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Posted by おてもやん at

2015年09月30日

切れ字




俳句の切れ字について川柳のところで少し学びましたが、俳句の中の『切れ』とか『切れ字』という言葉あまり耳にしたことがありません。俳句については季語とか五・七・五くらいしか頭には残っていなかったのでしょうね。世間の人は皆知っているんだろうか。

古池[や] 蛙飛びこむ水の音  芭蕉

有名な松尾芭蕉の句ですが、古池やの[や]が切れ字で[や]のところで切ることにより古池の情景を頭に思い浮かべてそして次の句の「蛙飛びこむ 水の音」に強く引き込まれ、句に大きな余韻も生まれる・・・意味は何とか理解が出来ました。

荒海や佐渡によこたふ天河

秋深き隣は何をする人ぞ ・・・芭蕉は死ぬ前二週間ねたきりだったらしい、寝たきりになる前の日の句なんですがこの句の切れ字は最後の[ぞ]なのかな、最後の言葉なので切る必要もないんだが強調の意味かな・・・まだまだ勉強不足。  


Posted by マー君 at 13:15Comments(0)頭の整理

2015年09月29日

川柳について

新聞を見ていると時事川柳という欄がありました。川柳って俳句に似ているけどどこが違うのかな。少し調べてみました。

『川柳』                            『俳句』
●季語がない                        ●季語がある
●「切れ字」は重要でない                 ●「切れ字」は重要である
●口語体                           ●文語体
●人事がテーマ                       ●自然がテーマ
●どちらも俳諧の連歌が起源

「切れ字」ってなんだっけ
「切れ字」とは句中や句末において、表現を断ち切り、その直後に余情を生み出す語(切れの働きがある助詞・助動詞)が「切れ字」です。

室町時代の連歌師・宗祇は連歌の発句に用いる「切れ字」として かな、けり、もがな、し、ぞ、か、よ、せ、や、れ、つ、ぬ、に、へ、ず、じ、け、らん、の十八字をあげています。

今日の川柳(気に入ったもの三句)

安保法発動せぬ世祈るのみ     福岡 山本繁三
爆買いで先ずアメリカの毒を抜き   山口 山本 翼
手の込んだごまかしで売るディーゼル車  熊本 丹野眞人




  


Posted by マー君 at 09:53Comments(0)頭の整理
たまたま熊本総合病院に行く機会があり、病院の入り口で、去年の7月5日(?)にこんな記事を書いたことを思い出しました。いつか答えを書かないと・・と思いながら1年以上たってしまいました。

7月2日に八代市立図書館で杉山幹郎先生による文学講座がありました。この先生のお話は非常に面白くて人気が有ります今回は『飛び出せ国語教室』と言う題目で文章の書き方を話されました。話の中で八代市の熊本総合病院・島田信也院長の病院設立時の話の中に医学の神様の話が少しありましたので調べてみました。医学関係の方は多分ご存知の方が多いと思います。
アスクレーピオスは、ギリシア神話に登場する名医であり現在も医学の守護神として医学の象徴的存在となっている。アスクレーピオスはギリシャ神話に登場する悲劇の医者である。アスクレーピオスは蛇によって薬草の存在を知りました。アスクレーピオスは杖に蛇をまとわりつかせ、未開の地に放って人を噛ませ、その人間が口にした薬草で助かるか否かによりその効能を確かめたと言われています。生まれる前から母親を殺され、善行を行いながらも神罰を受け、現在でも彼ではなく、彼が持っていた杖の方が医学の象徴とされその杖はアスクレーピオスの杖と呼ばれています。

熊本総合病院のどこかにこの絵があるそうです。・・答えは病院入口の玄関マットに書かれています。

  


Posted by マー君 at 20:28Comments(0)紹介 まち歩き

2015年09月21日

地名に注目!勉強②

地名から探し出せるものはいろいろあります
秋津島の秋津という地名・・・諸説ある様だが

『見出し』
大和王権「空白の4世紀」に光 奈良県 中西、秋津遺跡の調査 祭祀空間備えた大規模集落


『序文』
女王・卑弥呼が君臨した邪馬台国(2~3世紀)と中国に使者を送った「倭の五王」(5世紀)の時代の間は、大和王権が発達した重要な時期だが、中国の史書に倭国を巡る記述がなく、〈空白の4世紀〉と呼ばれている。だが奈良御所市の中西、秋津両遺跡の調査結果から、王権の実態が徐々に明らかになってきた。


『本文』
・・・中西遺跡・・「古墳時代前期で最大規模の建物群」・・中西遺跡北側に隣接する秋津遺跡は邪馬台国の宮殿との説もある奈良県桜井市の纏向遺跡(まきむくいせき)の遺構とほぼ同規模で、祭祀空間だったと推測している。今回の調査で、中西、秋津両遺跡は一体のもので、全体の範囲は南北約400メートル東西200メートル以上に及ぶことがはっきりした。北端と南端は川で区切られ、内部は溝で細かく区画されていた。県立橿原考古学研究所は計画的に建物が配置された大規模な集落だったとみており、今尾文昭・調査課長は「大和王権の拠点だった可能性が高い」と説明する。一帯には、「日本書紀」や「古事記」に帰される、第6代孝安天皇の宮殿「秋津島宮(あきづしまのみや)」があったとの説がある。孝安天皇は実在が疑われる「欠史八代」と呼ばれる天皇の一人だが、両遺跡の成果から、記紀の記述が何らかの歴史的事実を反映していたのではないか、とも考えられるようにもなってきた。一方、両遺跡の南西約1キロには、古代豪族・葛城氏の始祖、葛城襲津彦の墓とされる前方後円墳の宮山古墳(5世紀前半)がある。このため、辰巳和弘・元同志社大教授(古代学)は「秋津、中西遺跡の集落を営んだのは、葛城氏の前身に当たる豪族。首長の居館と、それを囲むように配下の人々が住んだ集落の在り方が、具体的に見えてきた」と主張する。この時代は、大和王権が内政、外交、軍事の支配権を確立して、高句麗、百済、新羅の3国が対抗した朝鮮半島の動乱にも関わった激動の時代。だが、王権の形成過程はよくわかっていない。王権そのものが、記紀に書かれたように大王家が単独で掌握していたか、それとも葛城氏などと連合していたのか、さだかではないのだ。そうしたこともふまえ、鈴木靖民・国学院大名誉教授(古代史)は両遺跡について、「大和王権を支えたいくつかの豪族が連合して大きな祭祀を営んだ場所とも考えられる。4世紀は、百済と高句麗の戦争に倭が介入した時期。当時、海に面していた河内(大阪府東部)に出やすい場所ということに意味があったのではないか」とみる。5世紀になると、大王墓(天皇陵)である巨大前方後円墳の築造は、奈良盆地から河内の百舌鳥(もず)・古市古墳群へと移る。中西、秋津両遺跡は、その前段階の有り様を表しているのかもしれない。一連の調査は京奈和自動車道建設に伴うもので、調査面積は、2009年度から計約8万平方メートルに及んだ。この周辺が大規模に調査されたのは初めて。大和王権が誕生、発展した奈良盆地は、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓説がある箸墓古墳をはじめ、最初期の古墳が集中する南東部が注目されてきたが、南西部にも重要な遺跡があることが鮮明になった。
集落跡に関連する調査はこれで一段落するが、出土遺物の整理はこれから。調査・研究が進めば、4世紀だけでなく、「邪馬台国」や「倭の五王」の時代についても総合的に検討することが可能になり、日本の古代国家形成の研究は、新たな段階を迎えることになるだろう。
2015・9・9 読売新聞 社会面 文化 歴史         

あきつしま〈秋津島 秋津洲 蜻蛉洲〉三省堂 大辞林 参照

①はじめ大和国内の一地名。のち「しま」が国と同義であるところから大和国の異名となり、さらに、日本国の異称となった。秋津島根(あきつしまね)。「そらみつ倭の国を秋津島とふ/古事記㊥」・・大空から見て、よい国だと選びさだめた日本の国」という意
②(枕詞)「大和」にかかる「秋津島大和の国の橿原の畝傍の宮に/万葉集」
枕詞とは・・
★5音であること
★後に来る言葉も決まっていること


大辞林 第三版の解説

あきづ【秋津】
① もと,奈良県御所市,旧秋津村室のあたりの古地名。



日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

秋津島
あきづしま

通説では、『日本書紀』の第6代孝安(こうあん)天皇の「葛城室之秋津嶋宮(かづらきのむろのあきつしまのみや)」の記事と、神武(じんむ)紀31年、同地における秋津島の称の起源伝承をもとに、秋津を奈良県御所(ごせ)市内の地名とし、この地名が大和(やまと)、さらに日本の総称、また大和にかかる枕詞(まくらことば)となったと説く。しかし孝安天皇の宮について『日本書紀』が「都を室(むろ)の地に遷(うつ)す。是(ここ)を秋津島宮といふ」と述べるによれば、秋津を地名とはみなしがたく、また神武紀の称も「浦安国(うらやすのくに)、細戈千足国(くわしほこちたるのくに)」の称と並べられていて、むしろ賛称とみるのがふさわしい。上記の例と記紀雄略(ゆうりゃく)天皇条の蜻蛉(あきづ)(トンボ)にかけた起源伝承を除けば、他のすべてが大和の語とともに使用されているのも賛称であるためであろう。その語義については、水辺の農耕平地であるアクツと関連させる説、秋=実りと解する説などがあるが未詳。国号としての単独使用は平安時代以後と考えられる。なお、耶馬(やま)=野馬(やま)(カゲロウ)→蜻蛉(かげろう)→蜻蛉と転義されたものとして、起源を耶馬台国の称に求める説もある。[吉井 巖]






奈良県御所市の中央部に旧秋津村を中心にして東西南北に約6キロメートル程の範囲が奈良朝時代前期には秋津洲と呼ばれていたと伝えられています。現在御所市には秋津という町名はありませんが、このあたりだろうと考えられている旧秋津村という場所は 日本という国の原点かも・・・


  


Posted by マー君 at 13:40Comments(0)記事

2015年09月20日

彼岸の詩


隣の庭に咲いている曼珠沙華 9/20

くれないの 曼珠沙華 すっくと野に立ちて 火のまつりせり みずからのため   沖ななも    『21世紀現代短歌選集4』から
秋の彼岸が近づくと約束したように咲く曼珠沙華。日本人は昔からあの紅の一途さに心惑わされてきた。この歌、曼珠沙華は自分のために炎を祀っているのだという。あの花に魅了されている人だろう。   読売新聞 四季 長谷川 櫂

この寸評は素晴らしいと思います

  


Posted by マー君 at 12:27Comments(0)季節




「暑さ寒さも彼岸まで」明日から秋の彼岸入り、彼岸の由来や意味  彼岸(ひがん)や此岸(しがん)は仏教用語です。
サンスクリット語のパーラミター(波羅蜜多)が語源とされており、パーラミターとは到彼岸、つまりは煩悩や悩みを越えて到達する悟りの境地のことを言います。
逆に、煩悩や悩みに溢れた私達が住む世界を此岸(しがん)と言います。

此岸にいる者が「布施・ふせ」「持戒・じかい」、「忍辱・にんにく」、「精進・しょうじん」、「禅定・ぜんじょう」、「智慧・ちえ」の6つを修業することで、彼岸に行くことができるとされています。
◆布施
人のために惜しみなく何か善いことをする。施しは、施す者、施しを受ける者、施すもの、すべてが清らかでなければいけません。欲張りのない心での行いを施しといいます。あえて善行として行うとか、返礼を期待してはいけません。また受ける側もそれ以上を望んだり、くり返されることを期待してはいけません。
◆持戒
本分を忘れずにルールを守った生き方で、人間らしく生活することです。自分勝手に生きるのではなく、互いに相手のことを考えながら、仲良くゆずりあっていく生活です。
◆忍辱
悲しいことや辛いことがあっても、落ち込まないで頑張ることです。物事の本質をしっかりとおさえて、時には犠牲的精神を持って困難に耐えることです。
◆精進
まずは最善をつくして努力すること。良い結果が得られても、それにおごらず、さらに向上心を持って継続することです。
◆禅定
心を落ち着けて動揺しないこと。どんな場面でも心を平静に保ち、雰囲気に流されないことです。
◆智慧
真理を見きわめ、真実の認識力を得ること。人は誰でも生まれながらにして仏様と同様の心を持っています。欲望が強くなると、単なる知識だけで物事を考えるようになります。知識ではなく智慧の心を以て考えることです。





ちなみにこの6つの修業を『六波羅蜜』と言い、仏教の西方極楽浄土の教えにより、十億万仏土先の西方には阿弥陀如来がいるとされる浄土があると言われていることから、太陽が真東から昇って真西へ沈む春分・秋分の日を中日として前後3日計7日間を「彼岸」と呼び、この期間に修業をするのがよいとされていました。

お彼岸に墓参りをするのは日本独特の風習で、仏教国であるインドやその他の国では見られません。
「彼岸」そのものは仏教の教えですが、「お彼岸」は日本でのみ行われ、正式名称は「彼岸会(ひがんえ)」と言います。

日本には、古来より農耕儀式や自然崇拝の考えがあり、種を撒く時期(春)や収穫の季節(秋)には五穀豊穣や安全を山や先祖に祈願しました。また、仏教の伝来前より『神道』と言って、万物に神様が宿るという考えが日本にはあり(八百万の神)、太陽も神様として崇められていたことから、そこに仏教の西方浄土の教えが伝わったことで、太陽が最も真西へ沈む(西方浄土)春分・秋分の日に先祖を供養するのがよいと考えられるようになったのではないかとされています。

我々のご先祖は日本の風土に合った文化を育んできたのですね・・・


  


Posted by マー君 at 08:21Comments(0)頭の整理

2015年09月18日

小さな記事の答え

2015・9・18 読売新聞 編集手帳

戦争に触れた文章をつづる旅、その少年に読んで聞かせる。感想が返ってくることはないが、いつしか身についた習わしである。◆少年は13歳の時、広島で被爆した。枕もとの父親に2つの問いかけを残して息を引き取ったという。〈お浄土には羊羹があるの?・・お浄土には戦争はないね〉。父親の山本康夫さんが『皮膚のない裸群』という哀切な詩に書き留めている(太平出版社『日本原爆特集』所収)◆少年に読んで聞かせるのは、彼の目に触れても後ろめたくない記事であるのを確かめたいからで、まあ、自己満足の儀式にすぎない。安全保障関連法案を取り上げるときもそうしている◆かわいい子や孫を、甥や姪を戦場に送りたいと願う日本人がどこにいる。一人も、ただの一人もいまい。「戦争反対」は廃案を望む人々の専売特許ではなく、小欄を含めて法案に理解を寄せる人々だってバリバリの戦争反対派である。日米同盟をより緊密にすることで戦争の芽を遠ざけようとする法案に〝戦争法案〟の汚名を着せ、実りある議論に水を差したのは誰だろう◆天国の少年よ。日本の明日を悲観するなかれ。

みんなが反対するのはこの法案の成立の仕方や過程です。本当のことを言わない安倍さんの真意です。日米同盟を強固にすることで本当に戦争の芽を遠ざけることができるのでしょうか。


  


Posted by マー君 at 09:14Comments(0)記事
記事の全文はこうである

「安保法案は違法」 元裁判官が意見書 75人賛同
参院で審議中の安全保障関連法案について、元裁判官の有志が15日 「法案は違憲だ」とする意見書をまとめ、参院議長に郵送したと発表した。元裁判官75人が賛同しているという。意見書は、集団的自衛権の行使を認めた法案は憲法の理念に反すると指摘。「強行採決を避け、慎重な審議を要望する」と訴えている。     2015・9・16 読売新聞 社会面

何故こんなに小さな記事なんだろう・・・読売新聞の思惑は・・・小さな記事でお茶をにごしているのかな・・変に考えさせられる記事です。




  


Posted by マー君 at 15:37Comments(0)記事

2015年09月15日

地名に注目!勉強① 

沼垂(ぬったり)は新潟市中央区にある地名です。地名にはその土地の地理や歴史が集約されています。この地名は北方の蝦夷(えみし)を防ぐため大和朝廷が、飛鳥時代の大化3年(647年)に越国(高志国)に置いた城柵(日本の城)の1つで「渟足柵(ぬたりのき、ぬたりのさく)」(ぬたり)の読みが「沼垂」(ぬったり)に転じたとされています。史上最初の城柵と考えられ日本書紀にも「渟足柵を造ってそれを維持する者を置いた」との記述があるほど、新潟では最も歴史のある地名の一つです。8世紀初めまでは存在しましたが廃絶の時期は不明とのこと。また渟足柵の詳細な所在地も信濃川などの氾濫により、町が何度も移転しているため渟足柵の正確な所在地も現在まで不明です。沼垂という地名だけが残っている不思議な場所です。この町も一時は高齢化や郊外型大型店の影響でさびれていましたが、今は醸造文化が栄え「発酵の町」としてみそや漬物、酒蔵などを中心に新たな息吹が芽生え、新潟屈指の歴史を誇りながらも古くて新しい町として観光客も増え表情を変えつつあります。           
 2015・9・12    読売新聞 地名の知 「参考」 
 いつか「沼垂」に行ってみたいと思う記事でした

  どこの地図でしょう        新潟市内
町や村の語源などをたどって行くといろんなことがわかってきます。この八代や熊本の地名を調べると面白いことが出てくるかもしれません。

  


Posted by マー君 at 12:40Comments(0)記事

2015年09月12日

四つのテスト

毎日次から次へとっかえひきかえいろんなニュースが飛び込んできます。昨日からは東日本での記録的な豪雨のニュースで新聞やテレビは豪雨の事でもちっきりなんですが、その中でちょっと気になる記事を見つけたので紹介します。
9/12 読売新聞 編集手帳
金を払うのはこちらなのに、ぞんざいに扱われては面白くない。遊郭で男がタンカを切る。「てやんでえ、こっちゃ堅気の職人だ。一粒いくらって汗ェたらして稼いでンだ」。落語『首ったけ』である◆国の税収も、もとをたどれば国民の流した汗の結晶である。その国民をぞんざいに扱ったせいか、財務省案の評判がよろしくない。消費税率を10%に引き上げるときの負担緩和策である◆税率2%相当額の還付を受けるには、高齢者や子供を含む全国民が買い物をするたびにマイナンバー(共通番号)カードを持ち歩かねばならない。消費者に面倒を押し付けている◆「カードを持っていきたくなければ持っていかないでいい。その代り、減税はない」と麻生太郎財務相は言う。お前ら、税金をまけてほしけりゃ、面倒くさがるんじゃねえよ。翻訳すれば、そういうことだろう。まるで還付は、国民が押し頂くべき財務省の恩寵(おんちょう)か何かのようである。大臣も官僚も給料は納税者の〝一粒いくら〟の汗で賄われているのに、なぜこんなにも尊大なのか、不思議でならない◆とりあえず「てやんでえ」と言っておく。

  八代宮入口 お堀にかかる橋の左に立っているロータリ-クラブの時計塔です

  


Posted by マー君 at 10:18Comments(0)記事
今日9/5読売新聞社会面にMine秋吉台、三島村鬼界カルデラ、日本ジオパークに認定・・・小さな記事ですが紹介します。
地球の成り立ちがわかる地形や地層などがある公園を「日本ジオパーク」として認定する日本ジオパーク委員会は4日「Mine秋吉台」(山口県美祢市)、「三島村・鬼界カルデラ」(鹿児島県三島村)、「栗駒山麓」(宮城県栗原市)の3地域を日本ジオパークに新たに認定した。今回の認定で計39地域となる。Mine秋吉台ジオパークには、国内最大のカルスト台地「秋吉台」、国特別天然記念物の鍾乳洞「秋芳洞」などがある。奈良の大仏鋳造の際に銅を供給した長登銅山跡、無煙炭を産出した大嶺炭田跡もある。三島村・鬼界カルデラジオパークは、火山活動と人間の生活との関わりを学べる地域。村は主に竹島、硫黄島、黒島の3島で構成され竹島と硫黄島は約7300万年前に噴火した鬼界カルデラの外輪にあたる。
この記事から今回日本ジオパークに認定された三か所の場所はなんとなく想像できると思いますが、鹿児島県三島村ってどこにあるんだ?そんな疑問と鬼界カルデラ?・・・



三島村は薩摩半島南端の長崎鼻から南南西約40kmの位置にある竹島・硫黄島、坊ノ岬から南西約50kmの位置にある黒島の三島及び無人の新硫黄島や数個の岩礁から成り立っており、九州南端から南西にのびる南西諸島の最北部に位置している。
竹島と硫黄島及び周辺の岩礁は中新期琉球火山脈に属する大型カルデラで、六千三百年前に大噴火した鬼界カルデラの北西縁にあたる陸上部分をなしている。 黒島は宇治群島や草垣群島などと共に旧期琉球火山岩帯に属している。(三島村のホームページより)
人口は三島合わせて400人ほどで村長さんもおられるそうです。

  鬼界カルデラが噴火してアカホヤという火山灰層を東北地方にまで作っています。

                   この三島が三島村です
                          実際は小さい島です  


Posted by マー君 at 14:12Comments(0)
9/4 読売新聞 編集手帳
いまごろの季節だろう。寺山修二に一句がある。〈秋風やひとさし指は誰の墓〉。澄みわたった青空を指して立つ指が目に浮かぶ。この指とまれ。遊び仲間を誘った子供の昔がなつかしい◆無邪気な鬼ごっこならばともかく、「〝いじめ〟ごっこするもの、この指とまれ」と呼びかけても、良識ある国は耳を貸さない。式典の性格が友好的でないとして欧米の主要国が首脳の参加を見送ったのは当然だろう◆中国政府が軍事力を誇示するとともに反日宣伝の舞台として用いた「抗日戦争勝利70年」の記念行事と軍事パレードである◆近隣諸国で評判の悪い腕ずくの外交を習近平政権が改める可能性。潘基文事務総長の出席によって傷ついた国連の中立性・・・。ひとさし指の墓に埋葬されたものはいろいろありそうである◆寺山で思い出した詩の一節がある。〈ふりむくな/ふりむくな/後ろには夢がない〉(『さらばハイセイコー』)。かって日本が中国を侵略した過去を思うとき、「ふりむくな」と言うつもりは断じてない。ないが、悪意をこめて後ろ〝ばかり〟を振り向くのはまた話が別である。あまりにも夢がない。
中国の抗日戦勝70年式典をもじった記事なのだが、何故いつまでもこのような問題が続くのだろうか、戦後処理がきちんと行われていないというのが原因なんでしょうがしかし戦争を全く知らない世代になりつつあります。いろいろ考えさせられる今日この頃です。

     

  


Posted by マー君 at 18:28Comments(0)記事
9/2(水) 八代市立図書館で 山田 章則氏(熊本高専名誉教授)による 語りと映像で読む森鴎外著「雁」1の講座がありました。先生のお話はいつもわかり易く、作者の説明、小説の登場人物、小説のあらすじから物語の意味、物語の構造まで詳しく解説され、語り(朗読)と映像を交えながら物語の要点を説明して下さるので、非常に勉強になります。鴎外の作品は昔読んだことはありますが、文語体の文章で読みづらい印象がありましたが今は現代語訳の文章になっているので読みやすくなっています。先生は「雁」をよりわかり易く読めるように①岡田の人物像、②岡田とお玉の最初の出会い、③末蔵の人物像、④お玉の家庭環境、と4つのテキストを作られ、それを読むことにより物語の人間関係を捉えやすくされています。『雁』の主要なテーマは偶然によって人生が変わっていく事を述べていますが、これは鴎外自身の人生体験から出たものを物語っていると思います。雁では三つの偶然によって、お玉のいじらしい悲願(恋)はかなわなかったのですが、 偶然による運命のはかなさをひしひしと感じさせる内容になっています。
森鴎外著「雁」一読あれ。

森鴎外 本名林太郎 1862年(文久二年)、石見国鹿足郡津和野町(現・島根県鹿足郡津和野町)生まれ。代々津和野藩亀井家の典医の家柄で、鴎外もその影響から第一大学区医学校(現・東大医学部)予科に入学。両親の意に従い陸軍軍医となる。1862-1922(大正十一年) 明治大正期の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医


  


Posted by マー君 at 17:08Comments(0)講座

2015年09月01日

海の底が山の中






隠れた球磨の名所・神瀬の石灰洞窟 (場所) 球磨郡球磨村岩戸
この洞窟は石灰岩の地層で出きており、開口広さ45m、高さ17m、奥行き70mと、日本最大の洞口を持つ洞窟とされています。石灰岩は、炭酸カルシウム(CaCO3)を50%以上含む堆積岩で炭酸カルシウムの比率が高い場合は白色を呈するが、不純物により着色し、灰色や茶色、黒色の石灰岩もあります。炭酸カルシウムは、酸性の液に二酸化炭素の泡を出してとけます。地表に降る雨は、弱い酸性をしています。そのため、雨水が石灰岩の割れ目やすき間をとおって流れる時、石灰岩を少しずつとかしていきます。この現象が長い年月をかけてすすむと石灰岩の中に大きな空洞(くうどう)が出きあがります。そして、空洞内の天井から石灰岩をとかした雨水がポタポタ落ちる現象が続くと、そこに鍾乳石ができます。こうして出きあがったものが、鍾乳洞(しょうにゅうどう)です。ではなぜこの山奥に洞窟が出来るような石灰岩層があるのかこの石灰洞窟がどのように形成されたのか、石灰石鉱業協会にわかり易い資料がありましたので紹介させてもらいます。

石灰岩の形成過程
地球の表層はプレートと呼ばれる岩板からなっており、プレート同士が年間数cm程度の速度で相対的に移動しています。海嶺(かいれい)においてマントルから上昇してきたマグマが冷えて固まり、新しい海洋プレートとなり次々に海嶺の両側へ移動していきます。また、海洋底にあるマグマの噴出口(ホットスポット)から上昇してきたマグマが固まり海山が出来ますが、海面上にまで達した海山の頂部にはサンゴ、石灰藻、コケ虫など炭酸塩の殻を持つ様々な生物が複合して礁を形成します。このような生物礁が現在の石灰岩の「もと」になるのです。

石灰岩の形成過程(模式図)

 海洋プレートは年間数cmの速度で移動しているため、その上にある海山と石灰岩も移動して行きます。海洋プレートは海溝に達すると大陸プレートの下に沈み込みますが、このとき、海洋プレート上にある石灰岩をはじめ、海洋底表層の珪質堆積物や海溝充填堆積物(砂や泥)の一部が大陸プレート側に付加されます。このようにして出来た地質体を「付加体」といいます。
 現在日本に存在している石灰岩の多くは、今から3~2億年前頃に熱帯域で生物礁として堆積し、2億5千~1億5千万年前頃に沈み込み帯で付加体として大陸側に付加されたものであることが分かっています(当時、日本列島はまだ島弧ではなく、大陸の一部でした)。
 このような形成史から、日本の石灰岩の特徴としては「広い海洋の海山上に堆積したため大陸から土砂の流入が無く、炭酸カルシウムの純度(品位)が高い」という特徴があります。石灰岩は世界中に広く分布している岩石ですが、世界の石灰岩の多くは大陸プレート上の浅い海に堆積したものであり、陸から土砂の流入を受けているため一般的に日本の石灰岩と比較すると品位が低く、また層準ごとの品位変動が大きいことが特徴であると言えます。

神瀬石灰洞窟(熊本県指定天然記念物)は平成27年3月に国指定名勝となりました。

博物館ネットワークセンター・、石灰石鉱業協会の資料参考  


Posted by マー君 at 12:51Comments(0)熊本