2020年06月19日
645年のこの日元号を「大化」と制定
元号の日(6月19日 記念日)
645年(大化元年)のこの日、蘇我氏を倒した中大兄皇子(後の天智天皇)が、日本初の元号「大化(たいか)」を制定した。
以来、現在の「令和(れいわ)」まで248の元号が定められている。


元号について
「元号(げんごう)」は、中国を中心とするアジア東部における紀年法の一つで、一定の年数につけられる名称を指す。中国では漢の武帝の時に「建元(けんげん)」と定めたのが最古である。これは紀元前100年代の出来事である。現在は日本のみで制定・使用されている。
「明治(めいじ)」より前、すなわち「慶応(けいおう)」以前は、天皇の交代時以外にも随意に改元していた。吉事(きちじ:めでたいこと)の際の「祥瑞(しょうずい)改元」、大規模な自然災害や戦乱などが発生した時の「災異(さいい)改元」などがある。改元は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。
その後、「明治」に改元された時に「天皇一代に元号一つ」という「一世一元の詔(みことのり:天皇の意思を伝える公文書)」が発布され、明治以後は、新天皇の即位時に改元する「一世一元の制」に変更され、現在に至る。
明治以降の改元の日は次のようになっています。
「明治」改元の日(9月8日 記念日)
「大正」改元の日(7月30日 記念日)
「昭和」改元の日(12月25日 記念日)
「平成」改元の日(1月8日 記念日)
「令和」改元の日(5月1日 記念日)
今日は何の日より
645年に起こった政変。それが『大化の改新』のきっかけとなるのです。小学生時代に『大化の改新』を「645年」と習っていた保護者が多いと思いますが、現在はその習い方が変わっています。
実は、「645年」は『乙巳の変』(いつしのへん)という反乱が起きた年になります。そしてそれ以降に始まる数年間に及ぶ一連の政治改革を『大化の改新』というのです。
それでは『乙巳の変』とそこから始まる『大化の改新』について、ご紹介していきましょう。
厩戸王(うまやどのおう・聖徳太子)の死後、豪族・蘇我氏の権力が天皇家を上回るほどに強くなっていました。蘇我蝦夷(そがのえみし)は大臣として権力をふるい、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時になると、曽我氏は聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を攻め滅ぼし、蘇我蝦夷の息子・蘇我入鹿(そがのいるか)が実権を握りました。
そんな蘇我氏の天下をこころよく思わなかった人たちがいました。唐(昔の中国の王朝)から帰国した留学生や学問僧、また彼らから最新の政治技術を学んだ者たちが、国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することによって、官僚的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きが起こりました。その代表的な人物が、後の天智天皇(てんちてんのう)となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、後の藤原鎌足(ふじわらのかまたり)こと中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。彼らが中心となり、645年、蘇我入鹿を謀殺し、蘇我蝦夷は自殺に追い込まれました。
その後、中大兄皇子は軽皇子(かるのみこ・孝徳天皇(こうとくてんのう))を即位させて自らは実権を握り、人事を刷新。翌年、孝徳天皇は満を持して『改新の詔』を発令したといわれています。ただ、これは日本書紀に記されたことであり、この詔の信憑性に関しては、現在もさまざまな議論が起こっています。ここからが本格的な律令国家の基礎となる古代政治史上の一大改革の始まりです。
さて、『改新の詔』に記された内容は次の4つです。
●第一条「公地公民制」
それまで土地や人民は、王族・豪族がそれぞれ支配していましたが、この「公地公民制」は「これからは豪族が所有していた土地や人民も国(天皇)が支配します、所有することを禁止します」というものでした。
●第二条「国郡制度」
続いての「国郡制度」は「全国を国(60以上)に・国をいくつかの郡に分ける」というもの。今の日本が47の都道府県に分かれているようなものです。地方行政組織を定め、中央の朝廷からは国司が派遣され、政治をとることを定めたものでした。
●第三条「班田収授法」(はんでんしゅうじゅのほう)
「班田収授法」には、まず「6年に一度、みんなの戸籍をつくる」という前提があります。そのうえで「戸籍に従って土地(公地)をみんな(公民)に分け与える。そして亡くなったら国に返してもらいます」という内容が示されています。
●第四条「租調庸の税制」(そようちょうのぜいせい)
そして、「租調庸の税制」とは「みんな(公民)に税を負担してもらいます」というものなので、いわゆる統一的税制のことです。
ベネッセ教育情報サイトより
645年(大化元年)のこの日、蘇我氏を倒した中大兄皇子(後の天智天皇)が、日本初の元号「大化(たいか)」を制定した。
以来、現在の「令和(れいわ)」まで248の元号が定められている。


元号について
「元号(げんごう)」は、中国を中心とするアジア東部における紀年法の一つで、一定の年数につけられる名称を指す。中国では漢の武帝の時に「建元(けんげん)」と定めたのが最古である。これは紀元前100年代の出来事である。現在は日本のみで制定・使用されている。
「明治(めいじ)」より前、すなわち「慶応(けいおう)」以前は、天皇の交代時以外にも随意に改元していた。吉事(きちじ:めでたいこと)の際の「祥瑞(しょうずい)改元」、大規模な自然災害や戦乱などが発生した時の「災異(さいい)改元」などがある。改元は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。
その後、「明治」に改元された時に「天皇一代に元号一つ」という「一世一元の詔(みことのり:天皇の意思を伝える公文書)」が発布され、明治以後は、新天皇の即位時に改元する「一世一元の制」に変更され、現在に至る。
明治以降の改元の日は次のようになっています。
「明治」改元の日(9月8日 記念日)
「大正」改元の日(7月30日 記念日)
「昭和」改元の日(12月25日 記念日)
「平成」改元の日(1月8日 記念日)
「令和」改元の日(5月1日 記念日)
今日は何の日より
645年に起こった政変。それが『大化の改新』のきっかけとなるのです。小学生時代に『大化の改新』を「645年」と習っていた保護者が多いと思いますが、現在はその習い方が変わっています。
実は、「645年」は『乙巳の変』(いつしのへん)という反乱が起きた年になります。そしてそれ以降に始まる数年間に及ぶ一連の政治改革を『大化の改新』というのです。
それでは『乙巳の変』とそこから始まる『大化の改新』について、ご紹介していきましょう。
厩戸王(うまやどのおう・聖徳太子)の死後、豪族・蘇我氏の権力が天皇家を上回るほどに強くなっていました。蘇我蝦夷(そがのえみし)は大臣として権力をふるい、皇極天皇(こうぎょくてんのう)の時になると、曽我氏は聖徳太子の息子である山背大兄皇子(やましろのおおえのおうじ)を攻め滅ぼし、蘇我蝦夷の息子・蘇我入鹿(そがのいるか)が実権を握りました。
そんな蘇我氏の天下をこころよく思わなかった人たちがいました。唐(昔の中国の王朝)から帰国した留学生や学問僧、また彼らから最新の政治技術を学んだ者たちが、国家体制を整備し、その中に諸豪族を編成することによって、官僚的な中央集権国家を建設し、権力集中をはかろうとする動きが起こりました。その代表的な人物が、後の天智天皇(てんちてんのう)となる中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)と、後の藤原鎌足(ふじわらのかまたり)こと中臣鎌足(なかとみのかまたり)です。彼らが中心となり、645年、蘇我入鹿を謀殺し、蘇我蝦夷は自殺に追い込まれました。
その後、中大兄皇子は軽皇子(かるのみこ・孝徳天皇(こうとくてんのう))を即位させて自らは実権を握り、人事を刷新。翌年、孝徳天皇は満を持して『改新の詔』を発令したといわれています。ただ、これは日本書紀に記されたことであり、この詔の信憑性に関しては、現在もさまざまな議論が起こっています。ここからが本格的な律令国家の基礎となる古代政治史上の一大改革の始まりです。
さて、『改新の詔』に記された内容は次の4つです。
●第一条「公地公民制」
それまで土地や人民は、王族・豪族がそれぞれ支配していましたが、この「公地公民制」は「これからは豪族が所有していた土地や人民も国(天皇)が支配します、所有することを禁止します」というものでした。
●第二条「国郡制度」
続いての「国郡制度」は「全国を国(60以上)に・国をいくつかの郡に分ける」というもの。今の日本が47の都道府県に分かれているようなものです。地方行政組織を定め、中央の朝廷からは国司が派遣され、政治をとることを定めたものでした。
●第三条「班田収授法」(はんでんしゅうじゅのほう)
「班田収授法」には、まず「6年に一度、みんなの戸籍をつくる」という前提があります。そのうえで「戸籍に従って土地(公地)をみんな(公民)に分け与える。そして亡くなったら国に返してもらいます」という内容が示されています。
●第四条「租調庸の税制」(そようちょうのぜいせい)
そして、「租調庸の税制」とは「みんな(公民)に税を負担してもらいます」というものなので、いわゆる統一的税制のことです。
ベネッセ教育情報サイトより
Posted by マー君 at 08:59│Comments(0)
│歴史