福岡県の県民情報広報課が2011年に出された記事の中に山頭火の記事がありました。山頭火を知るうえで大変役に立つ記事なので紹介します。それは山頭火が歩いた道・筑後への記事です。

放浪の俳人を癒(いや)した心のふるさと
「分け入つても 分け入つても 青い山」などの名句で知られる放浪の俳人・種田山頭火(たねださんとうか)。
彼は行乞(ぎょうこつ)(※)の途上、何度も筑豊を訪れている。
そこには、山頭火を物心両面から支え続け、「心友(しんゆう)」とまで言わしめた友人がいたからだ。
山頭火と筑豊―。あまり世に知られてないが、そこには切っても切れぬ縁があった。
今回は、そんな山頭火の筑豊での足跡を辿(たど)りたい。
※僧侶が人々から施しを受けながら、托鉢(たくはつ)して歩くこと
逢いたいボタ山が見えだした 山頭火/昭和5年・糸田町
山頭火と緑平

山頭火は生前21冊の日記を残しているが、托鉢を行った旅を「行乞記」、それ以外を「旅日記」と分けていたといわれる。写真は、昭和5年9月から11月までのもの。
(写真提供・松山市立子規記念博物館)
放浪の俳人・種田山頭火(本名・正一(しょういち))―。その人気は未だ衰えることを知らない。だが、彼が世に出たのは没後のこと。大山澄太(おおやますみた)という研究家の手によって、門外不出(もんがいふしゅつ)とされた『山頭火日記』が公開されたからだ。行乞の途上でしたためた日記は、山頭火の句の詞書(ことばがき)でもあり、彼の足跡と創作活動を知る上で貴重な資料となっている。
この『山頭火日記』は、大学ノートで21冊に及ぶ。驚くべきことは、それらのすべてが筑豊に住む一人の友人に向けて書かれ、最後の1冊を除き、山頭火自らが彼の元に届けたということだ。
その友人の名前は木村緑平(りょくへい)(本名・好栄(よしまさ))。共に、近代を代表する俳人・荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)が主管する俳誌『層雲(そううん)』の同人であった。
二人は当初、手紙のやりとりこそあったものの、全く面識はなかった。しかし、ある日、無銭飲食をして捕まった山頭火の身元引受人に、緑平がなったことをきっかけに、二人の親交は始まった。破滅型の人間である山頭火を心から受け入れてくれたやさしい緑平を、山頭火は親しみを込めて「南無緑平老如来(なむりょくへいろうにょらい)」と呼んだ。
二人の絆を結んだ糸田町
種田山頭火は、1882(明治15)年、山口県佐波郡西佐波令村(さばぐんにしさばりょうむら)(現・防府市)の大地主の長男として生まれた。10歳の時に母が自殺するが、これが後の放浪の引き金になったといわれる。早稲田大学に進むものの退学。父と種田酒造を開くが破産し、妻子と熊本へ逃げ移った。熊本で始めた商売にも身が入らず、やがて、山頭火は全てに行き詰まり一切を捨てて行乞の旅に出る。緑平との親交が始まったのは、ちょうどその頃であった。
一方、木村緑平は、1888(明治21)年、福岡県三潴郡浜武村(みずまぐんはまたけむら)(現・柳川市)に生まれた。伝習館(でんしゅうかん)中学から長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)に進み、卒業後は大牟田などで医師として活躍するが、ほどなく炭鉱景気に沸く筑豊へ。1927(昭和2)年、明治豊国鉱業所(めいじほうこくこうぎょうしょ)病院の内科医として田川郡糸田村(現・糸田町)に移り住んだ。
山頭火と緑平の交遊は、山頭火が没する1940(昭和15)年までの約十数年に及び、その中心地は糸田町であった。糸田の緑平宅は坂を上がった丘の上にあり、谷を挟んでボタ山が見える。それは山頭火にとって、安心して旅の草鞋(わらじ)を脱げる緑平宅の象徴でもあったのだ。
迷うた道でそのまま泊まる〈山頭火/昭和4年・烏尾峠〉
旧烏尾(からすお)峠を越えて
山頭火は、糸田に入るためにいくつかの道を使った。その一つが飯塚と糸田を結ぶ旧烏尾峠である。現在の国道201号にある烏尾峠の北に位置する古道で、かつては筑前と豊前を結ぶ国境の峠道であった。
当時、その峠を下った飯塚には山頭火の長男・種田健(たねだけん)が住んでいた。緑平宅を訪れる前後には、この息子のもとにも立ち寄ったのではないかと、糸田町の郷土史家・仲江健治(なかえけんじ)さんは推察する。健は秋田鉱山専門学校(現・秋田大学)を卒業し、飯塚の二瀬(ふたせ)炭鉱で技師として働いていたからだ。
1929(昭和4)年2月28日の日記によれば、「旧道を歩いてゐるうちに道を間違へて小竹町に出ましたので、そのまま一泊」とある。「多分、息子に会いにいくところを近道をして、北隣の鞍手郡小竹町に迷い着いたのでしょう」と、仲江さん。常々、野放図(のぼうず)な山頭火に、元妻・サキノは「息子にだけは迷惑をかけるな」と諭していたせいか、息子宅への訪問は日記には書きづらかったようだ。「迷うた道で―」は、この時に詠まれた句である。
枝をさしのべてゐる冬木〈山頭火の句/昭和5年・糸田町〉
友情の証しの山頭火日記
山頭火は、旧烏尾峠を越えるほかにも、折尾、直方を通り汽車で駆けつけることもあった。「歩いてゐるうちに、だんだん憂鬱(ゆううつ)になつて堪へきれないので、直方からは汽車で緑平居へ驀進(ばくしん)(※)した」と、1930(昭和5)年11月26日の日記に述べている。緑平夫婦の温かい雰囲気に早く包まれ、安堵したいがために急ぎ汽車に乗ったのだ。
「うれしいといふ外なし」。翌日、大好きな緑平宅で、これまた大好きな酒を飲み、読書と散歩を存分に楽しんだ山頭火が詠んだ句が、前述の「枝をさしのべて―」である。山頭火は自分の句の解説はしない。日記自体が句の背景を語る詞書だからだ。しかし、この句は例外で、翌年刊行された随筆『鉢(はち)の子(こ)』でその意味を語っている。
「(枝は)さしのべてゐる緑平老の手であつた。私はその手を握つて、道友のあたたかさをしみじみと心の底まで味はつた」とある。自ら放浪生活を選んだものの孤独な気持ちは晴れず、自暴自棄に陥りがちな山頭火が、心の底から甘えられるのは緑平だけであったのだ。
しかし、山頭火には、そんな緑平に報いる手立ては何もない。行乞の途上に書き付けた日記と句が全てだったのだろう。緑平もこれを理解し、何かに付けて金を無心しにくる友人を責めることなく受け入れ、惜しみなく行乞の旅を支えた。
香春晴れざまへ鳥がとぶ〈山頭火の句/昭和7年・香春町〉
旅を慰(なぐさ)め、句を拾う場所―香春(かわら)
山頭火は、いつもふらりと緑平を訪ねてきたが、炭鉱病院の医師であった緑平は、そうそう山頭火の相手をしていられるわけもない。緑平が留守の時は、妻のツネが山頭火を迎え、当たり前のように「これでよい句を拾っていらっしゃい」と、お金を持たせたといわれる。緑平宅の居心地のよさは、このツネの人柄に負うところも少なくなかった。
山頭火はそんな夫婦の温情を懐に、よく香春町を遊山(ゆさん)した。1932(昭和7)年に詠まれた「香春晴れざまへ―」も、そんな緑平宅を訪れた直後の句である。「ふりかえれば香春があつた」「香春をまともに乞(こ)ひ歩く」など、山頭火にとって、好きな香春岳を近くから眺められるこの町は、句をひねり出すのにちょうどよい場所であったのだろう。
「香春岳にはいつも心をひかれる。一の岳、二の岳、三の岳、それがくつきりと特殊な色彩と形態を持って峙(そび)えてゐる。よい山である。忘れられない山である」と、同年の日記にも述べている。ときには川べりに座り込み、笠の手入れや法衣(ほうい)のほころびを縫ったりしながら、いつまでも山の姿を楽しんだという。
山頭火と緑平の絆を筑豊から全国へ
二人の友情を語り継ぐために
かつて緑平が住み、山頭火がたびたび訪れた糸田町宮床(みやとこ)には、「鉱長坂(こうちょうざか)」と呼ばれる古い坂道が残っている。その坂を上りきったところに、町で最初に建立された山頭火と緑平の句碑がある。
建立したのは、町の有志が始めた「種田山頭火・木村緑平を顕彰(けんしょう)する会」。発足は1994(平成6)年のこと。二人の文芸活動を通じて、文化のまちづくりを進めようと町民が自発的に組織した会だったが、いつしか新聞などで話題を呼び、会員は全国に広がっていった。
1998(平成10)年、山頭火ゆかりの地域団体が一堂に集う『山頭火フェスタinいとだ98』の開催をきっかけに、坂上の句碑を会で建立。これが弾みとなって、句碑が次々と建てられ、糸田町には現在5基の句碑がある。
会長の森下慶治(もりしたけいじ)さんは、「この火を消さないようにしていきたい。そのためには、若い人にも興味を持ってもらい、会に新鮮な風を送り込みたい」と語る。会では、全国の『山頭火フェスタ』への参加や、ゆかりの句碑の研究を行うほか、町外からの山頭火、緑平のファンのためにボランティアガイドも引き受けている。
筑豊で育まれた二人の俳人の絆と友情は、時代を超え、多くの人々の心を魅了し続けるだろう。


2/8に織家を見学した際に山頭火が行乞した地図が壁に貼ってありました

放浪の俳人を癒(いや)した心のふるさと
「分け入つても 分け入つても 青い山」などの名句で知られる放浪の俳人・種田山頭火(たねださんとうか)。
彼は行乞(ぎょうこつ)(※)の途上、何度も筑豊を訪れている。
そこには、山頭火を物心両面から支え続け、「心友(しんゆう)」とまで言わしめた友人がいたからだ。
山頭火と筑豊―。あまり世に知られてないが、そこには切っても切れぬ縁があった。
今回は、そんな山頭火の筑豊での足跡を辿(たど)りたい。
※僧侶が人々から施しを受けながら、托鉢(たくはつ)して歩くこと
逢いたいボタ山が見えだした 山頭火/昭和5年・糸田町
山頭火と緑平

山頭火は生前21冊の日記を残しているが、托鉢を行った旅を「行乞記」、それ以外を「旅日記」と分けていたといわれる。写真は、昭和5年9月から11月までのもの。
(写真提供・松山市立子規記念博物館)
放浪の俳人・種田山頭火(本名・正一(しょういち))―。その人気は未だ衰えることを知らない。だが、彼が世に出たのは没後のこと。大山澄太(おおやますみた)という研究家の手によって、門外不出(もんがいふしゅつ)とされた『山頭火日記』が公開されたからだ。行乞の途上でしたためた日記は、山頭火の句の詞書(ことばがき)でもあり、彼の足跡と創作活動を知る上で貴重な資料となっている。
この『山頭火日記』は、大学ノートで21冊に及ぶ。驚くべきことは、それらのすべてが筑豊に住む一人の友人に向けて書かれ、最後の1冊を除き、山頭火自らが彼の元に届けたということだ。
その友人の名前は木村緑平(りょくへい)(本名・好栄(よしまさ))。共に、近代を代表する俳人・荻原井泉水(おぎわらせいせんすい)が主管する俳誌『層雲(そううん)』の同人であった。
二人は当初、手紙のやりとりこそあったものの、全く面識はなかった。しかし、ある日、無銭飲食をして捕まった山頭火の身元引受人に、緑平がなったことをきっかけに、二人の親交は始まった。破滅型の人間である山頭火を心から受け入れてくれたやさしい緑平を、山頭火は親しみを込めて「南無緑平老如来(なむりょくへいろうにょらい)」と呼んだ。
二人の絆を結んだ糸田町
種田山頭火は、1882(明治15)年、山口県佐波郡西佐波令村(さばぐんにしさばりょうむら)(現・防府市)の大地主の長男として生まれた。10歳の時に母が自殺するが、これが後の放浪の引き金になったといわれる。早稲田大学に進むものの退学。父と種田酒造を開くが破産し、妻子と熊本へ逃げ移った。熊本で始めた商売にも身が入らず、やがて、山頭火は全てに行き詰まり一切を捨てて行乞の旅に出る。緑平との親交が始まったのは、ちょうどその頃であった。
一方、木村緑平は、1888(明治21)年、福岡県三潴郡浜武村(みずまぐんはまたけむら)(現・柳川市)に生まれた。伝習館(でんしゅうかん)中学から長崎医学専門学校(現・長崎大学医学部)に進み、卒業後は大牟田などで医師として活躍するが、ほどなく炭鉱景気に沸く筑豊へ。1927(昭和2)年、明治豊国鉱業所(めいじほうこくこうぎょうしょ)病院の内科医として田川郡糸田村(現・糸田町)に移り住んだ。
山頭火と緑平の交遊は、山頭火が没する1940(昭和15)年までの約十数年に及び、その中心地は糸田町であった。糸田の緑平宅は坂を上がった丘の上にあり、谷を挟んでボタ山が見える。それは山頭火にとって、安心して旅の草鞋(わらじ)を脱げる緑平宅の象徴でもあったのだ。
迷うた道でそのまま泊まる〈山頭火/昭和4年・烏尾峠〉
旧烏尾(からすお)峠を越えて
山頭火は、糸田に入るためにいくつかの道を使った。その一つが飯塚と糸田を結ぶ旧烏尾峠である。現在の国道201号にある烏尾峠の北に位置する古道で、かつては筑前と豊前を結ぶ国境の峠道であった。
当時、その峠を下った飯塚には山頭火の長男・種田健(たねだけん)が住んでいた。緑平宅を訪れる前後には、この息子のもとにも立ち寄ったのではないかと、糸田町の郷土史家・仲江健治(なかえけんじ)さんは推察する。健は秋田鉱山専門学校(現・秋田大学)を卒業し、飯塚の二瀬(ふたせ)炭鉱で技師として働いていたからだ。
1929(昭和4)年2月28日の日記によれば、「旧道を歩いてゐるうちに道を間違へて小竹町に出ましたので、そのまま一泊」とある。「多分、息子に会いにいくところを近道をして、北隣の鞍手郡小竹町に迷い着いたのでしょう」と、仲江さん。常々、野放図(のぼうず)な山頭火に、元妻・サキノは「息子にだけは迷惑をかけるな」と諭していたせいか、息子宅への訪問は日記には書きづらかったようだ。「迷うた道で―」は、この時に詠まれた句である。
枝をさしのべてゐる冬木〈山頭火の句/昭和5年・糸田町〉
友情の証しの山頭火日記
山頭火は、旧烏尾峠を越えるほかにも、折尾、直方を通り汽車で駆けつけることもあった。「歩いてゐるうちに、だんだん憂鬱(ゆううつ)になつて堪へきれないので、直方からは汽車で緑平居へ驀進(ばくしん)(※)した」と、1930(昭和5)年11月26日の日記に述べている。緑平夫婦の温かい雰囲気に早く包まれ、安堵したいがために急ぎ汽車に乗ったのだ。
「うれしいといふ外なし」。翌日、大好きな緑平宅で、これまた大好きな酒を飲み、読書と散歩を存分に楽しんだ山頭火が詠んだ句が、前述の「枝をさしのべて―」である。山頭火は自分の句の解説はしない。日記自体が句の背景を語る詞書だからだ。しかし、この句は例外で、翌年刊行された随筆『鉢(はち)の子(こ)』でその意味を語っている。
「(枝は)さしのべてゐる緑平老の手であつた。私はその手を握つて、道友のあたたかさをしみじみと心の底まで味はつた」とある。自ら放浪生活を選んだものの孤独な気持ちは晴れず、自暴自棄に陥りがちな山頭火が、心の底から甘えられるのは緑平だけであったのだ。
しかし、山頭火には、そんな緑平に報いる手立ては何もない。行乞の途上に書き付けた日記と句が全てだったのだろう。緑平もこれを理解し、何かに付けて金を無心しにくる友人を責めることなく受け入れ、惜しみなく行乞の旅を支えた。
香春晴れざまへ鳥がとぶ〈山頭火の句/昭和7年・香春町〉
旅を慰(なぐさ)め、句を拾う場所―香春(かわら)
山頭火は、いつもふらりと緑平を訪ねてきたが、炭鉱病院の医師であった緑平は、そうそう山頭火の相手をしていられるわけもない。緑平が留守の時は、妻のツネが山頭火を迎え、当たり前のように「これでよい句を拾っていらっしゃい」と、お金を持たせたといわれる。緑平宅の居心地のよさは、このツネの人柄に負うところも少なくなかった。
山頭火はそんな夫婦の温情を懐に、よく香春町を遊山(ゆさん)した。1932(昭和7)年に詠まれた「香春晴れざまへ―」も、そんな緑平宅を訪れた直後の句である。「ふりかえれば香春があつた」「香春をまともに乞(こ)ひ歩く」など、山頭火にとって、好きな香春岳を近くから眺められるこの町は、句をひねり出すのにちょうどよい場所であったのだろう。
「香春岳にはいつも心をひかれる。一の岳、二の岳、三の岳、それがくつきりと特殊な色彩と形態を持って峙(そび)えてゐる。よい山である。忘れられない山である」と、同年の日記にも述べている。ときには川べりに座り込み、笠の手入れや法衣(ほうい)のほころびを縫ったりしながら、いつまでも山の姿を楽しんだという。
山頭火と緑平の絆を筑豊から全国へ
二人の友情を語り継ぐために
かつて緑平が住み、山頭火がたびたび訪れた糸田町宮床(みやとこ)には、「鉱長坂(こうちょうざか)」と呼ばれる古い坂道が残っている。その坂を上りきったところに、町で最初に建立された山頭火と緑平の句碑がある。
建立したのは、町の有志が始めた「種田山頭火・木村緑平を顕彰(けんしょう)する会」。発足は1994(平成6)年のこと。二人の文芸活動を通じて、文化のまちづくりを進めようと町民が自発的に組織した会だったが、いつしか新聞などで話題を呼び、会員は全国に広がっていった。
1998(平成10)年、山頭火ゆかりの地域団体が一堂に集う『山頭火フェスタinいとだ98』の開催をきっかけに、坂上の句碑を会で建立。これが弾みとなって、句碑が次々と建てられ、糸田町には現在5基の句碑がある。
会長の森下慶治(もりしたけいじ)さんは、「この火を消さないようにしていきたい。そのためには、若い人にも興味を持ってもらい、会に新鮮な風を送り込みたい」と語る。会では、全国の『山頭火フェスタ』への参加や、ゆかりの句碑の研究を行うほか、町外からの山頭火、緑平のファンのためにボランティアガイドも引き受けている。
筑豊で育まれた二人の俳人の絆と友情は、時代を超え、多くの人々の心を魅了し続けるだろう。
2/8に織家を見学した際に山頭火が行乞した地図が壁に貼ってありました