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Posted by おてもやん at

2018年10月24日

女子駅伝と金栗四三

すぐに止めさせるべきか、続けさせるべきかでレースの後大きな話題になっています。
ある人は感動したというし、ある人はかわいそうで見て居れなかったといいます。
駅伝のたすきの重ささながらスポーツの社会性にまでこの女子駅伝の映像は問題を提起したと思われます。

昨日の【春秋】の記事より・・
箱根駅伝の創設などに尽力し「日本マラソンの父」と呼ばれる金栗四三(かなくりしそう)(熊本県出身)。1912年のストックホルム五輪に日本初のマラソン選手として出場した
▼気温は40度を超え、半数が途中棄権する過酷なレース。猛烈な暑さに意識が遠くなる。金栗は一歩一歩、懸命に前に進んだが、ついにコースを外れてしまった
▼来年のNHK大河ドラマは金栗が主人公。熊本の山野を駆けて鍛えた足で世界に挑んだ金栗がどう描かれるか、楽しみだ。同県にある墓碑には「体力 気力 努力」の文字が刻まれている
▼この三つの限界を超えてもランナーはゴールを目指すものか。先日、福岡県であった実業団女子駅伝。中継の映像に息をのんだ。熊本県出身の選手がたすきを握り締め、四つんばいで進んでいる。足を負傷したらしく、中継所の約200メートル手前で走れなくなった。両膝はすりむけて血だらけ。それでもあきらめず前へ前へと進み続け、泣きながら手を伸ばす次走者にたすきを渡した
▼すぐにやめさせるべきだった、との批判は当然だ。ただ、どうしても仲間にたすきを、という彼女の思いを想像すれば胸が熱くなる
▼五輪で期待に応えられなかった金栗は書き残した。「終生の遺憾のことで心うずく。(略)しかれども失敗は成功の基にして、また他日その恥をすすぐの時あるべく…」。彼女はまだ19歳。早くけがを治し、レースに戻ってきてほしい。
=2018/10/23付 西日本新聞朝刊=


金栗 四三(かなくり しそう、1891年(明治24年)8月20日 - 1983年(昭和58年)11月13日)は、日本のマラソン選手、師範学校教師、熊本県初代教育委員長。東京箱根間往復大学駅伝競走(箱根駅伝)の開催に尽力し、日本に高地トレーニングを導入したり日本マラソン界の発展に大きく寄与するなど、日本における「マラソンの父」と称される。熊本県玉名郡春富村(現・和水町)出身。玉名市名誉市民。

●オリンピック史上最も遅いマラソン記録ー54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3
1912年(明治45年)のストックホルムオリンピックでは、レース途中で日射病により意識を失って倒れ、近くの農家で介抱される。金栗が目を覚ましたのは既に競技が終わった翌日の朝であった。このため金栗はレースを諦めざるを得ず、そのまま帰国した。 ・・
ストックホルムオリンピックでは棄権の意思がオリンピック委員会に伝わっておらず、「競技中に失踪し行方不明」として扱われていた。記念式典の開催に当たって当時の記録を調べていたオリンピック委員会がこれに気付き、金栗を記念式典でゴールさせることにしたのである。招待を受けた金栗はストックホルムへ赴き、競技場をゆっくりと走って、場内に用意されたゴールテープを切った(日付は1967年3月21日)。この時、「日本の金栗、ただいまゴールイン。タイム、54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3、これをもって第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します」とアナウンスされた。54年8か月6日5時間32分20秒3という記録はオリンピック史上最も遅いマラソン記録であり、今後もこの記録が破られる事は無いだろうと言われている。金栗はゴール後のスピーチで「長い道のりでした。この間に孫が5人できました」とコメントした。
Wikipediaより
  


Posted by マー君 at 13:09Comments(0)熊本記事