阿蘇市的石御茶屋跡に宋不旱が昭和14年に詠んだ句があります。前山光則先生の案内で文学散歩の旅の最初の場所として案内をしていただきました。途中雨も降り出して少し心配しながらバスに乗っていましたが、目的地に着く頃には雨も上がり気分よく観光する事が出来ました。
宋不旱についての豆知識や隼鷹天満宮にある宋不旱の句についてバスの中で前山光則先生の作品を頂きましたので紹介します。
連載コラム『本のある生活』2016・9・12 前山光則
第271回 隼鷹の宮居の神は・・・
この連載コラム第269回に添えた湧水の写真は8月2日に阿蘇市的石御茶屋跡で撮ったものであるが、その後、8月31日にも同じ場所にも行ってみた。御茶屋跡の奥、隼鷹天満宮の手前に宋不旱の昭和14年作の歌
隼鷹の宮居の神は藪のなかの石のかけにておはしますかも
を刻んだ石碑がある。不旱は友人の案内で御茶屋跡を訪れた際、林や泉の美しさに感動して歌を詠んだのだそうだが、ピンとこない。歌意を確かめたくて再訪したのである。江戸時代に熊本城の藩主・細川綱利公が参勤交代で東上した折、嵐にあって船が難航した。その時、船柱に一羽の白鷹(準用)が泊まったところ、不思議や嵐がおさまった。その後、綱利公は夢の中で、あのときの白鷹は隼鷹天満宮の権化である、との神喩を受け、それが的石御茶屋内の社殿建立につながったと言い伝えられているのだが、宋不旱の歌はこの神のことを「薮なかの石のかけにておはしますかも」と詠んでおり、これが分からない。
美人のKさんMさんが同行してくれていて、二人ともお茶屋の湧水池や木々の見事さに感嘆の声を挙げた。参勤交代の折り、熊本の殿様が大分方面へ山越えをしてから船に乗って江戸を目指す途中の休憩場所としてここは造られたのだそうだ。立派な庭園があり、紅葉の頃にはまた一層美しさを堪能できるだろう。それにしても、「石のかけ」の意味は何なのだ。地元の人達がいたから聞いてみたが、首を傾けるだけだ。ところが、駐車場に引き返したら、Kさんが目をキラキラさせて説明版に見入っている。Mさんもわたしもそこへ近寄ってみたところ、おおなーん だ、書いてある。それには御茶屋跡の一キロ先の地点にある「的石」という石についての由緒が記されており、「阿蘇開拓の祖、健盤龍尊・たけいわたつのみことが往生岳からこの石をめがけて弓矢の練習をした、と伝わる石」とある。ここ的石地区の地名の由来とされる伝承だ。ははあ、神様が石を的にして弓矢の腕を磨いたのか。不旱は林や泉に惚れ込んだだけでなく、この健盤龍尊にちなむ的石伝説にも興を催し、面白がったのではなかろうか。
この歌を詠んだ3年後の昭和17年5月、このすぐ近く内牧温泉で、
内之牧朝闇いでて湯にかよふ道のべに聞く田蛙のこゑ
との歌を遺した後、行方不明になり、世を去った、享年、58歳。熊本市のど真ん中生まれだが、硯職人として各地を放浪した宋不旱。説明板を見ながら、的石地区や内牧温泉あたりはこの放浪の歌人には無視できぬ縁があるなあ、と感じ入ったのであった。
その内牧温泉も夏目漱石や宋不旱ゆかりの場所を散策した。阿蘇神社にも参拝。昼飯には蕎麦を食べ、道の駅では朝採りのトウモロコシを買って帰った。阿蘇はいいところだ。







4月の地震で御茶屋跡もあちこち崩れた個所があり、隼鷹天満宮も被害を受けています。宋不旱の歌碑は何とか持ちこたえたようです。
【宋不旱・そうふかん】明治17年(1884)熊本市で生まれる。明治24年(1891)来民(くたみ)小学校入学(現在の山鹿市鹿本町)。明治37年(1904)上京、下宿で窪田空穂(くぼたうつぼ)を知り短歌の道へ。明治40年(1907)「十月会」の第一合同歌集『白露集』刊行、22首掲載。明治45年(1912)朝鮮大陸から中国大陸へ渡り各地を放浪。作硯を覚える。大正12年(1923)帰国。窪田空穂宅で関東大震災に遭遇。大正13年(1924)『短歌雑誌』に「私の見た現代代表歌人」11回連載。大正14年(1925)初めての作品集『柿本人麻呂歌集』刊行。大正15年(1926)従姉妹の米村咲と結婚。昭和3年(1928)放浪の旅再開。昭和4年(1929)再び台湾へ。第一歌集『筑摩鍋』刊行。父と14年ぶりに再開。昭和7年(1932)京都大学の今田哲夫と知り合う。昭和14年(1939)長女死去。九州新聞に入社し校正係となるも翌年退社。昭和15年(1940)夫人と離婚、家族別離。次女死去。昭和16年(1941)第二歌集「茘支」出版。長男、四男死去。昭和17年(1942)阿蘇で行方不明になる・・・没後・・・昭和23年(1948)水前寺公園に最初の歌碑建立。昭和27年(1952)没後10年『あけび』九月増大号で追悼特集。昭和37年(1962)遺墨遺品展開催。昭和40年(1965)死亡地点が推定される。昭和41年(1966)鹿本に第二歌碑建立。昭和47年(1971)没後30年『日本談義』5月号で特集。昭和53年(1978)旭志に第三歌碑建立。昭和58年(1983)山鹿市立博物館で「生誕99年展」開催。昭和61年(1986)阿蘇に第四歌碑建立。昭和63年(1988)阿蘇に第五歌碑建立。
隼鷹の宮居の神は・・・の碑文は第五歌碑となります。不旱絶筆の・・内之牧朝闇いでて・・の句は第四歌碑で内之牧温泉の道智寺裏に建立されています。
熊本の近代歌人、宋不旱については、彼の生まれは熊本市だが育ったのは鹿本来民(山鹿)で育っているので、山鹿市教育委員会が『近代の山鹿を築いた人たちシリーズ』で幼年期の様子、上京して歌作を始めた事、朝鮮半島から中国大陸への放浪、結婚生活、そして家族別離、行方不明の事などわかり易く冊子にして紹介しています。
阿蘇を題材に作品を作った作家にこの様な人達もいます。
【蔵原伸二郎・くらはらしんじろう】明治32年(1899)~昭和40年(1965)現在の阿蘇市黒川に生まれる。本名、惟賢(これかた)。父・惟暁(これあき)は神官で、阿蘇氏の直系。母・いくは医学者・北里柴三郎の妹。七歳で熊本市に移住し、九州学院中学に学ぶ。慶大在学中に萩原朔太郎の影響を受けて詩作を始める。詩集に『東洋の満月』『暦日の鬼』『乾いた道』『岩魚』(読売文学賞)、小説集に『猫のいる風景』など。
【三好達治・みよしたつじ】明治33年(1900)~昭和39年(1964)。大阪生まれ。東大仏文科卒。堀辰雄、丸山薫らと詩誌「四季」を 創刊。詩集に『測量船』『春の岬』『艸千里浜』など。三好達治は大正9年・昭和11年・36年と三回阿蘇へ旅している。「艸千里浜」は二度目の来訪の折に生まれた作品。阿蘇を題材にした作品としては、他に「大阿蘇」などがある
【国木田独歩・くにきだどっぽ】明治4年(1871)7月15日(旧暦)、現在の千葉県銚子市に生まれる。幼名、亀吉。後に哲夫。父が裁判所勤めだった関係で、東京・山口・広島・等を転々として育つ。明治21年、東京専門学校(早稲田大学の前身)英語普通科に入学。24年、同校を退学。明治26年2月から「欺かざるの記」を書き始める。また同年9月、徳留蘇峰の勧めにより大分県佐伯の鶴谷学館に教頭として赴任。教職のかたわら執筆活動も盛んに行う。翌年7月、同学館を辞職。9月、東京へ戻り、国民新聞社に入社。明治30年頃より「独歩」と号する。32年、榎本春子と結婚。34年3月、最初の短編集『武蔵野』を刊行。その他、この年「帰去来」「牛肉と馬鈴薯」等を発表。以後も「巡査」「富岡先生」「空知川の岸辺」「春の鳥」等、次々に発表。自然主義の代表作家と目されるに至る。しかし38年頃から肺結核に冒されて徐々に病状悪化し、明治41年(1907)6月23日、永眠、享年、37歳。
【梅崎春生・うめざきはるお】大正4年(1915)2月15日、福岡市簀子町(すのこちょう)生まれ。修猷館中学から五高、東大国文科と進む。昭和14年(1939)、青春の心の痛みを描いた処女作「風宴」を発表。15年に東大卒業後は東京市教育局教育研究所の雇員となるが、翌翌年には召集を受け、二等兵曹となる。敗戦まで九州の陸上基地を転々とする。戦後、こうした軍隊経験を踏まえて「桜島」を書き、本格的に作家として出発。以後、「崖」「日の果て」「B島風物誌」「ルネタの市民兵」などの作品を相次いで発表し、戦後派作家として注目された。その一方で「蜩・ひぐらし」「風雪」「ある顛末」「麺麭(めんぼう)の話」「蜆・しじみ」などでは戦後の荒廃した風俗や人間心理を描いてみせた。さらに市井(しせい)のさりげない出来事にシリアスな笑いや人情を探る、いわゆる「市井もの」にも天分を発揮し、昭和29年(1954)発表の「ボロ家の春秋」で第32回直木賞を受賞。この系列では「空の下」「A君の手紙」「突堤にて」「古呂小父さん」などがある。
晩年になって「狂ひ凧」「朱色の天」と連続して意欲作に取り組み、その集大成というべき「幻化」を発表。自らの戦中・戦後を照らし直す作品として高い評価を得た。しかし、持病の肝硬変が悪化し、昭和40年(1965)7月19日、逝去。没後すぐに『幻化』が刊行され、したがってこの作品はこの作家の絶筆となった。享年50歳。
この文学散歩で訪れる場所はそんなに多くを巡ることは出来ませんが、実際に現場を見て説明を受けることにより作品を鮮明に味わう事が出来るので、毎年楽しみにしている人が沢山居られます。さぞお疲れになったとは思いますが、今回は92歳のご高齢のご婦人も参加されていました。
宋不旱についての豆知識や隼鷹天満宮にある宋不旱の句についてバスの中で前山光則先生の作品を頂きましたので紹介します。
連載コラム『本のある生活』2016・9・12 前山光則
第271回 隼鷹の宮居の神は・・・
この連載コラム第269回に添えた湧水の写真は8月2日に阿蘇市的石御茶屋跡で撮ったものであるが、その後、8月31日にも同じ場所にも行ってみた。御茶屋跡の奥、隼鷹天満宮の手前に宋不旱の昭和14年作の歌
隼鷹の宮居の神は藪のなかの石のかけにておはしますかも
を刻んだ石碑がある。不旱は友人の案内で御茶屋跡を訪れた際、林や泉の美しさに感動して歌を詠んだのだそうだが、ピンとこない。歌意を確かめたくて再訪したのである。江戸時代に熊本城の藩主・細川綱利公が参勤交代で東上した折、嵐にあって船が難航した。その時、船柱に一羽の白鷹(準用)が泊まったところ、不思議や嵐がおさまった。その後、綱利公は夢の中で、あのときの白鷹は隼鷹天満宮の権化である、との神喩を受け、それが的石御茶屋内の社殿建立につながったと言い伝えられているのだが、宋不旱の歌はこの神のことを「薮なかの石のかけにておはしますかも」と詠んでおり、これが分からない。
美人のKさんMさんが同行してくれていて、二人ともお茶屋の湧水池や木々の見事さに感嘆の声を挙げた。参勤交代の折り、熊本の殿様が大分方面へ山越えをしてから船に乗って江戸を目指す途中の休憩場所としてここは造られたのだそうだ。立派な庭園があり、紅葉の頃にはまた一層美しさを堪能できるだろう。それにしても、「石のかけ」の意味は何なのだ。地元の人達がいたから聞いてみたが、首を傾けるだけだ。ところが、駐車場に引き返したら、Kさんが目をキラキラさせて説明版に見入っている。Mさんもわたしもそこへ近寄ってみたところ、おおなーん だ、書いてある。それには御茶屋跡の一キロ先の地点にある「的石」という石についての由緒が記されており、「阿蘇開拓の祖、健盤龍尊・たけいわたつのみことが往生岳からこの石をめがけて弓矢の練習をした、と伝わる石」とある。ここ的石地区の地名の由来とされる伝承だ。ははあ、神様が石を的にして弓矢の腕を磨いたのか。不旱は林や泉に惚れ込んだだけでなく、この健盤龍尊にちなむ的石伝説にも興を催し、面白がったのではなかろうか。
この歌を詠んだ3年後の昭和17年5月、このすぐ近く内牧温泉で、
内之牧朝闇いでて湯にかよふ道のべに聞く田蛙のこゑ
との歌を遺した後、行方不明になり、世を去った、享年、58歳。熊本市のど真ん中生まれだが、硯職人として各地を放浪した宋不旱。説明板を見ながら、的石地区や内牧温泉あたりはこの放浪の歌人には無視できぬ縁があるなあ、と感じ入ったのであった。
その内牧温泉も夏目漱石や宋不旱ゆかりの場所を散策した。阿蘇神社にも参拝。昼飯には蕎麦を食べ、道の駅では朝採りのトウモロコシを買って帰った。阿蘇はいいところだ。
4月の地震で御茶屋跡もあちこち崩れた個所があり、隼鷹天満宮も被害を受けています。宋不旱の歌碑は何とか持ちこたえたようです。
【宋不旱・そうふかん】明治17年(1884)熊本市で生まれる。明治24年(1891)来民(くたみ)小学校入学(現在の山鹿市鹿本町)。明治37年(1904)上京、下宿で窪田空穂(くぼたうつぼ)を知り短歌の道へ。明治40年(1907)「十月会」の第一合同歌集『白露集』刊行、22首掲載。明治45年(1912)朝鮮大陸から中国大陸へ渡り各地を放浪。作硯を覚える。大正12年(1923)帰国。窪田空穂宅で関東大震災に遭遇。大正13年(1924)『短歌雑誌』に「私の見た現代代表歌人」11回連載。大正14年(1925)初めての作品集『柿本人麻呂歌集』刊行。大正15年(1926)従姉妹の米村咲と結婚。昭和3年(1928)放浪の旅再開。昭和4年(1929)再び台湾へ。第一歌集『筑摩鍋』刊行。父と14年ぶりに再開。昭和7年(1932)京都大学の今田哲夫と知り合う。昭和14年(1939)長女死去。九州新聞に入社し校正係となるも翌年退社。昭和15年(1940)夫人と離婚、家族別離。次女死去。昭和16年(1941)第二歌集「茘支」出版。長男、四男死去。昭和17年(1942)阿蘇で行方不明になる・・・没後・・・昭和23年(1948)水前寺公園に最初の歌碑建立。昭和27年(1952)没後10年『あけび』九月増大号で追悼特集。昭和37年(1962)遺墨遺品展開催。昭和40年(1965)死亡地点が推定される。昭和41年(1966)鹿本に第二歌碑建立。昭和47年(1971)没後30年『日本談義』5月号で特集。昭和53年(1978)旭志に第三歌碑建立。昭和58年(1983)山鹿市立博物館で「生誕99年展」開催。昭和61年(1986)阿蘇に第四歌碑建立。昭和63年(1988)阿蘇に第五歌碑建立。
隼鷹の宮居の神は・・・の碑文は第五歌碑となります。不旱絶筆の・・内之牧朝闇いでて・・の句は第四歌碑で内之牧温泉の道智寺裏に建立されています。
熊本の近代歌人、宋不旱については、彼の生まれは熊本市だが育ったのは鹿本来民(山鹿)で育っているので、山鹿市教育委員会が『近代の山鹿を築いた人たちシリーズ』で幼年期の様子、上京して歌作を始めた事、朝鮮半島から中国大陸への放浪、結婚生活、そして家族別離、行方不明の事などわかり易く冊子にして紹介しています。
阿蘇を題材に作品を作った作家にこの様な人達もいます。
【蔵原伸二郎・くらはらしんじろう】明治32年(1899)~昭和40年(1965)現在の阿蘇市黒川に生まれる。本名、惟賢(これかた)。父・惟暁(これあき)は神官で、阿蘇氏の直系。母・いくは医学者・北里柴三郎の妹。七歳で熊本市に移住し、九州学院中学に学ぶ。慶大在学中に萩原朔太郎の影響を受けて詩作を始める。詩集に『東洋の満月』『暦日の鬼』『乾いた道』『岩魚』(読売文学賞)、小説集に『猫のいる風景』など。
【三好達治・みよしたつじ】明治33年(1900)~昭和39年(1964)。大阪生まれ。東大仏文科卒。堀辰雄、丸山薫らと詩誌「四季」を 創刊。詩集に『測量船』『春の岬』『艸千里浜』など。三好達治は大正9年・昭和11年・36年と三回阿蘇へ旅している。「艸千里浜」は二度目の来訪の折に生まれた作品。阿蘇を題材にした作品としては、他に「大阿蘇」などがある
【国木田独歩・くにきだどっぽ】明治4年(1871)7月15日(旧暦)、現在の千葉県銚子市に生まれる。幼名、亀吉。後に哲夫。父が裁判所勤めだった関係で、東京・山口・広島・等を転々として育つ。明治21年、東京専門学校(早稲田大学の前身)英語普通科に入学。24年、同校を退学。明治26年2月から「欺かざるの記」を書き始める。また同年9月、徳留蘇峰の勧めにより大分県佐伯の鶴谷学館に教頭として赴任。教職のかたわら執筆活動も盛んに行う。翌年7月、同学館を辞職。9月、東京へ戻り、国民新聞社に入社。明治30年頃より「独歩」と号する。32年、榎本春子と結婚。34年3月、最初の短編集『武蔵野』を刊行。その他、この年「帰去来」「牛肉と馬鈴薯」等を発表。以後も「巡査」「富岡先生」「空知川の岸辺」「春の鳥」等、次々に発表。自然主義の代表作家と目されるに至る。しかし38年頃から肺結核に冒されて徐々に病状悪化し、明治41年(1907)6月23日、永眠、享年、37歳。
【梅崎春生・うめざきはるお】大正4年(1915)2月15日、福岡市簀子町(すのこちょう)生まれ。修猷館中学から五高、東大国文科と進む。昭和14年(1939)、青春の心の痛みを描いた処女作「風宴」を発表。15年に東大卒業後は東京市教育局教育研究所の雇員となるが、翌翌年には召集を受け、二等兵曹となる。敗戦まで九州の陸上基地を転々とする。戦後、こうした軍隊経験を踏まえて「桜島」を書き、本格的に作家として出発。以後、「崖」「日の果て」「B島風物誌」「ルネタの市民兵」などの作品を相次いで発表し、戦後派作家として注目された。その一方で「蜩・ひぐらし」「風雪」「ある顛末」「麺麭(めんぼう)の話」「蜆・しじみ」などでは戦後の荒廃した風俗や人間心理を描いてみせた。さらに市井(しせい)のさりげない出来事にシリアスな笑いや人情を探る、いわゆる「市井もの」にも天分を発揮し、昭和29年(1954)発表の「ボロ家の春秋」で第32回直木賞を受賞。この系列では「空の下」「A君の手紙」「突堤にて」「古呂小父さん」などがある。
晩年になって「狂ひ凧」「朱色の天」と連続して意欲作に取り組み、その集大成というべき「幻化」を発表。自らの戦中・戦後を照らし直す作品として高い評価を得た。しかし、持病の肝硬変が悪化し、昭和40年(1965)7月19日、逝去。没後すぐに『幻化』が刊行され、したがってこの作品はこの作家の絶筆となった。享年50歳。
この文学散歩で訪れる場所はそんなに多くを巡ることは出来ませんが、実際に現場を見て説明を受けることにより作品を鮮明に味わう事が出来るので、毎年楽しみにしている人が沢山居られます。さぞお疲れになったとは思いますが、今回は92歳のご高齢のご婦人も参加されていました。