スポンサーサイト

上記の広告は90日以上記事の更新がないブログに表示されます。新しい記事を書くことで、こちらの広告が消せます。

  

Posted by おてもやん at

縄文土器と岡本太郎という組み合わせはこの記事を読むまでは全く知らなかった。一人のアーティストが火焔型土器というものに出会い今から約5300年程前につくられた土器に芸術性を見いだしたことから今日の縄文時代の解明がこんなにも進んできたというのも奇妙な話である。
西日本新聞の記事とともに信濃川火焔街道ホームページに京都造形芸術大学非常勤講師 石井 匠さんが縄文と岡本太郎ー日本遺産という記事を書いておられるのでともに転載します。

近代になって縄文ルネサンスが到来するまで、縄文文化は博物館の考古学展示室や歴史教科書の最初の数ページの中にひっそりと蟄居していたのかというと、そうとも言い切れない。敗戦から復興しつつあった1950年代に、前衛芸術家プラス総合文化プロヂューサーともいうべき岡本太郎によって、縄文土器が荒々しく現代社会の只中へと引きずり出されたことがある。
1951年の暮れに東京国立博物館で展示されていた縄文土器に遭遇して「なんだこれは!」と叫んだ岡本の主張を一文に凝縮すれば、いままで日本の伝統だと思わされてきた稲作農民の弱々しい弥生文化に代えて、狩猟採集を生業とした縄文人の荒荒しく逞しい根源的な美を現代社会に取り戻し、それを日本固有の伝統として世界に押し出していかなければならない、というものである。この宣言に対する考古学会や美術学会の反応はあまり好意的なものではなかったようだが、「縄文vs弥生」という構図は、それ以降、さまざまな領域で使われるようになる。
例えば建築界では、西洋近代建築が席巻するなかで、じつは桂離宮に代表される伝統的な美こそがモダンなのだとする言説が長く支配的だった。ところが1950年代になると、そうした洗練された建築美を「弥生」と名付け、それとは異質な「もうひとつの伝統」としての縄文に与(くみ)する発言が登場してきた。しかし何が縄文なのかは、ばらばらだった。つまり縄文文化についての透徹した理解の上での議論というよりは、それぞれが、自分が好ましいと思う特徴を勝手に「縄文」という言葉に託して、そこから「弥生」という仮想敵を攻撃していたのである。
縄文と弥生を対置する構図は、たとえば縄文顔と弥生顏といったぐあいに、日本を構成する二つの対照的な伝統として、いまではほとんど紋切り型になっているが、戦前には「瑞穂の国の稲作農民たる常民」の文化が日本の正当な伝統だったのであり、それに対して「稲作以前」である縄文文化は、原始的な、ひょっとすると異民族の文化として格下に見られ、誇るべきものなどではなかった。縄文時代を天孫降臨と両立させるのも無理な相談だった。つまり「日本の誇る伝統としての縄文文化」という言説は、基本的に戦後のごく新しい発明なのである。
岡本太郎はその後、大阪万博のシンボル『太陽の塔』を作り、テレビで目を剥いて「芸術は爆発だ!」と叫んでいたが、1996年に亡くなった頃には世間からほとんど忘れられた存在だった。ところが、養女となった「太郎巫女」たる岡本敏子の奮闘により、華々しい復活を遂げる。絶版だった本が何冊も復刻され、民俗学や美術史学の論客たちが競うように「太郎論」を出版し、生誕100年の展覧会が催されといった具合だったが、そのハイライトが、メキシコで製作したのち行方不明になっていた壁画『明日の神話』の再生で、いまでは渋谷で行き交う人々を睥睨(へいげい)している。
この岡本太郎の復活と縄文ルネサンスの関係は微妙である。考古学資料としての価値ではなく、縄文土器や土偶の美術としての価値を初めて発見したのが岡本太郎だという言説は、いまや神話の域に達しているが、「人間生命のギリギリの矛盾」とか「モリモリした生命力」とか「いやったらしいほどたくましい美観」といった言葉で表現される岡本太郎版「縄文土器の美」は、特定の種類の縄文土器を偏愛する特殊なものであることは確かである。それに対して、近年の縄文ルネサンスのなかでは、縄文土器や縄文土偶に魅かれるにしても、どういう点に魅力を感じるかは、「カワイイ」だったり「オシャレ」だったり、実に多様である。
岡本太郎は、縄文土器の魅力はこれだ、と自信たっぷりに断言したが、それが唯一の正解だったわけではない。しかし、縄文土器とアートの関係は、半世紀ほどの間、岡本太郎の呪縛の内にありつづけた、。今ようやく、そこから解放されつつあるのだと思う。
(九州大教授、文化人類学) 古谷嘉章
西日本新聞 文化面 「縄文ルネサンス」 2018・3.7

コラムNo.01岡本太郎と縄文
京都造形芸術大学非常勤講師 石井 匠
縄文文化というと、今では誰もが疑うことなく日本文化の源流だと思っている。ところが、つい50年前までは日本美術史に縄文は存在しなかった。縄文の美を再発見し、日本美術史を書き換えたのは岡本太郎である。というと、嘘のような話に聞えるかもしれないが、それまで、縄文について美術的な視点からの発言は誰もしていなく、太郎が1952年に『みずゑ』誌上で「四次元との対話――縄文土器論」を発表するまで、縄文土器や土偶は美術品ではなく工芸品という扱いを受けていた。
岡本太郎と縄文の出会いは、東京国立博物館の一室。考古学の遺物として陳列されていた異様な形の縄文土器に偶然出くわして、彼はこう叫んだ。
「なんだこれは!」
岡本太郎はパリのソルボンヌ大学で、フランス民族学の父とも称されるマルセル・モース門下で民族学を修めており、芸術家であり民族学者でもある太郎が、火焔型土器の写真を載せた「縄文土器論」で提示したのは、考古学的な解釈ではなく、縄文土器の造形美、四次元的な空間性、そして、縄文人の宇宙観を土台とした社会学的、哲学的な解釈である。
それが結果的に各方面に大きな衝撃を与え、建築やデザイン界を中心に縄文ブームがわきおこった。そして、弥生土器や埴輪を始まりとする「正統な」日本の伝統をくつがえし、以後、原始美術として縄文土器は美術書の巻頭を飾るようになり、日本美術史が書き換えられたのだ。今に続く縄文ブームの火付け役は、岡本太郎なのであった。
「信濃川火焔街道ホームページ」より

コラムNo.02火焔型土器のイメージ
京都造形芸術大学非常勤講師 石井 匠
スマートな胴体。引き締まったくびれ。ふくよかな膨らみ。形だけをみると、実に美しいプロポーション、見事な曲線美である。見る者を魅惑する形とは裏腹に、この土の器は、外皮に奇妙な文様をまとっている。口縁部には奇妙な突起が貼りつき、4つの不可思議な把手が伸びあがる。縁の部分には棘のような三角のギザギザが波を打っている。なめらかな粘土の一本一本の線。それらがうねり、渦を巻き、凝集される小さな空間は、吐き気をもよおすほどの異様な無音の響きを周囲に放っている。この不思議な粘土の塊を目の当たりにする人は、いったい何を想像するのだろうか。
考古学者たちは、この不可思議なモノを「火焔型土器」と呼んでいる。この異様な形と文様に、燃え立つ炎のイメージを重ねたのだろう。岡本太郎もまた、この土器に根源的な美をみたのだが、彼が想起したものは「火炎」ではなかった。太郎の秘書であり、養女でもある岡本敏子は生前、こんなことを私に言っていた。
「岡本太郎さんはね、『火焔型土器は深海のイメージだ』と言ってたのよ。」
「深海ですか?」
「そう。『縄文人は深海を知っていたんだ』ってね。」
深海とは意外である。海といえば「水」であり、「火炎」とはまるで対極にあるものだ。土器は大地の奥底から掘り出された粘土を素材とし、火で焼きあげることで完成する。粘土は水を含み、土器で煮込み料理を作るときには水を使う。土器は水と密接な関係にあるし、大地の「深い」ところから掘り出されるが、深海とは程遠い。敏子さんもなぜ深海なのかは分からなかったらしいが、岡本太郎は火焔型土器に深海のイメージをみたのである。
いったい、この土器のどこが深海なのだろうか。縄文人も海に出て漁労を行っていた。強引に結びつけるとすれば、火焔型土器の隆帯文のうねりや口縁のギザギザは、さざ波や海原のうねりに似てはいる。渦巻文も渦潮と相似形である。しかし、深海とは無関係だ。あるいは、S字状の象徴的な把手が深海の生物をあらわしている、とでもいうのだろうか。いや、そんな皮相なことではないだろう。
火炎と深海。この土器を名づけた考古学者と、岡本太郎が直観的に感じとったイメージは、まったくかけ離れている。もしかすると、太郎は「火焔」という名前がもたらすイメージが気に食わず、アンチテーゼを投げかけただけなのかもしれない。しかし、文章として残すこともせず、傍にいた敏子にそう告げただけで終わってしまった。
岡本太郎が火焔型土器にみた「深海」とは何であったのか。今となっては、その真意を本人に訊ねることもできず、遺言のように残された言葉となってしまったが、ひょっとすると、そこに火焔型土器の謎をひもとく鍵がひそんでいるのかもしれない。
「信濃川火焔街道ホームページ」より

●火焔土器は、新潟県内の信濃川沿いにある遺跡でしか発掘されなかった貴重な遺産であり、縄文時代の重要な歴史を教えてくれるものでもあります。
  「火焔土器」とは、昭和11年(1936)12月31日に近藤篤三郎氏によって現長岡市の馬高(うまたか)遺跡で発見され、復元された一つの土器に付けられた愛称です。その形が燃え上がる焔に似ていたことから、この名称が生まれました。

●文化人類学・ぶんかじんるいがく・cultural anthropology
諸民族の文化・社会を比較研究する学問。アメリカでは,人類学は人間についての総合的研究であるとして,自然人類学,考古学,文化人類学,ときには言語学も含めた3ないし4部門から成るが,文化人類学の占める割合が大きいことから,人類学としばしば同義に用いられる。一方ヨーロッパでは,アメリカでいう文化人類学を民族学あるいは社会人類学と呼ぶ。非西欧的な習俗・習慣についての興味に始り,18世紀に関心が高まって,1839年フランスの哲学者 W.F.エドワールの提唱によりパリ民族学会が誕生。 43年ロンドン民族学会が発足し,84年にはオックスフォード大学で民族学が開講され,E.B.タイラーが初代講師となった。その後イギリスでは,社会組織の分析が中心となり,社会人類学という名称が用いられるようになった。ドイツ,オーストリアでは,20世紀前半にウィーン学派と呼ばれる歴史民族学が成立。日本へは 20世紀初頭に民族学が輸入されるが,本格的な研究は第2次世界大戦後になって始った。一般に,文化人類学は諸分野に専門化されており,言語,生態,社会,法,政治,経済,宗教,象徴,芸術,音楽,映像,心理,認識,教育,都市,医療人類学などがあるほか,応用人類学と呼ばれる人類学的知識の活用研究も行われる。   


Posted by マー君 at 11:18Comments(0)記事