2018年01月22日
第4回講座「金峰山の地質」(熊本城石垣の実施見学)
博物館ネットワークセンターの黒田さんや川路さんから熊本県の岩石・鉱物・化石について岩石名・鉱物名・化石名と主要産地についての豆知識を教そわりました。順に溶結凝灰岩・阿蘇山周辺、鱗珪石(トリディマイト)・熊本市島崎の石神山、白亜紀恐竜化石群・天草市,御船町となっており、この場所は鱗珪石(トリディマイト)の主要産地であったと教えていただきました。※日本地質学会の県の石リストを見るとすべての県のリストが分かります。
※キリスト教信仰が自由になった(明治6年・1873年)3年後の明治9年に起こった事件で、ジェーンズの教えを受けていた熊本洋学校の生徒35名が花岡山に集まりキリスト教に身を捧げる誓いをたてました。これを熊本バンド(同盟)と称し、世界のキリスト教の歴史に大きな光を残しています。
※板状節理
熔岩流の上下面にほぼ平行に発達し,多数の平行な板状に規則的に割れるもので,熔岩流や火山砕屑岩などの中の不均質岩が原因のものが多い.日本では小田原南方の根府川石や諏訪付近の鉄平石などがある.
1月21日(日)は「金峰山の地質」の講座があり、熊本の石神山公園を集合場所として「熊本城の石垣の見学及び解説」を目的として
①三の丸駐車場にて宮内橋脇石垣の解説
②二の丸御門の石垣見学及び解説
③宮内橋脇石垣崩落現場見学及び解説
その後花岡山、石神山の石切り場見学
という内容になっていますが①~③まではブラタモリ熊本に案内役で出演された市職員の古島さんが説明をされました。
熊本城の石垣に使われている石の大きさは大阪城や名古屋城などに使われているような大きなものはなく運びやすく積みやすい物がほとんどです。また古文書や古絵図などから熊本城の石垣は多くの箇所で普請を重ねており、宮内橋脇の石垣は江戸時代の初めころ(1634)、細川忠利の時に幕府からの許しを得て普請を行っています。
また明治5年(1872)に熊本城は陸軍用地に編入され宮内橋がかけられた際にも石垣の改築を行っています。加藤から細川が積んだ石垣は安山岩を用いていますが、明治になって橋を架けるために造られた石垣には溶結凝灰岩が使われています。
熊本城の石垣はどこから運んだのか?
そんな疑問も話に上がり、『御大工棟梁善蔵聞覚控(写)』というものに
「ざいもくのぶんな、あそ、きくち、茶うす山、ごんげん山からも、きり出しになり、石は六かう山、ぎおん山とおかみガたけ、つのうらあたりからも、とりよせなはったばい。」
「きんま道から木と石をはこんだが、車のあったけんでけたったい。男山と女山のさかい目をたち切って、もとのしろから茶うす山に引きなほしはった大しかけは、はじめのしろよりも、ことぎょう山なふしんであった。」
【現代語訳】
「材木については阿蘇・菊池・茶臼山・権現山の方からも切り出し、石は六甲山(独鈷山)・祇園山(花岡山)・拝カ嶽(拝カ石)・津浦辺りからも取り寄せられた。」
「木馬道から木と石を運んだが、車があったから出来たのだ。男山と女山の境目を断ち切って元の城から茶臼山に(縄張りを)引き直された計画は、最初の城よりもとても仰山な大普請だった。」
この文章からは熊本城の石垣の石は熊本城に近い場所、何カ所から集められ、恐らく転石を集めてそれを加工したと思われる。
Posted by マー君 at 13:42│Comments(0)
│地学