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Posted by おてもやん at

2013年10月29日

次の八代城主は誰?

いつの世も家族をめぐる争い事は絶えないようです。 
そうだったのか‼八代 -26-に細川三斎の晩年の様子が詳しく説明がありました。以下新聞より・・
1632(寛永9)年から八代城主を務めた細川三斎は、1645(正保2)年、波乱に満ちた83歳の生涯を閉じました。そしてこれを機に、「ポスト八代城主」を誰にするかが問題となります。
実は晩年の三斎はかなりの野心家で、溺愛する四男の立孝(たつたか)に八代城を譲り、八代を「藩」として独立させようと考えていました。ところが立孝は1645年、三斎より先に病没。すると今度は、立孝の子・宮松(みやまつ・当時9歳、後の行孝・ゆきたか)に八代城主を継がせようともくろみますが、その最中に三斎自身が亡くなってしまったのです。
この様な晩年の三斎の動きは、当然のことながら幕府にいい印象を与えるはずもなく、当時の藩主・細川光尚・みつなお(三斎の孫)は「祖父のわがまま」への対応に苦慮していました。そして三斎の死をきっかけに、光尚は三斎の「ポスト八代城主」構想を白紙に戻し、三斎が後継としていた宮松には、分家(支藩)を立てさせることで処遇に決着をつけています。
こうしたドタバタ劇に終止符を打つべく、光尚が新城主として白羽の矢をたてたのが、筆頭家老の松井興長・おきなが・です。

信頼抜群の家老が城主に
興長は若い頃から細川家に仕え、肥後入国から統治体制の確立、天草・島原の乱など、あらゆる局面で細川家を支えてきた実績十分の大ベテラン。さらに光尚が重視したのが、松井家が幕府から与えられている抜群の信頼でした。その信頼の原点は興長の父 康之・やすゆき の功績に有ります。康之ははじめ足利義輝に仕え、その後、細川藤孝・ふじたか(幽斎)と行動を共にし、重臣として細川家の勢力拡大を支えた人物。そのあまりに有能な働きぶりは豊臣秀吉の目にも留まり、秀吉から山城国神童子村(現京都府木津川市)・八瀬村(現京都市左京区)に知行地(計173石余)を与えられました。そしてこの権利は江戸幕府にも引き続き認められることとなり、松井家は細川家の家来でありながら、徳川家からも代々知行地を与えられるという特別な地位を確立していたのです。「松井家先祖由来附」という江戸時代の記録によれば、光尚は幕府に対し、松井興長の八代城主就任の許可を求める理由として、松井家が細川家に忠節を尽くす「永久の家筋」であること、さらに「公儀(幕府)より御知行」を与えられている家柄であることの2点を主張しています。
もともと八代城は、地理上の重要防衛拠点として幕府が特別に存続を認めた城。ですので、光尚は「特別な」八代には、幕府からの信頼も抜群の「特別な」人物を配するのがベストと考えたのではないでしょうか。
結果として幕府も松井家が適任と判断し、1646(正保3)年、松井興長が八代に入城。これ以降、明治に至るまで、松井家の歴代当主が八代城主を務めることとなった。

以上八代市立博物館 学芸係長 鳥津亮二さんの記事です。
現在の松江城(八代城) 細川家から松井家に受け継がれたいきさつ良く解りました。


八代市指定史跡
細川三斎荼毘所の甘棠園(かんとうえん)・細川幽斎菩提所の泰勝院跡・織田信長菩提所の泰巌寺跡
八代市教育委員会の説明書には、八代市立第一中学校一帯は、八代城北の丸の外堀に面し、八代城に居城した細川氏・松井氏ゆかりの寺院があったところです・・・三斎が八代城に入城した寛永9年(1632)から松井氏が受け継ぎ八代を統治した頃の寺院の移り変わりが詳しく記されています。


  


Posted by マー君 at 13:21Comments(0)