9月1日頃(2020年は8月31日)。
立春から数えて210日目。
この時季は稲が開花・結実する大事なときですが、台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまうことがよくあり、厄日とか荒れ日などといわれています。一つの目安として警戒を呼びかけていたようです。
立春から数えて220日目の二百二十日も厄日と考えられています。

二百十日は伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日としたといわれています。雑節として暦に記載されたのは江戸時代。先人たちの経験に基づいた生活の知恵が暦となっているのですね。
農作物を風雨の被害から守るため、各地で風鎮めの儀式や祭が行われていて、風祭りもその一つです。
●雑節とは
日本には、雑節という暦日があります。雑節は、二十四節気や五節供のように中国から伝わったものではなく、日本人の生活文化から生まれた日本独自のものです。 また、貴族や武家の儀式ではなく、主に農作業と照らし合わせた季節の目安となっており、日本の気候風土に合わせてあるため、長い間に培われてきた知恵と経験の集約といえるでしょう。

●主な雑節
【節分:せつぶん】 立春の前日 (2月3日頃)
【彼岸:ひがん】 春分と秋分をそれぞれ中日とする7日間
【社日:しゃにち】 春分と秋分に最も近い戊の日
【八十八夜:はちじゅうはちや】 立春から88日目 (5月2日頃)
【入梅:にゅうばい】 立春から135日目 (6月11日頃)
【半夏生:はんげしょう】 夏至から11日目 (7月2日頃)
【土用:どよう】 立春、立夏、立秋、立冬の前各18日間
【二百十日:にひゃくとおか】 立春から210日目(9月1日頃)
【二百二十日:にひゃくはつか】 立春から220日目 (9月11日頃)
暮らしの歳時記より
立春から数えて210日目。
この時季は稲が開花・結実する大事なときですが、台風が相次いで襲来し、農作物が被害を受けてしまうことがよくあり、厄日とか荒れ日などといわれています。一つの目安として警戒を呼びかけていたようです。
立春から数えて220日目の二百二十日も厄日と考えられています。

二百十日は伊勢の船乗りたちが長年の経験によって凶日としたといわれています。雑節として暦に記載されたのは江戸時代。先人たちの経験に基づいた生活の知恵が暦となっているのですね。
農作物を風雨の被害から守るため、各地で風鎮めの儀式や祭が行われていて、風祭りもその一つです。
●雑節とは
日本には、雑節という暦日があります。雑節は、二十四節気や五節供のように中国から伝わったものではなく、日本人の生活文化から生まれた日本独自のものです。 また、貴族や武家の儀式ではなく、主に農作業と照らし合わせた季節の目安となっており、日本の気候風土に合わせてあるため、長い間に培われてきた知恵と経験の集約といえるでしょう。

●主な雑節
【節分:せつぶん】 立春の前日 (2月3日頃)
【彼岸:ひがん】 春分と秋分をそれぞれ中日とする7日間
【社日:しゃにち】 春分と秋分に最も近い戊の日
【八十八夜:はちじゅうはちや】 立春から88日目 (5月2日頃)
【入梅:にゅうばい】 立春から135日目 (6月11日頃)
【半夏生:はんげしょう】 夏至から11日目 (7月2日頃)
【土用:どよう】 立春、立夏、立秋、立冬の前各18日間
【二百十日:にひゃくとおか】 立春から210日目(9月1日頃)
【二百二十日:にひゃくはつか】 立春から220日目 (9月11日頃)
暮らしの歳時記より
安倍首相の辞任表明後自民党内は大混乱のようだ。政策論より選挙の顔・・勝ち馬探しに躍起の様子。
自民党総裁選は緊急時の規定を適用して党員・党友投票は実施しない議員票中心の選出方法で行うらしい。
何か最後まで安倍さんの思惑が匂う辞任劇だ。
政界の泥臭い話と打って変わって心が洗い清められるような話が今日の余禄にありましたので紹介します。
福岡の筑豊は炭鉱労働者の町だった。少ない賃金でも大酒を飲み、カネがなくなると、わが子に盗みをさせる父親もいた。小学5年生の男児が書いた「どろぼう」という詩がある▲<父ちゃん 何し僕をどろぼうに行かするトか 悪いチ知っちょって 何し行かするトか。待っちょってやるき いもをほって来いチいうたり どう線をぬすんで来いチいう。僕、おとろしいトばい。(略)小使いげなくれんだチいいき 父ちゃん もう、どろぼうせんごとしょう>▲人権派弁護士として有名な中山武敏さんが自伝「人間に光あれ」の中でこの詩を紹介している。非行には見過ごせない理由がある。罪だけ見て罰するのはたやすい。問題の本質を見つめることが大切だと言う▲18、19歳の犯罪が厳罰化される見通しだ。少年法の見直しを進める法制審議会は9月にも最終案をまとめる。教育の視点が軽視されれば更生の機会が奪われる。「どろぼう」の子のように家庭環境が事件につながるケースは今も多い▲中山さんは1944年に福岡の被差別部落で生まれた。大学の夜間部で学び、司法試験に合格する。母が廃品回収のリヤカーを引き、家計を支えた。差別されても、人間の良いところを見ることを教わった。そんな親がいなければ自分も道を誤っていたかもしれない。そう思い、人と向き合ってきたのではないか▲中山さんは弱い立場の人に寄り添い続けている。その人生の軌跡から、子どもを包み込む少年法の精神の大切さを教えられる。
毎日新聞「余禄」2020年8月30日

中山 武敏(なかやま たけとし、1944年2月6日 - )
経歴
福岡県直方市の被差別部落に生まれる。実父の中山重夫は大日本帝国陸軍戦車隊の整備兵として中国戦線に参加し、日本軍の残虐行為を目撃したと主張、戦後は南京大虐殺の証言を続け、反戦平和運動やカトリック教会の部落解放運動の発足に寄与し、部落解放同盟東京都連合会江戸川支部長や東京江戸川区日中友好協会会長などを務めた。
父が靴の修理、母が廃品回収で生計を支える貧困家庭に育ち、働きながら苦学し、定時制高校を経て、1968年、中央大学法学部二部卒業。1969年に司法試験合格、司法修習(23期)を経て、1971年に弁護士を開業。中山武敏法律事務所を部落解放同盟中央本部の松本記念会館内に置く。
早乙女勝元を隣人に持つ縁から、2006年10月、原告100名以上、弁護団110名から成る東京空襲訴訟原告団を結成し、弁護団長に就任。2007年3月9日、日本政府に訴状を提出、国に謝罪と総額約8億円(1人当たり1100万円)を要求したが、一審・二審共敗訴し、2013年5月、最高裁で敗訴が確定した。
日弁連立法対策センター委員、重慶大爆撃訴訟原告弁護団、「軍隊を捨てた国・コスタリカに学ぶ平和をつくる会」共同代表、「韓国併合」100年市民ネットワーク共同代表、北足立九条の会の呼びかけ人をも務める。
2015年には、朝日新聞の慰安婦報道について、植村隆に「一緒にたたかおう。この問題は植村さんだけの問題ではない。日本の民主主義の問題だ」と呼びかけて『週刊文春』と西岡力を提訴させた。
弟の中山末男は、部落解放同盟筑後地区協議会委員長を務めている。
Wikipediaより
自民党総裁選は緊急時の規定を適用して党員・党友投票は実施しない議員票中心の選出方法で行うらしい。
何か最後まで安倍さんの思惑が匂う辞任劇だ。
政界の泥臭い話と打って変わって心が洗い清められるような話が今日の余禄にありましたので紹介します。
福岡の筑豊は炭鉱労働者の町だった。少ない賃金でも大酒を飲み、カネがなくなると、わが子に盗みをさせる父親もいた。小学5年生の男児が書いた「どろぼう」という詩がある▲<父ちゃん 何し僕をどろぼうに行かするトか 悪いチ知っちょって 何し行かするトか。待っちょってやるき いもをほって来いチいうたり どう線をぬすんで来いチいう。僕、おとろしいトばい。(略)小使いげなくれんだチいいき 父ちゃん もう、どろぼうせんごとしょう>▲人権派弁護士として有名な中山武敏さんが自伝「人間に光あれ」の中でこの詩を紹介している。非行には見過ごせない理由がある。罪だけ見て罰するのはたやすい。問題の本質を見つめることが大切だと言う▲18、19歳の犯罪が厳罰化される見通しだ。少年法の見直しを進める法制審議会は9月にも最終案をまとめる。教育の視点が軽視されれば更生の機会が奪われる。「どろぼう」の子のように家庭環境が事件につながるケースは今も多い▲中山さんは1944年に福岡の被差別部落で生まれた。大学の夜間部で学び、司法試験に合格する。母が廃品回収のリヤカーを引き、家計を支えた。差別されても、人間の良いところを見ることを教わった。そんな親がいなければ自分も道を誤っていたかもしれない。そう思い、人と向き合ってきたのではないか▲中山さんは弱い立場の人に寄り添い続けている。その人生の軌跡から、子どもを包み込む少年法の精神の大切さを教えられる。
毎日新聞「余禄」2020年8月30日

中山 武敏(なかやま たけとし、1944年2月6日 - )
経歴
福岡県直方市の被差別部落に生まれる。実父の中山重夫は大日本帝国陸軍戦車隊の整備兵として中国戦線に参加し、日本軍の残虐行為を目撃したと主張、戦後は南京大虐殺の証言を続け、反戦平和運動やカトリック教会の部落解放運動の発足に寄与し、部落解放同盟東京都連合会江戸川支部長や東京江戸川区日中友好協会会長などを務めた。
父が靴の修理、母が廃品回収で生計を支える貧困家庭に育ち、働きながら苦学し、定時制高校を経て、1968年、中央大学法学部二部卒業。1969年に司法試験合格、司法修習(23期)を経て、1971年に弁護士を開業。中山武敏法律事務所を部落解放同盟中央本部の松本記念会館内に置く。
早乙女勝元を隣人に持つ縁から、2006年10月、原告100名以上、弁護団110名から成る東京空襲訴訟原告団を結成し、弁護団長に就任。2007年3月9日、日本政府に訴状を提出、国に謝罪と総額約8億円(1人当たり1100万円)を要求したが、一審・二審共敗訴し、2013年5月、最高裁で敗訴が確定した。
日弁連立法対策センター委員、重慶大爆撃訴訟原告弁護団、「軍隊を捨てた国・コスタリカに学ぶ平和をつくる会」共同代表、「韓国併合」100年市民ネットワーク共同代表、北足立九条の会の呼びかけ人をも務める。
2015年には、朝日新聞の慰安婦報道について、植村隆に「一緒にたたかおう。この問題は植村さんだけの問題ではない。日本の民主主義の問題だ」と呼びかけて『週刊文春』と西岡力を提訴させた。
弟の中山末男は、部落解放同盟筑後地区協議会委員長を務めている。
Wikipediaより
昨日、安倍首相が潰瘍性大腸炎という持病の再発のため辞任表明をされました。
コロナ感染の問題が起きてから的外れな対策や後手後手の問題対応にあきれ果てていたさなか国会は6月に閉会したまま、閉会中審査への出席もしなかった。
コロナ感染の問題ではやることなすこと的外ればかりでその間、支持率もどんどん下がりぱなしの状態だった。
持病の再発は精神的な打撃も体調の変化に大きく影響したのかもっしれません。
安倍晋三首相の通算在職日数が戦前・戦後を通じて最長となったが、この人が残したものは何だったんだろう?
私には負の遺産の方が多いように思えます。
安倍首相の政権について毎日新聞の社説に分かりやすく解説されていますので読んでみてください。

社説
安倍首相が辞任表明 行き詰まった末の幕引き
毎日新聞2020年8月29日
安倍晋三首相が体調悪化を理由に辞任を表明した。新型コロナウイルス感染症対策が後手に回り、政権運営が行き詰まる中での突然の幕引きだ。
首相は記者会見で「国民の負託に自信を持って応えられる状態でなくなった」と語った。持病である潰瘍性大腸炎が再発する兆候が6月に見つかり、今月の検査で確認されたという。
コロナ対応という危機管理が求められる状況だ。首相の判断はやむを得ないが、2007年の第1次政権の時と同様、任期途中の辞任で混乱を生んだことは残念だ。
安倍政権のコロナ対応は迷走を続けた。「アベノマスク」とやゆされた布マスクの郵送配布や、外出自粛の最中に自宅で優雅にくつろぐ様子を公開したツイッター動画は国民から批判を浴びた。全国民への一律10万円の給付も二転三転の末に遅れた。
迷走続いたコロナ対応
新規感染者数は夏に入って増加に転じ、7月末にピークを迎えた。この間、首相が指導力を発揮する場面はほとんどなかった。
通常国会は6月に閉じられた。10兆円もの巨額の予備費を計上するだけで、首相は国会での説明に応じる姿勢を示さなかった。
野党は憲法53条の規定に基づいて臨時国会召集を要求した。しかし、与党は応じず、閉会中審査への首相の出席も認めなかった。
感染が地方にも拡大し、国民の不安が高まる中で、首相は約70日間、コロナ問題を巡る記者会見を開かなかった。
毎日新聞などの世論調査でも、政府のコロナ対応を評価しないという回答が6割を超えた。国民の信頼を失う中での辞任となった。
首相の在任日数は12年の第2次政権発足後、連続で2800日を超え、歴代最長を更新した。ほぼ1年ごとに6人の首相が入れ替わった混乱状態に終止符を打ったのは事実だろう。
第1次政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げ、短命に終わった。これを教訓に第2次政権以降は、国民に身近な経済再生を最優先課題に掲げることでイデオロギー色を薄め、国民の支持を得やすい状況を作った。
デフレ脱却を目指す経済政策「アベノミクス」で景気回復をアピールし、内閣支持率を安定させた。政権奪還につながった衆院選を含め、国政選挙で6連勝したことが政権の推進力となった。
集団的自衛権の行使を一部認める安全保障法制や特定秘密保護法制は、国論を二分したが、選挙で得た与党の数の力で押し切った。
一方で、政権の長期化に伴い、最近は内政、外交ともに停滞感が強まっていた。
景気は1年半前から後退局面に入り、高い支持率を支えていた経済政策で成果を打ち出せなくなっていたのがその象徴だろう。「戦後外交の総決算」を掲げたが、北朝鮮による日本人拉致問題やロシアとの北方領土問題は解決に向けた糸口も見いだせなかった。
沖縄県の米軍基地移設問題も県側との対立は深まっている。宿願の憲法改正論議も進まなかった。
難局乗り切る体制急務
7年8カ月に及んだ長期政権の弊害で際立つのは、「安倍1強」によるゆがみだ。内閣人事局に人事権を掌握された幹部官僚の間では、政権へのおもねりや「忖度(そんたく)」がはびこった。
典型的な例が、学校法人「森友学園」への国有地売却問題や首相主催の「桜を見る会」問題だ。
政権を私物化していると指摘されると、首相に都合の悪い公文書や記録が改ざんされたり、廃棄されたりした。正確な記録を残すことで後世に評価を委ねるという意識の欠如が浮き彫りになった。
国会を軽視する姿勢も目立った。野党を敵視し、反対意見には耳を傾けない。民主主義の基盤となる議論の場に真摯(しんし)に向き合おうとしなかった。
長期に権力を維持することには成功したが、政策や政治手法の点では「負の遺産」が積み上がったのが実態だったのではないか。
自民党は次期総裁選びに入る。コロナの危機が続いていることを考えれば、迅速に選ぶ必要がある。ただし、密室での協議で決めるようなことはしてはならない。
コロナで落ち込む経済や米中対立によって不透明化する国際情勢への対応など課題は山積している。こうした危機に取り組む新たな体制を、開かれた論戦を通じて構築する必要がある。
コロナ感染の問題が起きてから的外れな対策や後手後手の問題対応にあきれ果てていたさなか国会は6月に閉会したまま、閉会中審査への出席もしなかった。
コロナ感染の問題ではやることなすこと的外ればかりでその間、支持率もどんどん下がりぱなしの状態だった。
持病の再発は精神的な打撃も体調の変化に大きく影響したのかもっしれません。
安倍晋三首相の通算在職日数が戦前・戦後を通じて最長となったが、この人が残したものは何だったんだろう?
私には負の遺産の方が多いように思えます。
安倍首相の政権について毎日新聞の社説に分かりやすく解説されていますので読んでみてください。

社説
安倍首相が辞任表明 行き詰まった末の幕引き
毎日新聞2020年8月29日
安倍晋三首相が体調悪化を理由に辞任を表明した。新型コロナウイルス感染症対策が後手に回り、政権運営が行き詰まる中での突然の幕引きだ。
首相は記者会見で「国民の負託に自信を持って応えられる状態でなくなった」と語った。持病である潰瘍性大腸炎が再発する兆候が6月に見つかり、今月の検査で確認されたという。
コロナ対応という危機管理が求められる状況だ。首相の判断はやむを得ないが、2007年の第1次政権の時と同様、任期途中の辞任で混乱を生んだことは残念だ。
安倍政権のコロナ対応は迷走を続けた。「アベノマスク」とやゆされた布マスクの郵送配布や、外出自粛の最中に自宅で優雅にくつろぐ様子を公開したツイッター動画は国民から批判を浴びた。全国民への一律10万円の給付も二転三転の末に遅れた。
迷走続いたコロナ対応
新規感染者数は夏に入って増加に転じ、7月末にピークを迎えた。この間、首相が指導力を発揮する場面はほとんどなかった。
通常国会は6月に閉じられた。10兆円もの巨額の予備費を計上するだけで、首相は国会での説明に応じる姿勢を示さなかった。
野党は憲法53条の規定に基づいて臨時国会召集を要求した。しかし、与党は応じず、閉会中審査への首相の出席も認めなかった。
感染が地方にも拡大し、国民の不安が高まる中で、首相は約70日間、コロナ問題を巡る記者会見を開かなかった。
毎日新聞などの世論調査でも、政府のコロナ対応を評価しないという回答が6割を超えた。国民の信頼を失う中での辞任となった。
首相の在任日数は12年の第2次政権発足後、連続で2800日を超え、歴代最長を更新した。ほぼ1年ごとに6人の首相が入れ替わった混乱状態に終止符を打ったのは事実だろう。
第1次政権は「戦後レジームからの脱却」を掲げ、短命に終わった。これを教訓に第2次政権以降は、国民に身近な経済再生を最優先課題に掲げることでイデオロギー色を薄め、国民の支持を得やすい状況を作った。
デフレ脱却を目指す経済政策「アベノミクス」で景気回復をアピールし、内閣支持率を安定させた。政権奪還につながった衆院選を含め、国政選挙で6連勝したことが政権の推進力となった。
集団的自衛権の行使を一部認める安全保障法制や特定秘密保護法制は、国論を二分したが、選挙で得た与党の数の力で押し切った。
一方で、政権の長期化に伴い、最近は内政、外交ともに停滞感が強まっていた。
景気は1年半前から後退局面に入り、高い支持率を支えていた経済政策で成果を打ち出せなくなっていたのがその象徴だろう。「戦後外交の総決算」を掲げたが、北朝鮮による日本人拉致問題やロシアとの北方領土問題は解決に向けた糸口も見いだせなかった。
沖縄県の米軍基地移設問題も県側との対立は深まっている。宿願の憲法改正論議も進まなかった。
難局乗り切る体制急務
7年8カ月に及んだ長期政権の弊害で際立つのは、「安倍1強」によるゆがみだ。内閣人事局に人事権を掌握された幹部官僚の間では、政権へのおもねりや「忖度(そんたく)」がはびこった。
典型的な例が、学校法人「森友学園」への国有地売却問題や首相主催の「桜を見る会」問題だ。
政権を私物化していると指摘されると、首相に都合の悪い公文書や記録が改ざんされたり、廃棄されたりした。正確な記録を残すことで後世に評価を委ねるという意識の欠如が浮き彫りになった。
国会を軽視する姿勢も目立った。野党を敵視し、反対意見には耳を傾けない。民主主義の基盤となる議論の場に真摯(しんし)に向き合おうとしなかった。
長期に権力を維持することには成功したが、政策や政治手法の点では「負の遺産」が積み上がったのが実態だったのではないか。
自民党は次期総裁選びに入る。コロナの危機が続いていることを考えれば、迅速に選ぶ必要がある。ただし、密室での協議で決めるようなことはしてはならない。
コロナで落ち込む経済や米中対立によって不透明化する国際情勢への対応など課題は山積している。こうした危機に取り組む新たな体制を、開かれた論戦を通じて構築する必要がある。
この記事は8月27日の西日本新聞「春秋」である。
以前にペンギンモドキの化石の話は新聞で見たような気がします。
日本列島はペンギンモドキが居たころは多分南半球あたりにあったのかもしれません?
このモドキの話を野党の新党結成の話に繋いだのはなかなか面白い展開である。

空を飛ぶより、水に潜って魚を捕ることを選んだ鳥-といえばペンギン。大昔には似たような鳥が他にもいた。約1800万年前に絶滅したとみられる「ペンギンモドキ」だ
▼長崎県西海市で化石が見つかった。約3400万年前のもので、世界最古級という。ペンギンは南半球にしかいないが、太古のこの辺りをスイスイ泳ぎ、岸辺をヨタヨタ歩いている鳥の姿を思い描けば楽しい
▼モドキは「擬き」で、似て非なるものを指す。ペンギンモドキは化石の骨格などから、外見もペンギンに似ていたとされるが、実は種としては鵜(う)に近いらしい
▼主義主張や政策の違いより、力を合わせて政治を動かすことを選んだ-のは野党の立憲民主党と国民民主党。合流して新党を結成する。野党が多弱のままでは巨大与党に対抗できない、というのは自明の理である
▼歴代最長となった1強政権は、おごりや緩みが指摘され、忖度(そんたく)横行の弊害も目に余る。まっとうな民主主義には、与党の誤りを正し、多様な民意の受け皿となるしっかりした野党の存在が不可欠だ。ただ、立民、国民の両党が新党合意に至る過程は、内輪もめばかりだった旧民主党を思い起こさせる
▼ペンギンが絶滅を免れたのは、南極圏の厳しい環境に耐えられたからだ。新党には、旧民主党に対する国民の厳しい目に耐え得る「進化」が求められよう。数合わせの「旧民主党モドキ」では生き残れまい。
以前にペンギンモドキの化石の話は新聞で見たような気がします。
日本列島はペンギンモドキが居たころは多分南半球あたりにあったのかもしれません?
このモドキの話を野党の新党結成の話に繋いだのはなかなか面白い展開である。

空を飛ぶより、水に潜って魚を捕ることを選んだ鳥-といえばペンギン。大昔には似たような鳥が他にもいた。約1800万年前に絶滅したとみられる「ペンギンモドキ」だ
▼長崎県西海市で化石が見つかった。約3400万年前のもので、世界最古級という。ペンギンは南半球にしかいないが、太古のこの辺りをスイスイ泳ぎ、岸辺をヨタヨタ歩いている鳥の姿を思い描けば楽しい
▼モドキは「擬き」で、似て非なるものを指す。ペンギンモドキは化石の骨格などから、外見もペンギンに似ていたとされるが、実は種としては鵜(う)に近いらしい
▼主義主張や政策の違いより、力を合わせて政治を動かすことを選んだ-のは野党の立憲民主党と国民民主党。合流して新党を結成する。野党が多弱のままでは巨大与党に対抗できない、というのは自明の理である
▼歴代最長となった1強政権は、おごりや緩みが指摘され、忖度(そんたく)横行の弊害も目に余る。まっとうな民主主義には、与党の誤りを正し、多様な民意の受け皿となるしっかりした野党の存在が不可欠だ。ただ、立民、国民の両党が新党合意に至る過程は、内輪もめばかりだった旧民主党を思い起こさせる
▼ペンギンが絶滅を免れたのは、南極圏の厳しい環境に耐えられたからだ。新党には、旧民主党に対する国民の厳しい目に耐え得る「進化」が求められよう。数合わせの「旧民主党モドキ」では生き残れまい。
1957年(昭和32年)のこの日午前5時23分、茨城県・東海村の日本原子力研究所に設置された出力50kWのウォーターボイラー型炉1号(JRR-1)が、臨界実験に成功して日本最初の「原子の火」がともった。

これによりインドに次いでアジアで2番目の原子炉稼働国となった。実験は前日の8月26日に始まったもので、11月26日に全力運転を開始した。この原子炉は1970年(昭和45年)3月まで運転され、原子炉を利用した各種の実験や技術者の訓練に役立った。
現在、原子炉としては廃止されており、燃料などは取り除かれ密閉管理された状態で建屋や原子炉室は原子力科学研究所敷地内にJRR-1記念展示館として公開されている。
雑学ネタ帳より

これによりインドに次いでアジアで2番目の原子炉稼働国となった。実験は前日の8月26日に始まったもので、11月26日に全力運転を開始した。この原子炉は1970年(昭和45年)3月まで運転され、原子炉を利用した各種の実験や技術者の訓練に役立った。
現在、原子炉としては廃止されており、燃料などは取り除かれ密閉管理された状態で建屋や原子炉室は原子力科学研究所敷地内にJRR-1記念展示館として公開されている。
雑学ネタ帳より
今日の勉強はこれ!
始まりは1848年。米ニューヨーク州で開いた会議で、後に「女性参政権の母」と呼ばれるエリザベス・キャディ・スタントンは「感情宣言」を読み上げた
▼まだ奴隷制があった当時。「女は男の庇護(ひご)の下で」が一般的だった。感情宣言は英国からの「独立宣言」に倣い、男女の同権を宣言。既婚女性の財産所有権や離婚後の親権などを求めた
▼中でも非難を浴びたのが参政権の要求。スタントンらは、女性が政治に参加して社会を変えなければ、女性を解放することはできない、と考えた
▼男性優位の壁は厚く、悲願の実現には女性たちの粘り強い努力と長い時を要した。女性参政権を認める憲法修正19条が発効したのは1920年8月26日のことだった
▼今日でちょうど100年。女性の政治参加は拡大したか。女性が要職に就くのを阻む「ガラスの天井」は今も米社会に。前回の大統領選で惜敗したヒラリー・クリントン氏は「私は最も高いガラスの天井を打ち破れなかったけど、いつか誰かが打ち破るでしょう」と語った
▼今回、民主党副大統領候補となったハリス氏。バイデン氏勝利なら、女性、黒人、アジア系として初の政権ナンバー2に。三つの天井を一気に打ち破る。いつか「最も高い天井」への挑戦もあり得よう。差別的な発言が目立つトランプ大統領との選挙戦を国民はどう評価するだろう。ヒラリー氏の言葉を思い出しつつ、注視したい。
2020/08/26 西日本新聞・春秋

女性実力者の系譜-女性投票権 「エリザベス・キャディ・スタントン」
「女性参政権の母」 1815年11月12日生まれ、1902年10月26日死去
エリザベス・キャディ・スタントンは、米国および世界中の女性の権利拡大を背後から推進した大きな力の1つである。特に彼女は、19世紀の女権運動の創始者、指導者だった。そうした運動が1920年の米国における女性参政権の実現につながっていった。
1815年に、ニューヨーク州の著名な州議会議員兼判事を父として生まれたスタントンは、父の指導で非公式に法律を学び、男性と女性を同等に扱うように当時の法律を改革することが天職だと、早いうちから考えていた。1840年、彼女は、弁護士、演説家、そして奴隷制度廃止論者であるヘンリー・ブルースター・スタントンと結婚した。この結婚によって、彼女は政治的に進歩主義的なサークルにさらに深く入り込むことになった。1848年、エリザベス・スタントンは、既婚女性の財産権を守る法律を制定するよう、ニューヨーク州議会を説得するために尽力した。そして、その年の7月には、ニューヨーク州セネカフォールズで開催された、米国で、そしておそらく世界で初めての女性の権利会議を、女権運動家のルクレチア・モットとともに、先頭に立って運営した。この会議は、女性の権利を訴える数々の決議を可決し、注目すべきことに、米国独立宣言をモデルにした「感情宣言」で、女性参政権(選挙権)を要求した。
エリザベス・スタントンは1842年から1859年までの間に7人の子どもを生んだが、これによって仕事への情熱が衰えることはほとんどなかった。南北戦争の間、彼女と夫は奴隷制度の廃止を求める活動を行った。その後は、女性参政権の問題に力を入れないことを理由に、ほかの進歩主義者と袂を分かった。
1850年頃スタントンは、同じく女性の投票権を求める運動のリーダーを務めていたスーザン・B・アンソニーと親交を結ぶようになった。2人の50年に及ぶ協力関係は、スタントンの演説家、著者としての優れた技能と、アンソニーのまとめ役、戦術家としての才能が強みだった。2人のパートナーシップについてスタントンは、「私が雷電を作って、彼女がそれを放った」と言っている。スタントンは全米女性参政権協会の会長として有名になり、母性や離婚法、そして家庭・結婚・生命を破壊すると感じている人もいた酒の社会的影響などのテーマで、講演活動も行った。1880年に引退した後、アンソニーと共著の形で女性参政権の歴史を書いた。彼女は、その数十年後に実現することとなった、女性の政治的・社会的平等に向けて国が取り組むべき課題のリストを完成させた後、1902年に死去した。
始まりは1848年。米ニューヨーク州で開いた会議で、後に「女性参政権の母」と呼ばれるエリザベス・キャディ・スタントンは「感情宣言」を読み上げた
▼まだ奴隷制があった当時。「女は男の庇護(ひご)の下で」が一般的だった。感情宣言は英国からの「独立宣言」に倣い、男女の同権を宣言。既婚女性の財産所有権や離婚後の親権などを求めた
▼中でも非難を浴びたのが参政権の要求。スタントンらは、女性が政治に参加して社会を変えなければ、女性を解放することはできない、と考えた
▼男性優位の壁は厚く、悲願の実現には女性たちの粘り強い努力と長い時を要した。女性参政権を認める憲法修正19条が発効したのは1920年8月26日のことだった
▼今日でちょうど100年。女性の政治参加は拡大したか。女性が要職に就くのを阻む「ガラスの天井」は今も米社会に。前回の大統領選で惜敗したヒラリー・クリントン氏は「私は最も高いガラスの天井を打ち破れなかったけど、いつか誰かが打ち破るでしょう」と語った
▼今回、民主党副大統領候補となったハリス氏。バイデン氏勝利なら、女性、黒人、アジア系として初の政権ナンバー2に。三つの天井を一気に打ち破る。いつか「最も高い天井」への挑戦もあり得よう。差別的な発言が目立つトランプ大統領との選挙戦を国民はどう評価するだろう。ヒラリー氏の言葉を思い出しつつ、注視したい。
2020/08/26 西日本新聞・春秋

女性実力者の系譜-女性投票権 「エリザベス・キャディ・スタントン」
「女性参政権の母」 1815年11月12日生まれ、1902年10月26日死去
エリザベス・キャディ・スタントンは、米国および世界中の女性の権利拡大を背後から推進した大きな力の1つである。特に彼女は、19世紀の女権運動の創始者、指導者だった。そうした運動が1920年の米国における女性参政権の実現につながっていった。
1815年に、ニューヨーク州の著名な州議会議員兼判事を父として生まれたスタントンは、父の指導で非公式に法律を学び、男性と女性を同等に扱うように当時の法律を改革することが天職だと、早いうちから考えていた。1840年、彼女は、弁護士、演説家、そして奴隷制度廃止論者であるヘンリー・ブルースター・スタントンと結婚した。この結婚によって、彼女は政治的に進歩主義的なサークルにさらに深く入り込むことになった。1848年、エリザベス・スタントンは、既婚女性の財産権を守る法律を制定するよう、ニューヨーク州議会を説得するために尽力した。そして、その年の7月には、ニューヨーク州セネカフォールズで開催された、米国で、そしておそらく世界で初めての女性の権利会議を、女権運動家のルクレチア・モットとともに、先頭に立って運営した。この会議は、女性の権利を訴える数々の決議を可決し、注目すべきことに、米国独立宣言をモデルにした「感情宣言」で、女性参政権(選挙権)を要求した。
エリザベス・スタントンは1842年から1859年までの間に7人の子どもを生んだが、これによって仕事への情熱が衰えることはほとんどなかった。南北戦争の間、彼女と夫は奴隷制度の廃止を求める活動を行った。その後は、女性参政権の問題に力を入れないことを理由に、ほかの進歩主義者と袂を分かった。
1850年頃スタントンは、同じく女性の投票権を求める運動のリーダーを務めていたスーザン・B・アンソニーと親交を結ぶようになった。2人の50年に及ぶ協力関係は、スタントンの演説家、著者としての優れた技能と、アンソニーのまとめ役、戦術家としての才能が強みだった。2人のパートナーシップについてスタントンは、「私が雷電を作って、彼女がそれを放った」と言っている。スタントンは全米女性参政権協会の会長として有名になり、母性や離婚法、そして家庭・結婚・生命を破壊すると感じている人もいた酒の社会的影響などのテーマで、講演活動も行った。1880年に引退した後、アンソニーと共著の形で女性参政権の歴史を書いた。彼女は、その数十年後に実現することとなった、女性の政治的・社会的平等に向けて国が取り組むべき課題のリストを完成させた後、1902年に死去した。
久々に西日本新聞のコラム「春秋」に読んで相打ちが打てるような記事に出会いましたので今日はこの記事を紹介いたします。

安倍晋三首相の連続在職日数が昨日、佐藤栄作氏を超えて憲政史上最高となった。「1強」ぶりを象徴するような記録だが、ここへ来てにわかに健康不安説が浮上している►きっかけとなったのは16日、首相側近として知られる議員がテレビ出演し、首相の激務ぶりを強調する発言をしたことだ。「首相は休んでもらいたい。休むことが罪だというような意識まで持っている」。ん?►安倍首相は6月にさっさと国会を閉じ「新型コロナウイルス対策論議のために臨時国会の早期召集を」とする野党の要求を無視している。コロナ対策を語る本格的な記者会見も2か月以上途絶えたままだ►先週末実施された世論調査では「速やかに臨時国会を開くべきだ」が70.8%に達した。国民はむしろ「もっと仕事をしてほしい」と思っているのに、側近議員からは「休んでほしい」発言だ。►何か変だなと思っていたら、首相は17日に慶応大学病院へ行きほぼ半日滞在。24日にも再び同病院を訪れた。首相は「検査」としているが、側近の激務強調がかえって「体調不良のカムフラージュ」にみえてしまい「健康不安は深刻か」の憶測を増幅せたのは皮肉である►もし体調不良が単なる勘繰りにすぎず、首相がデマを打ち消したいのなら、対応は簡単だ。臨時国会をすぐに召集して野党との論戦に臨み、時間無制限の記者会見を開いてコロナ対策への疑問に答えれば良い。
2020・08・25 西日本新聞 春秋

安倍晋三首相の連続在職日数が昨日、佐藤栄作氏を超えて憲政史上最高となった。「1強」ぶりを象徴するような記録だが、ここへ来てにわかに健康不安説が浮上している►きっかけとなったのは16日、首相側近として知られる議員がテレビ出演し、首相の激務ぶりを強調する発言をしたことだ。「首相は休んでもらいたい。休むことが罪だというような意識まで持っている」。ん?►安倍首相は6月にさっさと国会を閉じ「新型コロナウイルス対策論議のために臨時国会の早期召集を」とする野党の要求を無視している。コロナ対策を語る本格的な記者会見も2か月以上途絶えたままだ►先週末実施された世論調査では「速やかに臨時国会を開くべきだ」が70.8%に達した。国民はむしろ「もっと仕事をしてほしい」と思っているのに、側近議員からは「休んでほしい」発言だ。►何か変だなと思っていたら、首相は17日に慶応大学病院へ行きほぼ半日滞在。24日にも再び同病院を訪れた。首相は「検査」としているが、側近の激務強調がかえって「体調不良のカムフラージュ」にみえてしまい「健康不安は深刻か」の憶測を増幅せたのは皮肉である►もし体調不良が単なる勘繰りにすぎず、首相がデマを打ち消したいのなら、対応は簡単だ。臨時国会をすぐに召集して野党との論戦に臨み、時間無制限の記者会見を開いてコロナ対策への疑問に答えれば良い。
2020・08・25 西日本新聞 春秋

共同通信社が22~23日に実施した全国電話世論調査によると、安倍内閣の支持率は前回7月の調査より2・8ポイント減の36・0%となった。調査手法が異なるため単純比較はできないが、2012年の第2次安倍内閣発足後、2番目に低い数字。不支持率は49・1%だった。新型コロナウイルス対策を議論するため野党が求めている臨時国会召集を巡り「速やかに開くべきだ」が70・8%に達し、「速やかに開く必要はない」の22・6%を大きく上回った。
観光支援事業「Go To トラベル」を巡る混乱など政府の新型コロナ対応への不満が反映しているとみられる。第2次安倍内閣発足後の支持率で最低だったのは、学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画を巡る説明不足が影響した17年7月の35・8%。政府の新型コロナ対応に関し「評価しない」は58・4%に上り、「評価する」の34・0%を引き離した。
新型コロナ特別措置法に基づく緊急事態宣言の再発令について「出すべきだ」は47・5%。安倍晋三首相による長期政権に関し、「どちらかといえば」を含め「プラス面が多かった」が49・6%、「マイナス面が多かった」は43・9%だった。
立憲民主、国民民主両党による合流新党に関し尋ねたところ「期待しない」は67・5%に達した。「期待する」は22・0%にとどまった。
衆院議員の任期満了が21年10月に近づく中、衆院解散・総選挙はいつがよいかとの問いには「任期満了かそれに近い時期」が58・5%で最多。17・7%が「来年前半」、13・4%が「今年中」と答えた。次の首相にふさわしい人では、石破茂自民党元幹事長が23・3%でトップ。首相11・0%、小泉進次郎環境相8・4%と続いた。
政党支持率は、自民党32・9%、立憲民主党6・9%、国民民主党1・5%、公明党3・8%、共産党3・0%、日本維新の会4・6%、社民党1・1%、NHKから国民を守る党0・7%、れいわ新選組1・5%。「支持する政党はない」とした無党派層は41・7%だった。
西日本新聞
2020年8月24日(月)
「処暑(しょしょ)」は、「二十四節気」の一つで第14番目にあたる。現在広まっている定気法では太陽黄経が150度のときで8月23日頃。

「立秋」(8月7日頃)と「白露」(9月8日頃)の中間にあたる。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の「白露」前日までである。西洋占星術では「処暑」が処女宮(しょじょきゅう:おとめ座)の始まりとなる。
暑さが止むという意味から「処暑」といわれ、厳しい暑さが峠を越して、落ち着く頃である。昼間はまだ残暑が厳しい地方もあるが、朝夕には涼しい風が吹き始める。江戸時代の暦の解説書『暦便覧(こよみびんらん)』では「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」と説明している。
この時期は秋の台風が訪れることが多く、この日は「二百十日」「二百二十日」とともに台風が高い確率で襲来する「特異日」とされている。
「処暑」の日付は以下の通り。
2016年8月23日(火)
2017年8月23日(水)
2018年8月23日(木)
2019年8月23日(金)
2020年8月23日(日)
雑学ネタ帳より

「立秋」(8月7日頃)と「白露」(9月8日頃)の中間にあたる。期間としての意味もあり、この日から、次の節気の「白露」前日までである。西洋占星術では「処暑」が処女宮(しょじょきゅう:おとめ座)の始まりとなる。
暑さが止むという意味から「処暑」といわれ、厳しい暑さが峠を越して、落ち着く頃である。昼間はまだ残暑が厳しい地方もあるが、朝夕には涼しい風が吹き始める。江戸時代の暦の解説書『暦便覧(こよみびんらん)』では「陽気とどまりて、初めて退きやまむとすれば也」と説明している。
この時期は秋の台風が訪れることが多く、この日は「二百十日」「二百二十日」とともに台風が高い確率で襲来する「特異日」とされている。
「処暑」の日付は以下の通り。
2016年8月23日(火)
2017年8月23日(水)
2018年8月23日(木)
2019年8月23日(金)
2020年8月23日(日)
雑学ネタ帳より
藤村忌(8月22日 記念日)
明治~昭和時代の詩人・小説家である島崎藤村(しまざき とうそん)の1943年(昭和18年)の忌日。

秋の季語。この日には、島崎家の菩提寺である岐阜県中津川市の永昌寺(えいしょうじ)において、関係者らにより「藤村忌」の法要が営まれる。また、長野県小諸市にある藤村記念館の前では、藤村の遺徳を偲び、藤村文学愛好者らにより花や歌が捧げられる。
島崎藤村について
1872年(明治5年)3月25日、筑摩県第八大区五小区馬籠村(長野県を経て現在の岐阜県中津川市馬籠)に四男として生まれる。本名は島崎春樹(しまざき はるき)。父・正樹(まさき)は国学者。家は中山道・馬籠宿(まごめじゅく)の本陣・庄屋・問屋を務める。
1881年(明治14年)、修学のため上京。親戚や知人の家で成長。1891年(明治24年)、明治学院本科(現:明治学院大学)を卒業。在学中にキリスト教の洗礼を受けるとともに、文学への関心を強める。
1893年(明治26年)、交流を結んでいた北村透谷(きたむら とうこく)・星野天知(ほしの てんち)らと文芸雑誌『文学界(ぶんがくかい)』を創刊。同誌の同人として劇詩や随筆を発表する。
1896年(明治29年)、東北学院の教師として1年間ほど宮城県仙台市に赴任。その頃の作品を翌1897年(明治30年)に第一詩集『若菜集(わかなしゅう)』として出版。浪漫(ロマン)主義詩人としての地位を確立する。
1899年(明治32年)、小諸義塾(こもろぎじゅく)の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす。散文を志すようになり、写生文『千曲川(ちくまがわ)のスケッチ』(1912年に刊行)などを書く。上京後の1906年(明治39年)、長編小説『破戒(はかい)』を自費出版。作家としての地位を確立、自然主義文学の先駆となる。
1935年(昭和10年)、維新における父・正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前(よあけまえ)』を完成。同年、日本ペンクラブを結成、初代会長に就任。翌1936年(昭和11年)、朝日文化賞を受賞。1940年(昭和15年)、帝国芸術院会員に選定される。
1943年(昭和18年)8月22日、脳出血のため神奈川県大磯町の自宅で死去。71歳。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。その他の著書として、小説『春(はる)』(1908年)、『家(いえ)』(1911年)、『新生(しんせい)』(1919年)、童話『眼鏡(めがね)』(1913年)、紀行文『海へ(うみへ)』(1918年)などがある。
雑学ネタ帳より
明治~昭和時代の詩人・小説家である島崎藤村(しまざき とうそん)の1943年(昭和18年)の忌日。

秋の季語。この日には、島崎家の菩提寺である岐阜県中津川市の永昌寺(えいしょうじ)において、関係者らにより「藤村忌」の法要が営まれる。また、長野県小諸市にある藤村記念館の前では、藤村の遺徳を偲び、藤村文学愛好者らにより花や歌が捧げられる。
島崎藤村について
1872年(明治5年)3月25日、筑摩県第八大区五小区馬籠村(長野県を経て現在の岐阜県中津川市馬籠)に四男として生まれる。本名は島崎春樹(しまざき はるき)。父・正樹(まさき)は国学者。家は中山道・馬籠宿(まごめじゅく)の本陣・庄屋・問屋を務める。
1881年(明治14年)、修学のため上京。親戚や知人の家で成長。1891年(明治24年)、明治学院本科(現:明治学院大学)を卒業。在学中にキリスト教の洗礼を受けるとともに、文学への関心を強める。
1893年(明治26年)、交流を結んでいた北村透谷(きたむら とうこく)・星野天知(ほしの てんち)らと文芸雑誌『文学界(ぶんがくかい)』を創刊。同誌の同人として劇詩や随筆を発表する。
1896年(明治29年)、東北学院の教師として1年間ほど宮城県仙台市に赴任。その頃の作品を翌1897年(明治30年)に第一詩集『若菜集(わかなしゅう)』として出版。浪漫(ロマン)主義詩人としての地位を確立する。
1899年(明治32年)、小諸義塾(こもろぎじゅく)の英語教師として長野県小諸町に赴任し、以後6年過ごす。散文を志すようになり、写生文『千曲川(ちくまがわ)のスケッチ』(1912年に刊行)などを書く。上京後の1906年(明治39年)、長編小説『破戒(はかい)』を自費出版。作家としての地位を確立、自然主義文学の先駆となる。
1935年(昭和10年)、維新における父・正樹をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前(よあけまえ)』を完成。同年、日本ペンクラブを結成、初代会長に就任。翌1936年(昭和11年)、朝日文化賞を受賞。1940年(昭和15年)、帝国芸術院会員に選定される。
1943年(昭和18年)8月22日、脳出血のため神奈川県大磯町の自宅で死去。71歳。最期の言葉は「涼しい風だね」であった。その他の著書として、小説『春(はる)』(1908年)、『家(いえ)』(1911年)、『新生(しんせい)』(1919年)、童話『眼鏡(めがね)』(1913年)、紀行文『海へ(うみへ)』(1918年)などがある。
雑学ネタ帳より
熊本には30歳の時に転職してやって来ました。
若かったので自分勝手の転職が大きなハンディーを背負う事への理解や家庭を守る責任感など家内や子供たちに心配をかけたことを今になってつくづく思い出されます。
天草には2年~3年後に転勤でやってきました。
その頃の思い出は天草は陸の孤島、言葉は分からないし、その頃家庭の事情でおふくろまで面倒を見なくてはならない事情になり、家内には本当に苦労のかけっ放しであった。
今回の旅行は苦労を掛けた家内への〝ねぎらい〟のつもりで企画しました。
今日は2年前に世界文化遺産に認定された潜伏キリシタンの里、崎津集落を見学して廻ります。
大江天主堂
崎津天主堂
若かったので自分勝手の転職が大きなハンディーを背負う事への理解や家庭を守る責任感など家内や子供たちに心配をかけたことを今になってつくづく思い出されます。
天草には2年~3年後に転勤でやってきました。
その頃の思い出は天草は陸の孤島、言葉は分からないし、その頃家庭の事情でおふくろまで面倒を見なくてはならない事情になり、家内には本当に苦労のかけっ放しであった。
今回の旅行は苦労を掛けた家内への〝ねぎらい〟のつもりで企画しました。
今日は2年前に世界文化遺産に認定された潜伏キリシタンの里、崎津集落を見学して廻ります。



8月20日は天草の「石山離宮五足のくつ」に1泊旅行です。
以前から結婚50周年のお礼にゆっくり出来るところにと計画はしていたもののコロナ騒動で外出もままならず、今日になりました。
いつもありがとう!






以前から結婚50周年のお礼にゆっくり出来るところにと計画はしていたもののコロナ騒動で外出もままならず、今日になりました。
いつもありがとう!






「塩を踏む(しおをふむ)」とは、「世間に出て苦労する、他人の間でつらい目にあう」という意味の言葉である。


「塩を踏む」は、塩を作る時の塩田に関係のある言葉である。塩田では一般に砂の上に海水をまく。そして、頻繁にかき混ぜながら、天日と風により水分を蒸発させて塩分濃度を上げる。その塩砂をかき集めて海水で洗い、濃縮された塩水を釜で煮詰めて塩を取り出す。
ただし、効率よく純粋な塩を得るためには、多くの工程を踏む必要があった。さらに、夏場は暑くて塩を作る作業はとても厳しい労働であった。そこから、「塩を踏む」は「世間に出て苦労する、つらい目にあう」という意味で使われるようになった。
国語辞典の『広辞苑』には「しお(潮・汐)」の項目に、「潮を踏む」と掲載されており、その意味は「世間の艱難(かんなん:困難にあって苦しみ悩むこと)をなめる、つらい目にあう」となっている。また、その「潮」の字から塩田に由来する言葉であることが分かる。
ちなみに、塩は人間にとって必要不可欠なものである。古代ローマでは兵士に塩を買うための手当が支給されたという。また、兵士の給料が塩で支払われたという話もある。
ラテン語で「塩」は「sal(サル)」であり、これに由来して「塩」の英語は「salt(ソルト)」である。また、上記の古代ローマの塩の話に由来して、「給料」という意味の英語「salary(サラリー)」の語源にもなっている。
雑学ネタ帳より


「塩を踏む」は、塩を作る時の塩田に関係のある言葉である。塩田では一般に砂の上に海水をまく。そして、頻繁にかき混ぜながら、天日と風により水分を蒸発させて塩分濃度を上げる。その塩砂をかき集めて海水で洗い、濃縮された塩水を釜で煮詰めて塩を取り出す。
ただし、効率よく純粋な塩を得るためには、多くの工程を踏む必要があった。さらに、夏場は暑くて塩を作る作業はとても厳しい労働であった。そこから、「塩を踏む」は「世間に出て苦労する、つらい目にあう」という意味で使われるようになった。
国語辞典の『広辞苑』には「しお(潮・汐)」の項目に、「潮を踏む」と掲載されており、その意味は「世間の艱難(かんなん:困難にあって苦しみ悩むこと)をなめる、つらい目にあう」となっている。また、その「潮」の字から塩田に由来する言葉であることが分かる。
ちなみに、塩は人間にとって必要不可欠なものである。古代ローマでは兵士に塩を買うための手当が支給されたという。また、兵士の給料が塩で支払われたという話もある。
ラテン語で「塩」は「sal(サル)」であり、これに由来して「塩」の英語は「salt(ソルト)」である。また、上記の古代ローマの塩の話に由来して、「給料」という意味の英語「salary(サラリー)」の語源にもなっている。
雑学ネタ帳より
1915年(大正4年)のこの日、大阪の豊中球場(豊中グラウンド)で第1回全国中等学校優勝野球大会が開会した。

地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年(昭和23年)から全国高校野球選手権大会となった。現在では「夏の甲子園」「夏の高校野球」「夏の選手権」などとも呼ばれている。
今日は何の日より
※今年の高校野球は新型コロナ感染の為大会は中止になりました。変わりに交流試合という形で全国から選ばれた32校が甲子園で1試合限りの野球試合を行いました。その試合も昨日で終わりました。

地区予選を勝ち抜いた10校が参加し、決勝戦は京都二中と秋田中で、2-1で京都二中が優勝した。第10回から甲子園球場が会場になり、1948年(昭和23年)から全国高校野球選手権大会となった。現在では「夏の甲子園」「夏の高校野球」「夏の選手権」などとも呼ばれている。
今日は何の日より
※今年の高校野球は新型コロナ感染の為大会は中止になりました。変わりに交流試合という形で全国から選ばれた32校が甲子園で1試合限りの野球試合を行いました。その試合も昨日で終わりました。
1948年(昭和23年)のこの日、横浜ゲーリッグ球場で日本初の夜間の公式試合・巨人対中部(現在の中日)戦が行われた。

夜間試合のことを意味する「ナイター」という言葉もこの時初めて使われた。「ナイター」は日本で作られた用語で、正式には「night game」という。ちなみに、この日に米大リーグのベーブ・ルースの死去が報じられ、試合前に全員で黙祷が捧げられた。
2月5日は「プロ野球の日」、6月19日は「ベースボール記念日」、8月9日は「野球の日」、12月26日は「プロ野球誕生の日」。
今日は何の日より

夜間試合のことを意味する「ナイター」という言葉もこの時初めて使われた。「ナイター」は日本で作られた用語で、正式には「night game」という。ちなみに、この日に米大リーグのベーブ・ルースの死去が報じられ、試合前に全員で黙祷が捧げられた。
2月5日は「プロ野球の日」、6月19日は「ベースボール記念日」、8月9日は「野球の日」、12月26日は「プロ野球誕生の日」。
今日は何の日より
本来は旧暦7月16日であるが、明治の改暦後は、多くの地域で月遅れの8月16日に行われる。
お盆に帰ってきた先祖の霊を送り出す行事で、京都の五山送り火・奈良の高円山大文字送り火・長崎の精霊流しなどが有名である。家庭の玄関先や庭で行われる規模のものもある。仏教が庶民の間に浸透した室町時代以後に年中行事として定着したといわれている。
京都五山送り火のうち大文字
五山送り火は、この日に京都府京都市左京区にある如意ヶ嶽(大文字山)など五山で行われるかがり火である。宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事・伝統行事であり、葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる。

雑学ネタ帳 今日は何の日より
お盆に帰ってきた先祖の霊を送り出す行事で、京都の五山送り火・奈良の高円山大文字送り火・長崎の精霊流しなどが有名である。家庭の玄関先や庭で行われる規模のものもある。仏教が庶民の間に浸透した室町時代以後に年中行事として定着したといわれている。

五山送り火は、この日に京都府京都市左京区にある如意ヶ嶽(大文字山)など五山で行われるかがり火である。宗教・歴史的な背景から「大文字の送り火」と呼ばれることがある。京の夏の夜空を焦がす京都の名物行事・伝統行事であり、葵祭・祇園祭・時代祭とともに京都四大行事の一つとされる。

雑学ネタ帳 今日は何の日より
1945年(昭和20年)8月14日、日本政府はポツダム宣言を受諾し、翌15日の正午に昭和天皇による玉音放送によって日本が無条件降伏したことが国民に伝えられ、第二次世界大戦が終結した。

第二次世界大戦で日本と敵対した連合国(アメリカ・イギリス・フランス・カナダ・ロシア)では、日本がアメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏文書へ調印した9月2日を終戦記念日としています。日本でも国家として公式に「終戦」となったのは降伏調印をした9月2日です。
なぜ連合国側と日本とでは終戦の日の認識が違うのかというと、日本がポツダム宣言を受託した8月14日には、すでにアメリカでは日本が降伏する事実が報道されており、当時のトルーマン大統領は日本が降伏文書へ調印したのを見届けてから「VJ Day(Victory over Japan Day:対日戦勝記念日)」の布告をすると宣言していたためです。
玉音放送は国民が初めて聞く昭和天皇の肉声であった。内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人だった。1963年(昭和38年)から毎年、政府主催による「全国戦没者追悼式」が行われ、正午から1分間、黙祷が捧げられる。この追悼式は第二次世界大戦の日本人戦没者に対して宗教的に中立な形で行われる。1982年(昭和57年)4月の閣議決定により「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となった。
●8月15日 毎日新聞余禄の記事
「思わざる失態」を演じるな――終戦の5日後、憲兵隊司令部から各部隊に注意を促す通達がなされた。終戦前日に命じた文書焼却についての念押しで、それが実に微(び)に入(い)り細(さい)をうがっているのがすごい▲引き出しの奥にはりついた文書はないか。棚の奥に落ちたもの、焼却物の焼け残りや周囲への散乱、私物の本へはさんだものはないか……箇(か)条(じょう)書(が)きで点検を求め、なかには「机の動揺止めの為(ため)脚下等に挟みたるもの」まで挙げている▲終戦時の文書焼却は軍だけでなく、内務省、外務省などでも行われ、市町村の書類にも及んだ。内務省の焼却は三日三晩に及び、外務省は8000冊を焼いたという。明治国家は軍人や役人の戦争責任を煙に変えた炎とともに滅んだ▲コロナ禍という世界的試練の中で迎える終戦から75年の節目である。行政文書による記録を義務づける「歴史的緊急事態」に指定されたコロナ対応だが、果たして後日の検証や将来の感染症対策に資する記録がなされているだろうか▲疑うのは、今の政府の公文書管理のでたらめを見てきたからである。さらに振り返れば、外国の文書公開で自国の密約外交を知った日本の「戦後」だった。75年を経ても、日本人はその事績を公文書で検証できる政府を築けないのか▲途方もない無責任の連鎖が引き起こした先の戦争であった。その内外の戦没者の魂を鎮める日、どんな為政者も官吏も、いつか必ず文書で立証される歴史の法廷に立ってもらう民主政治の原則を心に刻みたい。
8月15日西日本新聞・春秋
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」。75年前の今日、全国に流れた玉音放送。玉音とは玉のような音、転じて天皇の肉声を指す
▼この日の新聞は放送終了を待ち配られた。本紙1面にもその玉音放送の全文、つまりポツダム宣言を受諾した昭和天皇の終戦宣言が載った。敗戦の悔しさに泣いた人、解放感に安堵(あんど)した人。受け止め方はそれぞれだったろう
▼長崎の自由律俳人松尾あつゆきは玉音の瞬間をこう詠んだ。<降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾(おこ)りつ>。伴侶を焼く炎を見つめる空虚な心に玉音はどう響いたか
▼彼は長崎で被爆、まず3人の子を失った。<炎天、子のいまわの水をさがしにゆく>。どうにかこうにか3人を荼毘(だび)に付す。<ほのお、兄をなかによりそうて火になる>。焼け跡から助け出した妻も終戦の前日に逝った。<なにもかもなくした手に四まいの爆死証明>
▼松尾の師荻原井泉水(せいせんすい)は彼の心情をこう推し量った。<涙も涸(か)れてしまったのちに魂からしみ出る涙であり、嘆息する息もとまったのちの嘆きの息である>
▼今年も迎えた終戦の日。コロナ禍に7月豪雨災害が追い打ちをかけ、涙も嘆きの息も止まる心境の方もいよう。ただ「堪え難きを…」に続く玉音は「万世の為(ため)に太平を開かん」(永久に平和な世界を開こう)だった。松尾らの幾万の涙や嘆きをしかと胸に刻み、反戦という当たり前の真理を思い起こす今日にしたい。

第二次世界大戦で日本と敵対した連合国(アメリカ・イギリス・フランス・カナダ・ロシア)では、日本がアメリカ戦艦ミズーリ号上で降伏文書へ調印した9月2日を終戦記念日としています。日本でも国家として公式に「終戦」となったのは降伏調印をした9月2日です。
なぜ連合国側と日本とでは終戦の日の認識が違うのかというと、日本がポツダム宣言を受託した8月14日には、すでにアメリカでは日本が降伏する事実が報道されており、当時のトルーマン大統領は日本が降伏文書へ調印したのを見届けてから「VJ Day(Victory over Japan Day:対日戦勝記念日)」の布告をすると宣言していたためです。
玉音放送は国民が初めて聞く昭和天皇の肉声であった。内務省の発表によれば、戦死者は約212万人、空襲による死者は約24万人だった。1963年(昭和38年)から毎年、政府主催による「全国戦没者追悼式」が行われ、正午から1分間、黙祷が捧げられる。この追悼式は第二次世界大戦の日本人戦没者に対して宗教的に中立な形で行われる。1982年(昭和57年)4月の閣議決定により「戦没者を追悼し平和を祈念する日」となった。
●8月15日 毎日新聞余禄の記事
「思わざる失態」を演じるな――終戦の5日後、憲兵隊司令部から各部隊に注意を促す通達がなされた。終戦前日に命じた文書焼却についての念押しで、それが実に微(び)に入(い)り細(さい)をうがっているのがすごい▲引き出しの奥にはりついた文書はないか。棚の奥に落ちたもの、焼却物の焼け残りや周囲への散乱、私物の本へはさんだものはないか……箇(か)条(じょう)書(が)きで点検を求め、なかには「机の動揺止めの為(ため)脚下等に挟みたるもの」まで挙げている▲終戦時の文書焼却は軍だけでなく、内務省、外務省などでも行われ、市町村の書類にも及んだ。内務省の焼却は三日三晩に及び、外務省は8000冊を焼いたという。明治国家は軍人や役人の戦争責任を煙に変えた炎とともに滅んだ▲コロナ禍という世界的試練の中で迎える終戦から75年の節目である。行政文書による記録を義務づける「歴史的緊急事態」に指定されたコロナ対応だが、果たして後日の検証や将来の感染症対策に資する記録がなされているだろうか▲疑うのは、今の政府の公文書管理のでたらめを見てきたからである。さらに振り返れば、外国の文書公開で自国の密約外交を知った日本の「戦後」だった。75年を経ても、日本人はその事績を公文書で検証できる政府を築けないのか▲途方もない無責任の連鎖が引き起こした先の戦争であった。その内外の戦没者の魂を鎮める日、どんな為政者も官吏も、いつか必ず文書で立証される歴史の法廷に立ってもらう民主政治の原則を心に刻みたい。
8月15日西日本新聞・春秋
「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び」。75年前の今日、全国に流れた玉音放送。玉音とは玉のような音、転じて天皇の肉声を指す
▼この日の新聞は放送終了を待ち配られた。本紙1面にもその玉音放送の全文、つまりポツダム宣言を受諾した昭和天皇の終戦宣言が載った。敗戦の悔しさに泣いた人、解放感に安堵(あんど)した人。受け止め方はそれぞれだったろう
▼長崎の自由律俳人松尾あつゆきは玉音の瞬間をこう詠んだ。<降伏のみことのり、妻をやく火いまぞ熾(おこ)りつ>。伴侶を焼く炎を見つめる空虚な心に玉音はどう響いたか
▼彼は長崎で被爆、まず3人の子を失った。<炎天、子のいまわの水をさがしにゆく>。どうにかこうにか3人を荼毘(だび)に付す。<ほのお、兄をなかによりそうて火になる>。焼け跡から助け出した妻も終戦の前日に逝った。<なにもかもなくした手に四まいの爆死証明>
▼松尾の師荻原井泉水(せいせんすい)は彼の心情をこう推し量った。<涙も涸(か)れてしまったのちに魂からしみ出る涙であり、嘆息する息もとまったのちの嘆きの息である>
▼今年も迎えた終戦の日。コロナ禍に7月豪雨災害が追い打ちをかけ、涙も嘆きの息も止まる心境の方もいよう。ただ「堪え難きを…」に続く玉音は「万世の為(ため)に太平を開かん」(永久に平和な世界を開こう)だった。松尾らの幾万の涙や嘆きをしかと胸に刻み、反戦という当たり前の真理を思い起こす今日にしたい。
「束の間(つかのま)」には、「ほんの少しの時間、ちょっとの時間、あっという間」などの意味がある。
「喜びも束の間」「束の間の夢」「束の間の休息」「束の間の幸せ」「束の間も忘れない」などのように使われる。「つかの間」と表記することも多い。
「束(つか)」は、建築用語で「短い柱」を意味し、床を支えるために立てる「床束(ゆかづか)」や屋根を支える「小屋束(こやづか)」、鴨居(かもい)をつり支える「吊り束(つりづか)」などがある。

そんな「束」は、元々は長さを表す言葉である。「一束(ひとつか)」は「指四本分の幅、握りこぶしの幅」で、「一握り分ほどの短い長さ」を意味する。また、「間」は「時間」を意味する。
つまり、短い幅の長さを時間の長さに例えて、「ごく短い時間」という意味で「束の間」という言葉が用いられるようになった。
ちなみに、「短い時間」という意味の言葉に「瞬く間(またたくま)」がある。これは「まばたきをするほどの極めて短い時間」という意味である。
雑学ネタ帳より
「喜びも束の間」「束の間の夢」「束の間の休息」「束の間の幸せ」「束の間も忘れない」などのように使われる。「つかの間」と表記することも多い。
「束(つか)」は、建築用語で「短い柱」を意味し、床を支えるために立てる「床束(ゆかづか)」や屋根を支える「小屋束(こやづか)」、鴨居(かもい)をつり支える「吊り束(つりづか)」などがある。

そんな「束」は、元々は長さを表す言葉である。「一束(ひとつか)」は「指四本分の幅、握りこぶしの幅」で、「一握り分ほどの短い長さ」を意味する。また、「間」は「時間」を意味する。
つまり、短い幅の長さを時間の長さに例えて、「ごく短い時間」という意味で「束の間」という言葉が用いられるようになった。
ちなみに、「短い時間」という意味の言葉に「瞬く間(またたくま)」がある。これは「まばたきをするほどの極めて短い時間」という意味である。
雑学ネタ帳より

今日からお盆と呼ばれる時期に入ります。毎年お盆の時期になると実家に帰省して、墓参りやお供えをするという方は多いでしょう。
しかし、なぜお盆があるのか、そもそもお盆には何をするべきなのか知らない人も多いのではないでしょうか。
お盆とはどういう意味なのか、その由来や歴史、そしてお盆についての知識を考えてみることにしました。

お盆とは先祖の精霊をお迎えして供養する期間のことを指すそうです。
お盆の時期には先祖が浄土から地上に戻ってくると考えられています。
ご先祖様を1年に1回、家にお迎えしともにひと時を過ごして、ご冥福をお祈りし、先祖の霊を供養します。
お盆の期間は旧暦と新暦によって7月15日前後か8月15日前後に大きく分かれます。
お盆は地方や宗派によって風習が大きく異なるのも特徴です。
一般的には13日に迎え火を焚いてお迎えし、16日の送り火であの世にお送りします。
地域によっては盆踊りなどの行事がある所もあります。お盆には、先祖の霊を供養するという意味のもと、様々な風習が今も残っています。

その期間には、お墓参りをしたりお供えをしたりします。
お盆の正式名称は、盂蘭盆会(うらぼんえ)または盂蘭盆(うらぼん)といいます。
この名称は、「盂蘭盆経(うらぼんきょう)」というお経が由来であるとされています。「うらぼん」は日本語では聞きなれない響きですが、サンスクリット語で「逆さ吊りの苦しみ」を意味する「ウラバンナ」からきているといわれています。
釈迦の弟子である目連(もくれん)は神通力で亡き母が地獄で逆さ吊りの刑をうけていることを知ります。
なんとかして母を救済できないかと思い、釈迦に教えを乞いました。
そこで釈迦は「旧暦の7月15日(現在の8月中旬ごろ)に多くの高僧を心から供養すれば、三途の苦しみから救えるでしょう」と伝えます。
そして目連はそのとおりに実践したところ、母親が無事往生することができた、というものです。
このお経が日本に伝わり、旧暦の7月15日に、先祖の恩に感謝して、お墓参りや迎え火などのお盆の行事がはじまったといわれています。
盆とは文字どおり、供物を置くための容器を意味するため、供物を供え祀られる精霊の呼称となって、盂蘭盆と混同されて合わさったものとも言われています。
現在も精霊を「ぼんさま」と呼ぶ地域があります。
ではお盆はどのようにして、我々の生活に広まったのでしょうか。
日本でお盆が行われたのは、606年に推古天皇が「推古天皇十四年七月十五日斎会」という行事を行ったのがはじめだといわれています。
江戸時代以前は、お盆は貴族や武士、僧侶などの上流階級の行事でした。
しかし、江戸時代になるとお盆の風習が庶民の間にも広まります。
その理由は「ロウソクの普及」にあるといわれています。
仏壇や提灯に欠かせないロウソクが大量生産で安価に取得できるようになったことで、日本全国に広がりました。
お盆は、宗教・宗派や地域によって独自の発展を見せ、現在の姿に至ります。
七夕をはじめ、京都の五山の送り火や、長崎の精霊流しなどもお盆の行事にあたります。
お坊さん便より
もうあの事故から35年も経つのか・・・?
悲しい出来事は毎年起きていますね、天災であったり人災であったり。
防げる事故もいっぱいあっただろうに。
1985年(昭和60年)のこの日、日航機123便が群馬県御巣鷹山(おすたかやま)に墜落し、520人の犠牲者を出した。生存者は4人だった。
遺族らがつくる「8・12連絡会」が編集したメッセージ集のタイトルから「茜雲忌」(あかねぐもき)とも呼ばれる。日本航空123便は、8月12日18時12分に東京国際空港(羽田空港)を離陸、大阪国際空港(伊丹空港)に向かう途中であった。死者数520人は日本国内で発生した航空機事故では2015年8月の時点で最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多である。
今日は何の日より
墜落した日航ジャンボ機の主翼部分(1985年8月、群馬県・御巣鷹山)=共同
日航機事故35年、安全意識継承に課題 ミス発見模索続く
事故機の調査を担当した運輸省航空事故調査委員会(当時)の元事故調査官、斉藤孝一さん(75)は話す。「難しい修理ではなかったはずなのに」。
事故の原因は機体にある後部圧力隔壁の修理ミスとされる。同機は78年に大阪国際(伊丹)空港で尻もち事故を起こし、米ボーイング社が修理した。そこで指示書と異なる修理がされ、隔壁をつなぐリベット留めが不十分だった。
斉藤さんは「強度が不足してしまうのは明らか。複数のチェックが働いていれば誰かが気づけた」と語る。日航側も見抜けぬまま機体は飛び続け、修理から7年後、上空で操縦不能に陥った。
日本経済新聞 社会・くらし 2020/8/11 より
悲しい出来事は毎年起きていますね、天災であったり人災であったり。
防げる事故もいっぱいあっただろうに。
1985年(昭和60年)のこの日、日航機123便が群馬県御巣鷹山(おすたかやま)に墜落し、520人の犠牲者を出した。生存者は4人だった。
遺族らがつくる「8・12連絡会」が編集したメッセージ集のタイトルから「茜雲忌」(あかねぐもき)とも呼ばれる。日本航空123便は、8月12日18時12分に東京国際空港(羽田空港)を離陸、大阪国際空港(伊丹空港)に向かう途中であった。死者数520人は日本国内で発生した航空機事故では2015年8月の時点で最多であり、墜落事故および単独機の航空事故でも世界最多である。
今日は何の日より

日航機事故35年、安全意識継承に課題 ミス発見模索続く
事故機の調査を担当した運輸省航空事故調査委員会(当時)の元事故調査官、斉藤孝一さん(75)は話す。「難しい修理ではなかったはずなのに」。
事故の原因は機体にある後部圧力隔壁の修理ミスとされる。同機は78年に大阪国際(伊丹)空港で尻もち事故を起こし、米ボーイング社が修理した。そこで指示書と異なる修理がされ、隔壁をつなぐリベット留めが不十分だった。
斉藤さんは「強度が不足してしまうのは明らか。複数のチェックが働いていれば誰かが気づけた」と語る。日航側も見抜けぬまま機体は飛び続け、修理から7年後、上空で操縦不能に陥った。
日本経済新聞 社会・くらし 2020/8/11 より