2016年03月23日
我が国の文字文化受け入れの起源
新聞記事も歴史を学ぶ上で大事な資料です。
この硯の話が繋がる先を楽しみに記事の保管をしておきます。

国内最古級の硯、倭人伝が記す伊都国王都で出土【読売新聞 3月2日(水)】
中国の史書「魏志倭人伝」が記す伊都(いと)国の王都とされる福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で、国内最古級の硯(すずり)の破片(弥生時代中期後半~後期=紀元前1世紀~紀元後2世紀)が出土した。
朝鮮半島にあった中国の出先機関・楽浪郡(らくろうぐん)から日本に渡来した使節が、筆で文字を書くために使用したものとみられ、わが国の文字文化受け入れの起源を考えるうえで重要な手がかりとなる。
倭人伝は伊都国について、「往来する郡使が常に駐在する所」と記し、「(伊都国の)港で贈答する文書や品物の検査を行う」と、文字の使用を示唆する記述もある。市教委は、今回の硯は倭人伝の記述を裏付けるものと評価している。
<硯出土>弥生外交の証し 「伊都国」遺跡【毎日新聞 3月2日(水)】
古代中国(楽浪郡)と伊都国との文書による外交実務の実態が浮かび上がった。福岡県糸島市の三雲・井原遺跡で見つかった弥生時代の硯(すずり)。使節の文書や贈り物の点検が同遺跡で行われていた可能性が高まった。鍵を握るのは楽浪郡。硯も楽浪郡との交流によって伝来したと考えられる。
楽浪郡は紀元前108年、中国・前漢の武帝が朝鮮半島北西部に設置した出先機関。楽浪郡のあった現在の平壌一帯の墓からは、木製の台に置いた硯が出土している。
今回の硯は、楽浪郡の土器の集中出土地点で見つかった。西谷正・九州大名誉教授は「楽浪郡から生活用具の土器を持って来て滞在した人がいた。硯も持参してきたのだろう」と推測する。武末純一・福岡大教授は「文書行政が実施されていた楽浪郡の人は文字を使っていた。伊都国での外交文書作成でも楽浪郡からの渡来人が加わったのだろう」と指摘する。
伊都国は北部九州を統括した外交拠点「一大率(いちだいそつ)」が置かれた。「魏志倭人伝」には郡の使節が倭国に来たときは港で文書や贈り物を厳重に点検する、という趣旨の記述がある。糸島市教委の平尾和久主査は「贈り物には目録があり、目録のチェック後に受領書を渡すなど文書のやりとりがあったのだろう。硯の発見で『魏志倭人伝』の信頼性が高まった」と話す。
三雲・井原遺跡では、在地の人が「鏡」の右半分の「竟」の文字を刻んだとされる土器(3世紀)が出土している。書き方は稚拙で、伊都国での年月をかけた文字の受容ぶりがうかがえる。【大森顕浩・おおもりあきひろ】
◇倭人、交渉通じ文字学んだか
弥生時代でも中国と外交交渉をした北部九州では、文字使用の可能性は以前から指摘されていた。「魏志倭人伝」の記述のほか、福岡市・志賀島の「漢委奴國王(かんのわのなのこくおう)」金印(紀元57年)や、銘文のある中国・前漢の銅鏡などの資料も豊富なためだ。
だが、倭人の文字とされる確実な資料は、「竟(鏡)」とされる三雲・井原遺跡の刻書土器、「田」とされる片部(かたべ)遺跡(三重県)の墨書土器など3世紀以降になる。
弥生時代後期には日本国内で文字が書かれていたことを、今回は硯という筆記用具の存在で証明してみせた。「魏志倭人伝」の伊都国の外交現場で見つかったのが大きい。
しかし、この硯が使われた時代に、倭人が文字を使いこなしていた可能性は低い。当時は楽浪郡の人々など渡来人が主な担い手と考えられる。倭人は伊都国の外交現場で文字を学んだのかもしれない。【大森顕浩】
<硯の破片>弥生時代後期、福岡で出土 外交上の文書記述【毎日新聞 3月1日(火)】
福岡県糸島市教委は1日、同市の三雲・井原遺跡で、弥生時代後期(1~2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した、と発表した。同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する「伊都(いと)国」の中枢遺跡。外交上の文書のやりとりを実施したとする記述があり、同市教委は「文字を書くために使った」とした。これまでは国内での文字使用は3世紀ごろともされてきた。今回の発見は日本における文字文化の始まりを考える上で貴重な成果といえる。
破片は板石状で6センチ×4.3センチ、厚さ約6ミリ。片面が研磨されていた。古代中国の出先機関・楽浪郡のあった朝鮮半島北西部で出土した実物と似ており、硯と判断した。発掘現場では楽浪郡の土器も大量に出土した。
「魏志倭人伝」によると、伊都国は外交使節が滞在する場所。楽浪郡などの使節の到着時に、使節の文書や贈り物を点検する外交業務も担う記述もあり、硯の発見で実際に文書が同遺跡内で作成された可能性が高まった。
弥生時代の硯が確認されたのは今回で2例目。田和山遺跡(島根県)で出土していたが、権威の象徴とみなされていた。現地説明会は3月5日午後2時。【大森顕浩】
◇文字定着まだでは
西谷正・九州大名誉教授の話 硯は文字を書く道具であり、弥生時代に文字を書くことが始まっていたことを裏付ける。楽浪郡との外交を担った伊都国ならではの発見。文字を使ったのは楽浪郡の人で、在地の人にはまだ定着しなかったのではないか。
弥生時代後期の国内最古級すずり出土 「魏志倭人伝」の記述裏付け 福岡【西日本新聞 3月2日(水)】
福岡県糸島市教育委員会は1日、同市の三雲・井原(いわら)遺跡で、弥生時代後期(1~2世紀)のものとみられるすずりの破片が出土したと発表した。同遺跡は3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に登場する伊都国の王都があったとされ、中国の前漢時代から朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡製と同形式の土器も多数出土している。倭人伝には、伊都国に滞在した楽浪郡の使節が外交文書などを取り扱ったとの記述もあり、これを裏付ける発見として注目される。
【地図はこちら】弥生時代・国内最古級すずりはどこで出土したの?

出土したすずりの破片は灰色の石製で、長さ6センチ、幅4・3センチ、厚さ0・6センチ。中国・漢代に普及し、台に固定して用いられた長方形のすずりの一部とみられる。表側には実際に使われたようなくぼみが確認された。弥生時代のすずりの発見は松江市の田和山遺跡に次いで国内2例目。
倭人伝は伊都国に派遣された楽浪郡からの使者について「津に臨みて捜露(そうろ)(検閲)し、文書・賜遺(しい)の物(たまわりもの)を伝送して」と、伊都国沿岸部で品物の検査や文書の伝達などを行っていたと記述している。三雲・井原遺跡では、楽浪系土器も50点以上出土しており、糸島市教委は「楽浪郡や中国との間で交わされる外交文書などが伊都国で作られた可能性が高まった」としている。
田和山遺跡のすずりも調査した九州大の西谷正名誉教授(東アジア考古学)は、同遺跡では楽浪系土器が出土しておらず、すずりも実用品ではなく宝物として扱われた可能性があることを指摘。三雲・井原遺跡のすずりについて「日本における文字文化が、弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す発見ではないか」と話している。
【格言集より】
・我々は、我々の歴史の中に我々の未来の秘密が横たわっていることを本能的に知る。
by岡倉天心
・歴史が教える最も実際的な知恵は、民族が進展の可能性を持っていることである。
by柳田国男
福岡県糸島市教委は1日、同市の三雲・井原遺跡で、弥生時代後期(1~2世紀)とみられる硯(すずり)の破片が出土した、と発表した。同遺跡は「魏志倭人伝」に登場する「伊都(いと)国」の中枢遺跡。外交上の文書のやりとりを実施したとする記述があり、同市教委は「文字を書くために使った」とした。これまでは国内での文字使用は3世紀ごろともされてきた。今回の発見は日本における文字文化の始まりを考える上で貴重な成果といえる。
破片は板石状で6センチ×4.3センチ、厚さ約6ミリ。片面が研磨されていた。古代中国の出先機関・楽浪郡のあった朝鮮半島北西部で出土した実物と似ており、硯と判断した。発掘現場では楽浪郡の土器も大量に出土した。
「魏志倭人伝」によると、伊都国は外交使節が滞在する場所。楽浪郡などの使節の到着時に、使節の文書や贈り物を点検する外交業務も担う記述もあり、硯の発見で実際に文書が同遺跡内で作成された可能性が高まった。
弥生時代の硯が確認されたのは今回で2例目。田和山遺跡(島根県)で出土していたが、権威の象徴とみなされていた。現地説明会は3月5日午後2時。【大森顕浩】
◇文字定着まだでは
西谷正・九州大名誉教授の話 硯は文字を書く道具であり、弥生時代に文字を書くことが始まっていたことを裏付ける。楽浪郡との外交を担った伊都国ならではの発見。文字を使ったのは楽浪郡の人で、在地の人にはまだ定着しなかったのではないか。
弥生時代後期の国内最古級すずり出土 「魏志倭人伝」の記述裏付け 福岡【西日本新聞 3月2日(水)】
福岡県糸島市教育委員会は1日、同市の三雲・井原(いわら)遺跡で、弥生時代後期(1~2世紀)のものとみられるすずりの破片が出土したと発表した。同遺跡は3世紀の中国の史書「魏志倭人伝」に登場する伊都国の王都があったとされ、中国の前漢時代から朝鮮半島北部に置かれた楽浪郡製と同形式の土器も多数出土している。倭人伝には、伊都国に滞在した楽浪郡の使節が外交文書などを取り扱ったとの記述もあり、これを裏付ける発見として注目される。
【地図はこちら】弥生時代・国内最古級すずりはどこで出土したの?

出土したすずりの破片は灰色の石製で、長さ6センチ、幅4・3センチ、厚さ0・6センチ。中国・漢代に普及し、台に固定して用いられた長方形のすずりの一部とみられる。表側には実際に使われたようなくぼみが確認された。弥生時代のすずりの発見は松江市の田和山遺跡に次いで国内2例目。
倭人伝は伊都国に派遣された楽浪郡からの使者について「津に臨みて捜露(そうろ)(検閲)し、文書・賜遺(しい)の物(たまわりもの)を伝送して」と、伊都国沿岸部で品物の検査や文書の伝達などを行っていたと記述している。三雲・井原遺跡では、楽浪系土器も50点以上出土しており、糸島市教委は「楽浪郡や中国との間で交わされる外交文書などが伊都国で作られた可能性が高まった」としている。
田和山遺跡のすずりも調査した九州大の西谷正名誉教授(東アジア考古学)は、同遺跡では楽浪系土器が出土しておらず、すずりも実用品ではなく宝物として扱われた可能性があることを指摘。三雲・井原遺跡のすずりについて「日本における文字文化が、弥生時代に伊都国で始まった可能性が高いことを示す発見ではないか」と話している。
【格言集より】
・我々は、我々の歴史の中に我々の未来の秘密が横たわっていることを本能的に知る。
by岡倉天心
・歴史が教える最も実際的な知恵は、民族が進展の可能性を持っていることである。
by柳田国男
Posted by マー君 at 12:44│Comments(0)
│記事