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Posted by おてもやん at

2019年11月11日

葛籠尾崎湖底遺跡








葛籠尾崎湖底遺跡(つづらおざきこていいせき)ってご存知ですか?
縄文時代に縄文人が丸木舟を使って遠い所へ行き来をしていたことが知られていますがその丸木舟の現物をしっかりと見た記憶がありません。
丸木舟で古いものといえば約6000年前のものが京都府舞鶴市の浦入遺跡で見つかっています。
少し前迄一番古いとされてきたものは島根県松江市の島根大構内遺跡の約7000年前のものだったのですが、2015年に千葉県市川市の雷下遺跡(かみなりしたいせき)で見つかったものは約7500年前のものと鑑定され現在では一番古いものとされています。
今回の関西旅行で本来寄ってみたかったのは舞鶴の浦入遺跡で出土した丸木舟を見たかったのですが、出土した舟は全国各地の博物館に展示品として出品中で現在どこにあるかわからないので琵琶湖にある丸木舟を捜して葛籠尾崎湖底遺跡資料館と琵琶湖博物館を見て歩くことにしました。
今回、丸木舟だけではなく琵琶湖の湖底遺跡というものを初め知り、小江 慶雄という研究者も知ることができました。
滋賀県内には約3000の遺跡があります。このうち琵琶湖や内湖にある遺跡を「湖底遺跡」と呼んでいます。その数は約90か所で、これらに遺跡のほとんどは、水深1~5mと比較的浅い所に位置しています。
湖底遺跡の発掘調査によると、守山市の湖底では水深3、071mから縄文時代後期の丸木舟が出土しています。延勝寺・今西の湖岸では1.651~1,881mで弥生時代中期の意向が確認されています。
多少の上下はありますが、縄文時代、弥生時代、古墳時代、平安時代の琵琶湖の水位は、現在の平均水位から低い時代で4,0m、高い時代でも2,0mも水位が下がっていたことが確認されています。このことから、現在琵琶湖に沈んでいる縄文時代~平安時代のほとんどの湖底遺跡が水位の上昇によって水面下に沈んだと考えられます。
しかしこのような現象では理解できない湖底遺跡があります。それが葛籠尾崎湖底遺跡です。
葛籠尾崎湖底遺跡は、琵琶湖に突き出した葛籠尾崎の先端から東沖6メートルから700メートル、岬の湖岸に沿って北へ数キロの範囲で、水深10~70メートルの湖底にあります。大正13年(1924)の暮れ、尾上の漁師がイサザ漁をしていたところ、縄文・弥生土器各2個、土師器2個が網にかかり引き上げました。この後、たくさんの縄文土器、弥生土器などの古代の土器や鹿の角が引き上げられ、その存在が明らかとなりました。今までに引き上げられた土器はm縄文時代早期から平安時代の土器でその総数は約140点にのぼります。これらの土器は完成品が多く、また、風化がほとんど見られず数千年、数百年の時を経てきたとは思えないほどよく原形を止めています。葛籠尾崎湖底遺跡の土器は一般の遺跡とは異なり、湖底の土中に埋没せず露出しています。このような遺跡は他に例がなくその成因はなぞに包まれています。




小江 慶雄(おえ よしお/おおえ よしお、1911年 - 1988年11月7日)は考古学者。
1911年滋賀県東浅井郡湖北町尾上(現・長浜市湖北町尾上)に生まれる。九州帝国大学(現・九州大学)で考古学を学んだ後に京都学芸大学(現・京都教育大学)で考古学を教え、後進の指導も熱心に行なった。京都学芸大学学長に就任後も精力的に国内外の遺跡調査に奔走した。
1970年代以降に地中海を中心として調査が進められていた欧米の水中考古学を幅広く日本の考古学会に紹介し、島国である日本における水中遺跡調査の必要性を積極的に教授したが、当時は陸上の遺跡調査が優先であって協力・賛同を得ることは困難であった。特に郷里の葛籠尾崎湖底遺跡の研究では多数の土器の調査・分析をし、琵琶湖周辺に関する湖中遺跡の研究に尽力した。
また伊香郡西浅井町大字菅浦に伝わる、乾元元年(1302)作の古図「竹生島図」に着目しこの図に描かれた葛籠尾崎を検証し、岬南端の湖岸にあった遺跡が波の浸食によって流出したという「湖岸遺跡流出説」を発表した。

葛籠尾崎湖底遺跡資料館は滋賀県長浜市湖北町尾上自治会が管理されています。
行かれる場合は0749-79-0315紅鮎まで予約を入れてから自動車又は河毛駅(JR)からレンタサイクルを借りて約1時間ほど。
バスがありましたが今はありません。タクシーだと片道5000円くらいかかるそうです。  


Posted by マー君 at 16:07Comments(0)紹介 まち歩き縄文