2017年09月17日
⑧ちょっと青森へ まとめ
以前歴史についてブログや参考本などからまとめたものがあります。今回の青森への旅行のきっかけとなった材料の一つがこのまとめです。
専門家の方達が何年もかかって解き明かしてきた日本の歴史、最近特に歴史が塗り替えられたと言う様な、子供の頃習った年代が大きく遡る様な問題が絶えず起きています。何故、そんな事がわかるのだろう?その答えは新しい資料が見つかったとか科学技術の発達により測定精度が高められたとか研究者が増えたなど色々あります。
今回の青森への旅は、自分の頭の中にある縄文時代の問題点を現地に行って体験することによって、新たに認識するものが有るんではないかと思い青森に行くことにしました




【歴史の動き】
約2万年前 日本列島に人類が生活を始める
1万2000年~3000年前 土器の発明
縄文文化誕生
狩猟・最終経済が発展
紀元前7~8世紀 初期農耕の始まり
紀元前3~4世紀 稲作(水稲)の伝来・普及
青銅器・鉄器の伝来
弥生文化誕生
小国の発生
2世紀末 邪馬台国による小国の統治
3世紀 古墳の登場
4世紀 朝鮮半島の動乱
首長連合=ヤマト政権の誕生
漢字の伝来
◎縄文土器の発明は文明の起りを意味した。
土器の発明は生活スタイルの大変化をもたらした。煮炊きすることで食糧事情が飛躍的によくなり、定住のきっかけとなった。
●九州の福井洞窟で発見された隆線文土器(佐世保市吉井町)12000~13000年前 旧石器時代の土器 後の縄文土器の原型
●三内丸山遺跡によって覆された縄文時代像
三内丸山遺跡の発掘によって縄文社会が従来考えられていたよりもはるかに豊かで、進んだ文化を持っていたことが分かった。
○長さ32m、幅9mの巨大な竪穴式住居〈テント風住居ではなく巨大な集合住宅だった〉
建築技術 弥生時代に生まれたと考えられてきた「高床式」の住居は縄文時代にすでにあった。
整地技術 メインストリート、居住地域、墓地、ゴミ捨て場など区画整理 ※集団のルールが確立されていた
漁業技術 タイ・ヒラメ・マグロ・カツオ・ブリ・サケ・ニシン
農業文化 栗のDNA「栽培種」
海上交易も始まっていた 丸木舟による海上交易
北海道(黒曜石)
岩手県(琥珀)
秋田県(アスファルト)
新潟県(ヒスイ)
※三内丸山遺跡の周辺には縄文遺跡が集中し一大文化圏を構成していた。
五月女泡遺跡・亀ヶ岡遺跡・小牧野遺跡・野木遺跡
●農耕の誕生
弥生時代になるまで日本に戦争はなかった。農業が始まると同時に共同体間の戦争が頻発した。その大きな原因は人口が増加したことにある。水稲耕作は弥生時代に中国南部から朝鮮半島を経由して伝わった。→九州
生産力をアップさせるための進んだ農具の獲得も、争いの大きな原因だった。特に鉄製の農具はそれまでの木製の農具に比べて飛躍的に生産力を高めたのだが、初期はまだ国内では生産できず、朝鮮半島から輸入されていた。そのための交易権を巡って、集団同士が争うようになった。
縄文人と弥生人は顔つきも体格も全く違う。
新たに渡来した人々が水稲栽培や金属器を持ち込み弥生時代が始まった。しかし東国の人々は渡来人の文化をなかなか受け入れなかった。
弥生土器 東京・本郷の弥生町----文京区弥生2丁目
南方モンゴロイドの縄文人が住んでいた日本列島へ、後から金属器、水稲栽培の文化を持つ新モンゴロイドがやって来て、混血しながら北九州・畿内を中心に広がったと考えられている。弥生人は大陸から渡ってきた新モンゴロイドあるいは縄文人と新モンゴロイドのハーフだという事だ。東北では、縄文人と弥生人にあまり違いがないから、おそらく東北の縄文人はあまり混血せずに新モンゴロイドの文化だけ受け入れたのだろう。
①稲作・金属器の文化を持った渡来人が九州に上陸(紀元前5~4世紀)
②縄文人と渡来人が弥生文化を形成 混血により弥生人が発生(紀元前3世紀初め)
③弥生文化は短期間で畿内にまで普及(紀元前3~4世紀)
④かなり遅れて東北地方に弥生文化が普及(3~4世紀)
※東北に弥生文化がなかなか広まらなかった理由
○食料が豊かで稲作の必要がなかった
○人口密度が高く、すでに文化圏が構築されていた
※西日本で弥生文化が素早く浸透した訳
○西日本と東日本との気候風土の違いが原因
西日本は常緑の照葉樹林が多く、木のみがあまり採れないため、縄文時代には非常に人口密度が低かったそのため弥生人が大挙して渡ってくると、弥生系が多数派となり混血が進んだ。(縄文人は弥生人が持ち込んだ結核菌に耐性がなかったため、結核が流行して死んだ?というせつもある)
農業共同体の起り
古代首長の最初の仕事は「農作業の指導」
古代共同体のリーダーは、まず農作業の指導者として登場し、次第に古代国家の首長となって行った。
「政治」とは神を祭ることだった
共同体の「貧富の差」は指導者の優劣で決まる。農業経営に詳しくないと支配者にはなれない
ヤマト朝廷は4世紀半ばまでには成立していた
邪馬台国との関係は・・黒塚古墳(奈良県天理市) 大量の銅鏡出土 3世紀末
熊襲・隼人・蝦夷・・「まつろわぬ民」
出雲・・先進的な外来文化を持った神政国家 4世紀にヤマト朝廷に従った
○土偶は壊すため銅鐸は土に埋めるために作られた
古代人が作ったものの中には現代から見ると不思議な品々が数多くあり、いまだに用途がわからないものもある。わざと壊した?ほとんどがかけて出土している土偶の不思議
○土偶(素焼きの人形・女性がほとんど)縄文時代
「子を産む」という女性の能力を崇(あが)めて豊穣を祈った。99%が欠けていて故意に割った様子がある。病気などの災いを身代わりに背負って貰う「形代・かたしろ」の一種だったとも考えられる。
○「銅鐸」はヤマト朝廷とは相いれない民族の祭具だった?
銅鐸は弥生時代の青銅器で近畿東海を中心に広い地域に見つかっている。初期の銅鐸は小ぶりで吊下げて打ち鳴らした。この点からすれば祭儀などの時に使われた楽器の一種だろうと考えられる。ところが謎なのは同じ銅鐸でも大きすぎて吊るせず、しかも中も空洞でないものが多数出土している。後期に作られたものだがこちらは用途がまったくわからない。
島根県 荒神谷遺跡 銅鐸6個 銅剣358本 銅矛16本・・宗教的・呪術的・・「記紀」に記述が出てこない
銅鐸が出雲地域で多数出土していることから銅鐸は「まつろわぬ民」の一つとされる出雲たちのヤマト朝廷の神道とは相容れない民族の祭器だったとも想像できる。
巨大古墳の時代 5世紀に集中
●百舌鳥陵山古墳(みささぎやま) 5世紀前半(現・履中陵 墳丘長360m)
●誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま) 5世紀中葉(現・応神陵425m)
●大仙古墳 5世紀中葉~後半(現・仁徳陵486m)
〈大林組の試算〉
古代工法で1日最大2000人
述べ680万7000人を動員
15年8か月
造営地の移動
4世紀後半~5世紀前半
大和・柳本古墳群→奈良盆地北部の佐紀盾奈列(さきたてなみ)古墳群→河内
津堂城山
仲ツ山
百舌鳥陵山
誉田御廟山
大山
土師ニシンザイ
岡ニシンザイ
【亀ヶ岡式土器の特徴】
各器種ごとの文様帯の区分と類型
東北地方を中心として、縄文時代晩期には、いわゆる亀ヶ岡式土器が分布していた。亀ヶ岡式文化は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3、4世紀に終末を迎えた縄文時代最後の文化である。この文化の土器は製作の精粗において2大別され、薄手小型の精製土器と、大型で粗雑な作りの粗製土器がある。後者は破片が多く、内面に炭化物が付着することが多いことから、日常的な什器として使用されたことが伺われる。亀ヶ岡式精製土器の大きな特徴は、様々な器形に、一見理解不能な多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。器種も複雑に分化し、装飾も繁煩を極めている。しかし、複雑多岐にわたる亀ヶ岡式土器も、時間の経過とともに、器種構成や文様、装飾、器形などか順次変化していくことが確認されている。山内清男博士の編年学研究による、岩手県大洞貝塚の地点別調査の結果、亀ヶ岡式土器は連続する6型式に細分されることが確認された。古い順序に大洞B式、BC式、C1式、C2式、A式、A'式に区分され、今日でもこの型式編年が使用されている。その編年基準に徴して見ると、長谷堂貝塚は大洞A式の段階に相当し、長い歴史をもつ縄文時代も近々終末を迎えようとする時期に営まれた。
精製土器は、薄い器壁に文様を描き、朱色に塗色され、装飾されたものが一般的である。浅鉢、壷形、台付き浅鉢、注口などがあり、縄文時代のなかでも際立った器種分化を遂げている。それらの器種のうち、長谷堂貝塚で量的にとくに顕著に確認された器種は、鉢形、壷形、台付き皿の3器種であった。それらは合計すると、精製土器の8割り以上に達する。直前の大洞C1~C2式では、精製土器の器種組成は特に複雑に分岐しており、それらの他に椀形、装飾浅鉢、高杯形、香炉形などか加わる。長谷堂貝塚では、それらは出土しておらず、大洞式終盤を迎えて、器種構成が簡略化の方向に転じてきたことが窺える。
長谷堂貝塚で確認された器種のうち、台付き浅鉢では、装飾や器形などに多くの変化は見られず、統制のとれた一様性をみることができる。しかし、壷形では、大小の区分、体部の膨れ具合、口縁部の様態、口外帯の有無、体部文様の種類などにより、多くの変異が生じている。鉢形でも、同様に数種類の変異が存在する。しかし、煩雑になるので、ここでは代表的な3形態を挙げるに止めたい。
【東北分布の縄文土器見つかる 北谷町の平安山原遺跡(はんざんばるいせき) 2017年1月24日 16:40 琉球新報】
【北谷】北谷町伊平の平安山原B遺跡で、縄文時代晩期の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄島での大洞系土器の発見は初となる。北谷町教育委員会が24日午後、発表した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたって行われていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、新たな文物の交流があったことを示唆している。
教育委員会の担当者は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。【琉球新報電子版】
【北谷】北谷町伊平の平安山原(はんざんばる)B遺跡で、縄文時代晩期(約2500年前)の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄県内での発見は初めて。北谷町教育委員会が24日、縄文・弥生時代を研究する設楽博巳東京大学教授が「文様と形から大洞系土器の可能性が高い」としたとして発表した。
町教委によると、出土した破片は大洞系土器の大洞A式土器の可能性が高いという。大洞A式土器は、亀ヶ岡式土器のことで沖縄から約2千キロ離れた岩手県大洞貝塚で出土した土器から名付けられた。破片には大洞A式土器の特徴である「工」の字を組み合わせた迷路のような文様の工字文が見られたほか、へこみ部分にわずかに朱色が塗られた跡が確認された。
平安山原B遺跡は2009年10月14日から翌年2月19日にかけて、桑江伊平土地区画整理事業に伴い調査が行われた。土器片はグスク時代(約500~800年前)、農耕に向いた土を作ろうと周辺の砂を意図的に混ぜて造られた層から出土した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原(いれいばる)遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたっていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、幅広い交流があったことを示唆している。町教委は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。
●「熊襲」とは3~4世紀の統一国家始原期に九州南部を統治していた部族のことで、そのうち今日の熊本県域を支配していたのが熊襲の中の「熊(狗奴)人」であり、宮崎・鹿児島県域を支配していたのが「襲(襲津間=投馬)人」で、両者を区別せずに呼んだのが「クマソ(熊襲)」だったのである。
●隼人の呼称についてもいろいろな説がある。呼称そのものは大和王朝確立期の天武天皇時代に作られたものである
●日本は6,852の島で構成される島国であるが[4]、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び、「八つの島」の総称としている。(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )
この中で4番目に登場する「九州」の原文での呼称表記は、「筑紫島(つくしのしま)」である。
『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記している。
●古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表、#歴史書における呼称)。
3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった[20]。 続日本紀によるとヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古天皇17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、弘仁15年/天長元年(824年)以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。
なお古代九州には7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。
九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。
「古墳時代」は3世紀中頃~7世紀代まで・・当時の有力者が非常に大きな古墳を造ることに社会的な意義を見いだし当時の最新の技術を駆使して古墳造りに奔走した時代。
●権力を誇示
●宗教的、政治的
●前方後円墳の時代
箸墓古墳以後、大和盆地東南部から西日本を中心に類似した古墳が出現
●竪穴式石室
●割竹型木棺
●三角縁神獣鏡の副葬
箸墓形前方後円墳は大和政権段階に築造された古墳、大和政権から王の中の王(大王)が出現して政権の中心が出来た時代、大和政権と地方の首長(王)との結びつきが強くなって行く。
古墳の分布状況・・①兵庫県 16577基、②千葉県 13112基、③鳥取県 13094基、④福岡県 11311基、⑤京都府 11310基・・
全国合計 161560基
前方後円墳の数
①千葉県 685基、②茨城県 444基、③群馬県 410基、④岡山県 291基、⑤鳥取県 280基、栃木県 280基、⑥広島県 248基、・・東京都 12
紀元前3~前2世紀(弥生時代前期中頃)大阪府茨木市 東奈良遺跡 方形周溝墓
紀元前2世紀~1世紀(弥生時代中期)
弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。
近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形に多様さや石列は見られない。供献の土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢、その他などが加わる。
この頃北部九州佐賀県吉野ケ里遺跡では楕円形の大型周溝墓が作られている。
死者に鏡をはじめとする多量の副葬品をそえて葬る風習は、他の地域に先駆けてまず北部九州に成立していた。
●奴国 福岡県春日市 須玖岡本遺跡
●伊都国 前原市 三雲南小路遺跡
弥生時代中期の段階から北部九州の支配者層墓のあり方が、東方の中国地方や近畿とは異なる展開をしている。
日本列島の古墳はその出現の経緯からも明らかなように日本列島に成立した広域の首長連合の構造と分かちがたく結びついている。
現代の日本人の思考や意識などに深くかかわっている古代の天皇制は首長連合、ヤマト政権の中枢を構成した畿内の王権を母体として成立したものに他ならない
邪馬台国連合から大和政権へ
古墳出現の前提となる広域の政治連合ンp形成は、朝鮮半島南部の鉄資源や、さまざまな先進文物の入手ルートのしはいけんをめぐる争いと関係している。
奴国・伊都国との対抗
豊前・吉備・讃岐・畿内などの瀬戸内海各地の勢力が同盟関係を結んだ。
中国鏡の分布が2世紀末~3世紀初めころ急激な変化が起きている。北部九州中心→畿内中心
邪馬台国連合
箸墓形の大型前方後円墳の成立が邪馬台国連合の変質、すなわちヤマト政権成立に繋がって行く。
狗奴国 濃尾平野を本拠地 3世紀中楊以前魏志倭人伝では邪馬台国と戦った。
吉備地方で最大の出現期古墳である岡山市浦間茶臼山古墳が箸墓古墳の2分の1の墳丘長を持つ。このことは子の首長たちの共通の新しい墳墓の創出が、連合の身分秩序の整備と無関係でないことを示している。
古墳出現期に見られた畿内以外の地域で最大級の首長墓が畿内の大首長墓のほぼ1/2の大きさ
渋谷向山古墳(現 景行天皇陵)天理市 墳丘長310m
銚子塚古墳 山梨県中道町 墳丘長186m
新宮寺山古墳 岡山市 墳丘長150m
墳丘規模の差が前期を通じてほぼ踏襲されている。5世紀(中期)一部の地域首長の古墳が巨大化する。
造山古墳 吉備 岡山市 墳丘長360m
大仙陵古墳(現 仁徳天皇陵) 墳丘長486m
誉田御廟山古墳(現 応神天皇陵) 墳丘長420m
ミサンザイ古墳(現 履中天皇陵) 墳丘長365m 造山古墳と同時期同じ大きさ。
5世紀初頭には吉備の大首長と畿内の大首長とは、ほぼ同規模の古墳を造っていた。
東アジアの国際情勢の変化と関連
古墳時代中期5世紀には朝鮮半島では高句麗が南下、倭国は伽那の鉄資源に依存していた。
畿内政権は吉備政権をはじめとする有力な地域政権と手を組み入手した資源供給に優遇する。吉備、上毛野、丹後、日向。
5世紀後半を境に畿内の政治勢力と畿内以外の政治勢力との関係が大きく変化する。
埼玉稲荷山古墳 「辛亥」銘鉄剣 辛亥=471年 獲加多支鹵大王=ワカタケル=雄略天皇 大王の称号を名乗っている。
5世紀前半から中葉のものと考えられる「王賜・オウシ」銘が見られる鉄剣が出土〝(表)王賜□□敬□(安)〟銘文中の「王」は倭の五王の可能性がつよく「済」(允恭天皇)とする説が有力である。 千葉県市原市 稲荷台1号墳
古墳時代の日本では大王を中心に各地の豪族が連合して、それぞれの政権内の役職を分担していた。そのころの政治の仕組みを氏姓制度(シセイセイド)という。豪族は、血縁をもとに構成された氏という集団をつくっていた。その当時の政治の仕組みを氏姓制度という。首長層の擬制的血縁集団が大王に対しての世襲的な服属や奉仕のシステムを明確化させていく。ウジ、カバネに「ベ」を加えて新しい支配ののシステムを整備する。
畿内の大王とこれに服属する個々の地方豪族が各地の政治勢力の連合体としてヤマト政権を樹立する。
7世紀の終わりに畿内の大王を中心とする中央政権的な政治体制へ変わりつつ古代国家の成立となる。
前方後円墳の造営は畿内西日本では6世紀末葉、東日本では7世紀初頭に造営が中止される。
邪馬台国連合=前方後円墳 狗奴国連合=前方後方墳
出現期の大型前方後円墳の年代が3世紀中葉すぎに遡ると考えられることから、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が否定できない。
邪馬台国連合 画文帯神獣鏡(2世紀末~3世紀)畿内中心の分布状況を示す最初の鏡・・後漢末
★箸墓よりも築造が早いとされる出現期の前方後円墳
●ホケノ山古墳
●巻向勝山古墳 年輪年代測定・・西暦210年頃
●巻向矢塚古墳
◦神門5号墳
◦神門4号墳
辻畑古墳→高尾山古墳 前方後円墳(静岡県沼津市)・・西暦230年頃 狗奴国王の卑弥弓呼(ヒミココ)? スガルの王
倣製鏡 日本で出土する鏡のうち中国鏡を模倣してつくられた鏡
同范鏡 同一の鋳型または原型からつくられた鏡
(三角縁)神獣鏡・・中国の東方、渤海の中に蓬莱、方丈、瀛州・えいしゅうの三神山があって、仙人が住み不老不死の霊薬があると信じられてきた。建物は黄金と白銀に飾られ、遠くから見ると白く輝いている。・・不老不死を求める思想=神仙思想=図案化された鏡が(三角縁)神獣鏡
5世紀の倭人たちは積極的に朝鮮半島にわたり、馬具、武具、武器、装身具、陶質土器、やそれらの制作技術、横穴式石室などの葬制、漢字による表記技術、さらには信仰やイデオロギーに至る様々な文物や技術を受け入れました。また渡来人による技術の受け入れには鋲留めの技術、金銅製品の加工技術、須恵器の生産技術などがありまさに渡来文化の需要期でもありました。
古墳とヤマト政権
①古墳の出現とヤマト政権
弥生時代には土盛した墳丘墓が各地に出現しましたが3世紀後半になると前方後円墳をはじめとする、より大規模な古墳が西日本を中心に出現します。出現期の古墳は、その内部に竪穴式石室、木棺という埋葬施設を持ち、多数の銅鏡・勾玉・管玉など呪術・ジュジュツ的な副葬品を伴うといった共通の特徴を持っています。
②共通の墓制が意味するもの
この様な墓制の共通性(形状・埋葬施設・副葬品の画一性)は何を意味するのでしょう。
それは当時、大和地方(現在の奈良県を中心とした地方)を中心に広域的政治連合が形成されており、その勢力の広がりを意味するものと理解できます。
出現期の古墳は大和地方に集中しています。その中で最大のものは箸墓古墳です。箸墓古墳は墳丘の長さが280mに及ぶ前方後円墳で出現期の他地域の前方後円墳(岡山県浦間茶臼山古墳・140m 福岡県石塚山古墳・120m)と比較しても、その大きさは群を抜いています。したがってこの時期の政治連合は、大和地方を中心とする勢力によって形成されたと考えられます。この政治連合をヤマト政権と呼びます。
前方後円墳のような独特の形状を持った古墳は、そう簡単に真似できるものではありません。おそらくは設計図のようなものがあって、それがヤマト政権下に組み込まれた各地の首長たちに配布され、従来あった首長たちの多様な墓制は前方後円墳という共通の墓制に変化、統一されていったと思われます。
古墳は4世紀中頃までに東方地方の中部まで波及しました。これは同時に4世紀中頃までに西日本から東北地方中部までの範囲に及ぶ各地の首長たち(=各地に文立していた小国家の王たち)がヤマト政権という豪族連合に組み込まれたことを意味します。
③副葬品
前期の副葬品は銅鏡や勾玉・管玉、腕輪型石製品、鉄製の武器や農工具類など呪術的・宗教的色彩の強いものが、多く見られます。そのことから前期古墳の被葬者は、司祭的な性格を持っていたことがうかがわれます。
中期になると、鉄製武器や武具・馬具などが多くなり中期古墳の被葬者が、軍事指導者的な性格を強めていることがわかります。
なお、前期から中期にかけて、副葬品の特徴がこのように大きく変化したことを文化的な断絶と見なし、これを大陸北部から侵入した騎馬民族の征服した結果とする「騎馬民族征服王朝説」が江上波夫氏によって唱えられました。
④最大規模の古墳は大王の墓
前期大和地方に営まれた大規模古墳は、中期になると河内地方に移り、さらに大規模化します。古墳時代を通じて最大規模の古墳が、この時期に集中しています。
最大のものが、大阪府堺市東部に展開する百舌鳥古墳群の盟主的位置を占める大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)です。墳丘の長さが486mあり、周囲には2~3重の濠をめぐらしています。周辺の陪冢(ばいちょう・従属的な小型の古墳)の区域を含めると、その墓域は80haにも及びます。
2位の規模を持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(現応神天皇陵)などとともに、5世紀のヤマト政権のリーダーである大王(おおきみ)の墓であると考えられています。
⑤地方の巨大古墳は豪族の墓
中期の大規模な前方後円墳は近畿地方中央部ばかりでなく、群馬県(上毛野・かみつけの)・岡山県(吉備・きび)・宮崎県(日向・ひゅうが)などにもみられます。たとえば、岡山県の造山古墳は墳丘の長さが360mもあります。これは我が国の古墳の中では第4位の規模です。
この事実は、近畿地方を中心とするヤマト政権の中でこれら地域の豪族が重要な位置を占めていたことを表しています。
★古墳大きさランキング
1 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 486m 大阪府堺市堺区大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 425m 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365m 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350m 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335m 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310m 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 300m以上 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8 渋谷向山古墳(景行陵) 300m 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 290m 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286m 岡山県総社市三須
11 箸墓古墳 280m 奈良県桜井市箸中
12 五社神古墳(神功陵) 275m 奈良県奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255m 奈良県奈良市法華寺町
14 市庭古墳(平城陵) 250m 奈良県奈良市佐紀町
メスリ山古墳 250m 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 242m 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242m 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238m 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 230m 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227m 奈良県奈良市尼ヶ辻町
21 太田茶臼山古墳(継体陵) 226m 大阪府茨木市太田
22 墓山古墳 225m 大阪府羽曳野市白鳥
23 巣山古墳 220m 奈良県北葛城郡広陵町
24 ヒシアゲ古墳(磐之媛陵) 219m 奈良県奈良市佐紀町
西殿塚古墳(手白香皇女陵) 219m 奈良県天理市中山町
26 佐紀石塚山古墳(成務陵) 218m 奈良県奈良市山陵町
27 川合大塚山古墳 215m 奈良県北葛城郡河合町川合
28 築山古墳 210m 奈良県大和高田市築山
西陵古墳 210m 大阪府泉南郡岬町淡輪
太田天神山古墳 210m 群馬県太田市内ヶ島
31 津堂城山古墳 208m 大阪府藤井寺市津堂
32 桜井茶臼山古墳 207m 奈良県桜井市外山
陵山古墳(日葉酢媛陵) 207m 奈良県奈良市山陵町
34 コナベ古墳 204m 奈良県奈良市法華寺北町
35 御廟山古墳 203m 大阪府堺市北区百舌鳥本町
36 摩湯山古墳 200m 大阪府岸和田市久米田摩湯町
白鳥陵古墳(軽里大塚古墳) 200m 大阪府羽曳野市軽里
新木山古墳 200m 奈良県北葛城郡広陵町三吉
神明山古墳 200m 京都府京丹後市
両宮山古墳 200m 岡山県赤磐市
東アジア諸国との交渉
①中国の分裂と国家の形成
中国では三国時代の後、260年にいったん西晋が国内を統一したものの316年に滅亡。華北地方は匈奴をはじめとする諸民族の侵入を受けて、五胡十六国時代と呼ばれる混乱状態に陥りました。(南朝)
かくて南の漢民族支配地域、北の異民族支配地域のそれぞれ二つに分裂した中国は次々と国家の興亡を繰り返す南北朝時代をむかえました。周辺諸民族に対する中国の支配力は弱まり、東アジア周辺地域ではつぎつぎと国家形成が進みました。
中国北部から起った高句麗は、朝鮮半島北部に領土を広げ、楽浪郡・帯方郡を滅ぼしました。(313年)
一方、朝鮮半島南部に馬韓・弁韓・辰韓というそれぞれ小国家連合が形成されていましたが、4世紀になると馬韓から百済が、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成しました。しかし弁韓地域では4~6世紀になっても小国の分立状態が続きました。
②ヤマト政権の対外交渉(1)---高句麗との交戦---
4世紀後半になると、高句麗は南下政策を進め、百済・新羅が圧迫されるようになりました。百済・新羅は南に向かわざるを得ません。朝鮮半島は行き場を失った玉突き状態の様になりかっての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)も圧迫を受けることになります。この様な状況下、早くから伽耶諸国と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)は、百済・新羅などとともに高句麗と戦う事になりました。高句麗の好太王(広開土王ともいう)碑文には、391年倭が朝鮮半島に出兵し、高句麗と交戦したことが記されています。【好太王碑・・現在の中国吉林省集安市に近い場所に414年、長寿王が父好太王の事績を顕彰するために建立した。】
当時倭人たちには乗馬の風習がありませんでした。高句麗の騎馬軍団との戦いで倭人たちは否応なしに騎馬技術を学ぶことになりました。5世紀になると日本列島の古墳の副葬品に馬具が現れるのはこうした事情を反映していると考えられます。
③ヤマト政権の対外交渉(2)---南朝への朝貢---
5世紀初めから約1世紀の間、倭王(ヤマト政権の大王)たちが、相次いで中国の南朝に朝貢しました。中国の歴史書(晋書・宋書・南斉書・梁書)に残る記録では413年から502年の間に13回にわたって使者を派遣したとの事です。「宋書」倭国伝は彼らの名を讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)としるしています。このうち済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略(ゆうりゃく)天皇をそれぞれ指すと考えられています。讃=?珍=?彼らを総称して「倭の五王」といいますが、弥生時代の邪馬台国とは異なり、男系による王位世襲の確立をしていたことがわかります。
〝倭王武の上表文〟
倭王武が478年、宋の皇帝(順帝)に奉ったとされる上表文が、宋書に記載されています。そこで武は、祖先以来の征服事業について述べ、中国皇帝からの冊封(さくほう)と称号の認可を求めています。
称号は「使持節都督(しじせつととく)・倭・百済・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭国王」と自称」しましたが、実際に得た称号は「「使持節都督(しじせつととく)・倭・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍・倭王」でした。宋とすでに朝貢関係にあった百済を除いて七国が六国になっています。もちろんこの称号は形式的なものにすぎません。
大陸文化の受容
●渡来人の波
第1波 4~5世紀、漢人が中心
楽浪郡、帯方郡の滅亡(313年)
第2波 6~7世紀、韓人が中心
伽那諸国(562年)
百済(660年)
高句麗(668年)・・・それぞれの滅亡

現地に行けば納得することがいっぱいあるんですね。
※本日台風18号九州南部に昼頃上陸との事、要注意。
専門家の方達が何年もかかって解き明かしてきた日本の歴史、最近特に歴史が塗り替えられたと言う様な、子供の頃習った年代が大きく遡る様な問題が絶えず起きています。何故、そんな事がわかるのだろう?その答えは新しい資料が見つかったとか科学技術の発達により測定精度が高められたとか研究者が増えたなど色々あります。
今回の青森への旅は、自分の頭の中にある縄文時代の問題点を現地に行って体験することによって、新たに認識するものが有るんではないかと思い青森に行くことにしました
【歴史の動き】
約2万年前 日本列島に人類が生活を始める
1万2000年~3000年前 土器の発明
縄文文化誕生
狩猟・最終経済が発展
紀元前7~8世紀 初期農耕の始まり
紀元前3~4世紀 稲作(水稲)の伝来・普及
青銅器・鉄器の伝来
弥生文化誕生
小国の発生
2世紀末 邪馬台国による小国の統治
3世紀 古墳の登場
4世紀 朝鮮半島の動乱
首長連合=ヤマト政権の誕生
漢字の伝来
◎縄文土器の発明は文明の起りを意味した。
土器の発明は生活スタイルの大変化をもたらした。煮炊きすることで食糧事情が飛躍的によくなり、定住のきっかけとなった。
●九州の福井洞窟で発見された隆線文土器(佐世保市吉井町)12000~13000年前 旧石器時代の土器 後の縄文土器の原型
●三内丸山遺跡によって覆された縄文時代像
三内丸山遺跡の発掘によって縄文社会が従来考えられていたよりもはるかに豊かで、進んだ文化を持っていたことが分かった。
○長さ32m、幅9mの巨大な竪穴式住居〈テント風住居ではなく巨大な集合住宅だった〉
建築技術 弥生時代に生まれたと考えられてきた「高床式」の住居は縄文時代にすでにあった。
整地技術 メインストリート、居住地域、墓地、ゴミ捨て場など区画整理 ※集団のルールが確立されていた
漁業技術 タイ・ヒラメ・マグロ・カツオ・ブリ・サケ・ニシン
農業文化 栗のDNA「栽培種」
海上交易も始まっていた 丸木舟による海上交易
北海道(黒曜石)
岩手県(琥珀)
秋田県(アスファルト)
新潟県(ヒスイ)
※三内丸山遺跡の周辺には縄文遺跡が集中し一大文化圏を構成していた。
五月女泡遺跡・亀ヶ岡遺跡・小牧野遺跡・野木遺跡
●農耕の誕生
弥生時代になるまで日本に戦争はなかった。農業が始まると同時に共同体間の戦争が頻発した。その大きな原因は人口が増加したことにある。水稲耕作は弥生時代に中国南部から朝鮮半島を経由して伝わった。→九州
生産力をアップさせるための進んだ農具の獲得も、争いの大きな原因だった。特に鉄製の農具はそれまでの木製の農具に比べて飛躍的に生産力を高めたのだが、初期はまだ国内では生産できず、朝鮮半島から輸入されていた。そのための交易権を巡って、集団同士が争うようになった。
縄文人と弥生人は顔つきも体格も全く違う。
新たに渡来した人々が水稲栽培や金属器を持ち込み弥生時代が始まった。しかし東国の人々は渡来人の文化をなかなか受け入れなかった。
弥生土器 東京・本郷の弥生町----文京区弥生2丁目
南方モンゴロイドの縄文人が住んでいた日本列島へ、後から金属器、水稲栽培の文化を持つ新モンゴロイドがやって来て、混血しながら北九州・畿内を中心に広がったと考えられている。弥生人は大陸から渡ってきた新モンゴロイドあるいは縄文人と新モンゴロイドのハーフだという事だ。東北では、縄文人と弥生人にあまり違いがないから、おそらく東北の縄文人はあまり混血せずに新モンゴロイドの文化だけ受け入れたのだろう。
①稲作・金属器の文化を持った渡来人が九州に上陸(紀元前5~4世紀)
②縄文人と渡来人が弥生文化を形成 混血により弥生人が発生(紀元前3世紀初め)
③弥生文化は短期間で畿内にまで普及(紀元前3~4世紀)
④かなり遅れて東北地方に弥生文化が普及(3~4世紀)
※東北に弥生文化がなかなか広まらなかった理由
○食料が豊かで稲作の必要がなかった
○人口密度が高く、すでに文化圏が構築されていた
※西日本で弥生文化が素早く浸透した訳
○西日本と東日本との気候風土の違いが原因
西日本は常緑の照葉樹林が多く、木のみがあまり採れないため、縄文時代には非常に人口密度が低かったそのため弥生人が大挙して渡ってくると、弥生系が多数派となり混血が進んだ。(縄文人は弥生人が持ち込んだ結核菌に耐性がなかったため、結核が流行して死んだ?というせつもある)
農業共同体の起り
古代首長の最初の仕事は「農作業の指導」
古代共同体のリーダーは、まず農作業の指導者として登場し、次第に古代国家の首長となって行った。
「政治」とは神を祭ることだった
共同体の「貧富の差」は指導者の優劣で決まる。農業経営に詳しくないと支配者にはなれない
ヤマト朝廷は4世紀半ばまでには成立していた
邪馬台国との関係は・・黒塚古墳(奈良県天理市) 大量の銅鏡出土 3世紀末
熊襲・隼人・蝦夷・・「まつろわぬ民」
出雲・・先進的な外来文化を持った神政国家 4世紀にヤマト朝廷に従った
○土偶は壊すため銅鐸は土に埋めるために作られた
古代人が作ったものの中には現代から見ると不思議な品々が数多くあり、いまだに用途がわからないものもある。わざと壊した?ほとんどがかけて出土している土偶の不思議
○土偶(素焼きの人形・女性がほとんど)縄文時代
「子を産む」という女性の能力を崇(あが)めて豊穣を祈った。99%が欠けていて故意に割った様子がある。病気などの災いを身代わりに背負って貰う「形代・かたしろ」の一種だったとも考えられる。
○「銅鐸」はヤマト朝廷とは相いれない民族の祭具だった?
銅鐸は弥生時代の青銅器で近畿東海を中心に広い地域に見つかっている。初期の銅鐸は小ぶりで吊下げて打ち鳴らした。この点からすれば祭儀などの時に使われた楽器の一種だろうと考えられる。ところが謎なのは同じ銅鐸でも大きすぎて吊るせず、しかも中も空洞でないものが多数出土している。後期に作られたものだがこちらは用途がまったくわからない。
島根県 荒神谷遺跡 銅鐸6個 銅剣358本 銅矛16本・・宗教的・呪術的・・「記紀」に記述が出てこない
銅鐸が出雲地域で多数出土していることから銅鐸は「まつろわぬ民」の一つとされる出雲たちのヤマト朝廷の神道とは相容れない民族の祭器だったとも想像できる。
巨大古墳の時代 5世紀に集中
●百舌鳥陵山古墳(みささぎやま) 5世紀前半(現・履中陵 墳丘長360m)
●誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま) 5世紀中葉(現・応神陵425m)
●大仙古墳 5世紀中葉~後半(現・仁徳陵486m)
〈大林組の試算〉
古代工法で1日最大2000人
述べ680万7000人を動員
15年8か月
造営地の移動
4世紀後半~5世紀前半
大和・柳本古墳群→奈良盆地北部の佐紀盾奈列(さきたてなみ)古墳群→河内
津堂城山
仲ツ山
百舌鳥陵山
誉田御廟山
大山
土師ニシンザイ
岡ニシンザイ
【亀ヶ岡式土器の特徴】
各器種ごとの文様帯の区分と類型
東北地方を中心として、縄文時代晩期には、いわゆる亀ヶ岡式土器が分布していた。亀ヶ岡式文化は、今から約3000年ほど前に始まり、紀元前3、4世紀に終末を迎えた縄文時代最後の文化である。この文化の土器は製作の精粗において2大別され、薄手小型の精製土器と、大型で粗雑な作りの粗製土器がある。後者は破片が多く、内面に炭化物が付着することが多いことから、日常的な什器として使用されたことが伺われる。亀ヶ岡式精製土器の大きな特徴は、様々な器形に、一見理解不能な多様で複雑怪奇な文様が描かれ、赤色塗料が塗布されている点である。器種も複雑に分化し、装飾も繁煩を極めている。しかし、複雑多岐にわたる亀ヶ岡式土器も、時間の経過とともに、器種構成や文様、装飾、器形などか順次変化していくことが確認されている。山内清男博士の編年学研究による、岩手県大洞貝塚の地点別調査の結果、亀ヶ岡式土器は連続する6型式に細分されることが確認された。古い順序に大洞B式、BC式、C1式、C2式、A式、A'式に区分され、今日でもこの型式編年が使用されている。その編年基準に徴して見ると、長谷堂貝塚は大洞A式の段階に相当し、長い歴史をもつ縄文時代も近々終末を迎えようとする時期に営まれた。
精製土器は、薄い器壁に文様を描き、朱色に塗色され、装飾されたものが一般的である。浅鉢、壷形、台付き浅鉢、注口などがあり、縄文時代のなかでも際立った器種分化を遂げている。それらの器種のうち、長谷堂貝塚で量的にとくに顕著に確認された器種は、鉢形、壷形、台付き皿の3器種であった。それらは合計すると、精製土器の8割り以上に達する。直前の大洞C1~C2式では、精製土器の器種組成は特に複雑に分岐しており、それらの他に椀形、装飾浅鉢、高杯形、香炉形などか加わる。長谷堂貝塚では、それらは出土しておらず、大洞式終盤を迎えて、器種構成が簡略化の方向に転じてきたことが窺える。
長谷堂貝塚で確認された器種のうち、台付き浅鉢では、装飾や器形などに多くの変化は見られず、統制のとれた一様性をみることができる。しかし、壷形では、大小の区分、体部の膨れ具合、口縁部の様態、口外帯の有無、体部文様の種類などにより、多くの変異が生じている。鉢形でも、同様に数種類の変異が存在する。しかし、煩雑になるので、ここでは代表的な3形態を挙げるに止めたい。
【東北分布の縄文土器見つかる 北谷町の平安山原遺跡(はんざんばるいせき) 2017年1月24日 16:40 琉球新報】
【北谷】北谷町伊平の平安山原B遺跡で、縄文時代晩期の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄島での大洞系土器の発見は初となる。北谷町教育委員会が24日午後、発表した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたって行われていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、新たな文物の交流があったことを示唆している。
教育委員会の担当者は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。【琉球新報電子版】
【北谷】北谷町伊平の平安山原(はんざんばる)B遺跡で、縄文時代晩期(約2500年前)の東北地方を中心に使われていた大洞系(おおほらけい)土器の破片が見つかった。大洞系土器はこれまで鹿児島以南では種子島や奄美大島、喜界島で見つかっているが、沖縄県内での発見は初めて。北谷町教育委員会が24日、縄文・弥生時代を研究する設楽博巳東京大学教授が「文様と形から大洞系土器の可能性が高い」としたとして発表した。
町教委によると、出土した破片は大洞系土器の大洞A式土器の可能性が高いという。大洞A式土器は、亀ヶ岡式土器のことで沖縄から約2千キロ離れた岩手県大洞貝塚で出土した土器から名付けられた。破片には大洞A式土器の特徴である「工」の字を組み合わせた迷路のような文様の工字文が見られたほか、へこみ部分にわずかに朱色が塗られた跡が確認された。
平安山原B遺跡は2009年10月14日から翌年2月19日にかけて、桑江伊平土地区画整理事業に伴い調査が行われた。土器片はグスク時代(約500~800年前)、農耕に向いた土を作ろうと周辺の砂を意図的に混ぜて造られた層から出土した。
平安山原B遺跡の南に位置する伊礼原(いれいばる)遺跡からは、縄文晩期の新潟県糸魚川産のヒスイが見つかるなど、物の交流が広範囲にわたっていたことが分かっている。今回見つかった大洞系土器の破片は、島伝いにもたらされたのか直接的な交流があったかは不明だが、東北の文化圏と南島の人たちの間に縄文晩期から弥生前半にかけて、幅広い交流があったことを示唆している。町教委は「東北の土器がなぜここにあるのか、何が人を動かしたのか検証したい」と話し、ルーツの解明に力を入れるとした。
●「熊襲」とは3~4世紀の統一国家始原期に九州南部を統治していた部族のことで、そのうち今日の熊本県域を支配していたのが熊襲の中の「熊(狗奴)人」であり、宮崎・鹿児島県域を支配していたのが「襲(襲津間=投馬)人」で、両者を区別せずに呼んだのが「クマソ(熊襲)」だったのである。
●隼人の呼称についてもいろいろな説がある。呼称そのものは大和王朝確立期の天武天皇時代に作られたものである
●日本は6,852の島で構成される島国であるが[4]、日本最古の歴史書 『古事記』 (和銅5年(712年)献上) では、「日本」を「大八島国」(おおやしまのくに)と呼び、「八つの島」の総称としている。(登場順に現代の呼称表記で、淡路(あわじ)、四国、隠岐(おき)、九州、壱岐(いき)、対馬(つしま)、佐渡、本州 )
この中で4番目に登場する「九州」の原文での呼称表記は、「筑紫島(つくしのしま)」である。
『日本書紀』(養老4年(720年)完成)では、「日本」を「大八洲国」(おおやしまのくに)、「九州」を、「筑紫洲(つくしのしま)」と表記している。
●古代では、九州本島は、「筑紫島・筑紫洲(つくしのしま)」(古事記・日本書紀)と呼ばれていた(国産み#比較表、#歴史書における呼称)。
3世紀には『魏志』倭人伝に書かれているように小国(伊都国・奴国など)に分立していた。それらの国々は4-5世紀頃まで継承され、後の郡の広さに近い政治地域を支配する豪族に成長していった。倭政権からは県主(あがたぬし)に任ぜられていた。記紀などの史料には九州各地に県・県主がみられる。 5、6世紀のヤマト政権には筑紫国(北部)・豊国(東部)・肥国(中部)・熊襲国(南部)の四区分に観念されていた。それは九州成立以前の政治的区分であった[20]。 続日本紀によるとヤマト政権が律令制を取り入れるにあたって西海道の一部となり、筑紫は筑前国・筑後国、豊国は豊前国・豊後国、肥国は肥前国・肥後国に分割され日向国の7国と島嶼部の壱岐国・対馬国の2国が成立(ただし、日本書紀では律令制以前の推古天皇17年(609年)の記事に肥後國の記載あり)、弘仁15年/天長元年(824年)以後は大隅国・薩摩国を加えた本土9国、島嶼部2国となったとある。また、斉明天皇の時に、百済復興の戦に備えるために筑紫国朝倉宮に遷都し、ごく短期間であるが九州に初めて朝廷が置かれた。その後、現在の太宰府市には西海道を統轄し対外的な窓口と大陸からの防衛任務を兼ねて大宰府が設置された。また、天智天皇2年(663年)の白村江の戦い以降に筑紫に水城や大野城を置き日本の防衛の最前線の役割を担った。
なお古代九州には7世紀末までヤマト政権とは独立した王権があったとする説(九州王朝説)もある。
九州の古代の呼称は、「筑紫島」・「筑紫洲」(つくしのしま)である(#歴史書における呼称)。
「古墳時代」は3世紀中頃~7世紀代まで・・当時の有力者が非常に大きな古墳を造ることに社会的な意義を見いだし当時の最新の技術を駆使して古墳造りに奔走した時代。
●権力を誇示
●宗教的、政治的
●前方後円墳の時代
箸墓古墳以後、大和盆地東南部から西日本を中心に類似した古墳が出現
●竪穴式石室
●割竹型木棺
●三角縁神獣鏡の副葬
箸墓形前方後円墳は大和政権段階に築造された古墳、大和政権から王の中の王(大王)が出現して政権の中心が出来た時代、大和政権と地方の首長(王)との結びつきが強くなって行く。
古墳の分布状況・・①兵庫県 16577基、②千葉県 13112基、③鳥取県 13094基、④福岡県 11311基、⑤京都府 11310基・・
全国合計 161560基
前方後円墳の数
①千葉県 685基、②茨城県 444基、③群馬県 410基、④岡山県 291基、⑤鳥取県 280基、栃木県 280基、⑥広島県 248基、・・東京都 12
紀元前3~前2世紀(弥生時代前期中頃)大阪府茨木市 東奈良遺跡 方形周溝墓
紀元前2世紀~1世紀(弥生時代中期)
弥生時代前期中頃に出現し、前期の間に伊勢湾に達した。その後中期中頃に南関東、後期には北関東・東北南部へと拡がった。
近畿地方で木棺埋葬地の周囲を一辺6~25mほどの方形に区画するように幅1~2mの溝を掘り、さらに土盛りして墳丘を築く墓が登場した。平坦な丘の頂、沖積地の微高地などにおいて集落のちかくに営まれることが多く、これを方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という。平面形に多様さや石列は見られない。供献の土器類は、地域によって異なるが、一般に壺・高杯に器台・甕、鉢、その他などが加わる。
この頃北部九州佐賀県吉野ケ里遺跡では楕円形の大型周溝墓が作られている。
死者に鏡をはじめとする多量の副葬品をそえて葬る風習は、他の地域に先駆けてまず北部九州に成立していた。
●奴国 福岡県春日市 須玖岡本遺跡
●伊都国 前原市 三雲南小路遺跡
弥生時代中期の段階から北部九州の支配者層墓のあり方が、東方の中国地方や近畿とは異なる展開をしている。
日本列島の古墳はその出現の経緯からも明らかなように日本列島に成立した広域の首長連合の構造と分かちがたく結びついている。
現代の日本人の思考や意識などに深くかかわっている古代の天皇制は首長連合、ヤマト政権の中枢を構成した畿内の王権を母体として成立したものに他ならない
邪馬台国連合から大和政権へ
古墳出現の前提となる広域の政治連合ンp形成は、朝鮮半島南部の鉄資源や、さまざまな先進文物の入手ルートのしはいけんをめぐる争いと関係している。
奴国・伊都国との対抗
豊前・吉備・讃岐・畿内などの瀬戸内海各地の勢力が同盟関係を結んだ。
中国鏡の分布が2世紀末~3世紀初めころ急激な変化が起きている。北部九州中心→畿内中心
邪馬台国連合
箸墓形の大型前方後円墳の成立が邪馬台国連合の変質、すなわちヤマト政権成立に繋がって行く。
狗奴国 濃尾平野を本拠地 3世紀中楊以前魏志倭人伝では邪馬台国と戦った。
吉備地方で最大の出現期古墳である岡山市浦間茶臼山古墳が箸墓古墳の2分の1の墳丘長を持つ。このことは子の首長たちの共通の新しい墳墓の創出が、連合の身分秩序の整備と無関係でないことを示している。
古墳出現期に見られた畿内以外の地域で最大級の首長墓が畿内の大首長墓のほぼ1/2の大きさ
渋谷向山古墳(現 景行天皇陵)天理市 墳丘長310m
銚子塚古墳 山梨県中道町 墳丘長186m
新宮寺山古墳 岡山市 墳丘長150m
墳丘規模の差が前期を通じてほぼ踏襲されている。5世紀(中期)一部の地域首長の古墳が巨大化する。
造山古墳 吉備 岡山市 墳丘長360m
大仙陵古墳(現 仁徳天皇陵) 墳丘長486m
誉田御廟山古墳(現 応神天皇陵) 墳丘長420m
ミサンザイ古墳(現 履中天皇陵) 墳丘長365m 造山古墳と同時期同じ大きさ。
5世紀初頭には吉備の大首長と畿内の大首長とは、ほぼ同規模の古墳を造っていた。
東アジアの国際情勢の変化と関連
古墳時代中期5世紀には朝鮮半島では高句麗が南下、倭国は伽那の鉄資源に依存していた。
畿内政権は吉備政権をはじめとする有力な地域政権と手を組み入手した資源供給に優遇する。吉備、上毛野、丹後、日向。
5世紀後半を境に畿内の政治勢力と畿内以外の政治勢力との関係が大きく変化する。
埼玉稲荷山古墳 「辛亥」銘鉄剣 辛亥=471年 獲加多支鹵大王=ワカタケル=雄略天皇 大王の称号を名乗っている。
5世紀前半から中葉のものと考えられる「王賜・オウシ」銘が見られる鉄剣が出土〝(表)王賜□□敬□(安)〟銘文中の「王」は倭の五王の可能性がつよく「済」(允恭天皇)とする説が有力である。 千葉県市原市 稲荷台1号墳
古墳時代の日本では大王を中心に各地の豪族が連合して、それぞれの政権内の役職を分担していた。そのころの政治の仕組みを氏姓制度(シセイセイド)という。豪族は、血縁をもとに構成された氏という集団をつくっていた。その当時の政治の仕組みを氏姓制度という。首長層の擬制的血縁集団が大王に対しての世襲的な服属や奉仕のシステムを明確化させていく。ウジ、カバネに「ベ」を加えて新しい支配ののシステムを整備する。
畿内の大王とこれに服属する個々の地方豪族が各地の政治勢力の連合体としてヤマト政権を樹立する。
7世紀の終わりに畿内の大王を中心とする中央政権的な政治体制へ変わりつつ古代国家の成立となる。
前方後円墳の造営は畿内西日本では6世紀末葉、東日本では7世紀初頭に造営が中止される。
邪馬台国連合=前方後円墳 狗奴国連合=前方後方墳
出現期の大型前方後円墳の年代が3世紀中葉すぎに遡ると考えられることから、箸墓古墳が卑弥呼の墓である蓋然性が否定できない。
邪馬台国連合 画文帯神獣鏡(2世紀末~3世紀)畿内中心の分布状況を示す最初の鏡・・後漢末
★箸墓よりも築造が早いとされる出現期の前方後円墳
●ホケノ山古墳
●巻向勝山古墳 年輪年代測定・・西暦210年頃
●巻向矢塚古墳
◦神門5号墳
◦神門4号墳
辻畑古墳→高尾山古墳 前方後円墳(静岡県沼津市)・・西暦230年頃 狗奴国王の卑弥弓呼(ヒミココ)? スガルの王
倣製鏡 日本で出土する鏡のうち中国鏡を模倣してつくられた鏡
同范鏡 同一の鋳型または原型からつくられた鏡
(三角縁)神獣鏡・・中国の東方、渤海の中に蓬莱、方丈、瀛州・えいしゅうの三神山があって、仙人が住み不老不死の霊薬があると信じられてきた。建物は黄金と白銀に飾られ、遠くから見ると白く輝いている。・・不老不死を求める思想=神仙思想=図案化された鏡が(三角縁)神獣鏡
5世紀の倭人たちは積極的に朝鮮半島にわたり、馬具、武具、武器、装身具、陶質土器、やそれらの制作技術、横穴式石室などの葬制、漢字による表記技術、さらには信仰やイデオロギーに至る様々な文物や技術を受け入れました。また渡来人による技術の受け入れには鋲留めの技術、金銅製品の加工技術、須恵器の生産技術などがありまさに渡来文化の需要期でもありました。
古墳とヤマト政権
①古墳の出現とヤマト政権
弥生時代には土盛した墳丘墓が各地に出現しましたが3世紀後半になると前方後円墳をはじめとする、より大規模な古墳が西日本を中心に出現します。出現期の古墳は、その内部に竪穴式石室、木棺という埋葬施設を持ち、多数の銅鏡・勾玉・管玉など呪術・ジュジュツ的な副葬品を伴うといった共通の特徴を持っています。
②共通の墓制が意味するもの
この様な墓制の共通性(形状・埋葬施設・副葬品の画一性)は何を意味するのでしょう。
それは当時、大和地方(現在の奈良県を中心とした地方)を中心に広域的政治連合が形成されており、その勢力の広がりを意味するものと理解できます。
出現期の古墳は大和地方に集中しています。その中で最大のものは箸墓古墳です。箸墓古墳は墳丘の長さが280mに及ぶ前方後円墳で出現期の他地域の前方後円墳(岡山県浦間茶臼山古墳・140m 福岡県石塚山古墳・120m)と比較しても、その大きさは群を抜いています。したがってこの時期の政治連合は、大和地方を中心とする勢力によって形成されたと考えられます。この政治連合をヤマト政権と呼びます。
前方後円墳のような独特の形状を持った古墳は、そう簡単に真似できるものではありません。おそらくは設計図のようなものがあって、それがヤマト政権下に組み込まれた各地の首長たちに配布され、従来あった首長たちの多様な墓制は前方後円墳という共通の墓制に変化、統一されていったと思われます。
古墳は4世紀中頃までに東方地方の中部まで波及しました。これは同時に4世紀中頃までに西日本から東北地方中部までの範囲に及ぶ各地の首長たち(=各地に文立していた小国家の王たち)がヤマト政権という豪族連合に組み込まれたことを意味します。
③副葬品
前期の副葬品は銅鏡や勾玉・管玉、腕輪型石製品、鉄製の武器や農工具類など呪術的・宗教的色彩の強いものが、多く見られます。そのことから前期古墳の被葬者は、司祭的な性格を持っていたことがうかがわれます。
中期になると、鉄製武器や武具・馬具などが多くなり中期古墳の被葬者が、軍事指導者的な性格を強めていることがわかります。
なお、前期から中期にかけて、副葬品の特徴がこのように大きく変化したことを文化的な断絶と見なし、これを大陸北部から侵入した騎馬民族の征服した結果とする「騎馬民族征服王朝説」が江上波夫氏によって唱えられました。
④最大規模の古墳は大王の墓
前期大和地方に営まれた大規模古墳は、中期になると河内地方に移り、さらに大規模化します。古墳時代を通じて最大規模の古墳が、この時期に集中しています。
最大のものが、大阪府堺市東部に展開する百舌鳥古墳群の盟主的位置を占める大仙陵古墳(現仁徳天皇陵)です。墳丘の長さが486mあり、周囲には2~3重の濠をめぐらしています。周辺の陪冢(ばいちょう・従属的な小型の古墳)の区域を含めると、その墓域は80haにも及びます。
2位の規模を持つ誉田御廟山(こんだごびょうやま)古墳(現応神天皇陵)などとともに、5世紀のヤマト政権のリーダーである大王(おおきみ)の墓であると考えられています。
⑤地方の巨大古墳は豪族の墓
中期の大規模な前方後円墳は近畿地方中央部ばかりでなく、群馬県(上毛野・かみつけの)・岡山県(吉備・きび)・宮崎県(日向・ひゅうが)などにもみられます。たとえば、岡山県の造山古墳は墳丘の長さが360mもあります。これは我が国の古墳の中では第4位の規模です。
この事実は、近畿地方を中心とするヤマト政権の中でこれら地域の豪族が重要な位置を占めていたことを表しています。
★古墳大きさランキング
1 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 486m 大阪府堺市堺区大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 425m 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 365m 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350m 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335m 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310m 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 300m以上 大阪府堺市北区百舌鳥西之町
8 渋谷向山古墳(景行陵) 300m 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 290m 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286m 岡山県総社市三須
11 箸墓古墳 280m 奈良県桜井市箸中
12 五社神古墳(神功陵) 275m 奈良県奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255m 奈良県奈良市法華寺町
14 市庭古墳(平城陵) 250m 奈良県奈良市佐紀町
メスリ山古墳 250m 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 242m 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242m 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238m 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 230m 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227m 奈良県奈良市尼ヶ辻町
21 太田茶臼山古墳(継体陵) 226m 大阪府茨木市太田
22 墓山古墳 225m 大阪府羽曳野市白鳥
23 巣山古墳 220m 奈良県北葛城郡広陵町
24 ヒシアゲ古墳(磐之媛陵) 219m 奈良県奈良市佐紀町
西殿塚古墳(手白香皇女陵) 219m 奈良県天理市中山町
26 佐紀石塚山古墳(成務陵) 218m 奈良県奈良市山陵町
27 川合大塚山古墳 215m 奈良県北葛城郡河合町川合
28 築山古墳 210m 奈良県大和高田市築山
西陵古墳 210m 大阪府泉南郡岬町淡輪
太田天神山古墳 210m 群馬県太田市内ヶ島
31 津堂城山古墳 208m 大阪府藤井寺市津堂
32 桜井茶臼山古墳 207m 奈良県桜井市外山
陵山古墳(日葉酢媛陵) 207m 奈良県奈良市山陵町
34 コナベ古墳 204m 奈良県奈良市法華寺北町
35 御廟山古墳 203m 大阪府堺市北区百舌鳥本町
36 摩湯山古墳 200m 大阪府岸和田市久米田摩湯町
白鳥陵古墳(軽里大塚古墳) 200m 大阪府羽曳野市軽里
新木山古墳 200m 奈良県北葛城郡広陵町三吉
神明山古墳 200m 京都府京丹後市
両宮山古墳 200m 岡山県赤磐市
東アジア諸国との交渉
①中国の分裂と国家の形成
中国では三国時代の後、260年にいったん西晋が国内を統一したものの316年に滅亡。華北地方は匈奴をはじめとする諸民族の侵入を受けて、五胡十六国時代と呼ばれる混乱状態に陥りました。(南朝)
かくて南の漢民族支配地域、北の異民族支配地域のそれぞれ二つに分裂した中国は次々と国家の興亡を繰り返す南北朝時代をむかえました。周辺諸民族に対する中国の支配力は弱まり、東アジア周辺地域ではつぎつぎと国家形成が進みました。
中国北部から起った高句麗は、朝鮮半島北部に領土を広げ、楽浪郡・帯方郡を滅ぼしました。(313年)
一方、朝鮮半島南部に馬韓・弁韓・辰韓というそれぞれ小国家連合が形成されていましたが、4世紀になると馬韓から百済が、辰韓から新羅がおこり、それぞれ国家を形成しました。しかし弁韓地域では4~6世紀になっても小国の分立状態が続きました。
②ヤマト政権の対外交渉(1)---高句麗との交戦---
4世紀後半になると、高句麗は南下政策を進め、百済・新羅が圧迫されるようになりました。百済・新羅は南に向かわざるを得ません。朝鮮半島は行き場を失った玉突き状態の様になりかっての弁韓の地の伽耶諸国(加羅)も圧迫を受けることになります。この様な状況下、早くから伽耶諸国と密接な関係を持っていた倭国(ヤマト政権)は、百済・新羅などとともに高句麗と戦う事になりました。高句麗の好太王(広開土王ともいう)碑文には、391年倭が朝鮮半島に出兵し、高句麗と交戦したことが記されています。【好太王碑・・現在の中国吉林省集安市に近い場所に414年、長寿王が父好太王の事績を顕彰するために建立した。】
当時倭人たちには乗馬の風習がありませんでした。高句麗の騎馬軍団との戦いで倭人たちは否応なしに騎馬技術を学ぶことになりました。5世紀になると日本列島の古墳の副葬品に馬具が現れるのはこうした事情を反映していると考えられます。
③ヤマト政権の対外交渉(2)---南朝への朝貢---
5世紀初めから約1世紀の間、倭王(ヤマト政権の大王)たちが、相次いで中国の南朝に朝貢しました。中国の歴史書(晋書・宋書・南斉書・梁書)に残る記録では413年から502年の間に13回にわたって使者を派遣したとの事です。「宋書」倭国伝は彼らの名を讃(さん)、珍(ちん)、済(せい)、興(こう)、武(ぶ)としるしています。このうち済は允恭(いんぎょう)天皇、興は安康(あんこう)天皇、武は雄略(ゆうりゃく)天皇をそれぞれ指すと考えられています。讃=?珍=?彼らを総称して「倭の五王」といいますが、弥生時代の邪馬台国とは異なり、男系による王位世襲の確立をしていたことがわかります。
〝倭王武の上表文〟
倭王武が478年、宋の皇帝(順帝)に奉ったとされる上表文が、宋書に記載されています。そこで武は、祖先以来の征服事業について述べ、中国皇帝からの冊封(さくほう)と称号の認可を求めています。
称号は「使持節都督(しじせつととく)・倭・百済・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍・倭国王」と自称」しましたが、実際に得た称号は「「使持節都督(しじせつととく)・倭・新羅・任那・加羅・辰韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍・倭王」でした。宋とすでに朝貢関係にあった百済を除いて七国が六国になっています。もちろんこの称号は形式的なものにすぎません。
大陸文化の受容
●渡来人の波
第1波 4~5世紀、漢人が中心
楽浪郡、帯方郡の滅亡(313年)
第2波 6~7世紀、韓人が中心
伽那諸国(562年)
百済(660年)
高句麗(668年)・・・それぞれの滅亡

現地に行けば納得することがいっぱいあるんですね。
※本日台風18号九州南部に昼頃上陸との事、要注意。
Posted by マー君 at 07:57│Comments(0)
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