2017年09月16日
⑦ちょと青森へ 太宰治
八代市立図書館の文学講座でずっと以前、地元の作家前山光則先生が太宰治を取り上げられ晩年の作品『トカトントン』を解説されました。
8月の青森への旅は縄文時代の遺跡の見学が主な目的でしたが、折角青森に来たのだから太宰生誕の地を見て廻るのも悪くはないと思い
太宰治記念館「斜陽館」とその近辺を見学しました。

斜陽館に行くと津軽三味線会館との共通券があるのでと勧められ900円の共通券を購入、斜陽館を見る前に三味線の演奏を聴いてから斜陽館を見学しました。




この斜陽館は旧津島家住宅で1階床面積916.86㎡、二階床面積383.41㎡あり非常に広い屋敷です。
明治40年6月21日(1907) 津島家六代の源右衛門が当時経営中の金融業店舗を兼ねた住宅として竣工する。
明治42年6月19日(1909) 作家・太宰治(本名 津島修治、源右衛門6男)誕生する。
昭和23年6月26日(1948) 角田唯五郎氏が角田家住宅として買い取る。
昭和23年頃 長兄文治が北東隅の「離れ」屋敷外に曳き家移転。
昭和25年(1950) 角田氏が旅館「斜陽館」を開業する。
昭和51年(1976) 黒滝氏夫婦の所有になる。
平成元年5月9日(1989) 旧金木町指定有形文化財に指定される。
平成8年3月20日(1996) 旧金木町が買い取る。
平成9年11月4日(1997) 復元修復工事完成。
平成10年4月17日(1998)金木町太宰治記念館「斜陽館」として開館する。
平成10年7月13日(1998)旧津島家住宅主屋一棟県重宝に指定される。
平成16年12月10日(2004)旧津島家住宅(斜陽館)国重要文化財に指定される。



昭和23年敗戦後の農地改革のために地主制度は崩壊、青森県知事として政界に復帰したあに文治によって大邸宅は売却されました(昭和23年6月)、その際、新座敷だけを切り離し、現在地に曳家して金木の居宅としました。やがて売却された母屋は旅館「斜陽館」の名で有名になりましたが、離れの存在は時と共に忘れられていきました。現在この家は太宰治疎開の家として2007年より公開されています。
本土爆撃が激しくなる中、太宰治は東京と甲府の爆撃で罹災し、昭和20年7月末に妻子を連れて津軽の生家に身を寄せた。終戦後は新座敷(生家の離れ)に暮らし疎開したⅠ年3か月あまり(疎開期間は昭和20年7月31日~翌21年11月12日)で23の著作を執筆。新座敷は文壇登場後の太宰の居宅として唯一現存する貴重な邸宅である。
疎開中の著作リストとしては
【小説】薄明、パンドラの匣、庭、親という二字、嘘、貨幣、十五年間、やんぬる哉、雀、苦悩の年鑑、チャンス、冬の花火、未帰還の友に、春の枯葉、たづねびと、親友交歓、男女同権、トカトントン
【随想】返事、津軽地方とチエホフ、政治家と家庭、海、同じ星、など
太宰治の作品の中には「新座敷」での様子が書かれているものがあります。
例えば作品「故郷」「思い出」には「新座敷」の洋間や和室(10畳、6畳)の事が書かれています。
この新座敷は太宰が13歳の時、大地主津島家の跡取りとなる長兄文治の結婚を機に新築されたものです。
青春期の太宰は新興地主の出身に悩み、左翼思想に傾倒、21歳の頃長兄から義絶され、主に東京で作家活動をしていました。しかし歳月を経て、病床の母を見舞う機会を与えられ、妻子と帰郷(昭和17年・33歳)。その顛末を小説『故郷』に語っています。やがて兄との確執は徐々に解け始め小説『津軽』の取材旅行でも再び帰郷(昭和19年)。さらに三鷹と甲府の空爆で二度の罹災の末、やむなく妻子を従えて津軽の生家に疎開して、故郷で終戦を迎えました(昭和20年・36歳)。
斜陽館は平成16年(2004)に国重要文化財に指定されて、維持管理についての問題は国の方で行われているので、所有者の五所川原市の負担金額も少ないとは思うのですが、この「新屋敷」については現状個人の持ち物となっているので維持管理については個人負担となっています。
入場料は斜陽館と同じ金額なのですが、入場数は斜陽館の1割にも満たないとのことで持ち主の方が嘆いておられました。
市に相談しても今のところ打ち合って貰えないとの事。木造の建物だけにこのまま朽ち果てていくのも忍び難い思いです。

太宰ゆかりの地は、この金木の地には色々ありますが津軽三味線会館や太宰治生誕の地・斜陽館、太宰の暮らした疎開の家・新座敷などを見て廻ると時間が足りなくて一番近くの雲祥寺だけ寄ることにしました。





太宰治疎開の家「新座敷」の今後の行く末が頭の片隅に重く残りました。
8月の青森への旅は縄文時代の遺跡の見学が主な目的でしたが、折角青森に来たのだから太宰生誕の地を見て廻るのも悪くはないと思い
太宰治記念館「斜陽館」とその近辺を見学しました。
斜陽館に行くと津軽三味線会館との共通券があるのでと勧められ900円の共通券を購入、斜陽館を見る前に三味線の演奏を聴いてから斜陽館を見学しました。
この斜陽館は旧津島家住宅で1階床面積916.86㎡、二階床面積383.41㎡あり非常に広い屋敷です。
明治40年6月21日(1907) 津島家六代の源右衛門が当時経営中の金融業店舗を兼ねた住宅として竣工する。
明治42年6月19日(1909) 作家・太宰治(本名 津島修治、源右衛門6男)誕生する。
昭和23年6月26日(1948) 角田唯五郎氏が角田家住宅として買い取る。
昭和23年頃 長兄文治が北東隅の「離れ」屋敷外に曳き家移転。
昭和25年(1950) 角田氏が旅館「斜陽館」を開業する。
昭和51年(1976) 黒滝氏夫婦の所有になる。
平成元年5月9日(1989) 旧金木町指定有形文化財に指定される。
平成8年3月20日(1996) 旧金木町が買い取る。
平成9年11月4日(1997) 復元修復工事完成。
平成10年4月17日(1998)金木町太宰治記念館「斜陽館」として開館する。
平成10年7月13日(1998)旧津島家住宅主屋一棟県重宝に指定される。
平成16年12月10日(2004)旧津島家住宅(斜陽館)国重要文化財に指定される。
昭和23年敗戦後の農地改革のために地主制度は崩壊、青森県知事として政界に復帰したあに文治によって大邸宅は売却されました(昭和23年6月)、その際、新座敷だけを切り離し、現在地に曳家して金木の居宅としました。やがて売却された母屋は旅館「斜陽館」の名で有名になりましたが、離れの存在は時と共に忘れられていきました。現在この家は太宰治疎開の家として2007年より公開されています。
本土爆撃が激しくなる中、太宰治は東京と甲府の爆撃で罹災し、昭和20年7月末に妻子を連れて津軽の生家に身を寄せた。終戦後は新座敷(生家の離れ)に暮らし疎開したⅠ年3か月あまり(疎開期間は昭和20年7月31日~翌21年11月12日)で23の著作を執筆。新座敷は文壇登場後の太宰の居宅として唯一現存する貴重な邸宅である。
疎開中の著作リストとしては
【小説】薄明、パンドラの匣、庭、親という二字、嘘、貨幣、十五年間、やんぬる哉、雀、苦悩の年鑑、チャンス、冬の花火、未帰還の友に、春の枯葉、たづねびと、親友交歓、男女同権、トカトントン
【随想】返事、津軽地方とチエホフ、政治家と家庭、海、同じ星、など
太宰治の作品の中には「新座敷」での様子が書かれているものがあります。
例えば作品「故郷」「思い出」には「新座敷」の洋間や和室(10畳、6畳)の事が書かれています。
この新座敷は太宰が13歳の時、大地主津島家の跡取りとなる長兄文治の結婚を機に新築されたものです。
青春期の太宰は新興地主の出身に悩み、左翼思想に傾倒、21歳の頃長兄から義絶され、主に東京で作家活動をしていました。しかし歳月を経て、病床の母を見舞う機会を与えられ、妻子と帰郷(昭和17年・33歳)。その顛末を小説『故郷』に語っています。やがて兄との確執は徐々に解け始め小説『津軽』の取材旅行でも再び帰郷(昭和19年)。さらに三鷹と甲府の空爆で二度の罹災の末、やむなく妻子を従えて津軽の生家に疎開して、故郷で終戦を迎えました(昭和20年・36歳)。
斜陽館は平成16年(2004)に国重要文化財に指定されて、維持管理についての問題は国の方で行われているので、所有者の五所川原市の負担金額も少ないとは思うのですが、この「新屋敷」については現状個人の持ち物となっているので維持管理については個人負担となっています。
入場料は斜陽館と同じ金額なのですが、入場数は斜陽館の1割にも満たないとのことで持ち主の方が嘆いておられました。
市に相談しても今のところ打ち合って貰えないとの事。木造の建物だけにこのまま朽ち果てていくのも忍び難い思いです。
太宰ゆかりの地は、この金木の地には色々ありますが津軽三味線会館や太宰治生誕の地・斜陽館、太宰の暮らした疎開の家・新座敷などを見て廻ると時間が足りなくて一番近くの雲祥寺だけ寄ることにしました。

太宰治疎開の家「新座敷」の今後の行く末が頭の片隅に重く残りました。
Posted by マー君 at 08:24│Comments(0)
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