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Posted by おてもやん at
弥生人の精神世界に迫る
博学が裏付ける 「思想考古学」
「呪術が 支配した社会ですよ」平成元年、吉野ケ里遺跡の発掘調査結果が大きく注目され、遺跡の保存が決まり、すぐに佐賀県は保存活用計画の策定に入っていた。
保存整備の中心は、約40㌶の巨大な環濠集落の再現的復元であった。
しかし、年次を追って構想、基本計画、基本設計と進める中で、計画の策定実務を担当した私を含めスタッフは行き詰っていた。
各所の竪穴建物跡、掘立建物跡は、規模の差はあれ、形体に変わりがない。
そのまま復元設計すれば、全く同じデザインの建物ばかりが建ち並ぶ環濠集落が出現してしまう。
「どうしよう」。
その時の私たちに金関さんが投げかけた言葉が冒頭の一節である。
考古学は、遺跡・遺構・遺物といった物資料が対象で、そうした資料を遺した人たちの思考や精神世界、つまり思想に迫ることには疎いところがある。
金関さんはその事を私たちに諭したのである。
遺跡・遺構・遺物は、言い換えれば歴史遺産は、残した先人たちの思想、世界観、信仰、計画の働きの結果である。
私たちは吉野ケ里遺跡を遺した弥生人の世界観を常に志向しながら基本設計、実施設計を進め、宗廟・祭壇・祭殿・楼観・城柵・市・倉・王館などからなる巨大環壕集落を再現復元することができた。
金関さんには、弥生時代をはじめ古代人の世界観、精神、信仰に関する論考が多くある。
卑弥呼の女王国連合は「宗教同盟」だと評されていた。
精神世界から弥生時代社会を研究されていたのである。
宗教考古学という分野があるが、金関さんの考古学はそういう狭い意味ではなく中国考古学・ヨーロッパ考古学にも明るく、さらに中国の漢籍、哲学にも通じて、それら該博な知識に裏づけされている。
私にすれば「思想考古学」ともいうべき新分野の考古学を結果的に樹立されていたのではないかと考えている。
金関さんは弥生時代研究の第一人者である。
人柄は穏やか。
論考も穏やかな筆法で勝つ論理的で説得力がある。
論考の背後には、はかり知れないような博学性があり、昭和40年代、私が奈良国立文化研究所に在籍していた頃から、都度お会いして教示を頂いているが、自分の浅学・浅博(?)が恥ずかしくて怖いくらいであった。
そんな私だが自分の知識が一歩進むこと、人柄もあっていつも金関さんに会っていたかった。
金関さんは、無類のクラシック愛好家で、自宅のスピーカーの性能を気にしておられた。
ただし最近のポップス・流行歌や歌手には無関心かつ無知であった。
時々私が運転する車に同乗されたが、車のオーディオの音声に「こっちの方がいい!」と嘆いておられた。
また無類のお酒好きで、まったく飲めない私に「君の不徳のなすところ」と嘆いてもおられた。
享年90歳。天寿を全うされたかもしれないが、研究の業績が大きければ大きいほどそれを断ち切る死は無常である。
業績は無にならないが、研究の先が急に消える。
誰かが研究を継ぐかもしれないが、その人しかやれないものがある。
死は非情である。
合掌 高島忠平(たかしま・ちゅうへい=考古学者)

金関恕(かなぜきひろし)
●略歴
金関 恕(かなせき ひろし、1927年11月19日 - 2018年3月13日)は、日本の考古学者。 天理大学名誉教授。
京都市生まれ。1936年、医学博士で考古学の研究にも大きな業績を残した父親金関丈夫の台北帝国大学就任にともない台北に転居。父親の考古学発掘調査を手伝ってその面白さに魅了される。
旧制松江高等学校を経て、1953年、京都大学文学部考古学専攻を卒業。同大学院をへて1956年、奈良国立文化財研究所臨時筆生。その間、山口県土井ヶ浜遺跡、梶栗浜遺跡など弥生時代の遺跡や奈良県飛鳥寺、大阪市四天王寺の発掘調査に参加。
1959年、天理大学に勤務。同大学文学部教授。大学では日本オリエント学会主催のイスラエル、テル・ゼロール遺跡の発掘調査に参加。その後「聖書考古学発掘調査団」を組織してエン・ゲヴ遺跡の発掘調査を実施。
1991年、大阪府立弥生文化博物館館長。2003年、「大阪文化賞」を受賞。
2018年3月13日午後7時53分、心不全のため、奈良県天理市の病院で死去。90歳没。
●著書
『考古学は謎解きだ』東京新聞出版局 1999
『弥生の習俗と宗教』学生社 2004
『弥生の習俗と宗教 2』金関恕先生の米寿をお祝いする会 2015
『弥生の木の鳥の歌 習俗と宗教の考古学』雄山閣 2017
『考古学と精神文化』桑原久男編. 雄山閣 2017


高島忠平
●略歴
高島 忠平(たかしま ちゅうへい、1939年12月 - )は日本の考古学者。佐賀女子短期大学元学長。学校法人旭学園理事長。邪馬台国九州説を唱える人物の一人で「ミスター吉野ヶ里」と呼ばれる。福岡県飯塚市出身。
福岡県立嘉穂高等学校卒業。
1964年に熊本大学法文学部文科東洋史専攻を卒業。奈良国立文化財研究所を経て1974年より佐賀県教育委員会勤務。
1989年より行われた吉野ヶ里遺跡の発掘調査に際し、保存設備の計画・指揮をとる吉野ヶ里遺跡保存対策室長に就任。
その後、佐賀県教育委員会副教育長、兼県立名護屋城博物館館長などを務めたのち公職を退任。1999年より佐賀女子短期大学教授に就任し、2002年から2010年3月までは同短大学長を、退任後は同短大を運営する学校法人旭学園の理事長を務める。
●著書
『吉野ヶ里と古代遺跡』(学習研究社)
『日本通史 古代1 吉野ヶ里』(岩波書店)
『環濠集落吉野ヶ里遺跡とクニの成立』(吉川弘文館)

 

  


Posted by マー君 at 09:31Comments(0)歴史