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Posted by おてもやん at

2014年02月26日

金子みすゞ⑧




詩の力  ~金子みすゞNo8 読売新聞 火曜ぷらす 2014・2・25

星とたんぽぽ

<青いお空の底ふかく、海の小石のそのように、夜がくるまで沈んでる、昼のお星は眼にみえぬ。 / 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。 / 散ってすがれたたんぽぽの、瓦のすきに、だァまって、春のくるまでかくれてる、つよいその根は眼にみえぬ。 / 見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ。>






金子みすゞの
詩を読むと
心の中の
弱い部分が
少しいたむ
時には
生きることについて
そして
時には
気づかずにいた
あたりまえのこと
気がついて
びっくりしたりする

やなせたかし

優しい心 やなせ氏と共通

京セラ(京都市)の社長、会長を歴任し、現在は顧問を務める伊藤謙介さん(76)は、「星とたんぽぽ」が「企業経営にとって最も重要なことを説いている」と語る。・・・・
・・・「数字に表れる業績ばかりを見ていたのでは、いつか経営は行き詰る。従業員の生活と心が満たされ、ものづくりを通して社会に貢献することが重要。見えないけれど確かにそこにあるもの。その大切さを、みすゞの詩は教えてくれるんです」

なんとも言えない素晴らしい解説です。  


Posted by マー君 at 05:47Comments(0)記事

2014年02月23日

宮之町の菊慈童

2月19日(水)の図書館講座が当日急遽八代市立博物館で行われました。講座の内容は博物館で現在展示している笠鉾菊慈童からわかってきた妙見祭と言う事で「ここまでわかった妙見祭~最新情報を初公開!」のお話でした。展示品を見たときに20年くらい前、仕事の関係で展示されている物を宮之町の公民館で何度も目にしたことがあります。一本の釘も使わずにバラバラの部材を町の人たちが集まって組み立てていくのです。その頃の知り合いの方は今はほとんど亡くなられていませんが、何代も何代も笠鉾の組み立ての知識と技術を子や孫に伝えて来た文化。 その頃町内の方達が心配そうに話されていた「町がどんどん小さくなるこの先どうしよう」~そんなことを思い出します。確かその頃で宮之町の人口は100人居なかったと思います。その頃から街の様子も随分様変わりしています。

家が無くなった宮之町

宮之町妙見社の前にあるガイド標識
宮之町と笠鉾「菊慈童」・・八代市ホームページより
 「宮之町」という町名は、もと妙見宮(八代神社)の門前町の一部であったことに由来すると伝えられ、町内には妙見宮の分社がまつられています。
 宮之町は、妙見祭へ笠鉾「菊慈童」(9基のうち第1番)を出しています。初めは、一人で持つ傘型の出し物を出していましたが、元文3年(1738)、「菊慈童」の人形をのせた4人持ちの笠鉾を出すようになりました。妙見宮との縁が深いことから、宮之町の笠鉾は、神幸行列の中では他の笠鉾の先頭に立ち、天候が悪くても必ず妙見宮までお供する習わしです。
 「菊慈童」は、謡曲「菊慈童」に登場する少年で、仕えていた皇帝から賜ったありがたいお経の言葉を菊の葉に書いておいたところ、菊の葉から滴る露が不老不死の薬となって、700年経っても若々しいままであったという物語です。人々の不老不死への願いを表しています。
 宮之町から出される笠鉾「菊慈童」の部材を入れた箱に記された元文3年(1738)が現存するもっとも古い年号で、文化2年(1805)から文化6年(1809)頃の制作と見られる祭礼絵巻には、現在とほぼ同じ笠鉾が描かれており、このころにはすでに今の笠鉾に近いものが出来上がっていたことがわかります。


一番手前の笠鉾の上に乗っかっているのが菊慈童です。




宮之町妙見社の右に笠鉾を収納する倉庫があります左は公民館









小西行長はキリシタン大名、領地内の神社仏閣は焼打ちにあったという記録もありますが、妙見宮はどうだったのかな?
【天正16年は1588年です】

きくじどう 【菊慈童】
周の穆王(ぼくおう)に愛された侍童(じどう)。罪を犯して南陽郡酈県(れきけん)に流され、その地で「お経」の書かれた菊の葉の露を飲んで不老不死の仙人になったと言われている。
宮之町の笠鉾に座っています。


以下 八代市立博物館のホームページより

冬季特別展覧会
笠鉾大解剖!~バラバラにして見えてきたもの~2014年2月7日(金)~3月23日(日)
【主催】八代市立博物館未来の森ミュージアム・八代市
【後援】八代妙見祭保存振興会
【協賛】八代市立博物館友の会
妙見祭の華・笠鉾を一基分まるごとバラして展示!
平成23年(2011)に国指定重要無形民俗文化財となった八代妙見祭。旧城下町を中心とした町々から出される出し物の多彩さが特徴ですが、これまで絶えることなく受け継がれてきたことが高く評価されての「無形民俗文化財」指定でした。今回の展覧会は、現在に至るまでコミュニティーの核として各町で大切に保存されてきた笠鉾にスポットをあて、なぜ今日まで受け継いでくることができたのかを考えようというものです。
毎年、妙見祭のたびに組み立て・解体をしている笠鉾。クギを使わずに組み立てる部材の数は200個から300個もあります。もともと笠鉾は簡素なつくりだったのですが、豪華になったがゆえに作り替えが困難になり、結果として江戸時代後期の姿を今に残しています。部材に記された修理の記録や町の人たちの名前。それらからは、笠鉾を保存継承するために注がれた人々の熱意が感じられます。
今回の展覧会では笠鉾一基分の部材をバラバラにしてすべて紹介します。普段決して見ることのできない笠鉾の内側に注目してください!

何にしろ、この笠鉾は素晴らしいものです博物館の展示場がいっぱいになるほどの部材が有ります。関係者以外はめったに目にする事は出来ません。祭りの時とは違った笠鉾を見る事が出来ます。是非博物館に足を運んでください。   


Posted by マー君 at 09:06Comments(0)紹介 まち歩き

2014年02月21日

文学散歩


渕上毛銭詩碑

渕上毛銭の生家・現在は他人の方が住まわれています



八代市立図書館の主催で「文学散歩」というバス旅行が2月14日にありました。図書館での文学講座を担当されておられます前山光則先生が毎年この時期に図書館の職員の方と一緒に企画をされるそうです。
今回は水俣に渕上毛銭・徳富蘇峰・徳富蘆花・石牟礼道子を尋ねて、水俣市立蘇峰記念館や徳富蘇峰・蘆花の生家、水俣市立水俣病資料館そして渕上毛銭の生家、渕上毛銭詩碑を見学し最後に水俣市立図書館でこの人たちの貴重な作品集を見せていただきました。
この中で私もこの人の事はほとんど知らなかったので、一人紹介しておきます。

渕上毛銭(ふちがみもうせん 1915・1・13~19503・9)は日本の詩人

熊本県葦北郡水俣町(現・水俣市)に生まれる。本名・喬(たかし)。東京の青山学院中学部へ進学していたが、脊髄カリエスを病んで中退・帰郷。以後、寝たきりの生活を余儀なくされる。病床で詩作を始め、「九州文学」などに作品を発表。又戦後の1946年、水俣青年文化会議を組織するなど、郷里の文化活動の発展に貢献した。1950年、35歳の若さで死去。代表作に「柱時計」など。ユーモラス、また一面スケールの大きい詩風と評される。

【柱時計】
ぼくが
死んでからでも
十二時がきたら  十二 
 鳴るのかい

苦労するなあ
まあいいや
しっかり鳴って
おくれ

【出発点】
美しい物を
信じることが、

いちばんの
早道だ。

ていねいに生きて
行くんだ。

書籍
【渕上毛銭詩集】 (石風社、1999年) 他、【日本詩人全集】 第9巻 (創元社、1953年) など


水俣市立蘇峰記念館横に立つ蘇峰像

水俣市立蘇峰記念館

徳富蘇峰の四恩人

徳富蘇峰・蘆花の生家

生家の近くに蘆花公園もあります

水俣は水俣病という大変大きな公害問題を起こした街ですが、今は全市あげて環境問題に取組み世界からも注目を浴びる都市になっています。また先にあげた著名人のほか谷川雁(詩人、評論家) 谷川健一(民俗学者、地名学者、作家) 内山安二(漫画家) 江口寿史(漫画家。水俣市の観光ガイドブックの表紙イラストや、駅貼りのポスターも手掛けている。) 森枝卓士(食文化ジャーナリスト)の方達もおられます。




  


Posted by マー君 at 16:36Comments(0)紹介 まち歩き

2014年02月20日

金子みすゞ⑦



詩の力 金子みすゞNo7 2014・2・18 読売新聞 火曜ぷらす

こころ
<お母さまは大人で大きいけれど、お母さまのおこころはちいさい。/ だって、お母さまはいいました、ちいさい私でいっぱいだって。/ 私は子供でちいさいけれど、ちいさい私のこころは大きい。/ だって、大きいお母さまで、まだいっぱいにならないで、いろんな事をおもうから。>

山口県長門市は昨年10~11月、同市の金子みすゞ記念館の開館10周年を記念し、書家・金沢翔子さんの作品を同館に展示した。タイトルは「心ーこころー展」。翔子さんが幼い頃から、みすゞの詩を読み聞かせてきた母の泰子さんは、タイトルになった詩「こころ」を展示会場で読み直した。子を思う母心と、子が持つ無限の可能性ー。この詩は、悩み抜いた自分と、書家として花開いた翔子さんのことを詠んでいるようだ。泰子さんは、そう思った。


ダウン症の女流書家 金澤翔子
母・泰子が高齢出産にあたる42歳で翔子を出産。新生児期に敗血症にかかり、後にダウン症と診断される。当初はその事実を知った泰子は我が子と共に死のうとも考えたが、夫の熱心な想いと遅咲きながらも少しずつ育っていく子の姿を見て思いとどまったという。金澤の書道は母の師事によるものから現在の作風に至っている。講演会や個展、席上揮毫(せきじょうきごう)などに金澤が出席する際には必ず泰子が同席している。271文字の般若心経を練習し、字を見て父親が誉めてくれた。趣味は、カラオケとプール。カラオケは、モーニング娘。が大好き。小池徹平の大ファンである。好きな文字は、「夢」である。

1990年、金澤が5歳の頃より書道を始める。 1995年、全日本学生書道連盟展に「花」を初出品する。 1999年、日本学生書道文化連盟展に「龍」を出品し銀賞を受賞。 2000年にも同じく日本学生書道文化連盟展に「延命十句観音経」を出品して銀賞を受賞。 2001年、日本学生書道文化連盟展に「舎利札」を出品し、学生書道としては最高位である金賞を受賞。その後、矢口養護学校に進学する。 2002年、日本学生書道文化連盟展に「觀」を出品し金賞を受賞。翌年に荒井裕司が理事を務めるステップアップアカデミー(現・翔和学園)に入学。
2004年、書家としての号「小蘭」を取得。 2005年、金澤の最初の個展である「翔子 書の世界」を銀座書廊で主催。
2006年10月、建長寺に「慈悲」を奉納。
2009年11月、建仁寺に「風神雷神」を奉納。この作品は同寺蔵の国宝「風神雷神図」の隣に展示され大きな反響を呼んだ。
2012年1月、福島県いわき市に自身初の常設館である金澤翔子美術館を開設。館長となる。
2012年のNHK大河ドラマである平清盛の題字を担当した。 ウィキペディアより
  


Posted by マー君 at 09:02Comments(0)記事

2014年02月19日

雨水とは





雨水 【うすい】・・・・季節は春へと
2月19日 頃 雨水とは、雪が雨に変わり雪解けが始まるという日で、忍び寄る春の気配に草木が蘇るという意味があります。とはいえ東日本ではまだ雪が深く、関東・東海地方にあたっては、この時期から雪が降り始めるそうです。

雨水とは?
空からふる雪が雨に変わり、氷が溶けて水になるという意味の雨水。二十四節気のひとつで、立春からさらに春の訪れを感じるようになり、昔から農耕の準備をはじめる目安とされてきました。地方によっては、この日に雛人形を飾ると良縁に恵まれるといういい伝えもあります。




雨水と三寒四温の関係?
寒い日が三日続いたあと、暖かい日が四日続き、これを繰り返しながら冬から春へと変わっていく、早春の気候を表す言葉です。もともとは、中国北部や朝鮮半島で冬によく見られる気候を表す言葉でした。








この頃に吹く春一番
春一番が吹くのも雨水の頃です。ただし本格的な春はまだ先で、大雪が降ることも。春二番、春三番と三寒四温を繰り返しながら季節は春へと向かいます。



  


Posted by マー君 at 09:28Comments(0)

2014年02月17日

日本人ルーツ




沖縄「貝塚」  日本人ルーツ通説に一石  「港川人とは別系統」補強か
四方を海に囲まれた沖縄で旧石器時代に花開いたのは、石器文化ではなく貝を利用した文化だった。沖縄県南城市のサキタリ洞遺跡で出土した「貝器」は、日本人のルーツをめぐる通説の見直しにつながるかもしれない成果だ。
人骨が残りやすいアルカリ土壌の沖縄では、国内最古の山下町第一洞人(3万2000年前)や、港川人(1万8000年前)など旧石器人の化石人骨が発見されている。酸性土壌のため人骨が出土しない本土にかわって、日本人の起源を探る手がかりになると期待され、港川人を縄文人の祖先だとする説が有力となっていた。
しかし、沖縄では旧石器が未発見で、、しかも、サキタリ洞窟でこれまで見つかった人骨や石器、押引文土器(おしびきもんどき)は本土にないタイプだった。このため、沖縄の先史人や文化は本土の旧石器・縄文時代の枠組みではとらえられないのではないか、との問題提起がなされるようになった。本土にない「貝器」の発見もそうした見方を補強するもの、とみる専門家もいる。
一方、今回の発見は謎に包まれた人々の暮らしぶりの一端を明らかにした。調査した県立博物館・美術館の山崎真治主任は記者会見で、「サンゴ礁の島である沖縄は石器に適した硬い石材に乏しいため、身近な貝を使ったのだろう」と語った。ほかに川が二のハサミが、わずか2.5×3メートルの調査範囲から数千点も出土したが、「ハサミは硬く中身も少ない。その部分だけ食べ残して捨てていたのかもしれない」とみている。洞窟が先史人の狩猟・採集のためのキャンプ地だったとも考えられるという。
門脇誠二・名古屋大博物館助教(先史考古学)は、「海の囲まれた環境にあった沖縄の人々が、その環境にうまく適応して暮らしていたことがわかる。沖縄ではその後(本土の縄文時代相当期に)石器が登場してからも貝器を並行して使っており、文化的連続性がうかがえる」と指摘した。

2014・2・16読売新聞社会面より   1面には沖縄 後石器時代の貝器 サキタリ洞遺跡 国内初出土

本土の縄文人は沖縄が源流の可能性は低いようです。これから先にいろいろ解明されるんでしょう。





  


Posted by マー君 at 08:48Comments(0)記事

2014年02月15日

神社のルーツ

週刊日本の神社から  日本の神道文化研究会主宰 三橋 健さんの記事

そもそも神社とは、いつから、どのような形で始まったのか?神話と考古学の両方の視点から読み解く。

■創建年代は不詳?
日本全土には数えきれないほど多くの神社があり、それぞれにルーツを異にしている。地域の氏神神社の由緒書には「創建年代は不詳」と記すものが少なくない。この事実は、多くの神社のルーツは、わからないほど古いことを物語っている。
わが国の神社で最古と言われる奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)は、今も本殿がなく、拝殿から三輪山(みわやま)を礼拝するという古い形を残している。「古事記」によれば、国づくりに苦慮していた出雲の大国主神の前に、海面を光り輝かして近づいてくる神が現われ、「私を大和国の東の御諸山(みもろやま)の上に祭るなら、国作りをたすけよう」といったので、大国主神は、その神を祭り、国づくりを完成させたとある。御諸山は大神神社の大物主神(おおものぬしがみ)の国づくりの時代にまでさかのぼることになる。
一方、考古学の観点からすれば、大神神社がある三輪山の麓には、26カ所の祭祀遺跡が確認されており、なかでも拝殿奥の禁足地の周辺、大宮川の北岸、三輪山山中の山ノ神遺跡などから銅製の鏡、水晶製の勾玉(まがたま)、須恵器などが出土しており、これらの史料から、すでに4世紀には三輪山を神として礼拝していたことが推定されている。なかでも最も古い山ノ神遺跡は、巨岩を中心とした磐座祭祀(いわくらさいし)が行われていたとされる。このように神の鎮まる聖なる山(神奈備・かんなび・身体山・しんたいざん)、神の御座所である岩石(磐座・いわくら)、あるいは神聖な河川などを祭る場所、そこに神社のルーツがあり、それは4世紀(古墳時代前期)のことである。


大鳥居から眺める大神神社の神体山・(三輪山)


奈良に行ったときには是非寄ってみましょう。
  


Posted by マー君 at 11:57Comments(0)記事

2014年02月12日

金子みすゞ⑥


みそはぎの花
読売新聞 火曜ぷらす2/11 みすゞの詩です

詩の力~金子みすゞNo6
みそはぎ
<ながれの岸のみそはぎは、誰も知らないはなでした。 / ながれの水ははるばると、とおくの海へゆきました。 / 大きな、大きな、大海で、小さな、小さな、一しずく、 / 誰も、知らないみそはぎを、いつもおもって居りました。 / それは、さみしいみそはぎの、花からこぼれた露でした。>

今回は山口市で診療所を営む医師、末永和之さん(66)が患者さんに金子みすゞの詩を通じて「命との向き合い方」を処方するというお話が記事になっています。「流れた露は、一滴ずつが輝いている。最後は天にのぼり、また地上に降りる。そうして、命はつながっているのです」聴診器を手にこんなお話をするそうです。・・

みすゞの詩って、どうしてこんなにやさしくってあたたかく感じるんでしょうか。



みそはぎ・禊萩(多年草)
湿地や田の畔などに生え、また栽培される。日本および朝鮮半島に分布。茎の断面は四角い。葉は長さ数センチで細長く、対生で交互に直角の方向に出る。お盆のころ紅紫色6弁の小さい花を先端部の葉腋に多数つける。

盆花としてよく使われ、ボンバナ、ショウリョウバナ(精霊花)などの名もある。ミソハギの和名の由来はハギに似て禊(みそぎ)に使ったことから禊萩、または溝に生えることから溝萩によるといわれる。

近縁のエゾミソハギとも、千屈菜(せんくつさい)と呼ばれて下痢止めなどの民間薬とされ、また国・地方によっては食用にされる。千屈菜(みそはぎ)は秋の季語。
  


Posted by マー君 at 17:55Comments(0)記事

2014年02月11日

今日は何の日?


なんじゃこりゃ?  日本の夜明け?



2月11日は「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として、1966年に「建国記念の日」に定められました。
神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)は、初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年(紀元)とする、日本の紀年法である。

■建国を記念する日

神武天皇が即位した日を日本の建国された日として祝うこと(紀元節〔きげんせつ〕)は、戦後占領軍の意向で祝日ではなくなりました。しかしその後、紀元節を復活させようという動きが高まり、反対する動きを抑え建国を記念するための祝日を設けることとなりました。その際「紀元節」から「建国記念の日」に改正されました。そして、1966年に国民の祝日に認められ、翌年から適用されました。
「建国記念の日」が「建国記念日」ではないのは、史実に基づく建国の日とは関係なく、建国されたという事実そのものを記念する日だからだと言います。

■紀元節から記念日へ

日本の起源を祝日にしようという動きは、明治時代、神武天皇(初代天皇)即位の初日を日本の紀元(歴史が始まる最初の日)としたことから始まります。この、日本の紀元の日を「紀元節」といいます。紀元節は全国の神社で「紀元節祭」と呼ばれ祭事が催されていたほか、庶民の間でも「建国祭」として祭典が行われていました。しかし戦後になり「紀元節を認めることにより、天皇を中心とする日本人の団結力が高まり、再び米国の脅威となるのではないか」というGHQの意向で、紀元節は廃止されました。しかしその後テレビ局が行ったアンケート調査により、全国民の80%以上の人が「建国を記念する日」を望んでいるということがわかりました。その結果、1966年になり建国記念の日に関する提案が承認され、翌年1967年から適用されることとなりました。建国記念の日が成立するまでには「日本の正確な起源などわかっていないのに建国記念など定められない」など専門家による多くの議論があったようです。

■建国は神話の中に

建国記念の日は特別な行事は特にありません。ですので、この休日に日本の歴史を勉強してみることも面白いかもしれません。
日本書記では、日本国を統一したカムヤマトイワレビコノミコトとは、初代天皇になった神武天皇であると書かれています。イワレビノミコト(神武天皇?)は、現在の建国記念の日にあたる、辛酉元旦(かのととりがんたん・現在の暦に直すと紀元前660年2月11日)に、大和の橿原〔かしはら〕の宮で即位したとされ、そこから2月11日を「建国記念の日」に定めたという説もあります。しかし、歴史学上では神武天皇は実在の人物ではなく「神話」として位置づけられているようです。

という訳で今日は日本の国が出来た日です。・・・本当かな?
  


Posted by マー君 at 08:53Comments(0)

2014年02月09日

年寄りのひまつぶし②

週刊「日本の神社」という本が創刊号で290円で発売されています。初回本は「出雲大社」です。神社は古くから存在するにもかかわらず、その歴史を紐解くには非常に厄介で難しいとされています。そんな神社の事を私達素人にわかりやすく解説しているのがこの本です。たとえば神社の基礎知識として神社のルーツは?・・・そもそも神社とは、いつから、どのような形で始まったのか?神話と考古学の両方の視点から読み解く。こんな頁もあり興味をそそられます。本屋さんで立ち読みされても少し賢くなりますよ。 2/10

【古代出雲】


銅鐸の分布
従来、一箇所から出土した銅鐸の数としては、滋賀県野洲町大岩山遺跡のものが最多であった。しかし出雲の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸は、今のところ一カ所からの出土数としては全国最多である。全国で約470個出土している銅鐸のうち、合計50個もの銅鐸が出雲から出土している。これは古代出雲の解明に大きな手がかりとなった。和歌山県も全国的に銅鐸発見例の多い地域であり、現在20数ケ所の出土地を見ることができる。他に多い出土地として摂津などもあるが、以下の表をよく眺めていると、出雲を除けば、四国から紀伊半島を抜け、滋賀から濃尾平野を通ったあたりまでに色濃く分布しているのが見て取れる。その他は殆ど1,2個の出土である。
全国の個別銅鐸出土数・・出雲ー50 摂津ー34 淡路ー15 河内ー18 大和ー19 紀伊ー38 讃岐ー20 阿波ー41 近江ー30 三河ー28
遠江ー29 その他ー135 [計463]

銅鐸の終焉
銅鐸は大きな鐘のような形状をしており、祭祀器具の一種であったと考えられている。弥生時代を特徴づける青銅器で、おそらく農耕祭祀に用いられたものと思われるが、その出土地は、ムラや墓地とは離れた丘陵の斜面などが多い。ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。そのため祭祀遺跡という見方に疑問を唱える人も少なくない。「普段は土中に埋めておき、祭りの時だけ掘り出して使用し、祭りが廃止されると共に土中に置き去りにされた」という説や、「集落で何か一大事が起きた時、厄よけの祭りを行い、わざと集落から離れた場所へ銅鐸を埋納した。」という説、「外部勢力による征服が行われ、銅鐸祭祀を早急に廃止し、銅鐸を山中に一斉に埋めなければならないような事情が生じた。」などという説が唱えられているが、勿論どの意見も確証は無い。畿内の銅鐸は、2,3世紀の弥生文化の隆盛時にもっとも盛大となり、そして古墳時代の幕開けと同時に、突然その習慣を絶っているのである。 また、我が国の最古の史書である記紀には、銅鐸についての記事は全く登場しない。弥生時代に近畿地方であれほど隆盛を極めるのであるから、もし銅鐸を信奉していた人々がそのまま古墳時代を通じても近畿に居続け、やがて大和朝廷へ繋がるのだとすれば、記紀に全く記載がないのは奇異である。古伝承もない。これは一体何を意味しているのでしょうか?
この、記紀に銅鐸の記載がないという事実は、記紀が銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内の事についての記録ではないようにも思える。ひいては、銅鐸をもつ大和の先住民が、3世紀後半に九州からきた神武天皇に象徴される一群によって減ぼされたのであろうとする考えを生む。「続日本紀」に、713年大和の長岡野で銅鐸が発見された時、人々はこれをあやしみ、「その制(形)は、常と異なる」と記録されている。これは、当時大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなかったことを示しており、上記解釈をうらづけるものといえる。もし銅鐸信奉民族が、そのまま近畿で一大勢力となり、倭国統一の礎となったのならば、むしろ、国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを温存させてよいように思われる。(安本美典氏)。
西欧・中国等では段階を経て発展する金属器文化だが、日本には弥生時代殆ど同時期に青銅器、鉄器文化が流入する。当初は北九州に、やがて環日本海、中国四国、近畿地方へと広がっていく。多くの遺跡から鉄鏃(てつぞく)・銅鏃(どうぞく)他が発見されているが、近畿地方を中心に分布する銅鐸は、最近まで近畿地方独特の青銅器と考えられていたが、最近の発掘で北九州でも多くの銅鐸の鋳型が出土した事もあって、銅鐸もその端緒は北九州であった事が確定的となった。又銅矛は北九州独特の青銅器とされ、これらの文化圏は異なる民族の所作とされていたが、出雲ではそれが両方一緒に出土した。北九州と近畿地方との大きな二つの勢力と交流があった事を示している。

最近の研究成果では、これらの金属器文化については出雲は相当古くから独自に発展してきたと考える研究者も多い。従来、山陰の金属器は大和から流出したものとの見方が一般的であったが、私(この作者)の見解では逆である。北九州にその萌芽を見た金属器製造技術は、出雲で発展しやがて「出雲王国」の畿内進出に伴って大和を中心とする近畿地方にももたらされた。盛んに銅鐸・銅鏡等が製造され、その技術は瞬く間に東海地方辺りにまで広まったが、その勢力はやがて新しい勢力に取って代わられる。この勢力こそ、「邪馬台国=高天原=北九州の原渡来人達」であろう。彼らは奈良に居を構え周辺部族を傘下におき、やがて、今日古墳時代と呼ばれる200年あまりの年月で日本を一応統一してしまう。これらの事跡が「神武東征」以後の数々の神話として今日に伝わったのだと考えたい。・・(作者の推測)

日本経済新聞 1996年10月18日(金)
加茂岩倉遺跡の銅鐸 製造技術高い <橿原考古学研究所>
奈良県立橿原考古学研究所の久野雄一郎・指導研究員(66)が17日、過去最多の銅鐸が発見された島根県加茂町の「加茂岩倉遺跡」を視察、「銅鐸の製造技術が極めて高い」と分析し、弥生時代の銅鐸文化について、「出雲で製造され近畿に渡ったと思う」との見方を明らかにした。久野研究員は、冶金技術の専門家で、町営ホール内の臨時保管所に置かれた27個の銅鐸と、出土現場を視察。発見された銅鐸の冶金技術について「つくりがいい。大きいのに銅鐸本体の厚さが2~3ミリしかなく、線もシャープで技術的にピカ一」と感想を述べた。製造場所については、「出雲地方にいた人間が作ったと思う」と話した。















1983(昭和58)年4月12日一片の土器からはじまった遺跡の発見
出雲市斐川町神庭西谷
このあたりの広域農道の建設にともなう遺跡分布調査を行ったところ、調査員の一人が田んぼの畦で古墳時代の須恵器の破片を拾いました。
この谷の南側に「三宝荒神」が祀られていることから、遺跡名を「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」と命名し、本格的な発掘調査が行われました。
そして発掘調査が始まった1984年に銅剣358本、翌年の1985年にはそこから7mほど離れた地点で銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が出土し、これらは全て1998年に「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されました。
それまでの銅剣の出土総数は全国において約300本、それを一ヶ所で上回った荒神谷遺跡は当時の日本古代史学・考古学界を大きく揺るがす大発見でした。










358本の銅剣
遺跡の場所は『出雲国風土記』にある神名火山(かんなびやま)に比定される仏経山(ぶっきょうざん)から北東3kmのところにあります。
標高22m、小さな谷間の南向きの斜面中腹に上下二段の加工段が作られており、その下段の方に358本の銅剣が刃を起こした状態で4列に整然と並べた形で埋められていました。
銅剣は約2200年前の弥生時代前期に朝鮮半島より武器として伝わってきたといわれており、銅に少量のすずや鉛などをまぜた合金で、作られたときは金色の輝きを帯びていました。 358本はいつどこでつくられたものかははっきり分かっていませんが、同じ鋳型で製造されたものが多いことから、同じ時期同じ場所で作られたものだと考えられています。

青銅器につけられた謎の刻印
出土した358本の銅剣のうち344本に「×」の印が刻まれていました。
荒神谷遺跡の発見から12年後の1996年、ここから山を隔てて3.4kmの加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)から39個という大量の銅鐸が発見されました。このうち14個に同じ「×」の刻印が見つかっており、二つの遺跡の関係性や刻印の意味などが注目されています。 ※これら銅鐸も全て国宝に指定され、加茂岩倉遺跡も国の指定史跡となっています

大量の青銅器が語るものとは人々の想像をかきたてる古代出雲の真相

銅剣が発見された翌年の1985年、銅剣が出土した地点から谷奥へ約7mの場所から銅鐸6個、銅矛16本が発見されました。
銅鐸、銅矛が同じ場所から出土したのは全国でも初めてのことで、荒神谷遺跡は再び注目を集めることとなりました。

まさに世紀の大発見といえるこれら青銅器の大量出土ですが、一体いつ、誰が、何のために埋めたのか・・・実は詳しい事はほとんど分かっていません。
それまで島根県は青銅器の出土例や遺跡などの発見もほとんどなく、考古学上それほど注目はされていませんでした。
日本最古の歴史書である「古事記」などには古代出雲の記述があり、神話の舞台としても数多く登場する地であるにもかかわらず、"出雲王国"を具体的に証明できるものがなかったため、それらは神話の域を脱する事はありませんでした。
しかしこの大量の青銅器を前に「出雲には何かがあった」と出雲王国の存在を誰もが感じ、神話は一気に現実味を帯びることになったのです。
最初に発見された一片の土器は、出雲王国繁栄の証を現世に伝えるための必然的な導きであったのでは・・・。そんなロマンさえも感じるような歴史的発見だったのです。






荒神谷史跡公園
古代ハス(正式名称:大賀ハス)2千年の時を経て毎年夏になるとたくさんの花を咲かせます。

荒神谷史跡公園は荒神谷遺跡を中心とする「出雲の原郷」の歴史景観を守り、未来へと伝えるため整備され、平成7年(1995)5月にオープンしました。
公園全体の広さは約27.5haにおよび、公園中央にある西谷池を隔て、北側に遺跡や博物館、南側にはアスレチックや古代復元住居などがあり、誰もが楽しめる複合施設になっています。
北と南それぞれに駐車場があり、遺跡や博物館へは北駐車場が便利です。
ここから公園に入るとまず右手に荒神谷博物館がお出迎え。その向こうには5000㎡の水田が広がります。
6月中旬になるとこの水田一面に約5千株、5万本のハスの花が咲き始め、公園全体に神秘的な景色が広がります。

希望があれば、ボランティアガイドさんが分かりやすい解説付きで遺跡を案内してくれます。

池を挟んで南側には、古代の生活を復元した竪穴式住居をはじめ、バーベキューサイトや木製遊具もあり、家族みんなで楽しめます

古代の小径と呼ばれる水田の脇道を進むとあたりは木々の静寂に包まれ、弥生時代の出雲に思いをはせるに十分なロケーション。その先にある遺跡では出土した時の状況がレプリカで再現され、小高い展望台から遺跡全体を俯瞰することができます。



※出土した実際の青銅器は「古代出雲歴史博物館」に展示されており、開館時に観る事ができます。

『神話のふるさと』と言われる出雲地方。
現にこの地では、神話とゆかりの深い場所が数多く存在します。
しかし、出雲では神話を裏付けるような考古学的遺跡の発見がされておらず、出雲神話は作り話という見方が主流でした。

そうしたなか1984年、358本の銅剣が発見されました。
つづいて銅鐸と銅矛の発見、1996年には39個の銅鐸。
そして2000年、出雲大社境内から13世紀半ばの出雲大社本殿を支えたと考えられる巨大な三本柱が発見されました。

これらが意味するものは何でしょうか。
ただのおとぎ話・・・と片づけられないこれらの発見は、まるで神々に与えられた謎ときであるかのようなロマンに満ちあふれています。

【古代出雲歴史博物館】
神話かそれとも実話か。
ここ古代出雲歴史博物館では、古代と現代を結ぶこれらの鍵を頼りに太古の謎に迫ります。
神々の国出雲の悠久の時を感じてください。
テーマ別展示室
展示室内は『出雲大社と神々の国のまつり』『出雲国風土記の世界』『青銅器と金色の大刀』の三つのテーマに分かれており、古代出雲を様々な切り口で紹介します。

幻の巨大神殿出雲大社の謎、古代出雲の文化や当時の人たちのくらしなど、復元模型や出雲国風土記の資料などを交えて分かりやすく展示しています。

国宝となった荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器や200本以上の銅剣の復元模型は圧巻です!
テーマ別展示室
展示室内は『出雲大社と神々の国のまつり』『出雲国風土記の世界』『青銅器と金色の大刀』の三つのテーマに分かれており、古代出雲を様々な切り口で紹介します。

幻の巨大神殿出雲大社の謎、古代出雲の文化や当時の人たちのくらしなど、復元模型や出雲国風土記の資料などを交えて分かりやすく展示しています。

国宝となった荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器や200本以上の銅剣の復元模型は圧巻です!
荒神谷遺跡
昭和58(1983)年、出雲市斐川町(当時は簸川郡斐川町)で農道建設に伴う遺跡分布調査の際、調査員が一片の土器を拾ったことで発見されました。
翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、358本もの銅剣が出土したのです。
また翌年の昭和60年には、そこからわずか7m離れたところで銅鐸6個、銅矛16本を発見。
出土したこれら青銅器は全て国宝に指定され、荒神谷遺跡は国の史跡指定となりました。

加茂岩倉遺跡
平成8(1996)年、雲南市加茂町岩倉の丘で農道の工事中、重機による掘削中に発見されました。翌平成9年の二年間にわたり発掘調査をしたところ、一カ所からの出土数としては最多となる39個の銅鐸が発見されました。
銅鐸は全て国宝に指定され、加茂岩倉遺跡は国の史跡指定となりました。

ここ加茂岩倉遺跡は先に出土した荒神谷遺跡から山を隔てて3.4kmの場所にあり、両遺跡から出土した銅鐸に同じ“×”の刻印があることから両遺跡は何らかの関係があるとされ、学術的価値の高い遺跡として今なお注目されています。

出雲大社境内遺跡
平成12年(2000)、出雲大社拝殿の北側で、巨大な3本ひと組の柱根が発掘されました。直径約1.35mの杉の柱を3本束ねた形状で、鎌倉初期の造営と推定されています。

平安時代中頃(970年)に源為憲(みなもとのためのり)が書いた貴族の子弟の教科書『口遊(くちずさみ)』には『雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)』という言葉が記されており、これは当時の建物の高さベスト3を表現していると言われています。
1位の「雲太」とは出雲大社本殿のことで一番高く、ついで2位の「和二」は東大寺大仏殿で、3位の「京三」は京都御所の大極殿の順ということです。

現在の出雲大社本殿の高さは約24mですが、出雲大社の社伝によると古代出雲の本殿の高さは現在の4倍、96mあったといわれています。
本殿の後ろにある山(八雲山)の高さが約100m、山の頂上付近に千木(屋根の先端についている交差した二本の木)が見えたと想像すると現代でも圧倒される高さです。
また中古には現在の倍の高さ、約48mあったと伝えられています。この説は明治時代から様々な研究がなされてきました。最新の建築技術ならともかく当時の技術、しかも木材建築でそのような高さのものは不可能ではないかと、長い間幻とされていたのです。
ところがこの宇豆柱の発見で、幻は急激に現実味を帯び、具体的にその姿を現してきました。この3本の柱が上空に向かいそそり立ち、長い長い階段の果てに巨大な空中神殿が構え、その千木は天空の雲を突き出る様であったのか。多くの専門家達の想像力をかき立てるこの発見に、今なお注目が集まっています。

中国における青銅器時代に該当するのは殷(いん)・周時代である。この高度の文化は、末期に至って東方へ波及し、朝鮮半島や日本にも影響した。しかしそのころから秦(しん)、漢の鉄器文化が殺到したために、朝鮮や日本の住民は、青銅の技術は伝えられはしても、青銅器文化を展開することなく、ただちに鉄器時代に入った。


古墳時代はどんな時代?



紀元後3世紀の中頃から7世紀の中頃にかけて、日本列島では数多くの大きな墓が各地に築かれていました。その墓を古墳と言い、この時代を古墳時代と呼びます。
古墳の種類には、平面形が鍵穴形をした前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、円形の円墳(えんぷん)、四角形の方墳(ほうふん)などが代表的ですが、崖に横穴を掘って人を埋葬する横穴墓(よこあなぼ)、木や石で作った棺に人を葬り、土盛りを持たない木棺墓(もっかんぼ)や石棺墓(せっかんぼ)などもあります。
古墳の形や規模の違いには、当時の人々の上下関係が反映しています。巨大な前方後円墳にはクニを納めた王が、小さな円墳にはムラを支配する有力者が、それより低い身分の人々は墓さえ築くことが出来なかったに違いありません。古墳は沖縄と北海道をのぞく日本列島各地に築かれていますが、大形の古墳が集中する地域は現在の奈良県と大阪府であり、ここからは質量ともに豊かな副葬品が出土しています。このため、古墳時代の政治権力の中心地は奈良県を中心とした近畿地方にあったと考えられ、大和政権(やまとせいけん)または畿内政権(きないせいけん)と呼ばれています。この時代は、激動する東アジアの国際関係を背景に渡来人を受け入れながら、日本のクニづくりが進められたと考えられています。その象徴が、日本列島に展開する前方後円墳を頂点とする秩序だった社会なのです。

■話が少しづつそれていきます。九州の北部から中部にかけてそして、ここ熊本には全国の3割を占める装飾古墳と呼ばれる古墳が各地に点在しています。古代史を勉強する上でどうしても見逃してはいけない大きな史跡として古墳があります。と言う事で今古墳の勉強中です。


装飾古墳とは?

 古墳時代の社会は、それに先立つ弥生時代・縄文時代のような地域ごとの文化の違いは大してありません。しかし、九州は朝鮮半島・中国大陸文化の窓口であり、他の地域には見られない独特な文化が花開きました。その代表が石人石馬とともに、北・中部九州に展開する装飾古墳です。

装飾古墳とは、古墳の埋葬施設の石壁に、壁画や線刻、彫刻などの装飾を持つ遺跡で、墳丘を持つ古墳の他に墳丘を持たない横穴も含めます。ただし、墳丘に立てる埴輪も一種の古墳の装飾ですが、装飾古墳には含めません。また、飛鳥美人や四神像の出現で話題となった奈良県の高松塚古墳・キトラ古墳も壁画古墳と呼んで装飾古墳とは区別しています。

装飾古墳は800基余りが知られ、九州には約500基が築かれています。北・中部九州以外では、鳥取県・香川県・神奈川県などにも見られ、関東北部・東北南部の太平洋側(茨城県・福島県)にも集中します。しかし、古墳時代の中心であった近畿地方には少数しか見られません。時期は4世紀から7世紀にかけて築かれていますが、5世紀中頃~7世紀前半に属するものが大半です。




装飾古墳に描かれたもの

 描かれた装飾には、土や岩を砕いて作った絵の具で直接に岩肌に描いたもの(彩色)、鉄筆のような先のとがった道具で文様を刻んだもの(線刻)、鏨などで立体的に文様を掘り出したもの(彫刻)などの差があります。

絵の具には赤、青、緑、黒、灰、黄、白などがあり、すべて天然に存在する鉱物・土を叩き砕いて熱を加えずに用いた顔料(がんりょう)です。彩色された装飾には線刻によって文様を描いた後に、彩色で塗り分けられたものもあります(熊本県井寺古墳・佐賀県西隈古墳など)。


鉄筆で描かれたものは彩色のものに比べて数も多く広く分布しますが、何が描かれたか不明なものも多く、また古墳時代以後に描かれた落書きと判別が付かないものも多いために、注意が必要です。彫刻されたものは熊本県でしか見つかっておらず(熊本県千金甲1号墳、熊本県鍋田横穴墓群、長岩横穴簿群など)、埋葬施設が、軟質で加工しやすい阿蘇溶結凝灰岩で造られたことから生まれた装飾でしょう。

 装飾古墳で描かれる文様には、幾何学文様として円文および同心円文、三角文および連続三角文、蕨手文、双脚輪状文、直弧文、菱形文、器材をかたどった文様として靭(ゆき)、鞆(とも)、盾、大刀、弓、翳(さしば)、動物・人間をかたどった文様には人物・舟・馬・鳥・家・花文などがあります。また、ヒキガエルや四神のように大陸文化の影響を受けて描かれた文様もあります。これらの主な文様については、このデータベースの中で詳しく説明しています。

九州に分布する装飾古墳には、地域ごとに違いがあります。
福岡県の場合は、筑後川中流域、八女丘陵、筑豊、豊前の4地域に集中する地区が見られます。筑後川中流域は、西側に開口する石室の奥壁に彩色で描かれた同心円文を描く古墳が特徴で、日岡古墳、珍敷塚古墳、重定古墳など多彩です。八女丘陵では岩戸山古墳を盟主として代々、前方後円墳が築かれますが、その先駆となる石人山古墳は北部九州最古の装飾古墳です。筑豊地区は遠賀川およびその支流に分布しますが、王塚古墳や竹原古墳など著名な古墳が見られます。豊前地区では線刻で鳥や木の葉を描いた穴ヶ葉山1号墳が代表です。

熊本県では玉名から山鹿にかけての菊池川中流域地区、熊本市周辺、八代海沿岸、人吉盆地の4地区に大きく分かれます。菊池川中流域は最も装飾古墳が集中する地区で、チブサン古墳、弁慶ヶ穴古墳、鍋田横穴墓群など彩色・彫刻ともに豊かな装飾古墳が見られます。熊本市周辺では鮮やかな双脚輪状文が印象的な釜尾古墳、直弧文が美しい井寺古墳や靭を彫刻した千金甲1号墳が挙げられます。八代海沿岸では田川内1号墳や広浦古墳など彫刻による装飾を持つ古墳が特徴です。人吉盆地では、大村横穴墓群や京ヶ峰横穴墓群のように横穴の外側の壁に彫刻した文様を持つものが多いのが特徴です。

大分県では、日田盆地、玖珠盆地、宇佐平野にまとまりが見られます。日田盆地ではガランドヤ1・2号墳や日田穴観音古墳など同心円文、人物文などを彩色した古墳が見られます。玖珠盆地も日田盆地同様、玖珠鬼塚古墳など同心円文が主文様となる傾向があります。宇佐平野では一鬼手横穴墓群や加賀穴横穴墓群、貴船平横穴墓群などの彩色をもつ横穴墓群が集中しています。

佐賀県では鳥栖市周辺、佐賀市周辺、小城~多久、杵島などの4地区に集中が見られます。鳥栖市周辺は筑後川流域の装飾古墳の影響を受けて、田代太田古墳などの彩色壁画を持つ古墳が見られます。佐賀市周辺には西隈古墳など線刻と彩色を組み合わせた古墳があり、残る2地区は線刻のみの装飾古墳が主流です。

長崎県では佐賀県と接する有明海沿いと壱岐の2地区に分かれ、両者とも線刻のみの装飾ですが鯨や舟など海洋関係のテーマが目立ちます。

宮崎県では宮崎平野とえびの高原に彫刻や線刻、または朱線による装飾を持つ家形の地下式横穴墓が築かれています。

 九州の装飾古墳の分布はある中心から拡散していくのではなく、特徴的な装飾古墳が集中する地区が点在するというあり方を示しています。



装飾古墳への関心は江戸時代の地誌編纂時に遡ります。久留米藩士であった学者矢野一貞は、福岡県石人山古墳・重定古墳、熊本県鍋田横穴などが紹介されました。また、文献記録に残されなくても、民間信仰の対象としてよく知られた装飾古墳も数多くあります。明治時代以後になると京都帝国大学が装飾古墳を対象とした考古学的研究が実施され、王塚装飾古墳の発見を機に本格的な壁画調査とその報告書が刊行されました。これらが、装飾古墳の考古学的調査の開始となりました。

戦後になって、装飾古墳ブームに火をつけたのは1957年の福岡県竹原古墳の発見でしょう。それ以前から研究者や高校の考古学クラブを中心に進められてきた装飾古墳の研究が、一気に世間の注目を集めることになりました。また、次々と豊富で鮮明なカラー図版をもった概説書が発刊されたこともそれを一層加速させ、装飾古墳を訪れる人々は飛躍的に増加しました。





しかし、同時にそれは装飾古墳の保存対策の重要性をクローズアップさせました。とりわけ福岡県王塚古墳は地元住民が主体となって石室内の水の汲み出しや防水工事が施され、石炭採掘工事に対しても古墳の保存が強く訴えられることになりました。その後、王塚古墳に対しては文化庁を中心に学識経験者による保存対策研究会が結成され、九州の装飾古墳に対する保存整備事業の開始となりました。また、文化庁の委嘱を受けて、東京藝術大学の日下八光氏は装飾古墳の現状模写、復元模写を作成し、日本画による記録の重要性を広く世間に知らしめました。その後、地元教育委員会を主とした発掘調査が実施され、詳しいデータが収集されました。





さらに、桂川町立王塚装飾古墳館、筑紫野市立五郎山古墳館、熊本県立装飾古墳館などの装飾古墳レプリカを見学できる資料館があります。また、春と秋を中心に実際の装飾古墳の公開も行われており、装飾古墳の研究と活用は新しい段階に入っています。



装飾古墳の時代

 九州に装飾古墳が築かれた要因は、百済・新羅に圧迫された加耶の滅亡といった6世紀の朝鮮半島情勢と無関係ではありません。この国際的緊張に呼応して、日本でも継体・欽明朝の動乱が勃発しますが、北・中部九州全体を巻き込んだ筑紫君磐井の乱(527年(継体21))はその頂点でした。継体大王に反旗を翻した磐井は鎮圧され、その象徴だった石人・石馬は打ち壊されますが、装飾古墳が分布する範囲は磐井の乱に関連する地域と符合します。装飾古墳は、独自性を発揮した北部・中部九州の古墳時代の文化の象徴なのかもしれません。




  


Posted by マー君 at 09:38Comments(0)頭の整理

2014年02月07日

国宝青井阿蘇神社



1/29 パレアにて~国宝青井阿蘇神社と中世社寺建築~という演目で青井阿蘇神社宮司の福川義文氏による講演がありました。内容は青井阿蘇神社が国宝に指定されたいきさつとその背景を詳しくお話し頂きました。神社の話であり、その上建築の事と成れば聞いている時はわっかた様な感じでいても思い出すと、宮司さんから微に入り細にわたり神社建築のお話を聞いたにもかかわらず、ほとんど思い出せません。主要な部分だけ青井阿蘇神社のブログからひろってみました。

青井阿蘇神社(あおいあそじんじゃ)は、熊本県人吉市にある神社である。旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。地元では親しみを込めて「青井さん」と称されている。
阿蘇神社の三神を祭神とする神社。平安時代の大同元年(806年)に創建され、平成18年に創建1200年を迎えた。鎌倉時代から明治維新までの約700年に渡ってこの地を治めた相良家歴代当主の保護により、たびたび改修が行われてきた。中でも、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の五つの社殿は、相良20代長毎(ながつね)と重臣相良清兵衛(せいべえ)の発起により、慶長15年(1609年)から18年にかけて造営され、平成20年6月9日国宝に正式に指定された。

青井阿蘇神社の三柱の神々
相良氏入国より約400年前、今から1200年前の大同元年(806年)に神社が創建されました。
阿蘇の広大な原野を開拓し、その守り神として阿蘇山のふもとに鎮まる阿蘇神社の御祭神十二神のうち、三神の御分霊が、重陽の日9月9日に青井阿蘇神社に祀られたのです。
御祭神の名は、初代の天皇である神武天皇の孫にあたられる健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妃の阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、お二人の子供の國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたまのみこと)の三柱の神々です。
この開拓の守護神である阿蘇神社の神々を祀り、ご加護を受けながら人吉球磨地方の開拓が営まれ、安住の地を整えていったのではないかと思われます。
【開拓の祖を祀る阿蘇神社】
阿蘇神社の御分霊をお祀りした神社は、全国に523社が鎮座し、内訳としては熊本県に461社、大分県に32社、福岡県に7社、宮崎県に5社、長崎県に4社と九州に509社が鎮座し、青森県を北限とし本州に14社が確認されていることから、古来より開拓の神として厚い信仰が寄せられてきたことが伺えます。

国宝
 北側から南に本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門、五棟一連の御社殿は、相良20代長毎(ながつね)が江戸時代はじめの慶長15年(1609年)から18年の4ヵ年にわたり造営したものです。本殿はじめ一連の御社殿がすべて同時期のものであるということは全国的に見ても大変貴重なもので、平成20年6月9日に九州内では55年ぶり、県内では初となる国宝に指定されました。

国宝指定を受けたのは、本殿、廊、幣殿、拝殿、楼門の建造物五棟と、附(つけたり)として造営時の棟札一枚と改築の年代や内容が明記された銘札五枚。現在の社殿群は、慶長15年(1610)から同18年に4ヶ年をかけて造営されたもので、まもなく400年を迎えます。一連の社殿が同時期のものは全国でも珍しいということです。急勾配のかやぶき屋根をはじめ、随所に桃山様式をとり入れた多彩な装飾や色彩、南九州地方にみられる雲龍の彫刻が施されているのが特徴で、拝殿横に神供所を配置するL字状の配置は、球磨地方の社寺建築の規範となっています。
国宝の指定件数は全国で1,075件目。建造物では214件目。神社の指定は37件目で、昭和36年以来47年ぶり。茅葺の社寺建造物では初めて。九州内では22件目中、建造物は6件目で、昭和28年指定の長崎県大浦天主堂以来55年ぶり。神社では大分県宇佐八幡宮本殿に次いで2件目となります。

「国宝の指定基準」
重要文化財の中でも極めて優秀で、かつ文化史的に意義の深いもの
青井阿蘇神社の評価としては、
①中世球磨地方に展開した独自性の強い意匠を継承しつつ、桃山期の華やかな意匠を機敏に摂取している。
②完成度も高く、近世球磨地方における社寺造営の手本となっている。
③彫刻技法や特異な拝殿形式などは、広く南九州地方にその影響が認められる。
(文化庁プレス発表資料より抜粋)


「神社の歴史」
806年 阿蘇神社の分霊を勧請して創建
807年 尾方権之助大神惟基が初代大宮司となり青井姓に改称
1198年 相良家初代・長頼が遠江(静岡県)から下向し氏神として祭る
1472年 相良為続が雨ごい祈願で神楽などを奉納
1610年 相良長毎が本殿、幣殿、廊を造営
1611年 拝殿を造営
1613年 楼門を造営
1868年 社名を青井大明神から青井神社に改称
1872年 青井阿蘇神社に改称
1877年 西南戦争に参加した日本二番隊が戦勝祈願
1933年 旧国宝保存法に基づき本殿など旧国宝指定
1950年 文化財保護法に基づき国指定重要文化財に
1982年 球磨神楽が国選択の無形民俗文化財に
2006年 鎮座1200年祭
2008年 国宝指定

当神社は平安時代初期に阿蘇三神を祭神に創健されましたが、相良氏と阿蘇氏は南北朝内乱期や戦国時代には対立関係にあることが多く、そのためか阿蘇神社や阿蘇大宮司家との宗教上の密接な交流を示す資料は残されていません。阿蘇三神を祭るものの青井阿蘇神社自体は中世、近世を通して人吉球磨地方で独自の宗教的展開を図っていたといわれています。




本殿(ほんでん)
御扉(みとびら)は神仏習合の思想を偲ばせる真言密教の法具である「輪宝(りんぽう)」の金具、その背面には金箔地に社紋の「並び鷹の羽(ならびたかのは)」が描かれ、御扉両脇の亀甲文様をした蔀戸(しとみと)は、各部ごとに花弁(はなびら)が描かれていた痕跡があります。
また両側面の妻(つま)の部分には昇龍や降龍、瑞雲(ずいうん)や藤の彫刻が一面に施され豪華な造りとなっています。
側面、背面全体にみられる×型の桟(さん)、緑や赤で塗られた格狭間(こうざま)とよばれる文様の位置に人吉球磨の社寺建造物の特徴がうかがえます。




廊(ろう)
右左両柱には「あ・うん」の形相をした一対の龍の彫刻があり、向って右が剣を、左が梵鐘を巻き込んでいますが、このような形式は南九州の近世社寺建造物に影響を与えたとされています。





幣殿(へいでん)
本殿から向かって縦長に配置され、内部は四季折々の花鳥風月、外部は動植物の華麗な彫刻や餝(かざり)金具の装飾で彩られています。 柱を超えてつながる画題の彫刻や露(つゆ)を表現した 餝金具の手法は、当時の最先端技法をいち早く取り入れたとされています。
【内部見学可能】





拝殿(はいでん)
建造物の内部が拝殿・神楽殿(かぐらでん)・神供所(じんくしょ)の三部屋に仕切られているのが最大の特徴です。 神楽殿には天体にたとえたヤツジメとよばれるこの地方独特な舞台装飾が施され、10月8日の夕刻には国の無形民俗文化財に選択されている球磨神楽(くまかぐら)が演じられます。
【内部見学可能】




楼門(ろうもん)
高さ12メートルにおよぶ禅宗(ぜんしゅう)様式と桃山(ももやま)様式が華麗に調和した建造物です。 上層軒先の四隅にはめ込まれた陰陽一対の鬼面は人吉様式とよばれ、全国に類例がないとされています。
欄間の彫刻は、二十四孝物語(にじゅうしこうものがたり)をはじめ大陸の影響をうけたものが施され、天井には経年により彩色の剥落がみられますが、二体の龍が描かれています。




◆幣殿内外壁面彫刻
 本殿はじめ一連の御社殿は慶長15年(1610年)から18年までの4ヵ年をかけて造営されたものです。幣殿の上部には青・緑・赤で色塗られた格狭間(こうざま)と呼ばれる模様があります。本来格狭間は仏像や厨子を安置する須弥壇の基壇部分に用いられる様式で、仏教の聖地である須弥山を摸したものですが、建物の上部に設えてあるものは他では見ることができないこの地方独特のものです。
 本殿側の幣殿外壁は下絵の墨を入れただけで、彫刻も施さず色付けもせず400年たったいまでも未完成の状態です。完成させてしまえばあとは朽ちゆくとの観点から、故意にこの一部分を残したものと考えられます。



◆黒塗りで急な勾配が見事な茅葺き屋根 桃山様式
 御社殿すべてが黒を基調に漆塗り、細部の木組みに赤漆を塗り、彫刻や模様は極彩色を用いるとともに各所に装飾が施され一般に桃山様式と呼ばれる技法で建てられています。
 なんといっても屋根の棟が高く勾配が急な萱葺き屋根が一番の特徴で、青井阿蘇神社をはじめ、人吉球磨地方にはこのような歴史的建築物が数多く残されています。




◆文化財の宝庫 人吉球磨地方の建造物
 人吉球磨地方は、熊本県の文化財の約3分の2を有する文化財の宝庫で、「国指定重要文化財建造物」については県内23件のうち13件を占め全国的に稀にみる地域といわれています。
これは、相良氏が室町から江戸時代にかけて数多くの社寺を建設したこと、さらに、700年という長い間、藩主一族が変わらなかったという特異な地域性と無関係ではありません。
 昭和31年には全面復元解体修理が文化庁の監督のもと行われ、400年前の姿を現在に伝えています。


  


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2014年02月04日

金子みすゞ⑤

詩の力~金子みすゞNo5 美しい命の響き

大漁

<朝焼小焼だ大漁だ大羽鰮(おおばいわし)の大漁だ。 / 浜はまつりのようだけど海のなかでは / 何万の鰮のとむらいするだろう。>

「人はここまで優しくなり、ここまで見つめることができるのか」。大量に沸く早朝の漁村で、捕えられた魚たちに目を向け、陸と海を対置させる。中島さんはこの短い詩と出会った時、強烈な衝撃を受けた。・・・「みすゞの詩の風景は、人が本来持っている心を思い出させてくれるから」

力強く泳ぐ無数のイワシ。その中で少女が悲しそうに群れを見つめている。金子みすゞの詩「大漁」を題材に、佐賀県唐津市出身の画家、中島潔さん(70)が描き、京都・清水寺に奉納したふすま8枚分の大作だ。


【襖絵の一部です】


生命への慈しみを描く・・今日の読売(2/4)火曜ぷらすはこんな見出しで始まっています。長門市のイラストレーター尾崎真吾さん(69)の記事もあります・・「みすゞの見た風景を追い求めよう」。全512編の詩のうち170編以上をイラストにし、長門市の観光パンフレットなどに掲載した。「死ぬまでに、すべての詩を描く。それが私の使命」。そう心に決め、筆を走らせる。・・・いろいろな人に感動を与え続けるみすゞの詩・・素晴らしいと思いませんか。
山口県長門市ホームページ(尾崎真吾のみすゞギャラリー)も覗いて見てくださいみすゞの詩とイラストを見る事が出来ます。

ここからはつい先ほどのブログ



「立春大吉」で厄祓い

立春の早朝、禅寺では厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。この文字は、縦書きすると左右対称になり表から見ても、裏から見ても、 立春大吉と読むことが出来ます一年間災難にあわないというおまじないです。・・「鬼が玄関に立春大吉のお札が貼ってある家に入ってから ふと振り返ると、 同じように立春大吉と書いてあるお札が目にとまります。
(裏から見ている)
鬼は、この家にはまだ入っていなかった。と思い込み、逆戻りして出て行ってしまいます。」というわけで(?)
立春大吉のお札を貼っていると
1年間を平穏無事に過ごすことが出来る。と言われています。




今年の立春は2月4日(今日)です、節分の次の日が立春です。

立春とは?

旧暦(明治6年までの暦)では、二十四節気の始まりの節とされています。
古来は自然の景色の移り変わりから、季節を表す「自然暦」が使用されていましたが、飛鳥時代に伝わった中国の暦にならうようになりました。
旧暦では立春から新しい年が始まるとされていて少しズレはありますが正月と重なる時期のため、現在でも挨拶として「新春」「迎春」などの春を表す表現が使われています。

暦の上では、この日から春は始まり、立夏の前日までが「春」とされます。
現在の暦上の春は、3月から5月までになります。
立春の前日の「節分」は、冬と春の境目(節目)であるとされていて、立春を基準に数える茶摘の「八十八夜」や、台風の多い頃の「二百十日」などがよく知られています。
このように、農作業で大切な節目となる日も、全て立春から数えられているのです。




みんなでいい年にしましょ。

  


Posted by マー君 at 11:34Comments(0)記事

2014年02月04日

立春大吉



「立春大吉」で厄祓い

立春の早朝、禅寺では厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。この文字は、縦書きすると左右対称になり表から見ても、裏から見ても、 立春大吉と読むことが出来ます一年間災難にあわないというおまじないです。・・「鬼が玄関に立春大吉のお札が貼ってある家に入ってから ふと振り返ると、 同じように立春大吉と書いてあるお札が目にとまります。
(裏から見ている)
鬼は、この家にはまだ入っていなかった。と思い込み、逆戻りして出て行ってしまいます。」というわけで(?)
立春大吉のお札を貼っていると
1年間を平穏無事に過ごすことが出来る。と言われています。




今年の立春は2月4日です、節分の次の日が立春です。

立春とは?

旧暦(明治6年までの暦)では、二十四節気の始まりの節とされています。
古来は自然の景色の移り変わりから、季節を表す「自然暦」が使用されていましたが、飛鳥時代に伝わった中国の暦にならうようになりました。
旧暦では立春から新しい年が始まるとされていて少しズレはありますが正月と重なる時期のため、現在でも挨拶として「新春」「迎春」などの春を表す表現が使われています。

暦の上では、この日から春は始まり、立夏の前日までが「春」とされます。
現在の暦上の春は、3月から5月までになります。
立春の前日の「節分」は、冬と春の境目(節目)であるとされていて、立春を基準に数える茶摘の「八十八夜」や、台風の多い頃の「二百十日」などがよく知られています。
このように、農作業で大切な節目となる日も、全て立春から数えられているのです。




みんなでいい年にしましょ。

  


Posted by マー君 at 10:36Comments(0)季節

2014年02月03日

節分とは



節分 ・・立春の前日のこと 2月3日です。節分という言葉は、「季節を分ける」という意味が含まれています。言い換えれば、「季節の変わり目」という意味になります。ですから、本当は春、夏、秋、冬どの季節にも、節分はあるのです。節分は、季節の変わり目毎にあるのですが、 季節の分かれ目とは、立春、立夏、立秋、立冬の事です。その前日が、節分と呼ばれているのですが、 季節は、「春夏秋冬」と書くように、一年の始まりは「春」になります。その春の始まりが、立春です。立春の前日、2月3日が節分として、メジャーになったのです。
一年の最初、お正月に送る年賀状にも、「新春」とか「迎春」と書きますよね。一年のうち、もっとも大事なのが「春」だというのは分かったと思います。その「春」が始まる前日、新しい一年が始まる前日に、「これから始まる、新しい一年が、不幸や災いが無い一年になりますように」との願いを込めて、一年に一度、節分をこの時期に行うのです。今でも、大晦日には「大掃除」をしますよね。 大掃除も、旧年中の埃や汚れ、言い方を変えると邪気など悪いものをなくし、 綺麗な体で、新しい年を迎えるという意味もあるのです。豆まきもそれと同じ意味でしょう。

節分に何故豆まきをするのか・・
昔、京都に鬼が出て、みんなを困らせていました。その時に、神様からのお告げで、豆を鬼の目に投げて、退治したという話があります。「鬼=魔」 「魔(ま)を滅(め)っする」という言葉から、
その年が無病息災で過ごせるようにと、豆を撒くようになりました。 豆は「煎った大豆」でなければなりません。これは、なぜかというと生の豆は、そこから芽が出てきます。 「魔」から目が出てくるということで、大変、縁起が悪いとされています。豆についての、豆知識です。


節分いわし

節分の習慣自体は中国から伝わったものとされていますが「鰯(いわし)の頭を柊(ひいらぎ)の枝に刺したものを玄関に飾る」という節分いわしの風習は近年になってからのもののようです。
主に西日本では鰯を食べる習慣がありますが、これは節分いわしに由来しています。節分いわしは鰯を焼くと出る激しい煙と臭いで邪気を追い払い、そして柊の針で鬼の眼を刺すという魔よけの意味があります。
また鰯にはDHAやカルシウムなど栄養が豊富なので、その鰯を節分に食べることで健康や無病を願うという意味合いもあるのかもしれませんね。






恵方巻き(えほうまき)は、節分に食べると縁起が良いとされる「太巻き(巻き寿司)」や、その太巻きを食べる行為で大阪地方を中心として行われている習慣。恵方巻の名称は1998年(平成10年)にセブン-イレブンが全国発売にあたり、商品名に採用したことによるとされている。それ以前は「丸かぶり寿司」などと呼ばれており「恵方巻き」と呼ばれていたという文献等は見つかっていない。
恵方巻は、太巻き(巻き寿司)を節分の夜にその年の恵方に向かって無言で、願い事を思い浮かべながら太巻きを丸かじり(丸かぶり)するのが習わしとされている。太巻きには7種類の具材を使うとされ、その数字は商売繁盛や無病息災を願って七福神に因んだもので福を巻き込むと意味付けされる。

2014年の恵方は、東北東(とうほくとう)。

















  


Posted by マー君 at 09:56Comments(0)季節

2014年02月03日

立春




立春は、冬至と春分の間の2月4日頃に当たります。また、この日から雨水(2月19日頃)までの期間を立春と呼ぶこともあります。立春は冬と春の分かれる節目の日である「節分」の翌日で「寒さがあけて春に入る日」いわば春の初日です。

「立春大吉」で厄祓い
立春の早朝、禅寺では厄除けのために門に「立春大吉」と書いた紙を貼る習慣があります。この文字は、縦書きすると左右対称になり表から見ても、裏から見ても、 立春大吉と読むことが出来ます一年間災難にあわないというおまじないです。・・「鬼が玄関に立春大吉のお札が貼ってある家に入ってから ふと振り返ると、 同じように立春大吉と書いてあるお札が目にとまります。
(裏から見ている)
鬼は、この家にはまだ入っていなかった。と思い込み、逆戻りして出て行ってしまいます。」というわけで(?)
立春大吉のお札を貼っていると
1年間を平穏無事に過ごすことが出来る。と言われています。

また、立春以降に初めて吹く南よりの強風を春一番〔はるいちばん〕と呼びます。  


Posted by マー君 at 09:53Comments(0)

2014年02月01日

如月




如月 【キサラギ】 陰暦2月の異称 じょ‐げつ 【如月】 陰暦2月の異称。きさらぎ・・・・辞書には2月の事をこの様に載せています。
二月。寒さのため、衣を重ねるところから、衣更着(きさらぎ)。
日本では旧暦2月を如月(きさらぎ、絹更月、衣更月と綴ることもある)と呼び、現在では新暦2月の別名としても用いる。「如月」は中国での二月の異称をそのまま使ったもので、日本の「きさらぎ」という名称とは関係がない。「きさらぎ」という名前の由来には諸説ある。
●旧暦二月でもまだ寒さが残っているので、衣(きぬ)を更に着る月であるから「衣更着(きさらぎ)」
●草木の芽が張り出す月であるから「草木張月(くさきはりづき)」
●前年の旧暦八月に雁が来て、更に燕が来る頃であるから「来更来(きさらぎ)」 旧暦八月に雁、諸説の 意味が良く解らない?
●陽気が更に来る月であるから「気更来(きさらぎ)」 陽気が更に来るこれも意味不明?

勉強不足なのかな・・・


陰暦月名の異称の一般的な語源説

1月:睦月(むつき)
睦(むつ)び月。身分の上下なく、老若男女、親族一同が集まって睦びあう月。

2月:如月(きさらぎ)
衣(き)更(さら)着。衣類をさらに着る月。

3月:弥生(やよい)
弥(いや)生(おい)。草木がいよいよ生い茂る月。

4月:卯月(うづき)
卯の花の咲く月。

5月:皐月(さつき)
早苗(さなえ)月。苗代から田へ定植する早苗の月。

6月:水無月(みなづき)
水(み)な月;水の月。「な」は現代語の「の」。

7月:文月(ふみづき;ふづき)
穂含(ふ)み月。稲が穂を含む月。

8月:葉月(はづき)
葉落ち月。木の葉が色づいて落ちる月。

9月:長月(ながつき)
夜長月。秋の夜長の月。

10月:神無月(かみなづき;かんなづき)
神(かみ)な月。神の月。八百万の神々が出雲大社に集い国を留守にする月。恵比寿神は留守番に残るとか。出雲では神有月というらしい。

11月:霜月(しもつき)
霜降り月;霜が降りる月。

12月:師走(しわす)
年末で師も走るほど忙しい月。
  


Posted by マー君 at 15:17Comments(0)