今日(2/7)はさわやかパートナーシップ講演会がやつしろハーモニーホールでありました。
さわやか大学には8年前に受講しました。
今年の講演会の講師は前山光則先生です。
図書館での文学講座にはずいぶん参加させていただき毎年先生が引率される「文学散歩・日帰り旅行」はいつも楽しみにしています。
先生は人吉出身の方ですが住まいは八代で、八代を拠点として文筆活動を続けておられます。
話し上手でユーモア―あふれる独特の語り口にはファンも多く先生の講座はいつも盛況です。
久しぶりの先生のお話は山頭火の話でした・・「自由律俳句と放浪が似合う人---山頭火」という演題で話をされました。
内容は山頭火の俳句や残っている日記などから山頭火の俳句についての話と人生や生き方について話をされました。
毎年、八代では「9月は日奈久で山頭火」というイベントが行われていますが前山先生もこのイベントには主催者側の世話人という立場で参加されているそうです。
今回の話では講演資料には載っていない山頭火の話が聞けたことが良かったと思います。
八代で山頭火について知られている事と言えば、山頭火が泊まった宿屋が「織屋」ということくらいでそれ以外のことはあまり知られていない様に思われます。その「織屋」が当時のままで残っていること、山頭火はたった3日間しか日奈久にはいなかったこと、「織屋」はもともと現在「ばんぺい湯」がある辺りで宿屋ではなく織物工場をしていたそうです、その関係で宿の名を「織屋」としたという話。現在ではあまり使われなくなった「木賃宿・きちんやど」として営業していたことなど。そして山頭火が放浪の旅先で泊まった宿はいくつもあるがその当時のままで残っているのが「織屋」くらいしかないと言う様な話など・・


参考資料は①種田山頭火の俳句②種田山頭火行乞記・抄③種田山頭火・略年譜で構成されています。
山頭火を理解するにはいつ頃の人?何をした人?どんな生き方をした人?などその人物の人生がどんなものであったのかは略年譜を読み解けばある程度のことを理解することができます。前山先生はどんな作家の話も作品を紹介する時でも必ずと言っていいほど略年譜に時間をかけて話をされます。
そして今回、山頭火を理解するには年譜の5がつく年を押さえれば大体のことが分かるなど・・山頭火の人生のキーワードについて教えていただきました。
●種田 山頭火(たねだ さんとうか)
本名・種田正一
1882年(明治15年)12月3日 – 1940年(昭和15年)10月11日
旅を愛した俳人として、各地を遍歴した。同じ自由律俳人として尾崎放哉(おざきほうさい)と並び称されている。放哉の静に対して、山頭火は動と言われる。
荻原井泉水(おぎはらせいせんすい)の主宰する層雲で活躍した。
代表句
・うしろすがたのしぐれてゆくか
・まつすぐな道でさみしい
・分け入つても分け入つても青い山
…等、多数。
略歴
山口県西佐波令村の大地主の家に生まれる。
山頭火が11歳の時に母親が自殺した。
旧制山口中学を卒業し、早稲田大学文学部に入学。その後、神経衰弱により大学を退学した。
山口に戻り家業の造り酒屋を手伝うようになる。
その後、結婚して子供を授かる。
荻原井泉水の「層雲」に寄稿するようになり、井泉水の門下となる。
しかし、実生活は上手くいかず、父親の放蕩と山頭火の酒が災いして破産する。
妻子とともに熊本市に行き、古本屋を営む。
これも上手くいかず、妻とは離婚し、東京へ向かう。
この頃、弟も自殺。
関東大震災に遭い、熊本の元妻の所に帰ってくる。
泥酔して路面電車を止める事件を起こしたことから、寺に連れていかれ、それが縁で得度する。
名を「耕畝」と変えて、味取観音堂の堂守となる。
その後、雲水姿となり旅をしながら句作を行なう山頭火の典型的なイメージとなる生活に入る。。
郷里である山口の小郡町に「其中庵」を結庵。
しかし、体調不良などによる精神的な不安定さにより、自殺未遂。
その後、山口にある湯田温泉に「風来居」を経て、松山市に移り「一草庵」を結庵。
この「一草庵」にて念願のコロリ往生をする。
享年58歳。
●自由律俳句(じゆうりつはいく)とは、五七五の定型俳句に対し、定型に縛られずに作られる俳句を言う。季題にとらわれず、感情の自由な律動(内在律・自然律などとも言われる)を表現することに重きが置かれる。文語や「や」「かな」「けり」などの切れ字を用いず、口語で作られることが多いのも特徴である。17音より短い作品は短律、長い作品は長律とも言う。定型の意識を保ったまま作られる字あまり・字足らずや句またがり、破調の句などとは区別される。また自由律俳句はあくまで定型から自由になろうとすることによって成立する俳句であり、したがって単なる一行詩がそのまま自由律俳句となるわけではない。 Wikipediaより