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Posted by おてもやん at
1800年(寛政12年)のこの日、伊能忠敬(いのう ただたか、1745~1818年)が蝦夷地の測量に出発した。

その後、16年にわたって測量をして歩き、本格的な日本全土の実測地図である『大日本沿海輿地全図』を完成させ、国土の正確な姿を明らかにした。「輿地(よち)」とは大地や地球、全世界のことを意味する。この地図は、江戸幕府の事業として測量・作成が行われたもので、その中心となって製作した彼の名前から「伊能図(いのうず)」とも称される。

実際に地図が完成したのは伊能の死後、1821年(文政4年)のことである。縮尺36,000分の1の大図、216,000分の1の中図、432,000分の1の小図があり、大図は214枚、中図は8枚、小図は3枚で測量範囲をカバーしている。この他に特別大図や特別小図、特別地域図などといった特殊な地図も存在する。すべて手書きの彩色地図である。

大図 渥美半島付近

伊能は上総国(現:千葉県)出身の商人で、そこで造り酒屋を営み立派に繁盛させていたが、50歳の時に家督を長男に譲り、江戸へ出て測量・天文観測などを学んだ。その後、56歳の時に上記の測量を開始した。幕府からの資金援助はあまりなく、測量器具や旅の費用のほとんどを自費で賄い計測を行ったという。

伊能忠敬の郵便切手

関連する記念日として、1949年(昭和24年)に「測量法」が公布されたことに由来して、6月3日は「測量の日」となっている。

リンク:Wikipedia

関連記事
伊能忠敬の歩幅は約69cm  


Posted by マー君 at 08:58Comments(0)歴史
1951年(昭和26年)のこの日、政治家・岩倉具視(いわくら ともみ、1825~1883年)の肖像の500円札が日本銀行より発行された。

当時の1000円札と100円札の間を埋めるべく500円札(B号券)が発行された。表面は岩倉具視、裏面は富士山。寸法は縦76mm、横156mm。確認しにくいが、野菊と「500」の透かしが入っている。この500円札は1971年(昭和46年)1月4日に支払いが停止された。

500円札(B号券)


1969年(昭和44年)11月1日に500円札(C号券)の発行が開始された。B号券と同じで、表面は岩倉具視、裏面は富士山。寸法は縦72mm、横159mm。原画像はB号券と同じものを使っているため、全体的なデザインはよく似ているが、印刷はより精緻になった。透かしは桜花と波線で、その部分には印刷がされていないため容易に確認できる。

500円札(C号券)

1982年(昭和57年)に500円硬貨が発行された後も、1985年(昭和60年)までこの500円札の製造は続けられ、1994年(平成6年)4月1日に支払いが停止された。以後は500円硬貨がその替わりを担っている。

リンク:日本銀行、Wikipedia
  


Posted by マー君 at 09:08Comments(0)歴史

2023年03月30日

3月30日の出来事

3月30日の出来事は「アメリカがロシアからアラスカを購入(1867年)」などです。

アメリカがロシアからアラスカを購入(1867年)

1867年3月30日、アメリカ合衆国とロシア帝国の両政府間で、アメリカがロシアの植民地であったアラスカ(ロシア領アメリカ)を購入する条約が調印されました。

アメリカの購入価格は720万ドル(2016年現在の貨幣価値で1億2300万ドル)。当初は「巨大な保冷庫を購入した」などとアメリカ国民に非難されました。

一方、ロシアはイギリスなどと戦ったクリミア戦争(1853~1856)に敗れて財政難に陥ったことや、イギリスにアラスカを売却した場合、シベリア極東部がイギリスの軍事的脅威に晒されるため、クリミア戦争の中立国であったアメリカへ売却することにしました。

1896年(明治29年)にアラスカで金鉱が発見されるなど資源の宝庫であることが判明。
また、国防上も重要な役割を果たすことが認識されるようになりました。

アラスカは1957年(昭和32年)に大型油田が発見されたことで州として自立することが可能となり、1959年(昭和34年)1月に49番目の州に昇格しました。

ちなみに、アメリカで最後に州に昇格したのは、1959年8月に50番目の州となったハワイです。
【関連・参考サイト】
アラスカ購入(Wikipedia)
  


Posted by マー君 at 08:50Comments(0)歴史出来事
室町時代の浄土真宗の僧・蓮如(れんにょ)上人の1499年(明応8年)の忌日。


この日を中心として、京都の東本願寺・西本願寺などで盛大な法要が営まれる。

蓮如について
1415年(応永22年)2月25日に京都・東山の大谷本願寺(現:知恩院塔頭 崇泰院)にて、本願寺第7世存如(ぞんにょ)の長子として生まれる。幼名は布袋丸。院号は信証院。諱(いみな)は兼寿。蓮如上人と尊称される。

初め17歳の時に青蓮院(しょうれんいん)で得度して修学に励む。次いで大谷の草庵で宗義をきわめ、1447年(文安4年)に関東に下り、親鸞(しんらん)の遺跡を巡拝する。

1457年(長禄元年)、父・存如の死去に伴い本願寺第8世を継ぐ。門徒の教化に努め、日常語で宗学の要を説く。精力的かつ現実に対応するやわらかい頭脳と、人間的魅力によって教化に成功し、教団を拡大する。

東北各地の旅ののち1471年(文明3年)に越前の吉崎に道場を設け、北陸の教化に努める。1496年(明応5年)大坂に石山別院(後の石山本願寺)を営む。山科本願寺において85歳で死去。

1882年(明治15年)に明治天皇より慧灯(えとう)大師の諡号(しごう)を追贈される。著書に『正信偈大意』『御文(御文章)』『領解文』などがある。蓮如の教示の文章を東本願寺では「おふみ」と呼び、西本願寺では「ごぶんしょう」と呼ぶ。

親鸞の嫡流とはいえ蓮如が生まれた時の本願寺は、青蓮院の末寺に過ぎなかった。衰退した本願寺を再興し、現在の本願寺教団(本願寺派・大谷派)の礎を築いたことから、「本願寺中興の祖」と呼ばれる。

リンク:Wikipedia、コトバンク  


Posted by マー君 at 08:56Comments(0)歴史

2023年02月08日

北方領土問題について

北方領土とは、北海道根室半島沖に位置する歯舞諸島・色丹島・国後島・択捉島の四島を指す。第二次世界大戦前には四島に1万7000人あまりの日本人が住んでいたが、終戦間際のどさくさにまぎれて侵攻してきたソ連軍に占領されてしまった。日本人は1949年頃までに追い出され、ソ連が実効支配を固めた。それ以来、四島はソ連の支配下に置かれ続け、現在はロシアが支配を継続している。

日本は四島の返還を求めているが、ロシアは聞く耳をもたず、解決への道はいまだ定まっていない。長年にわたり日本とロシアの間に立ちはだかってきたこの問題を「北方領土問題」というのである
ダイヤモンドオンラインより


※ちなみに昨日は昭和56年に閣議決定された「北方領土の日」でしたがテレビの報道もなかったようですね、これではいつまでたっても島は返ってきませんよ。
  


Posted by マー君 at 09:50Comments(0)歴史

2023年02月07日

北方領土の日・2月7日

1981年(昭和56年)、日本政府が北方領土の返還運動の推進と、国民の関心と理解を深めることを目的に閣議決定にて制定。

北方領土は現在ロシア連邦が実効支配している国後島・択捉島・歯舞諸島・色丹島の4島を指し、記念日の日付は日本(江戸幕府)とロシア(帝政ロシア)で最初に国境の取り決めを行った、1855年(安政元年)の「日露和親条約」の締結日(新暦)に由来する。

伊豆の下田において調印されたこの条約の正式名称は「日本国魯西亜国通好条約」で、「日魯通好条約」「下田条約」とも呼ばれ、当時の日本では「日魯和親条約」と表記していた。この条約では北方領土が日本の領土として認められていた。

毎年「北方領土返還要求全国大会」が東京で開催されるほか、この日を中心に全国各地で講演会や研修会、パネル展、返還実現のための署名活動など様々な取り組みが行われている。

北方領土返還を訴える函館市の看板

リンク:内閣府、ウィキペディア  


Posted by マー君 at 09:26Comments(0)歴史
1872年(明治5年)のこの日、明治政府による日本初の全国戸籍調査が行われた。

この戸籍調査は前年1871年(明治4年)の戸籍法に基づいて実施され、1872年(明治5年)に編製された。この戸籍は編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼ばれる。

当時の人口は男1679万6158人、女1631万4667人で合計3311万825人だった。2015年(平成27年)の国勢調査による日本の総人口は1億2709万4745人で、9000万人以上増えたことになる。

日本の戸籍制度は、645年(大化元年)の「大化の改新」に始まると言われ、「大化の改新」の際の公地公民制による口分田を基礎に年貢を徴収するために国民を登録するようになった制度が、戸籍の前身と言われている。

リンク:Wikipedia


壬申戸籍

  


Posted by マー君 at 12:46Comments(0)歴史
おはようございます。僕は、パンダです。いまからちょうど50年前、大先輩であるカンカンとランランが初めて日本に来ました。きょうはそんな特別な日なので天声人語も僕が書きます▼年配の読者の方は、あの熱狂的なブームを覚えていると思います。日本と中国は1972年、国交正常化しました。中国からパンダが贈られたのは、その友好関係の証しでした▼著書『中国パンダ外交史』がある東京女子大学准教授の家永真幸(まさき)さん(40)に聞くと、「パンダは中国人が国際社会に見せたい自己イメージ」なのだとか。僕が言うのも変ですが、かわいくて、誰からも愛される存在でありたい、との願望がパンダ外交にはこめられているのでしょう▼ほかの国に対しても「中国は一番喜ばれるタイミングで、相手を選んでパンダを送っています」と家永さん。ただ、最近の中国のこわもてぶりを見ると、ちょっと心配です。これではいくら僕らががんばっても中国の印象をよくするのは難しいかも▼なぜ人間はけんかばかりなのですか。肉食獣だった僕らの祖先は竹を食べるのに適応し、敵の少ない山奥の暮らしを選びました。知恵を絞って共存を目指した方がいいのでは▼きのう上野の街を歩きました。来日半世紀を記念した、僕たちのイラストやおもちゃを見て胸が熱くなりました。シンシン親子は気持ちよさそうに昼寝をしていました。これからの50年も一緒にゴロゴロ、のんびりできたらいいなあ。平和で、ありますように。再見。
朝日新聞天声人語 2022/10/28(金)


  


Posted by マー君 at 10:09Comments(0)歴史ありがとう

2022年10月25日

島原の乱の日

1637年(寛永14年)のこの日、過酷な年貢の取立てやキリシタン弾圧に耐えかねた島原の領民が代官・林兵左衛門を殺害し、「島原の乱」が勃発した。

江戸時代初期に起こった日本の歴史上最も大規模な一揆であり、幕末以前では最後の本格的な内戦である。「島原・天草の乱」「島原・天草一揆」とも呼ばれる。一揆軍の総大将はキリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた当時16歳の少年・天草四郎(益田時貞)であった。


従来、信仰的側面は表面上のもので、あくまで厳しい収奪に反発した一揆であるというのが定説であったが、事態の推移から、単なる一揆とする見方では説明がつかず、宗教的な反乱という側面を再評価する説が出ている。鎮圧の1年半後にはポルトガル人が日本から追放され、いわゆる「鎖国」が始まった。

リンク:Wikipedia  


Posted by マー君 at 09:00Comments(0)歴史今日は何の日
794年(延暦13年)のこの日、桓武天皇が長岡京から山背国葛野郡宇太村やましろこくかどのぐんうたむらの新京に移った。「平安京」と命名されたのは、その年の11月8日だった。

平安遷都1100年を記念して1895年(明治28年)に創建された平安神宮の例祭「時代祭じだいまつり」はこの日に開催される。ただし例外として、2019年(令和元年)は10月22日(火)に皇居宮殿にて「即位礼正殿の儀」が執り行われることから、「時代祭」は10月26日(土)に変更して開催された。平安神宮は、京都府京都市左京区にある神社で、平安遷都を行った天皇である第50代桓武天皇を祀る神社として創祀された。また、皇紀2600年にあたる1940年(昭和15年)に、平安京で過ごした最後の天皇である第121代孝明天皇が祭神に加えられた。平安神宮では、京都を守る四神の御守が授与されている。


「時代祭」は、5月15日に行われる「葵祭あおいまつり」、7月1日から1ヵ月間にわたって行われる「祇園祭ぎおんまつり」と並ぶ京都三大祭りの一つである。時代祭は平安神宮で行われ、神宮創建を祝って始められたものである。

葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅いが、各時代の中心であった京都市でしかできない祭であり、京都市民が主体となる市民上げての祭りである。京都の風俗を遡る時代行列が見どころで、「生きた時代絵巻」とも呼ばれている。



リンク:平安神宮、時代祭、Wikipedia  


Posted by マー君 at 10:13Comments(0)歴史記念日
 折々に読者から取材のご提案をいただく。「大戦中の高校野球の悲しさも取り上げて」。そんな手紙をくださったのは徳島新聞の元論説委員長の岸積(つもる)さん(88)。徳島商が優勝した1942(昭和17)年夏の甲子園についての資料が同封されていた▼徳島県石井町のご自宅を訪ねた。「夏の甲子園は朝日の主催ですが、この年は政府が主催した。戦意高揚のためでした」。軍が運営し、球場には「戦ひ抜かう大東亜戦」との横断幕が掲げられた▼徳島商の監督から戦後に岸さんが聞いた話によると、攻守交代のたび、観客の名を呼ぶ放送が響いた。観戦中、留守宅に召集令状が届き、慌てた家族から甲子園に連絡の依頼が相次いだためだ。「この夏はミッドウェー海戦で日本軍が大敗した直後。徴兵が急増したころでした」▼参加校にはこんなルールも通知された。「選手ではなく選士と呼ぶ」「打者は投手の球をよけてはならない」「途中交代は禁止」――。最後まで死力を尽くす戦士であれと教え込もうとしたようだ。考案したのが官僚か軍人かは知らないが、非合理のきわみだ▼翌43年になると「敵性競技に熱中すると親米思想を抱く」として多くの県で野球排撃の決議が広まる。これには戦時下の朝日新聞も「野球によつて敵愾(てきがい)心が無くなるといふのはどうも納得出来かねる」と異を唱えた▼熱戦が続く今夏の甲子園もいよいよ決勝の日。珍妙な時局迎合ルールを押しつけられず、若者が存分に白球を追う時代の幸福をかみしめる。
朝日新聞天声人語 2022/08/22(月)
人の命を鉄砲の玉のように扱った日本の歴史は決して忘れさせてはいけません。
高校野球のルールを変えて野球選手を野球戦士に変えようとした日本の歴史。
これはまともな野球ではありません。
その頃の日常生活もまともではなかったのでしょうね。


熱戦が続いた今年の甲子園もいよいよ今日で終わります。
仙台育英か下関国際か午後2時の開催を楽しみにしています。
  


Posted by マー君 at 08:50Comments(0)歴史

2022年08月17日

人間とイヌの関係

英国のサイエンスライター、ヘレン・ピルチャーさんが著書でこんな告白をしている。「わたしは遺伝子操作されたオオカミを飼っている」。インターネット上で見つけた繁殖家に連絡し、指定された場所で受け取ったものだ▼実は全世界の何億もの人が、同じような動物を飼っているのだとも明かしている。「ただし、オオカミとよんではいない。人は彼らをイヌとよぶ」(『Life Changing』)▼人類は1万年以上前、オオカミを飼いならし最古の家畜にした。人間の活動にあわせ、様々な種が生まれた。日本列島における古い種の一つが明らかになったのだろうか。3世紀前半ごろと見られる犬の骨の話がきのうの朝刊にあった▼奈良県の纒向(まきむく)遺跡で発掘された犬の骨は、それ以前の縄文、弥生時代に飼われていた犬よりも一回り大きく、シバイヌを上回っているという。中国大陸や朝鮮半島から持ち込まれたのではないかというのが、研究者の見立てである▼纒向遺跡はヤマト政権発祥の地とされる。当時の先進都市に舶来の大きな犬が到着した風景を想像する。人々は目を丸くしたか。犬は狩猟用か、もしかしたら有力者の愛玩用だったか。いま街中で見かける犬のどれかにつながっているのか▼ある動物学者がこう書いていた。虐殺者として生まれてきたようなオオカミの子孫を友だちにしている、そんな私たちを宇宙人が見たら、首をかしげるかもしれないと。人間と犬が長く築いてきた不思議な関係を思う。
朝日新聞天声人語 2022/08/17

オオカミの子供を、友達のように育てたのはどんな人たちだったのだろうか。  


Posted by マー君 at 08:49Comments(0)歴史

2022年08月12日

斎藤茂吉のお話

「陸奥(みちのく)をふたわけざまに聳(そび)えたまふ蔵王の山の雲の中に立つ」。大正から昭和にかけて活躍した歌人の斎藤茂吉は、故郷・山形の山河を愛し、多くの歌を残している▲蔵王、鳥海山や、最近、記録的な大雨に見舞われた最上川。この地は雄大な自然に恵まれているが、他にも意外な「お国自慢」がある。選挙である▲衆参両院選挙での山形県の投票率は、全都道府県で首位が続いている。先の参院選では、全国平均を10ポイント近く上回る61・87%となり、国政選挙4連覇を果たした▲投票率が高い理由は明確にはわかっていない。真面目な県民性を指摘する声もある。県選管によると、若者向けの主権者教育に熱心なことや、3世代同居率が日本一で投票に参加する大人を間近に見る機会が多いことも影響しているのではないか、という▲若者の声を政治に反映させる活動をしている日本若者協議会の室橋祐貴さんは、遊佐町(ゆざまち)で20年近く続く「少年議会」などの取り組みを挙げる。「中高生が自分たちの代表を選挙を通して選び、政策を実現するための独自の予算も持っている。有権者になる前から、日常的に民主主義を体験し、その意義や政治の重要性を学んでいるからこそだと思う」と話す▲茂吉が生まれた金瓶(かなかめ)村、現在の上山(かみのやま)市の投票率は、県全体を上回る64・19%だった。投票所までの移動手段がない有権者に、市が借り上げた乗合自動車で送迎の支援をした地域もあったという。首位の陰には、やはり一朝一夕でない努力がある。
毎日新聞余録 2022/08/12(金)

1952年頃 斎藤茂吉
斎藤 茂吉(さいとう もきち、1882年〈明治15年〉5月14日- 1953年〈昭和28年〉2月25日)は、日本の歌人・精神科医。伊藤左千夫門下。大正から昭和前期にかけて活躍したアララギの中心人物。

精神科医として、青山脳病院(現在の東京都立梅ヶ丘病院や斉藤病院)の院長を務めた。長男は精神科医で随筆家の斎藤茂太、次男は精神科医・随筆家・小説家の北杜夫、孫は随筆家の斎藤由香。

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Posted by マー君 at 12:01Comments(0)歴史
さまざまな勢力が連携したり、離れたりする「合従連衡(がっしょうれんこう)」という言葉は、中国の故事に由来する。史実に関しては諸説あるが、司馬遷(しばせん)の史記によると戦国時代、強国の秦(しん)に対し他国は連合する合従策で対抗した。だが、秦が個別に連携を促す連衡策を仕掛けたため、分断されてしまう▲参院選で岸田文雄首相が率いる自民党が改選過半数の議席を得て大勝した。安倍晋三元首相が銃撃で死去する衝撃のさなかの投票だけに、その影響を指摘する声もある。とはいえ、もともと情勢調査では自民の堅調が伝えられていた▲国会で安全運転に努め、守りに徹して民意の及第点を得た首相である。ただし、一方で与党は巧みに野党に「連衡」の揺さぶりをかけていた。国民民主党を予算案賛成に引き込むなど野党を分断した。焦点の1人区で野党の選挙協力という「合従」を不発に終わらせた与党の戦術勝ちでもあった▲岸田内閣の政権運営は当面安泰とみて「黄金の3年」という表現すらある。だが、首相がどんな公約を具体的に掲げたかとなると、はっきりしない▲改憲勢力は伸びたが選挙で項目を絞り込んだわけでもない。有権者の野党への不満が反射的に安定志向を生み、自民の追い風を呼んだというのが実態ではないか▲それだけに深刻なのは野党の多弱化である。ひとまず合従連衡の駆け引きから離れて、理念、政策、組織を足元から見つめ直してはどうか。さもないと、その後他国を滅ぼした秦のような「超1強」支配の国会になってしまう。
毎日新聞余禄 2022/07/12



合従連衡(がっしょうれんこう)は、中国の戦国時代の外交である合従策および連衡策を併せていうもの。転じて、状況に応じて各勢力が結び、また離れるさまを示す故事成語となった。

秦の歴史
 秦は中国の歴史において非常に重要な王朝です。周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、始皇帝は紀元前230年から紀元前221年にかけて漢、趙、魏、楚、燕、斉の6か国を征服し、初めて中国を統一しました。統一から滅亡までの期間を秦朝と呼ぶ、首都は咸陽です。

 統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制の中央集権体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになります。また、文字、通貨、度量衡を統一し中国に多くの先駆的な貢献をしました。


※歴史は参考になりますか?  


Posted by マー君 at 09:41Comments(0)歴史出来事

2022年06月10日

日本初の時報のお話



水時計使い日本初の時報
671年(旧暦:天智10年4月25日)『日本書紀』によると、天智天皇がこの日、漏刻(水時計)と鐘鼓(しょうこ)によって初めて時を知らせたとされる。その日を太陽暦に換算して、6月10日が「時の記念日」と定められた。1920(大正9)年に東京天文台と生活改善同盟会が制定。
nippon.com 今日は何の日より  


Posted by マー君 at 08:13Comments(0)歴史出来事今日は何の日

2022年05月12日

点字のお話

「点字は盲人を暗黒から解放しました。日本の盲人は『点字毎日』で自らの言論を得ました」。「奇跡の人」ヘレン・ケラーさんの言葉である。1955年6月、3度目の訪日で小紙の大阪本社にある「点字毎日」の編集長に語ったという▲ナポレオン軍の将校が考案した点字をパリの盲学校の生徒が改良し、6点式の点字が誕生したのが約200年前。日本では20世紀初頭に公認された。日本唯一の週刊点字新聞である「点字毎日」が創刊されたのが1922年5月11日だった▲大正デモクラシーの時代。普選運動の一環として視覚障害者から点字投票を求める運動が起き、「点字毎日」も後押しした。28年の第1回普通選挙で世界初の点字投票が実施されたことはあまり知られていない歴史である▲採算性を疑問視する声もあった媒体が100年の節目を迎えられたのは読者や関係者の支持ゆえだろう。小紙の点字版ではなく、視覚障害者を含む記者が独自取材し、ニーズに応える情報発信に努めている▲最新号ではウクライナ情勢の理解のため、新潟大教授が無料配布している「触地図」を紹介している。触ると都市や周辺地域の位置関係がわかる。ホームから落ちた人を検知し、運転手に知らせるシステムが開発されたという記事もある▲「つまがいう だんだんつきが かけてきた わがまぶたにも げっしょくのぞう」「ゆきつもり ゆきつもどりつ まようあさ とおりがかりに てびくひとあり」。「点毎歌壇」の投稿作である。
2022/05/11 毎日新聞 余禄

点字の歴史はほとんど知りません。
「点字毎日」、目が見えない方の不自由さをよくぞ点字の新聞で知識を広めてくれたと思います。
この長い歴史・・ありがとう。




生誕Helen Adams Keller
1880年6月27日
Flag of the United States (1877-1890).svg アメリカ合衆国・アラバマ州タスカンビア
死没1968年6月1日(87歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国・コネチカット州イーストン
国籍アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
出身校ラドクリフ・カレッジ(現:ハーバード大学)
  


Posted by マー君 at 09:34Comments(0)歴史

昨日、自分の娘を連れて次男坊が返ってきました。
今日は母の日とカーネーションの由来について調べてみました。
日本の「母の日」の由来は、アメリカにあります。
1907年5月、母を亡くした少女、アンナ・ジャービスは、亡き母親を敬い偲ぶ会を教会で開き、そこで母親の好きだった白いカーネーションを祭壇に手向けました。
アンナの母への思いに感動した参加者は、翌年の5月にも教会に集まり会を開催。
アンナは友人たちに、母親を敬い感謝する「母の日」を祝うことを提案し、それが全国で広まっていったと言われています。
追記

1時間程前、長男坊からアジサイの花が届きました。
いつもありがとう・・・いい息子達です。  


Posted by マー君 at 11:18Comments(0)歴史

2022年04月28日

八代城築城400年のお話


昨日廻って来た市報、令和4年5月号は八代城築城400年と言う事で表紙のイメージも明るく変わり、手に取る人にちょっと覗いて見ようかというような気持ちにさせる表紙になっています。
最初に八代城の記事があって、初代古麓城、2代目麦島城、3代目八代城の説明があり、次にお堀と石垣の話のあとインタビューのコーナーでは八代市立博物館学芸員山崎 摂さんのお話や八代青年会議所理事長渕上 玄輝さんと八代城築城400年実行委員長の柳口宗(しゅう)さんとの座談会の話が紹介されています。
山崎 摂さんの記事の中で、八代城や石垣の建設には、球磨川上流から木材を運んだり、地元の岩を切り出したり、多くの人手が必要でした。・・八代城の特徴の一つは石垣に白鳥から切り出された白い石灰岩が使われていることです。・・・
この白鳥という場所がどんな所かを調べてみますと
白鳥山は熊本県八代市泉町樅木(もみぎ)付近にある1639mの山で熊本県八代市の五家荘と宮崎県椎葉村の境目にある山です。
この山の付近の事を指しているんだと思われます。
熊本県着地型観光サイト体験!くまナビに

石灰岩のウエノウチ谷。

 この山は、壇ノ浦の合戦の後盗賊にとらわれた平清盛の孫・清経が平家の家臣らと共に落ち延びた伝説のある秘境の地。山の奥地には、洞窟や“ドリーネ”と呼ばれる石灰岩のすり鉢型の窪み、ブナの巨木など希少価値の高い植物がひっそりと生息しており、森林の霊験あらたかなる雰囲気を体感することができます。
川辺川源流の心地よい水音に心洗われながら、一歩一歩ゆっくりと歩いていきましょう。

また山楽八代の会のブログにはこんな説明もあります。
熊本県泉町と宮崎県椎葉村の県境にある山。名前の由来は、平家の左中将平清経が平重盛所蔵の白鳥毛之槍を受け継ぎ持参しこの地に住み着いたとの伝説から付けられたという。山頂の北側に御池があり石灰岩のドリーネが苔むした庭園の景観をなしている。


ドリーネ
定義
カルスト地形の一。石灰岩地域に見られる擂鉢すりばち状窪地。雨水・地下水に溶食されてできる。また,地下の石灰洞がくずれて地表が落ち込んでもできる。擂鉢穴。落ち込み穴。吸い込み穴。シンク-ホール。石灰穽せつかいせい。
4月29日補足部分

どうやら山崎摂さんが云う白鳥は白鳥山付近で随分遠くから運び出したんですね。
今日の下調べはここまで‼

  


Posted by マー君 at 14:06Comments(0)歴史つぶやき

2022年01月30日

カチャーシーのお話

「南部の野山で/あけがたに/ずらりとそろって/カチャカチャカチャ/骨たちが踊る/カチャーシー」。沖縄在住の詩人、
芝憲子さんの詩「骨のカチャーシー」は、こう始まる。カチャーシーはテンポの速い沖縄民謡に合わせた即興の踊りだ▲太平洋戦争末期、激戦地となった本島南部には、犠牲になった沖縄県民や兵士の遺骨が残る。本土復帰を翌月に控えた1972年4月、夫の赴任に伴い沖縄に移り住んだ芝さんが、南部の山中を案内され遺骨を見た衝撃が、詩のきっかけとなった▲74年に出した同名の詩集のあとがきには「遺骨を見て、はじめて戦争というものが少しばかりわかったような気がした」と記している。50年前の詩は、詩劇になり、歌手のまよなかしんやさんによって歌われた▲それが今また注目されている。舞台の劇中歌に使われ、銅版画にもなった。政府が辺野古で進める米軍基地建設用土砂の調達候補地に、遺骨が残る南部を加えたからだ▲死者への冒とくだとして、遺骨収集ボランティアの具志堅隆松さんらから反対の声が上がる。沖縄はかつて本土防衛の捨て石にされた。そんな沖縄の歴史に寄り添う姿勢が欠けてはいまいか▲「でも俺たちはいつまでもここにいる/ここで殺されたと証明するために」。詩には死者の魂を思うこんなフレーズもある。「かき回し」に由来するカチャーシーは、喜怒哀楽をかき混ぜるという意味もあるという。骨たちは、いまどんな思いでカチャーシーを踊っているのだろうか。
毎日新聞余禄・2022/01/30

芝憲子さん
詩 「骨のカチャーシー」  

南部の野山で
あけがたに
ずらりとそろって
カチャカチャカチャ
骨たちが踊る
カチャーシー

半分になった頭蓋骨ふりふり
苔の生えた足の骨曲げて
カチャーシー

これは俺の腕の骨ではない
でも今となってはどれでも同じ
どこの誰だか
気にするものなどいはしない
とにかく骨が集まって
踊ることだけが俺たちの楽しみ
みすぼらしい姿を忘れ
木の枝を踏み鳴らして
ひたすら踊る
カチャカチャカチャ

太陽が輝き出すと
草むらに横たわらねばならない
それから始まる長い長い一日

でも俺たちはいつまでもここにいる
ここで殺されたと証明するために
殺したやつらを忘れないために
やつらが今何をしているか知るために
簡単に拾われて
神社にまつられたりしない  (英訳ここまで) 

そのうち生きている人たちと踊るのだ
野山から街に繰り出して
俺の得意な三味線(さんしん)をかき鳴らして
島いっぱいにカチャーシー
そうなったら矢も楯もたまらなくなって
島までドッカドッカと踊り出すだろう
さぞ無様なかっこうだろう

明日(あす)の踊りを楽しみに草むらに横たわると
生きている人はのろのろと起きあがり
つらい昨日(きのう)を思い出す
それから始まる短い一日

  (1974年詩集『骨のカチャーシー』、2021年『1/2』65号より)  


Posted by マー君 at 09:11Comments(0)歴史出来事
国家が認めた正統の歴史を「正史」という。中国には神話の時代から明代まで歴代王朝の事跡を記した24ないし25の正史がある。ただし、正史といっても正確とは限らない▼「史記」や「漢書」にこんな記述がある。前漢の初代皇帝劉邦の父はある日、寝ていた妻の上に竜がいるのを見た。そして生まれたのが劉邦だ、と。竜は皇帝の象徴。王朝の創始者が名もない農民の子では都合が悪い。実は特別な人だった、とするための物語である▼史記は前漢、漢書は後漢の時代に編さんされた。漢王朝の権威付けに眉唾の話も記す必要があったのだろう。唐代以降は前王朝の正史を編さんするようになったが、王朝交代は力による簒奪(さんだつ)が常だ。前代の評価に政治的な思惑が反映されるのは避けられまい▼歴代の王朝にとって歴史は正統性の根幹だった。それは現代でも変わらぬようだ。中国共産党が創建100年を迎えた党の歩みを総括する「歴史決議」を採択した。毛沢東、〓小平の時代に続く3度目の決議。当代の習近平総書記(国家主席)を2人と並ぶ「竜の子」と位置付ける狙いだ▼強権的手法の習氏は、党の統治や歴史解釈に異論を許さない。国家主席の任期制限も撤廃した。いにしえの皇帝のごとく終身独裁を目指すのか▼歴史は過去の失敗を学び未来に生かすためにある。勝者に都合の良い「物語」にしてはならないことは、文字通り歴史が教えている。
2021/11/24 西日本新聞 春秋

どこまで広がるのか習近平の野望、彼の前にある鏡には自分が独裁者としては写っていないんでしょう?
  


Posted by マー君 at 08:53Comments(0)歴史記事