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Posted by おてもやん at
令和の初めのひと月は今日で終わります。
明日からもう6月です。



雨がたくさん降る時季なのに”水の無い月”って変なのって思われますよね。
「水無月」の”無”は”の”にあたる連体助詞ですので、
「水無月」は”水の月”ということになります。
田植えが済み、田に水を張る必要があることから
”水の月”→「水無月」と呼ばれるようになったようです。

京都では6月30日の「夏越しの祓(なごしのはらえ)」に
「水無月」という和菓子をいただく習慣があります。
日本の行事・暦 より


季節:仲夏(ちゅうか) ※芒種から小暑の前日まで。
夏三か月の中の月。陰暦五月の異名。
仲夏というのは三夏の真ん中にあたる時候の挨拶になります。
三夏とは?
初夏:立夏から、芒種の前日 旧暦4月、今の5月(5月6日頃~6月5日頃)
仲夏:芒種から、小暑の前日 旧暦5月、今の6月(6月6日頃~7月6日頃)
晩夏:小暑から、立秋の前日 旧暦6月、今の7月(7月7日頃~8月7日頃)

  


Posted by マー君 at 07:33Comments(0)
文化財保護法公布記念日(5月30日 記念日)
1950年(昭和25年)のこの日、「文化財保護法」が公布された。
「文化財保護法」とは、国宝・重要文化財などを保護・活用するための基本となる法律で、国民の文化的向上と、世界文化の進歩に貢献することを目的としている。
1949年(昭和24年)1月26日に奈良・法隆寺の金堂で火災が発生し、世界的にも有名であった金堂の壁画のほとんどが焼失してしまった。これをきっかけに、文化財保護政策の抜本的改革が望まれ、従来の「史蹟名勝天然記念物保存法」「国宝保存法」「重要美術品等保存法」をまとめた「文化財保護法」が制定された。
この法律では、個人の土地で土器や石器などを発見した場合、その出土品(遺物)は埋蔵物として、発見者が所轄の警察署長に発見の届け出を行うこととされている。
法隆寺の金堂が全焼した1月26日は「文化財防火デー」、文化財保護法が施行された8月29日は「文化財保護法施行記念日」となっている。
1月26日・・文化財防火デー
5月30日・・文化財保護法公布記念日
8月29日・・文化財保護法施行記念日
現在、法隆寺金堂にある壁画は1967年から1968年(昭和42 – 43年)にかけて、当時の著名画家たちによって模写されたものである(1940年から開始された模写とは別物)。焼け焦げたオリジナルの壁画は法隆寺内の大宝蔵殿の裏手の収蔵庫に、焼け焦げた柱などと共に保管されている。収蔵庫は長年非公開となっているが、耐震性に問題がないことが判明したことから、法隆寺では焼損壁画を将来公開する方向であり、2021年を目途に公開の時期と方法が検討されている。

Wikipedia参照
法隆寺の金堂が全焼したことにより文化財保護法が出来ましたが、考えてみれば何か起きないと法律の整備もおぼつかない我が国の状況を考えると、川崎の児童殺傷事件についてもこのような事件が起きるとは誰も思いも付かなかったと言って済まされるものではありません。
アメリカでは銃の乱射事件はしょっちゅう起きています。
そう考えると日本もそんな時代になったのかな?と思わざるを得ません.。   


Posted by マー君 at 09:06Comments(0)日記つぶやき
パリの公立小学校では、児童の登下校は原則、保護者が付き添うのが決まりだ。放課後、保護者が迎えに来ない子は学校にとどめ、1人で帰さない
▼共働きが当たり前のお国柄。夫婦のどちらかが仕事を早じまいして迎えに行くのは普通の光景だ。日本と比べ離婚率が高く、ひとり親世帯は多いが、別れた夫と妻が話し合い交代で送迎するケースも
▼仕事が忙しいときは、祖父母や友人を頼ったり、ベビーシッターを手配したりと、やりくりに苦労するという。誰が送迎するか学校への届け出も必要だ。面倒だが不満は聞かない。すべては子どもの安全のためだから。近くでサッカーの国際試合などがあれば、通学路に柵を設け、警察官が見守ることも
▼治安が良いはずの日本も、通学にこれくらい神経をとがらせねばならない世の中になったのか。川崎市で男が通学バスを待っていた小学生らを次々と包丁で刺し、6年の女児と大人の男性が亡くなった。いつもの平和な登校風景は凄絶(せいぜつ)な地獄絵に変じた
▼男は自分の首を刺して死亡。犯行の動機や背景ははっきりしない。だが理由がどうあれ、無抵抗の子どもの命まで奪う許し難い凶行である。犠牲者を心から悼む。居合わせた子どもたちが受けた心身の傷、家族の怒りや不安を思えば胸が痛む
▼安全な通学路に潜む魔から子どもを守るにはどうすれば-。こんな事件が起きるたびに繰り返される悲しい問いだ。
2019/05/29 西日本新聞 【春秋】

この事件、目的や意図は何もわからない。
スクールバスを待っていた6~12歳の児童らを次々と包丁で襲い19人が刺され女児ら2人が死亡しました。
犯人は川崎市に住む51歳の職業不詳岩崎隆一容疑者だというが犯行後頸のあたりを包丁で刺して自殺している。
犯行の動機などはわかっていない。
凶器については使用した2本の包丁と余分にあと2本がリュックの中から見つかっている。
この様な事件はいつから起りだしたのだろうか?
記憶をたどってもあまり思い出せない。
昭和の頃にはあまりなかったように思う。
人間が人間らしく生きて行けなくて、どこか壊れた人が引き起こす行動のようにも思えます。
立法府でも対策を考えるとの話も出ているが、いい対策が取れれば良いのだが。

  


Posted by マー君 at 11:26Comments(0)つぶやき記事

2019年05月28日

認知症

今年になって認知症になった姉が今大阪の方で入院をしています。
入院した時は色々な病気を抱えてながら入院したようですが現在、体調の方は回復したとの知らせがありました。
5月末から6月初めに帰郷して兄達と見舞に行く予定にしています。
母も認知症になって長い入院生活の末、今の姉の年齢でなくなっています。
何十年も前の話です。
昨日の新聞に認知症の事が取り上げられていました。
ほとんど解明されていない認知症のこと、もっともっと研究が進んで欲しいし、薬の開発や予防法が解明されることを望みます。

西日本新聞 社説 2019/05/27
認知症対策大綱 大切なのは共生の視点だ
政府が認知症対策を強化する新たな大綱素案を示した。近く正式決定される見通しで、2015年策定の国家戦略(新オレンジプラン)に代わって国の施策の土台となる。
 認知症になっても自分らしく暮らせる「共生」社会の実現とともに、発症を遅らせる「予防」が重要な施策の柱として打ち出された。
 団塊の世代が75歳以上になる25年までに目指すべき、各種施策の数値目標も示された。認知症疾患医療センターの整備など、目標値の設定が妥当な取り組みも確かにある。だが、発症を遅らせることで、70代における認知症の人の割合を10年間で1割低下させるという目標には、強い懸念を禁じ得ない。
 認知症の発症メカニズムの解明はまだ道半ばである。根治療法もない。運動や健康的な食事、禁煙が予防につながるとされるが、明確な科学的効果が立証されているわけではない。多くの疾患予防につながる健康法と考えるべきだろう。
 認知症の研究や薬の開発に力を入れる必要があることは、言うまでもない。九州大は50年以上、福岡県久山町で生活習慣と疾患の関連を継続調査している。認知症も対象だ。こうした疫学調査を積み重ね、科学的根拠に基づく予防法を模索することも大切なことだ。
 とはいえ、画期的な根治薬が開発されない限り、社会の高齢化とともに認知症の人は増え続ける。認知症の高齢者は15年時点で約520万人だったが、25年には約700万人に達するという推計がある。実に高齢者の5人に1人という割合だ。
 現状では、どんなに生活を律しても、誰もが認知症になる可能性がある。患者数の減少目標まで掲げ、予防の必要性を過剰に強調する風潮が進めば、「認知症になったのは、その人が予防努力を怠ったから」といった偏見を広げかねない。危うさをはらんだ数値目標と言えよう。
 認知症対策の最も大切な柱は、やはり「共生」社会の実現にあると考えるべきだ。
 認知症になっても、自宅などに閉じこもらず、気軽に外出して、ごく普通に生活できる社会が目標だ。新たな移動サービスの導入や各種施設のバリアフリー化の推進を期待したい。
 医療と福祉、司法や市民が緊密に協働し、支援とケアのきめ細かいネットワークを地域に構築することも肝要だ。認知症の人を地域で見守る運動に取り組む福岡県大牟田市のような自治体の活動も参考になるだろう。
 認知症になっても住み慣れた地域で安心して暮らせる地域社会は、誰にとっても暮らしやすい街であるはずだ。



BPSD(行動・心理症状)
幻視
実際には見えないものが本人にはありありと見える症状です。見えるものの多くは小動物や人で「ねずみが壁を這い回っている」「知らない人が部屋に座っている」などと、具体的です。また、人形を女の子と見間違ったり、丸めてある洋服を動物と見間違うなどの「錯視」もよくみられます
【主な症状】
■行動症状
・攻撃的行動・徘徊・拒絶・不潔行為・異食

■心理症状
・抑うつ・人格変化・幻覚・妄想・睡眠障害

BPSDが現れると、日常生活に大きな支障をきたすことが多く、
本人はもちろん、介護者への、負担も大きくなりがちです。
そのため、認知症の介護では、できるだけBPSDが現れないよう介護することも大切になります。

認知症のうち、およそ半数はアルツハイマー型認知症です。次に多いのがレビー小体型認知症、そして血管性認知症と続きます。これらは「三大認知症」といわれ、全体の約85%を占めています。残りの15%の認知症の中には、下で説明している治るタイプの認知症などがあります。

三大認知症のそれぞれの特徴  


Posted by マー君 at 15:47Comments(0)日記記事

2019年05月27日

百人一首の日

5月27日の記念日といえば「百人一首の日」というものがあります。
誰もが一度は耳にしたことのある、百人一首や藤原定家の名前、ボケ防止のためにおさらいをしてみました。

1235年(文暦2年)のこの日、公家・歌人の藤原定家(1162~1241年)によって『小倉百人一首』が完成された。
藤原定家の日記『明月記』の文暦2年5月27日の項に、定家が親友の宇都宮入道蓮生(頼綱)の求めに応じて書写した和歌百首の色紙が、京都・嵯峨の小倉山荘(嵯峨中院山荘)の障子に貼られたとの記述があり、この記事が小倉百人一首の初出ではないかと考えられている。
この色紙は障子の装飾のために作成されたもので、当時はこの百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。その後、小倉山の山荘で和歌百首を選んだということから「小倉百人一首」の名称が定着した。
百人一首とは、100人の歌人の和歌を、1人1首ずつ選んでつくった和歌集のこと。『後撰百人一首』や『源氏百人一首』などもあるが、通常、百人一首といえば『小倉百人一首』を指し、歌がるたとして広く用いられている。藤原定家が選んだ100首の内訳は、恋43、四季32、旅4、別離1、その他20である。

雑学ネタ帳より

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。『小倉百人一首』の撰者で権中納言定家を称する。
●時代
平安時代末期 - 鎌倉時代初期
●生誕
応保2年(1162年)
●死没
仁治2年8月20日(1241年9月26日)
Wikipediaより  


Posted by マー君 at 14:31Comments(0)日記
人生についての考え方を下重暁子さんの生き方から捉えた記事が5月21日の【春秋】にありました。
うなずけるものを感じたので日記に残すことにしました。

実年齢は82歳。でも還暦で生まれ変わったので22歳。不思議なことに、これまでの人生で今が一番頭も体もさえている。判断力や決断力も良くなってきた、と自信を持って思う…。作家の下重暁子さんは近著でこうつづっている
▼タイトルは「年齢は捨てなさい」(幻冬舎新書)。人は誰しも年を取る。自然の摂理にあらがうことはできない。かといって年齢で人の価値が決まるわけでもない。そう分かっていながら気にする
▼人の年齢をとかく聞きたがり、自分と相手を比較したり、「もう年だから…」と挑戦を諦めたり。役所も年齢で機械的に高齢者と後期高齢者を区分する。そんな世の中に向けたアンチテーゼだ
▼人生100年時代。作家で言えば、90代の佐藤愛子さんや80代半ばの五木寛之さんらもベストセラーを連発中。作品で共通するのは、老いと向き合いつつ人生を前向きに捉える姿勢だ
▼70歳までの雇用を企業の努力義務とする-。政府がこんな方針を打ち出した。昨今の労働力不足や年金財政とも絡む話だ。賛否は分かれよう。しかし、生きがいの創出で健康寿命が延び、医療費の抑制にもつながるのなら、それもよし
▼常識に縛られると進歩は生まれない。きょう5月21日は歴史的な日。92年前、あのリンドバーグが大西洋横断飛行に成功した。夢を持つことに年齢制限はない。人生の旅も長距離。いくつになっても心の翼は広げておきたい。



下重 暁子(しもじゅう あきこ、1936年5月29日 - )は、日本の作家・評論家・エッセイスト。栃木県宇都宮市出身。元NHKアナウンサー、JKA会長。学位は文学士
下重家は江戸時代、各地の御典医に多かった姓で、暁子の下重家は石見国浜田藩の御典医を代々勤めた。
9歳の時に疎開先の奈良で終戦を迎える[2]。
早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後の1959年に、アナウンサーとしてNHKに入局。名古屋放送局や東京の放送センターに勤務した。野際陽子はNHKアナウンサー時代の1年先輩で、名古屋放送局での同僚でもあった。
NHKからの退職後に女優へ転身した野際に続いて、1968年にフリーアナウンサーへ転身。
●「下重暁子」は旧姓。結婚した時改姓したが、旧姓のままでいたかった、としている。選択的夫婦別姓にも賛同し、死ぬ前には事実婚に戻し、「下重暁子」として死にたい、としている。「夫婦同姓は明治期からの制度であり、伝統でもなんでもない。」「通称利用で現制度の不利益が緩和されるなどということはない。」としている
wikipediaより
  


Posted by マー君 at 09:21Comments(0)日記
今日の春秋、人を信じることの善し悪しを語っています。
悪徳商法の事にも触れてお年寄りの信用に漬け込んでの犯罪は許しがたいものがあります。
わたしも先日、パソコン操作中に、突然警告音が鳴りすぐに電話するように表示、その後パソコンの遠隔操作による詐欺にあいました。
ウィルス除去のなりすましを装ってパソコンの中を改造し高い代金をだまし取るという手口です。
注意しなければならないのはマイクロソフトを装おい警告音とともにでる電話番号05031853633
050で始まる電話には要注意。
改造が終わって何かあれば連絡せよとパソコン画面下に出る
メールアドレスgijutsusha247gmail.com電話番号0120-938-169
その後パソコンの調子はどうかといかにもケアするような電話が2回、電話番号は通知不可能になっています。
くわしい方に相談するとやはり詐欺の一種と話されました。
この世の中、何があるかわからない。
騙されないよう要注意‼


「人」と「言」を合わせれば「信」という漢字になる。神に誓いを立てた上で人同士が約束を交わすという意味になり、そこから「まこと」の読みも生まれた。だから人を信じることは美徳である。そう言いたいが…
▼お年寄りの信用に付け込む特殊詐欺や、有権者の信頼を軽んじる政治家の暴言が横行するご時世。人を信じることは美徳だが、もろ手を挙げてお勧めはできない-そう言わざるを得ない
▼それでも太宰治の小説「走れメロス」の主人公は語る。「人の心を疑うのは、最も恥ずべき悪徳だ」。邪知暴虐の王に人が信じ合う尊さを見せつけようと、メロスは艱難(かんなん)辛苦を越え、ひた走る。無二の友との約束を果たし抱擁するラストシーンが感動的だ
▼そんな爽やかな抱擁ならぬ握手の報道が沖縄から届いた。帰郷の途中で財布をなくし困っていた那覇市の崎元颯馬(そうま)さん(17)。居合わせた埼玉の医師猪野屋博さん(68)が名乗りもせず貸してくれた飛行機代6万円を、1カ月後に返せた。崎元さんの恩人捜しが報じられ、それが猪野屋さんに伝わった
▼周囲に「だまされた」「人を見る目がない」とまで言われていた猪野屋さん。崎元さんと再会し「人を裏切るのが当たり前の時代に、そうではないと示せた」と喜んだ
▼メロスの行為に改心した王は「信実とは、決して空虚な妄想ではなかった」と語る。「信」を守ったお二人に心から拍手を送りたい。
2019/05/25 西日本新聞 【春秋】  


Posted by マー君 at 11:08Comments(0)パソコン

<わが国経済社会の発展は目ざましいものがありますが(中略)公害も広域化、複雑化の度合いを深め、公害問題は、いまや緊急な解決を迫られる政策課題となっております>。ちょうど50年前の1969年、当時の厚生省が初めて発行した「公害白書」の前文だ
▼高度成長期の日本。地域開発や重化学工業の発展に伴って大気や水質の汚染が進み、国民の健康や生活環境が脅かされた
▼水俣病や四日市ぜんそくなど公害病の発生を受け、経済を優先してきた国もようやく腰を上げた。67年に公害対策基本法が制定され総合的な公害対策が動きだした
▼公害白書は「環境白書」に受け継がれ今に続く。半世紀を経て成熟社会が到来したけれど、公害=環境問題が「緊急な解決を迫られる政策課題」であることは変わらない。その一つが、広域化、複雑化して世界の海を汚し、生態系を脅かすプラスチックごみ問題だ
▼国内では年約900万トンのプラごみが発生している。その処理はリサイクル名目などでの輸出に頼っているのが実情だ。2017年に中国がプラごみの輸入を禁止したため、各地で未処理のプラごみが山積みという。21年には国際条約でプラごみ輸出入が規制対象に。発生量の抑制と国内処理の促進は待ったなしだ
▼日本は国民1人当たりの使い捨てプラごみ量が世界2位という。日々、手にするレジ袋やペットボトル…。それ、本当に必要ですか。

2019/5/24 10:52
西日本新聞 オピニオン面

世界的な関心が高まっているプラスチックごみによる海洋汚染について、日本財団と日本コカ・コーラは22日、海洋プラが河川から海へ流出するメカニズムについての共同調査を開始すると発表した。大阪で20カ国・地域(G20)首脳会議(サミット)が開かれる6月に中間報告をまとめる。不明だった海洋プラの発生過程を明らかにし、効果的な回収や流出防止のための政策立案などにも寄与する。


2日前の産経新聞にもこんな記事がありました。
市町村ではごみを分別したり、なるべく買い物袋を貰わないようにエコバックでの買い物を推奨しています。
それでも減らないなんてどこに抜け穴があるんでしょうか?  


Posted by マー君 at 19:49Comments(0)記事
〝ひょうたんなまず〟について調べてみるとこの言葉、けっこう奥が深いようです。
〝ひょうたんなまず〟という言葉は室町時代に描かれた如拙筆の瓢鮎図から出た言葉のようです。
当時の鮎はナマズを指しており、記紀を含めほとんどがアユを年魚と表記しています。
現在、アユを「鮎」の字が当てられている由来は諸説あり、神功皇后がアユを釣って戦いの勝敗を占ったとする説や、アユが一定の縄張りを独占する(占める)ところからつけられた字であるというものなど諸説あります。
アユという意味での漢字の鮎は奈良時代ごろから使われていましたが、一般的に鮎はなまずを指す言葉として使われていたようです。


●瓢箪鯰・ひょうたんなまず・・デジタル大辞泉の解説
《「瓢箪で鯰を押さえる」から》とらえどころのないようす。要領を得ないようす。また、そのような人。
[補説]歌舞伎舞踊別項。→瓢箪鯰

●瓢鮎図・ひょうねんず・・三省堂 大辞林の解説
水墨画。如拙筆。画は瓢簞(ひようたん)で鮎(なまず)を押さえるという禅の公案を題材にしたもので、図上に大岳周崇ほか三〇人の禅僧の賛と応永22年(1415)の年紀がある。国宝。京都退蔵院蔵。

京都国立博物館の説明

国宝 瓢鮎図
如拙筆
紙本墨画淡彩
111.5 x 75.8 cm 室町時代(15世紀)
<京都 退蔵院>

場面は小さな川が流れ込む沼のようなところ。水辺には草や竹なども描かれています。後ろには高い山があらわされていますが、まわりの景色は霧(きり)や靄(もや)にかすんでしまっていて、よくみえません。たぶん、湿度が高いのでしょう。絵の中ほどには、みすぼらしい姿をした男が立っています。顔は髭(ひげ)だらけで、なんとも異様な風体(ふうてい)ですが、もっと変なのは両手に大きな瓢箪(ひょうたん)をもっていることです。しかもその瓢箪を差し出した先には、一匹の巨大な鯰(なまず)も描かれています。いったい、この男は何をしているのでしょうか。この絵は何をあらわしているのでしょうか。ほかに例のない、実に不思議な絵です。
 例がないといえば、絵の上に施された詩の数の多さも同様でしょう。絵の上に詩を書くということは室町(むろまち)時代の水墨画(すいぼくが)ではけっして珍しいことではありませんが、ふつうどんなに多くても十数詩ほど。それに対してこの絵にはひとり一詩ずつ、全部で三十一もの詩があらわされているのです。しかも詩を書いた人たちの顔ぶれは、すべて十五世紀初め頃の京都の大禅宗寺院のトップクラスばかりです。先に述べた奇妙な図柄といい、こうした詩の多さといい、この作品がかなり特殊なものであることは容易に想像できることでしょう。

国宝 瓢鮎図(部分)
如拙筆
<京都 退蔵院>

 幸い、この絵の上には詩とともに制作のいきさつを記した文章が添えられています。それによると、この作品は「瓢箪で鯰をおさえとることができるか」というテーマに基づいたものであることがわかります。発案者は室町幕府の第四代将軍の足利義持(あしかがよしもち=1386-1428)で、その命令により、絵は如拙(じょせつ)という画僧(がそう=僧でありながら絵も描く人)が描き、またその問いに対する答え(思いや感想)を禅僧たちが詩の形で書き付けたこともそこに記されています。なるほど、そういわれると、確かに先の図柄もそのようにみえますし、また将軍の命令であれば、数多くの高僧たちがこぞって参加しているのも当然のことといえましょう。
 では、本当に「瓢箪で鯰をおさえとる」ことができるのでしょうか。いやいや、そんなことができるはずはありません。たぶん発案者の義持でさえ、正しい答えが示されるとは思っていなかったでしょうし、はじめから期待もしていなかったことでしょう。むしろ義持にとっては、こういった難しいテーマを如拙や禅僧たちといっしょに考えることこそが第一の目的であり楽しみであったのです。そもそも「瓢箪で鯰をおさえとる」というテーマは「鮎魚(ねんぎょ。本来、『鮎』は鯰を意味する)竹竿(ちっかん)に上(のぼ)る」(苦労して成功するという意味)という中国のことわざを土台として、それに瓢箪を付け加えたものと考えられています。つまり、鯰や竹(絵の中に竹が描かれていたことを思い出してください)から連想される「滑(すべ)る」というイメージに、やはりツルツルした瓢箪を加えて成ったのが、先のテーマなのです。なんとも、ひとを食った問い掛けというべきでしょう。これは明らかに知的な遊びです。

国宝 瓢鮎図(部分)
如拙筆
<京都 退蔵院>
 ですから、如拙にしても禅僧たちにしても、楽しみながら実に意欲的にそれぞれの仕事をこなしているようです。まず如拙においては鯰・瓢箪・竹・水流・岸辺などいずれも「滑る」を強調するように曲線的に描く一方、瓢箪をもつ男だけを直線的に滑稽(こっけい)に表現することで、巧妙(こうみょう)に男の行為の愚(おろ)かさをあらわしています。禅僧たちの方はというと、各人が勝手な想いを書き付けているようにみせながら、実は連句(れんく=一種の連想ゲーム)という高度なテクニックを使ってお互いに言葉の遊びを行っているのです。また、先のいきさつを記した文章の中に「(義持公が投げかけた問いは)たいへん深い意味がある」というくだりがあるのですが、これを真剣にとらえてはいけません。おそらくこの文を書いた禅僧は笑いをかみ殺しながらしたためたことでしょうし、これを読んだ義持はきっと腹を抱えて笑い転(ころ)げたに違いないからです。
 義持を中心とする集(つど)いがいかに自由な雰囲気(ふんいき)に満ちていたかをはっきりと物語るこの「瓢鮎図」。室町時代水墨画中の傑作(けっさく)です。 
美術室 山本
1997年4月12日  


Posted by マー君 at 08:45Comments(0)日記記事

今日の新聞に面白い記事がありました。
この人を辞めさせられるのはトランプ大統領しかいない。
そんなニュアンスで風刺した文章です。
国会で辞職勧告をしても辞めない議員、さらにこの国の言論の自由が危ぶまれるとの発言で対抗も‼
東大は出ているものの憲法や法律の理解があまりにもお粗末なこの人には選挙で選ばないことくらいしかできないのかな。  


Posted by マー君 at 10:06Comments(0)記事

2019年05月21日

小満




小満
5月21日頃(2019年は5月21日)。および芒種までの期間。
太陽黄径60度。
立夏から数えて15日目頃。
陽気が良くなって、万物の成長する気が次第に長じて天地に満ち始めることから小満といわれています。
ようやく暑さも加わり、麦の穂が育ち、山野の草木が実をつけ始め、紅花が盛んに咲き乱れます。
梅の実がなり、西日本では、走り梅雨がみられる頃。田植えの準備を始める頃でもあります。
●【暦便覧】では
「万物盈満(えいまん)すれば草木枝葉繁る」
盈満(えいまん)とは「物事が満ち溢れること」という意味を持っています。
「陽気がよくなり、草木などの生物が次第に生長して生い茂る季節」という意味があります。
●小満の由来
秋にまいた麦の穂が育ち、ほっとひと安心すると言う意味から「小さな満足」ということで小満という名がついたと言われています。
徐々に暑さが感じられるようになり、生活がだんだんと満ちてくることを捉えて、小満と言われるようになった説や、実はなってきているがまだ成熟には至っておらず、あともう少し、という意味から小満となった説などもあります。

走り梅雨
本格的な梅雨に入る前のぐずつく天候のこと。通常は、この後晴れた日が続き、その後本格的な梅雨に入ります。
「梅雨の走り」ともいいます。



この時期、我が家の紫陽花が咲きかけています。

近くの田んぼで田植えも始まっています。  


Posted by マー君 at 09:48Comments(0)

2019年05月20日

どうなるのかな?

1937年、モンゴルのデミド国防大臣はモスクワに招かれた。名目は「ソ連軍演習の観覧」。シベリア鉄道に乗車した2日後、デミドと随員の2人は車内で急死した
▼遺体はそのままモスクワへ運ばれる。妻は返還を求めたが、当局は大急ぎで火葬し遺骨だけを戻した。発表は食中毒死。けれど国民は「専属のコックを同行しないとソ連からは生きて帰れない」と毒殺を疑わなかったという
▼モンゴル軍の最高責任者だったデミド。隣国ソ連からの軍隊進駐や軍事条約締結に強く反対していた。ソ連にとっては排除したい人物だったに違いない
▼当時、ソ連の指導者はスターリンだった。治世では「国家反逆」「スパイ」のぬれぎぬを着せて政敵など数百万人を粛清したと伝わる。謎の死を遂げた者もデミドだけではあるまい
▼かつてスターリンの誤りを批判したはずのロシアで今、再評価の動きがあるそうだ。町から撤去されていた胸像が新設され、世論調査で「称賛、尊敬」の肯定評価が過半数の51%という。歴史の風化か、忘却か。もっともロシア国民も日本人に同じ不安を抱いたかもしれない。国会議員が北方領土の「武力奪還」を口にするようでは
▼強いリーダーを好むのはロシアの国民性にしても、独裁者への懐旧には不気味な風潮を感じる。劇作家ブレヒトの有名なせりふ。「英雄のいない国は不幸だ」「いや、英雄を必要とする国が不幸なんだ」

2019/5/20 西日本新聞 春秋


色々考えさせられる文章です。
作者は多分、「北方領土は戦争で」などの発言をして世の中を騒がせている丸山穂高衆院議員の事に触れたかったのかも知れません。
日本維新の会は除名処分になりましたが国会議員としては無所属で活動を続けるそうです。
誰が考えても国会議員としての資質に欠ける人をやめさせることが出来ないなんてこれもまたおかしな話ですね。  


Posted by マー君 at 20:13Comments(0)記事

今日の新聞見出しは「日向灘 周期地震警戒を」、「M7.1級 30-40年で発生」、「津波増幅の恐れも」
日向灘で地震が頻発している。10日午前には最大震度5弱の地震が発生し「南海トラフ巨大地震」を危ぶむ声が上がった。気象庁や専門家は巨大地震との関連には否定的だが、日向灘には別の脅威も潜んでいる。周期的に「必ず起きる」とされるマグニチューウド(M)7級の単独地震と津波だ。津波が増幅する恐れのある現象も観測されており、専門家は「日向灘は、ここ数十年で最も危険性が高い」と警鐘を鳴らす。
西日本の太平洋側では、フィリッピン海プレートが西北方向に年間数センチ動き、陸側のプレートの下に沈み込んでいる。この二つのプレートの
境目が南海トラフだ。日向灘は西の端に当たり、今年は震度1以上の有感地震が28回発生。半年足らずで年間の最多発生記録を更新している。
10日のM6.3の地震は深さ約25㌔のプレート境界付近で発生。国土地理院の解析で、宮崎市内の基準点が島南東に約1㌢動く地殻変動が確認された。南海トラフ巨大地震と同じ「逆断層型」だが、気象庁は「直ちに巨大地震にはつながらない」との見解。岡村真・高知大名誉教授(地震地質学)も「M6・3程度ではプレートを大きく破壊する力はない」と説明する。
一方、日向灘ではM7以上のプレート境界地震が周期的に発生している。政府の地震調査研究推進本部によると、M7・1前後は「30年以内に70~80%」とされる。日向灘の地震に詳しい京都大防災研究所宮崎観測所の山下裕亮助教(観測地震学)は「日向灘のプレート境界地震の震源域は、宮崎県延岡市沖の北部と、宮崎市沖の南部に分けて考えるべきだ」と提唱する。
北部震源域は1662年と1968年にM7・6前後の大地震を起こしており、46年の南海地震(M8・0)の震源域にも近い。今年3月27日にM5・4の地震が発生しており、岡村氏も「この地震域で大地震が起きれば、南海トラフにつながる可能性を簡単には否定できないかもしれない」と話す。
山下助教は、1899年▷1931年▷61年▷96年ーと30~40年周期でM7・1級の地震が起きている南部震源域に注目する。この震源域で発生した10日の地震以降、さらに南東側のプレート境界の浅い部分で、揺れを感じない程度に地殻が変動する「ゆっくり滑り(スロー―スリップ)」が活発化しているからだ。スロー地震はプレート境界の強度が弱まっていることを示すという。山下助教は「この状態でM7級の地震が起き、境界の浅い部分も連動して滑れば津波を増幅させる恐れがある」と指摘。「普段から日向灘単独の地震や津波のリスクを意識し、命を守る行動を取ってほしい」と訴えている。
2019・5・19(日) 西日本新聞 古川努

もし南海トラフ巨大地震が近くで起きた場合、我々はどう対処すればいいのでしょうか?
危険であることは以前から分かっている。
でも個人で出来る事といえば逃げることくらいしかありません。
いつ起きるかわからない地震への恐怖は拭えません。
であるなら、せめて福島の原発事故のような2次災害が起きないようにして行きたいものです。
南海トラフ地震が起きて九州に住む人に関係する原発は愛媛県西宇和郡伊方町の四国電力伊方発電所(3号機) 、鹿児島県薩摩川内市の九州電力川内原子力発電所1号機と2号機だと思います。この2カ所の原発は早く廃炉にして危険性を取り除くべきです。
これから先、何年になるかわからないが、必ず起きる地震対策で2次災害を確実に防げることは原発事故を繰り返さないことではないでしょうか。
  


Posted by マー君 at 11:00Comments(0)記事地学

2019年05月18日

ことばの日

人類が人類たらしめているのは言語だそうです。
全ての人類は何らかの言語を持っています。
しかし文字を持たない民族も存在します。
以前このブログで紹介しましたオーストラリアの原住民族アポリジニも文字を持たなかったので絵を描くことによって仲間への伝達手段としました。その絵はアポリジニアートと呼ばれるもので以前、航空会社に勤務していた内田眞弓さんがこのアートを初めて日本に紹介しました。
言語と言葉について調べてみますと・・
言語とは、世界のそれぞれの国で使われている言葉を表しており、言葉とは、それぞれのワード(単語)という意味もあり、また言語を分かりやすく言うために使われる。・・だそうです。



今日は、
ことばの日(5月18日 記念日)
日付は「こ(5)と(10)ば(8)」と読む語呂合わせから。言葉について考え、言葉を正しく使えるように心がける日。
「言葉」とは、人間が話す・書くなどの行為をする事によって情報伝達手段となり得る、意味があるものの総称で、心・気持ち・思い・考えなどを表す手段の一つである。漢字では「詞」「辞」とも書く。
言葉(ことば)の語源・由来
言葉の語源は、「言(こと)」と「端(は)」の複合語に由来するとされる。古く、言語を表す語は「言(こと)」が一般的で、「言」には「事」と同じ意味があり、事実にもなり得る重い意味を持っていた。そこから、事実を伴なわない口先だけの軽い意味を持つ語として、「端(は)」が付けられて、「ことば」という語が生まれたとされる。
平安時代前期の『古今和歌集 仮名序』に「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」(和歌というのは、人の心をもととして、さまざまな言葉となったものである)とあるように、和歌に「言の葉」が使われていた。その後、「言の葉」が多く用いられるとともに、「ことば」にも「言の葉」の意味が含まれていき、「言葉」は言語を表す最も一般的な語となった。  


Posted by マー君 at 11:06Comments(0)日記

2019年05月17日

日本の原発の行方は?


フランスの原子力発電所に謎の飛行体が迫った。飛行制限を無視し、原子炉近くの使用済み核燃料貯蔵プールの建屋に衝突-。昨年7月の出来事だ
▼飛行体の外見は正義のヒーロー、スーパーマンにそっくり。正体は環境保護団体グリーンピースが飛ばしたドローンだった。原発は「空から簡単に接近でき、テロ攻撃に極めて弱い」ことを証明するためだったという
▼目的はどうあれ許されない危険行為だが、もし爆弾やミサイルだったらと想像すれば、ぞっとする。実際、高層ビルに旅客機を激突させる米中枢同時テロも起きた。攻撃を受ければ大惨事となりかねない原発である。テロへの備えは万全でなければならない
▼日本も人ごとではない。原子力規制委員会は、テロ対策施設が期限内に完成しなければ原発の運転を停止させる-と決めた。施設は航空機の衝突を想定し、原子炉を遠隔操作して安全を保つためのものだ。現状のままなら、九州電力でも川内、玄海両原発の4基が順次、停止することになる
▼電力各社は期限延長を求めている。だが、これは東日本大震災を踏まえて決めたルールだ。甘えを許さない規制委の判断は当然だろう
▼福島原発では震災前から津波襲来の恐れが指摘されていた。にもかかわらず対策は先送りされ甚大な被害を招いた。その教訓を忘れてはならない。恐ろしい飛来物から原発を守るスーパーマンは自ら生み出さねば。
=2019/05/17付 西日本新聞朝刊=

東日本大震災から8年がたちます。
あのとき東京電力の福島第一原子力発電所が大きな事故を起こし今も故郷に帰れない人が沢山います。
毎日新聞の世論調査では原発再稼働について賛成55%、反対26%となっていますがなかなか原発をやめられないのは何故なんでしょうか?
●nuke
1 核兵器(の);水爆(の).
2 原子力発電所(の).   


Posted by マー君 at 12:26Comments(0)世の中記事

2019年05月16日

仁徳陵??? 世界遺産へ

2016年に「天皇陵」についてこんな記事があります。
正確な調査もせず「天皇陵」を指定する、宮内庁の奇妙なご対応
●学説と異なる天皇陵「指定再考を」(毎日新聞 7月1日)
河野太郎行政改革担当相は30日、堺市堺区の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)を視察した。その際、継体天皇陵を例に、「天皇陵と言われているものに間違いがあってはいけない」と述べ、歴史学や考古学の定説と異なる陵墓については、指定を改める必要があるとの考えを示した。
河野氏は観光資源として価値のある国の施設の開放を進めており、視察はその一環。宮内庁は太田茶臼山古墳(大阪府茨木市)を継体天皇陵と指定しているが、学説上、継体天皇陵として有力なのは、大阪府高槻市の今城塚古墳とされる。
河野氏は視察後の取材に「天皇陛下が参拝される場所が間違っているというのは、大変失礼なことになる」と述べ、「専門家から見て時代が合わないところは、宮内庁も謙虚に耳を傾けていかなければならない」と指摘。同行した宮内庁陵墓課の担当官は「現在の陵墓の治定(指定)をしっかり守るのが基本。100%の証拠があれば変更するが、学説や時代によって陵墓の治定が変わるのは望ましくない」と反論した。
「仁徳陵」世界遺産へ
ユネスコ機関勧告、陵墓は初
国連教育科学文化機関(ユネスコ)の諮問機関は13日、日本最大の前方後円墳「仁徳天皇陵古墳」(大山古墳、堺市)を含む大阪府南部の「百舌鳥・古市古墳群」を世界文化遺産に登録するよう勧告した。全49基の古墳が対象。文化庁が14日未明、発表した。6月30日~7月10日にアゼルバイジャンで開かれるユネスコ世界遺産委員会で正式に決まる見通しで、天皇や皇族が葬られた「陵墓」が世界遺産になるのは初めて。
委員会は勧告を尊重するのが通例で、登録されれば日本の世界遺産は文化19、自然4の計23件。文化遺産の登録は2013年の「富士山」以降7年連続。
勧告は、形や大きさも多彩な古墳が造られた歴史的価値を「傑出」と高く評価し、適切な保存管理も認めた。ただ古墳の周辺に市街地が広がるとして、開発圧力への懸念を指摘。文化庁と地元自治体は、開発が古墳に与える影響を予測し、早期に対策を講じる仕組みづくりに取り込む。
古墳群は、4世紀後半から5世紀後半までに築造された49基で構成。墳丘の長さ486㍍で「世界最大級の墳墓」とも呼ばれる仁徳天皇陵古墳
をはじめ、425㍍の前方後円墳「応神天皇陵古墳」(誉田御廟山古墳、羽曳野市)から数十㍍規模の円墳まである。一部は国史跡として保護し、陵墓などは宮内庁が保全管理している。
政府は、多彩な墳墓が集中して残る世界的にもまれな事例だと強調。「墳墓が権力を象徴した時代の政治・文化を伝える物証」として18年、ユネスコに推薦した。
被葬者は?続く議論
宮内庁が仁徳天皇陵として管理する日本最大の大山古墳(堺市、5世紀)は、歴史的にいくつもの名前で呼ばれてきた。
大山古墳は明治時代に国が「仁徳天皇陵」に指定したが、1969年に考古学者の故森浩一氏が「実際に仁徳天皇という人物が葬られたかは分からない。学者が仁徳天皇陵と呼ぶと、それが事実と誤解される」と指摘。仁徳天皇の墓に指定された古墳、という意味で仁徳天皇陵古墳と呼んだ。これを機に、学会では陵墓の年代や被葬者論争が活発化。森氏は76年、天皇名を外し、古い地名などから「大山古墳」という名称を再提唱した。 
現在の教科書では「大山古墳」か江戸時代の地名を尊重した「大仙陵古墳」という表記が主流で、科学的に証明できない「仁徳天皇陵」は併記しない例も増えている。これに対し登録勧告を報じた新聞各紙の見出しは「大山古墳」や「仁徳天皇陵」、仁徳天皇を葬った伝承があるという意味の「伝仁徳陵」などさまざまだった。
そもそも推薦書の名称が「仁徳天皇陵古墳」になった理由は、構成資産に含まれる誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市、応神天皇陵)の外濠などが78年、「応神天皇陵古墳」という名称で史跡指定されていたからだ。
しかし学会では仁徳天皇が実在したかどうか論議が続いている。日本考古学協会などの学術団体は2018年9月、「仁徳天皇陵古墳という構成資産名は被葬者が認定されているように理解される危惧を覚える」などとする見解を発表した。
だが、今回の勧告でも古墳の名称に対する疑問や修正意見は示されておらず、このまま登録名称となる見通しだ。
2019/5/15 西日本新聞 文化





日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
仁徳天皇
にんとくてんのう

生没年不詳。記紀では第16代天皇とする。大雀命(大鷦鷯尊)(おおさざきのみこと)といい、応神(おうじん)天皇の皇子。莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)は王位継承を辞退し、仁徳天皇が応神の後を継いで王位についたという。宮居は難波(なにわ)の高津宮にあったとし、とくに河内(かわち)平野の開発に努めたとする伝承が目だつ。仁徳天皇という諡(おくりな)は8世紀後半につけられたもので、その治政において、3年の間、税を免除したという事績に基づく。『古事記』『日本書紀』では、この天皇を「聖皇」(『記』)、「聖帝」(『紀』)とみなす意識が強く、儒教的徳治主義の思想で潤色されている箇所が少なくない。『宋書(そうじょ)』夷蛮伝(いばんでん)倭国(わこく)の条にみえる、倭の五王のなかの讃(さん)を仁徳天皇とする説や、珍(ちん)を仁徳天皇とする説などもある。墓は百舌鳥野(もずの)陵と伝える。現在仁徳陵に指定されている古墳(大山(だいせん)古墳)は大阪府堺(さかい)市大仙(だいせん)町にある。[上田正昭]
[参照項目] | 大山古墳 | 倭の五王




  


Posted by マー君 at 10:04Comments(0)歴史記事
縄文人は現代の日本人と比べ肉や魚を消化しやすい遺伝子を持ち、遺伝的な多様性は低いことがゲノム(全遺伝情報)の解析で分かった。国立科学博物館などの研究チームが13日、発表した。縄文人が狩猟や漁労を中心に小集団で生活していたことが遺伝情報からも裏付けられた。
 チームは北海道・礼文島の船泊遺跡で出土した3500~3800年前の縄文女性の歯から採取したDNAを分析。その結果、肉など高脂肪食の消化を効率的に助けるタンパク質を作るよう遺伝子が変異していることが分かった。アザラシなど肉食が中心の北極圏のエスキモーに多くみられる現象で、現代の日本人にはみられないという。
 また、ゲノムの多様性が低い状態が旧石器時代から約5万年にわたり続いていたことも判明。小集団で生活していたことを示すもので、獲物を求め移動を繰り返す縄文人の生活を反映しているらしい。
 このほか日本人全体ではゲノムの10%、アイヌ民族ではゲノムの70%が縄文人に由来することが分かった。また、縄文人は1万8000年~3万8000年前に大陸民族から遺伝的に分かれたことも判明した。
 国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長は「縄文人の特性がかなり分かってきた。今後は日本人の成り立ちとの関わりも解き明かしたい」と話している。
 この縄文女性は40~50歳代で身長140センチ台、瞳は茶色で毛髪が細く縮れアルコールに強かったことなどが既に判明している。チームは昨年、顔の像を復元し、さらに詳しく調べていた。
2019/5/13 産経新聞

国立科学博物館などの研究チームは13日、北海道・礼文島の船泊遺跡から発掘された約3500~3800年前の縄文時代後期の女性人骨から全遺伝子情報(ゲノム)を高精度に解析したと発表した。論文は近く、日本人類学会の英文誌に掲載される。
 国立科博の神沢秀明研究員、国立遺伝学研究所の斎藤成也教授らのチームは船泊遺跡で見つかった女性人骨の大臼歯からDNAを採取。保存状態がよく、現代人とほぼ同じ精度でゲノムを解析することができた。

北海道・礼文島の船泊遺跡から発掘された縄文時代後期(約3500~3800年前)の女性人骨(国立科学博物館提供)
 解析の結果、縄文人の祖先は約1万8000~3万8000年前に、中国大陸に住む現在の漢民族との共通祖先から分岐したと推定。ロシア極東部から朝鮮半島、台湾の先住民など東アジアの沿岸部の集団と遺伝的に近く、比較的少ない人口集団で狩猟採集生活を続けていたことも分かった。
2019/5/14 時事ドットコムニュース



礼文島の歴史
礼文島にはあまり知られていない「島の歴史」があります。
沢山の人が関わり合いながら紡いできた歴史をご案内します。
縄文文化を訪ねる
 今から約4,000年位前。エジプトでは巨大なピラミッドが作られていた頃、日本では「縄文時代」を迎えていました。
 島内各地に残る遺跡から、縄文人が礼文島にも住んでおり、遺跡から出土する様々なものから彼らの暮らしぶりがわかります。数ある出土品の中でも、縄文時代後期の船泊遺跡から出土した貝のアクセサリーは、縄文人の魅力を今に伝える貴重なものと言えます。
 材料となる貝はビノスガイやサラガイ、ウバガイなど、遺跡のある船泊湾に生息する貝がほとんどで、今現在、遺跡の目の前の砂浜にはこれらの貝がたくさん打ち上げられています。もしかしたら、当時の縄文人もここから貝を拾ってきたのかもしれませんね。
 こうした貝のアクセサリーは、島外との交易に用いられていたと考えられていて、遺跡からは、島内はもとより北海道でも採れないイモガイやタカラガイ、新潟県産のヒスイやアスファルトなどが出土しています。
 この時代に生きた縄文人にとって「白く輝く貝のアクセサリー」はとても魅力的だったのでしょうが、今、時代を超えて、私たちにとっても素敵なアクセサリーをプレゼントしてくれた縄文人に感謝です。


オホーツク文化を訪ねる
 時は流れて今から約1,500年前。本州では古墳時代から奈良時代の頃。北海道では続縄文文化や擦文文化という北海道独自の文化が繁栄していましたが、礼文、利尻、稚内とサハリン南部には「オホーツク文化」というさらに異なる文化が広まっていました。
 この文化の遺跡は、北海道では主にオホーツク海沿岸に見られるのが特徴ですが、サハリンや千島列島などオホーツク海を囲む地域一帯でも発見されています。そして、遺跡の様子や出土品などから、この文化のルーツは中国東北部、アムール川河口域で栄えた古代文化だと考えられています。
 オホーツク人の暮らしは海での漁に特化しており、魚や貝のほか、鯨や海獣(トドやアザラシ)を捕獲していました。ですので、石器以外に骨角器という動物の骨や歯などから作る道具の製作を得意としていました。中でも、特定の動物や人物をモチーフにした像は精巧に作られており、島内ではマッコウクジラの歯で作った熊と女性の像が出土しています。
 この女性像は、道内で出土された同種の像の中でも、完全な形で残っている唯一の像であり、その神秘的な姿はまさに「礼文島の女神像」と言っても過言ではありません。

アイヌ文化を訪ねる
 時はさらに流れて今から約400年前。本州では江戸時代の頃。当時の北海道は蝦夷地と呼ばれていて、渡島半島の一部を除く、ほとんどの地域にはアイヌが暮らしており、彼ら独自の文化が栄えていました。
 礼文島にもアイヌが暮らしいたことが文献や絵図からわかっており、その頃のアイヌ人の暮らしは、川や海での漁を中心に、和人と交易を行なっていたことなどが、遺跡の調査や当時の和人の記録からわかっています。
 しかし、和人と関わりが深まるにつれて生活が不自由になってきたり、天然痘など和人がもたらした病気にかかり命を落とすることもありました。また、時には、漁場や狩り場をめぐってアイヌ同士が争うこともあったようで、島内には礼文アイヌと磯谷アイヌが争ったことが、今では沢山の観光客が訪れる桃岩を舞台とした「桃岩物語」として残っています。
 この他にも島内には、アイヌにまつわる伝説として「見内神社の見ないカムイ伝説」や「久種湖物語」などがあります。
礼文島のアイヌは明治時代以降に急速に人口が減り、生活資料などはほとんど失われてしまい、今ではかつての暮らしの実態がよくわからなくなってしまいました。しかし、礼文島アイヌが島内各地で暮らしていたことは、島の地名の由来となって今に伝わっています。
礼文町郷土資料館
 北海道を語るキーワードは様々ありますが、近年『縄文』という言葉がクローズアップされています。縄文とは、縄文時代や縄文文化、縄文遺跡や縄文人など一括りにした表現とも言えますが、クローズアップされるきっかけとなったのが、平成19年に北海道から初めて選ばれた国宝が函館市の『縄文時代の中空土偶』であったこと、平成21年に『北海道・北東北を中心とした縄文遺跡群』が世界文化遺産登録のための暫定リストに掲載されたことにあると言えます。また、これら縄文時代の遺跡や遺物、縄文人の精神等を町づくりに活かしていくため、当町を含む道内自治体で構成する「北海道縄文のまち連絡会」が設立されており、『北海道の縄文遺跡や縄文文化』が様々な形・媒体によって世界に発信されていくことに期待をよせています。
 礼文島には、現在55ヶ所の遺跡が確認されており、その内13ヶ所が縄文時代の遺跡です。遺跡は島の北部の船泊湾沿岸、東海岸の上泊地区などに分布しており、礼文島は知る人ぞ知る「遺跡の島」でもあり、 平成25年には船泊遺跡の出土品が国の重要文化財に指定されました。
島の宝が国の宝となった今、礼文島を訪れる多くの方々にその魅力を知っていただき、太古から人が行き交う北の島に思いをはせていただければ幸いです。

礼文町教育委員会
学芸員 藤澤隆史


礼文島は、稚内市の西方60キロメートルの日本海に位置する最北の離島です。
 南北29キロメートル、東西8キロメートル、 面積約82キロ平方メートルの礼文島の東海岸はなだらかな丘陵性の地形が広がり海へと続いていますが、冬の厳しい偏西風を受ける西海岸は切り立った断崖絶壁が連なっています。
 太古の昔。大陸から切り離されたこの島には奇跡的な自然が今なお残されているため、利尻礼文サロベツ国立公園の中でも、夏には約300種の高山植物が咲き乱れる風光明媚な花の島として知られています。





  


Posted by マー君 at 10:12Comments(0)歴史

2019年05月14日

縄文詩人


宗 左近(そう さこん、1919年5月1日 - 2006年6月20日)は、詩人・評論家・仏文学者であり翻訳家。本名は古賀 照一(こが てるいち)。法政大学名誉教授。

宗左近生誕100年 愛と祈りのうた・・今日の西日本新聞・文化面に「縄文詩人」の見出しが目につきました。
記事に目を通してみると知らないことが一杯。
縄文の事なら何でも吸収したい。
・・宗左近は1978年、詩集『縄文』を刊行し、以降、97年刊行の『螺旋上昇』に至るまで、全18冊の詩作郡≪縄文シリーズ≫を書いた。この膨大な詩作のゆえ、宗は「縄文詩人」とも呼ばれた。そのきっかけは何だったのだろうか。宗と縄文との出会い、それを追ってみたい。
52年、美術家の岡本太郎は美術雑誌「みづゑ」に「四次元との対話ー縄文土器論」を発表した。それまで一部の好事家以外には考古学的遺物としてしかみられていなかった縄文土器の造形美、空間性などに着目したもので縄文土器の芸術性を「発見」した論文である。この論文はさまざまな方面に影響を及ぼし、「縄文ブーム」の先駆けとなったと言われている。宗もこの論文に激しい衝撃を受けた一人であるが、それは当時愛好していた前衛芸術との関連においてである。確かに縄文土器の芸術性に目を開かれ、宗は縄文土器に関する美術評論を書き、それを読んだ福井県に住んでいた前衛芸術家・小野忠弘から土器を贈られたこともあった。しかしこの時点では、それが詩のかたちをとることはなかった。
その後、73年、日本文化・文学の客員教授として乞われ、スウェーデン・ストックホルム大学に赴く。そこで訪れた骨董店でインカの土器・土偶32点を購入。以後、「骨董病」にかかり、蒐集するようになった。この後から『縄文』の構想が立てられたようである。
77年、作曲家・三善晃と共に製作した静岡県立南部小学校校歌の発表会のため、宗は静岡県を訪れた。そこで出会った縄文土器に激しい衝撃を受け、それがシリーズとして書かれるきっかけであったと言われる。
このとき、何が起こったのか。目の前の縄文土器の「超越性」と、かって戦争で死んでいった友人たちとが宗の中で共鳴し始める。宗は縄文文化を弥生文化に滅ぼされたものと見、縄文土器の造型に「祈り」を見た。「祈り」とは「向こう側」を見ようとすることであり、それに宗の中にある「死者たち」が共鳴したのではないか。『縄文』の冒頭詩「雲」を紹介する。「きみたちが殺されなければ/縄文/などありはしなかったのだ/わたしの雲よ」
友人たちの死が「宗右近の縄文」を導いた。そうして生まれた詩作郡は「向こう側」を志向するものであり、縄文人、友人たちを含めた「死者たち」の「依代」としての言葉であった。子の有り様こそを宗は「鎮魂」であるという。
縄文人たちが愛を、祈りを込めて作りだした縄文土器、その「超越性」が「死者たち」と詩人の中で響き合う。そのようにして奏でられたものこそが「宗左近の縄文」ではなかったか。
北九州市立文学館学芸員 稲田大貴

貝塚について
日本最大の貝塚 千葉の加曾利貝塚
千葉市若葉区にある加曽利貝塚は、日本最大の貝塚である。日本の貝塚は2,500カ所ほど見つかっているが、不思議なことに太平洋側に多く、日本海側には非常に少ない。また、関東地方に1,000カ所が集中しており、そのうち600カ所は東京湾沿岸である。5,000年前から東京圏は人口密集地域であったのだ。

貝塚は縄文早期・前期(BC7,000~BC3,000)頃から小型のものが現れるが、中期(BC3,000~BC2,000)になると、次第に大型化して数も多くなる。後期(BC2,000~BC1,000)には数、規模ともに最大となり最盛期を迎える。しかし縄文晩期(BC1,000~BC500)に入ると急速に減少し、東京湾から姿を消していく。

  


Posted by マー君 at 10:17Comments(0)歴史


1日遅れの母の日の小荷物が届きました。
今日は次男坊の方の荷物です。
折角ならば何故、昨日着くように送ってあげなかったのかと少々不満気味。
でも忘れずに送ってくれてありがとう。


花が大きめの孔雀サボテンが満開です。
  


Posted by マー君 at 13:21Comments(0)ありがとう

2019年05月12日

母の日

日頃の母の苦労を労(いたわ)り、母への感謝を表す日。英語表記は「Mother's Day」。日本やアメリカでは5月の第2日曜日に祝うが、その起源は世界中で様々であり日付も異なる。
1907年(明治40年)5月12日、アメリカ人のアンナ・ジャービスが亡き母親を偲び、母が日曜学校の教師をしていた教会で記念会を行い、母が好きだった白いカーネーションを贈った。これが日本やアメリカでの「母の日」の起源とされている。
アンナの母への想いに感動した人々は、母をおぼえる日の大切さを認識し、1908年(明治41年)5月10日に同教会に470人の生徒と母親たちが集まり最初の「母の日」を祝った。その後、1914年(大正3年)に「母の日」はアメリカの記念日になり、5月の第2日曜日と定められた。
日本では、1913年(大正2年)に青山学院で、母の日礼拝が行われた。アンナから青山学院にメッセージが届き、当時青山学院にいた女性宣教師たちの熱心な働きかけで、日本で「母の日」が定着していくきっかけとなったとされている。その後、1949年(昭和24年)頃からアメリカに倣って5月の第2日曜日に行われるようになった。
カーネーションは母性愛のシンボルとなり、この日にはカーネーションなどの花を贈るのが一般的となっている。
雑学ネタ帳より




毎年のことながら今年も母への感謝のしるしとして朝早くから小荷物が届きました。
ありがとう。   


Posted by マー君 at 09:37Comments(0)ありがとう