10月16日?の西日本新聞 そうだったのか‼八代ー 25 -に 八代焼の記事がありました。象嵌の裏に三斎の美意識・・こんな見出しで始まっていました。記事を読んで平山窯跡を訪ねてみました。現在はミカン畑の片隅に標識が立っているだけで史跡の保存状態は非常に悪い状態です。三斎や喜蔵が見れば悲しみそうな荒れようです。残念です。

【八代焼】のはじまり
文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い小倉藩主細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた。寛永10年(1633年)、忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼(八代焼)の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された。明治25年(1892年)、窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移した。
初期は上野焼の手法を用いていたが、後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている。
[白土象嵌]・・高田焼は一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる。
【上野喜蔵】について・・秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)では数多くの優れた技術者が朝鮮半島から日本に連れてこられました。特に焼き物の技術者は数多く、高田焼の祖、尊楷も朝鮮半島の慶尚道泗川県の十時郷から連れてこられた陶工のひとりです。尊楷は最初唐津に落ち着きますが、一度本国に帰り、高麗焼きの技法を更に高め再び日本にやってきます。その技量をかわれ、当時豊前を領していた細川忠興に召し抱えられ、豊前国上野(あがの 現福岡県田川郡)に窯を築き、上野焼を興し、名前も上野喜蔵と改めました。寛永9(1632)年、細川氏の肥後入国に伴い喜蔵は二子を連れ、肥後に入国し、高田手長(こうだてなが)の木下谷(きくだしだに 現八代市奈良木町)に窯を築きます。これが高田焼の始まりです。万治元(1658)年、喜蔵の長男の代になり窯を平山(元八代市平山新町)に移します。その後上野家は三家に分かれ明治に至るまで藩の御用窯として発展しました。青磁に精緻な象嵌をほどこした作風は喜蔵の祖国高麗の伝統を感じさせます。
平山窯は明治24年まで操業の記録が残されています。窯は斜面に築かれた8連房の登窯で、全長約18.8mあり、県内近世陶磁器窯跡としては最も残りのよいものの一つとして昭和38年県指定史跡になっています。窯の上方30mほど行ったところに喜蔵の墓が残されています。今も高田焼の伝統を受け継ぎ盛んに制作活動を続けている窯元が八代市の日奈久に1軒、宮原町に1軒あります。
高田焼は八代焼、平山焼とも呼ばれ、南関の小代焼とともに肥後の代表的な近世陶器です。
八代焼(やつしろやき)は、400年の歴史を持つ肥後熊本を代表する陶磁器です。その創始期には、茶道の大成者千利休に教えを受けた大名茶人細川三斎(ほそかわさんさい・茶道の流派三斎流の開祖)の指導を受け、肥後細川藩の御用窯(ごようがま)として、江戸時代を通してすぐれた茶器や日用の器を焼き続けました。窯の置かれた場所の地名から高田焼(こうだやき)の名でも親しまれています。江戸時代の中期、18世紀の中頃には象嵌が特に発達、江戸時代の後期になると八代焼の象嵌は全国的に有名でした。
1640年(寛永17)に三斎は春日局の子・稲葉正利に「爰元(ここもと)にて焼き申し候茶碗一ツ」を贈っています。このときの正利への手紙の中で「この茶碗ならきっと満足なさることでしょう」と述べています。春日局は3代将軍徳川家光の乳母(めのと) 以上の事から当時の八代焼きが利休の高弟である細川三斎も納得し、貴人にも贈れるほどの茶器を生産するレベルにあったと言う事だと思われます。
八代焼は肥後熊本を代表する伝統工芸品の一つです。天下の茶人としての三斎の情熱がつたわる焼物です。

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【八代焼】のはじまり
文禄の役の後に加藤清正に従って渡来した尊楷(上野喜蔵高国)が、利休七哲の1人で茶道に造詣の深い小倉藩主細川忠興(三斎)に招かれ、豊前国上野で上野焼(あがのやき)を始めた。寛永10年(1633年)、忠興が息子・細川忠利の肥後熊本転封に伴って肥後国八代城に入ったのに従い、上野喜蔵も長男の忠兵衛とともに八代郡高田郷に移って窯を築いた。これが高田焼(八代焼)の始まりで、その後は代々熊本藩の御用窯として保護された。明治25年(1892年)、窯を陶土の産地八代郡日奈久へ移した。
初期は上野焼の手法を用いていたが、後に高田焼の特色でもある白土象嵌の技法を完成させた。現在もこの流れを汲む技法を堅持しつつも、新たな彩色象嵌を開発するなどして発展を遂げている。
[白土象嵌]・・高田焼は一見、青磁のように見えながら陶器であるのが特色。また、白土象嵌とは成形した生乾きの素地に模様を彫り込み、そこに白土を埋め込んで、余分な部分を削り落とした後に透明釉をかけたもので、独特の透明感と端正さがあり、かの高麗青磁を彷彿させる。
【上野喜蔵】について・・秀吉の朝鮮出兵(文禄慶長の役)では数多くの優れた技術者が朝鮮半島から日本に連れてこられました。特に焼き物の技術者は数多く、高田焼の祖、尊楷も朝鮮半島の慶尚道泗川県の十時郷から連れてこられた陶工のひとりです。尊楷は最初唐津に落ち着きますが、一度本国に帰り、高麗焼きの技法を更に高め再び日本にやってきます。その技量をかわれ、当時豊前を領していた細川忠興に召し抱えられ、豊前国上野(あがの 現福岡県田川郡)に窯を築き、上野焼を興し、名前も上野喜蔵と改めました。寛永9(1632)年、細川氏の肥後入国に伴い喜蔵は二子を連れ、肥後に入国し、高田手長(こうだてなが)の木下谷(きくだしだに 現八代市奈良木町)に窯を築きます。これが高田焼の始まりです。万治元(1658)年、喜蔵の長男の代になり窯を平山(元八代市平山新町)に移します。その後上野家は三家に分かれ明治に至るまで藩の御用窯として発展しました。青磁に精緻な象嵌をほどこした作風は喜蔵の祖国高麗の伝統を感じさせます。
平山窯は明治24年まで操業の記録が残されています。窯は斜面に築かれた8連房の登窯で、全長約18.8mあり、県内近世陶磁器窯跡としては最も残りのよいものの一つとして昭和38年県指定史跡になっています。窯の上方30mほど行ったところに喜蔵の墓が残されています。今も高田焼の伝統を受け継ぎ盛んに制作活動を続けている窯元が八代市の日奈久に1軒、宮原町に1軒あります。
高田焼は八代焼、平山焼とも呼ばれ、南関の小代焼とともに肥後の代表的な近世陶器です。
八代焼(やつしろやき)は、400年の歴史を持つ肥後熊本を代表する陶磁器です。その創始期には、茶道の大成者千利休に教えを受けた大名茶人細川三斎(ほそかわさんさい・茶道の流派三斎流の開祖)の指導を受け、肥後細川藩の御用窯(ごようがま)として、江戸時代を通してすぐれた茶器や日用の器を焼き続けました。窯の置かれた場所の地名から高田焼(こうだやき)の名でも親しまれています。江戸時代の中期、18世紀の中頃には象嵌が特に発達、江戸時代の後期になると八代焼の象嵌は全国的に有名でした。
1640年(寛永17)に三斎は春日局の子・稲葉正利に「爰元(ここもと)にて焼き申し候茶碗一ツ」を贈っています。このときの正利への手紙の中で「この茶碗ならきっと満足なさることでしょう」と述べています。春日局は3代将軍徳川家光の乳母(めのと) 以上の事から当時の八代焼きが利休の高弟である細川三斎も納得し、貴人にも贈れるほどの茶器を生産するレベルにあったと言う事だと思われます。
八代焼は肥後熊本を代表する伝統工芸品の一つです。天下の茶人としての三斎の情熱がつたわる焼物です。

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Posted by マー君 at
09:29
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