2018年01月27日
5世紀の南九州大和政権とつながり証明
25日(水)の西日本新聞に大隅に五世紀末の短甲という見出しがあり中身を読んでみるとこの短甲の発見が大和政権とのつながりを証明するような内容であった。
5世紀末といえば527年に起きた磐井の乱よりずっと前の話である。九州における大和政権の地盤もしっかりと固まっていない時代だと思われるが、南九州の方では既にヤマトの影響が強かったことが一層はっきりしたと言う様な記事です。
現地説明を27日の午前10時半と午後1時半から志布志市教育委員会文化財管理室が行う様です。


たんこう【短甲】
古墳時代から奈良時代にかけて使われた鎧よろい。鉄板を革紐や鋲びようで綴じて作ったもので、胴体をおおうだけの丈の短いもの。
楽しぶし ~先人たちが築いた歴史や文化を探訪~
第九話 原田の古墳より
有明町原田東下の近く、茶畑の真 ん中に雑木が生い茂るこんもりとし た丘を見ることが出来ます。この丘 のように見えるものは、市指定文化 財「原 田古墳」と呼ばれるものです。 古墳は、一般的には土を高く盛り 上げて造った古代の墓のことで、特 に日本では三世紀後半から七世紀に 至るまでの高 塚を指します。
原田古墳は上から見た形から 「円 墳」と呼ばれる高塚古墳に分 類され、その他の古墳には四角 い形の「方墳」、鍵穴の形に似た 「前方後円墳」等があります。
志布志市内には原田古墳の他、志 布志町夏井ダグリ岬の飯盛山古墳、 志布志町安楽の小牧古墳群、有明町 野神の岩 屋古墳群等が点在しており、大小含めて市内には十ヵ所余り の古墳及び古墳群が存在します。
これらの古墳の分布は、大隅半島 においては志布志湾沿岸部に拡がっ ていて、初期の大 和政権との繋がり をもっていたことが考えられます。
また、古墳が造られた時期に並行 して、志布志市内では「地下式横 穴 墓 墓 」という独特の埋葬形態の墓も有 明町蓬原や原田で確認されていま す。
「地下式横穴墓」は地表から竪穴 を掘り、その竪穴の底から横方向に 掘り進めて、玄室という遺体を置く 部屋を造る墓です。この埋葬形態は、 宮崎県平野部・内陸部、志布志湾岸 及び内陸部、川内川上流域部、熊本県人吉盆地で確認されています。
原田古墳は直径四十メートル、周 囲一二五メートル、高さ約五メート ルの大きさです。円墳としては鹿児 島県内最大の規模であり、直径四十 メートル規模の円墳は全国的にもご く稀なものです。 古墳の中腹には段をつけて盛り、 土が崩れないようにしてあります。
古墳の規模はその身分を示すもの で、規模が大きくなればなるだけ、 埋 葬者の権力を誇示することになり ます。しかし、原田古墳の埋葬者が 誰なのかは、学術的な調査がなされ ていないため、はっきりわかっておりません。 地元の言い伝えでは日本神話に登場するコノハナサクヤヒメの墓と言 われています。
この原田古墳から西に一キロメー トルほど行くと本宮橋があり、その 橋の近くにコノハナサクヤヒメを祭 神とする妻 つま ・(都萬) 神 社の旧 宮(もとみや)があっ たとされ、天文九年(一五四〇)大 崎町上町に遷 座(移転すること)さ れたと『三 国名勝図会』に記録され ています。現在でも旧宮があったと ころを「元 宮」と呼んでいます。
この旧宮は地元の人たちに大事に されていたらしく、都萬神社に残る 棟札の裏に、鳥居などの造立にあた り「原田中氏人皆加志」とあり、原 田地区内の十一門( かど) 全員が協力したと 記録されています。
●地元に大事にされたコノハナサ クヤヒメを祭神とする妻神社が、 旧宮近くの大きな墳丘をもつ原田 古墳を、コノハナサクヤヒメの墓 として祀 まつ り、神社遷座後も、語り 継がれたことは地元の人々にとっ ての地域のシンボルだったのかも しれません。
5世紀末といえば527年に起きた磐井の乱よりずっと前の話である。九州における大和政権の地盤もしっかりと固まっていない時代だと思われるが、南九州の方では既にヤマトの影響が強かったことが一層はっきりしたと言う様な記事です。
現地説明を27日の午前10時半と午後1時半から志布志市教育委員会文化財管理室が行う様です。
たんこう【短甲】
古墳時代から奈良時代にかけて使われた鎧よろい。鉄板を革紐や鋲びようで綴じて作ったもので、胴体をおおうだけの丈の短いもの。
楽しぶし ~先人たちが築いた歴史や文化を探訪~
第九話 原田の古墳より
有明町原田東下の近く、茶畑の真 ん中に雑木が生い茂るこんもりとし た丘を見ることが出来ます。この丘 のように見えるものは、市指定文化 財「原 田古墳」と呼ばれるものです。 古墳は、一般的には土を高く盛り 上げて造った古代の墓のことで、特 に日本では三世紀後半から七世紀に 至るまでの高 塚を指します。
原田古墳は上から見た形から 「円 墳」と呼ばれる高塚古墳に分 類され、その他の古墳には四角 い形の「方墳」、鍵穴の形に似た 「前方後円墳」等があります。
志布志市内には原田古墳の他、志 布志町夏井ダグリ岬の飯盛山古墳、 志布志町安楽の小牧古墳群、有明町 野神の岩 屋古墳群等が点在しており、大小含めて市内には十ヵ所余り の古墳及び古墳群が存在します。
これらの古墳の分布は、大隅半島 においては志布志湾沿岸部に拡がっ ていて、初期の大 和政権との繋がり をもっていたことが考えられます。
また、古墳が造られた時期に並行 して、志布志市内では「地下式横 穴 墓 墓 」という独特の埋葬形態の墓も有 明町蓬原や原田で確認されていま す。
「地下式横穴墓」は地表から竪穴 を掘り、その竪穴の底から横方向に 掘り進めて、玄室という遺体を置く 部屋を造る墓です。この埋葬形態は、 宮崎県平野部・内陸部、志布志湾岸 及び内陸部、川内川上流域部、熊本県人吉盆地で確認されています。
原田古墳は直径四十メートル、周 囲一二五メートル、高さ約五メート ルの大きさです。円墳としては鹿児 島県内最大の規模であり、直径四十 メートル規模の円墳は全国的にもご く稀なものです。 古墳の中腹には段をつけて盛り、 土が崩れないようにしてあります。
古墳の規模はその身分を示すもの で、規模が大きくなればなるだけ、 埋 葬者の権力を誇示することになり ます。しかし、原田古墳の埋葬者が 誰なのかは、学術的な調査がなされ ていないため、はっきりわかっておりません。 地元の言い伝えでは日本神話に登場するコノハナサクヤヒメの墓と言 われています。
この原田古墳から西に一キロメー トルほど行くと本宮橋があり、その 橋の近くにコノハナサクヤヒメを祭 神とする妻 つま ・(都萬) 神 社の旧 宮(もとみや)があっ たとされ、天文九年(一五四〇)大 崎町上町に遷 座(移転すること)さ れたと『三 国名勝図会』に記録され ています。現在でも旧宮があったと ころを「元 宮」と呼んでいます。
この旧宮は地元の人たちに大事に されていたらしく、都萬神社に残る 棟札の裏に、鳥居などの造立にあた り「原田中氏人皆加志」とあり、原 田地区内の十一門( かど) 全員が協力したと 記録されています。
●地元に大事にされたコノハナサ クヤヒメを祭神とする妻神社が、 旧宮近くの大きな墳丘をもつ原田 古墳を、コノハナサクヤヒメの墓 として祀 まつ り、神社遷座後も、語り 継がれたことは地元の人々にとっ ての地域のシンボルだったのかも しれません。
Posted by マー君 at 07:06│Comments(0)
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