スポンサーサイト

上記の広告は90日以上記事の更新がないブログに表示されます。新しい記事を書くことで、こちらの広告が消せます。

  

Posted by おてもやん at
八重の17歳年上の兄・・">この人無しでは八重の生涯、同志社大学の存在、維新後の京都府政の活性化、新政府の西郷隆盛は語れないと言われています。それほどまでにこの人の生き方や考え方が多くの人達に影響を与えました。会津藩砲術師範の子として生まれ、藩校日新館で学び文武兵学を青年期に取得する、22歳で江戸に出て勝海舟らと佐久間象山に学ぶ。京都守護職に就任した藩主・松平容保に従い禁門の変に於いて勲功を挙げ公用人に任ぜられるそれにより幕府や諸藩の名士との交わりが広がりその後の活躍に繋がる。その後鳥羽・伏見の戦いに敗れ薩摩藩邸に捕らわれの身となる。この頃、目がほとんど見えない(白内障)身でありながら獄中で起草した「管見」・・中身は政治・経済・教育・衣食住・貿易など22項目に及ぶ建白書を上程、これを読んだ西郷隆盛達は敬服しました。明治政府の文明政策の草案に寄与します。その後岩倉具視の訪問により釈放されます。明治3年(覚馬42歳)京都府顧問として府政を指導する、京都府の洋式工業を中心とする勧業は覚馬が立案した計画を植村正直(後の知事)が実行、近代化の道を歩みました。天皇が居なくなり荒んだ京都が徐々に活気づいていきます。明治4年に母と八重を京都に呼びます。新島襄との関わりはこれからです。まさに失明武士が近代京都の生みの親となって行きます。人の繋がりが歴史を作るんですねにっこり  


Posted by マー君 at 13:20Comments(0)歴史