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Posted by おてもやん at

2018年03月29日

金峰山の地質








今回(3/24)は金峰山関連の流山(山体崩壊によって崩れ落ちた膨大な量の土砂が山麓に流下してできた、大小さまざまな小山)について見学をするというのがテーマです。
そして現在の地形をとどめる金峰山の成り立ちに触れるものです。
上の地図はその日の集会で頂いたものですが、▲印で下から金峰山の一の岳、二の岳、三の岳の位置関係を示すととともに、〇印にて今回、観察する場所を示したもので流山観察及び露頭観察、温泉(前田家別邸)、湧水(天水湖)と「島原大変肥後迷惑」の時、津波が押し寄せ津波石が確認された場所を示しています。
金峰山がいつ頃どの様にして出来たのか、そしてこの近辺の地形を形づくるのにどういう役割を果たしているのか、今日の活動の中で川路先生からもお話がありましたが、より理解を深めるために金峰山についての参考文章を抜き出してみました。

ウィキペディアから
金峰山というと一般的には一ノ岳を指すが、これを中央火口丘とする二重式火山(現在火山活動はしていない)であり、熊ノ岳(685m)(二ノ岳ともいう)や三ノ岳(681m)・荒尾山(445m)などの外輪山を含む山の総称である。ほかに河内山、小萩山、花岡山、独鈷山、離れた所にある立田山も外輪山である。その成立は阿蘇山より古く、過去100万年以上かけて徐々に形成され、火山活動は56万年から50万年に火山活動が活発となり外輪山の縁(へり)の崩れたあたりが噴火して現在の二ノ岳、三ノ岳が誕生した。その後西山地域にカルデラ湖が形成された。20万年から15万年前に最後の噴火が起こった。最後に出来た溶岩ドームが一の岳である。同じくカルデラ式火山で熊本県の東部に位置する阿蘇山が「火の国」熊本のシンボル的な存在として広く知られているのに対し、金峰山は熊本市を象徴する山として市民に親しまれている。

山頂には展望台があり、晴れた日には有明海の湾奥、佐賀平野から島原半島、天草諸島の島影までを見渡せ、夜は熊本市街の夜景を一望することができる。山中には、巨石がいくつも横たわり宗教遺跡とみられる拝ケ石巨石群や、宮本武蔵が籠もって五輪書を書き記したことで知られる霊巌洞(岩戸観音)および五百羅漢のある雲巌禅寺、熊本から小天温泉までの旅を題材にした夏目漱石の小説「草枕」の一シーンに登場する峠の茶屋などが、また東側の麓には宮本武蔵ゆかりの美術品等を収蔵する島田美術館や加藤清正の菩提寺本妙寺などがあり、熊本の歴史や文化を語る上でも重要なエリアとなっている。
草枕の道・石畳






今年、熊本大学を退官されました渡辺 一徳氏がこんなお話をされています。
「 金峰山の成り立ち 」について
金峰山は20万年前に誕生

金峰火山は阿蘇火山と同じ二重式火山です。その中心的存在である金峰山は一ノ岳とも呼ばれ、二ノ岳、三ノ岳をはじめとする外輪山に囲まれたカルデラ内にできた溶岩ドームです。もっともカルデラとはいっても阿蘇のような円形でなく、四角の升形をしているのが特徴です。

金峰山が火山であることが明らかにされたのはおよそ100年前に起きた熊本地震の前年のことです。熊本地震のときにも金峰山が爆発したのではないかと騒がれました。そのため地震の直後には学者によって金峰山の調査が行われましたが、ガスの噴出や噴火などの火山活動を示す特別の異常は認められませんでした。熊本地震は立田山断層が動いたことに伴う地震であることが、最近の私たちの研究でほぼ明らかになっています。

形成時期については、いろいろの意見があり、誕生の時期ははっきりしないものの、年代測定の結果から約100万年前までに外輪部が出来上がり、同じく20万年前に中央の金峰山ができたと考えられます。植物化石から金峰山には直径3キロメートルの湖が存在したことも分かっています。芳野層とよばれる湖成層が観察できるからです。

また立田山、花岡山、万日山なども火山形成後の断層運動や河川の浸食によってできたと推定され、金峰山は熊本自然体を形作っている「風景」とも深くかかわっているのです。
天水湖



漱石が泊まった前田家


何故、この学習に雲仙普賢岳の噴火によって起きた津波の痕跡を見学に行くのか、その時は理解できなかったのですがこうして後でまとめ直してみると、1792年(寛政4年) - 群発地震と普賢岳の噴火の後、火山性地震を直接の原因とした山体崩壊が発生し、多量の土砂が有明海に流れ込んだことにより島原大変肥後迷惑が発生したことが分かりました。
島原も熊本も普賢岳や金峰山で山体崩壊が起りどちらにも流れ山が出来ています。
島原大変肥後迷惑の時津波がここまで来たそうです。津波石がありましたが石は別の場所に移設してあります。
明丑堤防

六枚戸:末広開樋門
横島干拓(玉名)の歴史
熊本県には「八代郡築干拓」と並んでもう一つ有名な干拓地がある。玉名市にある「横島干拓」だ。
干満の差の大きな有明海に面した玉名地域では、加藤清正公が肥後に入国して以来、精力的に干拓が進められてきた江戸時代後期には文化4年(1807年)の「一番開」から慶応2年(1866年)の「十番開」までの新田が造成された。近代に入ると、明治26年(1893年)に「明丑(めいちゅう)開」と「明豊開」、同28年(1895年)に「末広開」、同35年(1902年)に「大豊開」の干拓が続々と完成。度重なる潮害で決壊などの被害を受けたが、その都度、補修・改修が施され、昭和42年(1967年)の「国営横島干拓事業」の完工により、第一線堤防としての役割を終えた。
 総延長約5.1kmに及ぶ(末広開~明丑開~明豊開~大豊開の)潮受堤防と樋門は、昭和2年の潮害後に改修されて以来ほぼそのまま状態を保っており、平成18年(2006年)に末広、明丑の堤防は県指定重要文化財に指定され、平成20年(2008年)には末広、明丑、明豊、大豊開の4つの堤防や樋門などが社団法人土木学会の土木遺産に選定されている。
 実際に車(自転車)で横を走ってみるとよくわかるが、明丑・明豊・大豊開の堤防は、高さ5~6mの石積堤防が約4kmも連続し、壮大な景観を呈している。干拓の歴史(先人達による国土への働きかけの歴史)を伝える貴重な土木遺産である。
(熊本国土学ブログより)
  


Posted by マー君 at 10:34Comments(0)地学