今日の読売「USO⚡放送 」に キスの味 思い出だけになった ーキスミント
人には色々な思い出があります。
時間というものはときには残酷なもの。
何日か前の西日本新聞【春秋】にもラブレターの話がありました。
この手紙の発見により歴史の中にも隠れた物語がいっぱいあることが分かりました。
でも、お滝さんのシーボルトに宛てたこの手紙にも虚しさを感じずにはおれません。

江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルトに、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかった。シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としている。
オランダ語訳の存在は知られていたが、日本語原本の所在は不明だった。ライデン大大学院生が同大の日本関係資料の中で発見し、宮崎教授が確認した。
シーボルトは長崎・出島のオランダ商館の医師として1823年に来日。遊女だったお滝と知り合い、後に初の日本人女医となる娘イネを授かる。だが、持ち出しが禁止された日本地図を国外に運ぼうとしていたことが発覚し、29年末に国外追放となった。
手紙は30年12月に書かれた。シーボルトがオランダに戻る途中のインドネシアから同年3月に書き送り、8月に長崎に届いた3通の便りへの返事。オランダのシーボルトの元には31年夏ごろ、届けられたとみられる。
手紙は全長3・4メートルもあり、「この(3通の)手紙をあなたと思って、毎日、忘れることはありません」「くれぐれも病気にならず元気に暮らしてください」などと記し、娘の様子にも触れている。宮崎教授は筆跡などからお滝が語った内容を第三者が代筆したと分析している。
お滝が手紙と一緒に送ったとみられる自身と娘の姿が描かれた嗅ぎたばこ入れは現在日本にあり、シーボルトがお滝に送った手紙はドイツにある。シーボルトが59年に再来日した際に、お互いの品を交換したらしい。共に保存状態も良く、宮崎教授は「お互いのことを本当に大事に思っていたのでしょう」と話している。
=2018/10/12付 西日本新聞朝刊=

シーボルト
ジーボルトとも。江戸後期のオランダ商館医。ドイツ人。ビュルツブルクの生れ。医学と博物学を学び,1823年長崎出島に着任,日本研究のかたわら日本人患者を診療し,1824年長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾を設けて高野長英,高良斎(こうりょうさい),伊東玄朴,戸塚静海,美馬順三,二宮敬作ら多くの門人を指導,1826年には商館長の江戸参府に同行した。1828年シーボルト事件を起こし翌年追放されたが,日蘭通商条約締結後の1859年長子アレクサンダー〔1846-1911〕を伴って再び来日した。著書に《日本》《日本動物誌》《日本植物誌》《江戸参府紀行》などがある。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)(滝)との間に生まれた娘〈いね〉(楠本いね)はのち女医となっている。アレクサンダーは英国公使館などの通訳を経て,1870年―1910年日本外務省に勤めた。→蘭学

楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日(1827年5月31日)- 明治36年(1903年)8月26日[1])は、日本の医師。現 長崎県長崎市出身。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた。
1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807-69)の間に生まれる。
「楠本」は母の姓である。父シーボルトの名に漢字を当て、「失本(しいもと)イネ」とも名乗った。
母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも[要出典]宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・タダがいた。タダ自身の手記によれば、イネは石井によって船中で強姦されて妊娠した。タダの手記はWikipediaでご覧ください。
人には色々な思い出があります。
時間というものはときには残酷なもの。
何日か前の西日本新聞【春秋】にもラブレターの話がありました。
この手紙の発見により歴史の中にも隠れた物語がいっぱいあることが分かりました。
でも、お滝さんのシーボルトに宛てたこの手紙にも虚しさを感じずにはおれません。

江戸時代に来日し、その後国外追放になったドイツ人医師シーボルトに、日本人妻お滝が送った最も古い手紙がオランダ・ライデン大で見つかった。シーボルトへの深い愛が伝わる内容で、調査した西南学院大の宮崎克則教授は「欧州に送られた最も古い日本語のラブレター」としている。
オランダ語訳の存在は知られていたが、日本語原本の所在は不明だった。ライデン大大学院生が同大の日本関係資料の中で発見し、宮崎教授が確認した。
シーボルトは長崎・出島のオランダ商館の医師として1823年に来日。遊女だったお滝と知り合い、後に初の日本人女医となる娘イネを授かる。だが、持ち出しが禁止された日本地図を国外に運ぼうとしていたことが発覚し、29年末に国外追放となった。
手紙は30年12月に書かれた。シーボルトがオランダに戻る途中のインドネシアから同年3月に書き送り、8月に長崎に届いた3通の便りへの返事。オランダのシーボルトの元には31年夏ごろ、届けられたとみられる。
手紙は全長3・4メートルもあり、「この(3通の)手紙をあなたと思って、毎日、忘れることはありません」「くれぐれも病気にならず元気に暮らしてください」などと記し、娘の様子にも触れている。宮崎教授は筆跡などからお滝が語った内容を第三者が代筆したと分析している。
お滝が手紙と一緒に送ったとみられる自身と娘の姿が描かれた嗅ぎたばこ入れは現在日本にあり、シーボルトがお滝に送った手紙はドイツにある。シーボルトが59年に再来日した際に、お互いの品を交換したらしい。共に保存状態も良く、宮崎教授は「お互いのことを本当に大事に思っていたのでしょう」と話している。
=2018/10/12付 西日本新聞朝刊=

シーボルト
ジーボルトとも。江戸後期のオランダ商館医。ドイツ人。ビュルツブルクの生れ。医学と博物学を学び,1823年長崎出島に着任,日本研究のかたわら日本人患者を診療し,1824年長崎郊外に鳴滝(なるたき)塾を設けて高野長英,高良斎(こうりょうさい),伊東玄朴,戸塚静海,美馬順三,二宮敬作ら多くの門人を指導,1826年には商館長の江戸参府に同行した。1828年シーボルト事件を起こし翌年追放されたが,日蘭通商条約締結後の1859年長子アレクサンダー〔1846-1911〕を伴って再び来日した。著書に《日本》《日本動物誌》《日本植物誌》《江戸参府紀行》などがある。シーボルトの長崎滞在中の愛人其扇(そのぎ)(滝)との間に生まれた娘〈いね〉(楠本いね)はのち女医となっている。アレクサンダーは英国公使館などの通訳を経て,1870年―1910年日本外務省に勤めた。→蘭学

楠本 イネ(くすもと いね、文政10年5月6日(1827年5月31日)- 明治36年(1903年)8月26日[1])は、日本の医師。現 長崎県長崎市出身。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの娘。日本人女性で初めて産科医として西洋医学を学んだことで知られる。“オランダおいね”の異名で呼ばれた。
1827年(文政10年)、ドイツ人医師であるフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、丸山町遊女であった瀧(1807-69)の間に生まれる。
「楠本」は母の姓である。父シーボルトの名に漢字を当て、「失本(しいもと)イネ」とも名乗った。
母の瀧(お滝)は商家の娘であったが、実家が没落し、源氏名「其扇(そのおうぎ、そのぎ)」として、日本人の出入りが極限られていた出島にてシーボルトお抱えの遊女となり、彼との間に私生児としてイネを出産した。イネの出生地は長崎市銅座町で、シーボルト国外追放まで出島で居を持ち、当時の出島の家族団欒の様子が川原慶賀の絵画に残っている。ところが父シーボルトは1828年(文政11年)、国禁となる日本地図、鳴滝塾門下生による数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚し(シーボルト事件)、イネが2歳の時に国外追放となった。
イネは、シーボルト門下で卯之町(現在の西予市宇和町)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、石井宗謙から産科を学び、村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。1859年(安政6年)からはヨハネス・ポンペ・ファン・メーデルフォールトから産科・病理学を学び、1862年(文久2年)からはポンペの後任であるアントニウス・ボードウィンに学んだ。後年、京都にて大村が襲撃された後にはボードウィンの治療のもと、これを看護しその最期を看取っている。1858年(安政5年)の日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、1859年(安政6年)に再来日した父シーボルトと長崎で再会し、西洋医学(蘭学)を学ぶ。シーボルトは、長崎の鳴滝に住居を構えて昔の門人やイネと交流し、日本研究を続け、1861年(文久元年)には幕府に招かれ外交顧問に就き、江戸でヨーロッパの学問なども講義している。
ドイツ人と日本人の間に生まれた女児として、当時では稀な混血であったので差別を受けながらも[要出典]宇和島藩主・伊達宗城から厚遇された。宗城よりそれまでの「失本イネ」という名の改名を指示され、楠本伊篤(くすもと いとく)と名を改める。1871年(明治4年)、異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京は築地に開業したのち、福澤諭吉の口添えにより宮内省御用掛となり、金100円を下賜され明治天皇の女官葉室光子の出産に立ち会う(葉室光子は死産の後死去)など、その医学技術は高く評価された。異母弟ハインリヒとその妻岩本はなの第一子の助産も彼女が担当した(その子は夭折)。その後、1875年(明治8年)に医術開業試験制度が始まり、女性であったイネには受験資格がなかったためと、晧台寺墓所を守るため、東京の医院を閉鎖し長崎に帰郷する。1884年(明治17年)、医術開業試験の門戸が女性にも開かれるが、既に57歳になっていたため合格の望みは薄いと判断、[要出典]以後は産婆として開業する。62歳の時、娘高子(タダ、後述)一家と同居のために長崎の産院も閉鎖し再上京、医者を完全に廃業した。以後は弟ハインリヒの世話となり余生を送った。1903年(明治36年)、鰻と西瓜の食べ合わせによる食中毒(医学的根拠はない)のため、東京の麻布で死去した。享年77。墓所は長崎市晧台寺にある。
なお、イネは生涯独身だったが、宗謙との間に儲けた娘・タダがいた。タダ自身の手記によれば、イネは石井によって船中で強姦されて妊娠した。タダの手記はWikipediaでご覧ください。