スポンサーサイト

上記の広告は90日以上記事の更新がないブログに表示されます。新しい記事を書くことで、こちらの広告が消せます。

  

Posted by おてもやん at

2017年12月10日

椰子の実の話から・・

いつも感心するんだがこの記事を書いている方はどんな人なんだろう・・。
柳田国男、島崎藤村、若山牧水まで引っ張り出して黒潮の話、次には日本列島を中において反対側の日本海で起きているできごとに話を移して結んでいる。
この流れの中に中身がいっぱい詰まっているのが素晴らしい。

〈僕が二十一の頃だったか〉と、柳田国男は小文を書き出している。愛知の伊良湖岬で静養していたとき、海岸でヤシの実を見つけたという◆東京に戻って近所に住む島崎藤村に話した。〈名も知らぬ遠き島より/流れ寄る椰子の実一つ・・・〉『椰子の実』。藤村が詩を書くと、やがてメロディーがつき、広く国民の知るところとなる。他方、柳田も南洋からの古代人の渡来に思いをはせ、民俗学の道を切り開く◆植物の実が一つが詩に、歌に、学問に------黒潮と聞くと、真っ先にこのエピソードを思い出すものの、ことしはすこしさみしい。太平洋沿岸で長期化する黒潮大蛇行である。◆海上保安庁が今週、蛇行の幅が拡大し、さらに沿岸から遠のいたと発表した。ヤシの実はどこに向かうのだろう?〈椰子の実を拾ひつ秋の海黒きなぎさに立ちて日にかざし見る〉若山牧水。その暖流は陸からでも確かに黒く見える日があると、漁業関係者に聞いたことがある。「豊漁のサイン」とも◆おりしも反対側の日本海沿岸では、北朝鮮の木造船の漂着が相次ぎ、騒ぎとなる。流れ着いてほしいものは来ず、欲しくない者は来る。 
読売新聞 【編集手帳】 2017・12・9


柳田 國男(やなぎた くにお、1875年(明治8年)7月31日 - 1962年(昭和37年)8月8日)は、日本の民俗学者・官僚。現在の兵庫県神崎郡福崎町生まれで、最晩年に名誉町民第1号となった。没後に正三位勲一等。当時の池田勇人首相が「民間人とはいえ、これだけの人物に瑞宝章では軽い」と発言し旭日大綬章が供えられた。帝国憲法下の農務官僚で貴族院書記官長、終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官に就いた。
「日本人とは何か」その答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行し、初期は山の生活に着目し、『遠野物語』で「願わくは之を語りて平地人を戦慄せしめよ」と述べた。日本民俗学の開拓者で、多数の著作は今日まで重版され続けている。



島崎 藤村(しまざき とうそん、1872年3月25日(明治5年2月17日)- 1943年(昭和18年)8月22日)は、日本の詩人、小説家。本名は島崎 春樹(しまざき はるき)。信州木曾の中山道馬籠[1](現在の岐阜県中津川市馬籠)生まれ。
『文学界』に参加し、ロマン主義詩人として『若菜集』などを出版。さらに小説に転じ、『破戒』『春』などで代表的な自然主義作家となった。作品は他に、日本自然主義文学の到達点とされる[誰によって?]『家』、姪との近親姦を告白した『新生』、父をモデルとした歴史小説の大作『夜明け前』などがある。



若山牧水本名は若山繁。明治18(1885)年8月24日、現在の日向市東郷町坪谷の医師の家に生まれる。坪谷尋常小学校、延岡高等小学校から県立延岡中学(現延岡高校)に入学。15歳で初めて短歌をつくり、18歳で牧水の号を使う。早稲田大学に進学し、23歳で第一歌集「海の声」を出版。旅と酒と自然を愛し、生涯で約8600余首を詠んだ。晩年は静岡県沼津市に住み、43歳で没した。   


Posted by マー君 at 13:06Comments(0)記事