新しいことを吸収する力は年々衰えているようにも思う。新聞を読むことは記憶力や思考力の現状維持の為、毎日のウオーキングのようなもの。新聞から教えられることや納得させられることは多い。今日、目についた記事の一節・・人が語ることができるのは、聴いてくれる人がいるから・・ 西日本新聞デスク日記から
話し手を見つめる目は、大切な思いを懸命に受け止めようとしていた。先日、小中学生子供記者3人が長崎市を訪れ、被爆者のおじいさんの話に熱心に耳を傾けた。引率して見守っていると、おじいさんは最後にうれしそうに言った。「聴いてくれる君たちに、私の方が引き込まれるんですよ」と。人が語ることができるのは、聴いてくれる人がいるからー。改めて口にすれば、当たり前といわれるかもしれないが、意外と忘れられがちではないか。聴く、待つ、寄り添うは、恐らくは地味なこと。でも、簡単ではなく、根気と謙虚さと思いやりがいる。
詩人の故茨木のり子さんは詩「聴く力」の最後をこう締めくくっている。「どうして言葉たり得よう/他のものを じっと/受けとめる力がなければ」書いて自分が目立つよりも、まずは聴くことが大事。記者の仕事の根本を子供たちに教えられた。(江田一久)

茨木のり子さんは1926年に大阪で生まれた。本名は三浦のり子。高校時代を愛知県で過ごし、上京して現・東邦大学薬学部に入学。その在学中に空襲や勤労動員(海軍系の薬品工場)を体験し、1945年に19歳で終戦を迎えた。戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が、命を大切にする茨木さんの感受性を育んだ。敗戦の混乱の中、帝劇で鑑賞したシェークスピア「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指す。すぐに「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった。
1950年(24歳)に結婚。この頃から詩も書き始め、1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。同誌は谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく。
1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。
●自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
文芸ジャンキー・パラダイスより
【震度1以上の日別地震回数】
4/14-4/30 【回数】1093 【累計】1093
5/1 -5/31 520 1613
6/1 6 1619
6/2 16 1635
6/3 10 1645
6/4 4 1649
6/5 8 1657
6/6 11 1668
6/7 12 1680
6/8 14 1694
6/9 6 1700
6/10 7 1707
6/11 5 1712
6/12 11 1723
6/13 11 1734
6/14 3 1737
6/15 8 1745
6/16 7 1752
6/17 5 1757
6/18 5 1762
6/19 7 1769
6/20 6 1775
6/21 9 1784
6/22 4 1788
6/23 7 1795
6/24 3 1798
6/25 3 1801
6/26 2 1803
6/27 4 1807
6/28 7 1814

熊本県から大分県にかけて地震活動が続いています。揺れの強かった地域では、家屋の倒壊や土砂災害などの危険性が高まっていますので、今後の地震活動や降雨の状況に十分注意し、身の安全を図ってください。【気象庁】
話し手を見つめる目は、大切な思いを懸命に受け止めようとしていた。先日、小中学生子供記者3人が長崎市を訪れ、被爆者のおじいさんの話に熱心に耳を傾けた。引率して見守っていると、おじいさんは最後にうれしそうに言った。「聴いてくれる君たちに、私の方が引き込まれるんですよ」と。人が語ることができるのは、聴いてくれる人がいるからー。改めて口にすれば、当たり前といわれるかもしれないが、意外と忘れられがちではないか。聴く、待つ、寄り添うは、恐らくは地味なこと。でも、簡単ではなく、根気と謙虚さと思いやりがいる。
詩人の故茨木のり子さんは詩「聴く力」の最後をこう締めくくっている。「どうして言葉たり得よう/他のものを じっと/受けとめる力がなければ」書いて自分が目立つよりも、まずは聴くことが大事。記者の仕事の根本を子供たちに教えられた。(江田一久)

茨木のり子さんは1926年に大阪で生まれた。本名は三浦のり子。高校時代を愛知県で過ごし、上京して現・東邦大学薬学部に入学。その在学中に空襲や勤労動員(海軍系の薬品工場)を体験し、1945年に19歳で終戦を迎えた。戦時下で体験した飢餓と空襲の恐怖が、命を大切にする茨木さんの感受性を育んだ。敗戦の混乱の中、帝劇で鑑賞したシェークスピア「真夏の夜の夢」に感動し、劇作家の道を目指す。すぐに「読売新聞第1回戯曲募集」で佳作に選ばれ、自作童話がラジオで放送されるなど社会に認知されていった。
1950年(24歳)に結婚。この頃から詩も書き始め、1953年(27歳)に詩人仲間と同人誌『櫂』(かい)を創刊。同誌は谷川俊太郎、大岡信など多くの新鋭詩人を輩出していく。
1975年(49歳)、四半世紀を共に暮らした夫が先立ち、以降、31年間にわたる一人暮らしが始まる。2年後、彼女は代表作のひとつとなる『自分の感受性くらい』を世に出した。それは、かつて戦争で生活から芸術・娯楽が消えていった時に、胸中で思っていた事をうたいあげたものだった。
●自分の感受性くらい
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて
気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか
苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし
初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志しにすぎなかった
駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄
自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ
文芸ジャンキー・パラダイスより
【震度1以上の日別地震回数】
4/14-4/30 【回数】1093 【累計】1093
5/1 -5/31 520 1613
6/1 6 1619
6/2 16 1635
6/3 10 1645
6/4 4 1649
6/5 8 1657
6/6 11 1668
6/7 12 1680
6/8 14 1694
6/9 6 1700
6/10 7 1707
6/11 5 1712
6/12 11 1723
6/13 11 1734
6/14 3 1737
6/15 8 1745
6/16 7 1752
6/17 5 1757
6/18 5 1762
6/19 7 1769
6/20 6 1775
6/21 9 1784
6/22 4 1788
6/23 7 1795
6/24 3 1798
6/25 3 1801
6/26 2 1803
6/27 4 1807
6/28 7 1814

熊本県から大分県にかけて地震活動が続いています。揺れの強かった地域では、家屋の倒壊や土砂災害などの危険性が高まっていますので、今後の地震活動や降雨の状況に十分注意し、身の安全を図ってください。【気象庁】