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Posted by おてもやん at

新聞を読むだけではなかなか書いてある内容が理解できないことがあります。
とくに長年にわたって続いている問題は、時系列に捉えて今起きている問題の要点を掴まないと、問題そのものがぼやけてしまう恐れがあります。
今日の西日本新聞では見出し以外に読者に分かりやすくするために①森友学園を巡る経過、②森友文書書き換え疑惑というワードBOXを付加して読者の理解を深めようとの工夫が見られます。
大変ありがたいことです。
ちなみに見出しは4つあり、大きさの順では「森友文書書き換え認める」次に「文言削除 複数判明」次に「財務省、あす国会報告」最後に「首相、麻生氏に責任論も」となっていますが、何が一番の問題であったのかそこのところはどうなっているのでしょうか。

【森友学園をめぐる経過】
2015年5月29日►国と森友学園が定期借地契約を締結

2016年4月14日►国土交通省大阪航空局が、地中のごみ撤去費は約8億2000万円と、財務省近畿財務局に報告

2016年6月20日►国の評価額からごみ撤去費を差し引いたとする約1億3400万円で、国有地を売却する契約を学園と締結

2016年2月►国有地払い下げ問題が判明。国会で財務省の佐川宣寿(のぶひさ)理財局長(当時)が「記録は廃棄している」と答弁

2016年7月31日►大阪地検特捜部が、国の補助金を巡る詐欺容疑で籠池泰典前理事長夫妻を逮捕

2018年1月22日►財務局が売却を巡る内部文書5件を保管していたと判明

2018年2月9日►財務省が新たに20件の内部文書公表

2018年3月2日►朝日新聞が決裁文書書き換え疑惑を報道、野党が財務省に文書の原本提出を要求

2018年3月8日►財務省が参院予算委員会理事会で、過去に議員に開示した文書と同じ文書を「原本」写しとして提出。書き換えの有無は継続調査中と回答

2018年3月9日►佐川氏が国税庁長官を辞任

【森友文書書き換え疑惑】
学校法人「森友学園」問題を巡り、決裁文書が問題発覚後に書き換えられたとする疑惑。朝日新聞が報じた。同紙によると書き換えが疑われるのは森友学園側との土地取引の際に財務省近畿財務局が作成した2015年の貸し付け契約と、16年の売却契約に関する決裁文書。朝日が確認したとする貸し付け契約の文書には「特例的な内容となる」などの文章があったが、国会議員への開示文書にはなかった。売却契約の文書では、「価格提示を行う」などの文言も開示文書からなくなり、「特例的」との文言を含む、貸し付け経緯を記した1㌻余りの記載も項目ごと消えたとしている。
  


Posted by マー君 at 12:00Comments(0)

縄文土器と岡本太郎という組み合わせはこの記事を読むまでは全く知らなかった。一人のアーティストが火焔型土器というものに出会い今から約5300年程前につくられた土器に芸術性を見いだしたことから今日の縄文時代の解明がこんなにも進んできたというのも奇妙な話である。
西日本新聞の記事とともに信濃川火焔街道ホームページに京都造形芸術大学非常勤講師 石井 匠さんが縄文と岡本太郎ー日本遺産という記事を書いておられるのでともに転載します。

近代になって縄文ルネサンスが到来するまで、縄文文化は博物館の考古学展示室や歴史教科書の最初の数ページの中にひっそりと蟄居していたのかというと、そうとも言い切れない。敗戦から復興しつつあった1950年代に、前衛芸術家プラス総合文化プロヂューサーともいうべき岡本太郎によって、縄文土器が荒々しく現代社会の只中へと引きずり出されたことがある。
1951年の暮れに東京国立博物館で展示されていた縄文土器に遭遇して「なんだこれは!」と叫んだ岡本の主張を一文に凝縮すれば、いままで日本の伝統だと思わされてきた稲作農民の弱々しい弥生文化に代えて、狩猟採集を生業とした縄文人の荒荒しく逞しい根源的な美を現代社会に取り戻し、それを日本固有の伝統として世界に押し出していかなければならない、というものである。この宣言に対する考古学会や美術学会の反応はあまり好意的なものではなかったようだが、「縄文vs弥生」という構図は、それ以降、さまざまな領域で使われるようになる。
例えば建築界では、西洋近代建築が席巻するなかで、じつは桂離宮に代表される伝統的な美こそがモダンなのだとする言説が長く支配的だった。ところが1950年代になると、そうした洗練された建築美を「弥生」と名付け、それとは異質な「もうひとつの伝統」としての縄文に与(くみ)する発言が登場してきた。しかし何が縄文なのかは、ばらばらだった。つまり縄文文化についての透徹した理解の上での議論というよりは、それぞれが、自分が好ましいと思う特徴を勝手に「縄文」という言葉に託して、そこから「弥生」という仮想敵を攻撃していたのである。
縄文と弥生を対置する構図は、たとえば縄文顔と弥生顏といったぐあいに、日本を構成する二つの対照的な伝統として、いまではほとんど紋切り型になっているが、戦前には「瑞穂の国の稲作農民たる常民」の文化が日本の正当な伝統だったのであり、それに対して「稲作以前」である縄文文化は、原始的な、ひょっとすると異民族の文化として格下に見られ、誇るべきものなどではなかった。縄文時代を天孫降臨と両立させるのも無理な相談だった。つまり「日本の誇る伝統としての縄文文化」という言説は、基本的に戦後のごく新しい発明なのである。
岡本太郎はその後、大阪万博のシンボル『太陽の塔』を作り、テレビで目を剥いて「芸術は爆発だ!」と叫んでいたが、1996年に亡くなった頃には世間からほとんど忘れられた存在だった。ところが、養女となった「太郎巫女」たる岡本敏子の奮闘により、華々しい復活を遂げる。絶版だった本が何冊も復刻され、民俗学や美術史学の論客たちが競うように「太郎論」を出版し、生誕100年の展覧会が催されといった具合だったが、そのハイライトが、メキシコで製作したのち行方不明になっていた壁画『明日の神話』の再生で、いまでは渋谷で行き交う人々を睥睨(へいげい)している。
この岡本太郎の復活と縄文ルネサンスの関係は微妙である。考古学資料としての価値ではなく、縄文土器や土偶の美術としての価値を初めて発見したのが岡本太郎だという言説は、いまや神話の域に達しているが、「人間生命のギリギリの矛盾」とか「モリモリした生命力」とか「いやったらしいほどたくましい美観」といった言葉で表現される岡本太郎版「縄文土器の美」は、特定の種類の縄文土器を偏愛する特殊なものであることは確かである。それに対して、近年の縄文ルネサンスのなかでは、縄文土器や縄文土偶に魅かれるにしても、どういう点に魅力を感じるかは、「カワイイ」だったり「オシャレ」だったり、実に多様である。
岡本太郎は、縄文土器の魅力はこれだ、と自信たっぷりに断言したが、それが唯一の正解だったわけではない。しかし、縄文土器とアートの関係は、半世紀ほどの間、岡本太郎の呪縛の内にありつづけた、。今ようやく、そこから解放されつつあるのだと思う。
(九州大教授、文化人類学) 古谷嘉章
西日本新聞 文化面 「縄文ルネサンス」 2018・3.7

コラムNo.01岡本太郎と縄文
京都造形芸術大学非常勤講師 石井 匠
縄文文化というと、今では誰もが疑うことなく日本文化の源流だと思っている。ところが、つい50年前までは日本美術史に縄文は存在しなかった。縄文の美を再発見し、日本美術史を書き換えたのは岡本太郎である。というと、嘘のような話に聞えるかもしれないが、それまで、縄文について美術的な視点からの発言は誰もしていなく、太郎が1952年に『みずゑ』誌上で「四次元との対話――縄文土器論」を発表するまで、縄文土器や土偶は美術品ではなく工芸品という扱いを受けていた。
岡本太郎と縄文の出会いは、東京国立博物館の一室。考古学の遺物として陳列されていた異様な形の縄文土器に偶然出くわして、彼はこう叫んだ。
「なんだこれは!」
岡本太郎はパリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父とも称されるマルセル・モース門下で民族学を修めており、芸術家であり民族学者でもある太郎が、火焔型土器の写真を載せた「縄文土器論」で提示したのは、考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈である。
それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームがわきおこった。そして、弥生土器や埴輪を始まりとする「正統な」日本の伝統をくつがえし、以後、原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられたのだ。今に続く縄文ブームの火付け役は、岡本太郎なのであった。
「信濃川火焔街道ホームページ」より

コラムNo.02火焔型土器のイメージ
京都造形芸術大学非常勤講師 石井 匠
スマートな胴体。引き締まったくびれ。ふくよかな膨らみ。形だけをみると、実に美しいプロポーション、見事な曲線美である。見る者を魅惑する形とは裏腹に、この土の器は、外皮に奇妙な文様をまとっている。口縁部には奇妙な突起が貼りつき、4つの不可思議な把手が伸びあがる。縁の部分には棘のような三角のギザギザが波を打っている。なめらかな粘土の一本一本の線。それらがうねり、渦を巻き、凝集される小さな空間は、吐き気をもよおすほどの異様な無音の響きを周囲に放っている。この不思議な粘土の塊を目の当たりにする人は、いったい何を想像するのだろうか。
考古学者たちは、この不可思議なモノを「火焔型土器」と呼んでいる。この異様な形と文様に、燃え立つ炎のイメージを重ねたのだろう。岡本太郎もまた、この土器に根源的な美をみたのだが、彼が想起したものは「火炎」ではなかった。太郎の秘書であり、養女でもある岡本敏子は生前、こんなことを私に言っていた。
「岡本太郎さんはね、『火焔型土器は深海のイメージだ』と言ってたのよ。」
「深海ですか?」
「そう。『縄文人は深海を知っていたんだ』ってね。」
深海とは意外である。海といえば「水」であり、「火炎」とはまるで対極にあるものだ。土器は大地の奥底から掘り出された粘土を素材とし、火で焼きあげることで完成する。粘土は水を含み、土器で煮込み料理を作るときには水を使う。土器は水と密接な関係にあるし、大地の「深い」ところから掘り出されるが、深海とは程遠い。敏子さんもなぜ深海なのかは分からなかったらしいが、岡本太郎は火焔型土器に深海のイメージをみたのである。
いったい、この土器のどこが深海なのだろうか。縄文人も海に出て漁労を行っていた。強引に結びつけるとすれば、火焔型土器の隆帯文のうねりや口縁のギザギザは、さざ波や海原のうねりに似てはいる。渦巻文も渦潮と相似形である。しかし、深海とは無関係だ。あるいは、S字状の象徴的な把手が深海の生物をあらわしている、とでもいうのだろうか。いや、そんな皮相なことではないだろう。
火炎と深海。この土器を名づけた考古学者と、岡本太郎が直観的に感じとったイメージは、まったくかけ離れている。もしかすると、太郎は「火焔」という名前がもたらすイメージが気に食わず、アンチテーゼを投げかけただけなのかもしれない。しかし、文章として残すこともせず、傍にいた敏子にそう告げただけで終わってしまった。
岡本太郎が火焔型土器にみた「深海」とは何であったのか。今となっては、その真意を本人に訊ねることもできず、遺言のように残された言葉となってしまったが、ひょっとすると、そこに火焔型土器の謎をひもとく鍵がひそんでいるのかもしれない。
「信濃川火焔街道ホームページ」より

●火焔土器は、新潟県内の信濃川沿いにある遺跡でしか発掘されなかった貴重な遺産であり、縄文時代の重要な歴史を教えてくれるものでもあります。
  「火焔土器」とは、昭和11年(1936)12月31日に近藤篤三郎氏によって現長岡市の馬高(うまたか)遺跡で発見され、復元された一つの土器に付けられた愛称です。その形が燃え上がる焔に似ていたことから、この名称が生まれました。

●文化人類学・ぶんかじんるいがく・cultural anthropology
諸民族の文化・社会を比較研究する学問。アメリカでは,人類学は人間についての総合的研究であるとして,自然人類学,考古学,文化人類学,ときには言語学も含めた3ないし4部門から成るが,文化人類学の占める割合が大きいことから,人類学としばしば同義に用いられる。一方ヨーロッパでは,アメリカでいう文化人類学を民族学あるいは社会人類学と呼ぶ。非西欧的な習俗・習慣についての興味に始り,18世紀に関心が高まって,1839年フランスの哲学者 W.F.エドワールの提唱によりパリ民族学会が誕生。 43年ロンドン民族学会が発足し,84年にはオックスフォード大学で民族学が開講され,E.B.タイラーが初代講師となった。その後イギリスでは,社会組織の分析が中心となり,社会人類学という名称が用いられるようになった。ドイツ,オーストリアでは,20世紀前半にウィーン学派と呼ばれる歴史民族学が成立。日本へは 20世紀初頭に民族学が輸入されるが,本格的な研究は第2次世界大戦後になって始った。一般に,文化人類学は諸分野に専門化されており,言語,生態,社会,法,政治,経済,宗教,象徴,芸術,音楽,映像,心理,認識,教育,都市,医療人類学などがあるほか,応用人類学と呼ばれる人類学的知識の活用研究も行われる。   


Posted by マー君 at 11:18Comments(0)記事

2018年03月09日

黒白を判じる

今日の【春秋】は審議拒否が続いている国会について、分かりやすい文章でその内容を明らかにしています。
書き換えが「あった」のか「なかった」のか、「あった」とすれば、その行きつくところはどこに結びついてくるのか?・・大きな関心を寄せる問題です。


公文書は昔から、物事の黒白(こくびゃく)を判じる際の重要な根拠となる。古代日本の古代法「律令」は、文書の偽造は罪と規定し、流刑などの刑罰を定めた。正倉院に残る古文書には、偽造防止のためにたくさんの印鑑が押してあるそうだ►「御恩と奉公」の武家社会になると、手柄の申告や所領を巡る争いが増え、偽文書も横行したのであろう。鎌倉幕府の「御成敗式目」は文書や印鑑を偽造すれば所領没収や流罪とした。江戸時代にはさらに厳罰化され、首謀者は死罪に処せられることも►もちろん、公文書の偽造は現代でも重罪である。交易を担う公務員が不当に公文書を書き換えることがあれば、行政機関の信用は失墜し、法治国家の基盤を揺るがしかねない。決してあってはならない・・・はずが、中央官庁の、それも財務省で重大な疑惑が浮上した►森友学園の国有地取引に関する決議文書だ。財務省は原本を書き換えたものを国会議員に配布した、と報じられた。事実であれば、国民の代表で、国権の最高機関でもある国会を欺いたことになる。黒白を明らかにするのは当然だ►財務省は「原本は地検にある」などとして説明を避けてきた。与党からも批判され、しぶしぶ原本の写しを出したが、開示済みの文書と同じ内容。書き換えの有無には答えなかった►いったい何をそれほど隠したいのか。「御恩と奉公」という言葉がよぎるのは筆者だけではあるまい。
西日本新聞 【春秋】 2018・3・9   


Posted by マー君 at 10:58Comments(0)記事

2018年03月08日

落語・火事息子

3月に入り急激な気候の変化にからだがついて行けません。
突風が吹いたり、雷に脅かされたり、気温の急上昇には汗をかいたり、寒の戻りの冷え込みには身震いをしたり。
この時期は昔からこのような気候の繰り返しなのでしょう。
多分、若い頃とは違って年をとってからだに抵抗力がなくなって来たせいかも知れませんが暮らしやすい季節柄ではありません。
毎年全国で5万件ほどの火災がありますが、その中でも2月、3月は月別に見てみると火災の発生が一番多い月だそうです。
春の嵐が日本国中吹き荒れるこの頃、空気が乾燥しやすい季節でもあり、昨日の【春秋】には落語「火事息子」から消防の話を展開しています。
昨日のことになりましたが3月7日は〝消防記念日〟という記念日です。火の元には十分な注意を怠らない様にしていきましょう。
消防団員が毎年少なくなることは大きな社会問題です


木造家屋が密集する江戸の町は火事が多く、しばしば大火となって甚大な被害をもたらした。命懸けで町を守る火消が庶民の人気を集めるのは当然だ►大店「伊勢屋」の若旦那も火消に憧れて家を飛び出し、親に勘当された。ある日、伊勢屋の近くで火の手。蔵に火が入らないよう、番頭が目塗り(練り土で戸などの隙間を埋めること)するが、うまくいかない►そこへ、屋根から屋根へと飛び移りながら駆け付けた若者がいた。火消になった若旦那である。半鐘が鳴ると、いつも店を気に掛けていた。番頭の計らいで両親と対面することに・・・。
落語「火事息子」から►江戸の火消は、今でいうなら消防士や消防団員。普段は本業を持つ消防団員は、江戸町民の自治防災組織、町火消に当たろうか。戦前は警察組織の一部門だった消防を市町村の管理に遷した自治体消防制度はきょう、発足70周年を迎えた►その消防団員の不足が深刻という。地方では過疎や少子高齢化の影響もあろう。昭和20年代には全国で200万人いた消防団員が昨年度は85万人に。大災害では道路が寸断され、本格的な救助活動に手間取ることも多い。そんなときこそ、いち早く避難誘導や救助に動ける地域の消防団が頼りになる►最近は女性や学生の団員を増やす取り組みも活発に。いつも身近な人を気に掛け、半鐘が鳴れば駆け付けてくれる〝若旦那〟は地域に欠かせない
西日本新聞 【春秋】 2018・3・7

消防記念日(しょうぼうきねんび)とは、日本の消防に関する理解と認識を深めるために制定された記念日。
1950年2月9日に国家消防庁(現総務省消防庁)により毎年3月7日と定められた。これは、消防組織法が施行された1948年3月7日にちなんだものである。

◎火消し
 江戸の火災に対して大きな効力を発揮したのが、幕府が編成した消防組織です。江戸の消防組織は、大名が勤めた大名火消し、旗本が勤めた定火消し、町民が勤めた町火消の三つに大別できます。

 ●大名火消(だいみょうびけし)、はじめは組織化されたものではなく、火災のたびごとに大名に消火を命じる臨時的なものでした。大名火消が組織化されてくるのは、寛永20年(1643)に、六万石以下の譜代大名16家に火消しを命じ、これを四組に分け、一組に4大名を編成し、1組10日交代で勤めるようにしてからです。その後、三組編成となりますが、これらの大名は、それぞれ一万石につき30人の割合で人夫を出して消防にあたることになっていました。大名火消は、明暦の大火以前には唯一の消防組織として、江戸市中の消防をすべて引き受けましたが、定火消が設置されてからは、主として江戸城の消防にあたるようになりました。
 大名火消のなかでも、特定の場所・施設の消火にあたるものを所々火消しといい、定められた方面の火災にだけ出動するものを方角火消といい、大火の際に臨時に定火消を応援するものを増(まし)火消といいました。増火消は、将軍の命を奉じて老中が発する奉書によって命じられたので、奉書火消しとも言われました。

 ●定火消(じょうびけし)、明暦大火の翌年万洽元年(1658)に四名の旗本に対して、江戸中定火の番を命じ、役料三百人扶持を給し、各与力六騎・同心三十人を付属させたことにはじまります。役屋敷は、飯田町・市谷左内坂・御茶ノ水上・麹町半歳門外の四ヵ所に与えられました。これらの場所はいずれも江戸城の西北にあたり、西北季節風の吹く冬季にこの地域から出火すると、江戸市中が風下となるので、まずこの四ヵ所に定火消を配置したと考えられます。その後定火消の定員は増減がありますが、宝永元年(1704)に10名となり固定したので、十人火消ともよばれました。

 ●町火消(まちびけし)、享保3年(1718)10月に、町奉行大岡忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。12月には、火消組合を編成し、絵図に朱引をして各組合ごとの分担区域を定めています。しかし、これは地域割りがうまくいかなかったので、享保5年8月に、組合の再編成がおこなわれました。隅田川から西は約20町を一組とし、47組を編成しました。これらの組合は、いろは四十七文字を組の名としましたが、へ・ら・ひの三字は除き、そのかわりに百・千・万を加えました。隅田川から東、本所・深川地域は別に、一組から十六組までの16組合に編成しました。享保15年1月になると、47組をさらに一番から十番までの十組の大組に編成しました。これにより従来の編成では不足がちであった人夫を、はるかに多く火事場に集めることが可能となりました。この結果、従来一町から30人ずつ出していたのを15人に半減して、町々の負担を軽くしています。その後、いろは四十七組のほかに本組が編成されて三番組に加えられたため48組となりました。元文3年(1738)になると、四番組と七番組は交字の縁起が悪いということで、四番組は五番組に、七番組は六番組に編入しましたので、大組は8組となりました。このほか、元文3年ごろまでに、本所・深川の16組も南・中・北組の大組に再編成されました。
  


Posted by マー君 at 09:45Comments(0)記事
新聞から学ぶことは多い。時にはまた自分ではなかなか解決しない頭の中のモヤモヤをスッキリさせてくれることもあります。
今日のこの記事は私の頭の中で縄文時代というものがよく理解できず、現地に行けば何かわかるのではないかと昨年、青森の三内丸山遺跡までそのモヤモヤしたものを解きほぐしに行きましたが、上手くまとまりが付きませんでした。そんな何でもない様な問題にいいヒントを与えてくれたのが今日のこの記事の内容です。
西日本新聞の文化面に九州大学院比較社会文化研究院教授の古谷嘉章さんが3月6日から「縄文ルネサンス」というコーナーに記事を書かれています。
・・・ごく普通の日本人は大陸から稲作がもたらされて弥生時代が始まる前に人々は狩猟採集で暮らしていて、縄目の文様を施した土器を作っていたことくらいは授業で教わったとしても、縄文人のイメージと言えば毛皮をまとって、石斧や弓矢を手に野獣を追いかけている「原始人」といったものではないか。しかしそんなイメージが実像とかけ離れていることが、1992年から発掘が続いている青森市の三内丸山遺跡など各地の発掘調査によって明らかになってきた。一口に縄文時代と言っても、弥生時代が始まる紀元前数百年まで約1万年間続いたので、一括して何かを言うのが難しいのだが、所によってはかなりの規模の集落が長期にわたって存続していたこと。水稲耕作はしなくとも、クリ林など自然資源を管理して利用する安定した生活を営んでいたこと。独創的デザインの高品質の土器を製作する技術を持っていて、しかもその土器は世界でも最古の部類に属すものであること。精巧な耳飾りや漆塗りの櫛などの洗練された品々。意味や用途はまだ謎に包まれた2万点を超える土偶。沢山の石を周到に配列してストーンサークルを築いて、そこで天体の連行に合わせた儀式などをしていた人々。つまるところ縄文人は、「原始人」というイメージとは程遠い人々であることが分かってきているのである。・・・
・・・「縄文ルネサンス」とは、知らなかった縄文文化(のモノ)に、気付かなかった価値を見いだし、現代社会で生きる私たちの生活に活かす、多種多様な現象の総称である。これから何回かに分けて、その様々な面に光を当てていきたい。

昨年青森に行った時の写真の一部です。
















  


Posted by マー君 at 09:53Comments(0)記事

2018年03月06日

啓蟄と春雷

陽気で出る虫?雷に驚いて出る虫?

今日は二十四節気の第3「啓蟄・けいちつ」です。
「啓」は「開く」、「蟄」は「虫などが土中に隠れ閉じこもる」意で、「啓蟄」で「冬籠りの虫が這い出る」(広辞苑)という意を示す。春の季語でもある。
現在広まっている定気法では太陽黄経が345度のときで3月6日ごろ。暦ではそれが起こる日だが、天文学ではその瞬間とする。平気法では冬至から5/24年(約76.09日)後で3月8日ごろ。
期間としての意味もあり、この日から、次の節気の春分前日までである。
暦便覧には「陽気地中にうごき、ちぢまる虫、穴をひらき出ればなり」と記されています。
この頃の雷を春雷といいます。春雷がひときわ大きくなりやすい時期です。そこで人は「冬籠もりの虫が雷の音に驚いて這い出してくるのだろう」と考え、春雷を「虫出しの雷」と名付けたりもしました。 日足も目に見えるように長くなり、日の光の中に春を強く感じるようになります。
昨朝の雷はまさに春雷。・・・

●平気法 (恒気法/常気法)
1年の長さを時間で24等分する方法
各二十四節気間の間隔は一定で、1年の長さ÷24≒約15.2日となります。
●定気法 (実気法)
太陽の視黄経を角度で24等分する方法
各二十四節気間の間隔は一定にはなりません。  


Posted by マー君 at 09:38Comments(0)季節

2018年03月05日

木へんの話

今朝は凄まじい雷の音と瓦をたたき割らんばかりの雨の音で目が覚めた。
昨日は春を一期に超えて夏を思わすような陽気であった。
新聞には厳冬一転炎夏!?の見出し。
九州は各地で20度を超えるぽかぽか陽気で春本番を迎えた。今日は一転して予報は五日の九州は春の嵐に注意。警戒。九州は全般に雨。局地的に雷を伴った激しい雨が降り、前線の通過前後には暴風が吹く。
今日の【春秋】は木へんの話です。短い文章ですが教えられることも多く筆者には感心させられます。



名は体を表すと言うがごとく、木の名前にも折々の四季を表すものがある。木へんに夏で「榎・えのき」炎天下に葉を茂らせて日陰をつくる良い木との意味に由来するそうだ。冬を当てると「柊・ひいらぎ」。知名度は低いが「楸・ひさぎ」の字もある►そして木へんには春はおなじみの「椿・ツバキ」。今冬のとりわけ厳しかった寒さにも、たくましい生命力で耐えきった。梅や河津桜の便りが届くまで、季節の橋渡し役をけなげに勤めてくれた►この花は散るのではなく、固まったままポタリと枝から落ちる。そのため武家は縁起が悪いとして嫌ったそうだ。一方で「椿寿・ちんじゅ」「大椿・だいちゅん」の言葉もある。長寿を祝うめでたい意味で用いるのは、花の命が長いため►福岡県久留米市や熊本市など市の木や花に選定した自治体も多いが、長崎は全国で唯一、県の木に指定している。中でも自生地として有名なのが五島列島。実から取った良質の油は化粧品や、特産の五島うどんの製造でも使われる►地元では耕作放棄地に苗木を植えるなど、ツバキを生かした地域の振興計画を策定しているという。2020年には「国際ツバキ会議」国際ツバキ会議も開催予定。多彩なツバキに囲まれ、香ばしいかおりに包まれる島へ。その名が全国、世界へと広がるように施策の開花が楽しみだ►早くもあすは啓蟄(けいちつ)。虫たちも、そろそろお目覚めの候となる。三寒四温を繰り返しつつ、季節の名も「椿」から木へんが次第に薄れてゆく。
西日本新聞 【春秋】 2018・3・5  


Posted by マー君 at 14:43Comments(0)記事

昨日、八代市立博物館未来の森ミュージアムで特別講演会がありました。
講師は熊本県立大学文学部教授の米谷隆史氏でした。
講演内容は「ここまでわかる!熊本弁の歴史」---江戸時代の文献から読み解く---というもので私たちが日常に使っている言葉のルーツを江戸時代の古文書や文学作品、キリスト教関係文献などから分かりやすく解き明かしていく内容のものでした。
話のまとめとして熊本の方言は、近畿地方や(江戸中期以降の)東京地方を除くと、比較的その歴史を知るための資料に恵まれている方言であり九州熊本方言は、確かに京都の古い言葉を残す部分はあるが、古く遡ってもなお、独自の特徴も有していたようである。と締め括られています。
1時間半という講演時間の問題ともともと私自身が地元ではないので方言がよく理解できないこともあり今回の話は少々消化不良ぎみ。
でも学問の領域がどんどん広がって行っていることには感心させられました。


教授 米谷隆史 YONEYA Takashi
1966/6/23生まれ
●所属
文学部 日本語日本文学科
●最終学歴
大阪大学大学院文学研究科博士課程(後期)中途退学(1994年11月)
●学 位
文学修士 (大阪大学)
1992年3月
●職 歴
大阪大学文学部助手(1994年12月〜1999年3月)
熊本県立大学文学部講師(1999年4月〜2004年3月)
熊本県立大学文学部助教授(2004年4月〜 2007年3月)
熊本県立大学文学部准教授(2007年4月〜2014年3月)
熊本県立大学文学部教授(2014年4月〜)
 その他、非常勤講師として過去に、香川大学教育学部・金沢大学
文学部・京都外国語大学外国語学部・熊本大学教育学部及び文学部
・甲子園短期大学日本文化科・山梨大学教育学部に出講
●専門分野
日本語学
Japanese Linguistics
●授業科目
新熊本学 ことば、表現、歴史(全学共通科目)プレゼミナール、日本語史、日本語学史、日本語学演習、日本語学特殊研究(文学部)日本語学特殊講義、日本語学史特殊講義、日本語学特別演習 (文学研究科博士前期課程)日本語学研究、特別研究(文学研究科博士後期課程)
●主な研究テーマ
 語彙、表記法の歴史(特に近世辞書を中心とする研究)
●学会での活動状況
 訓点語学会 西日本国語国文学会 日本語学会
●社会での活動状況
・国文学研究資料館文献資料調査員(2001度〜現在)
  対馬宗家文庫、島原松平文庫(長崎県)、臼杵稲葉家文庫(大分県)、
  天草上田家・熊本大学寄託永青文庫(熊本県)等の調査に従事
・熊本県生涯学習推進センター「熊本県民カレッジ」運営委員
  (企画部会委員も兼任)(2005年度〜現在)
・天草アーカイブズ地域史料調査協力員(2008年度〜現在)
・臼杵藩政史料調査協力員(2009年度〜現在)
・熊本近代文学館協議会委員(2012年2月〜2016年2月)
・熊本県立図書館・熊本近代文学館の機能拡充検討会議委員
 (2013年度〜2015年度)
・くまもと文学・歴史館協議会委員(2016年7月〜2018年5月)
●地域貢献分野のジャンル
 【言語・語学】 【文化・文学・歴史】
●地域貢献に関心を持っているテーマ(キーワード)
 【日本文学】 【歴史】

   


Posted by マー君 at 11:29Comments(0)講座

3月3日は「上巳」「桃の節句」などと言われ、厄を人形に移して祓った「流し雛」の風習がありました。それらが発展し、雛人形を飾り女の子の健やかな成長と幸せを願う現在の「雛祭り」となりました。
「上巳」は五節句の一。陰暦三月最初の巳(み)の日、のち三月三日に該当された。古代中国の祓はらえの風俗行事が日本に伝わったもの。宮中では曲水の宴を催した。民間では女児の祝日として草餅・白酒などを食したが、のち人形を飾って雛ひな祭りをするようになった。桃の節句。雛の節句。三月の節句。女の節句。重三ちようさん。元巳げんし。じょうみ。 [季] 春。

八代市博物館の石原浩さんが市報の裏面に八代・松井家のお雛祭り「犬張子・いぬはりこ」の珍しい記事を書かれているので紹介します。
八代の風物詩としてすっかり定着した「城下町『やつしろ』のお雛祭り」。松濱軒では、松井家伝来の気品あふれる雛飾りを堪能できます。戌年に目を引くのは、対の「犬張子」。愛くるしい顔が印象的で胴体には松竹梅や鶴亀など吉祥文様が散りばめられています。
その起源は、平安時代、宮中の寝室に魔除けとして置かれた獅子・狛犬にあるといわれています。室町時代になると、公家や武家の間で犬張子を出産のお守りとする風習が生まれました。和紙を張り重ねた張子の犬は、体が上下に分かれる箱型で、中には守り札や化粧道具が納められ、その形状から「犬筥・いぬばこ」、用途から「御伽犬・おとぎいぬ」「宿直犬・とのいいぬ」ともよばれます。魔を祓う犬張子の人気は絶大で、江戸時代になると婚礼や小児誕生の祝儀の贈り物とされ、3月の節句には小型の犬張子が雛壇を飾りました。写真の犬張子は江戸時代後期の作で、松井家の雛飾りで毎年披露されているものですが、そのサイズが等身大であることから、もとは婚礼調度として製作されたものだと思われます。

松井家の雛飾り
開催中~3月21日(水)
午前9時~午後5時(入園は4時30分まで)
毎週月曜日定休日
観覧料500円/小中学生250円
問合せ 松濱軒/松井文庫 ☎33-0171  


Posted by マー君 at 11:24Comments(0)



年をとるということは自分でも気がつかないところで色々なミスを犯しています。
毎年のことながらこの時期は確定申告で書類まとめに大変な時期でもあります。
まとまったものを昨日税務署に持参したところ確定申告をするには源泉徴収票を持ってきてくださいと言われ、これは大変だと家に帰って探し回る有り様。
去年とおととしも必要書類はきちんと用意して申告を受けたのだが・・何故なんだろう。
家内にも手伝ってもらい何とか書類は用意出来ました。
今日は朝からゴルフです。
腰の調子がかんばしくなく、それでもここ最近天候の都合で中止が多かったので今日は我慢しながら参加しましたが、スコアーはやはり良くはありません。
それでも70名ほどのコンペで2ホールのニアピンに対して1ツニアピンが取れました。
ゴルフが終わって税務署に直行しました。
4時に締め切られていた受付を20分ほど過ぎていましたましが無理を言って受け付けてもらい家に帰ったのが6時過ぎです。
何とか確定申告も済みホッとしながらやっとパソコンに向かうことが出来ました。
こうしてじっとしているのには何ら不都合はありませんが少し腰を浮かすと腰に痛みが走ります。
頭の方も体の方もやっぱり歳をとりすぎているようだ。用心。用心。


家に帰ると沈丁花が少し開いていました。でもまだ匂いはしませんがそのうちいい香りが漂うことでしょう。  


Posted by マー君 at 20:20Comments(0)日記

2018年03月01日

3月・弥生・ 修二会


今日から3月です。
旧暦では3月のことを「弥生・やよい」と言っていました。
「いやおい」とも読まれて草木がますます生い茂ることを指しています。
新暦になった現在でも3月の別名として用いられていますが、私の場合「弥生」と聞けば縄文時代の次に来る弥生時代の弥生が頭に浮かびます。
「弥生」という名称は、1884年(明治17年)に東京府本郷区向ヶ岡弥生町(現在の東京都文京区弥生)の貝塚で発見された土器が発見地に因み弥生式土器と呼ばれたことに由来し、弥生時代の「弥生」のいわれは土器の発見場所の町名から来たものです。

今日から2週間にわたって東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」別名は「お水取り」・「お松明」という行事が行われています。
東大寺二月堂の修二会(しゅにえ)は、天平勝宝4年(752)、東大寺開山良弁僧正(ろうべんそうじょう)の高弟、実忠和尚(じっちゅうかしょう)が創始された。以来、平成24年(2012)には1261回を数える。
修二会の正式名称は「十一面悔過(じゅういちめんけか)」と言う。十一面悔過とは、われわれが日常に犯しているさまざまな過ちを、二月堂の本尊である十一面観世音菩薩の宝前で、懺悔(さんげ)することを意味する。
修二会が創始された古代では、それは国家や万民のためになされる宗教行事を意味した。天災や疫病や反乱は国家の病気と考えられ、そうした病気を取り除いて、鎮護国家、天下泰安、風雨順時、五穀豊穣、万民快楽など、人々の幸福を願う行事とされた。
東大寺のながい歴史にあって、二度までもその大伽藍の大半が灰盤に帰してしまった時ですら、修二会だけは「不退の行法」として、1250有余年もの間一度も絶えることなく、連綿と今日に至るまで引き継がれてきたのである。
この法会は、現在では3月1日より2週間にわたって行われているが、もとは旧暦の2月1日から行われていたので、二月に修する法会という意味をこめて「修二会」と呼ばれるようになった。また二月堂の名もこのことに由来している。
行中の3月12日深夜(13日の午前1時半頃)には、「お水取り」といって、若狭井(わかさい)という井戸から観音さまにお供えする「お香水(おこうずい)」を汲み上げる儀式が行われる。また、この行を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)の道明かりとして、夜毎、大きな松明(たいまつ)に火がともされる。このため「修二会」は「お水取り」・「お松明」とも呼ばれるようになった。
12月16日(良弁僧正の命日)の朝、翌年の修二会を勤める練行衆(れんぎょうしゅう)と呼ばれる11名の僧侶が発表され、明けて2月20日より別火(べっか)と呼ばれる前行が始まり、3月1日からの本行に備える。そして3月1日から14日まで、二七ヶ日夜(二週間)の間、二月堂において修二会の本行が勤められる。
  
東大寺ホームページより  


Posted by マー君 at 11:40Comments(0)行事