さまざまな勢力が連携したり、離れたりする「合従連衡(がっしょうれんこう)」という言葉は、中国の故事に由来する。史実に関しては諸説あるが、司馬遷(しばせん)の史記によると戦国時代、強国の秦(しん)に対し他国は連合する合従策で対抗した。だが、秦が個別に連携を促す連衡策を仕掛けたため、分断されてしまう▲参院選で岸田文雄首相が率いる自民党が改選過半数の議席を得て大勝した。安倍晋三元首相が銃撃で死去する衝撃のさなかの投票だけに、その影響を指摘する声もある。とはいえ、もともと情勢調査では自民の堅調が伝えられていた▲国会で安全運転に努め、守りに徹して民意の及第点を得た首相である。ただし、一方で与党は巧みに野党に「連衡」の揺さぶりをかけていた。国民民主党を予算案賛成に引き込むなど野党を分断した。焦点の1人区で野党の選挙協力という「合従」を不発に終わらせた与党の戦術勝ちでもあった▲岸田内閣の政権運営は当面安泰とみて「黄金の3年」という表現すらある。だが、首相がどんな公約を具体的に掲げたかとなると、はっきりしない▲改憲勢力は伸びたが選挙で項目を絞り込んだわけでもない。有権者の野党への不満が反射的に安定志向を生み、自民の追い風を呼んだというのが実態ではないか▲それだけに深刻なのは野党の多弱化である。ひとまず合従連衡の駆け引きから離れて、理念、政策、組織を足元から見つめ直してはどうか。さもないと、その後他国を滅ぼした秦のような「超1強」支配の国会になってしまう。
毎日新聞余禄 2022/07/12

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合従連衡(がっしょうれんこう)は、中国の戦国時代の外交である合従策および連衡策を併せていうもの。転じて、状況に応じて各勢力が結び、また離れるさまを示す故事成語となった。

秦の歴史
 秦は中国の歴史において非常に重要な王朝です。周代・春秋時代・戦国時代にわたって存在し、始皇帝は紀元前230年から紀元前221年にかけて漢、趙、魏、楚、燕、斉の6か国を征服し、初めて中国を統一しました。統一から滅亡までの期間を秦朝と呼ぶ、首都は咸陽です。

 統一後,秦はそれまでの社会体制を大改革し,郡県制の中央集権体制をしき,これらの制度はのちの中国各王朝に引きつがれることになります。また、文字、通貨、度量衡を統一し中国に多くの先駆的な貢献をしました。

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Posted by マー君 at 09:41│Comments(0)歴史出来事
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