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Posted by おてもやん at


昨日(1/8)、久しぶりに図書館講座がありました。
今回の講座は博物館が工事のため、博物館の学芸員の方達の調査研究成果を紹介する特別講座として開かれたものです。
1月~3月まで月2回行われ、地元にちなんだ「学芸員のこだわり八代学」をテーマに、今日はその第1回目の講座です。
今日の講師は鳥津亮二さん、話は「すごいぞ!西山宗因」~八代が生んだ大スター~です。
話の内容は以前にも何度か話をされたものですが、現在の八代城が出来た頃に八代城主であった加藤正方に仕官して京都の里村家(連歌師の家系)に入門した西山宗因の連歌と俳諧にまつわる話です。
初めに連歌についての話があり、その頃の連歌というものは複数の人々が寄りあって「五七五」の長句と、「七七」の短句を繫げて行く文芸で、室町時代から江戸時代にかけて広く親しまれた日本固有の伝統文化です。 
特に江戸時代初めの八代では八代城主・加藤正方が連歌を愛好し、その家臣西山宗因は後にこの世界で一世を風靡し大活躍しました。
連歌について約束事の説明から理解度を増すために登場人物として西山宗因、加藤正方、里村昌琢 ( しょうたく )、松尾芭蕉・松永貞徳などの話をされました。
●西山宗因(1605-1682)
慶長10年(1605)肥後熊本に生まれ、元和5年(1619)15歳の時より八代城主加藤正方に仕官、京都里村家に入門し連歌を学ぶ。寛永9年(1632)の主家改易により、翌年京都へ移住。連歌を職と定め、正保4年(1647)大阪天満宮連歌所宗匠に就任。俳諧でも活躍し、独特。流暢なリズムと明快な詩趣を持つ作風〝談林風は当時の文芸界を風靡し、西鶴や芭蕉らにまで影響を与えた。

●加藤正方(八代城下町の基礎を築いた 1580-1648)
加藤清正の重臣、加藤可重の子。清正が没した翌年の慶長17年(1612)に江戸幕府の命令で加藤家筆頭家老の地位につき、八代麦島城代に任命される。元和6年(1619)に麦島城が地震で崩壊した後、元和8年(1622)には新しく八代松江城を建設。現在につながる八代城下町の原型を築いた。また連歌の道にも秀て、後に連歌師・俳諧師として活躍する西山宗因を育てたことでも知られる。

●里村晶琢(1574-1636)織豊-江戸時代前期の連歌師。
天正(てんしょう)2年生まれ。里村南家の里村昌叱(しょうしつ)の長男。母は里村紹巴(じょうは)の娘。元和(げんな)3年徳川秀忠より100石をうけ,連歌の家を保証された。寛永3年後水尾天皇から古今伝授をうけ,5年幕府連歌の宗匠,のち法眼。寛永13年2月5日死去。63歳。名は景敏。別号に懐恵庵,拝北庵。編著に「類字名所和歌集」,句集に「昌琢句集」。


●松尾芭蕉(1644ー1694・正保元年〜元禄7年)
【俳人】人生を旅とし、旅を俳諧にした。 漂泊の俳人。『奥の細道』の著者。俳人。伊賀国出身。津藩に仕えて俳諧をたしなみ、北村季吟の指導を受けた。30歳で江戸に出ると、才を認められて談林派江戸宗匠となる。それまでの貞門・談林派の言葉遊びの滑稽趣味から離れ、自然や庶民生活の詩情を余韻豊かに表現して、蕉風俳諧を打ち立てた。東北路への旅を始まりに諸国を旅し、九州を目指す旅行中、大坂で死去する。『野ざらし紀行』『奥の細道』などの紀行俳文を残す。
芭蕉の宗因評価
芭蕉は「上に宗因なくんば、我々が俳諧今以て貞徳が涎(よだれ)をねぶるべし。宗因はこの道の中興開山なり」(去来抄)とのべている。

●松永貞徳(1571ー1653)
江戸初期の俳人・歌人・歌学者。京都の人。幼名、勝熊。号、逍遊軒・松友・長頭丸ちようずまる・花咲の翁など。九条稙通・細川幽斎らから和歌・歌学、里村紹巴じようはから連歌を学ぶ。豊かな学殖で古典を講義、私塾を開き、また庶民の間に俳諧を広めた。門下から北村季吟・加藤盤斎・伊藤仁斎らを輩出。江戸初期の代表的な狂歌師でもあった。編著「俳諧御傘ごさん」「新増犬筑波集」「天水抄」など。   


Posted by マー君 at 09:13Comments(0)講座歴史