2014年02月09日

年寄りのひまつぶし②

週刊「日本の神社」という本が創刊号で290円で発売されています。初回本は「出雲大社」です。神社は古くから存在するにもかかわらず、その歴史を紐解くには非常に厄介で難しいとされています。そんな神社の事を私達素人にわかりやすく解説しているのがこの本です。たとえば神社の基礎知識として神社のルーツは?・・・そもそも神社とは、いつから、どのような形で始まったのか?神話と考古学の両方の視点から読み解く。こんな頁もあり興味をそそられます。本屋さんで立ち読みされても少し賢くなりますよ。 2/10

【古代出雲】
年寄りのひまつぶし②

銅鐸の分布
従来、一箇所から出土した銅鐸の数としては、滋賀県野洲町大岩山遺跡のものが最多であった。しかし出雲の加茂岩倉遺跡から出土した39個の銅鐸は、今のところ一カ所からの出土数としては全国最多である。全国で約470個出土している銅鐸のうち、合計50個もの銅鐸が出雲から出土している。これは古代出雲の解明に大きな手がかりとなった。和歌山県も全国的に銅鐸発見例の多い地域であり、現在20数ケ所の出土地を見ることができる。他に多い出土地として摂津などもあるが、以下の表をよく眺めていると、出雲を除けば、四国から紀伊半島を抜け、滋賀から濃尾平野を通ったあたりまでに色濃く分布しているのが見て取れる。その他は殆ど1,2個の出土である。
全国の個別銅鐸出土数・・出雲ー50 摂津ー34 淡路ー15 河内ー18 大和ー19 紀伊ー38 讃岐ー20 阿波ー41 近江ー30 三河ー28
遠江ー29 その他ー135 [計463]

銅鐸の終焉
銅鐸は大きな鐘のような形状をしており、祭祀器具の一種であったと考えられている。弥生時代を特徴づける青銅器で、おそらく農耕祭祀に用いられたものと思われるが、その出土地は、ムラや墓地とは離れた丘陵の斜面などが多い。ほとんどの場合、居住地から離れた地点に意識的に埋められた状態で発見される。そのため祭祀遺跡という見方に疑問を唱える人も少なくない。「普段は土中に埋めておき、祭りの時だけ掘り出して使用し、祭りが廃止されると共に土中に置き去りにされた」という説や、「集落で何か一大事が起きた時、厄よけの祭りを行い、わざと集落から離れた場所へ銅鐸を埋納した。」という説、「外部勢力による征服が行われ、銅鐸祭祀を早急に廃止し、銅鐸を山中に一斉に埋めなければならないような事情が生じた。」などという説が唱えられているが、勿論どの意見も確証は無い。畿内の銅鐸は、2,3世紀の弥生文化の隆盛時にもっとも盛大となり、そして古墳時代の幕開けと同時に、突然その習慣を絶っているのである。 また、我が国の最古の史書である記紀には、銅鐸についての記事は全く登場しない。弥生時代に近畿地方であれほど隆盛を極めるのであるから、もし銅鐸を信奉していた人々がそのまま古墳時代を通じても近畿に居続け、やがて大和朝廷へ繋がるのだとすれば、記紀に全く記載がないのは奇異である。古伝承もない。これは一体何を意味しているのでしょうか?
この、記紀に銅鐸の記載がないという事実は、記紀が銅鐸中心の文化圏、すなわち、畿内の事についての記録ではないようにも思える。ひいては、銅鐸をもつ大和の先住民が、3世紀後半に九州からきた神武天皇に象徴される一群によって減ぼされたのであろうとする考えを生む。「続日本紀」に、713年大和の長岡野で銅鐸が発見された時、人々はこれをあやしみ、「その制(形)は、常と異なる」と記録されている。これは、当時大和の人々には、銅鐸の記憶や知識がまったくなかったことを示しており、上記解釈をうらづけるものといえる。もし銅鐸信奉民族が、そのまま近畿で一大勢力となり、倭国統一の礎となったのならば、むしろ、国家権力の保護のもとに、祭器として、銅鐸の伝統と記憶とを温存させてよいように思われる。(安本美典氏)。
西欧・中国等では段階を経て発展する金属器文化だが、日本には弥生時代殆ど同時期に青銅器、鉄器文化が流入する。当初は北九州に、やがて環日本海、中国四国、近畿地方へと広がっていく。多くの遺跡から鉄鏃(てつぞく)・銅鏃(どうぞく)他が発見されているが、近畿地方を中心に分布する銅鐸は、最近まで近畿地方独特の青銅器と考えられていたが、最近の発掘で北九州でも多くの銅鐸の鋳型が出土した事もあって、銅鐸もその端緒は北九州であった事が確定的となった。又銅矛は北九州独特の青銅器とされ、これらの文化圏は異なる民族の所作とされていたが、出雲ではそれが両方一緒に出土した。北九州と近畿地方との大きな二つの勢力と交流があった事を示している。

最近の研究成果では、これらの金属器文化については出雲は相当古くから独自に発展してきたと考える研究者も多い。従来、山陰の金属器は大和から流出したものとの見方が一般的であったが、私(この作者)の見解では逆である。北九州にその萌芽を見た金属器製造技術は、出雲で発展しやがて「出雲王国」の畿内進出に伴って大和を中心とする近畿地方にももたらされた。盛んに銅鐸・銅鏡等が製造され、その技術は瞬く間に東海地方辺りにまで広まったが、その勢力はやがて新しい勢力に取って代わられる。この勢力こそ、「邪馬台国=高天原=北九州の原渡来人達」であろう。彼らは奈良に居を構え周辺部族を傘下におき、やがて、今日古墳時代と呼ばれる200年あまりの年月で日本を一応統一してしまう。これらの事跡が「神武東征」以後の数々の神話として今日に伝わったのだと考えたい。・・(作者の推測)

日本経済新聞 1996年10月18日(金)
加茂岩倉遺跡の銅鐸 製造技術高い <橿原考古学研究所>
奈良県立橿原考古学研究所の久野雄一郎・指導研究員(66)が17日、過去最多の銅鐸が発見された島根県加茂町の「加茂岩倉遺跡」を視察、「銅鐸の製造技術が極めて高い」と分析し、弥生時代の銅鐸文化について、「出雲で製造され近畿に渡ったと思う」との見方を明らかにした。久野研究員は、冶金技術の専門家で、町営ホール内の臨時保管所に置かれた27個の銅鐸と、出土現場を視察。発見された銅鐸の冶金技術について「つくりがいい。大きいのに銅鐸本体の厚さが2~3ミリしかなく、線もシャープで技術的にピカ一」と感想を述べた。製造場所については、「出雲地方にいた人間が作ったと思う」と話した。
年寄りのひまつぶし②



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1983(昭和58)年4月12日一片の土器からはじまった遺跡の発見
出雲市斐川町神庭西谷
このあたりの広域農道の建設にともなう遺跡分布調査を行ったところ、調査員の一人が田んぼの畦で古墳時代の須恵器の破片を拾いました。
この谷の南側に「三宝荒神」が祀られていることから、遺跡名を「荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)」と命名し、本格的な発掘調査が行われました。
そして発掘調査が始まった1984年に銅剣358本、翌年の1985年にはそこから7mほど離れた地点で銅鐸6個、銅矛16本という大量の青銅器が出土し、これらは全て1998年に「島根県荒神谷遺跡出土品」として国宝に指定されました。
それまでの銅剣の出土総数は全国において約300本、それを一ヶ所で上回った荒神谷遺跡は当時の日本古代史学・考古学界を大きく揺るがす大発見でした。
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358本の銅剣
遺跡の場所は『出雲国風土記』にある神名火山(かんなびやま)に比定される仏経山(ぶっきょうざん)から北東3kmのところにあります。
標高22m、小さな谷間の南向きの斜面中腹に上下二段の加工段が作られており、その下段の方に358本の銅剣が刃を起こした状態で4列に整然と並べた形で埋められていました。
銅剣は約2200年前の弥生時代前期に朝鮮半島より武器として伝わってきたといわれており、銅に少量のすずや鉛などをまぜた合金で、作られたときは金色の輝きを帯びていました。 358本はいつどこでつくられたものかははっきり分かっていませんが、同じ鋳型で製造されたものが多いことから、同じ時期同じ場所で作られたものだと考えられています。

青銅器につけられた謎の刻印
出土した358本の銅剣のうち344本に「×」の印が刻まれていました。
荒神谷遺跡の発見から12年後の1996年、ここから山を隔てて3.4kmの加茂岩倉遺跡(かもいわくらいせき)から39個という大量の銅鐸が発見されました。このうち14個に同じ「×」の刻印が見つかっており、二つの遺跡の関係性や刻印の意味などが注目されています。 ※これら銅鐸も全て国宝に指定され、加茂岩倉遺跡も国の指定史跡となっています

大量の青銅器が語るものとは人々の想像をかきたてる古代出雲の真相

銅剣が発見された翌年の1985年、銅剣が出土した地点から谷奥へ約7mの場所から銅鐸6個、銅矛16本が発見されました。
銅鐸、銅矛が同じ場所から出土したのは全国でも初めてのことで、荒神谷遺跡は再び注目を集めることとなりました。

まさに世紀の大発見といえるこれら青銅器の大量出土ですが、一体いつ、誰が、何のために埋めたのか・・・実は詳しい事はほとんど分かっていません。
それまで島根県は青銅器の出土例や遺跡などの発見もほとんどなく、考古学上それほど注目はされていませんでした。
日本最古の歴史書である「古事記」などには古代出雲の記述があり、神話の舞台としても数多く登場する地であるにもかかわらず、"出雲王国"を具体的に証明できるものがなかったため、それらは神話の域を脱する事はありませんでした。
しかしこの大量の青銅器を前に「出雲には何かがあった」と出雲王国の存在を誰もが感じ、神話は一気に現実味を帯びることになったのです。
最初に発見された一片の土器は、出雲王国繁栄の証を現世に伝えるための必然的な導きであったのでは・・・。そんなロマンさえも感じるような歴史的発見だったのです。

年寄りのひまつぶし②
年寄りのひまつぶし②




荒神谷史跡公園
古代ハス(正式名称:大賀ハス)2千年の時を経て毎年夏になるとたくさんの花を咲かせます。

荒神谷史跡公園は荒神谷遺跡を中心とする「出雲の原郷」の歴史景観を守り、未来へと伝えるため整備され、平成7年(1995)5月にオープンしました。
公園全体の広さは約27.5haにおよび、公園中央にある西谷池を隔て、北側に遺跡や博物館、南側にはアスレチックや古代復元住居などがあり、誰もが楽しめる複合施設になっています。
北と南それぞれに駐車場があり、遺跡や博物館へは北駐車場が便利です。
ここから公園に入るとまず右手に荒神谷博物館がお出迎え。その向こうには5000㎡の水田が広がります。
6月中旬になるとこの水田一面に約5千株、5万本のハスの花が咲き始め、公園全体に神秘的な景色が広がります。

希望があれば、ボランティアガイドさんが分かりやすい解説付きで遺跡を案内してくれます。

池を挟んで南側には、古代の生活を復元した竪穴式住居をはじめ、バーベキューサイトや木製遊具もあり、家族みんなで楽しめます

古代の小径と呼ばれる水田の脇道を進むとあたりは木々の静寂に包まれ、弥生時代の出雲に思いをはせるに十分なロケーション。その先にある遺跡では出土した時の状況がレプリカで再現され、小高い展望台から遺跡全体を俯瞰することができます。
年寄りのひまつぶし②



※出土した実際の青銅器は「古代出雲歴史博物館」に展示されており、開館時に観る事ができます。

『神話のふるさと』と言われる出雲地方。
現にこの地では、神話とゆかりの深い場所が数多く存在します。
しかし、出雲では神話を裏付けるような考古学的遺跡の発見がされておらず、出雲神話は作り話という見方が主流でした。

そうしたなか1984年、358本の銅剣が発見されました。
つづいて銅鐸と銅矛の発見、1996年には39個の銅鐸。
そして2000年、出雲大社境内から13世紀半ばの出雲大社本殿を支えたと考えられる巨大な三本柱が発見されました。

これらが意味するものは何でしょうか。
ただのおとぎ話・・・と片づけられないこれらの発見は、まるで神々に与えられた謎ときであるかのようなロマンに満ちあふれています。

【古代出雲歴史博物館】
神話かそれとも実話か。
ここ古代出雲歴史博物館では、古代と現代を結ぶこれらの鍵を頼りに太古の謎に迫ります。
神々の国出雲の悠久の時を感じてください。
テーマ別展示室
展示室内は『出雲大社と神々の国のまつり』『出雲国風土記の世界』『青銅器と金色の大刀』の三つのテーマに分かれており、古代出雲を様々な切り口で紹介します。

幻の巨大神殿出雲大社の謎、古代出雲の文化や当時の人たちのくらしなど、復元模型や出雲国風土記の資料などを交えて分かりやすく展示しています。

国宝となった荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器や200本以上の銅剣の復元模型は圧巻です!
テーマ別展示室
展示室内は『出雲大社と神々の国のまつり』『出雲国風土記の世界』『青銅器と金色の大刀』の三つのテーマに分かれており、古代出雲を様々な切り口で紹介します。

幻の巨大神殿出雲大社の謎、古代出雲の文化や当時の人たちのくらしなど、復元模型や出雲国風土記の資料などを交えて分かりやすく展示しています。

国宝となった荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡の青銅器や200本以上の銅剣の復元模型は圧巻です!
荒神谷遺跡
昭和58(1983)年、出雲市斐川町(当時は簸川郡斐川町)で農道建設に伴う遺跡分布調査の際、調査員が一片の土器を拾ったことで発見されました。
翌昭和59年、谷あいの斜面を発掘調査したところ、358本もの銅剣が出土したのです。
また翌年の昭和60年には、そこからわずか7m離れたところで銅鐸6個、銅矛16本を発見。
出土したこれら青銅器は全て国宝に指定され、荒神谷遺跡は国の史跡指定となりました。

加茂岩倉遺跡
平成8(1996)年、雲南市加茂町岩倉の丘で農道の工事中、重機による掘削中に発見されました。翌平成9年の二年間にわたり発掘調査をしたところ、一カ所からの出土数としては最多となる39個の銅鐸が発見されました。
銅鐸は全て国宝に指定され、加茂岩倉遺跡は国の史跡指定となりました。

ここ加茂岩倉遺跡は先に出土した荒神谷遺跡から山を隔てて3.4kmの場所にあり、両遺跡から出土した銅鐸に同じ“×”の刻印があることから両遺跡は何らかの関係があるとされ、学術的価値の高い遺跡として今なお注目されています。

出雲大社境内遺跡
平成12年(2000)、出雲大社拝殿の北側で、巨大な3本ひと組の柱根が発掘されました。直径約1.35mの杉の柱を3本束ねた形状で、鎌倉初期の造営と推定されています。

平安時代中頃(970年)に源為憲(みなもとのためのり)が書いた貴族の子弟の教科書『口遊(くちずさみ)』には『雲太(うんた)、和二(わに)、京三(きょうさん)』という言葉が記されており、これは当時の建物の高さベスト3を表現していると言われています。
1位の「雲太」とは出雲大社本殿のことで一番高く、ついで2位の「和二」は東大寺大仏殿で、3位の「京三」は京都御所の大極殿の順ということです。

現在の出雲大社本殿の高さは約24mですが、出雲大社の社伝によると古代出雲の本殿の高さは現在の4倍、96mあったといわれています。
本殿の後ろにある山(八雲山)の高さが約100m、山の頂上付近に千木(屋根の先端についている交差した二本の木)が見えたと想像すると現代でも圧倒される高さです。
また中古には現在の倍の高さ、約48mあったと伝えられています。この説は明治時代から様々な研究がなされてきました。最新の建築技術ならともかく当時の技術、しかも木材建築でそのような高さのものは不可能ではないかと、長い間幻とされていたのです。
ところがこの宇豆柱の発見で、幻は急激に現実味を帯び、具体的にその姿を現してきました。この3本の柱が上空に向かいそそり立ち、長い長い階段の果てに巨大な空中神殿が構え、その千木は天空の雲を突き出る様であったのか。多くの専門家達の想像力をかき立てるこの発見に、今なお注目が集まっています。

中国における青銅器時代に該当するのは殷(いん)・周時代である。この高度の文化は、末期に至って東方へ波及し、朝鮮半島や日本にも影響した。しかしそのころから秦(しん)、漢の鉄器文化が殺到したために、朝鮮や日本の住民は、青銅の技術は伝えられはしても、青銅器文化を展開することなく、ただちに鉄器時代に入った。


古墳時代はどんな時代?
年寄りのひまつぶし②



紀元後3世紀の中頃から7世紀の中頃にかけて、日本列島では数多くの大きな墓が各地に築かれていました。その墓を古墳と言い、この時代を古墳時代と呼びます。
古墳の種類には、平面形が鍵穴形をした前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)、円形の円墳(えんぷん)、四角形の方墳(ほうふん)などが代表的ですが、崖に横穴を掘って人を埋葬する横穴墓(よこあなぼ)、木や石で作った棺に人を葬り、土盛りを持たない木棺墓(もっかんぼ)や石棺墓(せっかんぼ)などもあります。
古墳の形や規模の違いには、当時の人々の上下関係が反映しています。巨大な前方後円墳にはクニを納めた王が、小さな円墳にはムラを支配する有力者が、それより低い身分の人々は墓さえ築くことが出来なかったに違いありません。古墳は沖縄と北海道をのぞく日本列島各地に築かれていますが、大形の古墳が集中する地域は現在の奈良県と大阪府であり、ここからは質量ともに豊かな副葬品が出土しています。このため、古墳時代の政治権力の中心地は奈良県を中心とした近畿地方にあったと考えられ、大和政権(やまとせいけん)または畿内政権(きないせいけん)と呼ばれています。この時代は、激動する東アジアの国際関係を背景に渡来人を受け入れながら、日本のクニづくりが進められたと考えられています。その象徴が、日本列島に展開する前方後円墳を頂点とする秩序だった社会なのです。

■話が少しづつそれていきます。九州の北部から中部にかけてそして、ここ熊本には全国の3割を占める装飾古墳と呼ばれる古墳が各地に点在しています。古代史を勉強する上でどうしても見逃してはいけない大きな史跡として古墳があります。と言う事で今古墳の勉強中です。


装飾古墳とは?

 古墳時代の社会は、それに先立つ弥生時代・縄文時代のような地域ごとの文化の違いは大してありません。しかし、九州は朝鮮半島・中国大陸文化の窓口であり、他の地域には見られない独特な文化が花開きました。その代表が石人石馬とともに、北・中部九州に展開する装飾古墳です。

装飾古墳とは、古墳の埋葬施設の石壁に、壁画や線刻、彫刻などの装飾を持つ遺跡で、墳丘を持つ古墳の他に墳丘を持たない横穴も含めます。ただし、墳丘に立てる埴輪も一種の古墳の装飾ですが、装飾古墳には含めません。また、飛鳥美人や四神像の出現で話題となった奈良県の高松塚古墳・キトラ古墳も壁画古墳と呼んで装飾古墳とは区別しています。

装飾古墳は800基余りが知られ、九州には約500基が築かれています。北・中部九州以外では、鳥取県・香川県・神奈川県などにも見られ、関東北部・東北南部の太平洋側(茨城県・福島県)にも集中します。しかし、古墳時代の中心であった近畿地方には少数しか見られません。時期は4世紀から7世紀にかけて築かれていますが、5世紀中頃~7世紀前半に属するものが大半です。




装飾古墳に描かれたもの

 描かれた装飾には、土や岩を砕いて作った絵の具で直接に岩肌に描いたもの(彩色)、鉄筆のような先のとがった道具で文様を刻んだもの(線刻)、鏨などで立体的に文様を掘り出したもの(彫刻)などの差があります。

絵の具には赤、青、緑、黒、灰、黄、白などがあり、すべて天然に存在する鉱物・土を叩き砕いて熱を加えずに用いた顔料(がんりょう)です。彩色された装飾には線刻によって文様を描いた後に、彩色で塗り分けられたものもあります(熊本県井寺古墳・佐賀県西隈古墳など)。


鉄筆で描かれたものは彩色のものに比べて数も多く広く分布しますが、何が描かれたか不明なものも多く、また古墳時代以後に描かれた落書きと判別が付かないものも多いために、注意が必要です。彫刻されたものは熊本県でしか見つかっておらず(熊本県千金甲1号墳、熊本県鍋田横穴墓群、長岩横穴簿群など)、埋葬施設が、軟質で加工しやすい阿蘇溶結凝灰岩で造られたことから生まれた装飾でしょう。

 装飾古墳で描かれる文様には、幾何学文様として円文および同心円文、三角文および連続三角文、蕨手文、双脚輪状文、直弧文、菱形文、器材をかたどった文様として靭(ゆき)、鞆(とも)、盾、大刀、弓、翳(さしば)、動物・人間をかたどった文様には人物・舟・馬・鳥・家・花文などがあります。また、ヒキガエルや四神のように大陸文化の影響を受けて描かれた文様もあります。これらの主な文様については、このデータベースの中で詳しく説明しています。

九州に分布する装飾古墳には、地域ごとに違いがあります。
福岡県の場合は、筑後川中流域、八女丘陵、筑豊、豊前の4地域に集中する地区が見られます。筑後川中流域は、西側に開口する石室の奥壁に彩色で描かれた同心円文を描く古墳が特徴で、日岡古墳、珍敷塚古墳、重定古墳など多彩です。八女丘陵では岩戸山古墳を盟主として代々、前方後円墳が築かれますが、その先駆となる石人山古墳は北部九州最古の装飾古墳です。筑豊地区は遠賀川およびその支流に分布しますが、王塚古墳や竹原古墳など著名な古墳が見られます。豊前地区では線刻で鳥や木の葉を描いた穴ヶ葉山1号墳が代表です。

熊本県では玉名から山鹿にかけての菊池川中流域地区、熊本市周辺、八代海沿岸、人吉盆地の4地区に大きく分かれます。菊池川中流域は最も装飾古墳が集中する地区で、チブサン古墳、弁慶ヶ穴古墳、鍋田横穴墓群など彩色・彫刻ともに豊かな装飾古墳が見られます。熊本市周辺では鮮やかな双脚輪状文が印象的な釜尾古墳、直弧文が美しい井寺古墳や靭を彫刻した千金甲1号墳が挙げられます。八代海沿岸では田川内1号墳や広浦古墳など彫刻による装飾を持つ古墳が特徴です。人吉盆地では、大村横穴墓群や京ヶ峰横穴墓群のように横穴の外側の壁に彫刻した文様を持つものが多いのが特徴です。

大分県では、日田盆地、玖珠盆地、宇佐平野にまとまりが見られます。日田盆地ではガランドヤ1・2号墳や日田穴観音古墳など同心円文、人物文などを彩色した古墳が見られます。玖珠盆地も日田盆地同様、玖珠鬼塚古墳など同心円文が主文様となる傾向があります。宇佐平野では一鬼手横穴墓群や加賀穴横穴墓群、貴船平横穴墓群などの彩色をもつ横穴墓群が集中しています。

佐賀県では鳥栖市周辺、佐賀市周辺、小城~多久、杵島などの4地区に集中が見られます。鳥栖市周辺は筑後川流域の装飾古墳の影響を受けて、田代太田古墳などの彩色壁画を持つ古墳が見られます。佐賀市周辺には西隈古墳など線刻と彩色を組み合わせた古墳があり、残る2地区は線刻のみの装飾古墳が主流です。

長崎県では佐賀県と接する有明海沿いと壱岐の2地区に分かれ、両者とも線刻のみの装飾ですが鯨や舟など海洋関係のテーマが目立ちます。

宮崎県では宮崎平野とえびの高原に彫刻や線刻、または朱線による装飾を持つ家形の地下式横穴墓が築かれています。

 九州の装飾古墳の分布はある中心から拡散していくのではなく、特徴的な装飾古墳が集中する地区が点在するというあり方を示しています。
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装飾古墳への関心は江戸時代の地誌編纂時に遡ります。久留米藩士であった学者矢野一貞は、福岡県石人山古墳・重定古墳、熊本県鍋田横穴などが紹介されました。また、文献記録に残されなくても、民間信仰の対象としてよく知られた装飾古墳も数多くあります。明治時代以後になると京都帝国大学が装飾古墳を対象とした考古学的研究が実施され、王塚装飾古墳の発見を機に本格的な壁画調査とその報告書が刊行されました。これらが、装飾古墳の考古学的調査の開始となりました。

戦後になって、装飾古墳ブームに火をつけたのは1957年の福岡県竹原古墳の発見でしょう。それ以前から研究者や高校の考古学クラブを中心に進められてきた装飾古墳の研究が、一気に世間の注目を集めることになりました。また、次々と豊富で鮮明なカラー図版をもった概説書が発刊されたこともそれを一層加速させ、装飾古墳を訪れる人々は飛躍的に増加しました。
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しかし、同時にそれは装飾古墳の保存対策の重要性をクローズアップさせました。とりわけ福岡県王塚古墳は地元住民が主体となって石室内の水の汲み出しや防水工事が施され、石炭採掘工事に対しても古墳の保存が強く訴えられることになりました。その後、王塚古墳に対しては文化庁を中心に学識経験者による保存対策研究会が結成され、九州の装飾古墳に対する保存整備事業の開始となりました。また、文化庁の委嘱を受けて、東京藝術大学の日下八光氏は装飾古墳の現状模写、復元模写を作成し、日本画による記録の重要性を広く世間に知らしめました。その後、地元教育委員会を主とした発掘調査が実施され、詳しいデータが収集されました。
年寄りのひまつぶし②


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さらに、桂川町立王塚装飾古墳館、筑紫野市立五郎山古墳館、熊本県立装飾古墳館などの装飾古墳レプリカを見学できる資料館があります。また、春と秋を中心に実際の装飾古墳の公開も行われており、装飾古墳の研究と活用は新しい段階に入っています。



装飾古墳の時代

 九州に装飾古墳が築かれた要因は、百済・新羅に圧迫された加耶の滅亡といった6世紀の朝鮮半島情勢と無関係ではありません。この国際的緊張に呼応して、日本でも継体・欽明朝の動乱が勃発しますが、北・中部九州全体を巻き込んだ筑紫君磐井の乱(527年(継体21))はその頂点でした。継体大王に反旗を翻した磐井は鎮圧され、その象徴だった石人・石馬は打ち壊されますが、装飾古墳が分布する範囲は磐井の乱に関連する地域と符合します。装飾古墳は、独自性を発揮した北部・中部九州の古墳時代の文化の象徴なのかもしれません。






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Posted by マー君 at 09:38│Comments(0)頭の整理
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