APEC)の議長国を務めたパプアニューギニアで、中国はここぞとばかりに国際会議場や空港滑走路などを整備した。巨大経済圏構想「一帯一路」の一環だ。思い通りの色に染めるため、巨額の資金を投じているかのようだ◆これに負けじと、米国もインド太平洋地域に600億㌦の支援を打ち出し、中国の融資姿勢を「借金漬け外交」と批判した。米中対立のはざまに立たされ、小さな議長国は案の定、首脳宣言の採択を断念した◆中国資金を受け入れた国の財政が悪化する「債務のわな」という言葉がある。ちなみにザリガニの場合は変色を強いると、健康を損ない成長に難が生じるのだとか。

高橋書店出版
原作:「ざんねんないきもの事典」シリーズ
「どうしてそうなった!?」と思わずツッコミたくなる、一生懸命だけどどこか“ざんねん”な進化を遂げた生き物を紹介した児童書。ざんねんすぎて愛おしい生き物たちを、インパクトのある見出しと、ユーモアあふれるイラストと共に紹介。シリーズ累計発行部数は200万部を突破児童書において異例の大ヒットを記録。先日、発表された「小学生がえらぶ!“こどもの本”総選挙」では、「ざんねんないきもの事典」(第1位)、「続ざんねんないきもの事典」(第4位)がランクイン。5月にはシリーズの3作目となる「続々ざんねんないきもの事典」が発売されるなど、「今、最も話題と人気を集めている児童書」となっている。
「ざんねんないきもの辞典」は子供に大人気でNHK・Eテレでアニメ放映もされたそうです。
ザリガニは、食べ物で体の色が変わる。アジやサバだけを食べさせていると、次第に青くなる。小学生に人気を博した『ざんねんないきもの辞典』にある◆川や池のザリガニが赤いのは、餌の水草などに含まれるカロテンの働きだ。カロテンが少ないアジなどをやり続けると、赤い色が抜けていくのだそうだ。そんな生物の不思議を思い起こしたのは、南太平洋の島国への援助構成である◆アジア太平洋経済協力会議(APEC)の議長国を務めたパプアニューギニアで、中国はここぞとばかりに国際会議場や空港滑走路などを整備した。巨大経済圏構想「一帯一路」の一環だ。思い通りの色に染めるため、巨額の資金を投じているかのようだ◆これに負けじと、米国もインド太平洋地域に600億㌦の支援を打ち出し、中国の融資姿勢を「借金漬け外交」と批判した。米中対立のはざまに立たされ、小さな議長国は案の定、首脳宣言の採択を断念した◆中国資金を受け入れた国の財政が悪化する「債務のわな」という言葉がある。ちなみにザリガニの場合は変色を強いると、健康を損ない成長に難が生じるのだとか。

高橋書店出版
原作:「ざんねんないきもの事典」シリーズ
「どうしてそうなった!?」と思わずツッコミたくなる、一生懸命だけどどこか“ざんねん”な進化を遂げた生き物を紹介した児童書。ざんねんすぎて愛おしい生き物たちを、インパクトのある見出しと、ユーモアあふれるイラストと共に紹介。シリーズ累計発行部数は200万部を突破児童書において異例の大ヒットを記録。先日、発表された「小学生がえらぶ!“こどもの本”総選挙」では、「ざんねんないきもの事典」(第1位)、「続ざんねんないきもの事典」(第4位)がランクイン。5月にはシリーズの3作目となる「続々ざんねんないきもの事典」が発売されるなど、「今、最も話題と人気を集めている児童書」となっている。
マジンガーZやゴルゴ13を生んだ国にあこがれてイバイ・アメストイさん(41)は18年前、母国スペインを後にした。当時は夢にも思わなかったはずである。日本の一大事で大役を担うことになろうとは◆2025年の万博開催地を決める最終のプレゼンで登壇して、大阪の人情を語った。「東京から会社を移転した折に、こんな言葉に助けられました。大丈夫やで、兄ちゃん」◆見知らぬ地で社員3人、金も信用もない。それでも周りの人たちは「大丈夫やで大丈夫やで」と様々、助力してくれたのだと言う。イバイさんにとって「大丈夫やで」は魔法の言葉に思えたらしい◆「お・も・て・な・し」ほど、カッコよくはない。されど、泥臭く、サービス精神のあふれる大阪人の逸話は、きっと各国代表の胸に響いたに違いない。大阪で55年ぶり、2度目の大規模な万博の開催が決まった◆イバイさんの会社は今、120人ほどの社員を抱かえ、その国籍は26カ国にも及ぶそうだ。高度成長期と違って、今時、何故万博なのか判然としないし、心配の種も尽きない。けれど、まずは関西の力を信じてみたい。大丈夫だよね?
読売新聞 2018・11・25 [編集手帳]

大丈夫だよ。大阪なら。
読売新聞 2018・11・25 [編集手帳]

大丈夫だよ。大阪なら。
猛暑に続く気象異変なのか。今年は秋以降の季節の移ろいが緩やかに感じられる。いわゆる暖冬。北海道ではその傾向が顕著なようだ
▼札幌での初雪は4日前の11月20日。昨年より28日遅く、観測史上、1890年と並んで最も遅かった。稚内、旭川、網走などでも雪の便りが大幅に遅れた。九州でも今月の平均気温は平年より高く推移している
▼こちらも異変だが、冷え冷えとした光景である。米国と中国の貿易紛争。自国第一主義のトランプ米大統領の強硬姿勢に対し、中国の習近平国家主席が異を唱えて一歩も譲らない
▼天気図で例えるなら「西高東低」ならぬ「東高西低」の気圧配置か。西の米国がかつての勢いを失う一方で、東の中国が経済・軍事両面で存在感を増している。対立が先鋭化しなければいいが
▼国内でも寒々としたニュースが続く。一連の検査不正で自動車業界が指弾された中で、今度は日産のカルロス・ゴーン会長らが逮捕された。有価証券報告書に5年間で実際より約50億円も少ない報酬額を記載した疑いがある、とされる
▼途方もない額だ。詳細ははっきりしないが、私利私欲が絡んでいるなら同情の余地はなかろう。暖冬といっても、勤労者の懐はぬくもりに乏しい。冬のボーナスも家や車のローンなどで消えていく。暮らしが上向く“異変”があればいいが…。「勤労感謝の日」から続くこの3連休も、ささやかな休息である。
=2018/11/24付 西日本新聞朝刊=
3連休を利用して次男坊が二人の娘を連れて帰って来ました。昨日、八代は妙見祭で町中大賑わい。
旧家では昔からこの祭りには親戚を呼んでご馳走を振る舞う習慣があるらしい。
息子家族は祭りの後に嫁の母方に家族そろって御呼ばれに行ったらしい。
息子たちのささやかな連休がはじまりました。
ご苦労様。
▼札幌での初雪は4日前の11月20日。昨年より28日遅く、観測史上、1890年と並んで最も遅かった。稚内、旭川、網走などでも雪の便りが大幅に遅れた。九州でも今月の平均気温は平年より高く推移している
▼こちらも異変だが、冷え冷えとした光景である。米国と中国の貿易紛争。自国第一主義のトランプ米大統領の強硬姿勢に対し、中国の習近平国家主席が異を唱えて一歩も譲らない
▼天気図で例えるなら「西高東低」ならぬ「東高西低」の気圧配置か。西の米国がかつての勢いを失う一方で、東の中国が経済・軍事両面で存在感を増している。対立が先鋭化しなければいいが
▼国内でも寒々としたニュースが続く。一連の検査不正で自動車業界が指弾された中で、今度は日産のカルロス・ゴーン会長らが逮捕された。有価証券報告書に5年間で実際より約50億円も少ない報酬額を記載した疑いがある、とされる
▼途方もない額だ。詳細ははっきりしないが、私利私欲が絡んでいるなら同情の余地はなかろう。暖冬といっても、勤労者の懐はぬくもりに乏しい。冬のボーナスも家や車のローンなどで消えていく。暮らしが上向く“異変”があればいいが…。「勤労感謝の日」から続くこの3連休も、ささやかな休息である。
=2018/11/24付 西日本新聞朝刊=
旧家では昔からこの祭りには親戚を呼んでご馳走を振る舞う習慣があるらしい。
息子家族は祭りの後に嫁の母方に家族そろって御呼ばれに行ったらしい。
息子たちのささやかな連休がはじまりました。
ご苦労様。

勤労感謝の日(11月23日 国民の祝日)
国民の祝日の一つ。1948年(昭和23年)に公布・施行された「祝日法」で制定。「勤労をたっとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあう」ことを趣旨としている。
農業国家である日本は、古くから神々に五穀の収穫を祝う風習があった。この日は戦前において宮中祭祀の一つ「新嘗祭」(にいなめさい・しんじょうさい)の日であった。新嘗祭とは、天皇が新しく収穫された新穀を食べて、その年の収穫を感謝する儀式である。これが第二次世界大戦後のGHQの占領政策によって天皇行事・国事行為から切り離される形で改められたものが「勤労感謝の日」である。
新嘗祭は1872年(明治4年)までは旧暦11月の2回目の卯の日に行われていた。1873年に太陽暦(グレゴリオ暦)が導入されたが、そのままでは新嘗祭が翌年1月になって都合が悪いということで、新暦11月の2回目の卯の日に行うこととした。それが1873年では11月23日だった。
しかし、翌1874年(明治7年)からは11月23日に固定して行われるようになった。11月23日という日付自体に深い意味はなく、たまたま日本が太陽暦を導入した年(1873年)の11月の2回目の卯の日が11月23日だっただけのことである。
休日としての歴史は1873年(明治6年)公布の太政官布告「年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム」から続いている。一時は5月1日のいわゆる「メーデー」に「勤労感謝の日」を移動させる案が浮上したが、現在は頓挫している。
雑学ネタ帳より
●新嘗祭・にいなめさい(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
しんじょうさい,にいなめのまつりなどともいう。稲の収穫を祝い,翌年の豊穣を祈願する古くからの祭儀。天皇が新穀を天神,地祇にすすめ,その恩恵を謝し,また,みずからも食する。宮中のほか,伊勢神宮や出雲大社でも行う。古くは陰暦 11月の下の卯の日に行われたが,明治以降は 11月 23日に固定した。この日を現在は「勤労感謝の日」として国民の祝日に加えている。なお,天皇の即位後に初めて行う新嘗祭を大嘗祭という。
今日は二十四節気の「小雪」です、そして日付の語呂合わせで「いい夫婦の日」。
日本の行事・暦にはこの節気のことを下記のように説明しています。
「小雪・しょうせつ」
11月23日頃(2018年、2019年は11月22日)。および大雪までの期間。
太陽黄径240度。
立冬から数えて15日目ごろ。
北国から雪の便りが届く頃ですが、まだ本格的な冬の訪れではありません。雪といってもさほど多くないことから、小雪といわれたものだそうです。
陽射しが弱くなり紅葉が散り始めるころで、いちょうや柑橘類は黄色く色づいてきます。
次第に冷え込みが厳しくなってきますので、冬の備えは整えておきましょう。お歳暮の準備をする目安にも。
※「こゆき」ではなく「しょうせつ」と読みます。お間違いなく。
寒くなりましたので我が家では吊るし柿が並びました。
イチョウはまだ紅葉途中。
●気象の「小雪」
気象庁の予報用語における「小雪(こゆき)」は、数時間降り続いても、1時間あたりの降水量が1mmに満たない雪のこと。
※北日本や日本海側の地方で「小雪」の表現が適切でないときは「雪」の表現を用いるそうです。
●過ごし方
気象の「小雪」
気象庁の予報用語における「小雪(こゆき)」は、数時間降り続いても、1時間あたりの降水量が1mmに満たない雪のこと。
※北日本や日本海側の地方で「小雪」の表現が適切でないときは「雪」の表現を用いるそうです。
11月22日・・「いい夫婦の日」は読売「編集手帳」の記事から・・
「兎に角ですね、アラシ隊員」。ウルトラマンの台本に書かれていた。アラシ役の毒蝮三太夫さんは撮影中、読み方が分からないと嘆く同僚の隊員に教えてあげた。「ウサギにツノだあ」と◆2人して〈とにかく〉が読めず、監督に大目玉を食らったらしい。じつは〈兎に角〉は正規の漢字ではない。当て字である。発案者は「三馬・さんま」「八釜ましい・やかましい」「五月蝿い・うるさい」など自在に当て字を駆使した夏目漱石といわれる◆しかられたのは日本文学に屹立(きつりつ)する文人のせいとも言えるが、そんなアラン隊員も今では約50年を経て今ではかなりの文人になられている◆毒蝮さん(82)にはかれこれ10年以上続けることがある。2ヶ月に1回必ず、奥さんにはがきを出すのだ。一つ屋根の下に暮らしながら、〈きのうの台風は大丈夫だったか〉などと書いてポストに投函する。その不思議な郵便物を、奥さんは毎度冷蔵庫に貼りつけるという◆〈書いている間は、その人のことをゆっくり考えるわけよ。わずかな時間だけどな〉(『人生ごっこを楽しみなヨ』角川新書)。毒蝮さんは兎にも角にも、書くのである。きょうはいい夫婦の日。
仲睦まじい老夫婦、ほのぼのとしたその生き方には脱帽です。
そんな生き方を少しでも真似が出来ればと思います。

日本の行事・暦にはこの節気のことを下記のように説明しています。
「小雪・しょうせつ」
11月23日頃(2018年、2019年は11月22日)。および大雪までの期間。
太陽黄径240度。
立冬から数えて15日目ごろ。
北国から雪の便りが届く頃ですが、まだ本格的な冬の訪れではありません。雪といってもさほど多くないことから、小雪といわれたものだそうです。
陽射しが弱くなり紅葉が散り始めるころで、いちょうや柑橘類は黄色く色づいてきます。
次第に冷え込みが厳しくなってきますので、冬の備えは整えておきましょう。お歳暮の準備をする目安にも。
※「こゆき」ではなく「しょうせつ」と読みます。お間違いなく。
●気象の「小雪」
気象庁の予報用語における「小雪(こゆき)」は、数時間降り続いても、1時間あたりの降水量が1mmに満たない雪のこと。
※北日本や日本海側の地方で「小雪」の表現が適切でないときは「雪」の表現を用いるそうです。
●過ごし方
気象の「小雪」
気象庁の予報用語における「小雪(こゆき)」は、数時間降り続いても、1時間あたりの降水量が1mmに満たない雪のこと。
※北日本や日本海側の地方で「小雪」の表現が適切でないときは「雪」の表現を用いるそうです。
11月22日・・「いい夫婦の日」は読売「編集手帳」の記事から・・
「兎に角ですね、アラシ隊員」。ウルトラマンの台本に書かれていた。アラシ役の毒蝮三太夫さんは撮影中、読み方が分からないと嘆く同僚の隊員に教えてあげた。「ウサギにツノだあ」と◆2人して〈とにかく〉が読めず、監督に大目玉を食らったらしい。じつは〈兎に角〉は正規の漢字ではない。当て字である。発案者は「三馬・さんま」「八釜ましい・やかましい」「五月蝿い・うるさい」など自在に当て字を駆使した夏目漱石といわれる◆しかられたのは日本文学に屹立(きつりつ)する文人のせいとも言えるが、そんなアラン隊員も今では約50年を経て今ではかなりの文人になられている◆毒蝮さん(82)にはかれこれ10年以上続けることがある。2ヶ月に1回必ず、奥さんにはがきを出すのだ。一つ屋根の下に暮らしながら、〈きのうの台風は大丈夫だったか〉などと書いてポストに投函する。その不思議な郵便物を、奥さんは毎度冷蔵庫に貼りつけるという◆〈書いている間は、その人のことをゆっくり考えるわけよ。わずかな時間だけどな〉(『人生ごっこを楽しみなヨ』角川新書)。毒蝮さんは兎にも角にも、書くのである。きょうはいい夫婦の日。
仲睦まじい老夫婦、ほのぼのとしたその生き方には脱帽です。
そんな生き方を少しでも真似が出来ればと思います。

今日の読売、文化面に黒塚古墳出土の33面の三角縁神獣鏡の金属組成分析の記事がありました。
この古墳は奈良県天理市柳本町にある全長134㍍の前方後円墳で橿原考古研究所と大和古墳群調査委員会が古墳文化の出現を解明するため調査を実施しました。地震で崩落して盗掘を免れた竪穴式石室から、三角縁神獣鏡33面と大量の鉄製武器などが出土。98年1月の現地説明会には、約3万人が詰めかけたという。三角縁神獣鏡は邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡とも言われており、黒塚古墳の築造年代は4世紀初頭~前半頃と推定。
説明会から20年を経て報告書が出たらしい。三角縁神獣鏡については、3次元計測や蛍光X線による成分分析から、文様が同じ鏡でも金属製分が異なるものがあり、同じ材料で一度に鋳造したわけではなかったことが判明。ほぼすべての鏡の鈕孔(ちゅうこう・ひもを通す穴)が仕上げをしておらず、ひもを通していなかったことなど、謎が多い鏡の製作技法や、研究者の間で議論が分かれる用途の解明につながる成果を盛り込んだ。
また、口縁部の頂上に竪穴式石室を構築するための作業道があり、排水溝を備えていることなど、従来、よくわかっていなかった前期古墳の埋葬施設の造り方も詳述した。・・・
古墳研究の第一人者、白石太一郎・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は、石室や副葬品の詳細な検討を評価しつつ、「黒塚古墳の被葬者は邪馬台国時代に生きた人物。被葬者の性格や邪馬台国と初期大和王権の関係など、最も知りたい部分の考察がないのが課題として残る」と話している。
20年かけての調査の報告書にしては期待外れだったかな。
報告書も税別3万2千円 八木書店刊、一般人には買えないお値段。
地方の図書館でも揃えきれないんじゃないかな。


天理市は、有数の古墳集中地帯であり、古代の歴史を語るには欠くことのできない舞台であります。
古墳をはじめとして、先人たちにより守り伝えられてきた豊富な文化財に恵まれていますが、こうした歴史的遺産を保護し、くらしに生かすまちづくりを目指すとともに、後世に伝えてくいことが私たちの大きな責務であると考えています。
黒塚古墳より出土した三角縁神獣鏡は、きわめて良好な状態で出土し、全国でも過去最多の33枚がその姿を現しました。この発見は、邪馬台国や古代国家成立の過程を解明する超一級の資料といえます。
この古墳は奈良県天理市柳本町にある全長134㍍の前方後円墳で橿原考古研究所と大和古墳群調査委員会が古墳文化の出現を解明するため調査を実施しました。地震で崩落して盗掘を免れた竪穴式石室から、三角縁神獣鏡33面と大量の鉄製武器などが出土。98年1月の現地説明会には、約3万人が詰めかけたという。三角縁神獣鏡は邪馬台国の女王・卑弥呼の鏡とも言われており、黒塚古墳の築造年代は4世紀初頭~前半頃と推定。
説明会から20年を経て報告書が出たらしい。三角縁神獣鏡については、3次元計測や蛍光X線による成分分析から、文様が同じ鏡でも金属製分が異なるものがあり、同じ材料で一度に鋳造したわけではなかったことが判明。ほぼすべての鏡の鈕孔(ちゅうこう・ひもを通す穴)が仕上げをしておらず、ひもを通していなかったことなど、謎が多い鏡の製作技法や、研究者の間で議論が分かれる用途の解明につながる成果を盛り込んだ。
また、口縁部の頂上に竪穴式石室を構築するための作業道があり、排水溝を備えていることなど、従来、よくわかっていなかった前期古墳の埋葬施設の造り方も詳述した。・・・
古墳研究の第一人者、白石太一郎・国立歴史民俗博物館名誉教授(考古学)は、石室や副葬品の詳細な検討を評価しつつ、「黒塚古墳の被葬者は邪馬台国時代に生きた人物。被葬者の性格や邪馬台国と初期大和王権の関係など、最も知りたい部分の考察がないのが課題として残る」と話している。
20年かけての調査の報告書にしては期待外れだったかな。
報告書も税別3万2千円 八木書店刊、一般人には買えないお値段。
地方の図書館でも揃えきれないんじゃないかな。


天理市は、有数の古墳集中地帯であり、古代の歴史を語るには欠くことのできない舞台であります。
古墳をはじめとして、先人たちにより守り伝えられてきた豊富な文化財に恵まれていますが、こうした歴史的遺産を保護し、くらしに生かすまちづくりを目指すとともに、後世に伝えてくいことが私たちの大きな責務であると考えています。
黒塚古墳より出土した三角縁神獣鏡は、きわめて良好な状態で出土し、全国でも過去最多の33枚がその姿を現しました。この発見は、邪馬台国や古代国家成立の過程を解明する超一級の資料といえます。
これは2016年7月の毎日新聞の記事。
天皇陵に対しての当時行政改革担当大臣だった河野太郎が陵墓を預かる宮内庁に向けて陵墓の治定を見直すべきではないかと話されたものです。それに対しての答えは意味不明。
正確な調査もせず「天皇陵」を指定する、宮内庁の奇妙なご対応
●学説と異なる天皇陵「指定再考を」(毎日新聞 7月1日)
河野太郎行政改革担当相は30日、堺市堺区の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を視察した。その際、継体天皇陵を例に、「天皇陵と言われているものに間違いがあってはいけない」と述べ、歴史学や考古学の定説と異なる陵墓については、指定を改める必要があるとの考えを示した。
河野氏は観光資源として価値のある国の施設の開放を進めており、視察はその一環。宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体天皇陵と指定しているが、学説上、継体天皇陵として有力なのは、大阪府高槻市の今城塚古墳とされる。
河野氏は視察後の取材に「天皇陛下が参拝される場所が間違っているというのは、大変失礼なことになる」と述べ、「専門家から見て時代が合わないところは、宮内庁も謙虚に耳を傾けていかなければならない」と指摘。同行した宮内庁陵墓課の担当官は「現在の陵墓の治定(指定)をしっかり守るのが基本。100%の証拠があれば変更するが、学説や時代によって陵墓の治定が変わるのは望ましくない」と反論した。
★治定(じじょう)とは、決定するとか意見が収斂(しゅうれん)されてその内容で落ち着く事を言う言葉です。宮内庁陵墓課による「学説や時代によって陵墓の治定が変わるのは望ましくない」という日本語の使い方もおかしいです。意見が割れているということは、治定していないということなのですから、候補として言うならともかく、XXXX陵と言ってしまうのはおかしいのです。(歴史探究社のコメント)

史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約360メートルをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査 で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわさいしく)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用されたことに由来し、江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。
天皇陵に対しての当時行政改革担当大臣だった河野太郎が陵墓を預かる宮内庁に向けて陵墓の治定を見直すべきではないかと話されたものです。それに対しての答えは意味不明。
正確な調査もせず「天皇陵」を指定する、宮内庁の奇妙なご対応
●学説と異なる天皇陵「指定再考を」(毎日新聞 7月1日)
河野太郎行政改革担当相は30日、堺市堺区の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を視察した。その際、継体天皇陵を例に、「天皇陵と言われているものに間違いがあってはいけない」と述べ、歴史学や考古学の定説と異なる陵墓については、指定を改める必要があるとの考えを示した。
河野氏は観光資源として価値のある国の施設の開放を進めており、視察はその一環。宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体天皇陵と指定しているが、学説上、継体天皇陵として有力なのは、大阪府高槻市の今城塚古墳とされる。
河野氏は視察後の取材に「天皇陛下が参拝される場所が間違っているというのは、大変失礼なことになる」と述べ、「専門家から見て時代が合わないところは、宮内庁も謙虚に耳を傾けていかなければならない」と指摘。同行した宮内庁陵墓課の担当官は「現在の陵墓の治定(指定)をしっかり守るのが基本。100%の証拠があれば変更するが、学説や時代によって陵墓の治定が変わるのは望ましくない」と反論した。
★治定(じじょう)とは、決定するとか意見が収斂(しゅうれん)されてその内容で落ち着く事を言う言葉です。宮内庁陵墓課による「学説や時代によって陵墓の治定が変わるのは望ましくない」という日本語の使い方もおかしいです。意見が割れているということは、治定していないということなのですから、候補として言うならともかく、XXXX陵と言ってしまうのはおかしいのです。(歴史探究社のコメント)

史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約360メートルをはかり、日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。
今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査 で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわさいしく)は、大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。
なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用されたことに由来し、江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。
今日の「編集手帳」から少し横道にそれますが、宮内庁が治定している陵墓についていろいろと問題があるのに、何故、頑なに調査を拒んだり、変更しようとしないのか、このまま宮内庁に陵墓を任せておいていいのか、そんな疑問が膨らんできます。
日本の国の本当の歴史が知りたいと思う人は沢山いるのではないでしょうか。

不思議なことに、日本人は国の始まりにおいて、文字を刻むことに無頓着だった。世界の多くの為政者が墓誌を残し、その事績を後世に知らしめようとしたのとは対照的だ◆大和政権最大の前方後円墳(仁徳天皇陵)でさえ、墓誌は見つかっていない。このため、それが本当に仁徳陵なのか確定できない◆文字こそが歴史を証言することは明白だろう。古代史を語るうえで、「古事記」「日本書紀」の存在は圧倒的である。国立国会図書館が開館70周年を記念して開催している特別展「本の玉手箱」をのぞいても、その思いは強まる。日本国憲法公布の官報からドラマ「太陽にほえろ!」の脚本に至るまで、紙という物に記された文字が、これまでの時代を語っている◆文字情報はネットがあればいいという向きもある。だが現代を数百年後の歴史家が調べた時、今のネット空間はどこまで参照できるだろう。国会図書館はウエブサイトの保存も進めているが、日々大量に生成されるネット言説の多くは残せない◆日本人として自らの歴史をつないでいく、文字を紙などの物として残す意味がそこにある。
読売新聞 2018・11・19 [編集手帳]
墓誌
死者の伝記,功徳を記して墓の中に収めたもの。中国では後漢以後に発達,六朝になると方形の石二つを組み合わせ,一つに墓誌(銘文を伴うことが多く墓誌銘という)を刻し,他に死者の姓氏や地位を刻して蓋とし,柩(ひつぎ)の前に埋めてその標識とした。日本でも中国の風習をうけて奈良時代以降行われた。
以下 Wikipediaより
治定見直しに於ける問題点
現在天皇陵とされる古墳の中には、その天皇の治世と古墳の築造時期が大幅にずれている例が存在する。継体天皇陵として治定されている太田茶臼山古墳はその例で、実際の築造時期は継体天皇の治世より約1世紀前にあたる、と推定されている。また、雄略天皇陵のように、文久年間に別々の円墳と方墳を強引に一つに繋ぎあわせた陵を明治に入り治定した例もある。逆に、天皇陵指定を受けていないが、考古学者によって天皇陵と推定されている古墳も少なくない。これらの古墳は指定を受けていないが故に学術調査が可能で、被葬者の同定が可能となった。
宮内庁は学術的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」とし、治定見直しを拒絶している。近年では、「治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」[13]としている。これに対して井沢元彦は、現代考古学で明らかに別人と判明している墓を天皇陵として祀ることは先祖霊に対する侮辱であると指摘している。
天皇陵指定を受けていないが、天皇陵と推定されている古墳には、主に以下のものが該当する。
・文武天皇陵:中尾山古墳(奈良県明日香村)
・継体天皇陵:今城塚古墳(大阪府高槻市)
・斉明天皇陵:牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)
・推古天皇陵:植山古墳(奈良県橿原市) - ここが初葬地で後に現推古陵へ改葬されたとする説もある
治定見直しに伴う指定の変更
宮内庁は、「皇室の陵墓はあくまでも祭祀の対象であるため、一般の古墳や墓所とは性格が異なる」として、天皇陵を始めとする陵墓の治定見直しならびに指定の変更を拒絶している。この方針は、戦前の旧神祇省・旧宮内省から引き継がれたものである。陵墓及び陵墓参考地の指定変更が行われる場合についても、「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などのやむをえない事情によってのみ行われることを明らかにしている。
陵墓の治定替え又は治定解除は1912年(明治45年)1月が最後となっており、それ以降は治定替え・治定解除は一度も行われていない。陵墓参考地の治定替え・治定解除も1955年(昭和30年)8月以来行われていない。
治定見直しに伴って、治定替えにより天皇陵とされた古墳には、主に以下のものが該当する。
・天武・持統天皇檜隈大内陵:野口王墓古墳(奈良県明日香村) - これに伴い見瀬丸山古墳が天皇陵から陵墓参考地(畝傍陵墓参考地)に変更されている
・文武天皇檜隈安古岡上陵:栗原塚穴古墳(奈良県明日香村) - それまでは野口王墓古墳が檜隈安古岡上陵とされていた。
日本の国の本当の歴史が知りたいと思う人は沢山いるのではないでしょうか。

不思議なことに、日本人は国の始まりにおいて、文字を刻むことに無頓着だった。世界の多くの為政者が墓誌を残し、その事績を後世に知らしめようとしたのとは対照的だ◆大和政権最大の前方後円墳(仁徳天皇陵)でさえ、墓誌は見つかっていない。このため、それが本当に仁徳陵なのか確定できない◆文字こそが歴史を証言することは明白だろう。古代史を語るうえで、「古事記」「日本書紀」の存在は圧倒的である。国立国会図書館が開館70周年を記念して開催している特別展「本の玉手箱」をのぞいても、その思いは強まる。日本国憲法公布の官報からドラマ「太陽にほえろ!」の脚本に至るまで、紙という物に記された文字が、これまでの時代を語っている◆文字情報はネットがあればいいという向きもある。だが現代を数百年後の歴史家が調べた時、今のネット空間はどこまで参照できるだろう。国会図書館はウエブサイトの保存も進めているが、日々大量に生成されるネット言説の多くは残せない◆日本人として自らの歴史をつないでいく、文字を紙などの物として残す意味がそこにある。
読売新聞 2018・11・19 [編集手帳]
墓誌
死者の伝記,功徳を記して墓の中に収めたもの。中国では後漢以後に発達,六朝になると方形の石二つを組み合わせ,一つに墓誌(銘文を伴うことが多く墓誌銘という)を刻し,他に死者の姓氏や地位を刻して蓋とし,柩(ひつぎ)の前に埋めてその標識とした。日本でも中国の風習をうけて奈良時代以降行われた。
以下 Wikipediaより
治定見直しに於ける問題点
現在天皇陵とされる古墳の中には、その天皇の治世と古墳の築造時期が大幅にずれている例が存在する。継体天皇陵として治定されている太田茶臼山古墳はその例で、実際の築造時期は継体天皇の治世より約1世紀前にあたる、と推定されている。また、雄略天皇陵のように、文久年間に別々の円墳と方墳を強引に一つに繋ぎあわせた陵を明治に入り治定した例もある。逆に、天皇陵指定を受けていないが、考古学者によって天皇陵と推定されている古墳も少なくない。これらの古墳は指定を受けていないが故に学術調査が可能で、被葬者の同定が可能となった。
宮内庁は学術的信頼度については「たとえ誤って指定されたとしても、現に祭祀を行なっている以上、そこは天皇陵である」とし、治定見直しを拒絶している。近年では、「治定を覆すに足る陵誌銘等の確実な資料が発見されない限り、現在のものを維持していく所存」[13]としている。これに対して井沢元彦は、現代考古学で明らかに別人と判明している墓を天皇陵として祀ることは先祖霊に対する侮辱であると指摘している。
天皇陵指定を受けていないが、天皇陵と推定されている古墳には、主に以下のものが該当する。
・文武天皇陵:中尾山古墳(奈良県明日香村)
・継体天皇陵:今城塚古墳(大阪府高槻市)
・斉明天皇陵:牽牛子塚古墳(奈良県明日香村)
・推古天皇陵:植山古墳(奈良県橿原市) - ここが初葬地で後に現推古陵へ改葬されたとする説もある
治定見直しに伴う指定の変更
宮内庁は、「皇室の陵墓はあくまでも祭祀の対象であるため、一般の古墳や墓所とは性格が異なる」として、天皇陵を始めとする陵墓の治定見直しならびに指定の変更を拒絶している。この方針は、戦前の旧神祇省・旧宮内省から引き継がれたものである。陵墓及び陵墓参考地の指定変更が行われる場合についても、「被葬者の特定が可能な史料が発見された」「天皇陵ではないことが文献や記録から明らかになった」などのやむをえない事情によってのみ行われることを明らかにしている。
陵墓の治定替え又は治定解除は1912年(明治45年)1月が最後となっており、それ以降は治定替え・治定解除は一度も行われていない。陵墓参考地の治定替え・治定解除も1955年(昭和30年)8月以来行われていない。
治定見直しに伴って、治定替えにより天皇陵とされた古墳には、主に以下のものが該当する。
・天武・持統天皇檜隈大内陵:野口王墓古墳(奈良県明日香村) - これに伴い見瀬丸山古墳が天皇陵から陵墓参考地(畝傍陵墓参考地)に変更されている
・文武天皇檜隈安古岡上陵:栗原塚穴古墳(奈良県明日香村) - それまでは野口王墓古墳が檜隈安古岡上陵とされていた。
今日は読売新聞[編集手帳]から
短い文章の中から結構教えられることがあるので必ず読むことにしています。
読んでいると名前の読みがわからない人の名前が出てくることが結構多いことに我ながら苦笑しながら読むのですが、今日のような「遠藤展子さん」の場合、展子の読みは「のりこ」、「ひろこ」、「のぶこ」、「あつこ」など読み方があって「遠藤展子さん」を知らない人には当てずっぽうで読むしか仕方ありません。文中から藤沢周平の娘ということが分かりその線から調べてみると「のぶこ」にやっと辿り着く有り様。
わずか3文字、できればフリガナをお願いしたいものです。
作家の父が書いた「人に言えない鬱屈(うっくつ)」とは何だったか。遠藤展子さんは遺品の手帳を頼りに考えを巡らせて一冊の本にまとめる。『藤沢周平 残された手帳』(文芸春秋)である◆例えば昭和38年、短編が雑誌に掲載され始めたこの年、長女の誕生と妻の病死が相次ぎやってくる。10月29日の記述。〈夜、濡れて帰る。缶詰、白菜のつけもの。それと卵を買って・・・狂いだすほどの寂しさが腹にこたえる。小説を書かねばならぬ。展子に会いたい〉◆書き連ねた予定やメモの切れ切れがいつしか持ち主の物語を紡ぐ。残り少なくなった手帳の文字に山あり谷ありの一年を思い返す人も多かろう。西日本豪雨の被災地、岡山県倉敷市真備町では「これからの手帳」の配布が始まったという◆被災者が健康状態や受信結果、相談事項など日々の記録を書き込める。豪雨から間もない頃、支援者が同様の帳面を配ったところ、「生活の支えになった」といった声が多数寄せられたそうだ◆カレンダー欄は被災1年となる来年7月まで。覚書の数々が励みに転じる日がきっと来るだろう。あの時私はこんなに頑張ったんだと。

遠藤展子(えんどう のぶこ、1963年 - )は、東京都出身のエッセイスト。父は時代小説で著名な直木賞作家の藤沢周平。 父・藤沢周平の関連エッセイを、多く書いている。
略歴
・1963年、藤沢周平(本名小菅留治)の長女として東京都に生れる。
・1964年、母親が病気で亡くなる(父親は1969年に再婚)。
・東京都立高等学校を経て西武百貨店書籍部に勤務する。
・1988年、遠藤崇寿と結婚して遠藤姓となる。
・2006年9月、『藤沢周平父の周辺』を出版する。
・2007年1月、『父・藤沢周平との暮し』を出版する。
・2009年1月、『わたしの藤沢周平』(宝島社)の監修をする。
※NHKの衛星放送番組『わたしの藤沢周平』を書籍化。
Wikipediaより
豪雨から再建へ「これから手帳」 被災者配布へ高知県立大学院教授神原咲子(41)

倉敷市真備町地区出身で、災害看護や公衆衛生が専門の神原咲子・高知県立大大学院教授(41)が、西日本豪雨被災者に向け、母子手帳をモデルにした生活記録冊子を作った。タイトルは「これから手帳」。自身や家族の医療機関の受診結果、生活上の困り事などをカレンダー形式で書き込める仕様で、9、10日に市内の避難所や仮設住宅で無料配布する。
神原教授は豪雨時、同町市場の実家に帰省中。被災を免れたことからボランティアとして近くの避難所で活動した。その際、看護師や保健師が入れ替わるたびに体調や服用薬を一から聞かれ、戸惑う被災者の姿をみて記録ツールの必要性を感じたという。
住所、氏名、家族構成や避難所での診断結果を記入する一覧とともに書き込みができる7、8月のカレンダーを載せた「いまから手帳」を避難所で配布。「頭の中が整理できた」「9月以降の分も欲しい」と好評だったため続編として「これから手帳」を用意した。
B5判53ページで、構成はおおむね前作を踏襲。豪雨から約1年の来年6月までのカレンダーを掲載し「インフルエンザの予防接種は受けましたか」(11月)、「誰かと今年を振り返り、語り合う時間を持ちましょう」(12月)など、心身の健康を保つための時季に応じた注意点やアドバイスを添えた。資金繰りが行き詰まった際に住宅ローンの減免が受けられる制度などの概要も追加した。
知人の美術大教授や弁護士の協力で編集を進め、2千部を作成。神原教授は自身が運営する情報サイト「まびケア」でも近く冊子のデータを公開する予定で「2年、3年後の人生設計を円滑に進めるため、生活の歩みを丁寧に記録していってほしい」と呼び掛ける。
(2018年11月08日 23時04分 更新) 山陽新聞さんデジより
短い文章の中から結構教えられることがあるので必ず読むことにしています。
読んでいると名前の読みがわからない人の名前が出てくることが結構多いことに我ながら苦笑しながら読むのですが、今日のような「遠藤展子さん」の場合、展子の読みは「のりこ」、「ひろこ」、「のぶこ」、「あつこ」など読み方があって「遠藤展子さん」を知らない人には当てずっぽうで読むしか仕方ありません。文中から藤沢周平の娘ということが分かりその線から調べてみると「のぶこ」にやっと辿り着く有り様。
わずか3文字、できればフリガナをお願いしたいものです。
作家の父が書いた「人に言えない鬱屈(うっくつ)」とは何だったか。遠藤展子さんは遺品の手帳を頼りに考えを巡らせて一冊の本にまとめる。『藤沢周平 残された手帳』(文芸春秋)である◆例えば昭和38年、短編が雑誌に掲載され始めたこの年、長女の誕生と妻の病死が相次ぎやってくる。10月29日の記述。〈夜、濡れて帰る。缶詰、白菜のつけもの。それと卵を買って・・・狂いだすほどの寂しさが腹にこたえる。小説を書かねばならぬ。展子に会いたい〉◆書き連ねた予定やメモの切れ切れがいつしか持ち主の物語を紡ぐ。残り少なくなった手帳の文字に山あり谷ありの一年を思い返す人も多かろう。西日本豪雨の被災地、岡山県倉敷市真備町では「これからの手帳」の配布が始まったという◆被災者が健康状態や受信結果、相談事項など日々の記録を書き込める。豪雨から間もない頃、支援者が同様の帳面を配ったところ、「生活の支えになった」といった声が多数寄せられたそうだ◆カレンダー欄は被災1年となる来年7月まで。覚書の数々が励みに転じる日がきっと来るだろう。あの時私はこんなに頑張ったんだと。

遠藤展子(えんどう のぶこ、1963年 - )は、東京都出身のエッセイスト。父は時代小説で著名な直木賞作家の藤沢周平。 父・藤沢周平の関連エッセイを、多く書いている。
略歴
・1963年、藤沢周平(本名小菅留治)の長女として東京都に生れる。
・1964年、母親が病気で亡くなる(父親は1969年に再婚)。
・東京都立高等学校を経て西武百貨店書籍部に勤務する。
・1988年、遠藤崇寿と結婚して遠藤姓となる。
・2006年9月、『藤沢周平父の周辺』を出版する。
・2007年1月、『父・藤沢周平との暮し』を出版する。
・2009年1月、『わたしの藤沢周平』(宝島社)の監修をする。
※NHKの衛星放送番組『わたしの藤沢周平』を書籍化。
Wikipediaより
豪雨から再建へ「これから手帳」 被災者配布へ高知県立大学院教授神原咲子(41)

倉敷市真備町地区出身で、災害看護や公衆衛生が専門の神原咲子・高知県立大大学院教授(41)が、西日本豪雨被災者に向け、母子手帳をモデルにした生活記録冊子を作った。タイトルは「これから手帳」。自身や家族の医療機関の受診結果、生活上の困り事などをカレンダー形式で書き込める仕様で、9、10日に市内の避難所や仮設住宅で無料配布する。
神原教授は豪雨時、同町市場の実家に帰省中。被災を免れたことからボランティアとして近くの避難所で活動した。その際、看護師や保健師が入れ替わるたびに体調や服用薬を一から聞かれ、戸惑う被災者の姿をみて記録ツールの必要性を感じたという。
住所、氏名、家族構成や避難所での診断結果を記入する一覧とともに書き込みができる7、8月のカレンダーを載せた「いまから手帳」を避難所で配布。「頭の中が整理できた」「9月以降の分も欲しい」と好評だったため続編として「これから手帳」を用意した。
B5判53ページで、構成はおおむね前作を踏襲。豪雨から約1年の来年6月までのカレンダーを掲載し「インフルエンザの予防接種は受けましたか」(11月)、「誰かと今年を振り返り、語り合う時間を持ちましょう」(12月)など、心身の健康を保つための時季に応じた注意点やアドバイスを添えた。資金繰りが行き詰まった際に住宅ローンの減免が受けられる制度などの概要も追加した。
知人の美術大教授や弁護士の協力で編集を進め、2千部を作成。神原教授は自身が運営する情報サイト「まびケア」でも近く冊子のデータを公開する予定で「2年、3年後の人生設計を円滑に進めるため、生活の歩みを丁寧に記録していってほしい」と呼び掛ける。
(2018年11月08日 23時04分 更新) 山陽新聞さんデジより
さわやか大学の秋の旅行が昨日一昨日と我が家では続けさまにありました。
一昨日は10期生の家内が五家荘の紅葉見学に行きました。
昨日は11期生の私が〝唐津の環境芸術の森の紅葉散策の旅〟に参加しました。
家内の方は小春日和で天気は良好、しかし肝心の紅葉が8日頃の強い雨と風のせいでどこに行っても落葉してしまって感動するような景色はなかったようです。
私の方は天気の方が一転して雨模様、気温の方も15度に満たない厳しい寒さです。
しかし紅葉は何とか雨の合間に見ることが出来て楽しい1日でした。
広い九州、行く場所によってはこうも違うのかと家内と話したことです。


高速を小城で降りて食事処(羊羹屋さんが経営)、増田屋に行きました。





多久経由で環境芸術の森に行きますと、まばらながら紅葉が残っていて仲間の笑顔も見ることが出来ました。
ここは地元の個人の持ち物の様です。結構、広い回遊式のお庭になっています。
最後は多久聖廟です。



周りは公園になっているようですが紅葉箇所は所々、この場所は孔子を祀っています。
一昨日は10期生の家内が五家荘の紅葉見学に行きました。
昨日は11期生の私が〝唐津の環境芸術の森の紅葉散策の旅〟に参加しました。
家内の方は小春日和で天気は良好、しかし肝心の紅葉が8日頃の強い雨と風のせいでどこに行っても落葉してしまって感動するような景色はなかったようです。
私の方は天気の方が一転して雨模様、気温の方も15度に満たない厳しい寒さです。
しかし紅葉は何とか雨の合間に見ることが出来て楽しい1日でした。
広い九州、行く場所によってはこうも違うのかと家内と話したことです。
高速を小城で降りて食事処(羊羹屋さんが経営)、増田屋に行きました。
多久経由で環境芸術の森に行きますと、まばらながら紅葉が残っていて仲間の笑顔も見ることが出来ました。
ここは地元の個人の持ち物の様です。結構、広い回遊式のお庭になっています。
最後は多久聖廟です。
周りは公園になっているようですが紅葉箇所は所々、この場所は孔子を祀っています。
今日は七五三です。
来年、七五三を迎える孫がいるのであらためてこの儀式のことを考えてみることにしました。
七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社などで「七五三詣で」を行いご報告、感謝、祈願を行う奉告祭。
●由来
天和元年11月15日(1681年12月24日)に館林城主である徳川徳松(江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まったとされる説が有力である。
11月15日は、子供の成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁による)。現在では全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。
やがてこの儀は京都、大阪でも行われるようになり、だんだんと全国に広まっていった。
●各年齢の意味
現在は「七五三」という名称から、その年齢にやる同じ行事のように捉えられ、そうなりつつあるが、実際には、それぞれの年齢で行う、別々の異なった行事であり、3つの子供の行事を、「七五三」と呼んだため、本来の神事の内容が薄れ、同じ行事のように思われている。そのため、現在でも地方によって年齢や祝う内容が異なる。
●関東地方
発祥とされる関東地方では、以下のように考えられている。
数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置きの儀」とし、主に女児が行う(男児が行う例もある)。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、それを終了する儀。
数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴儀」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。
数え年7歳(満年齢6歳になる年)を「帯解きの儀」とし、女児が行う。女子が幅の広い大人と同じ帯を結び始める儀。
最近では性別問わず三回すべて行う例も散見される。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響もある。
●その他の地方
上方発祥の習俗としては十三詣りがあり、これも徐々に全国に広がりつつある。
変わった所では福岡県で4–5歳で「ひもとき」、7歳で「へこかき」(少年)/「ゆもじかき」(少女)(いずれもふんどしや湯文字といった成人仕様の下着を初めて身につける)を行う地区がある。
3歳=言葉、5歳=知恵、7歳=歯を神から授かることを感謝し、また、3歳、5歳、7歳は子供の厄の一種でもあるという考えが出雲地方にみられる。
以上、Wikipediaより

●「神社と神道」の説明では・・
七五三の祝いを、古くは「髪置き(かみおき)」「袴着(はかまぎ)」「帯解き(おびとき)(紐(ひも)解き)」の祝いといっていました。
髪置きは三歳の男女児の祝いで、もう赤ん坊ではないという意味から、今まで剃っていた髪をこの日から伸ばし始める儀式です。
袴着は五歳の男児の祝いで、初めて袴を着ける儀式、帯解き(紐解き)は七歳の女児の祝いで、着物の付け紐を取り去り帯に替える儀式です。
現在では、その年齢にあたる子どもに晴れ着を着せて、11月15日に神社へ参詣し、子どもたちの成長と健康を感謝すると共に、今後の成長とさらなる健康を祈願する儀礼となりました。 なお、本来は数え年で祝いますが、最近では満年齢で祝う割合が高くなり、また参拝の日取りも11月15日にこだわらず、その前後の都合の良い日に参拝する傾向が強くなってきました。
来年、七五三を迎える孫がいるのであらためてこの儀式のことを考えてみることにしました。
七五三(しちごさん)とは、7歳、5歳、3歳の子どもの成長を祝う日本の年中行事であり、神社などで「七五三詣で」を行いご報告、感謝、祈願を行う奉告祭。
●由来
天和元年11月15日(1681年12月24日)に館林城主である徳川徳松(江戸幕府第5代将軍である徳川綱吉の長男)の健康を祈って始まったとされる説が有力である。
11月15日は、子供の成長を祝って神社・寺などに詣でる年中行事(神社庁による)。現在では全国で盛んに行われているが、元来は関東圏における地方風俗であった。
やがてこの儀は京都、大阪でも行われるようになり、だんだんと全国に広まっていった。
●各年齢の意味
現在は「七五三」という名称から、その年齢にやる同じ行事のように捉えられ、そうなりつつあるが、実際には、それぞれの年齢で行う、別々の異なった行事であり、3つの子供の行事を、「七五三」と呼んだため、本来の神事の内容が薄れ、同じ行事のように思われている。そのため、現在でも地方によって年齢や祝う内容が異なる。
●関東地方
発祥とされる関東地方では、以下のように考えられている。
数え年3歳(満年齢2歳になる年)を「髪置きの儀」とし、主に女児が行う(男児が行う例もある)。江戸時代は、3歳までは髪を剃る習慣があったため、それを終了する儀。
数え年5歳(満年齢4歳になる年)を「袴儀」とし、男児が行う。男子が袴を着用し始める儀。
数え年7歳(満年齢6歳になる年)を「帯解きの儀」とし、女児が行う。女子が幅の広い大人と同じ帯を結び始める儀。
最近では性別問わず三回すべて行う例も散見される。奇数を縁起の良い数と考える中国の思想の影響もある。
●その他の地方
上方発祥の習俗としては十三詣りがあり、これも徐々に全国に広がりつつある。
変わった所では福岡県で4–5歳で「ひもとき」、7歳で「へこかき」(少年)/「ゆもじかき」(少女)(いずれもふんどしや湯文字といった成人仕様の下着を初めて身につける)を行う地区がある。
3歳=言葉、5歳=知恵、7歳=歯を神から授かることを感謝し、また、3歳、5歳、7歳は子供の厄の一種でもあるという考えが出雲地方にみられる。
以上、Wikipediaより

●「神社と神道」の説明では・・
七五三の祝いを、古くは「髪置き(かみおき)」「袴着(はかまぎ)」「帯解き(おびとき)(紐(ひも)解き)」の祝いといっていました。
髪置きは三歳の男女児の祝いで、もう赤ん坊ではないという意味から、今まで剃っていた髪をこの日から伸ばし始める儀式です。
袴着は五歳の男児の祝いで、初めて袴を着ける儀式、帯解き(紐解き)は七歳の女児の祝いで、着物の付け紐を取り去り帯に替える儀式です。
現在では、その年齢にあたる子どもに晴れ着を着せて、11月15日に神社へ参詣し、子どもたちの成長と健康を感謝すると共に、今後の成長とさらなる健康を祈願する儀礼となりました。 なお、本来は数え年で祝いますが、最近では満年齢で祝う割合が高くなり、また参拝の日取りも11月15日にこだわらず、その前後の都合の良い日に参拝する傾向が強くなってきました。
今日は「いい石の日」「いい(11)いし(14」)」(いい石)と読む語呂合わせと、石工職人が尊ぶ聖徳太子の命日であるこの日を「太子講」としていたことから。墓石で先祖を供養する文化、伝統を守ること、石組みで美しく趣のある庭を築くことなど、石を加工、配置する技術の巧みさをアピールする日。石材加工工業のPRとして石についての絵の展覧会やイベントを実施している。記念日は一般社団法人・日本記念日協会により認定・登録された。
石の話のついでに、自分たちの県の石がどういう石か皆さんご存知でしょうか?
日本地質学会が決めたものがあるのですが、
「岩石」、「鉱物」、「化石」の3種類のものがあるそうです
ちなみに熊本県の「県の石」は
①熊本県の岩石・・溶結凝灰岩(主要産地:阿蘇カルデラ周辺)
②熊本県の鉱物・・鱗珪石(トリディマイトTridymite)(主要産地:熊本市西区島崎の石神山)
③熊本県の化石・・白亜紀恐竜化石群(主要産地:天草市、御船町)

溶結凝灰岩は,高温の火砕流が堆積した際に,自分自身の重みと熱で圧縮され含まれる火山灰や軽石などが変形し固結してできた岩石.軽石などが押しつぶされて大小様々なレンズ状の形態を示すのが特徴.阿蘇カルデラから噴出した4回の阿蘇火砕流は溶結することが多く,地元では「灰石」と呼ばれている.阿蘇の溶結凝灰岩は加工しやすいため,通潤橋をはじめとする石橋の石材としてよく利用されている.(写真撮影:星住英夫)

鱗珪石(トリディマイト)は,石英(水晶)と同じ化学式SiO2で表されるが,結晶構造が異なり六角板状の形態を示し,石英より高温で安定な鉱物であり珍しい.一般に微細な結晶が多いなか,石神山では安山岩の空隙に1㎝近い大きな結晶を産出したことで有名で,他にクリストバル石や金雲母・パーガス閃石を伴う.石神山は前期更新世の約100万年前の角閃石両輝石安山岩からなり,採石場があったが現在は熊本市の石神山公園となっている.薄板状透明な1~2㎜程度の結晶(写真提供:山口大学理学部地球科学標本室)

展示してある場所:天草市立御所浦白亜紀資料館,御船町恐竜博物館
熊本県からは,御船町や天草市(御所浦島や天草下島)などから中生代白亜紀の恐竜やアンモナイトなどの化石が発見されている.1979年に御船町から日本初となる肉食恐竜の歯の化石が,1997年には、天草市御所浦町から九州初の恐竜足跡化石が発見されている.御所浦層群(約1億年前),御船層群(約9000万年前),姫浦層群(約8500万年前・約7500万年前)から,獣脚類,鳥脚類,曲竜類,竜脚類といった恐竜化石が知られ,今後も新たな発見が期待できる地域である.恐竜以外の脊椎動物のほか,貝やアンモナイト,植物などの化石も産出する.(写真左:国内最大級の獣脚類の歯化石(天草市立御所浦白亜紀資料館所蔵),右:御船町恐竜博物館提供)
石の話のついでに、自分たちの県の石がどういう石か皆さんご存知でしょうか?
日本地質学会が決めたものがあるのですが、
「岩石」、「鉱物」、「化石」の3種類のものがあるそうです
ちなみに熊本県の「県の石」は
①熊本県の岩石・・溶結凝灰岩(主要産地:阿蘇カルデラ周辺)
②熊本県の鉱物・・鱗珪石(トリディマイトTridymite)(主要産地:熊本市西区島崎の石神山)
③熊本県の化石・・白亜紀恐竜化石群(主要産地:天草市、御船町)

溶結凝灰岩は,高温の火砕流が堆積した際に,自分自身の重みと熱で圧縮され含まれる火山灰や軽石などが変形し固結してできた岩石.軽石などが押しつぶされて大小様々なレンズ状の形態を示すのが特徴.阿蘇カルデラから噴出した4回の阿蘇火砕流は溶結することが多く,地元では「灰石」と呼ばれている.阿蘇の溶結凝灰岩は加工しやすいため,通潤橋をはじめとする石橋の石材としてよく利用されている.(写真撮影:星住英夫)

鱗珪石(トリディマイト)は,石英(水晶)と同じ化学式SiO2で表されるが,結晶構造が異なり六角板状の形態を示し,石英より高温で安定な鉱物であり珍しい.一般に微細な結晶が多いなか,石神山では安山岩の空隙に1㎝近い大きな結晶を産出したことで有名で,他にクリストバル石や金雲母・パーガス閃石を伴う.石神山は前期更新世の約100万年前の角閃石両輝石安山岩からなり,採石場があったが現在は熊本市の石神山公園となっている.薄板状透明な1~2㎜程度の結晶(写真提供:山口大学理学部地球科学標本室)

展示してある場所:天草市立御所浦白亜紀資料館,御船町恐竜博物館
熊本県からは,御船町や天草市(御所浦島や天草下島)などから中生代白亜紀の恐竜やアンモナイトなどの化石が発見されている.1979年に御船町から日本初となる肉食恐竜の歯の化石が,1997年には、天草市御所浦町から九州初の恐竜足跡化石が発見されている.御所浦層群(約1億年前),御船層群(約9000万年前),姫浦層群(約8500万年前・約7500万年前)から,獣脚類,鳥脚類,曲竜類,竜脚類といった恐竜化石が知られ,今後も新たな発見が期待できる地域である.恐竜以外の脊椎動物のほか,貝やアンモナイト,植物などの化石も産出する.(写真左:国内最大級の獣脚類の歯化石(天草市立御所浦白亜紀資料館所蔵),右:御船町恐竜博物館提供)
時代劇の水戸黄門などを見ていて、「あこぎなまねはやめなさい」といったセリフを聞くと、頭の中で勝手に「悪」という漢字をあてていた。悪こぎ、と◆正しくは。阿漕。恥ずかしながら最近まで知らなかった。三重県津市の海岸の一部はいにしえより阿漕ヶ浦との呼び名がある。伊勢神宮に供える魚を守るための禁漁域だったが、欲張りな漁師が密漁を行い捕らえられたとする伝説に由来している◆ただし漁師ばかりを阿漕と責められぬ場合もあろう。日本海に出没する北朝鮮の木造船である。漂着・漂流は今年も相次ぎ、今月上旬までに計89件確認されたという◆騒ぎになった昨年(104件)に迫る勢いで、海上保安庁は多くが日本の排他的経済水域(EEZ)での密漁を繰り返しているとみている。漁師を粗末な船で危険な海に駆り立てているのはむろん、北朝鮮という国にほかならない。経済制裁が長引く中、海産物の不法輸出で外貨を稼ぎ、苦しい財政をしのぐとされる◆今年はすでに、漂着船から計12人の遺体が見つかっている。誤字の方がむしろ、しっくりする。為政者の〝悪こぎ〟の犠牲者だろう。
読売新聞、今日の「編集手帳」、漢字の読みの問題から密漁について話されています。
「あこぎ」とは現在は強欲であくどい様のことを指しますが 繰り返すさま。しつこいさま。の意味もあるそうです。
「阿漕」という漢字についての語源やその由来から地名を指す隠語としての意味もあり、その由来をたどってみると作者未詳の謡曲で室町後期にこの名前のものが出てきます。言葉としてはそうとう古いもので和歌などに使われているうちにいくつかの意味を持つ言葉として使われたようです。
阿漕が浦に引く網
【意味】
阿漕が浦に引く網とは、人知れず行う隠し事も、たびたび行えば広く人に知れてしまうことのたとえ。
【注釈】
「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所。
特別の漁業区域で一般人の漁は許されていなかったが、阿漕の平治という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をしていて、ついには見つかり簀巻きにされたという伝説から。
「あこぎなまねをする」などと用いる、強欲であくどいさまをいう「あこぎ」も、この伝説から出た言葉。
故事ことわざ辞典より

阿漕塚
「しつこく金品をむさぼる」という意味で使われる“阿漕”という言葉であるが、その言葉の由来となったのが阿漕塚のある阿漕ヶ浦の地名から。
読売新聞、今日の「編集手帳」、漢字の読みの問題から密漁について話されています。
「あこぎ」とは現在は強欲であくどい様のことを指しますが 繰り返すさま。しつこいさま。の意味もあるそうです。
「阿漕」という漢字についての語源やその由来から地名を指す隠語としての意味もあり、その由来をたどってみると作者未詳の謡曲で室町後期にこの名前のものが出てきます。言葉としてはそうとう古いもので和歌などに使われているうちにいくつかの意味を持つ言葉として使われたようです。
阿漕が浦に引く網
【意味】
阿漕が浦に引く網とは、人知れず行う隠し事も、たびたび行えば広く人に知れてしまうことのたとえ。
【注釈】
「阿漕が浦」は三重県津市東部の海岸一帯で、昔は伊勢神宮に奉納する魚を取るために網を引いた場所。
特別の漁業区域で一般人の漁は許されていなかったが、阿漕の平治という漁師が病気の母親のために、たびたび密漁をしていて、ついには見つかり簀巻きにされたという伝説から。
「あこぎなまねをする」などと用いる、強欲であくどいさまをいう「あこぎ」も、この伝説から出た言葉。
故事ことわざ辞典より

阿漕塚
「しつこく金品をむさぼる」という意味で使われる“阿漕”という言葉であるが、その言葉の由来となったのが阿漕塚のある阿漕ヶ浦の地名から。
次男の嫁が歯の定期検診のため、お盆以来久しぶりに孫を連れてやって来ました。



少し見ないうちに少しづつ手がかからなくなってきました。
来年は七五三です。
成長とともに楽しみも増えてきます。
ありがとう。


少し見ないうちに少しづつ手がかからなくなってきました。
来年は七五三です。
成長とともに楽しみも増えてきます。
ありがとう。
昨日は八代市立博物館で10月19日~11月25日まで開催している「ザ・家老 松井康之と興長 ~細川家を支え続けた「忠義」~」という本年度秋季特別展示会の第2回目の講演会が有りました。第1回目は10月27日に熊本大学永青文庫研究センター教授の稲葉継陽教授を迎えて「日本史における諫言の機能と役割 松井興長を中心に」という講演をしていただきました。そして今回は当博物館の学芸員、林千寿さんが、「松井康之という生き方、松井興長という生き方」と題してこの展示会のために作られた松井家2代の人生双六や松井家がどこからこの八代にやって来たのか「松井家ゆかりの地」のレシピ、康之と興長の人物相関図や松井康之の遺書、松井興長の諫言集の中から代表的なものを2点そして興長の遺書について双六をもとにして話をされました。細川家が明治を迎えるまで長く生き続けてこられた陰には初代の頃から忠義一筋に主家を支え続けた松井家の奉公があったからこそ。松井文庫に遺る数々の史料を松井康之に関するものと、興長に関するものを博物館の階を分けて展示しています。
人の生き方について考えさせられる展示会です。

右、松井康之像 慶長17年(1612) 左、松井興長像 寛文3年(1663)


松井康之は細川藤孝、細川忠興の親子2代に仕え豊臣秀吉の家臣でもありました。
松井興長は細川忠興、細川忠利、細川光尚、細川綱利の細川家4代に仕えています。

①勝龍寺城(京都府長岡京市東神足)織田信長の上洛後、勝龍寺城は細川藤孝の居城となった。藤孝に従った松井康之は、永禄12年(1569)、勝龍寺城下に50町の領地と屋敷を与えられた。
②久美城(京都府京丹後市久美浜町)天正10年(1582)から慶長5年(1600)にかけて、松井康之が居城した城。康之の主君細川藤孝が天正8年(1580)に織田信長から丹後一国の支配を認められると,康之は丹後国内に知行地を与えられるとともに、丹後久美に新城を築くことを許された。
③木付城(大分県杵築市杵築)慶長6年(1601)から元和元年(1615)にかけて、松井家が居城した城、関ケ原合戦後、細川家が豊前・豊後に国替えになると、松井康之は木付城をあずけられるとともに、その周辺地域に2万5000石あまりの知行地を与えられた。元和元年の一国一城令により廃城。
④小倉城(福岡県北九州市小倉北区)慶長7年(1602)から寛永9年(1632)にかけて、細川藩主が居城した城。一国一城令で木付城が廃城になると、松井興長は小倉城かに移り住んだ。
⑤熊本城(熊本市本丸)寛永9年(1632)、細川家の肥後国替にともない、松井家は熊本城下に移り住んだ。二の丸(現在の二の丸駐車場西側、熊本医療センター付属看護学校)に上屋敷と下屋敷があった。
⑥八代城(熊本県八代市松江城町)肥後熊本城の支城。細川忠利の肥後入国とともに、忠利の父三斎の隠居城となったが、三斎死後の正保3年(1646)1646、松井興長にあずけられた。以後、明治3年(1870)に廃城になるまで、松井家が代々居城した。
人の生き方について考えさせられる展示会です。
右、松井康之像 慶長17年(1612) 左、松井興長像 寛文3年(1663)
松井康之は細川藤孝、細川忠興の親子2代に仕え豊臣秀吉の家臣でもありました。
松井興長は細川忠興、細川忠利、細川光尚、細川綱利の細川家4代に仕えています。
①勝龍寺城(京都府長岡京市東神足)織田信長の上洛後、勝龍寺城は細川藤孝の居城となった。藤孝に従った松井康之は、永禄12年(1569)、勝龍寺城下に50町の領地と屋敷を与えられた。
②久美城(京都府京丹後市久美浜町)天正10年(1582)から慶長5年(1600)にかけて、松井康之が居城した城。康之の主君細川藤孝が天正8年(1580)に織田信長から丹後一国の支配を認められると,康之は丹後国内に知行地を与えられるとともに、丹後久美に新城を築くことを許された。
③木付城(大分県杵築市杵築)慶長6年(1601)から元和元年(1615)にかけて、松井家が居城した城、関ケ原合戦後、細川家が豊前・豊後に国替えになると、松井康之は木付城をあずけられるとともに、その周辺地域に2万5000石あまりの知行地を与えられた。元和元年の一国一城令により廃城。
④小倉城(福岡県北九州市小倉北区)慶長7年(1602)から寛永9年(1632)にかけて、細川藩主が居城した城。一国一城令で木付城が廃城になると、松井興長は小倉城かに移り住んだ。
⑤熊本城(熊本市本丸)寛永9年(1632)、細川家の肥後国替にともない、松井家は熊本城下に移り住んだ。二の丸(現在の二の丸駐車場西側、熊本医療センター付属看護学校)に上屋敷と下屋敷があった。
⑥八代城(熊本県八代市松江城町)肥後熊本城の支城。細川忠利の肥後入国とともに、忠利の父三斎の隠居城となったが、三斎死後の正保3年(1646)1646、松井興長にあずけられた。以後、明治3年(1870)に廃城になるまで、松井家が代々居城した。
内田眞弓さんの講演をさらしなの里歴史資料館の学芸員の方が友の会だよりに紹介しています。
その中から一部を紹介します。
【生きるための知識の表現】
彼らの絵は抽象画であったり、デフォルメされた動物などの表現である。多くが点描調の筆遣いで描かれている。水の在りかや、在りかまでの行き方、集落の様子や大切な先祖からの言い伝えまで、絵で表現して継承している。地球のへそと呼ばれて有名なエアーズロックや洞窟にはロックアートが残されている。虹や蛇や雷男と呼ばれる実在していない生物が描かれている。これらは彼らにとっての精霊たちである。彼らは文字を持たない。生活、生きるための最も重要な知識を、階層的に幾重にも重ねて、洞窟壁画、砂絵、ボディーペインティング、歌、物語、儀式のなかで継承してきた。様々な儀式があり、参加しないと絵を読解することはできない。内田さんはそうした儀式に参加を許された数少ない日本人だが、絵には生きる上で最重要な知識が記号化されて表現されているという。アボリジニにしか発見できない地下の湧水点、大地には生命の創造主が通過したとされるソングラインと呼ばれる場所があり、そこは生命を司る水が湧き出す場所である。彼らはこれを「ドリームタイム」と呼んで伝承しているそうだ。
アボリジニアートとは、生存のための記号化された絵である。これを西洋絵画流に表現するのであれば、芸術が相当するだろう。私たちは、たまたま、芸術という言葉を使って表現しているだけのことであって、彼らは芸術作品を書いているつもりはない。生きる術が絵である。

内田眞弓さん

さらしなの里歴史資料館