特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷

最近になってよく目につく広告に九州国立博物館の「特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷」があります。
古代の歴史に興味があるからかもしれませんが、昨年のさわやか大学の旅行で宗像大社まで行き、沖ノ島の出土品を展示している神宝館に寄れなかった悔しさがまだ頭の中に残っているからだろうと思います。
1月は予定が取れなかったので、2月に入ってすぐ九州国立博物館の特別展(3月5日まで)へ行く予定にしていましたが、鼻炎と風邪にやられて1週間身動きが取れない状態、〝やっぱり歳には勝てないのかな〟と我ながら再認識。症状も治まり、月末の25日(土)に朝から出かけましたが、高速道路は地震の復旧作業がまだ続いていて、松橋~益城インターまで片側通行で大渋滞。九州国立博物館に着いても、駐車場から展示場まですごい混雑の状態でした。2時間半ほどかかって展示物を鑑賞。

沖ノ島の収蔵品は海の正倉院と言われるほどに、貴重な品々が揃っており8万点もの出土品はすべて国宝に指定されています。
沖ノ島で祭祀が行われたのは4世紀後半から約550年にわたって執り行われました。
そのことは沖ノ島で執り行われた祭祀の場所が、時代ごとに4つの場所に移り変わっていることで判明しました。
沖ノ島の祭祀については、祭祀の始まりの時代からその地域の首長であった宗像氏が関わってきました。
沖ノ島の祭祀場所は時代により下記のように変遷します。
①岩上祭祀(4世紀後半~5世紀)
②岩陰祭祀(6世紀~7世紀)
③半岩陰祭祀(7世紀後半~8世紀)
④露天祭祀(8世紀~10世紀)


宗像大社の表参道から沖ノ島を延長すると、対馬の北部を経て韓国は釜山を見通す直線に並ぶことになり、沖ノ島は古代の対馬海峡、朝鮮海峡を横断する航路(海北道中)の守護神として人々に祀られました。
4世紀前半ごろ大和王権の勢力は北部九州まで及びますが、大和王権が加耶(かや)・百済(くだら)との関係を深めるために、重要な役割を持つと考えたのが「海北道中」を支配し、優れた航海術を持つ宗像氏です。
4世紀後半、沖ノ島における国家的な祭祀が大和王権によって行われるようになりました。これは、大和王権が加耶・百済との通好において、朝鮮半島へ渡る際の航海の安全を祈願したことから始まります。
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷海北道中
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷宗像郡の位置
古代、宗像地方を支配したのは海人族(あまぞく)である宗像氏であり、氏の長は「宗形君」でした。
「宗形君」は豪族であり今の宗像一円から遠賀(おんが)、鞍手(くらて)、糟屋(かすや)方面まで勢力を持ち、宗像三女神をお祀りする神官という立場と郡司を兼ねていました。
玄界灘に浮かぶ孤島である福岡県宗像市沖ノ島は、古墳時代の代表的な祭祀遺跡として知られています。
そこに捧げられた品々には、銅鏡や金銅製馬具など、古墳の副葬品としても最上級の品目が数多く含まれていて、七号遺跡出土の金銅製の馬具は、表面に鳥人像(人の顔と鳥の翼を持った生物の像)を透彫りしたもので、朝鮮半島の新羅地域で製作されたといわれている。
金銅製馬具の出土をはじめ、他の祭祀遺跡には認められない特徴が沖ノ島では数多く確認されていることから、この島における神まつりには、ヤマト王権がかかわった可能性が指摘されている。大陸や韓半島との盛んな交流のなかで入手された品々が捧げられ、航海の安全などが祈願されていました。
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷
「金銅製心葉形杏葉」沖ノ島7号遺跡(福岡県)=宗像大社蔵
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金製指輪 沖ノ島7号遺跡出土

4~6世紀に航海安全と交易成就を願う国家祭祀が行われた沖ノ島と比類される遺跡が韓国の全羅北道・扶安に竹幕洞祭祀遺跡(ちくまくどうさいしいせき)があります。竹幕洞祭祀遺跡は韓国で最初に発掘された祭祀遺跡です。
この遺跡は3世紀から4世紀にかけて壷中心にした土器を使う祭祀が行われ、5世紀から6世紀にかけては、百済の祭祀だけではなく、大伽耶、倭系のものが多数出土していて中には、中国陶磁もあり倭、伽耶、百済、中国のルート、交流跡です。
5~6世紀、海に突き出た岬で百済の人々が航海安全を願って行った儀式に、倭人も参加していたと思われます。
特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷
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竹幕洞祭祀遺跡は、韓半島の西海岸にある半島の先端にある遺跡です。

古墳時代に各地で行われた祭祀のなかで、具体的な様相が明らかとなりつつあるもの一つとして、水にかかわる祭祀があります。
奈良県御所市南郷(なんごう)大東(おおひがし)遺跡では、大規模な導水施設(貯水池から木樋(もくひ)で水を引き木槽(もくそう)に集め、沈殿とろ過で清浄な水を得る装置)の跡が見つかっており、水にかかわる祭祀が執り行われた場と考えられています。
また出土した土器の中には韓式系土器(朝鮮半島系の土器)が認められ、渡来系の人々もこの祭祀に関わっていたと考えられます。
一方、古墳からも祭祀の一端をうかがわせる埴輪がみつかっています。
先に触れた導水施設の形を表した埴輪が、大阪府八尾市心合寺山(しおんじやま)古墳や三重県松阪市宝塚1号墳、兵庫県加古川市行者塚(ぎょうじゃづか)古墳などでみつかっている。
このような埴輪が古墳の墳丘上に置かれていたことから、水にかかわる祭祀に、古墳に埋葬された首長が直接かかわったことが考えられ、祭祀遺跡と古墳の双方向から祭祀の実像が明らかにされつつあります。
王や首長たちにとって、大規模な古墳を造営することや政治(まつりごと)とともに、祭祀を司祭者として執り行うことも、彼らの重要な職務でありました。
また、祭祀遺跡のなかには渡来系の出土品がみつかっている遺跡もあり、古墳時代における韓半島との活発な交流が信仰の世界にも及んでいることが伺える点は興味深いものです。
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導水の囲形埴輪
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酒船石(さかふねいし)遺跡(斉明天皇2年(656年))奈良県明日香村

古墳時代は、前方後円墳や円墳などの、墳と呼ばれる土を高くもりあげたお墓が盛んに造られた時代をいいます。
前方後円墳は、日本独自の古墳の形です。そこに葬られた人物は、大和朝廷と交友関係を持ち、その地域を治めていたリーダーであったと考えられています。 
古来、神まつりはさまざまな場で行われていたといわれています。
古墳時代には、王や首長の住まう居館、集落、井戸、水辺、あるいは山や巨岩をのぞむ場などで神まつりが営まれていました。
宗像地域(宗像市、福津(ふくつ)市)にある前方後円墳は、現在約40基が知られています。
これらの前方後円墳は、3世紀後半から6世紀終わりごろにかけてつくられたものです。
つくられた場所は、入海(いりうみ)の海岸ぞいにあり、海が見渡せる小高い丘の上につくられています。
これらの古墳は、どうやら海を意識してつくられていたようです。
前方後円墳は福岡県全体で約200基が発見されていますが、そのうちの40基が宗像地域にあります。
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宗像(むなかた)と表示する地域は、古代には現在より広い地域を表していました。宗像氏が支配する地域と同じでした。
701(大宝元)年に制定された大宝律令によって国郡里制が施行されましたが、筑前国の宗像郡は、北は玄界灘、東は遠賀郡、南は鞍手郡、西は糟屋郡に接していました。宗像氏が支配する地域は隣接する郡を越えていました。
宗像には海岸近くに縄文時代の遺跡があり、狩猟・漁労生活を営んでいたと思われます。
釣川流域の平野を望む高台には弥生時代の集落跡があります。
宗像は、古代、海人の豪族胸形氏(胸肩氏・宗形氏とも表す)が支配する地方でした。
宗像大社に祭られている宗像三女神は、胸形氏が祭る神々でした。朝鮮半島との結びつきが強くなるに従い、海上交通を守護する神として、中央とも関係深い神となっていきました。

隣接した福津市の北部の丘陵地や台地に津屋崎古墳群が分布しています。5世紀から7世紀にかけての前方後円墳、円墳等60基を数えます。胸形氏一族の古墳群といわれています。
宗像の古墳や遺跡から出土する土器や鉄でつくられた道具、アクセサリーなどのなかには、中国や朝鮮半島でつくられた道具など、「海」を渡って交易しなければ手に入らない品々が発見されています。
このことから、たくみに船をあやつって玄界灘にこぎだしていく、「むなかた海人」の活躍がうかがえます。
日本の各地に勢力を広げていく過程においてヤマト政権は、朝鮮半島の国々や中国との交易の拠点として宗像の地はどうしても手に入れておきたい地であったと思われます。
九州歴史資料館(福岡県小郡市)は2015年3月16日、同県行橋市の延永ヤヨミ園遺跡(のぶながヤヨミそのいせき)から九州で初めて出土した古墳時代の水の祭祀遺構「導水施設」の木樋(もくひ)が、3世紀中ごろー4世紀中ごろのものと判明したと発表しました。
毎日新聞が報じています。写真は延永ヤヨミ園遺跡。(出典:九州歴史資料館)・・・2015年03月17日
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毎日新聞は続けて、「ヤマト政権発祥の地とされる奈良県の纒向遺跡で出土した国内最古の3世紀後半-4世紀初頭のものとほぼ同時期で、近畿で始まった水の祭祀が極めて短期間に九州にも伝わっていたことになる。誕生したばかりのヤマト政権が延永ヤヨミ園遺跡一帯を九州支配の拠点としていたとみる識者もいる」としています。
さらに、導水施設について、「木樋や木槽などに水を流し、上澄みの浄水を得る古墳時代の施設。木樋の周囲は建物や壁で覆う例が多く、神聖な場所の隔離とみられることから祭祀施設とされる。近畿中心に群馬県など全国13遺跡で確認され、施設をかたどった埴輪や石製品も三重、東京、大分など全国12地点で出土している」。
要は疑似的な川・河をつくったもの。上記では神聖な場所としていますが、川・河で連想されるのは、この世とあの世、此岸と彼岸。死者に対する特別な儀式が行われていたのかもしれません。
時期的には前方後円墳の出現期と同じ。前方後円墳というあの巨大な築造物こそ、ほとんど間をおかず、畿内と、九州など各地で突如誕生することから、こうした施設や祭祀、遺構が畿内と九州で同時期のものが見つかっても、それほど不思議はないような気がします。
前方後円墳はお墓。そしてそれは、大規模なものになればなるほど周濠を持つのが通例になります。これも疑似的な川・河でしょうか。「導水施設」と同じ発想だった、さらに飛躍させれば、前方後円墳と「導水施設」は思想的にはセットであり、同じタイミングで畿内から波及した、とも言えるかもしれません。
前方後円墳は古代祭祀、さらには古代日本すべての事象を解き明かす、まさに“鍵穴”の可能性があり、関連するかもしれない祭祀の遺構の発見や研究がさらに進展することが望まれます。古墳時代の首長居館に導水施設が取り込まれている例や、囲形埴輪が古墳の祭祀に用いられていることから見られるように、導水施設は、その時代の首長の祭祀に深く関わりを持つ施設であったといえます。


岩上祭祀が行われ始めた4世紀後半頃は卑弥呼が亡くなった248年頃から100年以上先の時代になります。
また中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本に おいて「空白の4世紀」とも呼ばれています。
4世紀は下記に記された石上神社所蔵の七支刀と高句麗の広開土王碑のみが今のところ唯一の歴史資料です。

【3世紀~5世紀の歴史年表】
239年 - 倭の女王卑弥呼が帯方郡に使者を送り、魏の明帝への奉献を願う。帯方郡の太守である劉夏は使者を魏の洛陽へ送る。明帝は詔して、卑弥呼を「親魏倭王」とし、金印紫綬・銅鏡100枚を授ける(魏の景初三年『三国志』魏書・東夷伝)。
243年 - 倭王が魏に使者を送り、生ロ・倭錦などを献じる(魏の正始4年、『三国志』魏書・小帝紀、同東夷伝)。
245年 - 魏の少帝、倭の大夫に黄幢を授け、帯方郡を通じて伝授させることとする(魏の正始六年、『三国志』魏書・東夷伝)。
247年 - 倭の女王卑弥呼、倭の使者を帯方郡に遣わし、狗奴国との交戦を告げる。魏は、使者を倭に派遣し、詔書・黄幢を倭の大夫に与え、檄       をつくって告喩する(魏の正始八年、『三国志』魏書・東夷伝)。
248年頃 - この頃、女王卑弥呼死す。その後、卑弥呼の宗女・壱与(または台与)が女王となる。
266年 - 倭の女王が晋に使節を派遣する(『日本書紀』の神功紀66条に引く晋起居注。『晋書』武帝紀、西晋の泰始二年)。
     この頃(300年頃)、日本では銅鐸・武器系祭器による祭祀が終わる。北部九州の甕棺墓も衰退する。西日本各地に、特殊な壺形土器、     器台形土器を供献した墳丘墓(首長墓)が現れる。
     日本では古墳時代にあたる。
     4世紀の初め頃から福岡県沖ノ島で盛んに祭祀が行われる(平安時代初期頃まで続いた)。   
369年 倭国が朝鮮半島南部に任那を建国、倭国の北限とする。
    石上神宮に所蔵されている七支刀は銘文によるとこの年に作られたか。第13代百済の近肖古王(きんしょうこおう、生年不詳 - 375年・在    位:346年 - 375年)が倭国に対して七支刀を贈り、東晋~百済~倭のラインで高句麗に対抗する外交戦略をとった。。こうした対高句麗    の外交戦略は、次代の近仇首王(きんきゅうしゅおう)にも引き継がれ、百済にとっての基本的な外交態勢となった.
391年 - 倭軍が渡海して百済・新羅を破り、臣民とする(高句麗広開土王碑)。
    中国の歴史文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述がなく、ヤマト王権の成立過程などが把握できないため、日本に    おいて「空白の4世紀」とも呼ばれている。
5世紀
    日本では倭国の古墳時代中期にあたる。各地で巨大な前方後円墳が築造され、地方とヤマト王権中枢双方のの首長たちの祭祀儀礼が     執り行われる。この世紀の倭国は朝鮮半島諸国間の紛争に活発に武力介入を行っていたことが、日本側と朝鮮半島側双方の歴史記録     から伺われる。当時の5代に及ぶ治天下大王が東晋から南朝にかけての江南の王朝に盛んに朝貢して王号と官職を得ていたことが中国    正史の記述に残されており、倭の五王として知られている。
400年代初頭 - 大王クラスの大形前方後円墳が奈良盆地から大阪平野に移り更に巨大化する。
    大仙古墳(伝仁徳天皇陵)や誉田御廟山古墳(伝応神天皇陵)が代表例。副葬品に人物埴輪が現れる。
404年 倭軍がもとの帯方郡の地域に出兵し、高句麗軍に撃退される(広開土王碑)。
413年 倭国が東晋に朝貢する(東晋・義煕9、『晋書』安帝紀、『太平御覧』)。
414年 高句麗の広開土王(好太王)碑建つ。
421年(宋・永初2年)- 倭王の讃、宋に朝貢し、宋の武帝から、除綬の詔うける(おそらく安東将軍倭国王)(『宋書』倭国伝)。
425年 (宋・元嘉2年)- 倭王の讃、司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる(『宋書』倭国伝)。
430年 (宋・元嘉7年)- 倭国王、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる(おそらく讃)(『宋書』文帝紀)。
430年頃 - 各地に巨大古墳出現する。馬具や甲冑、刀などの武器が副葬されるようになる。
438年 (宋・元嘉15年)- これより先、倭王讃没し、弟珍立つ。この年、珍宋に朝貢し、自ら「使持節都督・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事    安東太将軍倭国王」と称し、正式の任命を求める(『倭国』倭国伝)。4月、宋の文帝、珍を安東将軍倭国王とする(『宋書』文帝紀)。珍はま    た倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(『宋書』倭国伝)。
439年北魏の太武帝が甘粛河西[要曖昧さ回避]の北涼を滅ぼし華北を統一。五胡十六国時代が終わり、南北朝時代が始まる。
440年代440-450年 - 千葉県市原市の養老川下流域の北岸台地上の稲荷台1号墳で出土した「王賜銘」鉄剣が房総の王に授けられる。
443年 (宋・元嘉20年)- 倭国王の済、宋に朝貢して、安東将軍倭国王とされる。
463年 吉備氏の乱が起こる。星川皇子の乱が起こる。
471年 - 埼玉県行田市稲荷山古墳から出土した「辛亥年七月中」の干支銘を持つ金錯銘鉄剣が製作される。
477年 - 倭国が宋に朝貢する(『宋書』順帝紀)。これより先、興没し、弟の武立つ。
478年 - 倭王武が宋に入貢して上表する。「父祖の功績と父兄の志を述べ、高句麗の無道を糾弾し、自ら開府儀同三司と称し、正式の任命を求     める。宋の順帝武を「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭王」とする(『宋書』順帝紀、『宋書』倭伝)。


弥生時代の終わりごろ邪馬台国という国があり、その後100年ほどの間に政権が何らかの形で移行され、近畿地方にヤマト政権が誕生しました。
その頃、日本の国は古事記・日本書紀による「国生み」の神話では大八島とされていました。
伊邪那岐・伊邪那美の二神は、大八島を構成する島々を生み出していきました。産んだ島を順に記すと下のとおり。
①淡道之穂之狭別島(あはぢのほのさわけのしま):淡路島
②伊予之二名島(いよのふたなのしま):四国
●胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
●愛比売(えひめ):伊予国
●飯依比古(いひよりひこ):讃岐国
●大宜都比売(おほげつひめ):阿波国(後に食物神としても登場する)
●建依別(たけよりわけ):土佐国
③隠伎之三子島(おきのみつごのしま):隠岐島
別名は天之忍許呂別(あめのおしころわけ)
④筑紫島(つくしのしま):九州
●胴体が1つで、顔が4つある。顔のそれぞれの名は以下の通り。
●白日別(しらひわけ):筑紫国
●豊日別(とよひわけ):豊国
●建日向日豊久士比泥別(たけひむかひとよじひねわけ):肥国
●建日別(たけひわけ):熊曽国
⑤伊伎島(いきのしま):壱岐島
別名は天比登都柱(あめひとつばしら)
⑥津島(つしま):対馬
別名は天之狭手依比売(あめのさでよりひめ)
⑦佐度島(さどのしま):佐渡島
⑧大倭豊秋津島(おほやまととよあきつしま):本州
別名は天御虚空豊秋津根別(あまつみそらとよあきつねわけ)
以上の八島が最初に生成されたため、日本を大八島国(おおやしまのくに)という

九州はこの頃筑紫島(つくしのしま)と呼ばれ、筑紫国、豊国、肥国、熊襲国が有ったと書いてあります。
九州にヤマト政権の影響が大きく及ぶのは、継体天皇の時代と考えられ、まだまだヤマト王権は中央集権体制と呼べるほどの強大な権力を持っておらず、大和地方以外の九州北部や関東地方では地方分権的な独立勢力が多く残っていました。
つまり、大和政権は日本各地を隅々まで直接的に統治できるような政治体制ではなかったわけで、九州には筑紫君磐井(つくしのきみいわい)や火君(ひのきみ)、関東には上毛野君(かみつけのきみ)や下毛野君(しもつけのきみ)という強大な豪族勢力が存在していました。
これらの地方の大豪族は形式的にはヤマト王権に臣従していましたが、それほど大きな力の差があるわけではなく、ヤマト王権と対等な立場に立つという気概を完全に捨て去ったわけではありませんでした。
『継体天皇の朝鮮出兵(対新羅)』における九州の人民の徴兵によってヤマト王権への不満が高まったことが原因とも言われますが、遂に、527年に筑紫君磐井(つくしのきみいわい)がヤマト王権に反乱を起こします。
これが『磐井の乱(527)』と呼ばれる大規模な大和朝廷に対する反乱になるわけですが、筑紫君磐井が反乱を起こした背景には『朝鮮外交の利害対立・九州と新羅の結びつき』が深く関与していたのではないかと見られています。
『日本書紀』によると、大和朝廷は527年に新羅に侵略された任那の南加羅を奪い返すために、近江臣毛野(おうみのおみけの)を将軍とする約6万人の軍勢を朝鮮に派兵しようとしたといいます。
中央政府である大和朝廷は百済との同盟を結んでいて、『南加羅の復興と百済の救援』という大義名分を持って出兵しようとしたのですが、地方豪族である筑紫君磐井は新羅との同盟を結んでいて、近江臣毛野率いる軍勢が朝鮮に渡ろうとするのを妨害しました。
また、大和朝廷と磐井との対立には、『同盟関係・朝鮮外交の利害』だけでなく『政治的な主従関係への反発・朝鮮出兵にかかる重い負担』もあったと言われ、筑紫君磐井は朝廷から一方的に朝鮮出兵の命令を受けるのを快く思っていなかったようです。
中央政府の統制強化に反旗を翻した豪族の筑紫君磐井ですが、結局、『磐井の乱』は翌年の528年に物部麁鹿火(もののべのあらかい)率いる軍勢によって鎮圧されることになります。
九州地方の大豪族として勢威を振るっていた筑紫君磐井が、継体天皇の大和朝廷に討伐されたことにより大和朝廷の政治的な支配統制能力はより一層の拡大を見せることとなりました。

特別展 宗像・沖ノ島と大和朝廷
新原(しんばる)・奴山(ぬやま)古墳群

宗像郡(むなかたぐん)は、福岡県(筑前国)にあった郡。
宗像は古くは宗形、胸形とも書き、宗像神社(宗像大社)の所在地として重んじられていた。大化から天武天皇期にかけて順次設置されたとされる八神郡のひとつであり、文武天皇2年(698年)3月9日には近親者の連任を許す詔が下されている。一般に郡(評)を治める郡司(評司)に近親者を続けて任命することは禁止されていたが、宗像郡では神社を代々まつってきた宗形氏が重視されたものである。8世紀には宗像神社の神官が郡の大領を兼任したが、この制度は延暦19年(800年)12月4日に廃止された

神郡しんぐん
「かみごおり」とも読む。一郡すべてが神社の所領となるもの。養老7 (723) 年には,伊勢国度会,多気 (伊勢神宮) ,安房国安房 (安房神社) ,出雲国意宇 (出雲大社) ,筑前国宗像 (宗像大社) ,常陸国鹿島 (鹿島神宮) ,下総国香取 (香取神宮) ,紀伊国名草 (日前,国懸神宮) を八神郡と呼んだ。 神領の一。一郡を神社の所領とし、租税を諸祭料などの費用にあてた

【鉄資源、大陸文化の移入】
・朝鮮との行き来は頻繁であった。海を渡るとき、その安全を祈願したのが沖ノ島であり、海の正倉院と呼ばれ、渡海安全を祈念した鏡などが遺跡に残されてい る。
これらは本州中央で作ったものである。また、朝鮮半島南部でも倭で作られた土師器や鏡が出ている。前方後円墳もあるなど、日本と朝鮮半島南部との関わ りは深い。おそらく、言葉も通じたのではないかと思われます。
倭国は4世紀末には、百済と新羅を服属させ、朝貢させていたのですが、大和政権の権益がある伽耶地域に対して手を伸ばそうとしてきます。大和政権は、朝鮮と密接な関係を保ち、そこから鉄を輸入することで他勢力に対して優位に立っていたので、伽耶地域を失うわけにはいきません。
こうして大和政権の軍勢は海を渡り、391年に百済と新羅を破ります。
さらに399年になると大和政権は百済と手を組むことにし、新羅を再び破るのですが、新羅は高句麗の広開土王(好太王)(374~412年)に援軍を要請。翌年、騎馬隊の戦力に勝る高句麗軍は大和政権の軍勢を破りました。
しかし、大和政権はすぐさま再攻撃に出ます。
404年になると、なんと朝鮮半島北西部まで怒濤の攻撃を繰り出すのです。
・・・が、やはりこれも高句麗軍の猛烈な反撃に遭い、見事に大敗を喫し、これによってしばらく、大和政権は本格的な朝鮮半島への軍事介入を諦めました。
以上の高句麗VS大和政権(倭)の交戦の記録は、当時、高句麗が都を置いていた丸都(がんと 現・中国吉林省集安市)にある好太王碑にシンプルながらも書かれています。これは、広開土王の一代記を記した碑文で、当時の日本と朝鮮の関係を記した、唯一と言ってもいい貴重な資料となっています。
古墳時代の首長は、各地の政治的な指導者であったと同時に、実際に農耕儀礼をおこないながら神を祀る司祭者でもあったという性格をあらわしている祭政一致の地位にありました。
列島各地の首長は、ヤマトの王の宗教的な権威を認め、前方後円墳という、王と同じ型式の古墳造営と首長位の継承儀礼をおこなってヤマト政権連合に参画し、対外的に倭を代表し、貿易等の利権を占有するヤマト王から素材鉄などの供給をうけ、貢物など物的・人的見返りを提供したものと考えられます。
  



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