1619年麦島城が地震で崩壊した後、加藤忠広[清正の子]は幕府の許可を受け城代加藤正方に球磨川の北岸[松江]に八代城[1622年完成]を築かせる。1632年(寛永9年)加藤氏改易によって細川忠利が熊本城に入り肥後を預かる。八代城は忠利の父忠興[三斉]が城主として入ります。忠興死後[1645年]忠利は筆頭家老かつ将軍直臣の松井興長を八代城主とします。以後明治まで松井氏が居城とします。1672年(寛文12年)落雷により天守・櫓・長塀を消失 1797年(寛政9年)落雷により本丸大書院・三階櫓等消失・・大書院は再建されたが、天守・櫓は再建されなかった。1870年[明治3年]に廃城となる。
③八代城 1622~1870 加藤氏・細川氏・松井氏の流れで八代が統治され1645年以降は細川家の家老とはいえ将軍家直臣の松井家が統治したのは日本広しと言えども珍しい事です。「松井家は徳川・細川の両方から禄を貰います」薩摩が南にいたからです。
③八代城 1622~1870 加藤氏・細川氏・松井氏の流れで八代が統治され1645年以降は細川家の家老とはいえ将軍家直臣の松井家が統治したのは日本広しと言えども珍しい事です。「松井家は徳川・細川の両方から禄を貰います」薩摩が南にいたからです。

Posted by マー君 at
15:40
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八代のお城は①古麓城→②麦島城→③八代城 と山の頂から平野の町の中へとただ場所が変わっただけではありません。1335年古麓城の築城から1870年(明治3年)の八代城の廃城まで500年以上にわたりお城が存続したのは何らかの理由が有る筈です。①名和氏・相良氏・島津氏の縄張り争い ②は小西氏・加藤氏が八代を統治した時代は、九州の中での地理的な特殊な理由つまり八代が海上交通と九州西街道の要所と成っていた。その為この地を統治する為の城が必要であった。秀吉配下の元、小西行長が造った麦島城は1600年関ヶ原の戦いで斬首となった行長の後加藤家が八代[麦島城]を統治していきます。1615年(元和元年)幕府による一国一城令が出されますが海上と九州南部の警備のため麦島城はそのまま存続が許されます。しかし1619年(元和5年)麦島城は地震の為、倒壊し廃城となります。

Posted by マー君 at
12:09
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