3月に入り急激な気候の変化にからだがついて行けません。
突風が吹いたり、雷に脅かされたり、気温の急上昇には汗をかいたり、寒の戻りの冷え込みには身震いをしたり。
この時期は昔からこのような気候の繰り返しなのでしょう。
多分、若い頃とは違って年をとってからだに抵抗力がなくなって来たせいかも知れませんが暮らしやすい季節柄ではありません。
毎年全国で5万件ほどの火災がありますが、その中でも2月、3月は月別に見てみると火災の発生が一番多い月だそうです。
春の嵐が日本国中吹き荒れるこの頃、空気が乾燥しやすい季節でもあり、昨日の【春秋】には落語「火事息子」から消防の話を展開しています。
昨日のことになりましたが3月7日は〝消防記念日〟という記念日です。火の元には十分な注意を怠らない様にしていきましょう。
消防団員が毎年少なくなることは大きな社会問題です
木造家屋が密集する江戸の町は火事が多く、しばしば大火となって甚大な被害をもたらした。命懸けで町を守る火消が庶民の人気を集めるのは当然だ►大店「伊勢屋」の若旦那も火消に憧れて家を飛び出し、親に勘当された。ある日、伊勢屋の近くで火の手。蔵に火が入らないよう、番頭が目塗り(練り土で戸などの隙間を埋めること)するが、うまくいかない►そこへ、屋根から屋根へと飛び移りながら駆け付けた若者がいた。火消になった若旦那である。半鐘が鳴ると、いつも店を気に掛けていた。番頭の計らいで両親と対面することに・・・。
落語「火事息子」から►江戸の火消は、今でいうなら消防士や消防団員。普段は本業を持つ消防団員は、江戸町民の自治防災組織、町火消に当たろうか。戦前は警察組織の一部門だった消防を市町村の管理に遷した自治体消防制度はきょう、発足70周年を迎えた►その消防団員の不足が深刻という。地方では過疎や少子高齢化の影響もあろう。昭和20年代には全国で200万人いた消防団員が昨年度は85万人に。大災害では道路が寸断され、本格的な救助活動に手間取ることも多い。そんなときこそ、いち早く避難誘導や救助に動ける地域の消防団が頼りになる►最近は女性や学生の団員を増やす取り組みも活発に。いつも身近な人を気に掛け、半鐘が鳴れば駆け付けてくれる〝若旦那〟は地域に欠かせない
西日本新聞 【春秋】 2018・3・7
※消防記念日(しょうぼうきねんび)とは、日本の消防に関する理解と認識を深めるために制定された記念日。
1950年2月9日に国家消防庁(現総務省消防庁)により毎年3月7日と定められた。これは、消防組織法が施行された1948年3月7日にちなんだものである。
◎火消し
江戸の火災に対して大きな効力を発揮したのが、幕府が編成した消防組織です。江戸の消防組織は、大名が勤めた大名火消し、旗本が勤めた定火消し、町民が勤めた町火消の三つに大別できます。
●大名火消(だいみょうびけし)、はじめは組織化されたものではなく、火災のたびごとに大名に消火を命じる臨時的なものでした。大名火消が組織化されてくるのは、寛永20年(1643)に、六万石以下の譜代大名16家に火消しを命じ、これを四組に分け、一組に4大名を編成し、1組10日交代で勤めるようにしてからです。その後、三組編成となりますが、これらの大名は、それぞれ一万石につき30人の割合で人夫を出して消防にあたることになっていました。大名火消は、明暦の大火以前には唯一の消防組織として、江戸市中の消防をすべて引き受けましたが、定火消が設置されてからは、主として江戸城の消防にあたるようになりました。
大名火消のなかでも、特定の場所・施設の消火にあたるものを所々火消しといい、定められた方面の火災にだけ出動するものを方角火消といい、大火の際に臨時に定火消を応援するものを増(まし)火消といいました。増火消は、将軍の命を奉じて老中が発する奉書によって命じられたので、奉書火消しとも言われました。
●定火消(じょうびけし)、明暦大火の翌年万洽元年(1658)に四名の旗本に対して、江戸中定火の番を命じ、役料三百人扶持を給し、各与力六騎・同心三十人を付属させたことにはじまります。役屋敷は、飯田町・市谷左内坂・御茶ノ水上・麹町半歳門外の四ヵ所に与えられました。これらの場所はいずれも江戸城の西北にあたり、西北季節風の吹く冬季にこの地域から出火すると、江戸市中が風下となるので、まずこの四ヵ所に定火消を配置したと考えられます。その後定火消の定員は増減がありますが、宝永元年(1704)に10名となり固定したので、十人火消ともよばれました。
●町火消(まちびけし)、享保3年(1718)10月に、町奉行大岡忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。12月には、火消組合を編成し、絵図に朱引をして各組合ごとの分担区域を定めています。しかし、これは地域割りがうまくいかなかったので、享保5年8月に、組合の再編成がおこなわれました。隅田川から西は約20町を一組とし、47組を編成しました。これらの組合は、いろは四十七文字を組の名としましたが、へ・ら・ひの三字は除き、そのかわりに百・千・万を加えました。隅田川から東、本所・深川地域は別に、一組から十六組までの16組合に編成しました。享保15年1月になると、47組をさらに一番から十番までの十組の大組に編成しました。これにより従来の編成では不足がちであった人夫を、はるかに多く火事場に集めることが可能となりました。この結果、従来一町から30人ずつ出していたのを15人に半減して、町々の負担を軽くしています。その後、いろは四十七組のほかに本組が編成されて三番組に加えられたため48組となりました。元文3年(1738)になると、四番組と七番組は交字の縁起が悪いということで、四番組は五番組に、七番組は六番組に編入しましたので、大組は8組となりました。このほか、元文3年ごろまでに、本所・深川の16組も南・中・北組の大組に再編成されました。
突風が吹いたり、雷に脅かされたり、気温の急上昇には汗をかいたり、寒の戻りの冷え込みには身震いをしたり。
この時期は昔からこのような気候の繰り返しなのでしょう。
多分、若い頃とは違って年をとってからだに抵抗力がなくなって来たせいかも知れませんが暮らしやすい季節柄ではありません。
毎年全国で5万件ほどの火災がありますが、その中でも2月、3月は月別に見てみると火災の発生が一番多い月だそうです。
春の嵐が日本国中吹き荒れるこの頃、空気が乾燥しやすい季節でもあり、昨日の【春秋】には落語「火事息子」から消防の話を展開しています。
昨日のことになりましたが3月7日は〝消防記念日〟という記念日です。火の元には十分な注意を怠らない様にしていきましょう。

木造家屋が密集する江戸の町は火事が多く、しばしば大火となって甚大な被害をもたらした。命懸けで町を守る火消が庶民の人気を集めるのは当然だ►大店「伊勢屋」の若旦那も火消に憧れて家を飛び出し、親に勘当された。ある日、伊勢屋の近くで火の手。蔵に火が入らないよう、番頭が目塗り(練り土で戸などの隙間を埋めること)するが、うまくいかない►そこへ、屋根から屋根へと飛び移りながら駆け付けた若者がいた。火消になった若旦那である。半鐘が鳴ると、いつも店を気に掛けていた。番頭の計らいで両親と対面することに・・・。
落語「火事息子」から►江戸の火消は、今でいうなら消防士や消防団員。普段は本業を持つ消防団員は、江戸町民の自治防災組織、町火消に当たろうか。戦前は警察組織の一部門だった消防を市町村の管理に遷した自治体消防制度はきょう、発足70周年を迎えた►その消防団員の不足が深刻という。地方では過疎や少子高齢化の影響もあろう。昭和20年代には全国で200万人いた消防団員が昨年度は85万人に。大災害では道路が寸断され、本格的な救助活動に手間取ることも多い。そんなときこそ、いち早く避難誘導や救助に動ける地域の消防団が頼りになる►最近は女性や学生の団員を増やす取り組みも活発に。いつも身近な人を気に掛け、半鐘が鳴れば駆け付けてくれる〝若旦那〟は地域に欠かせない
西日本新聞 【春秋】 2018・3・7
※消防記念日(しょうぼうきねんび)とは、日本の消防に関する理解と認識を深めるために制定された記念日。
1950年2月9日に国家消防庁(現総務省消防庁)により毎年3月7日と定められた。これは、消防組織法が施行された1948年3月7日にちなんだものである。
◎火消し
江戸の火災に対して大きな効力を発揮したのが、幕府が編成した消防組織です。江戸の消防組織は、大名が勤めた大名火消し、旗本が勤めた定火消し、町民が勤めた町火消の三つに大別できます。
●大名火消(だいみょうびけし)、はじめは組織化されたものではなく、火災のたびごとに大名に消火を命じる臨時的なものでした。大名火消が組織化されてくるのは、寛永20年(1643)に、六万石以下の譜代大名16家に火消しを命じ、これを四組に分け、一組に4大名を編成し、1組10日交代で勤めるようにしてからです。その後、三組編成となりますが、これらの大名は、それぞれ一万石につき30人の割合で人夫を出して消防にあたることになっていました。大名火消は、明暦の大火以前には唯一の消防組織として、江戸市中の消防をすべて引き受けましたが、定火消が設置されてからは、主として江戸城の消防にあたるようになりました。
大名火消のなかでも、特定の場所・施設の消火にあたるものを所々火消しといい、定められた方面の火災にだけ出動するものを方角火消といい、大火の際に臨時に定火消を応援するものを増(まし)火消といいました。増火消は、将軍の命を奉じて老中が発する奉書によって命じられたので、奉書火消しとも言われました。
●定火消(じょうびけし)、明暦大火の翌年万洽元年(1658)に四名の旗本に対して、江戸中定火の番を命じ、役料三百人扶持を給し、各与力六騎・同心三十人を付属させたことにはじまります。役屋敷は、飯田町・市谷左内坂・御茶ノ水上・麹町半歳門外の四ヵ所に与えられました。これらの場所はいずれも江戸城の西北にあたり、西北季節風の吹く冬季にこの地域から出火すると、江戸市中が風下となるので、まずこの四ヵ所に定火消を配置したと考えられます。その後定火消の定員は増減がありますが、宝永元年(1704)に10名となり固定したので、十人火消ともよばれました。
●町火消(まちびけし)、享保3年(1718)10月に、町奉行大岡忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。12月には、火消組合を編成し、絵図に朱引をして各組合ごとの分担区域を定めています。しかし、これは地域割りがうまくいかなかったので、享保5年8月に、組合の再編成がおこなわれました。隅田川から西は約20町を一組とし、47組を編成しました。これらの組合は、いろは四十七文字を組の名としましたが、へ・ら・ひの三字は除き、そのかわりに百・千・万を加えました。隅田川から東、本所・深川地域は別に、一組から十六組までの16組合に編成しました。享保15年1月になると、47組をさらに一番から十番までの十組の大組に編成しました。これにより従来の編成では不足がちであった人夫を、はるかに多く火事場に集めることが可能となりました。この結果、従来一町から30人ずつ出していたのを15人に半減して、町々の負担を軽くしています。その後、いろは四十七組のほかに本組が編成されて三番組に加えられたため48組となりました。元文3年(1738)になると、四番組と七番組は交字の縁起が悪いということで、四番組は五番組に、七番組は六番組に編入しましたので、大組は8組となりました。このほか、元文3年ごろまでに、本所・深川の16組も南・中・北組の大組に再編成されました。