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Posted by おてもやん at
昨日、八代市保健センターで令和元年度、生活習慣病重症化予防教室がありました。糖尿病主治医の関上泰司先生が「糖尿病、ほうっておいたらどうなるの?」というお題で3時から1時間半講演をされました。私も家内も糖尿病を患っているので揃って聞きに行きました。保健センターの方でも糖尿病が進行して糖尿病性腎症のため人工透析の患者が増え続け、健康保険の医療費を圧迫している現状打破の為に設けられた講座だと説明。この病気は治療をしたからと言って治るということはありません。でもこれ以上悪くしないようにすることができる病気です。
糖尿病になってから今回、関上先生が話されたことは何度となく聞きましたが、その時ばかりで時間がたつとつい忘れて注意すべきことを忘れがちです。そして徐々に病気は悪くなってきます。自覚症状がない病気です。後悔先に立たずです。忘れた頃の刺激のために是非、この生活習慣病重症化予防教室は続けてもらいたいものです。
今日の雑学ネタ帳に「太ると知りながらご飯を食べ過ぎる理由」の話がありました。
昨日の生活習慣病の話によく似たところがありますので紹介します。



人間はご飯を食べ過ぎると太ってしまう。しかし、太ると分かっていても食べるのは止められないものである。
ご飯の米(精白米)はその成分の約70~80%がデンプンである。炊いてある温かいご飯のデンプンは、口の中で唾液に含まれる消化酵素の働きで、甘みのある「糖」に分解される。温かいご飯が甘く感じるのは、この糖によるもので、糖は人間の「エネルギーの源」である。
このエネルギー源の糖をたくさん摂取できるように、人の脳は甘みに対して最も快感を感じるようになったと考えられている。ご飯を食べ過ぎると太ると知りながらも食べてしまうのは、ご飯が「甘み」を感じる食べ物のためである。
舌で感じた甘みの刺激により、脳では「β-エンドルフィン」(beta-endorphin)という神経伝達物質が出る。これが幸福感や陶酔感を引き起こし、「幸せ」を感じさせる。しかし、β-エンドルフィンには一度好きになったものを病みつきにさせる作用がある。
さらに、β-エンドルフィンが出ると、新たに神経伝達物質の「ドーパミン」(dopamine)も分泌される。このドーパミンは意欲を起こすという特徴があり、食欲を増進させてしまう。人間は甘みに病みつきになり、それを食べ過ぎるような仕組みを持っている。
ご飯をつい食べ過ぎてしまうという行動の原点は、人類が甘いものを知ってしまったことである。そして、ご飯が甘いのは、人が米を炊く技術を持ったことにさかのぼり、これは人類が火を扱えるようになったことがその始まりとも言える。
  


Posted by マー君 at 11:28Comments(0)講座
八代市立博物館では10月25日(金)~12月1日(日)まで〝もののふと茶の湯〟という展覧会を開催しています。
昨日、茶の湯に詳しい伊藤嘉章氏(愛知県陶器美術館)を招いて特別講座〝茶の湯のタイムカプセル松井文庫コレクション〟というお話がありました。
この時代に活躍した細川忠興と、その家老松井康之もまた、茶の湯に夢中になりました。忠興・康之は千利休に師事して茶の湯を学び、利休のあと茶の湯をリードした古田織部とも熱い親交を結んでいたことが数々の資料からうかがえます。
展覧会では、八代とも関係の深い二人の武将、細川忠興と松井康之の茶人としての姿をゆかりの名品から伊藤先生が詳しくひもとかれました。
展示品は松井文庫に所蔵している茶器や古文書以外に日本国中に散らばった資料も含めて今回は展示されていますので、古文書を通じて展示品が持ついわれや歴史を知ることができます。
時間をかけてゆっくりと展示品につかってみると面白い世界が見えてくるかもしれません。
観覧料は大人600円、高大生400円、中学生以下は無料、月曜日は休館日となっています。












伊藤嘉章


1957年、岐阜県土岐市に生まれる。名古屋大学大学院文学研究科考古学修士課程修了。中・近世の陶磁史を研究。岐阜市歴史博物館を経て、東京国立博物館、次いで九州国立博物館に勤務。2011年に東京国立博物館に戻りその後九州国立博物館副館長に就任、平成31年4月1日付け愛知県陶磁美術館総長に就任。
  


Posted by マー君 at 11:52Comments(0)講座八代歴史紹介 まち歩き

2019年04月28日

久々の講演会


昨日久し振りに八代市の博物館で講座がありました。
熊本地震などでの建物の痛みもあり年末から補修工事のため閉館していました。
今回は工事も無事完了しましたので4月19日(金)~6月2日(日)まで春季特別展覧会 佐賀県立九州陶磁文化館所蔵名品展の開催に伴う特別講演会が27日(土)1時30分~3時まで佐賀県立九州陶磁文化館館長の鈴田由紀夫先生を招いて『日本遺産・日本陶磁のふるさと肥前』という演題で時期についての話がありました。
話の内容は
①肥前陶磁の楽しみ方 陶磁の美を楽しむ(陶器と陶磁の違い)
②歴史的な背景を楽しむ 何故その時代の人が好んだのか?
③現代へ繋げて楽しむ(引きずっている産地の気質)
④個々の作品を楽しむ(鑑賞のポイント)
4つの楽しみ方に分けて話を進められましたが時代の変遷とともに地域の区画も変わりその地域の行政も変わって来たので江戸時代と現代の区画の違いを地図に表して説明がありました。
今日のお話の細かい部分については博物館の展示場で頂いた『日本磁器のふるさと肥前~百花繚乱のやきもの散歩~』のガイドブックに詳しく書いてありますので、博物館に出かけてみてください。






鈴田由紀夫
佐賀県立九州陶磁文化館館長。
1952年佐賀県生まれ。
77年九州芸術工科大学卒業、79年同大学院修士課程を修了。
同館学芸員を経て2010年から館長。
   


Posted by マー君 at 11:51Comments(0)講座八代

昨日、病院で市民講座がありました。
退院日も決まり、点眼回数も昨日から日に10回になりました。
病室でじっとしているのも退屈なので午後2時からの市民講座に参加しました。
くまもと森都総合病院、麻酔科部長 田口裕之さんが『麻酔科医って何しているの』という題名で話をされました。
これまでに怪我や病気で手術の度に麻酔の経験はありますが麻酔について深く考えたことはありません。
話の内容を一つ一つ取って見ると非常に奥が深いもののように感じました。
話の中で麻酔科医は意識を奪った責任を取るという麻酔行為ついて、患者さんへの向き合い方や心情を聞いた時には、仕事に対する責任感の強さを感じ心を打たれました。
専門的なことはほとんど理解できませんでしたがプロ意識については十分納得しました。
いいお話をありがとう。
これからも頑張って下さい。

話の内容は
●麻酔の歴史と手術の発展
●麻酔科医って?
●全身麻酔と局所麻酔について
●麻酔の流れ
●麻酔科医の仕事のひろがり
 ・集中治療・救急救命
 ・ペインクリニック
 ・緩和ケア
 ・医療安全・医療機器管理・減菌業務

ペイン‐クリニック(pain clinic)〈痛みの診療所〉の意
実際には,単に痛みを抑えるだけでなく,病気に伴った不快な症状を緩和し,患者の日常生活に活気を取り戻してもらうための診断と治療を行う。1962年,東京大学病院に日本ではじめてペインクリニックが新設されたのをきっかけに,それまで個々の診療科で麻酔科医を中心に行われていたものが,独立の科として認識されるようになった。

神経痛・癌(がん)などの痛みや痙攣(けいれん)を緩解させるための治療。局所麻酔法の神経ブロックの技術を応用して行う。   


Posted by マー君 at 07:56Comments(0)講座
前山光則先生の講座、「追悼 石牟礼道子ツアー」第2回、現地で学ぶ文学散歩が3/8(金)にありました。
旅程は石牟礼家→水俣市立水俣病資料館→鶴の屋。
今回のバス旅行で学んだことは石牟礼道子の生きざまと水俣病との関りについてです。
バスの中や現地にて石牟礼道子さんの人柄や生前の思い出などを先生から説明があり、石牟礼家では実妹のタエ子さんからも当時の思い出を話されました。
水俣病資料館では副館長さんが水俣病についての歴史を語られました。
水俣病と対峙した二人の方の生きざまには感動するばかりです。
一人は半世紀にわたり患者に寄り添った医師・原田正純さんそしてもう一人が現地で耳を傾け苦しみを伝えた作家・石牟礼道子さんです。
水俣を訪ねることにより当時の事件のあらましや経済を優先し環境保護を後回しにした政府の在り方にも改めて強い憤りを覚えます。
政治って誰のために有るんだ!歴史を思い浮かべると繰り返し行われる弱者切り捨ての方策。
水俣病に学ぶことはあまりにも多い。

前山光則先生と道子さんの妹タエ子さん

石牟礼ご夫婦を祀るご仏壇

水俣市立水俣病資料館



「もやい」とは、元々、船をつなぐことや、共同で何かを行うという意味です。人と人との関係、自然との関係が一度壊れてしまったこの地域で、水俣病と正面から向き合い対話し協働する「もやい直し」が始まりました。

※人々の叫びや訴えを国がもっと早く受け止めていたら被害はもっと少なかったかも知れません。
同じ歴史を繰り返さないように次の世代の人たちにバトンを渡していきたいものです。  


Posted by マー君 at 11:09Comments(0)講座歴史
3/5(火)八代市図書館にて【学芸員のこだわり八代学】(第5回)がありました。
今回の学芸員・宮原 江梨さんは熊本地震の時に採用されたまだ3年目の学芸員さんです。
「八代の名物は肥後の名物」ー江戸時代の八代の名産品ーというお話をされました。
どんなことを話されるのかな?とこの3年間の研究成果を期待して話を伺いました。
江戸時代の古文書「毛吹草・けふきぐさ」1645年刊行や「肥後地志略・ひごちしりゃく」1709年の地誌、「肥後名物数望附・ひごめいぶつすもうづけ」江戸時代後期に肥後領内各地の特産品を番付けしたものなどから熊本の名物の中に八代の名物が数多くあることを捉えて、過去の博物館が調査研究したものを題材に話をまとめられました。
博物館には今まで研究された膨大な量の史料がたくさんあります。
それらの史料は題材ごとにまとめられて、博物館で配布もされています。
今日の発表者宮原さんもそんな資料の読み漁りから始められて今日の研究発表に結びつけられたものと思います。
話の中で特に力を入れて説明されたものは八代染革(やつしろそめかわ)・御免革(ごめんかわ)というものです。
●カモシカ皮を加工・染色した皮革製品で、武具の装飾等に用いる
●「御免革」の名は懐良親王から製造・販売が許可されたことによる、という伝説が残る。
●江戸時代には宮ノ町の牧家が製造。延宝3年(1675)より藩の御用御免革師
八代染革の話は初めて聞きました。
家に帰って調べてみますとこれらの話もすでに先輩たちが調べ上げられたことが分かりました。
13年前のちょうど今頃、八代博物館は「八代の工芸品」江戸時代のたくみのわざ・という題名で2006年冬季展覧会を開いています。
その展覧会には関連講演会が開かれています。
福原 透さんが「八代染韋ついて」、山﨑 摂さんが「肥後金工と八代」、鳥津亮二さんが「河俣塗と冨岡仲平」を取り上げ、それぞれ研究された内容をもとに講演をされています。
13年前と言えば宮原さんは多分学生だったと思われますし、今日の聴講されたお客さん達もその時話を聞かれた方はほとんどいなかったのではないでしょうか。
こうして過去に研究されたものであっても繰り返し市民に発表して貰えることは私たちにとって知識を広めるためには有難いことです。
その中で、また新たな研究成果を学芸員の方には見つけていただきたいと思います。
今日の話は興味深く聞くことができました。
ありがとう。





懐良親王が天平年間に八代を訪れる⇒正平の間違い(天平は奈良時代、懐良親王は南北朝時代の人で時代は正平)

※八代染革で検索すると八代市立博物館のページに展示解説シートがあります。




  


Posted by マー君 at 09:30Comments(0)講座八代歴史

石牟礼道子 誕生・1927年3月11日 死没・2018年2月10日(90歳没)
職業・小説家、詩人
熊本県天草郡河浦町(現・天草市)出身。水俣実務学校(現 熊本県立水俣高等学校)卒業後、代用教員、主婦を経て1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始。1956年短歌研究五十首詠(後の短歌研究新人賞)に入選。
代表作『苦海浄土 わが水俣病』は、文明の病としての水俣病を鎮魂の文学として描き出した作品として絶賛された。同作で第1回大宅壮一ノンフィクション賞を与えられたが、受賞を辞退。

2/26(火)八代市立図書館で前山光則先生の文学講座がありました。
この講座は2/26・第1回「石牟礼道子の世界」、3/8・第2回「現地で学ぶ文学散歩」・・全2回で構成される日帰り旅行も組み込まれた毎年行われる図書館が企画するものです。
日帰り旅行の前に、前山先生が選らばれた作家の作品の紹介と簡単な説明があり、その後作家や作品ゆかりの地を訪ね歩くという企画になっています。
今回は五感で楽しむ、追悼・石牟礼道子ツアーです。
石牟礼道子さんは2月10日亡くなられました。
享年90歳。
この方のことは今まで何も知りませんでいた。
生まれが天草で育ちが水俣であること、パーキンソン病を患われていたことについてはこの方自身が水俣病の患者だと思っていました。
1970年代に熊本にやって来ましたが、熊本は水俣病にハンセン病、その頃はひどい所にやって来たなという想いが残っています。
今回、先生から戴いた資料は抜粋したものですが・・
『苦海浄土』第1部・第3章「ゆき女きき書き」(抜粋)、ゆのつるの記、石牟礼道子・短歌抄、短歌集『海と空のあいだに』のあとがき「あらあら覚え」から、石牟礼道子・俳句抄、石牟礼道子・略年譜、『葭の渚』抄録
何時ものように略年譜を上手く利用しながら石牟礼道子が水俣実務学校卒業後、代用教員、主婦を経て、1958年谷川雁の「サークル村」に参加、詩歌を中心に文学活動を開始されていった経緯を説明されて、作品『苦海浄土』の話では今回、川本(?)さんが見事な朗読を披露され、流れるような朗読には聞き入るばかりでした。
今回の講座の様子は昨日、NHK(クマロク)の番組でも取り上げられました。

苦海浄土の意味を調べてみました。
筑豊の作家に「上野英進」という方が居られてこの方の勧めで『苦海浄土』という題名が名付けられたそうです。
その意味は仏教用語の「苦界」という言葉から、この世が苦しいものであることを海にたとえた語で「苦海」とも書き、水俣から流れる八代海・不知火海が、苦界=苦海だと捉えてと言う様な意味と、公害があるこの場所を浄土(清浄な世界)のようになればいいなという願いが込められたものだそうです。
  


Posted by マー君 at 11:22Comments(0)講座八代
昨日(2/19)は、図書館にて第4回目の「学芸員のこだわり八代学」松井文庫の美術工芸品が教えてくれることというテーマで学芸員の山崎 摂さんが講演をされました。
はじめに松井文庫についての説明があり松井家伝来の古文書や美術工芸品を保存し、後世に伝え残すとともに、調査研究公開を進め、文化の発展に寄与するため松井文庫は昭和59年(1984)2月21日、財団法人松井文庫として設立されました。翌60年に登録博物館に認可された松井文庫の経緯を詳しく話され、市立博物館では毎年、松井文庫所蔵品を借りて年間5~6期常設展示をしているとの話などから学芸員としての自分たちの仕事の内容を事細かに説明されました。
その中には今迄に京都、相国寺所有の作品展示会が2回ほどありましたが、そのきっかけとなったものが松井文庫には「この様な物があるよ」といった熊本県立美術館による調査事業(昭和59年・1984~平成6年・1994)や八代市立博物館未来の森ミュージアムによる調査事業(平成7年・1995~平成19年・2007)の膨大な調査報告書が全国の博物館などに配られ、各地から見学や展示品の貸出依頼などがあり、それが友好関係としてつながった結果なんだそうです。
博物館におられる学芸員の方達の緻密な研究成果の結果が地元では見ることができないような作品を集めた展覧会を開く原動力にもなっていることを知りました。









追記
今回戴いた資料の中に「絵画・書跡調査(約500点)」、『松井文庫名品展(Ⅰ)松井文庫の絵画と書蹟』昭和62年4月(1987)
上記二つの書跡と書蹟、?・・書籍の変換間違いではないかと先生に尋ねたところ、掛け軸などはこの様な字を書きますよとのご返答。
しょ‐せき【書跡/書×蹟】の意味  書いた文字の跡。筆跡。
辞書にはこうありました。
知らないことの多いこと、勉強不足でこの年になってからでも恥をかきます。  


Posted by マー君 at 09:43Comments(0)講座八代



昨日(2/5)は図書館で博物館の学芸員による「学芸員のこだわり八代学」の講座がありました。
現在、博物館が改修工事中のため道路を隔てた図書館で行われました。
この講座は平成31年1月~3月、各月2回の全6回の講座になっていますがそれぞれの講座は6人の学芸員が、調査研究成果を分かりやすく紹介するもので八代の歴史と文化を見つめ直したり、郷土のことを新たに勉強するいい機会にもなります。
今回は第3回目の講座で早瀬輝美さんが妙見祭のメインでもある「神幸行列を考える~いつ、どのように始まったのか?」という題材で、各地の神社で行われている神幸行列がいつ頃どの様にして行われるようになったのか、人々が神をどうとらえてきたのか、早瀬さんの話はそんなところから始まりました。
講座の内容はスライドを使って説明されました。
頂いた資料にもスライドと同じものが使ってあるので、聞き逃した箇所などについてもレシピを見る事によって理解することも可能です。
レシピはA-4用紙を使ってあるので細かい文字が年寄りにも読みやすい資料になっています。
話のストーリーを順に追っていくと
①表された神の姿
②昔の人は神をどう考えていたか?
③神との関わり方
④神社以前~祭りの度に神を迎えた~
⑤祭りが行われた跡(祭祀遺跡)
⑤神も人間と同じように
⑥神を迎える神事
⑦神を迎える神事~上賀茂神社と下賀茂神社~
⑧神を迎える神事 上賀茂神社の御阿礼祭(みあれまつり)
⑨神は夜に出現した!
⑩髪を迎える神事~下賀茂神社の御蔭祭(みかげまつり)~
⑪葵祭の行事
⑫祭りの場所は、臨時の祭場から常設の社殿「神社」へ
⑬春日大社は神社の古い形
⑭神輿の原型 神は輿に乗って・・・~神は人と同様に道を通って移動する~
⑮神が「出張中」、地元は留守状態
⑯疫神や鬼魅(きみ・鬼とばけもの)も道を通ってやってくる
⑰『本朝世紀』(平安時代の歴史書)に記された神が移動していく様子
⑱バリエーションが増えていく神輿
⑲祇園社の御旅所 祇園社の神輿は3基(大宮・八王子・少将井)  
⑳「年中行事絵巻」に描かれた御旅所祭礼 --祇園会--
㉑「年中行事絵巻」に描かれた稲荷祭
㉒「年中行事絵巻」に描かれた稲荷祭 行列は鴨川を渡る  
㉓「年中行事絵巻」に描かれた稲荷祭 神輿を先導する御幣(ごへい)
㉔「御幣」が出てきたところで・・・神への捧げ物=幣帛(へいは)※神への捧げものの総称
㉕幣帛は、幣(みてぐら)・幣物(へいもつ)とも呼ばれる
㉖さまざまな幣帛(へいはく)--神への捧げ物--
㉗話を戻して・・・祇園会と稲荷祭の共通点
㉘これまでを踏まえて妙見宮を見てみると 上宮 中宮 下宮
㉙ただの仮説ですが・・・
㉚妙見宮祭礼絵巻に描かれた妙見宮の出し物 榊
㉛バリエーションが増えていく神輿 「年中行事絵巻」に描かれた神輿
㉜いよいよ神幸行列の始まりに近づいてきました 神は神輿で洛外から洛中へ
㉝神は神輿で洛外から洛中へ 
㉞御霊会(ごりょうえ)の開催
㉟祇園会・・祇園社の神輿は鴨川を渡ってやってくる
㊱神輿は洛中へ--神輿が滞在するための「御旅所」の設置-- 
㊲妙見宮祭礼絵巻に描かれた妙見宮の出し物 神主 神子・巫女 社僧法印 火王・水王・風王
㊳王の舞~神輿を先導する鼻高面の仲間~
㊴九州では、赤と青(緑)
㊵熊本では赤と青(緑)と白?
㊶妙見宮祭礼絵巻に描かれた妙見宮の出し物 神馬~神への捧げもの~
㊷絵巻にはない四神旗(ししんき)~四神は東西南北の守護神~
㊸絵巻にはない阿須波神(あすはのかみ)
㊹妙見宮祭礼絵巻に描かれた妙見宮の出し物 鉾・翳(さしば) 翳 神輿(みこし) 流鏑馬(やぶさめ)
このようにこの話は長いものになります。
その中からさわりの部分、神幸行列と神についてわかりやすく説明されていますので抜き出してみます。
妙見祭のメインは神幸行列です。
妙見祭は、神輿を中心とした行列が11月22日に八代神社から塩屋八幡宮まで来て(お下り)1泊した後、翌日の23日に八代神社まで戻る(お上り)神幸行列がメインの祭りです。
神幸行列とは?
神輿(神の乗り物)が氏子地域等を廻って御旅所へ神幸し、御旅所に神輿が留まっている間、祭祀や芸能の奉納が行われ、本社に還幸する。
『◎神幸=本社から御旅所へ ◎還幸=御旅所から本社へ』
昔の人は神をどう考えていたか?
神とは?
●目に見えない。見ることができない。※姿・形がない
●太陽、水、風、大地などの自然のあらゆるものに存在する。※多数存在する
●人知を超えた大きな力を持っている。
●山や海の彼方から訪れ、山や樹、岩などに宿る。
神との関わり方
★大きな恵みを与えてくれるだけではなく、時として病気や災害をもたらす恐ろしい存在でもあった神との関わり方は?
場所を設けて神を招く。
精進潔斎し、米・酒・海の幸・山の幸を供え、神が好むとされた舞踊・音楽.詩歌を奉納して祈願や感謝をする⇒これが「祭り」
そうすると、神は喜んで作物の豊穣や健康の安泰などの願いを叶えてくれると考えた。
※「まつり」の本来の意味は、目に見えない神が現れるのをマツ(待つ)こと、現れた神にマツラフ(服従する、奉仕する)こと
神社以前~祭りの度に神を迎えた~
年数回の祭りの度に神聖視される場所(村里を見下ろす美しい形の山の麓やきれいな水の流れる川や泉のほとりなど)に
●磐座(いわくら・神を迎えまつるための石)
●磐境(いわさか・石で囲んだ祭場)
●神籬(ひもろぎ。臨時的に設営された神祭の施設)
などを設けて神を迎え、祭り終了後、送り帰した。
神像が作られるようになるのは8世紀。仏像の影響を受けて作られるようになった。仏像と違って神の姿に決まりはなかったので、人々が持つ神のイメージをもとに造られたと考えられる。
京都・松尾大社 男神坐像・女神坐像(平安時代・9世紀 国宝 日本神像彫刻の中で最古)


【まとめ】
神は目に見えないもの。祭りの度に臨時の祭場を設けて神事を行い、終われば送り返していた(常設の建物はなかった)→祭りの回数が増えるにつれて臨時の祭場から常設の神社へ。神も神社に常駐していると考えるようになる。→平城京から平安京に遷(うつ)ってきた人たちは、新たなる守護神を求めて洛外から霊威のある神を自分たちが住む洛中に迎えて祭りを行うようになる。恒例化に伴い、御旅所を設けるようになる。→神輿の行列を見学する人たちが現れる。限られた人のみで行う「祭り」から多くの見物人が集まる昼間の「祭礼」へ。様々な華やかな出し物が加わるようになる。新しい祭礼は各地へ広がって行く。  


Posted by マー君 at 10:12Comments(0)講座八代歴史

2019年01月23日

金峰山の地質(1/20)

先日の日曜日(1/20)に熊本県ネットワークセンターの活動の一つで「金峰山の地質」のグループの集まりがありました。
今回は20人ほどの集まりで朝10時から3時まで「金峰山湧水群」や「金峰山古期噴出物」などをフードパル熊本を出発地にして見学を行いました。
いつも地学の説明をしてくださる川路先生はインフルエンザで来れなくて今回は南部さんと廣田さんが廻った各箇所の説明をされました。
見学は立福寺町の太郎迫神社の金峰山湧水群の1つ(Aso-4の下から湧出)や降下火山灰層を見学し熊本市北区貢町に遺る同じ金峰山湧水群の一つ瑞巌寺跡を見学、フードパルに戻り昼食を終えて熊本市西区花園の天福寺近くに行きました。
ここでは鉄平石が見学できます。金峰山古期噴出物の溶岩が板状節理によって出来たものです。
その他にも風化凝灰角礫岩の露頭も見学できました。
次に岩の中から水の流れる音がすると伝えられる「鳴岩」の湧水(Aso-4の亀裂から湧水)、最後に同じAso-4の下から湧水している
お手水の湧水を見学しました。

右の地質図の説明
黄色・・阿蘇-4火砕流堆積物--後期更新世(第四紀)
柿色・・金峰火山新期噴出物(角閃石安山岩)--中期更新世(第四紀)
水色・・芳野層--中期更新世(第四紀)
桃色・・金峰火山中期噴出物(輝石安山岩溶岩・火砕流、一部角閃石安山岩)--前期更新世(第四紀)
薄茶色・・金峰火山北麓岩屑堆積物(火砕岩、土石流堆積物など)--前期更新世(第四紀)
赤色・・金峰火山古期噴出物(輝石安山岩溶岩・火砕岩、一部角閃石安山岩)--前期更新世(第四紀)
※だいよん‐き【第四紀】
地質時代の区分の一。新生代の最後の時代で、約170万年前から現在まで。更新世と完新世とに区分される。氷河時代にあたり、人類が発展し、現在の地形が形成された。

右・・太郎迫神社近くの露頭で見つけたAso-4火砕流の軽石 左・・天福寺近辺露頭から採取した鉄平石

私にとっては今回はこの地質図の勉強が主なものになりました。
携帯で撮った写真が取り出せないので今回の見学地については携帯からの取出した後にまた記事にしたいと思います。
以前、金峰山の地質について解説したものがありましたので再度紹介します。



●地形の説明
白地・・完新統(完新世に形成された堆積岩や火成岩、沖積統)
ピンクに✓・・阿蘇火砕流
ブルーに横線・・芳野層(湖成層)
赤に●・・一の岳火山岩
白に✓・・二ノ岳火山岩類
茶色・・三ノ岳火山岩類
白に●・・石神山火山岩類
黄に✓・・古金峰火山岩類
肌色に⋄・・松尾火山岩類
黒線・・断層

熊本博物館の学芸員がまとめた金峰山の地質についての説明文
熊本の自然と歴史
金峰山の自然(地質編)  
金峰山やその一帯の山々は熊本市の西側に位置するため、西山地域 とも呼ばれています。ご存知の方も多いと思いますが、この地域の山々 は火山活動によってできた“火山”です。これらは一度の噴火によって できあがったのではなく、過去100万年以上かけて徐々に形作られた 火山で、カルデラや溶岩ドームなど火山に特有の地形が見られます。そ のような地形や火山活動の時期をもとに、西山地域の山は大きく3つ の地域に分けられます。いくつもの山々が並ぶカルデラの外輪山地域、 その北側にそびえる二ノ岳(熊野岳)と三ノ岳、そしてそれらの中央に 位置し、いわゆる“金峰山”として有名な一ノ岳です(写真1)。  まず今からおよそ140万年から90万年前、一番古い時期の火山活動が ありました。その頃にできた古い山体が河内山、小萩山、花岡山、独鈷山 など現在の一ノ岳を取り囲んでいる外輪山の山々で、離れたところでは 立田山もその一部です。これらの山々はもともと火山の集まった複合火 山だったと考えられていて、山の中央部が北西側に崩れ落ちることでア ルファベットのU字型の外輪山を持つカルデラ地形ができあがりまし た。  この古い時代の火山活動から数十万年たった後、年代で言うとおよ そ56万年前~50万年前に再び火山活動が活発になり、外輪山の縁の 崩れていたあたりが噴火して、現在の二ノ岳と三ノ岳が誕生しました。
さらにU字型に開いていた部分が塞がれたため、カルデラ内に雨水が 溜まり、西山地域にカルデラ湖が出現しました。現在一ノ岳から見て 北側に位置する芳野地区にはこの湖の底に溜まった泥の地層が残さ れていて、その中からは木の葉や昆虫の化石が見つかります(写真2)。 川などの流れの速い環境に比べて湖の底では穏やかに堆積が進むの で木の葉や昆虫のような壊れやすい生物の化石も残りやすいのです。  この湖は後の火山活動で消滅してしまいますが、さらに長い月日が流 れたおよそ20万年前~15万年前にこの地域で知られている最後の火 山噴火が起こります。この噴火で噴出した溶岩はデイサイトという粘り 気の強い溶岩で、ちょうどカルデラの中央のあたりにこんもりとした溶 岩ドームを作りました。この時の溶岩ドームが現在の一ノ岳です“。一ノ 岳”という名前から金峰山周辺の山の中で一番最初にできたように思わ れがちですが、実は一番最後に形成された山だったのです。  このように金峰山はわたしたち人間の感覚からすると非常に長い期 間、何度も繰り返した火山活動によって形作られました。さらにその後 も河川や風雨による浸食や断層活動、阿蘇の大火砕流噴火による埋没 などを経て、現在の姿となったのです。いつも変わらずそこにあるよう に見える山々も、実は長い年月の中で常に姿を変え続けているのです。


東に阿蘇山を,西に金峰山(665m)を望む熊本市。
 阿蘇山から噴出した4回の火砕流堆積物は,西方の熊本市にまで広く堆積しており,西に緩やかに傾く大津・菊陽・高遊原台地を形成している。阿蘇火砕流堆積物による台地はさらに西へ延びていたが,北は菊池川により南は坪井川・井芹川、白川により侵食されて現在のような地形になった。
 金峰山は金峰山を始めとして,二ノ岳(685m)・三ノ岳(684m)に代表される新旧の火山が入り混ざっており,さらに湖の堆積物まで分布している。

 熊本市西部 金峰山を中心とする地史 

 金峰山地域の最初のできごと
 1)金峰山南部に分布する松尾火山岩類・古金峰火山岩類の噴出
 2)角閃石安山岩の溶岩からなる石神山(112万±20万年前)の形成に始まり,三淵山,荒尾山と続く石神山火山岩類(高井,1984)の形成。
( 採石場の火砕流堆積物 )
( 霊巌洞 の凝灰角礫岩 )( 肥後耶馬溪 )( 鼓ヶ滝の輝石安山岩 )
( 石神山の鱗硅石 )
 山体中央部が北西に向かって山体崩壊し、その後,三ノ岳・二ノ岳の順に火山活動が起こり、結果的にカルデラ地形が形成されたと考えらえている。
 このカルデラ内に湖ができ、この湖に周囲の土砂が流れ込んでできたのが芳野層である。芳野層は,泥岩を主として一部砂質の層もあり,産出する植物化石のなかには,藍鉄鉱で置換されたものがあり,地層から取り出したときにはその名のとおり美しい青色をしていますが,しばらくすると空気中の酸素と反応して褐色に変わってしまう。
( 芳野層 )( 藍鉄鉱 )
 芳野層の上には河内川の堆積物と思われる砂礫層がところによって乗っています。
( 芳野層の上に乗るレキ層 )
 以上の活動の後に,角閃石安山岩の溶岩からなる金峰山(15万±5万年前)の形成となるわけで,金峰山は複式火山ということになります。この金峰山溶岩は火口から流出したものではなく,固まりかけた状態で貫入して地表にその姿を表したので山体はドーム状となっており火口はありません。
( 金峰山の形 遠望 菊南温泉から )
 最後に,Aso-4火砕流(9万年前)が噴出して上記の地層をおおって堆積しました。
( 磨砂 )
( 花園の崖 )( 菱形神社の洞窟 )( 井芹川の河床 )
一方,外輪山の南東周辺には,立田山・花岡山・万日山・独鈷山などの小さな山があります。これらはいずれもかつては外輪山の裾野を形成していたものですが,その後の断層運動(立田山断層)によって切り離されたものです。このことは,両者の岩質が同じである点や地形断面などからも推定することができます。
( 立田山断層 )


  


Posted by マー君 at 08:55Comments(0)講座


昨日(1/8)、久しぶりに図書館講座がありました。
今回の講座は博物館が工事のため、博物館の学芸員の方達の調査研究成果を紹介する特別講座として開かれたものです。
1月~3月まで月2回行われ、地元にちなんだ「学芸員のこだわり八代学」をテーマに、今日はその第1回目の講座です。
今日の講師は鳥津亮二さん、話は「すごいぞ!西山宗因」~八代が生んだ大スター~です。
話の内容は以前にも何度か話をされたものですが、現在の八代城が出来た頃に八代城主であった加藤正方に仕官して京都の里村家(連歌師の家系)に入門した西山宗因の連歌と俳諧にまつわる話です。
初めに連歌についての話があり、その頃の連歌というものは複数の人々が寄りあって「五七五」の長句と、「七七」の短句を繫げて行く文芸で、室町時代から江戸時代にかけて広く親しまれた日本固有の伝統文化です。 
特に江戸時代初めの八代では八代城主・加藤正方が連歌を愛好し、その家臣西山宗因は後にこの世界で一世を風靡し大活躍しました。
連歌について約束事の説明から理解度を増すために登場人物として西山宗因、加藤正方、里村昌琢 ( しょうたく )、松尾芭蕉・松永貞徳などの話をされました。
●西山宗因(1605-1682)
慶長10年(1605)肥後熊本に生まれ、元和5年(1619)15歳の時より八代城主加藤正方に仕官、京都里村家に入門し連歌を学ぶ。寛永9年(1632)の主家改易により、翌年京都へ移住。連歌を職と定め、正保4年(1647)大阪天満宮連歌所宗匠に就任。俳諧でも活躍し、独特。流暢なリズムと明快な詩趣を持つ作風〝談林風は当時の文芸界を風靡し、西鶴や芭蕉らにまで影響を与えた。

●加藤正方(八代城下町の基礎を築いた 1580-1648)
加藤清正の重臣、加藤可重の子。清正が没した翌年の慶長17年(1612)に江戸幕府の命令で加藤家筆頭家老の地位につき、八代麦島城代に任命される。元和6年(1619)に麦島城が地震で崩壊した後、元和8年(1622)には新しく八代松江城を建設。現在につながる八代城下町の原型を築いた。また連歌の道にも秀て、後に連歌師・俳諧師として活躍する西山宗因を育てたことでも知られる。

●里村晶琢(1574-1636)織豊-江戸時代前期の連歌師。
天正(てんしょう)2年生まれ。里村南家の里村昌叱(しょうしつ)の長男。母は里村紹巴(じょうは)の娘。元和(げんな)3年徳川秀忠より100石をうけ,連歌の家を保証された。寛永3年後水尾天皇から古今伝授をうけ,5年幕府連歌の宗匠,のち法眼。寛永13年2月5日死去。63歳。名は景敏。別号に懐恵庵,拝北庵。編著に「類字名所和歌集」,句集に「昌琢句集」。


●松尾芭蕉(1644ー1694・正保元年〜元禄7年)
【俳人】人生を旅とし、旅を俳諧にした。 漂泊の俳人。『奥の細道』の著者。俳人。伊賀国出身。津藩に仕えて俳諧をたしなみ、北村季吟の指導を受けた。30歳で江戸に出ると、才を認められて談林派江戸宗匠となる。それまでの貞門・談林派の言葉遊びの滑稽趣味から離れ、自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現して、蕉風俳諧を打ち立てた。東北路への旅を始まりに諸国を旅し、九州を目指す旅行中、大坂で死去する。『野ざらし紀行』『奥の細道』などの紀行俳文を残す。
芭蕉の宗因評価
芭蕉は「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(去来抄)とのべている。

●松永貞徳(1571ー1653)
江戸初期の俳人・歌人・歌学者。京都の人。幼名、勝熊。号、逍遊軒・松友・長頭丸ちようずまる・花咲の翁など。九条稙通・細川幽斎らから和歌・歌学、里村紹巴じようはから連歌を学ぶ。豊かな学殖で古典を講義、私塾を開き、また庶民の間に俳諧を広めた。門下から北村季吟・加藤盤斎・伊藤仁斎らを輩出。江戸初期の代表的な狂歌師でもあった。編著「俳諧御傘ごさん」「新増犬筑波集」「天水抄」など。   


Posted by マー君 at 09:13Comments(0)講座歴史

2018年12月15日

好きこそ物の上手なれ

走っている馬を同じ速さで追い掛ければ、馬は止まっているように見える。ある日、少年は考えた。「光の速さで光を追い掛けたら光はどう見えるだろう」。アインシュタインが16歳の頃の逸話だ。その疑問が物理学や宇宙論に革命をもたらす相対性理論につながった
▼子どもから大人へ、人生の扉が一つ開く16歳。才能がひときわ輝く時期なのかもしれない。まぶしいばかりのきらめきを今、私たちは目の当たりにしている
▼銀盤の上を軽やかに舞い世界を感動させたフィギュアスケートの紀平梨花さん(16)。グランプリファイナルで初出場優勝を果たした。日本勢では2005年の浅田真央さん以来の快挙だ
▼紀平さんは、女子では数人しか飛べない大技トリプルアクセル(3回転半ジャンプ)を決め、平昌冬季五輪女王のザギトワさん(ロシア)を破った。ザギトワさんも16歳。真央さんと韓国の金妍児(キムヨナ)さんのように、宿命のライバルとしてこれからも名勝負を見せてくれるに違いない
▼升目の盤の上から日本中を驚嘆させた16歳も。将棋の藤井聡太七段。史上最速、最年少、最高勝率で公式戦100勝を成し遂げた。最速と最年少の記録を破られた羽生善治竜王も「空前絶後の大記録」と賛辞を惜しまない

▼まるで光のような速さで頂点を追い掛けた2人。もっと速く、もっと遠くへ。さらなる可能性にあふれる16歳に、未来はどう見えているのだろう。
=2018/12/14付 西日本新聞朝刊=


昨日の【春秋】に人生の扉が開く16歳の記事がありました。
その話にも出てきた将棋の藤井翔太さんがプロを目指して杉本昌隆7段に弟子入りしたのは小学4年生の7月とのこと。
今日は八代市教育委員会主催の「第9回まなびフェスタやつしろ」という教育関係の催しが千丁町であり、活動関係の特別講演会として杉本昌隆7段が『師匠が語る、藤井聡太という才能』という話をされました。
話の内容はプロジェクターを使ってその時々の藤井聡太さんの将棋を中心に活躍ぶりを紹介しながら・・
◎将棋の魅力・・(誰にでもできる)
●年齢、体格差に関係なく楽しめる。
●論理的な思考力、決断力、忍耐力が養われる。
●盤上でコミュニケーションがとれる。(相手の考えが読める)

◎棋士に向く3つの性格
①負けず嫌い。ごまかさず負けを受け入れる。
②負けを引きずらない。
③孤独に強い
の話を織り込んで弟子の藤井聡太さんの人柄や将棋に対する熱意などのはなしをされました。
杉本さんの指導方法は特別な指導を行って藤井さんを育てたのではなく見守る形で弟子を育てたようです。
素晴らしい才能はもともと持ち合わせていたので、礼儀や作法など社会的な部分を教えていきましたと話されました。
話が終わって、杉本さんへの質問の時間には、小学生が「将棋が強くなるためにはどうしたらいいですか?」との質問もあり杉本さんからはいろいろな方法を説明されましたが、「将棋が好きで無ければ駄目ですよ」という「好きこそ物の上手なれ」のだめ押しの返答がありました。

  


Posted by マー君 at 15:49Comments(0)講座八代
昨日は八代市立博物館で新しい催しの為の講演会が有りました。
10月19日から始まっている~細川家を支え続けた「忠義」~ザ・家老 松井康之と興長 の展示会にちなむもので、武勇の康之と、諫言の興長
の話のうち〝日本史における諫言の機能と役割〟と題うって細川家4代の当主に仕え遺言の中にまでも諫言が残されていたという興長の話を熊本大学永青文庫研究センターの稲葉継陽さんが興長の数々の諫言を拾い上げ読み解いてゆく講演をなされました。
まさに松井家の諫言という忠義あればこそ、細川家が生き残れた一因であったこともよく理解できました。
今回は地元松井家の話とあって聴講者の数は会場に入りきれずラウンジで聞かれる人たちもいたほどの満員の講演会でした。


右は松濱軒その先が博物館


好古家にとってさぞかし心が躍る旅路だったに違いない。文部省の官吏、蜷川式胤(のりたね)は明治5年(1872年)カメラマンらを引き連れて名古屋や伊勢、京都を巡る。寺社や旧家のお宝を確認し記録するのが目的だった◆壬申調査と称される道行は5か月にも及んだ。途中から洋画家の高橋由一も加わり、膨大な数の写真や模写、拓本が残された◆終点の奈良で正倉院を開封する。不細工で取るに足らない。そう思い込んでいた千有余年の古物の素晴らしさに〈一同驚き騒ぎ市場のような喧噪だった〉(『正倉院』中公新書)そうだ◆正倉院が始まった。蜷川ではないが、足を運ぶたびに、新鮮な驚きに打たれる。奇麗な色彩や精緻な細工といった宝物そのものの煌めきにひかれるのはもちろん、そえられた解説の一つ一つに、近代から続く、長く果てしない研究の日々を思う◆毎朝、芝居を見に行く心地で楽しく飽きない。正倉を探る喜びを、蜷川はそう日記につづった。今、展覧会の一方で年一度の開封にともなう宝物の点検や清掃、調査が慌ただしく進む。研究者は心地よい疲れを感じていることだろう。
2018・10・28 読売新聞 「編集手帳」


Jump to search 1879年7月

蜷川 式胤(にながわのりたね、1835年6月18日(天保6年5月23日) - 1882年(明治15年)8月21日)は、明治初期の官僚、古美術研究家。博物館の開設に尽力し、また、日本の陶器を海外に紹介した。

子賢の長男として京都に生まれた。幼名与三郎、また親胤。祖先は丹波船井郡高屋村(現在の京都府船井郡京丹波町富田)の代官であったが、加勢した明智光秀の敗亡のため、京都に移って東寺の客(公人 くにん)となり、代々、境内東北隅の屋敷に住んだ。
父に学び、また、若い頃から古美術を研究し、すでに1858年(安政4年)、正倉院の宝物模写図に奥書を残している。
1869年(明治2年)(35歳)7月、東京丸の内道三丁(現在の千代田区大手町2丁目)に家を与えられ、次の職歴を経た。  


Posted by マー君 at 09:53Comments(0)講座八代歴史
熊本県博物館ネットワークセンターから熊本大学百周年記念館で市民向けの東京地学協会特別講演会の案内を受け話を聞きに行って来ました。
講演テーマの「マグマと活断層の上に生きる」というものを色々な視点から火山活動や地震について話をされました。
①「地学を国民教養に!」岩松 暉(鹿児島大学名誉教授)・・物の豊かさよりも心の豊かさが大事 
②「九州の火山活動」大倉敬宏(京都大学火山研究センター)・・火山は地球をのぞく窓 
③「熊本地震と九州の地震活動」松田博貴(熊本大学くまもと水循環・・減災研究教育センター)・・地震の種類・海溝型、内陸型としくみ 
④「火山と人との関り、火山防災」福島大輔(NPO桜島ミュージアム)・・コミュニケーションと情報発信の仕方について
・・の後に話の要点を自分なりにまとめてみました。
講演会の後、家での夕食時に南海トラフについての番組がありました。
熊本地震から2年以上経ちますが災害は丁度忘れた頃にやって来ます。
熊本では地震の2次災害についての問題も取り上げられてはいるものの死亡事故や文化財被害以外はあまり取り上げられることはありません。
今回の催しには関連行事として〝阿蘇山と災害地形の現地見学会〟も企画されていました。
市民向けの講座内容でありましたが公聴者の年齢をもっと広げる工夫をされることを希望します。・・減災や防災そして地学教養を広げるためにも。

  


Posted by マー君 at 10:56Comments(0)講座地学
昨日は奇数月の第1日曜日に開催される熊本を知る講座「金峰山の地質」第2回講座が金峰森の駅みちくさ館10時集合でありました。
熊本県博物館ネットワークが主催する野外学習です。今年で2年目になりますが「金峰山の地質」と題名にもなっている金峰山にはいままで登ったことはありません。今日は初めて金峰山に登るということでみちくさ館の前にある金峰山の案内図を利用して金峰山の概況の説明がありました。
話の内容としては金峰山の成り立ちと金峰山関連の流山(山体崩壊によって崩れ落ちた膨大な量の土砂が山麓に流下してできた、大小さまざまな小山)との関係も含めて説明されたものですがその内容については今年の3月29日に「金峰山の地質」で書きましたので省略します。




今年退官された熊大教授の渡辺一徳さんの話だけは再度、参考程度に載せることにします。
 金峰山は20万年前に誕生
金峰火山は阿蘇火山と同じ二重式火山です。その中心的存在である金峰山は一ノ岳とも呼ばれ、二ノ岳、三ノ岳をはじめとする外輪山に囲まれたカルデラ内にできた溶岩ドームです。もっともカルデラとはいっても阿蘇のような円形でなく、四角の升形をしているのが特徴です。

金峰山が火山であることが明らかにされたのはおよそ100年前に起きた熊本地震の前年のことです。熊本地震のときにも金峰山が爆発したのではないかと騒がれました。そのため地震の直後には学者によって金峰山の調査が行われましたが、ガスの噴出や噴火などの火山活動を示す特別の異常は認められませんでした。熊本地震は立田山断層が動いたことに伴う地震であることが、最近の私たちの研究でほぼ明らかになっています。

形成時期については、いろいろの意見があり、誕生の時期ははっきりしないものの、年代測定の結果から約100万年前までに外輪部が出来上がり、同じく20万年前に中央の金峰山ができたと考えられます。植物化石から金峰山には直径3キロメートルの湖が存在したことも分かっています。芳野層とよばれる湖成層が観察できるからです。

また立田山、花岡山、万日山なども火山形成後の断層運動や河川の浸食によってできたと推定され、金峰山は熊本自然体を形作っている「風景」とも深くかかわっているのです。

この写真は頂上にある金峰山神社ですが金峰山の呼称は古くは「飽田山」と呼ばれていたが、奈良県の吉野地方にある金峰山(きんぷせん)から勧請した金峰山神社(蔵王権現)が山頂に建立されて以来「金峰山」と呼ばれるようになったという。なお、文献等によっては「金峯山」と記述されることがあり、古くは「きぼうさん」などと呼ばれたこともあったという。
道路標識や観光ガイドブックにおける金峰山の英語表記として、“Mt. Kimpo”または“Mt. Kinpo”が用いられていることがある。しかし、金峰山の所在地である河内地区では「きんぼうざん」と呼ばれている。なお、具体的な例の一つとして、河内小学校校歌の歌詞においては、金峰山を「きんぼうざん」としている。
金峰山が昔火山であったという根拠となるものが頂上までの山側の露頭にわずかに見られる散石から見ることが出来ます。
私たちには石を見てどいう石かはわかりませんが専門家の人たちには石の断面を見ればその石がどういう石なのかは大方の事は分かるそうです。
新潟大学理学部 山岸 宏光 さんの説明によりますと・・
●火山岩の見方
 火山岩の露頭を観察するには以下の点が重要である。

(1)
岩質の識別 : 流紋岩、安山岩、玄武岩の区別
(2)
岩相の識別 : a.火砕岩と、b.溶岩・岩脈の区別
a.
火砕岩の場合 : 降下、流動を区別する
  降下火砕物か、高温の流れ(火砕流)か、水との混合物(泥流・土石流)か
* その判断基準
 粒が揃っているか、粒が不ぞろいか、粒が一定方向の配列をしているか、アト ランダムな配列か
b.
溶岩・岩脈の場合 : 節理を識別する
  1)冷却割れ目か、2)テクトニックな割れ目か
1)
冷却割れ目の場合

徐冷か、急冷か、
2)
テクトニックな割れ目の場合

断層割れ目(変位あり)、せん断割れ目、 引っ張り割れ目、シーテングを識別する
※相当の経験がなければこれらを見分けるのは難しいようです。

金峰山の山頂までの道路際の露頭で見つけた安山岩

金峰山の露頭から安山岩が発見されたということで金峰山が昔火山であったことが証明されました。
山頂からの景色の説明があったのち金峰森の駅みちくさ館まで引き返して昼食にしました。今回はまた新しい方達が増えて参加者は28名になりました。
昼からは芳野層と面木溶岩の採石場跡の見学です。



芳野層が見れる露頭

このあとは面木は「ものき」と読むそうですが溶岩の採掘場があったとの事で今は道がなくなってしまっているので先生方が前もって草刈りなどをして歩き易くしてくれていましたので途中までですが採石跡を見学しました。






柱状節理が窺われるものや単なる石にしか見えないもの色々ありましたが下2つの写真は重さが他と比べて重いことや割れ方の違いもあり?の判定をされましたが正体は何なんでしょうか。





  


Posted by マー君 at 15:05Comments(0)講座

2018年07月29日

うすら覚えとボケ



昨日、八代市博物館で夏期特別展覧会の講座がありました。
八代には市郡を合わせて約130ヶ寺のお寺があり、その中で8ヶ寺が禅宗です。
また一番多いのは浄土真宗で84ヶ寺あるそうです。
今回、八代にある禅宗寺院、円通寺・久巌寺・玉泉寺・見松寺・悟真寺・春光寺・福寿寺・法輪寺の文化財を博物館にて一斉公開しています。
この企画を立てられた学芸員の石原 浩さんが講演を受け持たれ細かな説明をされました。
宗教のことには無頓着な私にとってこういう機会がなければなかなか奥深いところまで仏教の話を聞く機会はありません。
話を聞くだけでは十分理解することもできないので、こうしてブログにまとめることで少しは勉強したつもりになっています。
禅宗では、苦行を捨てて自ら悟りを開いた釈迦を本尊とし、釈迦に従った修行者・観音菩薩もまつります。
また禅の教えをインドから中国に伝えた達磨大師の肖像など、禅宗ならではの仏像・仏画・墨蹟が伝えられています。
これらは寺院が禅文化を普及するための重要アイテムであると同時に、八代の歴史をひも解く貴重な文化遺産でもあります。
●禅宗の宗派
日本の禅宗には主に3つの宗派があります。鎌倉新仏教の一つで栄西(1141~1215)を祖とする「臨済宗」は、妙心寺(京都市)や南禅寺(京都市)などを本山とする14派があります。
同じく鎌倉新仏教の一つで道元(1200~1253)を祖とする「曹洞宗」は、永平寺(福井県永平寺町)と綜持寺(横浜市)という二つの大本山がありますが臨済宗のような派はありません。
江戸時代、隠元(1592~1673)が伝えた「黄檗宗」は京都の萬福寺を本山とします。
八代には臨済宗と曹洞宗の寺院があります。
●禅の教え
禅宗では、「仏そのほうほうが少し違うようです心=さとり」は言葉ではなく「以心伝心」によって受け継がれるものとされ、特定の経典や本尊を定めていません。
しかし一般的には、自らさとりを開いた釈迦如来を本尊とすることが多いようです。
禅宗では、心の奥にある「仏心」を見いだすための修行として「座禅」をします。
しかし臨済宗と曹洞宗では、目的は同じでもその方法が少し違うようです。
臨済宗の禅は「看話禅・かんなぜん」といわれ、さとりを開くために師から与えられる問題「公案・こうあん」を考えながら座り、一歩ずつ「さとり」に近づくことを目指します。
曹洞宗の禅は「黙照禅・もくしょうぜん」といわれ、心を無にして黙々と座り、「さとり」を求めるのではなく、むしろ座禅そのものを「さとり」の境地と考えます。
師から弟子への禅の教えが正しく受け継がれると、師は自らの姿を絵画や彫刻であらわし、賛(漢詩)を書いて弟子に与えました。
禅宗ではこれを「頂相・ちんそう」と言って大切にします。


●墨跡(ぼくせき、墨蹟・墨迹とも書く)とは、
真跡全般のこと。「直筆(じきひつ)とは、手書きの文字や絵などにおいて、ある特定の個人が直接書いたものである事を指す言葉。自筆、肉筆、直書(ちょくしょ)、真筆、真跡とも呼ばれる。 」
日本に限り禅林高僧の真跡をさす。近年、多くは禅林墨跡という。

●禅林(ぜんりん)とは、禅宗寺院のことで、禅院(ぜんいん)とも呼ばれている。また、叢林(そうりん)という名称で用いられる場合もあるが、日本において「叢林」は中世以後の五山制度及びそれに所属していた寺院(曹洞宗及び臨済宗大応派)を一括した総称としても用いられている。この場合には、五山叢林(五山派)などとも称せられている。

お寺に行きます何体かの仏像が並んでいるのを良く見ますが、中心にあるご本尊とそれ以外の仏様は何と言うのかご存知ですか?
どこかで何度も聞いたことはあるかも知れませんが、自分でははっきり認識していなかったので調べてみますと「脇仏」というそうです。
耳にした時には理解しているのに自分ではなかなか言葉にならないものって案外多いものです。
ただの「うすら覚え」なんでしょうか。
自分の知識にはなっていないものでしょうね。
  


Posted by マー君 at 16:56Comments(0)講座
「やつしろ散歩」という図書館の企画でやつしろ観光ガイド協会が協力をして行っているツアーが今日午前中に有りました。
毎月1回づつ行われているみたいで今回2回目の参加です。
今回は花しょうぶを松濱軒で愛でるツアーです。
雨が降っているにもかかわらず前回よりは参加者も少し多かったようです。
松濱軒についての話は八代史談会会長の松山丈三さんが話をされました。

元禄元年(1688)八代城主松井直之(なおゆき)が母のために建てたお茶室=浜ノお茶屋と呼ばれていました・・当初は八代海を見渡す浜辺で松林であったことから松濱軒と名付けられました。
生憎の雨でしたが肥後菖蒲は雨の日がいいかもしれません







昔の船着き場跡
伏見稲荷を勧請した社
松山会長の説明
松井邸の略式門=冠木門(かぶきもん)と言うそうです
正面入り口





  


Posted by マー君 at 15:14Comments(0)講座

2018年04月28日

能楽について


今日(4/28)は八代市立博物館で平成30年度春季特別展覧会「能面乱舞ー八代城主松井家伝来能楽コレクションー」の第2回目講演会が午前中に有りました。講師は上席学芸員の山崎摂さんが勤められました。今回の展示会は能に使われる能面や能装束そして帯などの小物ですが、松井家が残してきたものが全国でも屈指の品物であり八代や松井家が能と大きく関わってきた事がよくわかりました。今日のお話は能面や能装束について専門的な説明が多く、なかなか初心者には分かりずらいものでしたが、頂いた資料の中に八代能楽年表がありそれを見ると能楽というものが少し理解できたような気がします。

八代能楽年表八代の出来事と青地は中央の出来事
〇元弘3年(1333)・・鎌倉幕府滅びる。観阿弥生まれる。
●建武元年(1334)・・後醍醐天皇の臣名和永年の長男義高が八代荘の地頭になり、一族の内河義真が代官として下向し、古麓城を築く。
〇貞治2年(1363)・・この頃、世阿弥生まれる。
〇永和元年(1375)・・将軍足利義満が観阿弥・世阿弥親子の能を見物する。
〇応永7年(1400)・・世阿弥の最初の芸論『風姿花伝』第三までなる。
●永正元年(1504)・・相良氏が名和氏を攻め、古麓城に入る。
●天文5年(1536)・・相良氏お抱かえの能役者宗像右衛門太夫が陣内(古麓城下)で能を演じる。熊本県で能が行われた最初の記録。以後、城下や正法寺、荘厳寺などで能を上演したことが『八代日記』に記されている。
●天正9年(1581)・・島津氏が相良氏を降伏させ、八代を支配する。
〇天正11年(1583)・・この頃から慶長初年まで、細川幽斎・忠興父子・単語で盛んに演能。
●天正14年(1586)・・島津義久、八代正法寺にて能興行(翁付七番)。京都の能役者渋谷与吉郎、対馬丞父子が演じる。
●天正15年(1587)‥豊臣秀吉が九州を平定し、佐々成政が肥後領主となる。
●天正16年(1588)・・佐々成政が切腹。小西行長が肥後南部の領主となり、麦島城を築く。加藤清正、秀吉の小姓で金春安照(金春流の役者)の弟子中村政長を召抱える。
●慶長5年(1600)・・関ヶ原の戦により小西氏滅亡。加藤清正が肥後領主となる。
●慶長13年(1608)・・細川家の筆頭家老松井康之、細川忠興より「妙庵手沢謡本」を賜る。
●元和5年(1619)・・地震で麦島城崩壊。加藤家の家老加藤正方が松江城(現在の八代城)を築く。元和8年完成。
●寛永5年(1628)・・松井家二代興長、中村政長に起請文(誓約書)を入れて能を習う。
●寛永9年(1632)・・加藤氏が改易され、細川氏が肥後に入る。八代城には藩主忠利の父三斎(忠興)が入る。松井興長が、中村政長の子正辰を細川家へ弛緩させることに尽力(熊本では金春流が盛んであることの発端)。
●寛永10年(1633)・・三斎、本丸にあった能舞台を立て直す。
●生保3年(1646)・・三斎没後、松井興長が八代城に入る。
●寛文7年(1667)・・藩主細川綱利が八代城に光駕(こうが)。能7番が興行される。
●元文3年(1738)・・八代妙見祭に出される宮之町の逆鉾が「菊慈童」になる。
●享和元年(1801)・・八代城下の町人、八代城本丸御殿新築を祝って能装束を寄付。
●天保12年(1841)・・松井家10代章之、八代城で家督相続祝の能を行う。両座(本座:友枝家、新座:桜間家)の役者が出仕する。章之、この頃盛んに桜間右陣を呼び寄せ、能を習う。右陣ら、熊本の能役者は、長崎諏訪神社の祭礼(長崎くんち)の神事能に出仕する事もあった。
●安政3年(1856)・・松井章之、江戸へ参府。このとき右陣の子伴馬にを伴い、江戸の金春座地謡方中村平蔵に弟子入りさせる。後に伴馬(晩年は左陣と名乗る)は宝生九郎、梅若実とともに「明治の三名人」と評された。
●慶応4年(1868)・・八代城下の町人、春日神社で狂言を上演する。
●明治3年(1870)・・八代城廃城。
●昭和9年(1934)・・弓削家の能舞台(現本町緑地公園にあった)を、松井家に寄贈。
〇昭和32年(1957)・・能楽が国の重要無形文化財に指定される。
〇昭和39年(1964)・・京都公立博物館で開催の特別展「能面と能装束」に松井家から能装束13領出品(全出品点数160点)。
〇昭和41年(1966)・・人間国宝桜間道雄氏、東京での演能で松井家の能装束を用いる。
●昭和44年(1969)・・金春松融会発足(松融会、熊本金春会と合併)。
●昭和50年(1975)・・松井祥之氏、重要無形文化財保持者認定。
●昭和59年(1984)・・財団法人松井文庫設立。
●昭和61年(1986)・・松井家の能舞台(現博物館駐輪場辺りにあった)、出水神社に移築。
●平成4年(1992)‥熊本県立美術館で「松井文庫名品展Ⅲ 能面と能装束」開催。
〇平成13年(2001)・・「能楽」がユネスコより「人類の口承および無形遺産の傑作」の宣言を受ける。
〇平成20年(2008)・・「能楽」がユネスコ無形文化遺産となる。
●平成23年(2011)・・足利義満創建の京都相国寺・承天閣美術館で〈肥後松井家の名品・武家と能〉開催(茶道資料館と共催)。入館者2万3千人。桜間左陣のひ孫にあたる右陣氏、八代で能の指導及び演能。
〇平成27年(2015)・・東京・国立能楽堂で「松井家の能」展開催。
●平成28年(2016)・・能に由来する飾りをつけた妙見祭の傘鉾を含む「八代妙見祭の神幸行事」が「山・鉾・屋台行事」としてユネスコ無形文化遺産に登録される。
●平成30年(2018)・・八代市立博物館未来の森ミュージアムで平成30年度春季特別展覧会「能面乱舞-八代城主松井家伝来能楽コレクションー」ー開催












  


Posted by マー君 at 20:20Comments(0)講座歴史

2018年04月22日

能面乱舞


4月20日(金)~6月3日(日)まで八代史市立博物館で平成30年度春季特別展覧会「能面乱舞」、八代城主松井家伝来能楽コレクションが開催されています。
今日はその特別講演会として博物館の館長をされています松井葵之(みちゆき)さんが「松井家と能」というテーマでお話になりました。
葵之さんは時代が時代であればこの八代を預かる立派な殿さまでした。
今日はその殿様がお話になられる能の話とあってお能関係の方々や松井家に関係される方々の聴講が多いように思われました。
松井家は、清和源氏の庶流で、足利家の被官以降、江戸時代を通して大名細川家の首席家老をつとめ、京都は松井郷(京田辺市)を振り出しに、勝龍寺城(長岡京市)、久美城(京丹後市)、九州は木付城(杵築市)、小倉城(北九州市)を経て熊本城(熊本市)の順に主君に奉じて移動します。
その後、生保3年(1646)から明治3年(1870)にかけて、肥後細川藩の支城である八代城を預かった家です。
松井家には武器、武具、書画、能面、能装束、古文書など、大名家並みの質と量を誇る文化財が伝来しています。
これらの松井家の伝来品は一般財団法人松井文庫が所蔵し管理を行っています。
松井文庫は先人たちが守り伝えた文化財を将来に伝えたいという13代当主明之によって昭和59年(1984)に設立されました。
今日の館長の話には能面や能装束などの展示品についての詳しい話はありませんでしたが、松井家に生まれて今日までの生活を通しての思い出話を中心に松井家の能楽の話をされました。
能の稽古が苦手だったことや、松井家の能楽堂が博物館の駐車場あたりにあったこと、その能楽堂が水前寺公園の出水神社能舞台として移設された事、そして能楽堂の瓦は細川家の家紋ではなく松井家の家紋が使われている事、また代々松井家にに伝わってきた能楽が、現在は松井葵之さんの妹、松井笙子(しょうこ)本名立花笙子さんが能楽協会のシテ方(主役)を務める能楽師として活躍されていることなど、その他にも総理大臣を務めた細川護熙さんとはいとこ同士であったことなど色んなことをお話になられました。
松井家は〝先祖が大事にしてきたものは決して粗末にしてはならない〟との教えを大切に守り抜いてきた事が能面108面、能装束300点余りの品々は質、量ともに、全国屈指の作品群として評価されています。
この展覧会の特別公演は28日の土曜日にもその弐「松井文庫の能面・能装束」という話を本館上席学芸員・山崎摂さんが10時30分から話をされます。
是非来館してください。
松井文庫に納められている貴重な品々は八代の宝です。
聴講は無料です。  


Posted by マー君 at 16:47Comments(0)講座

昨日、八代市立博物館未来の森ミュージアムで特別講演会がありました。
講師は熊本県立大学文学部教授の米谷隆史氏でした。
講演内容は「ここまでわかる!熊本弁の歴史」---江戸時代の文献から読み解く---というもので私たちが日常に使っている言葉のルーツを江戸時代の古文書や文学作品、キリスト教関係文献などから分かりやすく解き明かしていく内容のものでした。
話のまとめとして熊本の方言は、近畿地方や(江戸中期以降の)東京地方を除くと、比較的その歴史を知るための資料に恵まれている方言であり九州熊本方言は、確かに京都の古い言葉を残す部分はあるが、古く遡ってもなお、独自の特徴も有していたようである。と締め括られています。
1時間半という講演時間の問題ともともと私自身が地元ではないので方言がよく理解できないこともあり今回の話は少々消化不良ぎみ。
でも学問の領域がどんどん広がって行っていることには感心させられました。


教授 米谷隆史 YONEYA Takashi
1966/6/23生まれ
●所属
文学部 日本語日本文学科
●最終学歴
大阪大学大学院文学研究科博士課程(後期)中途退学(1994年11月)
●学 位
文学修士 (大阪大学)
1992年3月
●職 歴
大阪大学文学部助手(1994年12月〜1999年3月)
熊本県立大学文学部講師(1999年4月〜2004年3月)
熊本県立大学文学部助教授(2004年4月〜 2007年3月)
熊本県立大学文学部准教授(2007年4月〜2014年3月)
熊本県立大学文学部教授(2014年4月〜)
 その他、非常勤講師として過去に、香川大学教育学部・金沢大学
文学部・京都外国語大学外国語学部・熊本大学教育学部及び文学部
・甲子園短期大学日本文化科・山梨大学教育学部に出講
●専門分野
日本語学
Japanese Linguistics
●授業科目
新熊本学 ことば、表現、歴史(全学共通科目)プレゼミナール、日本語史、日本語学史、日本語学演習、日本語学特殊研究(文学部)日本語学特殊講義、日本語学史特殊講義、日本語学特別演習 (文学研究科博士前期課程)日本語学研究、特別研究(文学研究科博士後期課程)
●主な研究テーマ
 語彙、表記法の歴史(特に近世辞書を中心とする研究)
●学会での活動状況
 訓点語学会 西日本国語国文学会 日本語学会
●社会での活動状況
・国文学研究資料館文献資料調査員(2001度〜現在)
  対馬宗家文庫、島原松平文庫(長崎県)、臼杵稲葉家文庫(大分県)、
  天草上田家・熊本大学寄託永青文庫(熊本県)等の調査に従事
・熊本県生涯学習推進センター「熊本県民カレッジ」運営委員
  (企画部会委員も兼任)(2005年度〜現在)
・天草アーカイブズ地域史料調査協力員(2008年度〜現在)
・臼杵藩政史料調査協力員(2009年度〜現在)
・熊本近代文学館協議会委員(2012年2月〜2016年2月)
・熊本県立図書館・熊本近代文学館の機能拡充検討会議委員
 (2013年度〜2015年度)
・くまもと文学・歴史館協議会委員(2016年7月〜2018年5月)
●地域貢献分野のジャンル
 【言語・語学】 【文化・文学・歴史】
●地域貢献に関心を持っているテーマ(キーワード)
 【日本文学】 【歴史】

   


Posted by マー君 at 11:29Comments(0)講座