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Posted by おてもやん at

2018年11月04日

水俣病の話

水俣病については少しは知っているつもりでいましたが米国人写真家ユージン・スミスさんの話は知りませんでした。
水俣病にかかった当人たちだけでなく水俣病に関わったいろいろな方達の隠れた不幸もたくさんあったんですね。
国策の為に多くの犠牲者が出ました。
あってはならないことです。

1970年代初め、水俣病の患者多発地に30ほど年の離れた夫妻が粗末な一軒家を借りた。米国人写真家ユージン・スミスさんと妻のアイリーン・美緒子さん。2人は地域に溶け込み、3年余りの取材で写真集「水俣」を世に出す
▼有名な1枚が胎児性患者の15歳の少女が母に抱かれて入浴する写真。目を見開き背中を反らせた娘に注ぐ母のまなざしに深い慈愛が宿る。被写体との信頼関係なしでは撮れない情景だろう
▼人気俳優ジョニー・デップさんが新作映画で、そんなスミスさんの役に挑むというので、改めて写真集を開いた。撮影シーンが多岐にわたることに驚く
▼のどかな漁の風景に始まり、息を潜め生きる患者と家族たち。運動会で顔をゆがめ行進する胎児性患者の子ども。チッソ社長の机に座り込む患者。同行取材先の工場でスミスさんも激しい暴行を受けた
▼その一部始終がどこまで映像になるか分からないが、描いてほしい場面がある。夫妻の住まいには水俣病で亡くなった少女の仏壇があった。家主が拝む時は部屋を空ける約束で家を借りたという。ようやく裁判で勝った家主は娘の遺体を掘り返し、火葬する。スミスさんはその光景も撮った。炎に包まれる小さな頭骨の写真。水俣病に翻弄(ほんろう)された人々の「怨(えん)」の念を天に昇華させる力を感じる
▼変幻自在の役作りで観客を驚かせるデップさん。その演技力で真の水俣を世界へ伝えてほしい。
=2018/11/04付 西日本新聞朝刊=





ウィリアム・ユージン・スミス(William Eugene Smith、1918年12月30日 - 1978年10月15日)は、アメリカの写真家。1957年から世界的写真家集団マグナム・フォトの正会員。

経歴
カンザス州ウィチタ生まれ。母方の祖母が、アメリカインディアンのポタワトミ族の血筋もひく。 スミスの父親は小麦商を営んでいたが、大恐慌で破産し、散弾銃で自殺している。スミスはこの影響で早い時期から人の命や医療、ケアに強い関心を持ち続けた。
第二次世界大戦中にサイパン、沖縄、硫黄島などへ戦争写真家として派遣される。1945年5月、沖縄戦で歩兵と同行中、日本軍の砲弾の爆風により全身を負傷し、約2年の療養生活を送り、生涯その後遺症に悩まされることになった。その期間を振り返って、スミスは「私の写真は出来事のルポルタージュではなく、人間の精神と肉体を無惨にも破壊する戦争への告発であって欲しかったのに、その事に失敗してしまった」と述懐している。
戦後、時の大事件から一歩退き、日常にひそむ人間性の追求や人間の生活の表情などに興味の矛先を向け、1947年から1954年まで、『ライフ』で、「フォト・エッセイ」という形でそれに取り組んだ。
1950年にイギリス労働党の党首選挙を撮りに訪英し、クレメント・アトリーに共感を抱いたが、ライフ誌編集部の方針と合わず対立、結局その写真集はイギリスの労働者階級にのみの限定販売となった。1954年には『A Man of Mercy』を巡って再びライフ誌編集部と対立し、以後関係を断ち切ることになった。
1961年、日立のPR写真撮影のために来日。1970年、アイリーン・美緒子・スミスと結婚。ともに、チッソが引き起こした水俣病の取材活動をした。1972年1月、千葉県市原市五井にあるチッソの工場を訪問した際に、交渉に来た患者や新聞記者たち約20名が会社側の雇った暴力団に取り囲まれ、暴行を受ける事件が発生する。スミスもカメラを壊された上、脊椎を折られ片目失明の重傷を負う。この事件でスミスは「患者さんたちの怒りや苦しみ、そして悔しさを自分のものとして感じられるようになった」と自らの苦しみを語った。その後『ライフ』1972年6月2日号に「排水管からたれながされる死」を発表した。家族がチッソで働きながらも助手をしていた森枝卓士も「水俣の人間の側からすると、水俣というのはそのチッソのおかげでみんなが食べていたような町」「僕の父も母もチッソで働いていたし、そのおかげで自分たちが叶わなかった夢だった、東京の大学に僕と弟、妹の3人の子供を送り卒業させた。だから、複雑な感情があったわけですね。」として父親が森枝の行動に怒って寝込んだことや水俣病の取材中に暴行を受けたことを語っている。
1977年12月、脳溢血で倒れる。翌年奇跡的に回復し、セミナーを行うまでになったが、1978年10月15日にアリゾナ州トゥーソンの食料雑貨店へ猫のエサを買いに来ていた際、発作を起こし死去。59歳。
Wikipediaより  


Posted by マー君 at 17:40Comments(0)熊本記事