
今日は皆既月食が見られる日だそうです。
国立天文台によりますと、日本全国で部分食の始めから終わりまでを見ることのできる、たいへん条件のよい皆既月食が起こると報じています。
部分食の始め:1月31日20時48.1分
皆既食の始め:21時51.4分
食の最大(食分注):22時29.8分(1.321)
皆既食の終わり:23時08.3分
部分食の終わり:2月1日0時11.5分
(日本中どこで見ても時刻は変わりません。)
※「食分」とは欠け具合を表す数値です。食分0.5とは、月の見かけの直径の50パーセントが欠けることを意味します。食分が1.0以上になると、月が完全に欠けて皆既食となります。
皆既食中の月は、真っ暗になって見えなくなるわけではなく、「赤銅(しゃくどう)色」と呼ばれる赤黒い色になります。普段見ることのない神秘的な色になる月を楽しみましょう。(国立天文台の記事参考)
ただ今日の九州の天気予報は・・
31日の九州は天気が下り坂。各地ともに雲が多くなり、夜は広い範囲で冷たい雨や雪が降り始める。。最高気温は8℃前後。
・・となっていて折角の月食は見れないかも?
悲しい話だが崇高で素晴らしい話です。今日はインドを英国から独立させ、英国を帝国主義から連邦国へ導くきっかけを作ったとも言われるインドのガンジーの記事が目につきましたので紹介します。名前だけは知っているが経歴や主義主張などどんな人でどんなことをされた人なのか、調べてみるのもいい機会です。
その人は第2次大戦の開戦直前、ヒトラーに手紙を書いた。〈今、世界中で、あなたが人類を無法状態におとしめる戦争を回避できる人物の一人であることは間違いありません。 (略)戦争という手段を故意に避けてきた人々の声を聞いてもらえないでしょうか〉 ►その人は大戦中、「すべての日本人に」と題する文章も発表した。〈あなたがたは(アジアの解放という)崇高な思想から帝国主義的な野望に堕としてしまった。 (略)その野望は実現することはできないでしょう。アジアを分断した張本人になるかもしれません〉 ►その人は平和を希求し、圧政には「非暴力・不服従」で立ち向かった。もう誰のことかお分かりだろう。インド独立の父、ガンジーである。暗殺されてから、きょうで70年になる►北朝鮮の核・ミサイル開発。中国の覇権的な海洋進出。これに対抗するように日本も防衛力を増強する。米国と北朝鮮は荒々しい挑発の言葉を投げ合い、東アジアの分断は深まった►侵略戦争を起こしたヒトラーや戦時中の日本に対し、ガンジーは「あなたの友より」と言って、切々と平和を訴えた。ことしは日中平和友好条約締結から40年。韓国では平和の祭典、冬季五輪も開かれる。対立から対話へのきっかけにできないか►その人は暗殺者に銃撃された時、薄れいく意識の中で、自らの額に手を当てた。「あなたを許す」という意味の動作だという。
西日本新聞 【春秋】 2018・1・30

モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(1869年10月2日 - 1948年1月30日)78歳没
インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者。活動:公民権運動、インド独立運動
その人は第2次大戦の開戦直前、ヒトラーに手紙を書いた。〈今、世界中で、あなたが人類を無法状態におとしめる戦争を回避できる人物の一人であることは間違いありません。 (略)戦争という手段を故意に避けてきた人々の声を聞いてもらえないでしょうか〉 ►その人は大戦中、「すべての日本人に」と題する文章も発表した。〈あなたがたは(アジアの解放という)崇高な思想から帝国主義的な野望に堕としてしまった。 (略)その野望は実現することはできないでしょう。アジアを分断した張本人になるかもしれません〉 ►その人は平和を希求し、圧政には「非暴力・不服従」で立ち向かった。もう誰のことかお分かりだろう。インド独立の父、ガンジーである。暗殺されてから、きょうで70年になる►北朝鮮の核・ミサイル開発。中国の覇権的な海洋進出。これに対抗するように日本も防衛力を増強する。米国と北朝鮮は荒々しい挑発の言葉を投げ合い、東アジアの分断は深まった►侵略戦争を起こしたヒトラーや戦時中の日本に対し、ガンジーは「あなたの友より」と言って、切々と平和を訴えた。ことしは日中平和友好条約締結から40年。韓国では平和の祭典、冬季五輪も開かれる。対立から対話へのきっかけにできないか►その人は暗殺者に銃撃された時、薄れいく意識の中で、自らの額に手を当てた。「あなたを許す」という意味の動作だという。
西日本新聞 【春秋】 2018・1・30

モーハンダース・カラムチャンド・ガーンディー(1869年10月2日 - 1948年1月30日)78歳没
インドのグジャラート出身の弁護士、宗教家、政治指導者。活動:公民権運動、インド独立運動
29日の九州は冬型気圧配置。寒気に伴う雲が広がりやすく、所により雪や雨が降る。
・・ここ何日間はこんな天気です。
寒さが身体にこたえる上に、天気がかんばしくないのがうっとしい。
庭の侘助は今が咲きごろか?
この花は花数が多いよりも花を探す程度の方がなんとなく奥ゆかしい。
ここにきて、つぼみを膨らませながらも思案模様の梅の花。・・
志布志の地下式横穴墓が気になって昨日は5時半に起きて志布志まで行ってきました。志布志まで行った理由は短甲と大和政権の結びつきにどうしても理解できなくて現地に行けば何かわかるかもしれない。そんな思いで行くことにしました。
ナビ操作の為、教育委員会から集合場所の原田小学校を教えて貰い出かけましたが、都城経由で約3時間ほどかかりました。
現地に着くと、
地下に埋もれた墓の見学に多くの見学者が集まり私の受付番号は72番でした。午前中だけでも200人近い人の見学者があった様です。
現地説明場所、右の丘のようなところは原田古墳
茶畑から見た古墳(裏側)
茶畑の脇道工事中に 重機が穴に落ち込んで地下式横穴墓が見つかりました

穴が開いた玄室、下には石棺が見えます

周りが茶畑だった頃の原田古墳の写真

「以下現地資料より抜粋」
原田古墳
直径40mを超える巨大な円墳で、埴輪や葺石はなかったと考えられています。盗掘を受けているため、どのような人物の墓か詳細は不明です。発見された須恵器から約1550年前の古墳時代中期(5世紀中頃)に造られたと考えられ、大崎町の横瀬古墳と同時期の古墳になります。
円墳は前方後円墳とともに有力者の墓ですが、原田古墳(円墳)の人物は横瀬古墳(前方後円墳)の人物に準ずる地位にあったと考えられています。しかし、円墳としては規模が大きく、当時の貴重品である初期須恵器があることから、原田古墳に葬られた人物は、ある程度の権力を持った存在であったと考えられます。
地下式横穴墓とは?
九州南部の東側の地域、鹿児島県・宮崎県で発見される古墳時代の墓です。地表から深い穴(竪坑)を掘り、竪坑のそこから横方向へ地下通路(羨道・せんどう)を造り、その先に遺体を安置する部屋(玄室)が造られます。大隅半島では遺体が軽石製の棺(ひつぎ)石棺に納められることもあります。玄室や石棺の中には剣やヨロイ、鉄製の鏃(やじり)や鏡、小刀など、さまざまな道具が遺体とともに納められています。
遺体を安置した後は羨道を粘土や土、木の板などでふさぎ、竪坑を埋めます。このようにして地価の空洞を持つ墓に埋葬されました。現在では地上に墓の存在を示すものがないため、地下式横穴墓があることが知られていない場合が多く、工事や農作業中に玄室の天井が崩落し地下の空洞が発見されて存在が判明します。


◎副葬品
〈石棺内〉●鉄剣(鞘付) ●刀子(小刀) 布状の繊維(遺体に布をかぶせていた)
〈石棺外〉●短甲(約1500年前・5世紀末)(内部に鉄鏃が納められている) ●鉄鏃(圭頭鏃)2本、(長頸鏃)20本以上 ●ヤリ、ヤリ柄(菱形編漆膜)(石棺の上にあったが柄は横に落ちている) ●鑷子(じょうし)状鉄製品(ピンセット状の金属具) ●鉄斧(てっぷ) ●U字形鍬鋤先(木製のクワやスキの先端に付ける刃)
貴重な短甲
短甲は地方で独自に製造されたものではなく、近畿地方の中央政権(ヤマト王権)が全国に配布したものと考えられています。短甲は墓の主が近畿中央政権と政治的な連携を持っていた証として配布され、その背景には実際の軍事行動などにおける貢献があったと考えられます。
鹿児島県で地下式横穴墓から発見された短甲は、鹿屋市祓川(はらいがわ)と原田の2例のみです。祓川は67年前の発見で詳細な出土状況はわかっていません。3号墓の短甲は出土状況が確認できる県内初の例となります。
短甲のほかにも多くの副葬品が納められていることから、3号墓に葬られた人物は高い地位と権力を持ち、中央政権と関係の強い人物であったことが想像されます。原田古墳との関係は不明ですが、この場所が古墳や地下式横穴墓が集まっている古代からの墓域であった可能性をうかがわせます。
何故、短甲が高墳からではなく地下式横穴墓から出てくるのか?何年か前、えびので見つかったのも地下式横穴墓だった。・・・・
この疑問はやはり残ったままです。?・・?
ナビ操作の為、教育委員会から集合場所の原田小学校を教えて貰い出かけましたが、都城経由で約3時間ほどかかりました。
現地に着くと、
地下に埋もれた墓の見学に多くの見学者が集まり私の受付番号は72番でした。午前中だけでも200人近い人の見学者があった様です。
「以下現地資料より抜粋」
原田古墳
直径40mを超える巨大な円墳で、埴輪や葺石はなかったと考えられています。盗掘を受けているため、どのような人物の墓か詳細は不明です。発見された須恵器から約1550年前の古墳時代中期(5世紀中頃)に造られたと考えられ、大崎町の横瀬古墳と同時期の古墳になります。
円墳は前方後円墳とともに有力者の墓ですが、原田古墳(円墳)の人物は横瀬古墳(前方後円墳)の人物に準ずる地位にあったと考えられています。しかし、円墳としては規模が大きく、当時の貴重品である初期須恵器があることから、原田古墳に葬られた人物は、ある程度の権力を持った存在であったと考えられます。
地下式横穴墓とは?
九州南部の東側の地域、鹿児島県・宮崎県で発見される古墳時代の墓です。地表から深い穴(竪坑)を掘り、竪坑のそこから横方向へ地下通路(羨道・せんどう)を造り、その先に遺体を安置する部屋(玄室)が造られます。大隅半島では遺体が軽石製の棺(ひつぎ)石棺に納められることもあります。玄室や石棺の中には剣やヨロイ、鉄製の鏃(やじり)や鏡、小刀など、さまざまな道具が遺体とともに納められています。
遺体を安置した後は羨道を粘土や土、木の板などでふさぎ、竪坑を埋めます。このようにして地価の空洞を持つ墓に埋葬されました。現在では地上に墓の存在を示すものがないため、地下式横穴墓があることが知られていない場合が多く、工事や農作業中に玄室の天井が崩落し地下の空洞が発見されて存在が判明します。
〈石棺内〉●鉄剣(鞘付) ●刀子(小刀) 布状の繊維(遺体に布をかぶせていた)
〈石棺外〉●短甲(約1500年前・5世紀末)(内部に鉄鏃が納められている) ●鉄鏃(圭頭鏃)2本、(長頸鏃)20本以上 ●ヤリ、ヤリ柄(菱形編漆膜)(石棺の上にあったが柄は横に落ちている) ●鑷子(じょうし)状鉄製品(ピンセット状の金属具) ●鉄斧(てっぷ) ●U字形鍬鋤先(木製のクワやスキの先端に付ける刃)
貴重な短甲
短甲は地方で独自に製造されたものではなく、近畿地方の中央政権(ヤマト王権)が全国に配布したものと考えられています。短甲は墓の主が近畿中央政権と政治的な連携を持っていた証として配布され、その背景には実際の軍事行動などにおける貢献があったと考えられます。
鹿児島県で地下式横穴墓から発見された短甲は、鹿屋市祓川(はらいがわ)と原田の2例のみです。祓川は67年前の発見で詳細な出土状況はわかっていません。3号墓の短甲は出土状況が確認できる県内初の例となります。
短甲のほかにも多くの副葬品が納められていることから、3号墓に葬られた人物は高い地位と権力を持ち、中央政権と関係の強い人物であったことが想像されます。原田古墳との関係は不明ですが、この場所が古墳や地下式横穴墓が集まっている古代からの墓域であった可能性をうかがわせます。
何故、短甲が高墳からではなく地下式横穴墓から出てくるのか?何年か前、えびので見つかったのも地下式横穴墓だった。・・・・
この疑問はやはり残ったままです。?・・?
25日(水)の西日本新聞に大隅に五世紀末の短甲という見出しがあり中身を読んでみるとこの短甲の発見が大和政権とのつながりを証明するような内容であった。
5世紀末といえば527年に起きた磐井の乱よりずっと前の話である。九州における大和政権の地盤もしっかりと固まっていない時代だと思われるが、南九州の方では既にヤマトの影響が強かったことが一層はっきりしたと言う様な記事です。
現地説明を27日の午前10時半と午後1時半から志布志市教育委員会文化財管理室が行う様です。


たんこう【短甲】
古墳時代から奈良時代にかけて使われた鎧よろい。鉄板を革紐や鋲びようで綴じて作ったもので、胴体をおおうだけの丈の短いもの。
楽しぶし ~先人たちが築いた歴史や文化を探訪~
第九話 原田の古墳より
有明町原田東下の近く、茶畑の真 ん中に雑木が生い茂るこんもりとし た丘を見ることが出来ます。この丘 のように見えるものは、市指定文化 財「原 田古墳」と呼ばれるものです。 古墳は、一般的には土を高く盛り 上げて造った古代の墓のことで、特 に日本では三世紀後半から七世紀に 至るまでの高 塚を指します。
原田古墳は上から見た形から 「円 墳」と呼ばれる高塚古墳に分 類され、その他の古墳には四角 い形の「方墳」、鍵穴の形に似た 「前方後円墳」等があります。
志布志市内には原田古墳の他、志 布志町夏井ダグリ岬の飯盛山古墳、 志布志町安楽の小牧古墳群、有明町 野神の岩 屋古墳群等が点在しており、大小含めて市内には十ヵ所余り の古墳及び古墳群が存在します。
これらの古墳の分布は、大隅半島 においては志布志湾沿岸部に拡がっ ていて、初期の大 和政権との繋がり をもっていたことが考えられます。
また、古墳が造られた時期に並行 して、志布志市内では「地下式横 穴 墓 墓 」という独特の埋葬形態の墓も有 明町蓬原や原田で確認されていま す。
「地下式横穴墓」は地表から竪穴 を掘り、その竪穴の底から横方向に 掘り進めて、玄室という遺体を置く 部屋を造る墓です。この埋葬形態は、 宮崎県平野部・内陸部、志布志湾岸 及び内陸部、川内川上流域部、熊本県人吉盆地で確認されています。
原田古墳は直径四十メートル、周 囲一二五メートル、高さ約五メート ルの大きさです。円墳としては鹿児 島県内最大の規模であり、直径四十 メートル規模の円墳は全国的にもご く稀なものです。 古墳の中腹には段をつけて盛り、 土が崩れないようにしてあります。
古墳の規模はその身分を示すもの で、規模が大きくなればなるだけ、 埋 葬者の権力を誇示することになり ます。しかし、原田古墳の埋葬者が 誰なのかは、学術的な調査がなされ ていないため、はっきりわかっておりません。 地元の言い伝えでは日本神話に登場するコノハナサクヤヒメの墓と言 われています。
この原田古墳から西に一キロメー トルほど行くと本宮橋があり、その 橋の近くにコノハナサクヤヒメを祭 神とする妻 つま ・(都萬) 神 社の旧 宮(もとみや)があっ たとされ、天文九年(一五四〇)大 崎町上町に遷 座(移転すること)さ れたと『三 国名勝図会』に記録され ています。現在でも旧宮があったと ころを「元 宮」と呼んでいます。
この旧宮は地元の人たちに大事に されていたらしく、都萬神社に残る 棟札の裏に、鳥居などの造立にあた り「原田中氏人皆加志」とあり、原 田地区内の十一門( かど) 全員が協力したと 記録されています。
●地元に大事にされたコノハナサ クヤヒメを祭神とする妻神社が、 旧宮近くの大きな墳丘をもつ原田 古墳を、コノハナサクヤヒメの墓 として祀 まつ り、神社遷座後も、語り 継がれたことは地元の人々にとっ ての地域のシンボルだったのかも しれません。
5世紀末といえば527年に起きた磐井の乱よりずっと前の話である。九州における大和政権の地盤もしっかりと固まっていない時代だと思われるが、南九州の方では既にヤマトの影響が強かったことが一層はっきりしたと言う様な記事です。
現地説明を27日の午前10時半と午後1時半から志布志市教育委員会文化財管理室が行う様です。
たんこう【短甲】
古墳時代から奈良時代にかけて使われた鎧よろい。鉄板を革紐や鋲びようで綴じて作ったもので、胴体をおおうだけの丈の短いもの。
楽しぶし ~先人たちが築いた歴史や文化を探訪~
第九話 原田の古墳より
有明町原田東下の近く、茶畑の真 ん中に雑木が生い茂るこんもりとし た丘を見ることが出来ます。この丘 のように見えるものは、市指定文化 財「原 田古墳」と呼ばれるものです。 古墳は、一般的には土を高く盛り 上げて造った古代の墓のことで、特 に日本では三世紀後半から七世紀に 至るまでの高 塚を指します。
原田古墳は上から見た形から 「円 墳」と呼ばれる高塚古墳に分 類され、その他の古墳には四角 い形の「方墳」、鍵穴の形に似た 「前方後円墳」等があります。
志布志市内には原田古墳の他、志 布志町夏井ダグリ岬の飯盛山古墳、 志布志町安楽の小牧古墳群、有明町 野神の岩 屋古墳群等が点在しており、大小含めて市内には十ヵ所余り の古墳及び古墳群が存在します。
これらの古墳の分布は、大隅半島 においては志布志湾沿岸部に拡がっ ていて、初期の大 和政権との繋がり をもっていたことが考えられます。
また、古墳が造られた時期に並行 して、志布志市内では「地下式横 穴 墓 墓 」という独特の埋葬形態の墓も有 明町蓬原や原田で確認されていま す。
「地下式横穴墓」は地表から竪穴 を掘り、その竪穴の底から横方向に 掘り進めて、玄室という遺体を置く 部屋を造る墓です。この埋葬形態は、 宮崎県平野部・内陸部、志布志湾岸 及び内陸部、川内川上流域部、熊本県人吉盆地で確認されています。
原田古墳は直径四十メートル、周 囲一二五メートル、高さ約五メート ルの大きさです。円墳としては鹿児 島県内最大の規模であり、直径四十 メートル規模の円墳は全国的にもご く稀なものです。 古墳の中腹には段をつけて盛り、 土が崩れないようにしてあります。
古墳の規模はその身分を示すもの で、規模が大きくなればなるだけ、 埋 葬者の権力を誇示することになり ます。しかし、原田古墳の埋葬者が 誰なのかは、学術的な調査がなされ ていないため、はっきりわかっておりません。 地元の言い伝えでは日本神話に登場するコノハナサクヤヒメの墓と言 われています。
この原田古墳から西に一キロメー トルほど行くと本宮橋があり、その 橋の近くにコノハナサクヤヒメを祭 神とする妻 つま ・(都萬) 神 社の旧 宮(もとみや)があっ たとされ、天文九年(一五四〇)大 崎町上町に遷 座(移転すること)さ れたと『三 国名勝図会』に記録され ています。現在でも旧宮があったと ころを「元 宮」と呼んでいます。
この旧宮は地元の人たちに大事に されていたらしく、都萬神社に残る 棟札の裏に、鳥居などの造立にあた り「原田中氏人皆加志」とあり、原 田地区内の十一門( かど) 全員が協力したと 記録されています。
●地元に大事にされたコノハナサ クヤヒメを祭神とする妻神社が、 旧宮近くの大きな墳丘をもつ原田 古墳を、コノハナサクヤヒメの墓 として祀 まつ り、神社遷座後も、語り 継がれたことは地元の人々にとっ ての地域のシンボルだったのかも しれません。
今日は文化財防火デーという記念日です。
法隆寺壁画観音菩薩像の10円切手は昭和26年(1951)12月に発行された切手だそうです。子供の頃に見た覚えがあります。
法隆寺金堂壁画の一部はこんなところにも。
懐かしい切手です。
法隆寺金堂
東京消防庁の記事ですが、文化財防火デーを詳しく理解する為にも分かりやすい記事ですので紹介します。
昭和24(1949)年1月26日、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損しました。
当時ロンドン・タイムスの東京支局長であったフランク・ホーレー氏は「法隆寺は外国人にとっても非常に興味を持たれ、こんどの戦争中もフランスではパリ大学のオーボァイエという若い婦人が“金堂の研究”を発表、アメリカでも最近ワシントン博物館のアッカー氏が、日本での金堂研究を翻訳して出版したところ、大変売れ行きが良かったというほどで、こうした人たちが法隆寺が焼けてしまったと聞いたらどんなに悲しむことか。・・・日本人はこうした“貴重なもの”の取扱いが全く下手でデタラメだ(1月27日の朝日新聞より)と語っています。
法隆寺金堂の火災は、壁画の模写をしていた作業員が保温用に使っていた、電気座布団のスイッチを切り忘れたために発生したものでしたが、この火災の二日前には法隆寺に居住する某婦人の元へ、毒を入れた菓子が届けられた事実もあったことから、内紛による放火説もささやかれました。
この火災があって間もなく、国家消防庁長官(現総務省消防庁長官)は文部次官にあてて「国宝建造物等の防火態勢強化について」という通達を送り、その前文で「先般の法隆寺金堂の出火については、当庁においても早速係員を派遣し、現地調査すると共に、現存するこの種国宝の一部について検討せしめた所、その防火態勢はいずれも憂慮すべき状態にあり、今後大いに改善を図る必要が痛感された次第である」と述べています。
このような背景から、文化財防火デーが、昭和30(1955)年1月26日に定められ、これに関する文書が、国家消防本部(現総務省消防庁)と文化財保護委員会の連名で出されました。
それによると、趣旨は「1月26日は、昭和24年に法隆寺金堂が罹災した日にあたり、また火災の多い時節でもあるので、毎年この日を文化財防火デーとし、全国的に文化財防火運動を展開して、文化財を火災から護ろうとするにある」として、この運動の趣旨の普及徹底を図りながら、防火施設の点検と整備を行うよう指導するとともに、防火演習などを実施するように求めています。
ところで文化財には、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、記念物および伝統的建造物群(文化財保護法第二条)がありますが、国宝とされるものは、有形文化財のうち重要なものとして重要文化財に指定され(指定者は文部大臣)、かつ、世界文化の見地から価値が高く、類ない国民の宝たるものに限られています。
平成5年12月、法隆寺が、世界文化遺産として登録されました。これは、法隆寺が世界最古の木造建築物であることに由来しています。
また、平成6年11月1日から、法隆寺の焼損壁面が、45年ぶりに一般公開されましたが、これは、法隆寺が世界文化遺産に登録されたことや、金堂修復40周年を記念してのものだといわれています。
文化財防火デーが定められたのは昭和30年、今年は平成30年・・・時代も変わりましたね。
法隆寺壁画観音菩薩像の10円切手は昭和26年(1951)12月に発行された切手だそうです。子供の頃に見た覚えがあります。



東京消防庁の記事ですが、文化財防火デーを詳しく理解する為にも分かりやすい記事ですので紹介します。
昭和24(1949)年1月26日、奈良県斑鳩町の法隆寺金堂から出火し、国宝の十二面壁画の大半が焼損しました。
当時ロンドン・タイムスの東京支局長であったフランク・ホーレー氏は「法隆寺は外国人にとっても非常に興味を持たれ、こんどの戦争中もフランスではパリ大学のオーボァイエという若い婦人が“金堂の研究”を発表、アメリカでも最近ワシントン博物館のアッカー氏が、日本での金堂研究を翻訳して出版したところ、大変売れ行きが良かったというほどで、こうした人たちが法隆寺が焼けてしまったと聞いたらどんなに悲しむことか。・・・日本人はこうした“貴重なもの”の取扱いが全く下手でデタラメだ(1月27日の朝日新聞より)と語っています。
法隆寺金堂の火災は、壁画の模写をしていた作業員が保温用に使っていた、電気座布団のスイッチを切り忘れたために発生したものでしたが、この火災の二日前には法隆寺に居住する某婦人の元へ、毒を入れた菓子が届けられた事実もあったことから、内紛による放火説もささやかれました。
この火災があって間もなく、国家消防庁長官(現総務省消防庁長官)は文部次官にあてて「国宝建造物等の防火態勢強化について」という通達を送り、その前文で「先般の法隆寺金堂の出火については、当庁においても早速係員を派遣し、現地調査すると共に、現存するこの種国宝の一部について検討せしめた所、その防火態勢はいずれも憂慮すべき状態にあり、今後大いに改善を図る必要が痛感された次第である」と述べています。
このような背景から、文化財防火デーが、昭和30(1955)年1月26日に定められ、これに関する文書が、国家消防本部(現総務省消防庁)と文化財保護委員会の連名で出されました。
それによると、趣旨は「1月26日は、昭和24年に法隆寺金堂が罹災した日にあたり、また火災の多い時節でもあるので、毎年この日を文化財防火デーとし、全国的に文化財防火運動を展開して、文化財を火災から護ろうとするにある」として、この運動の趣旨の普及徹底を図りながら、防火施設の点検と整備を行うよう指導するとともに、防火演習などを実施するように求めています。
ところで文化財には、有形文化財、無形文化財、民俗文化財、記念物および伝統的建造物群(文化財保護法第二条)がありますが、国宝とされるものは、有形文化財のうち重要なものとして重要文化財に指定され(指定者は文部大臣)、かつ、世界文化の見地から価値が高く、類ない国民の宝たるものに限られています。
平成5年12月、法隆寺が、世界文化遺産として登録されました。これは、法隆寺が世界最古の木造建築物であることに由来しています。
また、平成6年11月1日から、法隆寺の焼損壁面が、45年ぶりに一般公開されましたが、これは、法隆寺が世界文化遺産に登録されたことや、金堂修復40周年を記念してのものだといわれています。
文化財防火デーが定められたのは昭和30年、今年は平成30年・・・時代も変わりましたね。
今日は初天神、左遷の日とありますがこのふたつは学問の神様で有名な菅原道真に関係する事柄です。
初天神とは天神様の縁日が毎月25日に行われています。
年始めの25日の縁日を初天神と言います。
25日が天神様の縁日になった理由としては菅原道真の誕生と死亡の日が同じ25日で重なったことに起因しているようです。
また左遷の日は昌泰4年(901年)正月25日醍醐天皇が菅原道真を太宰権師に左遷したことから来たものと思いますが、旧暦での出来事のため 新暦の日にちとは大きく異なっています。
23日に庭の梅が開花しました

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟(たた)りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
●讒訴(ざんそ) 人を陥れるために悪く告げ口をすること。また、かげぐち。
●祟り 神仏や怨霊 (おんりょう) などによって災厄をこうむること。罰 (ばち) ・科 (とが) ・障りと同義的に用いられることもある。「山の神の祟り」
●天満天神 菅原道真の霊を神格化した呼称。また、それをまつる神社。天満大自在天神。
… 死後、道真のたたりと称する異変が相次いで起こり、923年(延長1)罪を取り消して本官に復し、のち993年(正暦4)には正一位太政大臣を贈られた。その前から民間ではほこらを北野にたて、天満天神としてまつっており、以後、道真は文道の神として異例の尊崇を受けてきている。彼は勅命により892年《類聚国史》を撰し、また《三代実録》の編さんにもあずかった。…
道真公は、左遷先の九州太宰府にて亡くなります。
道真公が亡くなったあと、京都では地震、彗星、落雷、干ばつ、洪水、病気など、ありとあらゆる災いが、立て続けに起こりました。
とくに、道真公を左遷に追いやった人達が、落雷でなくなるという事件が続き、人々は道真公のたたりではないかと恐れました。
雷の現象となって現れることから、雷神と道真公が結びつき、天神さまと呼ばれるようになります。
道真公のたたりを鎮めようと、京都の北野天満宮と九州の太宰府天満宮が立てられました。
大宰府は梅の名所でもあり、太宰府天満宮の名物に梅ヶ枝餅というものが有ります。

初天神とは天神様の縁日が毎月25日に行われています。
年始めの25日の縁日を初天神と言います。
25日が天神様の縁日になった理由としては菅原道真の誕生と死亡の日が同じ25日で重なったことに起因しているようです。
また左遷の日は昌泰4年(901年)正月25日醍醐天皇が菅原道真を太宰権師に左遷したことから来たものと思いますが、旧暦での出来事のため 新暦の日にちとは大きく異なっています。

菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。
忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟(たた)りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。
●讒訴(ざんそ) 人を陥れるために悪く告げ口をすること。また、かげぐち。
●祟り 神仏や怨霊 (おんりょう) などによって災厄をこうむること。罰 (ばち) ・科 (とが) ・障りと同義的に用いられることもある。「山の神の祟り」
●天満天神 菅原道真の霊を神格化した呼称。また、それをまつる神社。天満大自在天神。
… 死後、道真のたたりと称する異変が相次いで起こり、923年(延長1)罪を取り消して本官に復し、のち993年(正暦4)には正一位太政大臣を贈られた。その前から民間ではほこらを北野にたて、天満天神としてまつっており、以後、道真は文道の神として異例の尊崇を受けてきている。彼は勅命により892年《類聚国史》を撰し、また《三代実録》の編さんにもあずかった。…
道真公は、左遷先の九州太宰府にて亡くなります。
道真公が亡くなったあと、京都では地震、彗星、落雷、干ばつ、洪水、病気など、ありとあらゆる災いが、立て続けに起こりました。
とくに、道真公を左遷に追いやった人達が、落雷でなくなるという事件が続き、人々は道真公のたたりではないかと恐れました。
雷の現象となって現れることから、雷神と道真公が結びつき、天神さまと呼ばれるようになります。
道真公のたたりを鎮めようと、京都の北野天満宮と九州の太宰府天満宮が立てられました。
大宰府は梅の名所でもあり、太宰府天満宮の名物に梅ヶ枝餅というものが有ります。

20日、21日と場所こそ違えど八代城と熊本城の石垣見学に行ってきました。どちらの講習も一昨年の熊本地震によって石垣が崩れたことによる被害状況や修復工事の進捗状況を一般公開する目的で行われました。修復方法についてはどちらも国の文化財としての扱いから元通りの状態に復元することが重要なポイントになっています。崩れた石垣の一つ一つがもと有った場所に埋め込まれて崩壊前と変わらない状態に戻さないといけません。八代城の石垣と熊本城の石垣の大きな違いは石垣に使われている石の種類が違うことです。八代城の石垣はほとんどが石灰岩が使われており、石垣の角に使われている石は安山岩を用いています。それに比べ熊本城の石垣は大部分が安山岩が使われています。明治になって新たに作られた石垣は溶結凝灰岩がつかわれています。
●安山岩
マグマが急速に冷えてできた岩石のうち、やや黒っぽく重い石。鉄やマグネシウムをやや多く含み、シリカはやや少ないという特徴があります。日本の火山の多くは、安山岩からできています。
●石灰岩
堆積岩の一種で、方解石、あられ石など、炭酸カルシウム (CaCO?) を50重量%以上含むもの。サンゴや貝殻など生物遺骸が集積したり、蒸発などによって炭酸カルシウムが無機的に沈殿することによって形成されます。鉱業資源としては石灰石と呼ばれています。熱帯~亜熱帯の浅い海で形成されることが多いです。
八代城の石垣(野面積み)

熊本城の石垣(打ち込み接ぎ)
八代城が築城された元和年間(げんな・慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。)は打ち込み接ぎから切込み接ぎへの転換が進んでいた頃で、加藤清正が築いた熊本城の石垣も打ち込み接ぎで築かれています。しかし八代城の石垣はそれ以前の野面積みで築かれています。八代城の石垣が野面積みで築かれたのは、石材として石灰石が用いられたことが原因です。八代城の石垣には麦島城の石垣の石材も転用されていますが、新たに切り出された石材もあります。新たに切り出された石材も荒割(そわり)のままで、石垣は野面積みで築かれました。石灰石は貝等の生物の殻が堆積してできたものと、水中に含まれていた炭酸カルシウムが沈殿し科学的に結合したものの2種類がありますが、いずれも結晶構造であるために結合力が砂岩等他の堆積岩よりも強くなっています。そのため、石灰石は粘りがあり、大まかに割ることは可能ですが細かい加工がしにくいという特徴があります。打ち込み接ぎに使用する石材のように、石垣の面に当たる部分を平に加工したり、石材同士の接合部分を整えることは困難なのです。
ところで、石垣の天敵は石垣背面に溜まる水です。石垣背面の排水を上手に行わないと、石垣は崩壊してしまいます。野面積みの石垣は一見すると武骨で荒々しく石材同士が密着していないために脆(もろ)そうに見えますが、実際には石垣背面の排水性が優れているためにとても頑丈です。むしろ、石材同士が密着していて見た目もきれいな切込み接ぎの石垣や打ち込み接ぎの石垣は排水が苦手で、石垣の崩落を防止するために必ず排水溝が設けられ、石垣面に排水口がのぞいています。
八代城跡の石垣の石材の多くは、八代海に浮かんでいた島々から切り出されたもので、これらの島々は干拓によって現在陸続きとなっています。また、坂本町からも石材を運んできています。切り出された石材は、河川や海では船を使って、陸上では修羅を用いて運ばれました。
●修羅
大石・大木などを運搬する道具。そりの一種。修羅車 (しゅらぐるま) 。
重機の存在しなかった時代に重いものを運ぶ重要な手段であった。コロなどの上に乗せることで、摩擦抵抗を減らすことができる。古墳時代には古墳の造営にも使用されていたと考えられているが、巨石運搬具を「修羅」と呼ぶようになったのは近世以降であり、古墳時代にこの名称は存在しない。
VないしY字型の形状をしたものが発掘されている。二股に分かれている先端部を舟の舳先のように前方へ向け、これに切り出した石を乗せ、ロープで曳く。
近世の築城の様子を描いた「駿府城築城図屏風」などには、修羅で巨石を運搬する様子が描かれている。
●石積みと石垣の違い
見た目は同じように見えますが、その内面、裏面の構造が大きく異なります。石垣は雨による崩壊を防ぐために、その裏面に必ず裏込め石が充填されており、雨水を排水する様になっています。
(八代市教育委員会資料参考)
八代城と熊本城の石垣の違いは使用された材料が違うこと、そしてその材料の特徴を考えてたうえで石垣の積み方を敢えて違った積み方をしたものと思われます。昔の石工たちの技が窺えるところです。
●安山岩
マグマが急速に冷えてできた岩石のうち、やや黒っぽく重い石。鉄やマグネシウムをやや多く含み、シリカはやや少ないという特徴があります。日本の火山の多くは、安山岩からできています。
●石灰岩
堆積岩の一種で、方解石、あられ石など、炭酸カルシウム (CaCO?) を50重量%以上含むもの。サンゴや貝殻など生物遺骸が集積したり、蒸発などによって炭酸カルシウムが無機的に沈殿することによって形成されます。鉱業資源としては石灰石と呼ばれています。熱帯~亜熱帯の浅い海で形成されることが多いです。
八代城が築城された元和年間(げんな・慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。)は打ち込み接ぎから切込み接ぎへの転換が進んでいた頃で、加藤清正が築いた熊本城の石垣も打ち込み接ぎで築かれています。しかし八代城の石垣はそれ以前の野面積みで築かれています。八代城の石垣が野面積みで築かれたのは、石材として石灰石が用いられたことが原因です。八代城の石垣には麦島城の石垣の石材も転用されていますが、新たに切り出された石材もあります。新たに切り出された石材も荒割(そわり)のままで、石垣は野面積みで築かれました。石灰石は貝等の生物の殻が堆積してできたものと、水中に含まれていた炭酸カルシウムが沈殿し科学的に結合したものの2種類がありますが、いずれも結晶構造であるために結合力が砂岩等他の堆積岩よりも強くなっています。そのため、石灰石は粘りがあり、大まかに割ることは可能ですが細かい加工がしにくいという特徴があります。打ち込み接ぎに使用する石材のように、石垣の面に当たる部分を平に加工したり、石材同士の接合部分を整えることは困難なのです。
ところで、石垣の天敵は石垣背面に溜まる水です。石垣背面の排水を上手に行わないと、石垣は崩壊してしまいます。野面積みの石垣は一見すると武骨で荒々しく石材同士が密着していないために脆(もろ)そうに見えますが、実際には石垣背面の排水性が優れているためにとても頑丈です。むしろ、石材同士が密着していて見た目もきれいな切込み接ぎの石垣や打ち込み接ぎの石垣は排水が苦手で、石垣の崩落を防止するために必ず排水溝が設けられ、石垣面に排水口がのぞいています。
八代城跡の石垣の石材の多くは、八代海に浮かんでいた島々から切り出されたもので、これらの島々は干拓によって現在陸続きとなっています。また、坂本町からも石材を運んできています。切り出された石材は、河川や海では船を使って、陸上では修羅を用いて運ばれました。
●修羅
大石・大木などを運搬する道具。そりの一種。修羅車 (しゅらぐるま) 。
重機の存在しなかった時代に重いものを運ぶ重要な手段であった。コロなどの上に乗せることで、摩擦抵抗を減らすことができる。古墳時代には古墳の造営にも使用されていたと考えられているが、巨石運搬具を「修羅」と呼ぶようになったのは近世以降であり、古墳時代にこの名称は存在しない。
VないしY字型の形状をしたものが発掘されている。二股に分かれている先端部を舟の舳先のように前方へ向け、これに切り出した石を乗せ、ロープで曳く。
近世の築城の様子を描いた「駿府城築城図屏風」などには、修羅で巨石を運搬する様子が描かれている。
●石積みと石垣の違い
見た目は同じように見えますが、その内面、裏面の構造が大きく異なります。石垣は雨による崩壊を防ぐために、その裏面に必ず裏込め石が充填されており、雨水を排水する様になっています。
(八代市教育委員会資料参考)
八代城と熊本城の石垣の違いは使用された材料が違うこと、そしてその材料の特徴を考えてたうえで石垣の積み方を敢えて違った積み方をしたものと思われます。昔の石工たちの技が窺えるところです。

今日の【春秋】、寒い折、読者の心を和ませる暖かくてさわやかな記事を見つけましたので紹介します。
ふらりと立ち寄った、あるラーメン店。こだわりのスープが売り物とか。まだ若い店主の元気な声が響く。ラーメンを注文した客の携帯電話が鳴った。込み入った内容らしい。客は話しながら店の外へ。出来上がったラーメンが席に置かれた。客はなかなか戻ってこない►しばらくして席に着いた客がラーメンに手を伸ばそうとした。その時、店主はそっとラーメンの器を引いて、湯気の立つ作りたてに取り換えた。驚く客に「お客さんに、冷めたラーメンは食べさせられませんから」►「2杯分の料金を」との申し出を固辞した店主。そのTシャツの背中に書かれた文字に目が留まった。「一杯入魂」。野球の「一球入魂」のもじりだろうか。なるほど。この店のラーメンがうまい理由が分かった►仕事帰りに乗った、ある路線バス。
停留所に止まるたび、運転手が車内アナウンスを繰り返す。「週末の金曜日です。一週間、お疲れさまでした」►バスを降りるお年寄りには「寒いですから気を付けて」「自転車にご注意ください」。あえて言えば「一停入魂」か。学生たちが「ありがとうございました」と笑顔で降りていった。外の風は冷たいが、車内はなんだかポカポカと►ラーメン店主とバス運転手。仕事は違っても、心を込めて最良のサービスを提供しようというプロ意識には通じるものが。料金はいつもと同じなのに、すごく得をした気分にしてくれた。
2018年1月23日 西日本新聞 【春秋】
博物館ネットワークセンターの黒田さんや川路さんから熊本県の岩石・鉱物・化石について岩石名・鉱物名・化石名と主要産地についての豆知識を教そわりました。順に溶結凝灰岩・阿蘇山周辺、鱗珪石(トリディマイト)・熊本市島崎の石神山、白亜紀恐竜化石群・天草市,御船町となっており、この場所は鱗珪石(トリディマイト)の主要産地であったと教えていただきました。※日本地質学会の県の石リストを見るとすべての県のリストが分かります。
※キリスト教信仰が自由になった(明治6年・1873年)3年後の明治9年に起こった事件で、ジェーンズの教えを受けていた熊本洋学校の生徒35名が花岡山に集まりキリスト教に身を捧げる誓いをたてました。これを熊本バンド(同盟)と称し、世界のキリスト教の歴史に大きな光を残しています。
※板状節理
熔岩流の上下面にほぼ平行に発達し,多数の平行な板状に規則的に割れるもので,熔岩流や火山砕屑岩などの中の不均質岩が原因のものが多い.日本では小田原南方の根府川石や諏訪付近の鉄平石などがある.
1月21日(日)は「金峰山の地質」の講座があり、熊本の石神山公園を集合場所として「熊本城の石垣の見学及び解説」を目的として
①三の丸駐車場にて宮内橋脇石垣の解説
②二の丸御門の石垣見学及び解説
③宮内橋脇石垣崩落現場見学及び解説
その後花岡山、石神山の石切り場見学
という内容になっていますが①~③まではブラタモリ熊本に案内役で出演された市職員の古島さんが説明をされました。
熊本城の石垣に使われている石の大きさは大阪城や名古屋城などに使われているような大きなものはなく運びやすく積みやすい物がほとんどです。また古文書や古絵図などから熊本城の石垣は多くの箇所で普請を重ねており、宮内橋脇の石垣は江戸時代の初めころ(1634)、細川忠利の時に幕府からの許しを得て普請を行っています。
また明治5年(1872)に熊本城は陸軍用地に編入され宮内橋がかけられた際にも石垣の改築を行っています。加藤から細川が積んだ石垣は安山岩を用いていますが、明治になって橋を架けるために造られた石垣には溶結凝灰岩が使われています。
熊本城の石垣はどこから運んだのか?
そんな疑問も話に上がり、『御大工棟梁善蔵聞覚控(写)』というものに
「ざいもくのぶんな、あそ、きくち、茶うす山、ごんげん山からも、きり出しになり、石は六かう山、ぎおん山とおかみガたけ、つのうらあたりからも、とりよせなはったばい。」
「きんま道から木と石をはこんだが、車のあったけんでけたったい。男山と女山のさかい目をたち切って、もとのしろから茶うす山に引きなほしはった大しかけは、はじめのしろよりも、ことぎょう山なふしんであった。」
【現代語訳】
「材木については阿蘇・菊池・茶臼山・権現山の方からも切り出し、石は六甲山(独鈷山)・祇園山(花岡山)・拝カ嶽(拝カ石)・津浦辺りからも取り寄せられた。」
「木馬道から木と石を運んだが、車があったから出来たのだ。男山と女山の境目を断ち切って元の城から茶臼山に(縄張りを)引き直された計画は、最初の城よりもとても仰山な大普請だった。」
この文章からは熊本城の石垣の石は熊本城に近い場所、何カ所から集められ、恐らく転石を集めてそれを加工したと思われる。
1月20日の国史跡八代城跡石垣修復見学会に参加して、まず気付いた事はこの見学会が熊本地震の影響で八代城の石垣が崩れて修復が始まったのですが、その途中途中で見学会が行われており、今日は完成前の見学会になり、見学会としては第4回目になるそうです。
八代市教育委員会が「歩き、観、触れる! 熊本地震からの復興!!」と名付けた見学会です。
市報などはくまなく見る方ですが石垣修復見学会があったことは知りませんでした。
見学会の詳細については今回頂いた資料をもとに少しづつまとめて行きたいと思います。
八代市には、縄文時代から近世にかけて、300個所を越える史跡が存在します。そのうち、1件が国指定史跡に、7件が熊本県指定史跡に、55 件が八代市指定史跡となっています。
八代市では、昭和53年度(1978)から毎年市内の史跡を中心として、史跡めぐりを開催しています。城跡を対象とした史跡めぐりは、平成21年(2009)の『歩き、観、触れる 古麓城』、よく22年の『『歩き、観、触れる! 発見!麦島城』、同23年の『『歩き、観、触れる!再発見!八代城跡』に続く開催となります。
八代市内には、中世に造られた古麓城、安土・桃山時代につくられた麦島城、江戸時代につくられた松江城(現在の八代城)の3つの城跡があります。そのため、全国でもめずらしく、一つの地域で中世城郭→織豊系城郭(近世城郭の原型)→近世城郭への歴史をたどることができます。
この古麓城跡、麦島城跡、八代城跡及び平山瓦窯跡は、平成26年3月に国指定史跡『八代城跡群、古麓城跡、麦島城跡、八代城跡』となりました。(・・資料より)
この見学会を通して八代市街地成立の中心となった八代城を隅々みまでめぐり石垣の変遷や特徴、雄大さ、城内の優雅な庭園など見学して八代城の新しい魅力を引き出そうという試みのようです。
昨年(平成28年)4月14日(木)午後9時25分頃、熊本地震の前震が、16日午前1時25分頃、本震が発生しました。八代城跡は前震の際には目立った被害は無く、本震の際に廊下橋門跡石垣の北面の一部が崩壊しました。この時にはまだ石垣の隅角部は残されていましたが、4月19日に発生した震度5強の余震によって、残されていた石垣の隅角部から南北面の石垣の一部まで崩壊してしまいました。
崩壊した範囲は、高さ約3m、幅約6m、面積約20㎡の被災状況でした。
崩落した石の数は109個、修復のため撤去した石の数は45個、崩落の際に破損した石がきの数は8個有ったそうです。
石垣の保存修復のために次の⑪の作業を実施し、①~⑤は28年度に実施したそうです。
①堀の水を抜くための堤防設置作業
②被災状況の記録作成
③崩壊した石垣の石材の取り上げ作業
④石垣の崩壊した範囲の記録作成と調査、航空写真撮影(石材取り上げ後の作業)
⑤崩落した石材の元々の場所や向きの確認作業
⑥崩落した石材の保存処理作業(必要に応じて、新材への置き換え)
⑦崩壊した石材周辺の一時解体作業
⑧石垣の構造の調査
⑨石垣の積み直し
⑩堤防の撤去作業
⑪保存修復報告書の作成、刊行
・・⑨の作業については現在最終段階で行っている作業になります。崩壊したとき新材をに割れた石材の代わりに、新しい石材を用いて積み直した箇所があります。従来の築石の形状に合わせるため、現地で電動カッターを用いて新石の加工・調整を行っています。また、石垣の安定性を高めるため、築石と築石の間に間詰石をつめたり、築石の裏面に介石をいれています。これらの間詰め石、介石は築石の形状に合わせるため、現地で新材を電動カッターで加工して製作しています。
今回の見学では実際に自分の目で見ることの大切さを感じました。どこの石垣でもきれいに積み上げた姿しか見ないので、先人たちがどの様に考えて石垣が崩れないように積み上げたのか内部を見ないことにはその仕組みは分かるものではありません。
今回は崩落した石垣をどう手直ししていくかを順を追っての説明もありいい勉強になったと思っています。
昨日の新聞に熊本地震で崩れた八代城の石垣修復の最終見学会が今日の8時半からの受付が有り行われることを知りました。朝食の後すぐに集合場所の厚生会館に行って受付を済ませそのまま見学会に参加、石垣修復の見学とその後、八代城の石垣について現地勉強会に参加してきました。今日は大寒、寒い中、多くの人が集まり担当者からの説明を熱心に聞き入る姿がありました。詳細については後日まとめたいと思っています。
厚生会館前での事前説明
修復現場の説明が終わり、オプションで八代城の説明がありました
●大寒(だいかん)とは
二十四節気の一つ。元来、太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで、、太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間であるが、現行暦ではこの期間の第1日目をさす。昔中国ではこれをさらに5日を一候とする三候 (鶏始乳、鷙鳥 厲疾、水沢腹堅) に区分した。猛鳥が激しく飛び回り、沢に氷が堅く張りつめた厳寒の時期の意味であるが、「小寒の氷大寒に解く」といって、小寒に比べて大寒のほうが暖かいともいう。大寒の最後の日が節分で、翌日旧暦の正月を迎えるわけである。
ブリタニカ国際大百科事典より
またニッポニカでは
二十四節気の一つ。陰暦12月中、太陽の黄経300度に達したときで、太陽暦の1月20日ころにあたる。北半球の温帯地域では一年中でもっとも寒い季節で、極寒に抗して身体を鍛えようとする種々の寒稽古(かんげいこ)が行われるのもこのころである。大寒が明けると立春である。[渡辺敏夫]
およそ1月20日に始まる15日間は暦のうえでは寒の後半にあたり、日本では各地で、1年間のうちの最低気温の観測される期間である。北国や本土の日本海側では、なお雪のシーズンでありスキーなどが盛んに行われているが、太平洋側ではフクジュソウ、スイセンなど寒中に花を開くものがあり、西日本では白梅、紅梅も咲く。南国ではヤナギが芽を吹き始める所もあり、ヒバリの初鳴きも聞かれるころとなる。[根本順吉]



八重の花梅と紅梅は蕾がだんだん大きくなってそろそろ花が開きそうです。またスイセンは今が見頃です。
●二十日正月
二十日正月(はつかしょうがつ)とは、日本の行事。1月20日のことを指し、この日を正月の終りとなる節目の日とする土地も多い。
かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であった。この日をもって正月の行事は終了する。
京阪神地方では、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから骨正月・頭正月とも言う。他の地方でも、乞食正月(石川県)、棚探し(群馬県)、フセ正月(岐阜県)などと言って、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習がある。
●大寒(だいかん)とは
二十四節気の一つ。元来、太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで、、太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間であるが、現行暦ではこの期間の第1日目をさす。昔中国ではこれをさらに5日を一候とする三候 (鶏始乳、鷙鳥 厲疾、水沢腹堅) に区分した。猛鳥が激しく飛び回り、沢に氷が堅く張りつめた厳寒の時期の意味であるが、「小寒の氷大寒に解く」といって、小寒に比べて大寒のほうが暖かいともいう。大寒の最後の日が節分で、翌日旧暦の正月を迎えるわけである。
ブリタニカ国際大百科事典より
またニッポニカでは
二十四節気の一つ。陰暦12月中、太陽の黄経300度に達したときで、太陽暦の1月20日ころにあたる。北半球の温帯地域では一年中でもっとも寒い季節で、極寒に抗して身体を鍛えようとする種々の寒稽古(かんげいこ)が行われるのもこのころである。大寒が明けると立春である。[渡辺敏夫]
およそ1月20日に始まる15日間は暦のうえでは寒の後半にあたり、日本では各地で、1年間のうちの最低気温の観測される期間である。北国や本土の日本海側では、なお雪のシーズンでありスキーなどが盛んに行われているが、太平洋側ではフクジュソウ、スイセンなど寒中に花を開くものがあり、西日本では白梅、紅梅も咲く。南国ではヤナギが芽を吹き始める所もあり、ヒバリの初鳴きも聞かれるころとなる。[根本順吉]
八重の花梅と紅梅は蕾がだんだん大きくなってそろそろ花が開きそうです。またスイセンは今が見頃です。
●二十日正月
二十日正月(はつかしょうがつ)とは、日本の行事。1月20日のことを指し、この日を正月の終りとなる節目の日とする土地も多い。
かつては正月の祝い納めとして仕事を休む物忌みの日であった。この日をもって正月の行事は終了する。
京阪神地方では、正月に用いた鰤の骨や頭を酒粕・野菜・大豆などと一緒に煮て食べることから骨正月・頭正月とも言う。他の地方でも、乞食正月(石川県)、棚探し(群馬県)、フセ正月(岐阜県)などと言って、正月の御馳走や餅などを食べ尽くす風習がある。
昨日、「初観音」行事について、奈良木神社の木造十一面観音立像を思い出して奈良木神社の事を少し紹介しましたが八代では観音信仰は根付かなかったように思われます。ただ18日は観世音菩薩 の縁日であって十一面観音菩薩の縁日は毎月20日のようです。ちなみに今日(19日)は馬頭観音菩薩、毎月21日は准提観音菩薩、22日は如意輪観音菩薩、23日は不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん)菩薩の縁日になっています。観音様は色々な形に変化されますのでどれも同じものと思っていたのが間違いのもとだったようです。


●十一面観音(じゅういちめんかんのん)とは?
苦しんでいる人をすぐに見つけるために頭の上に11の顔があり、全方向を見守っています。またそれぞれの顔は人々をなだめたり怒ったり、励ましてくれたりするといわれています。十種勝利(現世利益)と四種果報(死後成仏)という様々なご利益があり、千手観音菩薩と並んで人気の高い観音である。六観音の1つに数えられ、修羅道に迷う人々を救います。
奈良時代から多く信仰されるようになり、延命、病気治療などを願って多く祀られるようになりました。
ちなみに頭上面のうち前3面を菩薩面、左3面を瞋怒面、右3面を狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)、うしろ1面を大笑面といい、頂上に仏面を配して11面です。中には本面とあわせて11面となる場合もあります。また11面の配列が異なる場合もあります。 大笑面は、悪行を大笑いして改心させ、善の道に向かわせるといわれています。
●ご利益
様々な災難、病気治癒、財福授与、勝利を得るなどの現世利益があり、延命、地獄に落ちない、極楽浄土に行けるなどのご利益があるとされています。
●日本での信仰
密教系の尊格であるが、雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め、病気治癒などの現世利益を祈願して十一面観音像が多く祀られた。観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。
※雑密とは、真言密教や天台密教が成立する前に、奈良時代にはあったという初期の密教です。
大日如来出現以前の密教を雑密といい、これが密教の初期と考えられています。
雑密には呪術的な要素が多く、体系化される以前の密教で、祭祀宗教であるバラモン教のマントラの影響を強く受けています。
雑密の修行は山の祖霊を信仰する山岳信仰に基づいたもので、インドのヒマラヤの神や、中国の道教、チベットなどにも見られる密教に共通するものです。
●主な国宝指定像
奈良時代
奈良・聖林寺像
京都・観音寺像
京都・大雲寺像未指定
平安時代
滋賀・向源寺(渡岸寺)像
京都・六波羅蜜寺像
大阪・道明寺像
奈良・法華寺像
奈良・室生寺像


●十一面観音(じゅういちめんかんのん)とは?
苦しんでいる人をすぐに見つけるために頭の上に11の顔があり、全方向を見守っています。またそれぞれの顔は人々をなだめたり怒ったり、励ましてくれたりするといわれています。十種勝利(現世利益)と四種果報(死後成仏)という様々なご利益があり、千手観音菩薩と並んで人気の高い観音である。六観音の1つに数えられ、修羅道に迷う人々を救います。
奈良時代から多く信仰されるようになり、延命、病気治療などを願って多く祀られるようになりました。
ちなみに頭上面のうち前3面を菩薩面、左3面を瞋怒面、右3面を狗牙上出面(くげじょうしゅつめん)、うしろ1面を大笑面といい、頂上に仏面を配して11面です。中には本面とあわせて11面となる場合もあります。また11面の配列が異なる場合もあります。 大笑面は、悪行を大笑いして改心させ、善の道に向かわせるといわれています。
●ご利益
様々な災難、病気治癒、財福授与、勝利を得るなどの現世利益があり、延命、地獄に落ちない、極楽浄土に行けるなどのご利益があるとされています。
●日本での信仰
密教系の尊格であるが、雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め、病気治癒などの現世利益を祈願して十一面観音像が多く祀られた。観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。
※雑密とは、真言密教や天台密教が成立する前に、奈良時代にはあったという初期の密教です。
大日如来出現以前の密教を雑密といい、これが密教の初期と考えられています。
雑密には呪術的な要素が多く、体系化される以前の密教で、祭祀宗教であるバラモン教のマントラの影響を強く受けています。
雑密の修行は山の祖霊を信仰する山岳信仰に基づいたもので、インドのヒマラヤの神や、中国の道教、チベットなどにも見られる密教に共通するものです。
●主な国宝指定像
奈良時代
奈良・聖林寺像
京都・観音寺像
京都・大雲寺像未指定
平安時代
滋賀・向源寺(渡岸寺)像
京都・六波羅蜜寺像
大阪・道明寺像
奈良・法華寺像
奈良・室生寺像
今日は何の日カレンダーによると初観音とあります。
少し調べてみますと初観音とは、1月18日、その年初めての観世音菩薩の縁日。
毎月18日が観音様の縁日になっていて正月の縁日を初観音というそうです。
そう言えば八代にも奈良木神社に木造の十一面観世音菩薩立像があります。
熊本県指定有形文化財なっています。
また十一面観音堂と奈良木神社はは八代市指定有形文化財です。
何年か前に、八代の建物か何かの講座でこの神社を知り、場所が分からなかったので家内に案内を頼んで連れて行ってもらった覚えがあります。
ひょっとすれば縁日が開かれているのではないかと思い午前中に出かけてみましたが場所が分からなくて、また午後から家内に案内してもらって行ってみましたが縁日は開かれていませんでした。

手前が観音堂、奥は奈良木神社




※以下、八代市の資料より
奈良木神社境内に建つ観音堂の本尊です。
像高134cm、桧の一木造で、蓮華坐の上に立っています。
腰をやや左にひねり、顔は正面を向いて、右手は「与願印」を結び、左手には蓮華をさした水瓶を持っています。
全体にリズミカルで柔らかな線と美しい彫りとなっており優れた仏師による作品と思われます。
鎌倉後期から南北朝初期の作品と考えられ、高田御所の鬼門を守護するために置かれたもののようです。
一説には「奈良木」の地名はこの仏像が奈良から来たことによるといわれています。
名称・・・・・・・・・木造十一面観世音菩薩立像(もくぞうじゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)
指定ランク・・・・県指定
種別・・・・・・・・・重要文化財・彫刻
指定年月日・・・昭和38年4月25日
少し調べてみますと初観音とは、1月18日、その年初めての観世音菩薩の縁日。
毎月18日が観音様の縁日になっていて正月の縁日を初観音というそうです。
そう言えば八代にも奈良木神社に木造の十一面観世音菩薩立像があります。
熊本県指定有形文化財なっています。
また十一面観音堂と奈良木神社はは八代市指定有形文化財です。
何年か前に、八代の建物か何かの講座でこの神社を知り、場所が分からなかったので家内に案内を頼んで連れて行ってもらった覚えがあります。
ひょっとすれば縁日が開かれているのではないかと思い午前中に出かけてみましたが場所が分からなくて、また午後から家内に案内してもらって行ってみましたが縁日は開かれていませんでした。

※以下、八代市の資料より
奈良木神社境内に建つ観音堂の本尊です。
像高134cm、桧の一木造で、蓮華坐の上に立っています。
腰をやや左にひねり、顔は正面を向いて、右手は「与願印」を結び、左手には蓮華をさした水瓶を持っています。
全体にリズミカルで柔らかな線と美しい彫りとなっており優れた仏師による作品と思われます。
鎌倉後期から南北朝初期の作品と考えられ、高田御所の鬼門を守護するために置かれたもののようです。
一説には「奈良木」の地名はこの仏像が奈良から来たことによるといわれています。
名称・・・・・・・・・木造十一面観世音菩薩立像(もくぞうじゅういちめんかんぜおんぼさつりゅうぞう)
指定ランク・・・・県指定
種別・・・・・・・・・重要文化財・彫刻
指定年月日・・・昭和38年4月25日
近所の歯医者さんから戴いたカレンダーに1月17日は防災とボランティアの日という文字が目につきました。
1995年に起きた阪神・淡路の大震災、ニュースに驚いて、就職が決まり入社までの間、家でくすぶっている息子を神戸へボランティアに出したことを思い出しました。
1か月足らずの間だったと思いますが、息子にとってはいい経験と思い出になったと思います。あれからもう23年経つんですね・・。
●防災とボランティアの日
防災とボランティアの日は、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災に因んで制定された記念日で、日付はその1月17日である。
阪神・淡路大震災では、政府や行政の対応の遅れが批判された一方で、学生を中心としたボランティア活動が活発化し、「日本のボランティア元年」と言われた。
これをきっかけに、ボランティア活動への認識を深め、災害への備えの充実強化を図る目的で、同年12月の閣議で「防災とボランティアの日」の制定が決定され、翌1996年から実施された。この日を中心に前後3日を含む計7日(1月15日〜21日)が「防災とボランティア週間」と定められている。
●土用
雑節の一つ。一年に4回あり,立夏の前18日間を春の土用といい,以下,立秋,立冬,立春の前の各18日間をいう。しかし普通は夏の土用をさし,その初日を〈土用の入り〉という。
2018年は
冬土用:1月17日~2月3日
春土用:4月17日~5月4日
夏土用:7月20日~8月6日
秋土用:10月20日~11月6日
最初の日を「土用入り」最後の日を「土用明け」といいます。

今日は何の日カレンダーによると「藪入り」とあります。
さてこの「藪入り」とは今では上方落語か時代演劇に出てくる昔の風習です。
言葉としては普段使われないので既に死語になりつつあると思います。
「薮入り」とは、住み込みの奉公人や嫁いできた嫁が実家へ帰る事ができる休日のことで、1月16日と7月16日が藪入りの日にあたります。
江戸時代に広がった風習で、昔は奉公人に定休日などなく、嫁も実家に帰ることはままならなかったため、藪入りだけが、大手を振って家に帰ったり、遊びに出かけたりできる日だったのです。
現在のように定休日がなかった時代に、正月と盆の薮入りは、奉公人たちにとって大変貴重で待ち遠しい日でした。
薮入りの日、主人は奉公人に着物や小遣いを与え、親元に送り出します。
親元では親が首を長くして子どもの帰りを待っていて、親子水入らずのひとときを過ごしたのでしょう。
また、親元に帰れない者も芝居見物などに出かけ、年2回だけのお休みを楽しんでいました。
嬉しいことが重なった時「盆と正月が一緒に来たよう」といいますが、昔の奉公人には、この2つの薮入りは本当に楽しみだったに違いありません。
戦後、労働スタイルが変化し、日曜日などの定休日ができると藪入りはすたれましたが、藪入りの伝統は正月休み・盆休みの帰省として残っています。
「暮らしの中の歳時記」より
そう言えば母親から「盆と正月が一緒に来たよう」と昔話に聞いた覚えがあります。
私にとっては遠い遠い昔の話になります。
知らないことがまだまだある事に気づかされる今日この頃。
「左義長」という言葉はご存知でしょうか?
暮らしの歳時記というブログに説明があります。
・・小正月に正月飾りや書き初めを燃やす行事で、その煙に乗って年神様が天上に帰ってゆくとされています。「左義長」は、三毬杖(さぎちょう)という青竹で正月飾りを焼いたことに由来しますが、「どんど焼き」「とんど」とも呼ばれ、その火で焼いたお餅などを食べると無病息災で過ごせるといわれています。
このように年神様を見送って正月行事も無事終了となるので、1月15日を「正月事じまい」といい、15日までを「松の内」とする地方もあります。
どんど焼きは勿論、また、秋田のなど、「なまはげ」や「かまくら」など地方色豊かな行事は理解できても「左義長」は分からないという人はほとんどだと思います。
日本語って奥が広いですね。
ちなみに今日は小正月です。
大正月には門松を飾りますが、小正月には餅花(もちばな)をなどを飾ります。これは、豊作の予祝の大切の行事でした。そのため「花正月」ともいいます。
この日の朝には、小豆粥を炊いて家族の健康を祈るならわしがあり、無病息災と五穀豊穣を願い粥をいただく風習が残っています。鏡開きのお餅を入れた小豆粥をいただきます。

餅花(もちばな)
・餅や団子を小さく丸めて柳などの木の枝につけたもの。
繭玉とも呼ばれています。
「左義長」という言葉はご存知でしょうか?
暮らしの歳時記というブログに説明があります。
・・小正月に正月飾りや書き初めを燃やす行事で、その煙に乗って年神様が天上に帰ってゆくとされています。「左義長」は、三毬杖(さぎちょう)という青竹で正月飾りを焼いたことに由来しますが、「どんど焼き」「とんど」とも呼ばれ、その火で焼いたお餅などを食べると無病息災で過ごせるといわれています。
このように年神様を見送って正月行事も無事終了となるので、1月15日を「正月事じまい」といい、15日までを「松の内」とする地方もあります。
どんど焼きは勿論、また、秋田のなど、「なまはげ」や「かまくら」など地方色豊かな行事は理解できても「左義長」は分からないという人はほとんどだと思います。
日本語って奥が広いですね。
ちなみに今日は小正月です。
大正月には門松を飾りますが、小正月には餅花(もちばな)をなどを飾ります。これは、豊作の予祝の大切の行事でした。そのため「花正月」ともいいます。
この日の朝には、小豆粥を炊いて家族の健康を祈るならわしがあり、無病息災と五穀豊穣を願い粥をいただく風習が残っています。鏡開きのお餅を入れた小豆粥をいただきます。

餅花(もちばな)
・餅や団子を小さく丸めて柳などの木の枝につけたもの。
繭玉とも呼ばれています。


今日は何の日カレンダーを見ると【今日は何の日】1月14日 、愛と希望と勇気の日・タローとジローの日。
▲やむなき事情で置き去りとなった南極観測隊のカラフト犬のタロー、ジロー
生存を確認(1959)
遠い昔、小学生の頃このニュースを知って寒い南極で一体何を食べて生きていたのだろう、そんな疑問を抱きながら、日本から連れって行ったこの犬たちを自慢げに思った想いがあります。
今日の新聞、西日本新聞、「春秋」にこのタロー、ジローの話と1月11日に12年振りに発売されたソニーの人工知能を備えた新型「aibo」の話も絡めて人間と動物の関係を短い文章で上手くまとめています。
記事を紹介します。
どうやって厳しい南極の1年を生き抜いてきたのか、まさに奇跡というほかはない(中略)本当によく生きていてくれた・・・。
当時の小蘭は興奮気味にこうつづっている►1959年のきょう1月14日、南極の昭和基地で〝まさかの光景〟が確認された。絶望視されていたカラフト犬の生存、国内外に喜びと感動の声が広がった►日本の南極観測は開始1年後の58年2月、悪天候で中断、観測隊員はそりを引く役目を担った15頭の犬をやむなく基地に残して帰国した。それから1年後・・・。なんと兄弟犬のタロとジロの2頭だけは元気に生き延びていた►ソニーが12年ぶりに新型、「aibo(アイボ)」の販売を始めた。まるで本物のように人の心を読み取って動く犬型のロボット。このニュースを聞いて、映画やドラマにもなった60年前の物語が頭によみがえった►古来、人は動物に支えられ、様々な苦難を乗り越えてきた。中でも犬との関係は切っても切れない。人工知能(AI)を備えた「aibo」には、人の「相棒」という意味も込められている►南極ではもう犬そりを走らせることは出来ない。20年前の1月14日、南極条約環境保護議定書が発効し、南極在来種以外の動植物の持ち込みが禁じられた。戌年のことしは、そんな歴史も振り返りたい。東京・立川市の国立極地研究所では今、タロやジロたちの足跡を改めて紹介する企画展が開かれている。
心配されていた九州の大雪は今朝の様子では何とかおさまりそうです。
朝の寒さは昨日や一昨日ほどでもありません。遠くの山を見ると山には白いものが見えますが家の周りには雪は残っているところはありません。
今日は子供たちにとって大事な大学入試センター試験の初日です。
外は快晴。
みんなにいい結果が出ますよう陰ながら応援しています。
青春まっしぐら頑張れ!
最強寒波 九州に襲来 各地で積雪・・・今日の西日本新聞の1面見出しである。
その記事のすぐ下にこんな記事も・・・九州では滅多に見られない記事である。