佐藤伸二先生の「加藤時代の治水事業と清正信仰」①八代平野を中心として・・の中で徳川第8代将軍吉宗が加藤清正のひ孫にあたるという項目があったのですが、清正の娘・八十(やそ)姫は家康の子・初代紀伊藩主 頼宣(よりのぶ)へ嫁ぎ、嫁いでからは(瑶林院)と呼ばれます。紀州二代藩主は頼宣の嫡子 光貞(みつさだ)が継ぎます。そしてその光貞の子が八代将軍・徳川吉宗なのですが、頼宣→光定→吉宗の流れは合っていますが加藤清正側から見た血筋については八十姫が産んだ子が光定でなければ吉宗が加藤清正のひ孫とは言えません。しかしよく調べてみますと八十姫は実子には恵まれず側室中川氏(理真院)の産んだ光貞と茶々姫(芳心院=鳥取藩主・池田光仲の正室)を実子同様に厳しく育てたという話が残っています。加藤清正の血は徳川には残っていませんでした。頼宣の正室は加藤清正の娘・瑶林院で、元和 3年(1617)に輿入れして(寛文 6年(1666)、66歳で没)。側室には中川氏、山田氏らが知られ、中川氏は 2代藩主光貞の母である。頼宣の生母・蔭山殿(養珠院)、正室・瑶林院が江戸・池上の本門寺(日蓮宗)に帰依したことから、本門寺に紀州藩主ゆかりの女性の墓碑があり、吉宗が8代将軍となって以来、本門寺は徳川将軍家の帰依も受けました。 享保元年(1716)に徳川吉宗が第8代将軍となり、同16年に、「清正記・肥後熊本城主加藤清正に関する伝記書 編集者は古橋左衛門又玄全三巻から成る」を閲覧しています。
徳川吉宗[1684~1751]は紀伊藩主徳川光貞の四男で紀州藩主から将軍となり、幕府財政の改革と幕政の強化につとめ、享保の改革を行った人で1716年~1745年まで江戸幕府第8代将軍を務めました。吉宗が清正記を閲覧したことは清正の事績を調べる事であり改易された加藤家の名誉を回復するものでありました。通常改易された領主は次の領主から為政者として否定されることから政治が始まりますが細川家の場合はそうではなくて江戸時代を通じて加藤家に敬意を払い寛大な姿勢をみせています。この事は加藤清正が領民に対して行った施政の在り方がそうさせたのでは無いでしょうか。
清正公信仰② 8代将軍は清正のひ孫ではない


              8代将軍吉宗は加藤清正のひ孫ではなかった。


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Posted by マー君 at 14:45│Comments(0)歴史
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