昨日は八代市立博物館で10月19日~11月25日まで開催している「ザ・家老 松井康之と興長 ~細川家を支え続けた「忠義」~」という本年度秋季特別展示会の第2回目の講演会が有りました。第1回目は10月27日に熊本大学永青文庫研究センター教授の稲葉継陽教授を迎えて「日本史における諫言の機能と役割 松井興長を中心に」という講演をしていただきました。そして今回は当博物館の学芸員、林千寿さんが、「松井康之という生き方、松井興長という生き方」と題してこの展示会のために作られた松井家2代の人生双六や松井家がどこからこの八代にやって来たのか「松井家ゆかりの地」のレシピ、康之と興長の人物相関図や松井康之の遺書、松井興長の諫言集の中から代表的なものを2点そして興長の遺書について双六をもとにして話をされました。細川家が明治を迎えるまで長く生き続けてこられた陰には初代の頃から忠義一筋に主家を支え続けた松井家の奉公があったからこそ。松井文庫に遺る数々の史料を松井康之に関するものと、興長に関するものを博物館の階を分けて展示しています。
人の生き方について考えさせられる展示会です。

右、松井康之像 慶長17年(1612) 左、松井興長像 寛文3年(1663)


松井康之は細川藤孝、細川忠興の親子2代に仕え豊臣秀吉の家臣でもありました。
松井興長は細川忠興、細川忠利、細川光尚、細川綱利の細川家4代に仕えています。

①勝龍寺城(京都府長岡京市東神足)織田信長の上洛後、勝龍寺城は細川藤孝の居城となった。藤孝に従った松井康之は、永禄12年(1569)、勝龍寺城下に50町の領地と屋敷を与えられた。
②久美城(京都府京丹後市久美浜町)天正10年(1582)から慶長5年(1600)にかけて、松井康之が居城した城。康之の主君細川藤孝が天正8年(1580)に織田信長から丹後一国の支配を認められると,康之は丹後国内に知行地を与えられるとともに、丹後久美に新城を築くことを許された。
③木付城(大分県杵築市杵築)慶長6年(1601)から元和元年(1615)にかけて、松井家が居城した城、関ケ原合戦後、細川家が豊前・豊後に国替えになると、松井康之は木付城をあずけられるとともに、その周辺地域に2万5000石あまりの知行地を与えられた。元和元年の一国一城令により廃城。
④小倉城(福岡県北九州市小倉北区)慶長7年(1602)から寛永9年(1632)にかけて、細川藩主が居城した城。一国一城令で木付城が廃城になると、松井興長は小倉城かに移り住んだ。
⑤熊本城(熊本市本丸)寛永9年(1632)、細川家の肥後国替にともない、松井家は熊本城下に移り住んだ。二の丸(現在の二の丸駐車場西側、熊本医療センター付属看護学校)に上屋敷と下屋敷があった。
⑥八代城(熊本県八代市松江城町)肥後熊本城の支城。細川忠利の肥後入国とともに、忠利の父三斎の隠居城となったが、三斎死後の正保3年(1646)1646、松井興長にあずけられた。以後、明治3年(1870)に廃城になるまで、松井家が代々居城した。
人の生き方について考えさせられる展示会です。
右、松井康之像 慶長17年(1612) 左、松井興長像 寛文3年(1663)
松井康之は細川藤孝、細川忠興の親子2代に仕え豊臣秀吉の家臣でもありました。
松井興長は細川忠興、細川忠利、細川光尚、細川綱利の細川家4代に仕えています。
①勝龍寺城(京都府長岡京市東神足)織田信長の上洛後、勝龍寺城は細川藤孝の居城となった。藤孝に従った松井康之は、永禄12年(1569)、勝龍寺城下に50町の領地と屋敷を与えられた。
②久美城(京都府京丹後市久美浜町)天正10年(1582)から慶長5年(1600)にかけて、松井康之が居城した城。康之の主君細川藤孝が天正8年(1580)に織田信長から丹後一国の支配を認められると,康之は丹後国内に知行地を与えられるとともに、丹後久美に新城を築くことを許された。
③木付城(大分県杵築市杵築)慶長6年(1601)から元和元年(1615)にかけて、松井家が居城した城、関ケ原合戦後、細川家が豊前・豊後に国替えになると、松井康之は木付城をあずけられるとともに、その周辺地域に2万5000石あまりの知行地を与えられた。元和元年の一国一城令により廃城。
④小倉城(福岡県北九州市小倉北区)慶長7年(1602)から寛永9年(1632)にかけて、細川藩主が居城した城。一国一城令で木付城が廃城になると、松井興長は小倉城かに移り住んだ。
⑤熊本城(熊本市本丸)寛永9年(1632)、細川家の肥後国替にともない、松井家は熊本城下に移り住んだ。二の丸(現在の二の丸駐車場西側、熊本医療センター付属看護学校)に上屋敷と下屋敷があった。
⑥八代城(熊本県八代市松江城町)肥後熊本城の支城。細川忠利の肥後入国とともに、忠利の父三斎の隠居城となったが、三斎死後の正保3年(1646)1646、松井興長にあずけられた。以後、明治3年(1870)に廃城になるまで、松井家が代々居城した。