2017年09月12日
⑥ちょっと青森へ 三内丸山遺跡(縄文文化)
1年以上前の書きかけの記事に縄文時代に関連しているものがありましたのでこの記事を書き始めにしていこうと思います。
五郎山古墳館からの帰り際に、係りの方から筑紫野市教育委員会が出稿してる「ちくしの散歩」という冊子を頂きました。
何枚か戴いた中に筑紫野の「旧石器時代」というのがあり、現在読書中の〝「黒曜石 3万年の旅」堤 隆著 NHKBOOKS〟に関連性もあり黒曜石の部分を抜き出してみました。
・・・火山によって生み出された天然ガラスである黒曜石は、半透明もしくは漆黒のツヤをみせ、打ち欠くと現代のカッターナイフにも増して鋭いエッヂが残される。どんな石より切れ味のいい黒曜石の性質を、先史人は決して見逃すことはなかった。
火山国である日本列島には。北海道から九州まで数多くの黒曜石原産地が存在する。代表的な産地には、北海道の白滝、信州の和田峠、太平洋沖の神津島、島根の隠岐島、九州の姫島・腰岳などがある。それぞれの原産地の姿とは、そして各原産地の黒曜石資源開発はいかになされてきたのか。
後期旧石器時代において黒曜石は、ナイフ形石器や細石刃など、狩の槍さきの鋭い刃として用いられた。・・・
放射化分析(放射性同位元素を利用した分析方法のひとつ)や蛍光X線分析など近年の理化学的分析によると、産地ごとに異なる黒曜石の元素組成によって、遺跡から出土した黒曜石の産地を突き止めることが可能となった。この原産地同定によると、信州の和田峠原産地の黒曜石が、すでに3万年前の後期旧石器時代初頭から、100㎞以上もの距離を越え関東地方まで持ち運ばれていることが分かっている。黒曜石を動かす背景には、どのような人間行動が隠されているのだろうか。
旧石器時代
旧石器時代とは人類が「ヒト」への道筋を辿り始めた時から、数百万年をかけて、遊動住、狩猟、採集という生活を抜け出すまでの人類史上もっとも長い時代を指しています。年代はさまざまな見解がありますが、最近の研究では約400万年前から約1万年前までの期間となっています。
日本の旧石器時代遺跡を探求する上で残念なことは、石器や遺跡はたくさん見つかりますが、日本は代表的な火山国の為に、火山から噴出された火砕流や火山灰は極めて高い酸性が強く人骨が残らない事です。これまで日本で発見された旧石器時代の化石人骨は酸性の低い石灰岩地帯からほんの僅かが見つかっているだけです。人骨が見つかれば、どこから日本にやって来た人か、どんな体系、生活をしていたのかを解く鍵となります。
石器から分かることは主に狩猟生活に関わることです。多くの石器は割れ口が鋭利となる黒曜石やサヌカイトなどを用いています。
●相沢忠洋
生年月日:1926年6月21日
死没:1989年5月22日 (62歳)
相沢 忠洋は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。Wikipedia
研究分野ー考古学
主な業績岩ー宿遺跡の発見により日本列島の旧石器時代の存在を立証
影響を受けた人ー物芹沢長介、杉原荘介
主な受賞ー歴群馬県功労賞、吉川英治賞
● 黒曜石
ガラス質の火山岩。黒色または暗灰色,時に赤褐色。割れ目は貝殻状を示す。流紋岩質や安山岩質のマグマが冷えて固まったもの。先史時代には石器に使用された。近年は焼いて粉末にし,断熱材に利用する。十勝石など。黒曜岩。
●サヌカイト(Sanucite)
讃岐地方で最も多く産出することから「讃岐石(サヌカイト)」と呼ばれる岩石で、
叩くと「カンカン」と良い音で響くことから「カンカン石」とも呼ばれています。
サヌカイトは安山岩の一種で、瀬戸内地域の火山活動によってマグマが流出し、
それが冷え固まってできた岩石です。
叩いた時の美しい音色から楽器として利用されることもあり、旧石器時代には
石器の材料としても利用されました。
讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる。
人間の条件・・道具製作・言語の使用・直立二足歩行
●考古学者ケネス・P・オークリー 〝man the tool-maker〟〝道具製作者としての人間〟人間は「文化」すなわち道具を作り、思想を伝達する能力により特徴付けられた社会的動物である
●人類学者ジェーン・クドール(女性)1960年アフリカ・タンガニイカ湖畔でチンパンジーが植物の茎を使って細い竿を作りシロアリ釣りをしているところを発見「道具を作って使用」
氷河期が終わり、温暖化とともに新たな縄文時代が始まった。土器を生みだし、遊動から定住へと生活も大きく変化した。本格的な灌漑農耕が列島に定着するまでの1万年間以上、自然とともに生きる縄文文化は続きました。
氷河期が終わって暖かくなり、ほぼ現在と同じ自然環境下で、列島全体に似通った形質を持った縄文人が縄文土器とやや遅れて石鏃や釣針、石皿、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)、磨製石斧を普及させた。これらの天然素材の道具を用いて豊かな森や内湾などの環境に働きかけて、植物質食糧を主体とした採集、沿岸では漁労、そして狩猟などによる生業を営み、食料の貯蔵や保存加工によって食生活を安定させた。定住生活を送り、土坑墓に屈葬する埋葬を基本とした集団墓地を営み、各種の儀礼や送りなど共通の精神世界を形成した。世界史的に見れば東アジアの東端の島に発達した独特な先史時代であった。
縄文文化は、南の九州(沖縄本島まで含める意見もある)から北の北海道までのほぼ日本列島全域に及ぶ。さらに地形や植生、集落の規模や諸施設の在り方、土器の特徴などから見て、東海から北陸以北の東半と、それより南にほぼ二分される。つまり、地形的には大地溝帯を境に西と東の二つのプレートに分かれ、植生において西は温帯の照葉樹林帯が広がる。本州の東から北海道南部には堅果類の豊かな温帯の落葉広葉樹林帯が広がり、さらに北の北海道北半は亜寒帯の常緑針葉樹林帯となる。
縄文生活に大きな意味を持っていたクリ、イノシシは 北海道には生育していなかったが、ヒグマが生息しアシカ、オットセイなどの海獣類やサケ類は豊富であり、このような動植物相は生業を大きく規定していたと考えられる。ただし、北海道南部と東北地方北部は土器の特色などの共通性を持ち、文化的に津軽海峡は大きな障害とはならなかった。また、全国の沿岸は豊かな漁場となったが、太平洋岸は内湾が発達し、黒潮暖流が東北中部で寒流と接して大漁場を作っていた。
集落及び集落と考えられる遺跡が、全国で約9万4千カ所存在すると推定され、約85%が東日本に存在している。逆に西日本には、草創期から早期の南九州と後期後半から晩期の九州全体にやや遺跡が目立つものの、全体的に少数であり、約15%にすぎない。また、多くが集落である縄文時代の貝塚は全国に約2500カ所存在するが、東日本で約2100カ所、西日本には約400カ所が確認されるだけである。尚貝塚は、深い砂浜で内湾が発達しない日本海側にはいたって少ない。このような東日本の優位性は、落葉広葉樹林帯の豊富な堅果類と鳥獣、北海道から東北地方南部、北部までのサケ類の多量遡上など、縄文的な生業に適した環境に支えられていたと考えられる。さらに両地域内には土器の文様や形、墓制、祭祀などの類似性による各地域圏がある。(公式テキスト大規模な記念物BOOK The縄文)より
縄文文化について 北海道・北東北の縄文遺跡群の関係自治体リーフレットより
世界に先駆けて土器が出現するとともに安定して暮らせるムラも形成されました。
1万年以上もの長期にわたり持続可能な社会を形成した日本特有の先史文化です。
本格的な農耕と牧畜を選択することなく、狩猟、採集、漁労を生業の基盤として定住を達成し協調的な社会を作り上げた。
※長期間継続した縄文文化は、世界の他の地域における新石器文化とは全く異なるものであり。人類史にとって極めて重要な文化です。
【定住の達成】
自然環境に適応した道具を発明し、狩猟・採集・漁労による生業を営む人々の暮らしは次第に定住へと変化し、竪穴建物が建ち、やがて生活の拠点であるムラが出現しました。ムラの中には住居や墓が作られ、地域を代表するような拠点的なムラも現れました。太い柱を使った大型の建物やまつりの場所である盛り土などの施設、大規模な記念物である環状列石(ストーンサークル)も登場しました。
ムラの周りには防御用の溝や棚などはなく、温和で協調的な社会が築かれました。また、海や山を越えた遠方との交流・交易も活発に行われ、ヒスイやアスファルト、黒曜石が運ばれました。漆器や装身具類も発達し、まつりに使われる土偶もたくさん作られ、人々は豊かな精神世界を持っていたことがわかります。
【自然との共生】
縄文文化が営まれた時代、北海道・北東北ではブナを中心とする落葉広葉樹の森が広がっていました。生物多様性に恵まれた生態系に適応し、豊富な森林資源や水産資源など多種多様な資源を持続的に利用することで縄文文化は1万年以上も長きにわたり継続・発展しました。
ムラのまわりには、クリやクルミ、ウルシなどの多くの有用植物が栽培された「縄文里山」と呼ばれる人為的生態系も成立し、中でもクリは管理・栽培されていた可能性が高く、食料や木材として利用されました。
また、世界規模の気候変動や環境の変化、大規模な火山活動や地震・津波などの自然災害もありましたが、人々は、このような環境にも巧みに適応し克服してきました。
縄文文化は、自然に大きな負荷を与えず持続可能な資源利用により生業を維持し、環境に巧みに適応したことで長期間継続しました、それを支えたのは自然との共生であり、後の日本人の自然観や世界観、価値観などの形成にも影響を与え、日本文化の基層となりました。
【縄文から現代へ】
縄文文化は、日本列島で本格的な稲作が始まる弥生文化の成立まで1万年以上続きました。それは停滞でも未発達でもなく、優れた技術と豊かな精神世界を持った成熟した社会でした。
また、縄文人は、現代人の直接の先祖であり、縄文文化の延長上に現代の生活が成り立っていると言っても過言ではありません。自然の豊かな恵みを暮らしに取り入れてきた知恵と技術、そして自然とともに生き、家族や仲間を大切に思う心により育まれた縄文文化を、現代に生きる私たちが誇りとして受け継ぎ、未来へ伝えていく事が大切です。
三内丸山遺跡の駐車場と縄文時遊館
時遊館からの道
海へ続く東西の道と近野ムラに向かう道が確認されています。東西の道は、420m以上も続き、両側の路肩の部分には大人の墓である土坑墓が配置されています。南北の道では西側を中心に、環状配石墓が20基以上並んでいます。これらの大規模な道は現代と違い地面を掘って作られており、浅い溝のように見えます。道が作られたのは、縄文時代前期末頃から中期後半にかけてで、三内丸山ムラがもっとも繁栄する時代で、集落づくりの上でも重要な施設であったと考えられます。


特別史跡三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期にかけて(約5500年前~約4000年前)、長期間継続した大規模な集落跡です。1992年から発掘調査が行われ、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人と子供の墓、盛土、大型掘立柱建物跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、道路跡などが見つかり、集落の様子と当時の環境が明らかになりました。また、膨大な量の土器、石器、土偶、土・石製品、掘り棒などの木製品、漆器、縄文ポシェットと編布、骨角器などが出土し、他地域から持ち込まれたヒスイや黒曜石なども見つかっています。
2000年(平成12年)11月に国の特別史跡に指定されました。

大型掘立柱建物(左)地面に大きな柱穴を掘り、柱を立てた構造の建物を掘立柱建物と言います。6個の柱穴が3個づつ2列に、等間隔で並んでいて、平面形が長方形の大型の高床建物と考えられます。柱穴は直径が約2m、深さが2mを越える、非常に大型のものです。この柱穴の中に直径約1mのクリの太い柱がそのままで残っていました。この場所は地下水位が高く、クリは丈夫な木であり、さらには底と周りを焦がしているので、腐らないで残っていたようです。
焦がすと腐りにくいということを縄文人は知っていたのかもしれません。柱と柱の間隔は4.2mと一定です。このムラでは大型の建物は35cmの倍数の間隔で柱を立てているようです。縄文時代にも、長さの単位、尺度のようなものがあったのではないかと考えています(縄文尺)。
これだけの大型の建物ですから大人数で。しかも共同作業で建てられたことが明らかで、このような作業ができるような社会組織、技術、人口があったことがわかります。
大型竪穴住居(右)長さが10mを超えるものを大型住居と呼んでいます。大型竪穴住居は、ムラの中心部分から見つかったことから、ムラ全体に必要な施設、公共の施設と考えられます。集会所、コミュニティーセンター、共同作業所、冬の間の共同住宅、結婚前の若者が集団生活を送る若者宿、劇場など様々な説があります。
このような大きな建物を造る時には大勢の人々による共同作業で、専門的な技術を持った人達の指導の下に建てられた可能性が考えられます。

縄文尺を使った高床建物・掘立柱建物
縄文人たちの家は竪穴住居です。地面を掘り下げた半地下式の竪穴(式)住居が数多くみつかりました。竪穴住居は平面型が円形や楕円形で、床のほぼ中央には炉が作られており、土器を埋めたものや石で囲んだもの、土器の破片を敷いたものなど、様々な種類があります。炉の位置や構造も時代によって変化します。屋根を支える柱も2本、4本、6本など本数や配置の違いが見られます。屋根は垂木が直接地面に降りる伏屋(ふせや)と呼ばれる円錐形のものと考えられます。住居の床面積は10㎡程度の、小型の住居が多く、この家に約4~5人くらいが住んでいたと考えられます。同時代の住居はほぼ同じ大きさですので、生活の単位が夫婦ないしは家族であったことが想像されます。このような竪穴住居はこれまでの発掘調査で約800棟程見つかっています。

盛土 北・南・西の盛土が見つかっています。北盛土は、遺跡の中でも周りよりも少し高い、こんもりとした丘になっています。竪穴住居や大きな柱穴を掘った時の残土や排土を、同じ場所に長い間、継続して捨てています。そして普段使っている生活の廃棄物、ゴミも捨てたようです。同じ場所で約1000年もの長い間繰返したので、この場所が廻りより少し高くなりました。





北海道南部から東北地方北部では、縄文時代前期中頃から中期中頃にかけて(5500年前~4500年前)、筒形をした土器がたくさん作られました。このような土器を円筒土器と呼んでいます。これまでの発掘調査でダンボール箱で4万箱以上出土し、復元したものは6800個体以上あります。土器の発明により煮炊きが可能になりました。またこれらは簡単に持ち運びができないことから貯蔵用に使われたり、外側や内側に赤い色が残り赤く塗られていたものもあり、特別な場合に使われたものと考えられています。

現代生活の中にその起源が縄文時代にまで遡って考えることができるものがいくつもあります。縄文文化は日本の基層文化であるということができます。自然とともに生きた縄文人の暮らしから学ぶこと考えさせられることが多くありました。
【三内丸山遺跡】青森市大字三内字丸山293(展示室)
日本を代表する縄文遺跡です。青森市の郊外に位置し、標高約20mの台地上にあります。北側には沖館川が流れ、南側には遠く八甲田連峰を望むことができます。遺跡の面積は35haと広大です。平成4年、県営野球場建設に先立ち、大規模な発掘調査が始まり、調査の結果、縄文時代前期から中期にかけて(約5500~4000年前)長期間継続した、大規模な集落跡であることが判明しました。
五郎山古墳館からの帰り際に、係りの方から筑紫野市教育委員会が出稿してる「ちくしの散歩」という冊子を頂きました。
何枚か戴いた中に筑紫野の「旧石器時代」というのがあり、現在読書中の〝「黒曜石 3万年の旅」堤 隆著 NHKBOOKS〟に関連性もあり黒曜石の部分を抜き出してみました。
・・・火山によって生み出された天然ガラスである黒曜石は、半透明もしくは漆黒のツヤをみせ、打ち欠くと現代のカッターナイフにも増して鋭いエッヂが残される。どんな石より切れ味のいい黒曜石の性質を、先史人は決して見逃すことはなかった。
火山国である日本列島には。北海道から九州まで数多くの黒曜石原産地が存在する。代表的な産地には、北海道の白滝、信州の和田峠、太平洋沖の神津島、島根の隠岐島、九州の姫島・腰岳などがある。それぞれの原産地の姿とは、そして各原産地の黒曜石資源開発はいかになされてきたのか。
後期旧石器時代において黒曜石は、ナイフ形石器や細石刃など、狩の槍さきの鋭い刃として用いられた。・・・
放射化分析(放射性同位元素を利用した分析方法のひとつ)や蛍光X線分析など近年の理化学的分析によると、産地ごとに異なる黒曜石の元素組成によって、遺跡から出土した黒曜石の産地を突き止めることが可能となった。この原産地同定によると、信州の和田峠原産地の黒曜石が、すでに3万年前の後期旧石器時代初頭から、100㎞以上もの距離を越え関東地方まで持ち運ばれていることが分かっている。黒曜石を動かす背景には、どのような人間行動が隠されているのだろうか。
旧石器時代
旧石器時代とは人類が「ヒト」への道筋を辿り始めた時から、数百万年をかけて、遊動住、狩猟、採集という生活を抜け出すまでの人類史上もっとも長い時代を指しています。年代はさまざまな見解がありますが、最近の研究では約400万年前から約1万年前までの期間となっています。
日本の旧石器時代遺跡を探求する上で残念なことは、石器や遺跡はたくさん見つかりますが、日本は代表的な火山国の為に、火山から噴出された火砕流や火山灰は極めて高い酸性が強く人骨が残らない事です。これまで日本で発見された旧石器時代の化石人骨は酸性の低い石灰岩地帯からほんの僅かが見つかっているだけです。人骨が見つかれば、どこから日本にやって来た人か、どんな体系、生活をしていたのかを解く鍵となります。
石器から分かることは主に狩猟生活に関わることです。多くの石器は割れ口が鋭利となる黒曜石やサヌカイトなどを用いています。
●相沢忠洋
生年月日:1926年6月21日
死没:1989年5月22日 (62歳)
相沢 忠洋は、日本の考古学者。納豆などの行商をしながら独学で考古研究を行っていたが、1949年に群馬県新田郡笠懸村(現・みどり市)(岩宿遺跡)の関東ローム層から黒曜石で作られた打製石器を発見し、それまで否定されてきた日本の旧石器時代の存在を証明した。Wikipedia
研究分野ー考古学
主な業績岩ー宿遺跡の発見により日本列島の旧石器時代の存在を立証
影響を受けた人ー物芹沢長介、杉原荘介
主な受賞ー歴群馬県功労賞、吉川英治賞
● 黒曜石
ガラス質の火山岩。黒色または暗灰色,時に赤褐色。割れ目は貝殻状を示す。流紋岩質や安山岩質のマグマが冷えて固まったもの。先史時代には石器に使用された。近年は焼いて粉末にし,断熱材に利用する。十勝石など。黒曜岩。
●サヌカイト(Sanucite)
讃岐地方で最も多く産出することから「讃岐石(サヌカイト)」と呼ばれる岩石で、
叩くと「カンカン」と良い音で響くことから「カンカン石」とも呼ばれています。
サヌカイトは安山岩の一種で、瀬戸内地域の火山活動によってマグマが流出し、
それが冷え固まってできた岩石です。
叩いた時の美しい音色から楽器として利用されることもあり、旧石器時代には
石器の材料としても利用されました。
讃岐岩(さぬきがん、sanukite、サヌカイト)は、名称のもとである香川県坂出市国分台周辺や大阪府と奈良県の境にある二上山周辺で採取される非常に緻密な古銅輝石安山岩。固いもので叩くと高く澄んだ音がするので、カンカン石とも呼ばれる。
人間の条件・・道具製作・言語の使用・直立二足歩行
●考古学者ケネス・P・オークリー 〝man the tool-maker〟〝道具製作者としての人間〟人間は「文化」すなわち道具を作り、思想を伝達する能力により特徴付けられた社会的動物である
●人類学者ジェーン・クドール(女性)1960年アフリカ・タンガニイカ湖畔でチンパンジーが植物の茎を使って細い竿を作りシロアリ釣りをしているところを発見「道具を作って使用」
氷河期が終わり、温暖化とともに新たな縄文時代が始まった。土器を生みだし、遊動から定住へと生活も大きく変化した。本格的な灌漑農耕が列島に定着するまでの1万年間以上、自然とともに生きる縄文文化は続きました。
氷河期が終わって暖かくなり、ほぼ現在と同じ自然環境下で、列島全体に似通った形質を持った縄文人が縄文土器とやや遅れて石鏃や釣針、石皿、磨石(すりいし)、凹石(くぼみいし)、磨製石斧を普及させた。これらの天然素材の道具を用いて豊かな森や内湾などの環境に働きかけて、植物質食糧を主体とした採集、沿岸では漁労、そして狩猟などによる生業を営み、食料の貯蔵や保存加工によって食生活を安定させた。定住生活を送り、土坑墓に屈葬する埋葬を基本とした集団墓地を営み、各種の儀礼や送りなど共通の精神世界を形成した。世界史的に見れば東アジアの東端の島に発達した独特な先史時代であった。
縄文文化は、南の九州(沖縄本島まで含める意見もある)から北の北海道までのほぼ日本列島全域に及ぶ。さらに地形や植生、集落の規模や諸施設の在り方、土器の特徴などから見て、東海から北陸以北の東半と、それより南にほぼ二分される。つまり、地形的には大地溝帯を境に西と東の二つのプレートに分かれ、植生において西は温帯の照葉樹林帯が広がる。本州の東から北海道南部には堅果類の豊かな温帯の落葉広葉樹林帯が広がり、さらに北の北海道北半は亜寒帯の常緑針葉樹林帯となる。
縄文生活に大きな意味を持っていたクリ、イノシシは 北海道には生育していなかったが、ヒグマが生息しアシカ、オットセイなどの海獣類やサケ類は豊富であり、このような動植物相は生業を大きく規定していたと考えられる。ただし、北海道南部と東北地方北部は土器の特色などの共通性を持ち、文化的に津軽海峡は大きな障害とはならなかった。また、全国の沿岸は豊かな漁場となったが、太平洋岸は内湾が発達し、黒潮暖流が東北中部で寒流と接して大漁場を作っていた。
集落及び集落と考えられる遺跡が、全国で約9万4千カ所存在すると推定され、約85%が東日本に存在している。逆に西日本には、草創期から早期の南九州と後期後半から晩期の九州全体にやや遺跡が目立つものの、全体的に少数であり、約15%にすぎない。また、多くが集落である縄文時代の貝塚は全国に約2500カ所存在するが、東日本で約2100カ所、西日本には約400カ所が確認されるだけである。尚貝塚は、深い砂浜で内湾が発達しない日本海側にはいたって少ない。このような東日本の優位性は、落葉広葉樹林帯の豊富な堅果類と鳥獣、北海道から東北地方南部、北部までのサケ類の多量遡上など、縄文的な生業に適した環境に支えられていたと考えられる。さらに両地域内には土器の文様や形、墓制、祭祀などの類似性による各地域圏がある。(公式テキスト大規模な記念物BOOK The縄文)より
縄文文化について 北海道・北東北の縄文遺跡群の関係自治体リーフレットより
世界に先駆けて土器が出現するとともに安定して暮らせるムラも形成されました。
1万年以上もの長期にわたり持続可能な社会を形成した日本特有の先史文化です。
本格的な農耕と牧畜を選択することなく、狩猟、採集、漁労を生業の基盤として定住を達成し協調的な社会を作り上げた。
※長期間継続した縄文文化は、世界の他の地域における新石器文化とは全く異なるものであり。人類史にとって極めて重要な文化です。
【定住の達成】
自然環境に適応した道具を発明し、狩猟・採集・漁労による生業を営む人々の暮らしは次第に定住へと変化し、竪穴建物が建ち、やがて生活の拠点であるムラが出現しました。ムラの中には住居や墓が作られ、地域を代表するような拠点的なムラも現れました。太い柱を使った大型の建物やまつりの場所である盛り土などの施設、大規模な記念物である環状列石(ストーンサークル)も登場しました。
ムラの周りには防御用の溝や棚などはなく、温和で協調的な社会が築かれました。また、海や山を越えた遠方との交流・交易も活発に行われ、ヒスイやアスファルト、黒曜石が運ばれました。漆器や装身具類も発達し、まつりに使われる土偶もたくさん作られ、人々は豊かな精神世界を持っていたことがわかります。
【自然との共生】
縄文文化が営まれた時代、北海道・北東北ではブナを中心とする落葉広葉樹の森が広がっていました。生物多様性に恵まれた生態系に適応し、豊富な森林資源や水産資源など多種多様な資源を持続的に利用することで縄文文化は1万年以上も長きにわたり継続・発展しました。
ムラのまわりには、クリやクルミ、ウルシなどの多くの有用植物が栽培された「縄文里山」と呼ばれる人為的生態系も成立し、中でもクリは管理・栽培されていた可能性が高く、食料や木材として利用されました。
また、世界規模の気候変動や環境の変化、大規模な火山活動や地震・津波などの自然災害もありましたが、人々は、このような環境にも巧みに適応し克服してきました。
縄文文化は、自然に大きな負荷を与えず持続可能な資源利用により生業を維持し、環境に巧みに適応したことで長期間継続しました、それを支えたのは自然との共生であり、後の日本人の自然観や世界観、価値観などの形成にも影響を与え、日本文化の基層となりました。
【縄文から現代へ】
縄文文化は、日本列島で本格的な稲作が始まる弥生文化の成立まで1万年以上続きました。それは停滞でも未発達でもなく、優れた技術と豊かな精神世界を持った成熟した社会でした。
また、縄文人は、現代人の直接の先祖であり、縄文文化の延長上に現代の生活が成り立っていると言っても過言ではありません。自然の豊かな恵みを暮らしに取り入れてきた知恵と技術、そして自然とともに生き、家族や仲間を大切に思う心により育まれた縄文文化を、現代に生きる私たちが誇りとして受け継ぎ、未来へ伝えていく事が大切です。
特別史跡三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期にかけて(約5500年前~約4000年前)、長期間継続した大規模な集落跡です。1992年から発掘調査が行われ、竪穴住居跡、大型竪穴住居跡、大人と子供の墓、盛土、大型掘立柱建物跡、掘立柱建物跡、貯蔵穴、道路跡などが見つかり、集落の様子と当時の環境が明らかになりました。また、膨大な量の土器、石器、土偶、土・石製品、掘り棒などの木製品、漆器、縄文ポシェットと編布、骨角器などが出土し、他地域から持ち込まれたヒスイや黒曜石なども見つかっています。
2000年(平成12年)11月に国の特別史跡に指定されました。
焦がすと腐りにくいということを縄文人は知っていたのかもしれません。柱と柱の間隔は4.2mと一定です。このムラでは大型の建物は35cmの倍数の間隔で柱を立てているようです。縄文時代にも、長さの単位、尺度のようなものがあったのではないかと考えています(縄文尺)。
これだけの大型の建物ですから大人数で。しかも共同作業で建てられたことが明らかで、このような作業ができるような社会組織、技術、人口があったことがわかります。
このような大きな建物を造る時には大勢の人々による共同作業で、専門的な技術を持った人達の指導の下に建てられた可能性が考えられます。
盛土 北・南・西の盛土が見つかっています。北盛土は、遺跡の中でも周りよりも少し高い、こんもりとした丘になっています。竪穴住居や大きな柱穴を掘った時の残土や排土を、同じ場所に長い間、継続して捨てています。そして普段使っている生活の廃棄物、ゴミも捨てたようです。同じ場所で約1000年もの長い間繰返したので、この場所が廻りより少し高くなりました。
北海道南部から東北地方北部では、縄文時代前期中頃から中期中頃にかけて(5500年前~4500年前)、筒形をした土器がたくさん作られました。このような土器を円筒土器と呼んでいます。これまでの発掘調査でダンボール箱で4万箱以上出土し、復元したものは6800個体以上あります。土器の発明により煮炊きが可能になりました。またこれらは簡単に持ち運びができないことから貯蔵用に使われたり、外側や内側に赤い色が残り赤く塗られていたものもあり、特別な場合に使われたものと考えられています。

現代生活の中にその起源が縄文時代にまで遡って考えることができるものがいくつもあります。縄文文化は日本の基層文化であるということができます。自然とともに生きた縄文人の暮らしから学ぶこと考えさせられることが多くありました。
【三内丸山遺跡】青森市大字三内字丸山293(展示室)
日本を代表する縄文遺跡です。青森市の郊外に位置し、標高約20mの台地上にあります。北側には沖館川が流れ、南側には遠く八甲田連峰を望むことができます。遺跡の面積は35haと広大です。平成4年、県営野球場建設に先立ち、大規模な発掘調査が始まり、調査の結果、縄文時代前期から中期にかけて(約5500~4000年前)長期間継続した、大規模な集落跡であることが判明しました。
Posted by マー君 at 07:58│Comments(0)
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