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Posted by おてもやん at
昨年の4月14日は熊本地震の前震があった日である。そして本震が4月16日に起こり初めて震度7が2回観測されました。3日後の4月19日にも大きな地震があり熊本地震の地震回数は震度1以上の身体に感じる地震が7月31日までの観測において1941回を数えました。その後も回数こそ少なくなりましたがいまだに忘れた頃に地震が続いている状態です。この熊本という地域は過去から地震についての記録も残っており、細川忠利公が熊本に来られる数年前の1625年(寛永2)熊本大地震が起きています。熊本天守付近の石壁・石垣・城内屋敷が被災し煙硝蔵が爆発。死者50余名。「加藤忠広公伝記資料」※推定M5.0~6.0(推進本部HP)、その後に地震の記録として手元の資料に出てくるのは『年表稿』1642年(寛永19)、1643年(寛永20)になり忠利公が亡くなってからの資料となるので、今回古文書からの資料はその間の資料として貴重なものだと思います。 

細川忠利が家臣に送った手紙の写し。石垣や建物の倒壊に対する恐怖を書いている=熊本県立美術館提供
熊本城天守閣の入り口付近で崩壊した石垣=昨年9月、熊本市撮影

熊本藩主、地震恐れ転居 江戸初期の手紙「揺れる本丸にいられず」
 細川家初代熊本藩主の細川忠利(1586~1641)が1633(寛永10)年ごろに起きた大きな地震と余震を恐れ、熊本城(熊本市中央区)の本丸から、城の南側の邸宅「花畑屋敷」に生活や公務の拠点を移していたことが、熊本大の調査で分かった。
 昨年4月の熊本地震後、細川藩の文献を研究している文学部付属永青文庫研究センターが江戸時代の文献などを調査して判明した。稲葉継陽センター長は「熊本地震の被災者と同じように、忠利もたび重なる余震によほど恐怖を覚えたのだろう」とみている。
 同センターが江戸初期の資料約1万点を読み込むと、忠利の手紙に地震に関する記述が多いことが分かった。1633年5月、忠利が江戸にいる家臣に宛てた手紙に「本丸は逃げ場となる庭もなく、高い石垣や櫓(やぐら)、天守閣に囲まれて危なくていられない」という趣旨の記述を確認。他藩の大名に「たびたび地震で揺れるので本丸にはいられず、城下の広い花畑屋敷に住んでいる」と書き送っていたことも分かった。細川家の関係古文書によると、1633年3月~5月にたびたび地震が発生したとされる。稲葉センター長は「忠利が地震を強く警戒していることがうかがえる」と指摘する。江戸初期は災害が多く、被害を受けた熊本城の修復に追われていた記録もあった。
 同センターは熊本県立美術館(熊本市中央区)と共催で、熊本地震の前震1年を迎える14日から展覧会を同美術館で開き、忠利が地震を恐れて書いた手紙などを初公開する。
=2017/04/11付 西日本新聞朝刊=

●細川忠利(1586~1641)
寛永9年(1632年)、肥後熊本藩の加藤忠広が改易されたため、その跡を受けて小倉から熊本54万石に加増移封された。忠利は熊本藩の初代藩主となり、父・忠興は隠居所として八代城に住んだ。寛永14年(1637年)の島原の乱にも参陣し、武功を挙げている。

●花畑屋敷
「御花畠」屋敷は、熊本城下の坪井川左岸に加藤清正によって遊興を楽しむための庭園付きの屋敷として慶長15年(1610年)7月頃には作事(建築工事)が行われているので同年中くらいには完成していた。寛永9年(1632年)、肥後の国守として細川氏が入国したが、熊本城本丸の御殿が不便という理由で寛永13年(1636年)6月には花畑屋敷を常の御殿として取立て、以後、庭園や建家の改修や増築を繰り返しながら幕末まで藩主の屋敷として使用した。屋敷の周囲は絵図に「五百一間六尺一寸」(約1,000m)とあり、敷地面積が約5町(約5ha)の広大な屋敷だった。西側に正門があり、北側の坪井川筋に面して舟着場があった。
明治2年(1869年)に新しく屋敷が建てられたが、翌年には城内の藩庁が花畑屋敷に移転し、明治4年(1871年)の廃藩置県で鎮西鎮台の本営に提供され、明治10年(1877年)の西南戦争では全焼した。

●永青文庫(えいせいぶんこ)は、東京都文京区目白台にある、日本・東洋の古美術を中心とした美術館である。旧熊本藩主細川家伝来の美術品、歴史資料や、16代当主細川護立の蒐集品などを収蔵し、展示、研究を行っている。運営主体は公益財団法人永青文庫。理事長は18代当主の細川護煕(元内閣総理大臣)。  


Posted by マー君 at 19:21Comments(0)歴史